世界の文化-1



2020.9.18-https://seiron-sankei.com/taisyoukokuti
正論大賞

  自由と民主主義のために闘う「正論路線」を発展させた言論活動に贈られる正論大賞に、日本財団会長の笹川陽平氏(80)が決まった。新進気鋭の言論人に贈られる正論新風賞には評論家、江崎道朗氏(57)が、正論大賞特別賞に台湾・元総統、李登輝氏(96)が選ばれた。笹川氏、江崎氏はともに産経新聞「正論」執筆メンバー。
  正論大賞は今回が35回目、新風賞は20回目。笹川氏は年頭の「正論」欄で「中国古典にとらわれず新元号を」と主張し、元号が初めて日本の古典(国書)から採用される流れをつくったほか、「対外情報発信態勢の確立を」「人材育成に偉人教育の活用を」など国の将来を見据えた言論活動を展開。またハンセン病抑圧活動を始めとする、40年以上にわたる慈善活動も「正論大賞」にふさわしいとされた。
  江崎氏は安全保障、インテリジェンス、近現代史を専門とする気鋭の論客で、東京裁判史観からの脱却やヴェノナ文書で裏づけられる大東亜戦争の真相など、最新歴史研究を取り込んだ言論活動で日本の論壇に新風を吹き込む姿勢が評価の対象となった。
  李氏は中国共産党との間で硬軟とり交ぜた政治手腕を発揮し、「哲人政治家」として東アジアの歴史に大きな足跡を残した。また日本統治時代の大正12(1923)年に台湾で生まれ、旧制台北高校を経て京都帝国大学(現・京大)で学び、戦後の日本人が失った「公」のために尽くす純粋な日本精神を持ち続け、さらに台湾で民主化を推し進めた信念は正論大賞特別賞にふさわしいとされた。
  正論大賞の正賞はブロンズ彫刻「飛翔(ひしょう)」(御正進(みしょう・すすむ)氏制作)で副賞は賞金100万円、新風賞の正賞は同「ソナチネ」(小堤良一(おづつみ・りょういち)氏制作)で副賞は賞金50万円。特別賞の正賞は同「あゆみ」(小堤氏制作)。


2020.1.25-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200125/k10012259001000.html
中村哲医師のお別れ会 5000人が参列 福岡

先月、アフガニスタンで銃撃され亡くなった医師の中村哲さんの「お別れ会」が出身地の福岡市で開かれ、およそ5000人が別れを惜しみました。
  医師の中村哲さんは、福岡市のNGO「ペシャワール会」の現地代表として、アフガニスタンで長年、人道支援と復興に力を尽くしてきましたが、先月4日、東部ナンガルハル州ジャララバードを車で移動中に何者かに銃撃され亡くなりました。
  25日は、「お別れ会」が福岡市早良区の西南学院大学のチャペルで開かれ、遺族や全国各地の支援者など合わせておよそ5000人が参列しました。
  黙とうのあと、ペシャワール会の村上優会長があいさつし、「中村先生の精神・魂は今でも私たちの心の中に強く大きく存在しています。先生の意志を共有し、継続してご支援いただけるようお願いいたします」と時折、声を震わせながら呼びかけました。
  また、中村さんの長男の健さんは「『口だけでなく行動で示せ』という父のことばを心に刻み、一歩一歩、前に進んでいきたい」と述べました。
  このあと、献花が行われ、参列した人たちが中村さんや中村さんとともに亡くなった運転手などの遺影に静かに花を手向けていました。
  10年余り前、中村さんと一緒に現地で働いたという滋賀県の70代の男性は「安らかにと、祈りました。ペシャワール会の活動は今後も変わらず支援していきたい」と話していました。
事件後の「ペシャワール会」の対応
  中村さんが現地代表を務めた福岡市のNGO「ペシャワール会」では、事件で中断したかんがい事業の本格的な再開を目指して事務局の担当者がほぼ毎日、電話かメールで現地スタッフの責任者と連絡を取り合い、治安の状況などを確認しています。
  情報収集とともに安全確保に向けた取り組みも進めていて、先月下旬、現地の州政府に対して用水路の建設現場などでの警備の強化を要請したほか、今月22日には治安当局から事務所の警備態勢について助言を受けたということです。
  ただ、中村さんたちが活動してきた地域には反政府武装勢力などの影響力が強いところもあることなどから、ペシャワール会はしばらく様子を見たいとしていて、村上優会長は「州政府の協力があるから100%安全と言えるわけではないので、安全を確認しながら一歩一歩、前に進めていく」と話しています。
犯人の特定には至らず
  銃撃事件の背景について、地元当局の複数の関係者は、中村さんが建設を進めていた農業用水路の水の利権をめぐるトラブルが関係したのではないかという見方や、武装グループが中村さんをアフガニスタン政府の協力者とみなして犯行に及んだのではないかという見方を示していますが、依然、不透明なままです。
  ナンガルハル州の警察は、地元の男2人から事情を聴くとともに、自宅から押収した武器や弾薬などを分析して調べを進めています。だだ、男らはこれまでのところ、事件との関連について一切、話していないということです。
  また、この2人とは別に、政府の情報機関「国家保安局」も複数の男から事情を聴いていますが、事件との関連については話しておらず、犯人の特定には至っていないということです。
アフガニスタン 治安の悪化に歯止めかからず
  アフガニスタンでは2001年、同時多発テロ事件の首謀者、オサマ・ビンラディン容疑者をかくまっていたとして、アメリカが軍事作戦に踏み切り、当時のタリバン政権を崩壊させました。
  その後、治安は一時、回復傾向にありましたが、2014年にアメリカ軍を中心とする国際部隊の大部分が撤退して以降、タリバンが反政府武装勢力として盛り返しているほか、過激派組織IS=イスラミックステートの地域組織も台頭しています。
  タリバンやISが軍の施設や政府機関などをねらったテロや襲撃を繰り返す中、多くの民間人が犠牲となっていて、国連によりますと、おととし、テロや襲撃に巻き込まれて死亡した民間人は3800人余りに上り、調査を始めた2009年以降、最悪となっています。
  また、死者とけが人をあわせた数は、5年連続で1万人を超えています。
  このうち、中村さんが銃撃された東部ナンガルハル州は、伝統的にタリバンの影響力の強い地域の1つでしたが、ここ数年は、パキスタンとの国境の山岳地帯にISが拠点を設けています。
  こうした中、ナンガルハル州では、外国人などの援助関係者が、武装グループから襲撃されたり、誘拐されたりするケースが後を絶ちません。
  ジャララバードでは、おととし1月に国際的なNGO「セーブ・ザ・チルドレン」の事務所が襲撃され6人が死亡したほか、首都カブールでも去年11月にUNDP=国連開発計画の車両が襲撃され、援助関係者1人が死亡するなど、治安の悪化に歯止めがかからない状態が続いています。

