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グレタ・トゥーンベリ      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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グレタ・トゥーンベリ
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  グレータ・エルンマン・トゥーンベリ(スウェーデン語: Greta Ernman Thunberg  2003年1月3日 - )は、スウェーデンの環境活動家である。主に地球温暖化の弊害を訴えている。

来歴
  トゥーンベリは、2003年1月3日ストックホルム生まれ。著名なオペラ歌手のマレーナ・エルンマンと俳優スバンテ・トゥーンベリの娘である。彼女の父方の祖父は俳優兼監督のオロフ・トゥーンベリである。
  2011年に気候変動について初めて知る。なぜ気候変動の対策がほとんど行われていないのか理解できなかったため、落ち込んで無気力になり、その後アスペルガー症候群強迫性障害 (OCD) および選択的無言症と診断された。彼女は、その診断は「以前は私を制限していた」ことを認めながら、アスペルガーを病気とは見なさず、代わりに「スーパーパワー」と呼んでいる。
  その後約2年間、家族に対して、菜食主義になりアップサイクリングを行い飛行機に搭乗しないことによってカーボンフットプリントを下げるよう、強く要求した、「両親の最終的な反応とライフスタイルの変化が、彼女が人々に変化をもたらすことができるという希望と信念を与えたと信じている」と語った

  2018年後半に、学校での気候変動のストライキとスピーチを開始した。彼女が授業を欠席することについて、教師たちの中で見解で分かれている中、「人々は私がやっていることは良いと思っているが、教師はやめるべきだと言う」と彼女は語っている。
  2019年5月に気候変動への抗議スピーチ集「変化をもたらすために未熟すぎるなんてことはない(No One Is Too Small to Make a Difference)」を出版し、収益を慈善団体に寄付した。気候行動を要求する最初のスピーチの一つで、選択的無言症について、トゥーンベリが「必要なときだけ話す」ことを意味すると説明した。2019年、イギリスのバンド The 1975 のテーマソングである「The 1975」のリリースのためにナレーションを提供し、「 だから、そこにいるみんな、今は市民の不服従の時です。反抗する時です」と締めくくった。 収益はトゥーンベリの要請に応じてエクスティンクション レベリオンに渡されることになった。
人物
  トゥーンベリは、2017年8月に、15歳の時に、スウェーデン語で「気候のための学校ストライキ」という看板を掲げて、より強い気候変動対策をスウェーデン議会の前で呼びかけを行ったことで名が知られるようになった。他の学生も自分のコミュニティで同様の抗議活動に参加し、「未来のための金曜日 (Fridays for Future)」の名前で気候変動学校ストライキ (School Climate Strike) 運動が組織された。トゥーンベリが2018年の国連気候変動会議で演説して以降、学生ストライキは毎週世界で行われた。2019年は、それぞれ100万人以上の学生が参加する少なくとも2つの協調した複数都市でのプロテストがあった。

  トゥーンベリは、公共の場で政治家、議会に対しての率直で事実に即したスピーチで知られ、気候変動の危機に立ち向かうため、すぐさま行動を始めるように呼び掛けている 。両親に飛行機旅行を断念させたり肉を食べないよう説得するなど、日常生活でも二酸化炭素排出量の少ないライフスタイルを実践している。
  名声の獲得により彼女は世界的なリーダーとなり、また批判的な層の標的となった。2019年5月、トゥーンベリはTime誌の表紙に取り上げられ、多くの人が彼女を「次世代のリーダー」のロールモデルと見なしている。トゥーンベリと学校ストライキ運動は、Vice誌による30分間のドキュメンタリー「 Make the World Greta Again 」でも取り上げられた。一部のメディアは、彼女の世界舞台への影響を「グレータ・トゥーンベリ効果」と表現した。
大西洋横断航海
  2019年8月に、英国のプリマスから米国のニューヨークまで、ソーラーパネルと水中タービンを備えた60フィートのレーシングヨットで大西洋を渡ったが、実際はヨットをヨーロッパへ戻すために数人の乗組員が飛行機でニューヨークへ飛び、ヨットの共同船長は飛行機でヨーロッパへ戻った。
  航海は2019年8月14日から28日まで15日間続いた。アメリカ大陸にいる間、ニューヨークで国連気候変動サミットに出席し、12月にスペインで開催された第25回気候変動枠組条約締約国会議 (COP25) に出席した。
  一方で、スタッフや船長は航空機で帰国するという矛盾した行動も報じられた。
気候変動のための学校ストライキ
インスピレーション
  Democracy Now! Amy Goodmanとのインタビューでトゥーンベリは、2018年2月に米国の学校で銃乱射事件が発生して数人の若者が学校に戻ることを拒否したため、最初に気候変動のストライキのアイデアを得たと述べた。フロリダ州パークランドにある マージョリーストーンマンダグラス高校のこれらの10代の活動家は、銃規制の強化を支援するために「私たちの生活のためのマーチ(March for Our Lives)」を組織した。
  2018年5月、トゥーンベリはスウェーデンの新聞Svenska Dagbladetが開催した気候変動エッセイ大会で優勝した。その一節において、彼女は「私は安心したい。私たちが人類史上最大の危機にあることを知っているのに、どうして安心できますか?」と書いている。この新聞が彼女の記事を発表した後、彼女は気候変動について何かをすることに興味のあるFossil Free DalslandのBo Thorenから連絡を受けた。トゥーンベリはいくつかの会議に出席し、そのうちの1つで、Thorenは学生が気候変動のためにストライキをすることもできると提案した。トゥーンベリは他の若者を巻き込んで説得しようとしたが、「誰も全然興味を持たなかった」ので、結局、彼女は自分でストライキを進めることにした。
始まり
  2018年8月20日に、9年生に進級したばかりのトゥーンベリは、9月9日の2018年スウェーデン総選挙まで学校に出席しないことにした。彼女の抗議は、少なくとも262年ぶりのスウェーデンの最も暑い夏の猛暑と山火事の後に始まった。彼女の要求は、スウェーデン政府がパリ協定に従って二酸化炭素排出量を削減することであり、彼女は学校の時間中に3週間、毎日Skolstrejkförklimatet (気候変動のための学校のストライキ)でスウェーデン議会の外に座って抗議した。彼女はまた、「あなたの大人が私の未来を台無しにしようとしているので、私はこれをしている」と述べたリーフレットを配った。
ソーシャルメディアの役割
  トゥーンベリは彼女のオリジナルのストライキ写真をInstagramとTwitterに投稿し、他のソーシャルメディアアカウントはすぐに彼女の動機を取り上げた。スウェーデンの気候変動に焦点を当てたソーシャルメディア企業、We Don't Have Time (WDHT)の創設者であるIngmar Rentzhogによると、彼女のストライキはフリーランスのカメラマンと出会い、彼がトゥーンベリの写真をFacebookページとInstagramアカウントに投稿した後、世間の注目を集め始めた。彼は英語でビデオを作成し、同社のYouTubeチャンネルに投稿し、視聴回数は約88,000回になった。フィンランドの代表的な銀行であるノルデアは、200,000人以上のフォロワーに対するトゥーンベリのツイートの1つを引用した。トゥーンベリのソーシャルメディアプロフィールは、1週間も経たないうちに地元の記者を引き付け、国際的に報道された。

  総選挙後、トゥーンベリは金曜日にのみストライキを続けた。彼女は世界中の学校の生徒に学生ストライキに参加するよう促した。2018年12月現在、20,000人以上の学生が少なくとも270の都市でストライキを行っている。
  2018年10月以降、トゥーンベリの行動主義は、単独抗議からヨーロッパ全体のデモへの参加に発展した。有名なスピーチをいくつか行い、ソーシャルメディアプラットフォームで増え続けるフォロワーを動員した。2019年3月までに、彼女は毎週金曜日にスウェーデン議会の外で定期的に抗議活動を行っていた。彼女の活動は学業に影響していないが、自由時間はあまりない。
支持
  2019年2月、224名の学者がストライキを支持するオープンレターに署名し、彼らは自分たちの声を聞いたトゥーンベリとストライキを続ける学生の行動に触発されたと述べた。国連事務総長アントニオ・グテーレスは、「私の世代は気候変動の劇的な課題に適切に対応できていない。これは若い人たちに深く感じられている。彼らが怒っているのも不思議ではありません」と認め、トゥーンベリによって始められた学生ストライキを支持した。
  2019年6月、トゥーンベリは、テレビ会議で史上最年少の米下院議員であるアレクサンドリア・オカシオ=コルテスと話した。アレクサンドリア・オカシオ=コルテスは、2019年2月に米国下院にグリーンニューディール法案を提出している。彼らは、若いために自分の意見が真剣に受け止められていない時の気持ちと、どのような戦術が実際に機能するかについて話し合った。
  国連事務総長のアントニオ・グテーレスは、2019年5月にニュージーランドで開催されたイベントで講演し、彼の世代は「気候変動との戦いに勝っていない」と述べ、「地球を救う」のは若者次第だと述べた。
トゥーンベリのメッセージ
  トゥーンベリは2018年に15歳でスウェーデン議会の外で抗議を始めたとき、2つのシンプルなメッセージを持っていた。「気候変動のための学校ストライキ」と書いたサインと「大人が私の未来を台無しにしようとしているので私はこれをしている」と書いたリーフレットを渡していた。彼女の抗議が勢いを増すと、彼女はさまざまなフォーラムでスピーチをするように招待され、それによって彼女はその懸念を広げることができた。
  これまでのところ、彼女は4つの織り交ぜられたテーマを支持してきた。トゥーンベリは、地球温暖化によって引き起こされた危機は非常に深刻であるため、人類は生存の危機に直面しており、「私たちが知っているような文明を終わらせる可能性が最も高い」と主張しており、彼女は、「あなたは私たちの未来を盗んでいる」などの声明で、現在の世代の大人に責任を負わせている
  彼女は、気候危機が彼女のような若者に与える影響について特に懸念している。ロンドンの議会では、彼女は「あなたは私たちに嘘をついた。あなたは私たちに虚偽の希望を与えた。あなたは私たちに未来は待ち望むものだと言った」と話した。
  トゥーンベリはまた、気候変動問題を解決するためにこれまでほとんど何も行われていないため、目を覚まして変化を起こす必要があると述べている。彼女は「状況はとても悲惨であり、私たちは皆パニックに陥るべきである」と発言している。
  彼女は、2019年に「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)によると、私たちは間違いを取り消すことができなくなるまでに12年もかかりません」と指摘し、政治家や意思決定者は、科学者に耳を傾ける必要があると感じている。

  トゥーンベリは、彼女の懸念を強調するために画像的な例えを使用し、ビジネスと政治の指導者に率直に語り、しばしば彼らの行動の欠如について彼らを叱咤している。たとえば、彼女はダボスの著名なビジネスおよび政治指導者のパネルに、「今日ここにいるあなたの多くは、その人々のグループに属していると思います」と語っている。彼女は続けて「あたかも家が燃えているかのように振舞ってほしい—それは実際そうだからだ」と述べている。2018年10月のロンドンで彼女は、「私たちはこれまで危機として扱われたことのない、今までに差し迫った前例のない危機に直面しており、指導者達は子供のように振る舞っている」と述べている。
  トゥーンベリは、パリ協定の一環として地球温暖化を1.5°Cに制限するためにさまざまな政府が採用した戦略は不十分であり、温室効果ガス排出曲線は2020年までに急激に低下し始める必要があると指摘している。2019年1月、彼女は英国議会に、英国は「排出量を減らす」という観点から話すことをやめ、「排出を無くす」という観点から考え始める必要があると語った。2019年2月、彼女は欧州経済社会評議会において 、EUは2030年までに二酸化炭素排出量をパリで設定した40%の目標の2倍である80%削減しなければならないと述べた。

  トゥーンベリの主なテーマは、誰もが科学に基づいて団結する(Unite Behind the Science)必要があるということである。彼女は、誰もが科学者に耳を傾け、事実を認めれば、「私たち(学生)は全員学校に戻ることができる」と言っている。トゥーンベリは大西洋を横断して国連があるニューヨーク市へ向かう旅の一部を、カーボンニュートラルヨットで旅をした。ヨットの帆に大文字で飾られたのは、「科学に基づいて団結する (Unite Behind the Science)」という言葉であった。
  ニューヨークに到着した後の彼女の最初の声明の1つにおいて、彼女はドナルド・トランプに対しても同様のメッセージを持っており、彼に「科学に耳を傾ける」よう警告した。
  トランプとは後に国連で行われた気候行動サミットで、サミット会場入り直後の短時間だけ同じ場に居合わせた。その際にはグレータのそばを側近と通り過ぎるトランプを、グレータが睨みつける様子が見られた。トランプはこのサミットで行われたグレータの演説動画を引用して、「彼女はとても幸せな少女に見える、明るく素晴らしい未来を心待ちにしているようだ。見ていて何とも気持ちがいい!」と投稿した。グレータは自身のツィッターのプロフィールを「明るく素晴らしい未来を心待ちにしているとても幸せな少女」に替え、トランプのツイートへ言い返した。
  グレタ個人としては原発には反対しており、原発の危険性などについて認識しているものの、IPCCに基づいて原発は脱炭素エネルギーにおける大きな解決策の一つとなることを認めている。
影響
「グレータ効果」
  トゥーンベリは、「グレータ・トゥーンベリ効果」と呼ばれるもので多くの学生に影響を与えた。彼女の率直な姿勢に応えて、さまざまな政治家も気候変動に重点的に取り組む必要があることを認めている。英国の環境担当大臣、マイケル・ゴーブは、「私があなたの話を聴いたとき、大きく感嘆しましたが、責任と罪悪感も感じました。私はあなたの両親の世代であり、気候変動と私たちが生み出した広範な環境危機に対処するのに十分な努力をしていないことを認識しました」と述べている。
  2008年の気候変動法の導入を担当した英国の労働党政治家エド・ミリバンドは 、「あなたは私たちの目を覚ました。私達は感謝している。ストライキを行ったすべての若者たちは、私たちの社会を映し出しています......あなたは私たちに本当に重要な教訓を教えてくれました。あなたは群衆から際立っていました」と述べている。
  2019年6月、英国のYouGovの世論調査は、トゥーンベリとエクスティンクション・リベリオン が「否定のバブルを打ち破った」ため、環境に対する国民の関心が英国の記録的なレベルに急上昇したことがわかった。