生まれた子の名は“ナカムラ”
  アフガニスタンでは、中村さんの功績を忘れてはならないとして、生まれた子どもに「ナカムラ」と名付けた人がいます。首都カブールに住むサミウラ・マランさん(39)です。
  サミウラさんは、中村さんが農業用水路の建設などかんがい事業を手がけた東部クナール州の出身で、以前から中村さんたちの活動に感謝の気持ちを抱いていたということです。
  中村さんの銃撃事件を知り、「国の復興に力を尽くした中村さんの功績を忘れてはならない」として、事件2日後の先月6日に生まれた男の子を「ナカムラ・ムスリムヤール」と名付けました。
  4人きょうだいの三男として生まれたナカムラちゃんには、「中村さんのように、アフガニスタンのために一生懸命に働く人物になってほしい」と願いを込めたといいます。
医療や農業支援は再開 灌漑事業は中断
  中村さんは、現地に診療所を設立し、地元の人たちに医療支援を行ってきました。
  こうした医療支援は、事件を受けて中断していましたが、先月中旬から少しずつ再開しています。
  東部ナンガルハル州のダラエヌールに設けられた診療所では、アフガニスタン人の医師と看護師などが、ほぼ毎日24時間態勢で診療を行っています。
  冬場のこの時期には、かぜの症状を訴える子どもや女性が後を絶たないほか、出産のため診療所を訪れる女性も多いということです。子どもを連れて訪れた20代の女性は、「診療所が再開して本当にうれしいです。これまで薬がもらえず、苦労したので、大変、助かります」と話していました。
  さらに、中村さんは、地元の人たちの収入を安定させようと、農業支援も行ってきました。
  こうした中村さんの遺志を受け継いだ人がいます。アジマル・スタネクザイさん(40)です。
  18年前、中村さんと出会ったのをきっかけに、ペシャワール会が支援する現地のNGOの中心メンバーとして、数々のプロジェクトに関わってきました。
  「途絶えかけた活動を再び軌道に乗せたい」として、今月に入ってから農作物の手入れや植林の現場などでの指導を再開しました。
  アジマルさんが今、力をいれているのが、オレンジなどかんきつ類の栽培です。
  従来の小麦や野菜のほかに栽培する作物を増やせば、地元の人たちの収入の増加につながるとして、生前、中村さんが重視していたといいます。
  アジマルさんは、「中村さんの夢は、乾いた大地に水を引き、雇用をつくり、貧困をなくすことでした。彼の遺志をついで支援を続けていきます」と固い決意を話していました。
  ただ、中村さんが活動の最大の柱としていた農業用水路の建設など、かんがい事業の再開は本格化していません。
  中村さんは、用水路によって水を安定的に供給し、農業の生産性を高めてもらおうという目標を掲げていました。
  しかし、銃撃事件をきっかけに事業は中断。用水路の建設現場などには、大型機械やトラックが残されたままとなっています。
  今月に入り、護岸工事など比較的小規模な工事は一部で再開されたものの、用水路の建設など大がかりな工事には着手できていません。
  最大の懸案は現地の治安です。中村さんたちが活動してきた地域には、タリバンやISなどの影響力が強いところもあり、安全を見極めるのが難しいのです。
  現場の近くに住む50代の男性は、「事業が中断してとても残念です。プロジェクトが再開されることを期待しています」と話していました。
  また、アジマルさんは、「私たちの最大の心配は、治安状況です。ナンガルハル州では特に悪くなっています。状況を見ながら、慎重に事業を進めていきます」と話していました。


2020.1.4-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200104/k10012234901000.html?utm_int=detail_contents_news-related_001
中村さん銃撃から1か月 農業用水路建設など再開求める声

  アフガニスタンで医師の中村哲さんが銃撃され、死亡した事件から4日で1か月です。犯人に結び付く有力な手がかりがない中、事件の影響で、中村さんが進めていた農業用水路の建設などはほとんど中断し、地元の住民からは工事の再開を求める声が高まっています。
  この事件は先月4日、アフガニスタン東部のナンガルハル州で、福岡市のNGO「ペシャワール会」の現地代表の医師、中村哲さん(73)が車で移動中に何者かに銃撃され、死亡したものです。
  地元の警察は2人の男から事情を聴くとともに、自宅から押収した武器や弾薬などを分析して調べを進めていますが、男らはこれまでのところ、事件との関連については話していないということです。
  またこの2人とは別に政府の情報機関「国家保安局」の関係者もNHKの取材に対し、複数の男から事情を聴いていることを認めていますが、犯人に結び付く有力な手がかりは得られていないとしています。
  一方、事件の影響で中村さんが進めていた農業用水路の建設や護岸工事などの活動はほとんど中断しています。
  こうした活動は農業の安定につながるとして高く評価されていただけに、地元の住民からは工事の再開を求める声が高まっています。
  このためペシャワール会では現地での安全を確保したうえで速やかに活動を再開したいとして、今月、ペシャワール会の関係者がアフガニスタンの現地スタッフと面会し、今後の活動方針などを話し合うことにしています。
犠牲になった運転手や警備員の遺族
悲しみは今も事件が起きた当時、中村さんに同行していて犠牲になった車の運転手や警備員の遺族は今も悲しみに包まれています。
  このうち中村さんの運転手を10年以上務め、事件に巻き込まれて死亡したザイヌラさんの弟のルトゥフラさんは「兄は父が亡くなった後、一家の大黒柱として家族を支え続けました」と述べ、家計を支えた兄を突然失った悲しみを語りました。
  また中村さんの人柄について、「中村さんはどんなに危険な場所でも懸命に働き、地元の人たちのために力を尽くしていたと兄は何度も私に話していました」と述べたうえで、「このような残忍な犯罪が再び起きないよう、アフガニスタン政府は一刻も早く犯人を捕まえてほしい」と話していました。
  一方、中村さんの警備を担当していたサイード・ラヒミさんの父親のカーンさんは「息子はわが家を一生懸命支えてくれたすばらしい子どもでした。息子の死を考えると、悲しくて本当にやりきれない思いでいっぱいです」と述べました。
  そのうえで、「一家の大黒柱を失い、将来がとても不安です。息子の子どもは学校に通っていますが、将来、通えなくなるかもしれません」と今の心境を語りました。



2019.12.10(火)-https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4361/index.html
中村 哲 医師 - 貫いた志 -

  アフガニスタンで銃撃され亡くなった中村哲医師ソ連による侵攻、激しい内戦、アメリカなどによる空爆、そして相次ぐテロと、大国や国際情勢に振り回され続けてきたアフガニスタンにあって自らの信念に基づき翻弄される人々を救う活動をしてきた。当初は診療所を開いたものの「背景にある貧困解決が不可欠だ」と医療支援から干ばつや貧困対策へと移行。近年は治安が悪化し、支援団体が次々と撤退する中でも「現地から本当のニーズを提言していく」と現地での活動を続けてきた。貴重な記録や関係者へのインタビューも交えて、中村哲医師が貫いた信念を見つめる。

“武力ではテロはなくならない”
2001年のアメリカ同時多発テロ事件。
中村さんは、その後一貫して武力によるテロとの戦いに疑問を投げかけてきました。
アメリカ ブッシュ大統領(当時)
テロリストたちに、正義をつきつけようではないか。」
アメリカなどが、オサマ・ビンラディン容疑者が潜伏しているとして、アフガニスタンに攻撃を仕掛けます。
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  「医者、用水路を拓く」(中村哲 著)より(要約)
“ジャララバードから緊急の電話があり、米国でのテロ事件を伝えられた。テレビが、未知の国「アフガニスタン」を騒々しく報道する。ブッシュ大統領が「強いアメリカ」を叫んで報復の雄叫びを上げ、米国人が喝采する。瀕死の小国に、世界中の超大国が束になり、果たして何を守ろうとするのか、素朴な疑問である。”