  2019年8月、気候変動危機に対処するために出版されている子ども向けの本の数が倍増し、そのような本の売り上げも同様に増加したことが報告された。出版社は、これを「グレータ・トゥーンベリ効果」に起因すると考えた。
  トゥーンベリに触発され、米国の裕福な慈善家と投資家は、エクスティンクション・リベリオン と学校ストライキグループが気候変動緊急基金を設立するのを支援するために、約50万ポンドを寄付した。慈善家の1人であるTrevor Neilsonは、3人の創立者が、今後数週間と数ヶ月でさらに「100倍」寄付するために、世界の超富裕層の友人と連絡をとることになるだろうと語った。
  2019年2月、トゥーンベリは当時の欧州委員会委員長であるジャン=クロード・ユンケルと共に登壇し、その中で彼は「2021年から2027年までの会計年度では、EU予算の1/4が気候変動を緩和するための活動に向かうだろう」と要点を述べた。気候変動問題は2019年5月の欧州議会選挙で重要な役割を果たした。緑の党は史上最高の獲得議席を記録し、議席数が52から72に大きく増えた。獲得議席の多くは、若者がトゥーンベリに触発され、ストリートに抗議に出ていった北欧の国々からもたらされた。
  2019年6月、スウェーデン鉄道 (SJ) は、国内旅行のために列車に乗るスウェーデン人の数が前年より8%増加したことを報告した。これは、トゥーンベリが国際会議への向かう際に飛行機への搭乗を拒否したことでハイライトされることとなった、多大な二酸化炭素排出をもたらす飛行機の影響についての一般の関心の高まりを反映している。
  その環境への影響のために飛行機に乗ることを恥ずかしく思うことは、ハッシュタグ#jagstannarpåmarken(#私は地上に留まる、という意味)と一緒にソーシャルメディアで「フライグスカム(flygskam)」または「飛行の恥」と説明されている。
受賞
  グレータ・トゥーンベリは2018年5月にスヴェンスカ・ダーグブラーデットが開催した若者対象の気候に関するディベート記事執筆コンテストで優勝した。また、電力会社テルテ・エネルギの持続可能な開発を推進する子供や若者を対象にした賞である「Children's Climate Prize」にノミネートされたが、ファイナリストはストックホルムまで飛行機で行かなければならないため受賞できなかった。
  同年11月、Fryshuset scholarship of the Young Role Model of the Yearを受賞した。12月、タイムの2018年世界で影響力のある未成年25人の1人に選出された。2019年、国際女性デーを記念して、スウェーデンで最も重要な女性に選ばれた。この賞はイニジオ研究所がアフトンブラーデット新聞の代理で行っている調査に基づいている。3名のノルウェー人弁護士が2019年のノーベル平和賞に推薦した。2019年3月31日、ドイツのゴールデン・カメラ・アワードのSpecial Climate Protection賞を受賞した。2019年9月25日には「ライト・ライブリフッド賞」を受賞した。
  2020年7月20日、ポルトガルカルースト・グルベンキアン財団のグルベンキアン人道賞を受賞し、賞金として100万ユーロが授与された。
騒動
  トゥーンベリによる学校ストライキが勢いを増した後、彼女は信用出来ないという声があった一方で、知名度を利用して利益を得ようとする人達も出現した。
  2018年末、We Don't Have Time Foundation (WDHT)設立者のイングマール・レンツホグはトゥーンベリを無給のユースアドバイザーとして招聘し、また彼女の名を利用し、彼女の知らないところでWDHTの商業子会社でレンツホグがCEOを務めるWe Don't Have Time ABのために100万の資金を調達しようとした。
  トゥーンベリは会社から給料をもらうことはなかった。
  結局彼女はWDHTのボランティアアドバイザーを辞めることになり「どの団体の一部でもない。完全に独立していて、私のやってることは100パーセント無償である」と述べた。
インド農民デモ
  インド政府は、2020年9月に農業取引の自由化に関する法改正を施行した。これに対し、農民は農産物の価格低下につながることを警戒し、2020年11月26日からデモが始まり、2021年1月26日のデモにおいては死傷者が発生した。
  インド政府は暴力を煽る目的のある投稿をしているツイッターアカウントの停止を要請し、米ツイッター社は、2021年2月1日、複数のアカウントを停止した。これを受けて、各国の著名人からコメントが寄せられるようになり、トゥーンベリは2月3日、デモに連帯する旨のツイートを投稿した。

  その後、トゥーンベリは更に文書の添付されたツイートを投稿し、そのツイートにおいては、もし農民たちを助けたいならその文書を参照するよう呼びかけられていた。その文書は6ページにわたるもので、インド政府やインド企業への詳細な抗議方法、農民の服装、全世界のインド大使館でのデモ、ツイッターへの大量投稿、更に、インドの長年にわたる人権侵害を非難するキャンペーンが含まれ、「インド政府に支援された暴力や虐殺を防止することが国際的な注目点の一つになる可能性がある」、と記されていた。

  また、その文書とリンクしていた別の文書には、インドのナレンドラ・モディ首相について、「ファシストのイデオロギーに基づく強力な団体の一員であり、反イスラム教、反キリスト教、及びヒンドゥー至上主義で知られる」と記されていた。トゥーンベリは、このツイートがリパブリック・メディア・ネットワークによって報道された一時間ほど後で、このツイートを削除した。この削除したツイートを巡り、2月4日現在、トゥーンベリに対して犯罪的陰謀の容疑でインドで調査が行われている
  インド警察は2月15日、トゥーンベリが主導する運動のインド部門の22歳のリーダーを扇動の疑いで逮捕した。警察は扇動罪と犯罪的共謀に該当するとしている。扇動罪が確定すれば終身刑になる。警察はトゥーンベリがツイートに添付した「ツールキット」と呼ばれる文書は「間違った情報を流布し、合法的に発足した政府への不信感を生み出す。」と述べている


https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4361/index.html
中村 哲 医師 - 貫いた志 -

  アフガニスタンで銃撃され亡くなった中村哲医師ソ連による侵攻、激しい内戦、アメリカなどによる空爆、そして相次ぐテロと、大国や国際情勢に振り回され続けてきたアフガニスタンにあって自らの信念に基づき翻弄される人々を救う活動をしてきた。当初は診療所を開いたものの「背景にある貧困解決が不可欠だ」と医療支援から干ばつや貧困対策へと移行。近年は治安が悪化し、支援団体が次々と撤退する中でも「現地から本当のニーズを提言していく」と現地での活動を続けてきた。貴重な記録や関係者へのインタビューも交えて、中村哲医師が貫いた信念を見つめる。

“武力ではテロはなくならない”
2001年のアメリカ同時多発テロ事件。
中村さんは、その後一貫して武力によるテロとの戦いに疑問を投げかけてきました。
アメリカ ブッシュ大統領(当時)
テロリストたちに、正義をつきつけようではないか。」
アメリカなどが、オサマ・ビンラディン容疑者が潜伏しているとして、アフガニスタンに攻撃を仕掛けます。
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  「医者、用水路を拓く」(中村哲 著)より(要約)
“ジャララバードから緊急の電話があり、米国でのテロ事件を伝えられた。テレビが、未知の国「アフガニスタン」を騒々しく報道する。ブッシュ大統領が「強いアメリカ」を叫んで報復の雄叫びを上げ、米国人が喝采する。瀕死の小国に、世界中の超大国が束になり、果たして何を守ろうとするのか、素朴な疑問である。”

中村さんの信念、・・・それは、1983年からパキスタン、そして、アフガニスタンで活動する中で培われていたものでした。
中村哲医師
「おじいさん、大丈夫ですか?」・・・当初、現地で診療所を開設するなど、医療支援を行っていた中村さん。しかし、みずからの力の限界を知ることになります。干ばつによる水不足が深刻化し、多くの子どもたちが命を落としていたのです。
中村哲医師
「水が汚い。下痢なんかで簡単に子どもが死んでいく。そういう状態を改善すれば、医者を100人連れてくるより水路1本作ったほうがいい。」根源にある問題を解決しなければ、この惨状は変えられない。その考えはテロについても同じでした。
中村哲医師
「(難民が)想像以上ですね。」・・・中村さんは、武力ではテロは断ち切れない、その背景にある貧困の問題を解決しなければならないと考えていたのです。
中村哲医師
「家族を食わせるために米軍のよう兵になったり、タリバン派、反タリバン派の軍閥のよう兵になったりして食わざるを得ない。家族がみんな一緒にいて、飢きんに出会わずに安心して食べていけることが、何よりも大きな願い、望み。」・・・2003年、中村さんは貧困問題を解決しようと、新たな活動を始めます。
中村哲医師
「前より、だいぶ水量が増えている。」・・・山々の氷河を源流とする、アフガニスタン有数の大河、クナール川。干ばつでも枯れることがない、この川の水を引き込む用水路を作ることにしたのです。
緑の大地計画。・・・川から用水路を引き、水が届かない地域を潤します。全長20km以上。周辺の土地と砂漠を農地に変えていく、壮大な計画です。
資金もノウハウもない中、手探りの作業が続きました。川の流れを変え、水路に水を呼び込むための工事。遠く離れた山から巨大な石を転がして運び、次々と入れていきます。当時、作業に加わっていた山口敦史さんです。困難な作業を推し進める力は、中村さん自身の姿勢から生み出されていたといいます。
  作業に加わっていた 山口敦史さん・・・「雪解け水なんで、本当に冷たい。そこに石が落ちていたら、石が用水路を傷つけるからといって自らどけに入る。そんな見ていたら、水が冷たくても飛び込んで一緒に取りに行かないわけにはいけない。そういう雰囲気を作っていたのは、中村先生の姿。」
  次第に、現地の人たちに変化が現れ始めます。タリバンの戦闘員だった人や、米軍に雇われていた人たちが武器をつるはしに持ち替え、協力するようになってきたのです。・・・「自分たちの手で国を立ち直らせたい。また農業をやりたいんだ。」、「農業ができるようになれば、子どもに食べさせることができる。出稼ぎに行かずに、家族と一緒に暮らせるんだ。」
ペシャワール会 会報より
“アフガン問題とは、政治や軍事問題ではなく、パンと水の問題である。「人々の人権を守るために」と空爆で人々を殺す。果ては「世界平和」のために戦争をするという。いったい何を何から守るのか。こんな偽善と茶番が長続きするはずはない。”用水路完成に向けて、作業を続けていた中村さん。その上空を、アメリカ軍のヘリコプターが行き交うようになりました。
中村哲医師
  「攻撃用っていうんですかね。それが旋回してきて、ここを機銃掃射したわけですね。危なかった。」アメリカは、アフガニスタンへの空爆を継続。誤爆も相次ぎ、民間人の死者が急増します。一方、タリバンは爆弾テロなどで対抗。治安は一段と悪化していきました。日本は、テロとの戦いの一環として、インド洋で海上自衛隊による給油活動を行っていました。
  欧米の支援団体と差別化でき、安全につながると中村さんたちが車につけてきた日の丸。かえって危険を招くと感じ、消すようになりました。
ペシャワール会 会報より
“「日本だけが何もしないで良いのか、国際的な孤児になる」ということを耳にします。だが、今熟考すべきは「先ず、何をしたらいけないか」です。民衆の半分が飢えている状態を放置して、「国際協調」も「対テロ戦争」も、うつろに響きます。”

“仲間の死”それでも続けた活動・・・2008年8月。中村さんにとって、衝撃的な事件が起きます。5年にわたり活動をともにしてきた仲間を、武装グループに殺害されたのです。
伊藤和也さん
2001年の同時多発テロ事件をきっかけに、中村さんの志に共感し、活動に加わっていました。中村さん伊藤さんへの追悼文で決意の言葉を寄せていました。
「アフガニスタンの大地とともに 伊藤和也 遺稿・追悼文集」より
“今、必要なのは、憎しみの共有ではありません。憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓い、心から祈ります。”
  (伊藤和也さんの母 順子さん「これを3つ、先生が持ってきてくださった。」)
和也さんが亡くなったあと、クナール川の石を中村さんが届けてくれました。中村さんは、和也さんの志とともに、みずからの信念を貫くと伝えていました。
  伊藤和也さんの母 順子さん(「ここでやめたら、和也の遺志とか、先生が描いていらっしゃるものが揺らぐ。揺らいでしまったら、和也を殺した人たちとか、いろいろな人たちのことを思うと、絶対ここではやめてはいけない。」)
中村さんは、事件のあともアフガニスタンに残りました。現地のスタッフとともに用水路の完成を急ぎ、工事は最終段階に入りました。
中村哲医師・・・「6年前に作業を始めて以来、あなたたちは懸命に働いてくれました。雨の日も強い日ざしの中も。この用水路が未来への希望となることを願っています。」、一方、アメリカはアフガニスタンへの兵力の増強を打ち出します。・・・アメリカ オバマ大統領(当時)・・・「アルカイダは、せん滅させなければならない。今、この地域を見捨てれば、アルカイダに対する圧力を弱め、アメリカや同盟国を攻撃されるリスクを生み出しかねない。」
ペシャワール会 会報より
“作業地の上空を、盛んに米軍のヘリコプターが過ぎてゆく。彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。彼らはいかめしい重装備。我々は埃だらけのシャツ一枚だ。彼らに分からぬ幸せと喜びが、地上にはある。”着工から7年。総延長25.5kmの用水路が完成しました。
かつて、死の谷と呼ばれた干からびた土地。それが緑の大地へと姿を変えました。ふるさとを離れていた人たちが次々と戻り始め、大地の恵みが育まれていきました。
・・・現地の男性-「人は忙しく仕事をしていれば、戦争のことなど考えません仕事がないから、お金のために戦争に行くんですおなかいっぱいになれば、誰も戦争など行きません。」・・・中村さんは用水路が見える農場に、和也さん功績をたたえる碑を建てました。
-----------------------------------------------------------------------------------
2年前に両親に会いに来た中村さん。ある約束を交わしていました。・・・伊藤和也さんの母 順子さん(「一度でいいから、和也のいたアフガニスタンに行きたいんですけど、連れてっていただけますかと言った時に、『いまはちょっと危険だから、いつか必ずお父さんとお母さんはお連れしますから、もう少し待っててくださいね』と言ってくださったんです。」・・・後日、中村さんから現地の写真と手紙が送られてきました。両親のもとに頻繁に通えないことへのおわびと、(現地の「その後」の様子を伝えていました。)・・・伊藤和也さんの母 順子さん(「本当なら何度もお伺いして、ご報告を申し上げるところって書いている時に、先生はその(和也の)思いを常に持っててくださったとわかって。この手紙が、最後に先生からいただいた言葉だと思うと、なんとも言えない気持ちになります。」)
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いま戦争をしている暇はない”・・・テロとの戦いが長期化する中で、中村さんが過去最悪と言うほど、現地の治安は悪化していきました。
アメリカ オバマ大統領(当時)・・・「アメリカにとって最良の日だ。ビンラディンの死で、世界に安全がもたらされた。」2011年5月。アメリカは、10年越しで追ってきた同時多発テロ事件の首謀者、オサマ・ビンラディン容疑者の潜伏先を襲撃し、殺害しました。
    3年後の2014年。アフガニスタンの治安維持などにあたってきた、アメリカ軍を中心とする国際部隊の大部分が撤退しました。
その後、力の空白が生じたアフガニスタンでは、タリバンが勢力を盛り返し、過激派組織ISの地域組織も台頭。軍の施設や政府機関を狙ったテロなどが繰り返し発生し、民間人の死傷者は、去年まで5年続けて年間1万人を超えるようになりました。
ことし10月に取材した際の中村さんです。・・・このころには、銃を携えた警備員を同行させるなど、安全管理に細心の注意を払わなければいけなくなっていました。
中村哲医師・・・「これからも、みんなと手をつないでアフガニスタンのために努力していきます。」
中村哲医師・・・「アフガニスタンは40年間戦争が続いていますが、いまは戦争をしている暇はない。敵も味方も一緒になって、アフガニスタンの国土を回復する時期だ。できるだけ多く緑を増やし、砂漠を克服して人々が暮らせる空間を広げること。これはやって、絶対できない課題ではない。」

最後まで、みずからの信念を貫き通した中村さん
先週、武装した何者かに銃撃され、命を落としました
その日も、作業現場に向かう途中でした
(2019年3月19日)

アンネ・フランク
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  アンネ・フランク(アンネリース・マリー・フランク、1929年6月12日 - 1945年3月上旬)は、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女である。

概要
  ドイツ国フランクフルト・アム・マインに生まれたが、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れてオランダアムステルダム亡命した。しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日隠れ家での生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入って、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家でのことを日記に書き続けた。

  1944年8月4日ナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員が強制収容所へと移送された。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。1945年3月上旬ごろのことと見られている。
  隠れ家には、アンネがオランダ語でつけていた日記が残されていた。父・オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットーはミープからこの日記を手渡された。オットーは娘・アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。この日記は60以上の言語に翻訳され、2,500万部を超える世界的ベストセラーになった。
生涯
  父はユダヤ系ドイツ人のオットー・ハインリヒ・フランク。母は同じくユダヤ系ドイツ人のエーディト・フランク(旧姓ホーレンダー)。父・オットーは銀行家だった。母・エーディトはアーヘンの有名な資産家の娘であった。アンネは次女であり、3歳年長の姉にマルゴット・フランク(愛称マルゴー)がいた。
  生後12日目にエーディトはアンネをフランクフルト郊外のマルバッハヴェーク307番地にあったフランク一家の暮らすアパートに連れ帰った。フランク一家は中産階級のユダヤ人一家だが、ユダヤ教にも他の宗教にもあまり熱心な家庭ではなかった1931年3月、フランク一家はガングホーファー通り24番地のアパートへ引っ越し。しかしフランク一家の家業である銀行業は世界的な不況から立ち直れず、業績が悪化していた。フランク一家は一般のドイツ国民よりは経済水準は高かったものの、節約のためにもアパートを借りるのはやめることとなった。一家はヴェストエント地区のヨルダン通りにある実家へ戻った。ここは1901年にオットーの父・ミヒャエルが購入した高級住宅で、ミヒャエルの死後はオットーの母・アリーセが1人で切り盛りしていた。とはいってもフランク一家の私生活はあまり変わらず、一家はよく旅行やショッピングに出かけていた。

  しかしこのころのドイツの政治は、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)が急速に伸長していた。1932年には同党が国会で最大議席を獲得し、その党首アドルフ・ヒトラー首相に任命されるのも目前に迫っていた。フランクフルトでも反ユダヤ主義デモを行う隊員の姿がよく見られるようになった。1932年にオットーはエーディトと相談して、ドイツを離れることを考えたという。しかし亡命先で生活の糧を得られる見込みがなく、断念せざるを得なかった。
ドイツ脱出
  1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命され、ドイツの政権を掌握した。これに危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人たちは次々とドイツ国外へ亡命していき、1933年だけで6万3,000人あまりのユダヤ系ドイツ人が国外へ亡命している。1933年3月のフランクフルト市議会選挙でもナチ党が圧勝した。市の中心部では勝ち誇ったナチ党員たちが大規模な反ユダヤ主義デモを行った。ユダヤ人商店のボイコット運動も激化し、ユダヤ系企業は次々と潰された。1933年4月7日に制定された職業官吏再建法によって反ユダヤ主義に従わない教師は次々と停職・退職させられ、学校内でもユダヤ人の子供の隔離が進められるようになった。アンネもマルゴーもドイツでまともな教育を受けることは不可能であった。
  1929年夏スイスへ移住していたアンネの叔父、エーリヒ・エリーアスは、ジャム製造に使うペクチンをつくる会社「ポモジン工業」の子会社オペクタ商会スイス支社を経営していた。エリーアスは義兄にあたるオットー・フランクにオランダアムステルダムへ亡命してそこでオペクタ商会オランダ支社を経営しないかと勧めた。オットーはドイツに残ることの危険性、オランダに知り合いがいたこと、オランダが難民に比較的寛容であったことなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることにした。

  まず仕事と住居を安定させるため、1933年6月にオットーが単身でアムステルダムへ移った。その間、アンネは姉・マルゴーや母・エーディトとともにアーヘンで暮らすエーディトの母、ローザ・ホーレンダーの家で暮らした。オットーはヴィクトール・クーフレルミープ・ヒースなど信用のできる人物を雇い、何とか事業を軌道に乗せた。
  オットーはその間、一家の住居先も探した。エーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。オットーたちはアムステルダム・ザウトの新開発地区に一家4人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入した。1933年12月にまずエーディトとアンネの姉マルゴーが向かい、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった。
オランダでの生活
  アムステルダム・ザウト地区は当時開発中で、ドイツからナチスの迫害をのがれて移住してきたユダヤ人が多く集まってきていた。フランク一家もそうした家の一つである。フランク一家はアムステルダム・ザウト地区の一郭であるメルウェーデ広場37番地のアパートの三階で暮らしていた。メルウェーデ広場は二等辺三角形をした広場で、三角形の頂点には当時としては珍しい12階建てのビルがそびえ立っている。
  姉のマルゴーは普通の小学校に入学したが、アンネは、1934年に自宅の近くのニールス通りにあるモンテッソーリ・スクールの付属幼稚園に入学した。さらに1935年9月には幼稚園と同じ建物の中にあるモンテッソーリ・スクールに入学する。モンテッソーリ・スクールは自由な教育を特徴とし、時間割が存在せず、教室での行動を生徒の自主性に任せ、授業中の生徒のおしゃべりさえも推奨していた。アンネにモンテッソーリ・スクールを選んだのは、アンネがおしゃべりで長い間じっと座っていることができない性分であったためという。
  父親のオットー・フランクは娘たちについて「アンネは陽気な性格で女の子にも男の子にも人気があった。大人を喜ばせるかと思えば、あわてさせる。あの子が部屋に入ってくるたびに大騒ぎになったものでした。一方姉のマルゴーは聡明で誰からも『いい子だね』と褒められるような子供でした」とのちに語っている

  当時モンテッソーリ・スクールは革新的な学校と目されており、そのためユダヤ人の入学者が多かった。アンネのクラスも半分がユダヤ人であり、そのほとんどがアンネと同じドイツ系であった。アンネはモンテッソーリ学校で、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人一家の子供ハンネリ・ホースラル(オランダ語愛称リース)やズザンネ・レーデルマン(愛称サンネ)と親しく遊んでいた。いつも仲良しの3人少女は「アンネ、ハンネ、サンネの3人組」などと呼ばれていた。特にハンネのホースラル家とアンネのフランク家は家族ぐるみの親しい付き合いをしていた。1937年秋にアンネにサリー・キンメルという初めてのボーイフレンドができた。これ以降、アンネの友達に男の子が増えてくるようになった。陽気なアンネは学校でもパーティーでも目立つ女の子で男子からも人気があった。映画スターやファッションに興味を持ち始めたのもこのころだった。しかしアンネは病弱であり、百日咳水ぼうそうはしかリューマチ熱など小児病にはほとんど罹患している。
  1938年10月にオットー・フランクはアムステルダムにもう一つの会社「ペクタコン商会」を設立した。ソーセージの製造のための香辛料を扱う会社であった。ヨハンネス・クレイマンをオペクタ商会とペクタコン商会の監査役とし、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だったヘルマン・ファン・ペルスをペクタコン商会の相談役に迎えている。ファン・ペルス一家は1937年6月にドイツを逃れてアムステルダムへ移住してきており、フランク家の近くで暮らしていた。ファン・ペルス一家はフランク一家と家族ぐるみの付き合いをして、のちに隠れ家でフランク一家と同居することとなる。

  1938年末には母・エーディトの実家であるドイツ・アーヘンのホーレンダー家が経営する「B・ホーレンダー商事会社」が「アーリア化(ドイツ政府の圧力の下にユダヤ系企業がドイツ系企業に捨て値で買い取られる)」を受け、ホーレンダー家が財産を失った。エーディトの兄・ユリウスは従兄弟のいるアメリカへ逃れたが、エーディトの母・ローザは当時72歳で海を渡っての長旅は不可能だった。結局ローザはユリウスに同行せず、1939年3月にアムステルダムのフランク家へ移ってきて、一家は5人暮らしになった。アンネはおばあちゃんっ子であり、よくローザに学校での話や友達とのことなどを話した。
  また1940年春ごろにはアメリカ合衆国アイオワ州ダンビルからオランダへ赴任してきていた女教師バーディー・マシューズの計らいで、アンネとマルゴーは彼女の教え子であるダンビルの学校の生徒と文通することになった。アンネとマルゴーの文通相手はダンビルの農家の娘の姉妹、ベッティ・アン・ワーグナーとホワニータ・ワーグナーであった。アンネはホワニータと文通した。ちなみにこの文通は英語で行われている。父オットーが娘たちの書いた手紙を英訳したものと思われる
ドイツ軍のオランダ侵攻
  1939年9月1日ドイツ軍ポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦にオランダは中立を宣言していた。しかしヒトラーは「オランダはイギリス軍機がドイツ空爆のためにオランダ領空を通過していくことを黙認している。自分から中立の資格を放棄している」と主張し、1940年5月10日早朝にドイツ軍をオランダへ侵攻させた。この日は金曜日で平日だったが、ドイツ軍侵攻を受けて聖霊降臨祭の休みが急遽繰り上げられ、学校は休みになり、アンネは自宅で待機した。一方、父・オットーは会社に出勤している。オットー以下オペクタ商会の社員たちは、暗澹たる空気の中でラジオ放送の混乱する情報を聞いていた。放送を聞くオットーの顔色は蒼白だったとミープ・ヒースは著書の中で回顧している。