中村さんの信念、・・・それは、1983年からパキスタン、そして、アフガニスタンで活動する中で培われていたものでした。
中村哲医師
「おじいさん、大丈夫ですか?」・・・当初、現地で診療所を開設するなど、医療支援を行っていた中村さん。しかし、みずからの力の限界を知ることになります。干ばつによる水不足が深刻化し、多くの子どもたちが命を落としていたのです。
中村哲医師
「水が汚い。下痢なんかで簡単に子どもが死んでいく。そういう状態を改善すれば、医者を100人連れてくるより水路1本作ったほうがいい。」根源にある問題を解決しなければ、この惨状は変えられない。その考えはテロについても同じでした。
中村哲医師
「(難民が)想像以上ですね。」・・・中村さんは、武力ではテロは断ち切れない、その背景にある貧困の問題を解決しなければならないと考えていたのです。
中村哲医師
「家族を食わせるために米軍のよう兵になったり、タリバン派、反タリバン派の軍閥のよう兵になったりして食わざるを得ない。家族がみんな一緒にいて、飢きんに出会わずに安心して食べていけることが、何よりも大きな願い、望み。」・・・2003年、中村さんは貧困問題を解決しようと、新たな活動を始めます。
中村哲医師
「前より、だいぶ水量が増えている。」・・・山々の氷河を源流とする、アフガニスタン有数の大河、クナール川。干ばつでも枯れることがない、この川の水を引き込む用水路を作ることにしたのです。
緑の大地計画。・・・川から用水路を引き、水が届かない地域を潤します。全長20km以上。周辺の土地と砂漠を農地に変えていく、壮大な計画です。
資金もノウハウもない中、手探りの作業が続きました。川の流れを変え、水路に水を呼び込むための工事。遠く離れた山から巨大な石を転がして運び、次々と入れていきます。当時、作業に加わっていた山口敦史さんです。困難な作業を推し進める力は、中村さん自身の姿勢から生み出されていたといいます。
  作業に加わっていた 山口敦史さん・・・「雪解け水なんで、本当に冷たい。そこに石が落ちていたら、石が用水路を傷つけるからといって自らどけに入る。そんな見ていたら、水が冷たくても飛び込んで一緒に取りに行かないわけにはいけない。そういう雰囲気を作っていたのは、中村先生の姿。」
  次第に、現地の人たちに変化が現れ始めます。タリバンの戦闘員だった人や、米軍に雇われていた人たちが武器をつるはしに持ち替え、協力するようになってきたのです。・・・「自分たちの手で国を立ち直らせたい。また農業をやりたいんだ。」、「農業ができるようになれば、子どもに食べさせることができる。出稼ぎに行かずに、家族と一緒に暮らせるんだ。」
ペシャワール会 会報より
“アフガン問題とは、政治や軍事問題ではなく、パンと水の問題である。「人々の人権を守るために」と空爆で人々を殺す。果ては「世界平和」のために戦争をするという。いったい何を何から守るのか。こんな偽善と茶番が長続きするはずはない。”用水路完成に向けて、作業を続けていた中村さん。その上空を、アメリカ軍のヘリコプターが行き交うようになりました。
中村哲医師
  「攻撃用っていうんですかね。それが旋回してきて、ここを機銃掃射したわけですね。危なかった。」アメリカは、アフガニスタンへの空爆を継続。誤爆も相次ぎ、民間人の死者が急増します。一方、タリバンは爆弾テロなどで対抗。治安は一段と悪化していきました。日本は、テロとの戦いの一環として、インド洋で海上自衛隊による給油活動を行っていました。
  欧米の支援団体と差別化でき、安全につながると中村さんたちが車につけてきた日の丸。かえって危険を招くと感じ、消すようになりました。
ペシャワール会 会報より
“「日本だけが何もしないで良いのか、国際的な孤児になる」ということを耳にします。だが、今熟考すべきは「先ず、何をしたらいけないか」です。民衆の半分が飢えている状態を放置して、「国際協調」も「対テロ戦争」も、うつろに響きます。”

“仲間の死”それでも続けた活動・・・2008年8月。中村さんにとって、衝撃的な事件が起きます。5年にわたり活動をともにしてきた仲間を、武装グループに殺害されたのです。
伊藤和也さん
2001年の同時多発テロ事件をきっかけに、中村さんの志に共感し、活動に加わっていました。中村さん伊藤さんへの追悼文で決意の言葉を寄せていました。
「アフガニスタンの大地とともに 伊藤和也 遺稿・追悼文集」より
“今、必要なのは、憎しみの共有ではありません。憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓い、心から祈ります。”
  (伊藤和也さんの母 順子さん「これを3つ、先生が持ってきてくださった。」)
和也さんが亡くなったあと、クナール川の石を中村さんが届けてくれました。中村さんは、和也さんの志とともに、みずからの信念を貫くと伝えていました。
  伊藤和也さんの母 順子さん(「ここでやめたら、和也の遺志とか、先生が描いていらっしゃるものが揺らぐ。揺らいでしまったら、和也を殺した人たちとか、いろいろな人たちのことを思うと、絶対ここではやめてはいけない。」)
中村さんは、事件のあともアフガニスタンに残りました。現地のスタッフとともに用水路の完成を急ぎ、工事は最終段階に入りました。
中村哲医師・・・「6年前に作業を始めて以来、あなたたちは懸命に働いてくれました。雨の日も強い日ざしの中も。この用水路が未来への希望となることを願っています。」、一方、アメリカはアフガニスタンへの兵力の増強を打ち出します。・・・アメリカ オバマ大統領(当時)・・・「アルカイダは、せん滅させなければならない。今、この地域を見捨てれば、アルカイダに対する圧力を弱め、アメリカや同盟国を攻撃されるリスクを生み出しかねない。」
ペシャワール会 会報より
“作業地の上空を、盛んに米軍のヘリコプターが過ぎてゆく。彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。彼らはいかめしい重装備。我々は埃だらけのシャツ一枚だ。彼らに分からぬ幸せと喜びが、地上にはある。”着工から7年。総延長25.5kmの用水路が完成しました。
かつて、死の谷と呼ばれた干からびた土地。それが緑の大地へと姿を変えました。ふるさとを離れていた人たちが次々と戻り始め、大地の恵みが育まれていきました。
・・・現地の男性-「人は忙しく仕事をしていれば、戦争のことなど考えません仕事がないから、お金のために戦争に行くんですおなかいっぱいになれば、誰も戦争など行きません。」・・・中村さんは用水路が見える農場に、和也さん功績をたたえる碑を建てました。
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2年前に両親に会いに来た中村さん。ある約束を交わしていました。・・・伊藤和也さんの母 順子さん(「一度でいいから、和也のいたアフガニスタンに行きたいんですけど、連れてっていただけますかと言った時に、『いまはちょっと危険だから、いつか必ずお父さんとお母さんはお連れしますから、もう少し待っててくださいね』と言ってくださったんです。」・・・後日、中村さんから現地の写真と手紙が送られてきました。両親のもとに頻繁に通えないことへのおわびと、(現地の「その後」の様子を伝えていました。)・・・伊藤和也さんの母 順子さん(「本当なら何度もお伺いして、ご報告を申し上げるところって書いている時に、先生はその(和也の)思いを常に持っててくださったとわかって。この手紙が、最後に先生からいただいた言葉だと思うと、なんとも言えない気持ちになります。」)
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いま戦争をしている暇はない”・・・テロとの戦いが長期化する中で、中村さんが過去最悪と言うほど、現地の治安は悪化していきました。
アメリカ オバマ大統領(当時)・・・「アメリカにとって最良の日だ。ビンラディンの死で、世界に安全がもたらされた。」2011年5月。アメリカは、10年越しで追ってきた同時多発テロ事件の首謀者、オサマ・ビンラディン容疑者の潜伏先を襲撃し、殺害しました。
    3年後の2014年。アフガニスタンの治安維持などにあたってきた、アメリカ軍を中心とする国際部隊の大部分が撤退しました。
その後、力の空白が生じたアフガニスタンでは、タリバンが勢力を盛り返し、過激派組織ISの地域組織も台頭。軍の施設や政府機関を狙ったテロなどが繰り返し発生し、民間人の死傷者は、去年まで5年続けて年間1万人を超えるようになりました。
ことし10月に取材した際の中村さんです。・・・このころには、銃を携えた警備員を同行させるなど、安全管理に細心の注意を払わなければいけなくなっていました。
中村哲医師・・・「これからも、みんなと手をつないでアフガニスタンのために努力していきます。」
中村哲医師・・・「アフガニスタンは40年間戦争が続いていますが、いまは戦争をしている暇はない。敵も味方も一緒になって、アフガニスタンの国土を回復する時期だ。できるだけ多く緑を増やし、砂漠を克服して人々が暮らせる空間を広げること。これはやって、絶対できない課題ではない。」

最後まで、みずからの信念を貫き通した中村さん
先週、武装した何者かに銃撃され、命を落としました
その日も、作業現場に向かう途中でした


2020.4.3-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200403/k10012366491000.html
難問「ABC予想」京大教授が証明 専門家「歴史に残る成果」