  オランダ国内はパニックに陥った。ポーランドで戦争後、オランダ政府は「たくさん蓄える者は国民に害」をスローガンに食糧配給制へ移行していたが、人々は食糧を蓄えようとして商店に殺到した。街中には空襲警報が連発した。ラジオ放送は混乱に陥り、相矛盾する命令や意味が不明瞭な命令を国民に次々と出した。オランダ国内にいるドイツ人が手当たり次第にオランダ当局に逮捕された。自動車を所有する裕福なユダヤ人の中には、オランダからの脱出を試みようとアイマウデンスヘフェニンゲンなど海の方へ逃げる者もいたが、イギリス行きの船舶はわずかで、ほとんどはオランダ脱出に失敗している。フランク一家は逃亡を試みなかった。フランク一家は自動車を所持していなかったし、オットーやエーディトは、青春期の娘2人や年老いた祖母を連れてあちこち逃げまわりたがらなかった。オットー達は娘たちが心配なく青春を過ごせるよう現下の政治情勢については家庭内でほとんど話さないこととした。
  5月13日にはウィルヘルミナ女王ディルク・ヤン・デ・ヘール首相以下政府閣僚がイギリスへ逃亡した。ドイツ空軍によるロッテルダム空襲の後、5月14日夜7時、オランダ軍総司令官ヘンリ・ヴィンケルマン大将はドイツ軍に対して降伏することを発表した。5月15日正午にはオランダ政府はドイツ政府に対して正式に降伏文書に調印した。侵攻から1週間足らずでオランダ全土はドイツ軍占領地となった。
ドイツ軍占領下の生活
  占領直後のオランダはドイツ国防軍の軍政下に置かれていたが、1940年5月28日にヒトラーはオランダ駐在国家弁務官親衛隊中将アルトゥール・ザイス=インクヴァルトを任じ、民政へ移行させた。ザイス=インクヴァルトは占領当初「穏健」な態度をとり、オランダ社会に急激な変化をもたらさないよう気にかけた。オランダ政府閣僚はすでに国外逃亡していたが、事務次官以下官僚機構はそのままオランダに残っており、オランダの行政機能はこれまでとほとんど変わりなく稼働した。またザイス=インクヴァルトは、反ユダヤ主義についても即時にオランダに持ち込むことはしなかった。そのため占領後もしばらくの間は、アンネの生活に大きな変化はなかった。ハンネやサンネとも今まで通り遊んでいた。アンネはオランダ降伏には怒っていたが、このころにはまだ将来への強い不安までは感じてはいなかったという。

  1940年5月28日にはベルギーがドイツに降伏、さらに6月22日にはフランスもドイツに降伏した。ドイツの情勢が安定してきたことで、ザイス=インクヴァルトは徐々に「穏健」の仮面を脱ぎ捨ててユダヤ人迫害を開始するようになった。まず1940年7月にザイス・インクヴァルトより、オランダ国籍以外のユダヤ人は氏名と住所を登録せよとの命令が下った。さらに8月には「1933年1月1日以降にドイツからオランダへ移住したユダヤ人はその旨を登録せよ」との命令が出された。フランク一家はこれらの命令に従って登録を行っている。10月にはユダヤ人企業に登録が義務づけられた。オットーはこれに従ってオペクタ商会とペクタコン商会を登録する一方、「アーリア化」されることを防ぐためにヴィクトール・クーフレルとヤン・ヒース(ミープの愛人。2人は1941年7月に結婚)を仮の所有者とする偽装会社「ヒース商会」を設立した。
  1941年1月9日以降には、オランダ映画館主同盟がユダヤ人の映画館入場を拒否したため、ユダヤ人は映画館に入れなくなった。アンネはハリウッドの有名なスターの写真を切り抜いては台紙に貼ってコレクションするような映画好きの女の子だったため、これは大事件だった。結局、フランク一家は自前で映写機、スクリーン、フィルムを用意して自宅で上映会を行うようになった。
  1941年5月末にユダヤ人は公園、競馬場、プール、公衆浴場、保養施設、ホテルなど公共施設への立ち入りを禁止された。アンネはプールに行けなくなったことを嘆き、「日焼けしようにも、あまり方法はありません。プールに入れないからです。残念ですけど、どうしようもありません」と1941年6月末にスイスにいる父方の祖母・アリーセに宛てた手紙で書いている。
  1941年8月29日にはユダヤ人はユダヤ人学校以外に通うことを禁止する法律が公布された。アンネはモンテッソーリ・スクールへ通えなくなり、マルゴーともどもフォールマーリゲ・スタツティンメルタインユダヤ人中学校へ転校することとなった。ユダヤ人中学校でアンネは新たな親友ジャクリーヌ・ファン・マールセン(愛称ジャック)と出合った。アンネとジャックは家が近いにもかかわらず、しょっちゅうお互いの家に泊まり合っていた。アンネはジャックの家に行くのに大した荷物もないのにスーツケースを持っていった。スーツケースがないと旅行気分が出ないからという。
  1942年1月29日には同居していた祖母・ローザがにより死去している。おばあちゃんっ子のアンネには衝撃だった。アンネはのちに書く日記のなかでも祖母の死について触れ、「おばあちゃんのことは、いまでもこの胸に焼きついています。私が今でもどれだけおばあちゃんを愛しているか、きっと誰も想像がつかないと思います」と書いている。アンネは思春期になるにつれ、母・エーディトとの摩擦が増えていた。アンネとエーディトの親子喧嘩の仲裁役になれるのはアンネの祖母でエーディトの母であるローザだけだった。そのこともアンネが祖母好きな理由であったという
  1942年4月29日にはオランダ、フランス、ベルギーにおいてユダヤ人は黄色いダビデの星を付けることが義務づけられた。これは先にポーランドやドイツで実施されていたものが導入されたものであった。オランダのダビデの星には中央に「Jood(ユダヤ人)」の文字が入っていた。1942年6月22日にはオランダの親衛隊及び警察高級指導者ハンス・ラウター親衛隊中将より「ユダヤ人は所有している自転車を48時間以内に当局に提出せよ」との命令が下された。フランク一家はこの命令に従わず、マルゴーの自転車を隠し持つことにした。アンネも専用の自転車を持っていたが、彼女の自転車は復活祭の休み中に何者かに盗まれてしまっていたため、このころにはすでに所持していなかった。アンネにとって厳しかったのは、1942年6月30日のユダヤ人外出制限命令だった。ユダヤ人は夜8時から朝6時までの間の外出を禁止され、また非ユダヤ人を訪問したり、あるいは訪問を受けることを禁止された。ユダヤ人の子どもにとって友達と遊ぶのに大きな影響がある命令だった。

  アンネは1940年夏ペーテル・スヒフという年上(14歳)の少年と付き合っていた。ペーテルは長身の美男子でアンネは彼にかなり熱を入れていたが、ペーテルが引っ越すとペーテルとアンネは疎遠になってしまった。ペーテルの新しい友人たちが年下の女の子と付き合っているペーテルをからかったため、彼はアンネを故意に無視するようになったらしく、一方のアンネはしばらく失意の状態だったという1944年1月6日、7日の彼女の日記にはペーテルのことを忘れられないでいる様子がうかがえる。ペーテルほど熱を入れてはいなかったが、
  1942年6月終わりごろには3歳年長のヘルムート・シルベルベルフ(愛称ヘロー)という男の子と付き合い始めていた。ヘローはこのときのことをのちに「アンネは魅力的な女の子でした。いきいきとしていて機転がきいて、人を笑わせたり、楽しませたりするのが大好きでした。はっきりと記憶に残っているのはいつも大きな椅子に座り、あごに両手を添えてじっと私のことを見ているアンネの姿です。(中略)たぶん私はアンネに恋していたのでしょう。ひょっとすると彼女も同じ気持ちだったかもしれません」と語っている
  1942年6月12日の13回目のアンネの誕生日、オットーからのプレゼントでサイン帳を贈られた。表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている女の子らしいサイン帳であった。アンネはこのサイン帳を日記帳として使用することにし、その日、最初の日記をつけている。後世に『アンネの日記』として世界的に知られることになる日記の執筆の始まりである。なおアンネは日記帳を「キティー」と名づけ、この「キティー」に手紙を書くという設定にしていた。なぜキティーだったかは諸説あってはっきりとしないが、当時オランダの女の子の間で人気があった少女小説の主人公の名前から取られたという説がもっとも有力である。あるいはアンネの友達の一人ケーテ・エヘイェディ(愛称キティー)から来ている可能性もある。日記の最初はこのように記されている。

   あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね・・・
   — 1942年6月12日

  1942年6月末、夏休み前の学期末試験の通知書が配布された。マルゴーは「いつも通りの素晴らしい成績」で、アンネも日記上でしぶしぶ賛辞を呈している。一方アンネは予想よりは良かったが、数学の成績が低く、夏休み後の9月に追試を受けることを申し渡されてしまった。しかしアンネがふたたび学校に通える日はもう来なかった。
隠れ家の準備
  ドイツの総力戦体制が強まり、ユダヤ人狩りが頻繁に行われはじめると、「ユダヤ人はポーランドへ連行されそこで虐殺される」という不穏な噂が流れるようになった。ドイツ側は、連行しているユダヤ人は失業中で未婚のユダヤ人のみであり、彼らはドイツ国内の労働収容所へ送っており、そこで公正な取り扱いのもとに強制労働に従事しているとしていた。しかしイギリスのBBC放送などはユダヤ人はポーランドへ連れて行かれ、そこで虐殺されていると報道していた。いずれにせよ明白であるのは、経済の「アーリア化」によりユダヤ人失業者は増大しており(オットー・フランクも書類上は失業者であった)、ユダヤ人狩りで連れていかれる人数は日増しに増え、その対象はユダヤ人ならば誰でも手当たり次第という具合になっていたことである。
  危険が迫ってきていると判断したオットーとヘルマン・ファン・ペルスは、オペクタ商会とペクタコン商会(ヒース商会)が入っている建物の中に隠れ家を設置して身を隠す準備を進めた。その建物はアムステルダム・ヨルダーン地区プリンセンフラハト通り263番地にあった。4階建ての建物で1階が倉庫、2階が事務所、3階と4階(さらにその上に屋根裏部屋もあり)も倉庫として使われていた。この建物の後ろには離れ家がついており、そこの2階にはオットーのオフィスと従業員用のキッチンがあり、3階と4階は放置されていた。こうした離れ家は、運河に面したアムステルダムの建物にはよくある形状で「後ろの家」(アハターハウス)と呼ばれ、定冠詞"Het"を付けた「後ろの家」(ヘット・アハターハウス)は、オランダ語版アンネの日記のタイトルとなった。この離れ家の3階と4階と屋根裏部屋を改築して隠れ家が作られた。
  ミープ・ヒースヨハンネス・クレイマンヴィクトール・クーフレルベップ・フォスキュイルら会社の非ユダヤ人社員たちが食料や日用品を隠れ家に運び込む役を引き受けてくれた。オットーは、ドイツ軍に見つからぬよう少しずつ家具などを隠れ家に入れていった。この間、アンネとマルゴーには隠れ家のことは一切知らされていなかった。少しでも娘たちに自由な時間を楽しませたいというオットーとエーディトの配慮からだった。ユダヤ人の子供はすでに自由に遊ぶことはできなくなっていたが、それでもアンネは、ハンネ、サンネ、ジャックたちとともにイルセ・バーハネルという子の家に集まって卓球をして遊んだり、卓球のあとはユダヤ人でも入れるアイスクリーム屋へ行って男の子たちと会って仲良くしたりして楽しんでいた。
  1942年7月5日午後3時ごろ、マルゴーに対して7月6日にユダヤ人移民センターへの出頭を命じるナチス親衛隊(SS)からの召集命令通知がフランク家に届けられた。これはマルゴーに限らずアムステルダムの15歳から16歳のユダヤ人数千人に一斉に出された召集命令であった。召集後はヴェステルボルク通過収容所を経てドイツ国内の強制労働収容所へ送られ、労働に従事させられることとなっていた。通知には持って行ける衣類とシーツ、食器類についてのリストまで付属していた。オットーの帰宅後、すぐにヘルマン・ファン・ペルスやヒース夫妻、クレイマンなどと連絡をとり、対策を話し合った。召集命令に応じるのは危険と判断したオットーたちは、すぐに潜伏生活を始めることとした。アンネとマルゴーも荷造りの準備を始めた。
  7月6日朝7時半、アムステルダムは雨が降っていた。自転車を持っていたマルゴーはミープに連れられてひと足先に隠れ家へ向かった。続いて7時45分、アンネとオットーとエーディトの3人も家を出ると徒歩で隠れ家へ向かった。アンネたちは1時間ほどかかってプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家に到着した。到着したころには雨はあがっていた。アパートを出る際にオットーは、そのころフランク家に下宿していた人物に宛てて手紙を置き残した。そこでスイスへ逃れることをほのめかし、アンネが飼っていた猫「モールチェ」(ユダヤ人学校へ転校したころから両親の許可を得て飼っていた)を託したい旨を書いている。フランク一家の突然の失踪は近所の人たちにも知られたが、召集命令が来たユダヤ人は次々と逃げ出していたのでとりたてて不思議には思われなかったようである。すぐに「フランク一家はスイスへ逃げたらしい」という噂が流れた。アンネの友達のハンネリやジャックもアンネを探しにきたが、家はもぬけのからになっていた。ジャックはアンネと事前にお互い身を隠すときがきたら手紙を置き残そうと約束しており、手紙を探したが見つからなかった。彼女たちはとりあえずアンネとの思い出の品を探し、ジャックはアンネが水泳競技でもらったメダルを見つけて持って帰っている。
隠れ家生活
  「後ろの家」の隠れ家の入口は正面の建物から3階に上がり、本棚の後ろに隠れた秘密の入口を通って入ることができた。秘密の入口を通るとすぐ右手に4階への階段があった。階段のすぐ横のドアはオットーとエーディトの部屋であった。その部屋とつながっている右側の細長い部屋がアンネとマルゴーの部屋だった(フリッツ・プフェファー合流後、プフェファーはアンネの部屋で暮らすことになり、マルゴーはオットーたちの部屋に移っている)。アンネたちの部屋と4階への階段の手前から洗面所に入ることができ、そこに洗面台と水道、そして水洗トイレがあった。4階に通じる階段を上ると大きな部屋があり、そこは隠れ家のリビングルーム、またファン・ペルス一家の部屋だった。またその部屋に通じる部屋にファン・ペルス一家の長男ペーター・ファン・ペルスの部屋があり、この部屋から屋根裏部屋へ上がるはしご段があった。屋根裏部屋のつきあたりのアーチ形の窓からは西教会の時計塔が見え、別の窓からは中庭に立つマロニエの巨木を眺めることができた。隠れ家にはオットー・フランク一家(オットー、妻エーディト、長女マルゴー、次女アンネ)、1942年7月13日からヘルマン・ファン・ペルス一家(ヘルマン、妻アウグステ、長男ペーター)、1942年11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファーも合流して合計8人が隠れ家で同居した。
隠れ家での人間模様
  隠れ家生活に入ってからアンネと母・エーディトは対立することが多くなった。母から自立したいアンネとアンネを心配するエーディトがすれ違っていたせいであった。オットーがよく2人の仲裁に入っていた。日記上でも母親を批判する記述は多い。「とにかくママが我慢なりません。ママの前では、自分を抑えて辛抱しなくちゃなりません。そうしないとママの横っ面をひっぱたいてしまいかねませんから。どうしてこんなにまでママが嫌いになってしまったのか。自分でも分かりません」と書いている。しかしやがてアンネは母を傷つけていることを反省して、徐々に攻撃の手を緩めるようになる。日記の書きなおし作業の中で「アンネ、本当に貴女が書いたの?『憎らしい』なんて?よくもこんなことが書けたわね」「お母さんが私の気持ちを分かっていないのは事実ですが、私もお母さんの気持ちを分かっていないのですから」などと書いている。
  またアンネは、成績優秀で控えめな性格の姉・マルゴーをやっかむことが多かった。母・エーディトがマルゴーを高く評価し、アンネはいつもマルゴーと比べられて姉を見習うようにと言われるせいだった。アンネは「鼻持ちならないとしか言いようがありません。昼も夜も神経に触りっぱなし。私はいつもマルゴーをからかって『よくそんなに猫をかぶってられるわね』と言ってやりますけど、さすがのマルゴーもこれにはむっとしてるようですから、そのうち猫を被るのは止めるかも」、「ママは何かと言うとマルゴーの味方をします。それは誰の目にも明らかです。いつだって2人でかばい合っています。もうそれは慣れっこなので、ママがごちゃごちゃお説教をしても、マルゴーが怒ってきても何とも思いません。もちろん2人のことは愛していますが、それは私のお母さんであり、お姉さんだからにすぎません。一個の人間としては2人ともくたばれと言いたいです」と書いている。しかしのちに親への不満を共通の話題にして姉妹仲はよくなった。「特別なことと言えば、マルゴーと私が二人揃って両親が鼻につき始めてることぐらいです。誤解しないでほしいんですけど、私は今でも以前と変わらずお父さんを愛してますし、マルゴーは両親どちらも愛しています。でも私たちぐらいの年になると、誰でもちょっとは物事を自分で決めたくなります。(中略)マルゴーも悟ったようです。両親より同性の友達の方が、自分自身について気楽に話せるってことが」「(マルゴーとは)本当の親友になりかけています。もう私のことを子供扱いして、相手にしてくれないなんてこともありません」と書いている。