  世界の数学者が30年余り挑戦して解くことができなかった難問、「ABC予想」について、京都大学は数理解析研究所に所属する教授が証明したと発表しました。専門家は「数学の歴史に残る成果だ」としています。
  「ABC予想」は、ヨーロッパの数学者が提唱した整数の性質についての難問で、数学における多くの未解決な難題を解く手がかりになるとして、30年余りにわたって多くの数学者が証明を試みてきましたが、これまで成功した人はいませんでした。
  京都大学数理解析研究所の望月新一教授(51)「ABC予想」を証明したとする4本の論文を書き、複数の研究者が審査する数学専門の科学雑誌に掲載されることになったことから、3日、京都大学が会見を開き、望月教授が「ABC予想」を証明したと発表しました。
  この4本の論文は、望月教授が1人で築いた新しい理論を使って「ABC予想」を証明したとしていて、8年前に自身のホームページで公表するとともに、科学雑誌の審査が行われていました。
  しかし、この論文は従来の数学の概念や理論の枠組みを離れ、全体で600ページという数学としては異例の長さの論文だったため、審査は長期間に及んでいました。
  この間、海外の一部の研究者から論文の正しさについて指摘などがあり、望月教授は論文の修正を重ね、今回の掲載につなげたということです。
  会見に出席した数理解析研究所の教授は「証明したことに間違いがないと言ってかまわない。『ABC予想』は根本的な問題で、証明できたことは非常に大きなインパクトがある」と話しました。
  この分野を専門とする東京工業大学の加藤文元教授は「非常に独創的な新しい論文で、何百年に一回の数学の歴史に残る成果だ」と評価しています。

望月教授 みずから築いた新理論で証明
  「ABC予想」は1985年にヨーロッパの数学者によって提唱された数学の難問です。
  「ABC予想」は、1630年代に提唱され、解決までに300年以上かかった「フェルマーの最終定理」や、1850年代に提唱され、150年以上たった今も未解決の「リーマン予想」に匹敵する数学の難問とされ、証明できれば今世紀最大級の成果になるとも言われてきました。
  「ABC予想」は、整数の足し算とかけ算の間にある特別な関係を証明することで、整数の性質を明らかにしようというものです。
  具体的には正の整数のaとbで「a+b=c」が成り立つ時、a、b、cそれぞれを素因数分解した時に現れる異なる素数をかけ合わせたdとcの間には特別な関係が成り立つことを証明します。
  これによって、まだ分からないことが多い整数の性質をとけることにつながるため、これまで多くの数学者が証明に挑んできましたが、誰も成し遂げられずにいました。
  今回、望月教授は、「宇宙際タイヒミュラー理論」=「IUT理論」と呼ばれる新しい理論を1人で築き、この理論を使って「ABC予想」を証明したということです。
  「IUT理論」は前提となる概念から独自に作り出すなど、これまでの数学とは全く異なる枠組みで理論を構成しています。
  また、4本の論文全体で600ページという数学としては異例の長さの論文だったため審査は長期間におよび、論文の掲載までにおよそ8年かかりました。
  一方で、以前から論文の正しさに疑問を投げかけていた研究者も海外を中心に存在していて、望月教授は自身のホームページなどで、新しい枠組みの議論を一から始めて、一つずつ受け入れてもらいたいとしています。


沢田美喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

沢田 美喜(1901年9月19日 - 1980年5月12日)は、日本の社会事業家。本名は澤田 美喜
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、外交官の沢田廉三と結婚。4人の子に恵まれる敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた。

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201511.2-文藝春秋-https://books.bunshun.jp/articles/-/3353
財閥令嬢・沢田美喜は戦後の混乱期に数多くの国際孤児を育てた
  テレビドラマ「サインはV」で、范文雀演じるジュン・サンダースが、エリザベス・サンダース・ホーム出身だったことを覚えているだろうか。
   戦後の混乱期に同園を造り、数多くの国際孤児を育てた沢田美喜は、明治三十四年(一九〇一年)生まれ。祖父は三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎。父は三菱財閥の三代目総帥、岩崎久弥男爵、母寧子は保科子爵家の出という令嬢だった。東京女子高等師範学校附属高等女学校を中退し、津田梅子らが家庭教師として指導した。
   大正十一年(一九二二年)クリスチャンの外交官、沢田廉三と結婚し、キリスト教徒となる。夫の転勤にしたがい、ロンドン、パリ、ニューヨークで生活する。昭和十一年(一九三六年)帰国。
   終戦に伴いGHQが進駐し、アメリカ兵を中心とした連合国軍兵士と日本人女性との間に数多くの国際孤児が誕生した。両親ばかりでなく、社会からも見放された彼らのために、沢田は、昭和二十三年、敷地一万五千坪の大磯の岩崎別邸内に、エリザベス・サンダース・ホームを開設する。財産税として物納されていたが、募金を集めて買い戻したのである。
  「なんにもなくなったときにはじめたでしょう。ですから、父からもなんにもしてもらえなかった。ただ、最初に子供を大磯へつれて行くとき、わたしが結婚式のときに使ったロールスロイスを貸してくれたんです。『なんにもしてやれないから、せめていい車で送ってやれ』って」(「週刊文春」昭和四十年十二月十三日号「大宅壮一 人物料理教室」より)
   孤児たちが就学年齢に達すると、ホーム内に小学校、中学校を設立した。学校名は、戦死した三男の洗礼名から、聖ステパノ学園と命名した。昭和三十七年、ブラジルのアマゾン川流域の開拓をすすめ、聖ステパノ農園を設立。ホームの卒園生が数多く移住した。こうした事業に私財をすべて投じたほかはほぼ寄付で運営し、手元には何も残らなかったという。
  「わたしの娘がお嫁に行くとき、指輪の一つ、やれませんでした。おばあさんが、なにか一つ残してくれといったんですが、とうとう残らなかったし……。御所(皇居)のおよばれのときにいただいた、銀のボンボン入れがありましたが、これだけは娘にやろうと思っていたんです。御紋がついていますし、売るわけにいきませんから。そしたら、なかの盗癖のある子が、みんな盗んで行っちゃった」(同)