  家族の中でアンネが一番好きだったのは父・オットーだった。アンネは1942年11月7日の日記には「パパだけが私の尊敬できる人です。世界中にパパ以外に愛する人はいません」と書いている。アンネはオットーにエーディトへの不満を漏らすことがあったが、オットーはアンネに拒絶されて苦しんでいるエーディトを知っていたため、必ずしもその言い分を認めなかった。「パパは、私が時々ママについて、鬱憤をぶちまける必要があることを分かってくれません。そのことを話題にしたがらないんです。話がママの欠点について触れそうになると、すぐにその話題を避けようとします」とアンネは書いている。この件についてオットーは後年、「このことでは妻の方がアンネより深く悩んでいたと思う。実際に妻はよくできた母親で子供のためならいかなる苦労も惜しまなかった。アンネの反抗についてよくこぼしていたが、それでもアンネが父親の私を頼っていることに妻はいくらか慰められているようだった。アンネと妻の仲介役になるときは私も気が重かった。妻を苦しませたくはなかったが、アンネが母に対して生意気で意地悪な態度を取ったとき、アンネをたしなめるのは、しばしば容易なことではなかった」と述べている。
  アンネの妥協のなさ、臆することのない舌鋒は、ファン・ペルス夫妻やフリッツ・プフェファーも立腹させることが多かった。彼らは「アンネの躾がなっていない」とよくフランク夫妻に忠告した。しかしこのようなときには母・エーディトは常にアンネの味方だった。プフェファーとアンネは机の使用権などをめぐって対立し、プフェファーはアンネにマナーなどの説教をすることがあった。アンネは皮肉をこめてプフェファーを「閣下」などと呼んでいる。また彼女がプフェファーに付けた日記上の変名は「デュッセル」(ドイツ語で間抜けの意)である。またファン・ペルス夫妻とフランク一家にもしばしば摩擦があった。
  しかし対立ばかりではなく、楽しいときも多かった。隠れ家ではお祝いをするきっかけを見つけては頻繁にお祝いをしていた。毎週金曜日に行うユダヤ教安息日の儀式、隠れ家メンバーの誕生日のお祝い、ハヌカー祭、クリスマス、新年などであった。ヘルマン・ファン・ペルスはもともと陽気な人で、こうした席でよく冗談をいって人を笑わせていた。アンネの日記にもそうした楽しい思い出が「夜にはみんなしてテーブルを囲み、頭がおかしくなるほど笑い転げました。私がドレヘルさんの奥さんの毛皮のカラーを持ち出して、パパの頭に巻きつけたからです。なんだか馬鹿に神々しくて見えて、ほんと、笑い死にするかと思いました。次にファン・ペルスおじさんもそれを真似をしましたけど、こちらはもっと滑稽でした」「ペーターがおばさんのすごく細みのドレスを着て、帽子をかぶり、私が彼の服を着て、男の子の帽子を被ったら、大人たちはみんなお腹を抱えて笑い転げ、おかげで私たちまですっかり楽しくなりました」と多く描かれている。
  隠れ家で唯一のティーンエイジャーの男の子のペーターとは徐々に恋仲になっていき、アンネとペーターは屋根裏部屋で2人きりで長い時間を過ごすようになった。2人はキスもしている。
  1944年4月16日の日記に「昨日の日付を覚えておいてください。私の一生の、とても重要な日ですから。もちろん、どんな女の子にとっても、初めてキスされた日といえば記念すべき日でしょう?」と書いている。ただペーターには物足りなさも感じていたようでしばしばペーターへの不満の記述もある。
様々な困難
  人に見つかってはならない隠れ家には厳しいルールがあった。昼間はできる限り静かに過ごすこと(事務所に人の出入りがあるため)、カーテンは閉めたままにすること、水を流す音が響かないようにすること、トイレの使用は早朝と事務所が閉まる夕方以降にすること、などである。食料の調達はミープ・ヒースで、店長がレジスタンス活動家であった食料店から購入していた。食料は屋根裏部屋に貯蔵された。しかし食料の確保はどんどん難しくなり、少なくなっていった。特に1944年に入ると食料切符があっても満足に食料を得られなくなった。しかも同年5月25日には野菜の入手経路だった八百屋の主人ファン・フーフェンが2人のユダヤ人を匿っていた罪によりゲシュタポに逮捕されたため、野菜の確保が難しくなった。ひもじさに耐えねばならなくなると隠れ家住民たちの心がすさんでけんかになることも多かった。アンネも日記の中で1週間に1種類か2種類の食事しか食べられないことを嘆いている。
  医者にかかれないため、病気になると大変であった。1943年冬にはアンネはインフルエンザにかかり、隠れ家の大人たちが総がかりで必死に看病した。幸い熱は下がり回復したが、悪性の伝染病に襲われたときにはひとたまりもない様子であった。また夜には連合軍空襲の恐怖にさらされることも多くなっていった。もし爆弾が落ちても助けは求められなかった。隠れ家からそう遠くないミュントプレインに対空砲火に撃ち落とされた英軍機が墜落した際には、その轟音と火事で隠れ家がパニックになったという。電力も制限されていき、ろうそくを明かりの代わりに使用するようになった。また暖房の使用ができなくなると厚手のコートを重ね着したり、ダンスや体操をして体を温めたりしていた。
  どんなに絶望的な状況になっていってもアンネは最後まで希望を捨てなかった。1944年7月15日の『アンネの日記』には次のような記述がある。

  自分でも不思議なのは私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて到底実現しそうもない理想ですから。にもかかわらず私はそれを待ち続けています。なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと
  — 1944年7月15日

  この言葉はアンネ・フランクの代表的な言葉としてよく引用されている。『アンネの日記』は、この後、7月21日に記述があり、その次の1944年8月1日火曜日を最後にして終わっている

逮捕
  1944年8月4日朝、プリンセンフラハト263番地の建物はいつも通りであった。隠れ家メンバーは読書や勉強、裁縫などに専念して音を立てないよう静かにしていた。表の建物の2階の事務所の社長室ではヴィクトール・クーフレル、その隣室の事務所ではミープ・ヒースヨハンネス・クレイマンベップ・フォスキュイルの3人が働いていた。また一階の倉庫では倉庫従業員のヴィレム・ファン・マーレンとランメルト・ハルトホ(Lammert Hartog)がスパイスを袋に詰める作業をしていた
  午前10時半ごろ、プリンセンフラハト263番地の前に1台の車が止まった。中から出てきたのは制服姿SD・ユダヤ人課のカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長と私服のオランダ人警察官数名であった。ジルバーバウアーらは建物の中に入ると倉庫従業員ファン・マーレンに「ユダヤ人はどこに隠れている?」と問うた。彼は指を一本立てて階上を指し示した。
  ジルバーバウアーたちは2階の事務所へ向かった。事務所に入るとオランダ人警官がミープ、クレイマン、ベップの3人に銃口を突きつけて「そのまま座っていろ。動くな!」と指示した。ジルバーバウアーらは石のように固まっている3人を無視してその隣室の社長室に入り、クーフレルの前に立った。オランダ人警察官の1人が「この建物にユダヤ人が匿われているはずだ。そのことは訴えがあってすでに分かっている。そこへ案内しろ」とクーフレルに指示した。クーフレルに打つ手はなく、観念した彼は、ジルバーバウアーたちを先導して階段を上り、3階の隠れ家に向かった。

  クーフレルが踊り場の突きあたりにある本棚を指さすと、オランダ人警察官たちはその本棚を調べて秘密の入り口を見つけた。ジルバーバウアーは銃を抜くとクーフレルの背に押し当て「入れ」と指示した。クーフレルが隠れ家に入るとフランク夫妻の部屋のテーブルに座っていたエーディトが目に入った。クーフレルは彼女に向かって「ゲシュタポが来た」と小さい声で呟いた。クーフレルの後ろからオランダ人警官が現れ、エーディトに銃を突きつけて「両手をあげろ」と指示した。オランダ人警官たちが続々と隠れ家に入ってきて家宅捜索を開始した。まず隣室のアンネの部屋にいたアンネとマルゴーが拘束され、つづいて4階のリビングルームにいたファン・ペルス夫妻とフリッツ・プフェファーが拘束された。最後に発見されたのがペーターの部屋で、ここではオットーがペーターに英語を教えているところだった。
  隠れ家メンバーの8人は全員手をあげさせられて入り口に近い3階のオットー夫妻の部屋に集められた。誰も声を出さなかったが、マルゴーだけは声を上げずに泣いていた。ジルバーバウアーは真っ先に貴重品を提出させて押収した。ジルバーバウアーが鞄を逆さにして中身をぶちまけた際に、中からはアンネの日記が床に落ちたが、アンネが何か言うことはなかった。ジルバーバウアーは武器の携帯の有無を尋ねたあと「5分以内に支度をしろ」と命じた。しかしジルバーバウアーはオットーが第一次世界大戦の際にドイツ軍中尉だったことを知ると態度が一変し、一瞬敬礼のポーズすら取りそうになったという。そして荷造りをしている隠れ家住人たちに「ゆっくりでいい」と指示し直している。
  クーフレルとクレイマンはジルバーバウアーたちに何を聞かれても答えなかったため、この2人も連行されることとなった。女性従業員と倉庫従業員は逮捕を免れた。  連行する人数が予想より多かったため、ジルバーバウアーはもう1台車を手配し、午後1時ごろに警察の護送車が到着した。10人ともこの護送車に乗せられ、アムステルダム南部ユーテルペ通りにあったゲシュタポ・SD本部に連行された
  逮捕を免れたミープ、ベップ、ファン・マーレン、駆けつけてきたヤン・ヒースらはSDに荒らされた隠れ家の整理にあたり、『アンネの日記』も拾い集められた。それらはミープが戦後まで保存した。
  SDは密告を受けて出動していた。この密告者が誰かについては今日に至るまで判明していない。倉庫係ヴィレム・ファン・マーレン、ランメルト・ハルトホ、もしくはその妻で掃除婦のレナ・ハルトホを疑う説もあるほか、2022年1月にはアメリカ連邦捜査局(FBI)の元捜査官や歴史家ら約20人で構成する研究チームが、ユダヤ人公証人アーノルト・ファンデンベルフが自らの家族を守るためフランク一家を裏切り密告したとする説を発表しているが、真相は不明である。密告者がはっきりしないことなどから、偽造された配給券の家宅捜索中だったSDが偶然に隠れ家を発見したのではないかという説も存在する。
  ゲシュタポ・SD本部に到着するとただちに、非ユダヤ人であるクーフレルとクレイマンは、ユダヤ人である隠れ家メンバーと引き離され、その日のうちに拘置所の方へ送られている。その後、この2人は当時ユダヤ人を助けた廉で逮捕された多くのオランダ人と同様にドイツ国内の労働収容所へ送られたが、それぞれ脱走・釈放によって市民生活に戻っている。
  一方隠れ家メンバーはゲシュタポ・SD本部で取り調べを受けた。取り調べではほかに潜伏しているユダヤ人についてを中心に聞かれたが、ずっと隠れ家生活をしていた8人が知るところではなかった。その日一晩はゲシュタポ・SD本部の監房で過ごすこととなった。翌日にはアムステルダムのウェテリングスハンスの拘置所に移され、ここで3日ほど過ごした。
ヴェステルボルク収容所
  1944年8月8日に隠れ家のユダヤ人8人はアムステルダム中央駅からオランダ北東のヴェステルボルク通過収容所へ移送された。オットー・フランクの回想によれば、この移送中にアンネは列車の窓から一度も離れず、外の光景を眺めていたという。アンネは都会っ子で田舎にはほとんど興味がなかったというが、この時には窓外の田園風景に釘付けだったという。
  1944年8月8日午後遅くにヴェステルボルク収容所に到着した。このヴェステルボルクはユダヤ人をポーランドアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ移送するまで一時的に拘留しておく通過収容所だった。ドイツ人の収容所所長もいたが、日常業務はユダヤ人被収容者の中から出されたリーダーの自治によって行われていた。そのため強制収容所と比べると比較的自由に行動することが許されており、収容所内には学校や孤児院、医療施設、宗教施設、娯楽施設、スポーツ施設なども存在していた。
  しかしフランク一家はじめ隠れ家メンバー8人は「有罪宣告を受けたユダヤ人」に分類され、政治犯として懲罰棟である第67号棟へ収容された。ここに収容される者は自由が大幅に制限されていた。男性は丸刈り、女性は短髪と定められており、アンネも髪を切られたものと思われる。ヴェステルボルクでフランク一家はド・ヴィンテル一家(父マヌエル、母ローザ、娘ユーディー)と親しくなった。ユーディーはアンネと同い年だった。ド・ヴィンテル一家もユダヤ人であり、潜伏生活を送ったあと、発見されて逮捕されていた。
  アンネ、マルゴー、エーディトは電池の分解作業に割り当てられていた。昼食はわずかなパンと水っぽいスープだけであった。ここでアンネたちは同じ作業を行っていたヤニーとリーンチェのブリレスレイペル姉妹と知り合った。リーンチェは「アンネとマルゴーはいつもお母さんのそばにいました。『アンネの日記』ではアンネはお母さんを手厳しく批判していますが、ちょっとした反抗期だったんじゃないでしょうか。収容所ではお母さんの腕にしがみついていました」と証言している。
  1944年9月3日、ヴェステルボルク収容所からの最後の移送列車がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向けて出発することとなった。アンネたちはこの列車に乗せられることとなった。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所
  1944年9月3日、隠れ家メンバー8人、ド・ヴィンテル一家、ヤニ-とリーンチェのブリレスレイペル姉妹はまとめてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向かう移送列車に乗せられた。移送中のアンネは、マルゴー、ペーター、ユーディーと一緒に話をしたり、ときどき小窓によじのぼって外の光景を眺めていたという
  3日後、列車はビルケナウ収容所に到着した。到着と同時に男女が分けられた。アンネは、父・オットーとはここで今生の別れとなった。さらにその後、SS医師団による働ける者と働けない者の選別が開始された。この移送でアウシュヴィッツへ送られてきた1,019人のうち、549人が労働不能と判断されてガス室送りとなった。しかしアンネたち隠れ家メンバーは、全員労働可能と認定され、ガス室送りを免れた。
  女子供はビルケナウ収容所の中にある女子収容施設へ入れられ、男性は3キロ離れた場所にあるアウシュヴィッツ強制収容所へ向けて歩かされた。アンネとマルゴーとエーディトは女子収容施設である第29号棟に入れられた。アウシュヴィッツでは男子も女子も丸刈りにしていたため、アンネも短髪から丸刈りにされた。またアウシュヴィッツでは囚人の左腕に囚人ナンバーの入れ墨を入れていた。アンネの左腕に入れられた正確な囚人番号は分かっていない。A25060からA25271までの間のいずれかの番号であった。
  ビルケナウでのアンネはエーディトとマルゴー、ローザとユーディーのド・ヴィンテル母子などと固まって暮らしていたという。まもなくアンネやマルゴーはシラミやダニに喰われて傷口が化膿した。エーディトは娘たちに献身的につくし、自分に支給されたパンも娘たちに分け与えていた。
  ソ連赤軍の接近に伴うアウシュヴィッツ強制収容所撤収作戦の一環で10月28日ベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送る者の選別が行われた。ローザ・ド・ヴィンテルによると選別を行ったのはヨーゼフ・メンゲレ親衛隊大尉であったという。この選別でアンネとマルゴーは母・エーディトと切り離されてベルゲン・ベルゼンへ送られることとなった。母・エーディトとはここで最期の別れとなった。ローザはこのときのアンネを「15歳と18歳、痩せこけて、裸でしたが、それでも堂々として選別デスクに向かいました。アンネはマルゴーを励まし、マルゴーは背筋をしっかり伸ばして、ライトの中を進みました。姉妹2人、裸で、丸坊主という姿でした。ふとアンネの目がこちらに向けられました。曇りのない目で、まっすぐこちらに視線を向けて、まっすぐ立って」と回想している。
ベルゲン・ベルゼン収容所での死
  アンネたちのベルゲン・ベルゼンへの移送は4日に及び、その間、食料はほとんど与えられず、アンネたちはますます弱っていった。到着したベルゲン・ベルゼン強制収容所は恐ろしく不潔な収容所で病が大流行していた。食料もほとんど与えられず、餓死者と病死者が続出する収容所だった。この収容所でアンネはチフスに罹患して命を落とすことになる。
  この収容所でアンネはリーンチェとヤニーのブリレスレイペル姉妹と再会したという。ブリレスレイペル姉妹はフランク姉妹より10歳以上年長だったが、同じアムステルダム出身であり、親しくなって一緒に過ごすようになったという。リーンチェはのちにこのときのアンネについて「アンネはよく就寝後に話を聞かせてくれた。姉のマルゴーも同様だった。馬鹿げた小話だの、ジョークだの、いつも4人(アンネ、マルゴー、リーンチェ、ヤニー)で交代で話し役を受け持った。たいがいは食べ物の話だった。アムステルダムのアメリカン・ホテルに行き、豪華なディナーを食べるという話をしていたところ、いきなりアンネが泣き出したことがあった。もう2度とあの街へ戻ることはできないだろうと考えたのだろう。みんなで空想のメニューをこしらえ、すばらしい御馳走を考え出した。そしてアンネはいつも言うのだった。『私にはまだ学ばなくちゃいけないことがたくさんある』と」と証言をしている。食事の話ばかりになったのは食料がますます減らされたためだった。リーンチェによるとアンネの顔は痩せこけて、まるで目だけになってしまったようだったという。

  1944年11月終わりにはアウグステ・ファン・ペルスがベルゲン・ベルゼンに移送されてきてアンネたちと再会した。アウグステは別の区画にアンネの親友ハンネがいたことをアンネに告げた。1945年初めには有刺鉄線越しだがアンネはハンネと再会できたという。2人は互いの無事を喜び涙を流しあったという。アンネはこのとき、ようやく実はスイスに亡命したのではなくて隠れ家で隠れていたことをハンネに打ち明けた。また両親とは離れ離れになったことを告げ、「私にはもう両親がいないの」と涙ながらに語っていたという。その後も3、4回会ったというが、2月末ごろからアンネの姿を見なくなったという。
  しかしこのころのアンネの詳細については、このような数少ない目撃者たちの断片的な証言を残すのみであり、はっきりとはしていない。体力の衰えた姉妹はやがてチフスにかかり、先にマルゴーが、2、3日遅れてアンネが息を引き取ったとされている。オランダ赤十字1945年3月31日を死亡日としているが、これは特定されたものではなく、生き残った者の証言などにより、それよりも早い2月の終わりか3月の始めごろに亡くなったものと推測される。
  友人たちのうち、スザンネ・レーデルマンやイルセ・ヴァーハネルも犠牲になったが、ハンネリ・ホースラル、ナネッテ・ブリッツ、ケーテ・エヘイェディは生還し、ジャクリーヌ・ファン・マールセンも戦後を迎えることができた。
没後
  隠れ家の住人はオットー・フランクを除いて全員が終戦を迎えることなく強制収容所の中で死亡した。アンネとマルゴーはベルゲン・ベルゼン強制収容所、エーディト・フランクはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ペーター・ファン・ペルスはマウトハウゼン強制収容所、ヘルマン・ファン・ペルスはアウシュヴィッツ強制収容所、フリッツ・プフェファーはノイエンガンメ強制収容所でそれぞれ死亡している。アウグステ・ファン・ペルスの死亡場所は不明である。
  オットー・フランクは、解放後にアムステルダムに戻った。日記を保存していたミープ・ヒースから娘・アンネの残した日記などの文書を遺品として渡された。この文書はオットーによってタイプし直され、関係者の間に私家版としてごく少数の者に配られた。やがてこれが評判を呼び、1947年に『後ろの家』(Het Achterhuis)というタイトルでオランダ語の初版が出版された。
  売れ行きは非常に好調で、ほどなく各国語に翻訳された。1950年にはドイツ語版とフランス語版が出版され、1952年5月英語版が出版された。日本語版は1952年に『光ほのかに アンネの日記』というタイトルで文藝春秋から出版されたのが最初である。イギリスではあまり売れなかったが、アメリカドイツフランス日本では発売とともに好調な売れ行きを示した。イギリスでは1954年ペーパーバック版になったあとに売れるようになった。

  1955年10月5日戯曲アンネの日記』がニューヨークブロードウェイで初演された。主演はスーザン・ストラスバーグ。彼女の友人のマリリン・モンローが観劇している。上演回数は1,000回を超えた。同演劇は1956年度のピューリッツァー賞トニー賞を獲得した
  1956年からヨーロッパでも上演された。特にドイツで重く受け止められた。100万人のドイツ人が観劇し、その効果でドイツでの『アンネの日記』の売り上げが急上昇し、ドイツ各地にアンネの名を冠した青少年団体や学校や通りが出現するようになった。オランダでは1956年11月27日にオランダ王室の臨席のもとで初上演された。そのオープニング・セレモニーにオットー・フランクミープ・ヒースヤン・ヒースベップ・フォスキュイル、ジャクリーヌ・ファン・マールセン(ジャック)らが出席している
  1957年にはアメリカの20世紀フォックス社が映画『アンネの日記』の撮影を開始した。大戦中にダッハウ強制収容所を解放したアメリカ軍部隊の兵士だったジョージ・スティーヴンスが監督を務めた。この映画は1959年4月16日にアムステルダムでユリアナ女王やベアトリクス王女臨席のもとに初公開された。
  隠れ家のあるアムステルダム・プリンセンフラハト263番地を含めた地域一帯がブローカーに買収され、さらに1957年5月には再開発予定地に組み込まれて、アンネの隠れ家のあった建物が取り壊されそうになった。取り壊しに反対する市民運動が巻き起こり、ユリアナ女王やアムステルダム市長も運動に参加し、オランダ国外からも寄付金が寄せられた。建物を所有していた不動産会社ベルクハウス社は市民の声に負け、「アンネ・フランクに捧げる」として隠れ家の建物をアムステルダム市に寄付した。アムステルダム市はアンネの隠れ家の建物の付近を「歴史地区」に指定し、保護することを市民に約束した。建物の保存と一般公開を目的として「アンネ・フランク財団」が設立され、1960年5月に同財団が建物の所有権を買い取り、博物館「アンネ・フランクの家」として一般公開を行っている。
  1980年8月19日にオットー・フランクはスイスバーゼルの自宅で死去した。オットーの遺言でアンネの書いたものはすべてオランダ政府に遺贈された。オランダ国立戦時資料研究所が1980年11月にアンネの日記の原稿を受け取っている
人物
  将来の夢は著名な作家になることであったが、多くの芸術家たちと同様、死して後その名が知られるようになった。2004年10月3日オランダの司法省は、ドイツからの亡命と同時に無国籍となり、国籍を持たないまま、この世を去っていった彼女にオランダの市民権を与えるべきという要望に、死後の市民権の付与は不可能という拒否解答を出した。彼女は、政治文化経済などでのオランダを代表する人物の中に以前から数えられているが、オランダ国籍や市民権が与えられたことはない。
  隠れ家でアンネはたくさんの本を読んだ。日記に出てくる本だけでも26冊にも及ぶ。初め文学の本に関心が強かったが、のちに伝記に関心を持つようになった。彼女が読んだ伝記はマリー・アントワネット、皇帝カール4世ルーベンスレンブラントフランツ・リストなどであった。父・オットーの勧めでゲーテシラーフリードリヒ・ヘッベルなどドイツ人古典作家の本もかなり読んだという。ドイツ古典はオットーがナチスから守りたかった世界であったという。
  隠れ家で日記を書き続けたアンネであるが、『アンネの日記』以外にもいくつかの短編小説を残しており、これらは現金出納簿の一冊に書かれていた。短編小説を書くのは1943年夏ごろから夢中になった彼女の趣味だった。アンネの書いた短編小説には、『じゃがいも騒動』『悪者!』などのような身近な題材の作品から、『カーチェ』『管理人の一家』『エーファの見た夢』など幻想的な作品まで幅広く存在する
アンネに由来する事物等・・・