森鴎外
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

   文久2年1月19日1862年2月17日 ) - 1922年大正11年)7月9日)は、日本明治・大正期の小説家評論家翻訳家陸軍軍医軍医総監中将相当)、官僚高等官一等)。位階勲等従二位勲一等功三級医学博士文学博士。本名は森 林太郎
  石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。
  大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「」などを発表。乃木希典殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆した。
  晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館奈良国立博物館京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。

生涯
生い立ち
  1862年2月17日文久2年1月19日)、石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県津和野町町田)で生まれた。代々津和野藩典医を務める森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。
  藩医家の嫡男として、幼いころから論語孟子、オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。
  1872年明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳で父と上京。現在の墨田区東向島に住む。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備えてドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族・西周の邸宅に一時期寄宿した。翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある千住に移り住む。
陸軍軍医として任官
  1873年(明治6年)11月、入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学(新入生71名。後に首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)。定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長について漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩漢文に傾倒して和歌を作っていた。
  語学に堪能な外は、後年、執筆にあたって西洋語を用いるとともに、中国の故事などを散りばめた。さらに、自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で語源を西洋語の学習に役立てる逸話を記した。
  1881年(明治14年)7月4日、19歳で本科を卒業。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。その進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また小池と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者といわれる親友の賀古鶴所(かこ・つると)は、外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した
  妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家長唄を聴いて中座)していたという。
ドイツ留学
  入省して半年後の1882年(明治15年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初の軍医本部付となり、プロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事した。早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻を役所に納めた。1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日明治天皇に拝謁し、賢所に参拝。8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、10月7日フランスマルセイユ港に到着。同月11日に首都ベルリンに入った。鷗外は横浜からマルセイユに至る航海中のことを「航西日記(こうせいにっき)」に記している。
  最初の1年を過ごしたライプツィヒ(1884年11月22日–翌年10月11日)で、生活に慣れていない外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人たちであった。
  また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しく付き合い、ライプツィヒ大学ではホフマンなどよき師と同僚に恵まれた。演習を見るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館アルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロの「システィーナの聖母」を鑑賞した。
  次の滞在地ドレスデン(1885年10月11日–翌年3月7日)では、主として軍医学講習会に参加するため、5か月ほど生活した。王室関係者や軍人との交際が多く、王宮の舞踏会や貴族の夜会、宮廷劇場などに出入りした。その間、2人の大切な友人を得た。1人は外の指導者でザクセン王国軍医監のウィルヘルム・ロートドイツ語版で、もう1人は外国語が堪能な同僚軍医のヴィルケ(鷗外はヰルケと表記)である。外はドレスデンを離れる前日、ナウマンの講演に反論し、のちにミュンヘンの一流紙『Allgemeine Zeitung』上で論争となった。
  ミュンヘン(1886年3月8日–翌年4月15日)では、ミュンヘン大学ペッテンコーファーに師事した。研究のかたわら、邦人の少なかったドレスデンと異なり、同世代の原田直次郎近衛篤麿など名士の子息と交際し、よく観劇していた。
  次のベルリン(1887年4月16日–翌年7月5日)でも早速、北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座を経てコッホの衛生試験所に入った。当時の居室は現在森鷗外記念館として公開されている。
  9月下旬、カールスルーエで開催される第4回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に随行し、通訳官として同会議に出席。9月26・27日に発言し、とりわけ最終日の27日は「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった。
  会議を終えた一行は、9月28日ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加した。11日間の滞在中、外は恩師や知人と再会した。1888年(明治21年)1月、大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞されており、18日から田村怡与造大尉の求めに応じてクラウゼヴィッツの『戦争論』を講じた。留学が一年延長された代わりに、地味な隊付勤務(プロイセン近衛歩兵第2連隊の医務)を経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。ただし、後述するドイツ人女性と出会った都市でもあった。
  同年7月5日外は石黒とともにベルリンを発ち、帰国の途についた。ロンドン保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い、詩を4首贈った)やパリに立ち寄りながら、7月29日マルセイユ港を後にした。9月8日横浜港に着き、午後帰京。同日付で陸軍軍医学舎の教官に補され、11月には陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 - 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることはなかったとされる。鷗外はドイツ留学中のことを「獨逸日記」に記している。
初期の文筆活動