沢田美喜
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沢田 美喜(1901年9月19日 - 1980年5月12日)は、日本の社会事業家。本名は澤田 美喜
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、外交官の沢田廉三と結婚。4人の子に恵まれる敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた。

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201511.2-文藝春秋-https://books.bunshun.jp/articles/-/3353
財閥令嬢・沢田美喜は戦後の混乱期に数多くの国際孤児を育てた
  テレビドラマ「サインはV」で、范文雀演じるジュン・サンダースが、エリザベス・サンダース・ホーム出身だったことを覚えているだろうか。
   戦後の混乱期に同園を造り、数多くの国際孤児を育てた沢田美喜は、明治三十四年(一九〇一年)生まれ。祖父は三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎。父は三菱財閥の三代目総帥、岩崎久弥男爵、母寧子は保科子爵家の出という令嬢だった。東京女子高等師範学校附属高等女学校を中退し、津田梅子らが家庭教師として指導した。
   大正十一年(一九二二年)クリスチャンの外交官、沢田廉三と結婚し、キリスト教徒となる。夫の転勤にしたがい、ロンドン、パリ、ニューヨークで生活する。昭和十一年(一九三六年)帰国。
   終戦に伴いGHQが進駐し、アメリカ兵を中心とした連合国軍兵士と日本人女性との間に数多くの国際孤児が誕生した。両親ばかりでなく、社会からも見放された彼らのために、沢田は、昭和二十三年、敷地一万五千坪の大磯の岩崎別邸内に、エリザベス・サンダース・ホームを開設する。財産税として物納されていたが、募金を集めて買い戻したのである。
  「なんにもなくなったときにはじめたでしょう。ですから、父からもなんにもしてもらえなかった。ただ、最初に子供を大磯へつれて行くとき、わたしが結婚式のときに使ったロールスロイスを貸してくれたんです。『なんにもしてやれないから、せめていい車で送ってやれ』って」(「週刊文春」昭和四十年十二月十三日号「大宅壮一 人物料理教室」より)
   孤児たちが就学年齢に達すると、ホーム内に小学校、中学校を設立した。学校名は、戦死した三男の洗礼名から、聖ステパノ学園と命名した。昭和三十七年、ブラジルのアマゾン川流域の開拓をすすめ、聖ステパノ農園を設立。ホームの卒園生が数多く移住した。こうした事業に私財をすべて投じたほかはほぼ寄付で運営し、手元には何も残らなかったという。
  「わたしの娘がお嫁に行くとき、指輪の一つ、やれませんでした。おばあさんが、なにか一つ残してくれといったんですが、とうとう残らなかったし……。御所(皇居)のおよばれのときにいただいた、銀のボンボン入れがありましたが、これだけは娘にやろうと思っていたんです。御紋がついていますし、売るわけにいきませんから。そしたら、なかの盗癖のある子が、みんな盗んで行っちゃった」(同)


森鴎外
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   文久2年1月19日1862年2月17日 ) - 1922年大正11年)7月9日)は、日本明治・大正期の小説家評論家翻訳家陸軍軍医軍医総監中将相当)、官僚高等官一等)。位階勲等従二位勲一等功三級医学博士文学博士。本名は森 林太郎
  石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。
  大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「」などを発表。乃木希典殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆した。
  晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館奈良国立博物館京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。

生涯
生い立ち
  1862年2月17日文久2年1月19日)、石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県津和野町町田)で生まれた。代々津和野藩典医を務める森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。
  藩医家の嫡男として、幼いころから論語孟子、オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。

  1872年明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳で父と上京。現在の墨田区東向島に住む。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備えてドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族・西周の邸宅に一時期寄宿した。翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある千住に移り住む。
陸軍軍医として任官
  1873年(明治6年)11月、入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学(新入生71名。後に首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)。定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長について漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩漢文に傾倒して和歌を作っていた。
  語学に堪能な外は、後年、執筆にあたって西洋語を用いるとともに、中国の故事などを散りばめた。さらに、自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で語源を西洋語の学習に役立てる逸話を記した。

  1881年(明治14年)7月4日、19歳で本科を卒業。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。その進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また小池と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者といわれる親友の賀古鶴所(かこ・つると)は、外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した

  妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家長唄を聴いて中座)していたという。
ドイツ留学
  入省して半年後の1882年(明治15年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初の軍医本部付となり、プロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事した。早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻を役所に納めた。1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。
  7月28日明治天皇に拝謁し、賢所に参拝。8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、10月7日フランスマルセイユ港に到着。同月11日に首都ベルリンに入った。鷗外は横浜からマルセイユに至る航海中のことを「航西日記(こうせいにっき)」に記している。
  最初の1年を過ごしたライプツィヒ(1884年11月22日–翌年10月11日)で、生活に慣れていない外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人たちであった。

  また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しく付き合い、ライプツィヒ大学ではホフマンなどよき師と同僚に恵まれた。演習を見るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館アルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロの「システィーナの聖母」を鑑賞した。
  次の滞在地ドレスデン(1885年10月11日–翌年3月7日)では、主として軍医学講習会に参加するため、5か月ほど生活した。王室関係者や軍人との交際が多く、王宮の舞踏会や貴族の夜会、宮廷劇場などに出入りした。その間、2人の大切な友人を得た。1人は外の指導者でザクセン王国軍医監のウィルヘルム・ロートで、もう1人は外国語が堪能な同僚軍医のヴィルケ(鷗外はヰルケと表記)である。外はドレスデンを離れる前日、ナウマンの講演に反論し、のちにミュンヘンの一流紙『Allgemeine Zeitung』上で論争となった。
  ミュンヘン(1886年3月8日–翌年4月15日)では、ミュンヘン大学ペッテンコーファーに師事した。研究のかたわら、邦人の少なかったドレスデンと異なり、同世代の原田直次郎近衛篤麿など名士の子息と交際し、よく観劇していた。
  次のベルリン(1887年4月16日–翌年7月5日)でも早速、北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座を経てコッホの衛生試験所に入った。当時の居室は現在森鷗外記念館として公開されている。

  9月下旬、カールスルーエで開催される第4回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に随行し、通訳官として同会議に出席。9月26・27日に発言し、とりわけ最終日の27日は「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった。
  会議を終えた一行は、9月28日ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加した。11日間の滞在中、外は恩師や知人と再会した。1888年(明治21年)1月、大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞されており、18日から田村怡与造大尉の求めに応じてクラウゼヴィッツの『戦争論』を講じた。留学が一年延長された代わりに、地味な隊付勤務(プロイセン近衛歩兵第2連隊の医務)を経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。ただし、後述するドイツ人女性と出会った都市でもあった。

  同年7月5日外は石黒とともにベルリンを発ち、帰国の途についた。ロンドン保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い、詩を4首贈った)やパリに立ち寄りながら、7月29日マルセイユ港を後にした。9月8日横浜港に着き、午後帰京。同日付で陸軍軍医学舎の教官に補され、11月には陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 - 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることはなかったとされる。鷗外はドイツ留学中のことを「獨逸日記」に記している。
初期の文筆活動
  1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆を務める民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」(署名は「S・S・S」(新声社の略記)を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円を元手に、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(日清戦争の勃発により59号で廃刊)。
  このように、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)熱心に評論的啓蒙活動を続けた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした「舞姫」を蘇峰の依頼により『国民之友』に発表した。続いて「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表したが、とりわけ日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。
  1889年(明治22年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)の美術解剖学講師を、1890年9月から約2年間東京専門学校の科外講師を、1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱)。
日清戦争出征と小倉「左遷」
  1894年(明治27年)夏、日清戦争の勃発により、8月29日に東京を離れ、9月2日に広島の宇品港を発った。翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団付きの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の外を訪ねた。
  との戦争が終わったものの、外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており(朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる)、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督樺山資紀らとともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。
  翌1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴斎藤緑雨と共に『』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)
  そのころより、評論的啓蒙活動が戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった1898年(明治31年)7月9日付『万朝報』の連載「弊風一斑 蓄妾の実例」の中で、児玉せきとの交情をあばかれた
1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第12師団軍医部長に「左遷」された。19世紀末から新世紀の初頭を過ごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。

  またドイツ留学中、田村怡与造に講じていた難解なカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』について、師団の将校たちに講義をするとともに、師団長・井上光などの依頼で翻訳を始めた。その内部資料は、他の部隊も求めたという。
  小倉時代に「圭角がとれ、胆が練れて来た」と末弟の森潤三郎が記述したように、その頃外は、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた
  私生活でも、徴兵検査の視察などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟と出会ったことを通し、特に後年の史伝につながる掃苔(探墓)の趣味を得た。
  新たな趣味を得ただけではなく、1900年(明治33年)1月に先妻(1889結婚、翌年離婚)・赤松登志子結核で死亡(再婚先)したのち、母の勧めるまま1902年(明治35年)1月、18歳年下の荒木志げと見合い結婚をした(41歳と23歳の再婚同士)。さらに、随筆『二人の友』に登場する友人も得た。1人は曹洞宗の僧侶、玉水俊虠(通称、安国寺)で、もう1人は同郷の俊才福間博である。2人は外の東京転勤とともに上京し、外の自宅近くに住み、交際を続けた
軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動
  1902年(明治35年)3月、第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。6月、廃刊になっていた『めざまし草』と上田敏の主宰する『芸苑』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。当時は、12月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲に関わる活動が目立っていた。
  1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争第2軍軍医部長として出征。
  1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権を持つ軍医のトップ)に就任した。
  同年9月、美術審査員に任じられ、第1回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任を務めた
1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、同誌に毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」などを同誌に載せ、「仮面」「静」などの戯曲を発表。『スバル』創刊年の7月、外は、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。しかし、直後に「ヰタ・セクスアリス」(同誌7月号)が発売禁止処分を受けた。しかも、内務省警保局長が陸軍省を訪れた8月、外は陸軍次官・石本新六から戒飭(かいちょく)された。同年12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。

  1910年(明治43年)、慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)し、慶應義塾大学幹事の石田新太郎の主導により、上田敏を顧問に、永井荷風を主幹にして、「三田文學」を創刊した。またその年には、5月に大逆事件の検挙が始まり、9月に『東京朝日新聞』が連載「危険なる洋書」を開始して6回目に外と妻の名が掲載され、また国内では南北朝教科書問題が大きくなりつつあった。そうした閉塞感が漂う年に「ファスチェス」で発禁問題、「沈黙の塔」「食堂」では社会主義無政府主義に触れるなど政治色のある作品を発表した。
  1911年(明治44年)にも「カズイスチカ」「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始。同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義というものは本来ないと思う。」としたうえで、

無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。
  結んだ。
  また陸軍軍医として、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、陸軍次官の石本新六と激しく対立した。ついに医務局長の外が石本に辞意を告げる事態になった。結局のところ陸軍では、医学優先の人事が継続された。階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の外の主張が通った背景の一つに、山縣有朋の存在があったと考えられている。
  1912年(明治45年)から翌年にかけて、五条秀麿を主人公にした「かのやうに」「吃逆」「藤棚」「鎚一下」の連作を、また司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた「鼠坂」などを発表した。当時は、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。もっとも公務のかたわら、『ファウスト』などゲーテの3作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説も続けていた。
  1912年大正元年)8月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、外独自の小説作品の最初のもの」である「羽鳥千尋」を発表。翌9月13日乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を書き終えた。
  これを機に歴史小説に進み、歴史其儘の「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」「高瀬舟」などのあと、史伝「渋江抽斎」に結実した。ただし、1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。1916年(大正5年)には、後世の外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した。
晩年
1916年(大正5年)4月、任官時の年齢が低いこともあり、トップの陸軍省医務局長を8年半勤めて退き、予備役に編入された。その後、1918年(大正7年)12月、帝室博物館(現:東京国立博物館)総長兼図書頭、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。
  さらに1918年(大正7年)9月、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長に就任した。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の元号考証・編纂に着手した。しかし『帝諡考』は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見い出した吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の『元号考』の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出した。
  1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付き添うなか、腎萎縮肺結核のために死去。満60歳没。
  (余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス)
  で始まる最後の遺言7月6日付)が有名であり、その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻された。上京した際に住んだ鷗外ゆかりの地である向島の弘福寺に埋葬され、遺言により中村不折墓碑銘を筆した。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。なお、関東大震災後、東京都三鷹市禅林寺と出生地の津和野町の永明寺に改葬された。
人物評
評論的啓蒙活動
  外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老をはじめ専門医は誰も相手にしなかったが、鷗外は新聞記者などを相手にして6年ほど論争を続けた。
  外の論争癖を発端として論争が起きたこともある。逍遥が『早稲田文学』にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このような形で外が関わってきた論争は「戦闘的啓蒙主義」などと好意的に評されることもあるが、医学論文、文学論文いずれも先進国から得た知識のひけらかしにしかなっていないことから、論争とも啓蒙とも程遠いものであり、鷗外は必死になって論点のすり替えやあげ足取りを続けたものの、石橋忍月坪内逍遙高山樗牛らに完敗してしまった。30歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的活動は、穏健なものに変わっていったことから、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。
幅の広い文芸活動と交際
  肩書きの多いことに現れているように、外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集「於母影」(共訳)と、1892年明治25年)–1901年(明治34年)に断続的に発表された「即興詩人」とが初期の代表的な仕事である。「於母影」は明治詩壇に多大な影響を与えており、「即興詩人」は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地を周る文学青年(正宗白鳥など)が続出した。
  戯曲の翻訳も多く(弟の竹二が責任編集を務める雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた。
  ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」を作っており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない

  翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象になった。単なる訳者にとどまらない外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた。その外は、上記の通り東京美術学校(現東京芸術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や帝国美術院初代院長などを務めた
  交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった夏目漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。

  文学者・文人に限っても、訳詩集「於母影」は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人を招いて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月まで続いた。伊藤左千夫平野万里上田敏佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋吉井勇石川啄木木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)。
  また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が外)やらいてうや純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した。その外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(「安井夫人」、戯曲「静」、「花子」、翻訳戯曲「ノラ」(イプセン作「人形の家」))。
  晩年、『東京日日新聞』に連載した「澀江抽齋」「伊澤蘭軒」は読者および編集者からの評判が非常に悪く、なかでも「北条霞亭」は連載を途中で打ち切られるなど、その評価は必ずしも芳しいものではなかった。没後、新潮社と他二社とが全集18巻の刊行を引き受けたので、かろうじて面目が立った。1936年(昭和11年)、木下杢太郎ら鷗外を敬愛する文学者らの尽力によって岩波書店から鷗外全集が漱石全集と並んで刊行され、権威があると思われるようになった。
軍医として
  外は東京帝國大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であった。医学先進国のドイツに4年間留学した。留学中に執筆した二本の論文「日本兵食論」および「日本兵食論大意」は、師のホフマンらの研究論文と1882年(明治15年)頃の日本国内論文を種本に切り貼りして書かれ臨床実験もまったく行われていない論文捏造だった。帰国した1889年(明治22年)8月–12月には陸軍兵食試験の主任を務めた。
  その試験は、当時の栄養学の最先端に位置していた。日清戦争と日露戦争に出征した外は、小倉時代を除くと、常に東京で勤務、それも重要なポジションに就いており、最終的に軍医総監中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権を握るトップの陸軍省医務局長にまで上りつめた。

  ビタミンの存在が知られていなかった当時、軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について、医学界の主流を占めた伝染病説に同調した。また、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯について、日本海軍の多くと日本陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麦飯と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的に)証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度をとり、麦飯を禁止する通達を出したこともあった。外が麦飯支給に否定的だった一因として、日本国内の麦の生産量が少なく自給できていないということが挙げられる。
  数十万人単位で存在する陸軍の兵食は、国内で自給できる食物で賄うべきだという考えは一概に否定されるものではない。そもそも、外は「日本兵食論大意」において「米食と脚気の関係有無は余敢て説かず」としている。
  外自身はあくまで陸軍軍医として兵食の栄養学的研究を行っていただけで、脚気の研究をしていたわけではない。鷗外は脚気の原因についての確たる理論や信念を持っておらず、門外漢であるがゆえに、当時の学術的権威の説(これが間違っていたのだが)を採用したのではないかと思われる。

  日露戦争では、1904年(明治37年)4月8日第2軍の戦闘序列(指揮系統下)にあった鶴田第1師団軍医部長、横井第3師団軍医部長が「麦飯給与の件を森(第2軍)軍医部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎日露戦役従軍日誌』)との記録が残されている(ちなみに第2軍で脚気発生が最初に報告されたのは6月18日)。
  その「返事なし」は様々な解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部が決め、勅令(天皇名)によって指示された戦時兵食「白米6」を遵守した。結果的に、陸軍で約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となった。
  脚気問題について外は、陸軍省医務局長に就任した直後から、臨時脚気病調査会の創設(1908年・明治41年)に動いた。
  脚気の原因解明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、多くの研究者が招聘され、多額の予算(陸軍費)が注ぎ込まれた。予算に制約がある中、「脚気ビタミン欠乏説」がほぼ確定して廃止(1924年・大正13年)されたものの、その後の脚気病研究会の母体となった。外が創設に動いた臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台を作り、ビタミン研究の基礎を築いたと位置づける見解がある。
  反面、「その十六年間の活動は、脚気栄養障害説=ビタミンB欠乏症(白米原因)説に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけにあったようなものであった」と否定的にとらえる見解もある。
  なお、晩年の外は、同調査会で調査研究中の「脚気の原因」について態度を明らかにしなかった。
脚気惨害をめぐる議論
  陸軍の脚気惨害をめぐって、外の責任に関しての議論は絶えない。批判だけでなく擁護論もあり、鷗外は脚気被害をなくすため腐心し、後世に貢献したとする。そのうち外への批判として、(副食物 が貧弱な)米食を麦食に変えると脚気が激減する現象が多く見られたにもかかわらず、麦食を排除し続けた姿勢について激しい非難がある。
   また、鷗外が岡崎桂一郎著『日本米食史 - 附食米と脚気病との史的関係考』(1912年)に寄せた序文で「私は臨時の脚気病調査会長になって(中略)米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している事実から、鷗外は脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、あえてそれを排除し、細菌原因説に固執して、調査会の結論を遅らせていたとの指摘もある。外を擁護するものとして、以下の見解がある。
  陸軍の脚気惨害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任を負う大本営陸軍部の野戦衛生長官(日清戦争では石黒忠悳、日露戦争では小池正直)ではなく、隷下の一軍医部長を矢面に立たせることへの疑問。

  外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判については、日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として、軍の輸送能力に問題があり、また脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとの指摘である。
  その別のものとは、白米飯は当時の庶民が憧るご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情とされる。

  外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したとの批判については、兵食試験の内容(当時の栄養学に基づく栄養試験であり、脚気問題と無関係の試験)を上官の石黒忠悳に歪められたためとの見解を示した。
  以上を端的に言えば、外が脚気問題で批判される多くは筋違いとの見解である。ただし、そもそも建軍当初は金銭で支払われていた兵士への食費が仕送りなどに化けて(必要な食事を採らず)兵士の栄養状態が悪化したことから「必要なカロリーと栄養を任務として摂取する」ための給食へと変化した経緯がある以上、現場指揮官の情などというものは部下を健康に保つという任務を果たした上での話でしかなく、兵士の健康を保つためであれば軍として輸送能力を確保するのが本筋であり、輸送能力や医学的素養の無い現場の「情」を口実とするのはそれこそ筋違いであり、兵士を健康に保つ軍医としての任務を果たしたとは到底言えない。以下に外への批判の主なものを記す。

  海軍の兵食改良を徹底して非難したこと。外は留学先からわざわざ高木を非難する論文まで送っており、これは日本国内における脚気栄養説への攻撃にも利用された。コッホが細菌を発見するまで人類は病気のメカニズムすら把握していなかった。
  海軍や高木が行い、陸軍でも日露戦争開戦前に取り入れて成果の挙がっていた「原因は(当時は)わからないが結果として脚気が治る」という対症療法を認めなかった、あるいは軍の輸送能力や現場からの要求という「情」を持ち出してむしろ後退させた結果が、日露戦争での陸軍の脚気死亡者27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)となって現れた。
  日露戦争での戦没者は88,429人、脚気などの戦病死以外の、戦死戦傷死者は55,655人に上るが、ロシア側には「歩行もままならない幽鬼のような日本兵」が当時の新兵器である機関銃を備えた陣地に無謀な攻撃を仕掛け、なすすべもなく撃ち倒されたという記録がある。戦病死よりもまだ名誉の戦死の方がマシであると兵士や現地指揮官に思わせ、無為な戦死者を生んだ原因は、陸軍軍医部上層部の脚気根絶の無理解、あるいは栄養説への反発と保身にあった。
  論理にこだわり過ぎて、学術的権威に依拠し過ぎたこと。原因が判明しないまま全軍に取り入れることはできないというのは一面で正しいものの見方であるが、経験が蓄積され、あるいは研究が進展してからもなお細菌説に固執した。

  外は自身同様にコッホに師事した北里柴三郎が「脚気細菌説は誤り」とした時、これを批判した。北里がペスト菌を発見した際もこれを痛烈に批判している。軍医、しかも高官にまで出世する立場にあるならば、ビタミンなどの微小栄養素が発見前であることから原因の説明ができない高木の栄養説を攻撃する前に、徴兵主体の兵士の健康を確保するべきであったが、外にとってそれは重要ではなかった。
  コッホの助言によって東南アジアでの同種の栄養素欠乏症であるベリベリの調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という手法が日本にも導入された。この結果、細菌説の支持者だった臨時脚気病調査会の委員が栄養説へ転向したが、会長の外はこれを罷免した。また麦飯派の寺内が求めた麦飯の効能の調査については、栄養の問題そのものを調査会の活動方針から排除した。

  日清戦争時に上官の石黒に同調したこと。石黒は日清戦争当時に土岐頼徳からの麦飯支給の稟議を握りつぶし、日清戦争後の台湾の平定(乙未戦争)でも白米の支給を変えてはならないと通達した。石黒自身は、脚気を根絶可能とし、実際に患者を減らした海軍と異なり「脚気根絶は甚だ困難」という談話さえ発表している。土岐が台湾で独断の麦飯支給で脚気の流行を鎮めると、軍規違反を問うて即刻帰京させ、5年後に予備役に追い込んだが軍法会議は開かなかった。
  軍法会議を開いた場合、軍規違反を起こした士官の上官としての統率責任と、そもそもなぜ軍規違反に至ったかの経緯が公になるためである。しかし石黒が隠そうとした「麦飯で脚気が減った」経緯を知る元台湾鎮台司令官の高島鞆之助は陸軍大臣になると石黒を辞任させた。外が同調した上官とはこのような人物であり、同じ陸軍の軍医が麦飯で脚気を減らしてもなお高木の栄養説の欠陥を批判するのみで、脚気患者を減らすことを目的とした対策は採らず、日露戦争での膨大な戦病死を惹起した。
  日本で脚気の原因が栄養にあることが認められたのは海外での研究の結果であり、海外での成果が確定すると細菌説の支持者も自らの間違いを認めざるを得なくなった。外が初代会長を務めた臨時脚気病調査会は原因が栄養であるという国内での研究の阻害こそすれ、その研究に貢献したとは言い難いものであったと言われる所以である。
  ただし、当時の日本は年間で1万から2万人が脚気によって死亡しており、またコレラの流行で4万人が死亡するなど病死の捉え方、あるいは生命の価値というものが現代とは大きく異なる部分があった。脚気が即死するような病でないこともあり、「パンや麦飯を食うぐらいなら、死んだほうがマシ」という声は少なくなかった。日本で脚気患者が根絶といってよい程度に激減するのは、ビタミンを薬品として大量供給できるようになった1960年代以降のことである。


山口真由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


山口 真由(1983年7月6日 - )は、日本の弁護士、ニューヨーク州弁護士、信州大学特任准教授。元財務官僚

人物
  札幌市に生まれ、両親と妹は医師である。札幌市立真駒内中学校卒業。筑波大学附属高等学校で学び、東京大学法学部を卒業した。大学在学中は、男子ラクロス部でマネージャーを務め、履修科目は全ての評価が優で、3年次に旧司法試験合格し、4年次に「法学部における成績優秀者」として総長賞を受け、2006年3月に首席で卒業した。
  大学卒業後、財務省へ入省し主税局に配属されたが2008年に退官し、弁護士登録後、2014年まで長島・大野・常松法律事務所にてアソシエイト弁護士として勤務し、主に企業買収等の企業法務を担当した。2016年ハーバード大学法科大学院LL.M.を取得
  タレントとしてテレビ番組へ出演するなどしているが、大学院に入学し研究者を目指している。 「家族法」が研究対象
  2017年より日米財団主催の日米リーダーシップ・プログラムの日本代表メンバー(任期2年)。
  2020年信州大学特任准教授就任。
経歴
  ・2002年 - 筑波大学附属高等学校卒業。
  ・2002年 - 東京大学教養学部文科Ⅰ類に入学。
  ・2004年 - 3年次に司法試験に合格。
  ・2005年 - 4年次に国家公務員採用Ⅰ種試験(法律)合格。
  ・2006年 - 東京大学法学部を首席で卒業。平成17年度東京大学総長賞(学業)を受賞。
  ・2006年 - 財務省入省、主税局配属。
  ・2008年 - 財務省を依願退官。
  ・2009年 - 弁護士登録(62期、第一東京弁護士会
  ・2009年 - 長島・大野・常松法律事務所アソシエイト。(2015年まで)
  ・2015年 9月 - ハーバード大学ロースクール入学。
  ・2016年 8月 - ハーバード大学ロースクールでLL.M.を取得。
  ・2017年 4月 - 東京大学大学院 法学政治学研究科 総合法政専攻 博士課程に入学
  ・2017年 6月 - ニューヨーク州弁護士登録[1]
  ・2020年 3月 - 東京大学大学院 法学政治学研究科 総合法政専攻 博士課程を修了。博士(法学)
  ・2020年 4月 - 信州大学先鋭領域融合研究群社会基盤研究所 特任准教授







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