  1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆を務める民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」(署名は「S・S・S」(新声社の略記)を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円を元手に、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(日清戦争の勃発により59号で廃刊)。
  このように、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)熱心に評論的啓蒙活動を続けた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした「舞姫」を蘇峰の依頼により『国民之友』に発表した。続いて「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表したが、とりわけ日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。
  1889年(明治22年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)の美術解剖学講師を、1890年9月から約2年間東京専門学校の科外講師を、1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱)。
日清戦争出征と小倉「左遷」
  1894年(明治27年)夏、日清戦争の勃発により、8月29日に東京を離れ、9月2日に広島の宇品港を発った。翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団付きの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の外を訪ねた。
  との戦争が終わったものの、外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており(朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる)、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督樺山資紀らとともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。
  翌1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴斎藤緑雨と共に『』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)
  そのころより、評論的啓蒙活動が戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった1898年(明治31年)7月9日付『万朝報』の連載「弊風一斑 蓄妾の実例」の中で、児玉せきとの交情をあばかれた
1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第12師団軍医部長に「左遷」された。19世紀末から新世紀の初頭を過ごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。
  またドイツ留学中、田村怡与造に講じていた難解なカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』について、師団の将校たちに講義をするとともに、師団長・井上光などの依頼で翻訳を始めた。その内部資料は、他の部隊も求めたという。
  小倉時代に「圭角がとれ、胆が練れて来た」と末弟の森潤三郎が記述したように、その頃外は、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた
  私生活でも、徴兵検査の視察などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟と出会ったことを通し、特に後年の史伝につながる掃苔(探墓)の趣味を得た。
  新たな趣味を得ただけではなく、1900年(明治33年)1月に先妻(1889結婚、翌年離婚)・赤松登志子結核で死亡(再婚先)したのち、母の勧めるまま1902年(明治35年)1月、18歳年下の荒木志げと見合い結婚をした(41歳と23歳の再婚同士)。さらに、随筆『二人の友』に登場する友人も得た。1人は曹洞宗の僧侶、玉水俊虠(通称、安国寺)で、もう1人は同郷の俊才福間博である。2人は外の東京転勤とともに上京し、外の自宅近くに住み、交際を続けた
軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動
  1902年(明治35年)3月、第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。6月、廃刊になっていた『めざまし草』と上田敏の主宰する『芸苑』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。当時は、12月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲に関わる活動が目立っていた。
  1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争第2軍軍医部長として出征。
  1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権を持つ軍医のトップ)に就任した。
  同年9月、美術審査員に任じられ、第1回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任を務めた
1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、同誌に毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」などを同誌に載せ、「仮面」「静」などの戯曲を発表。『スバル』創刊年の7月、外は、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。しかし、直後に「ヰタ・セクスアリス」(同誌7月号)が発売禁止処分を受けた。しかも、内務省警保局長が陸軍省を訪れた8月、外は陸軍次官・石本新六から戒飭(かいちょく)された。同年12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。
  1910年(明治43年)、慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)し、慶應義塾大学幹事の石田新太郎の主導により、上田敏を顧問に、永井荷風を主幹にして、「三田文學」を創刊した。またその年には、5月に大逆事件の検挙が始まり、9月に『東京朝日新聞』が連載「危険なる洋書」を開始して6回目に外と妻の名が掲載され、また国内では南北朝教科書問題が大きくなりつつあった。そうした閉塞感が漂う年に「ファスチェス」で発禁問題、「沈黙の塔」「食堂」では社会主義無政府主義に触れるなど政治色のある作品を発表した。
  1911年(明治44年)にも「カズイスチカ」「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始。同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義というものは本来ないと思う。」としたうえで、

無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。
  結んだ。
  また陸軍軍医として、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、陸軍次官の石本新六と激しく対立した。ついに医務局長の外が石本に辞意を告げる事態になった。結局のところ陸軍では、医学優先の人事が継続された。階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の外の主張が通った背景の一つに、山縣有朋の存在があったと考えられている。
  1912年(明治45年)から翌年にかけて、五条秀麿を主人公にした「かのやうに」「吃逆」「藤棚」「鎚一下」の連作を、また司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた「鼠坂」などを発表した。当時は、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。もっとも公務のかたわら、『ファウスト』などゲーテの3作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説も続けていた。
  1912年大正元年)8月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、外独自の小説作品の最初のもの」である「羽鳥千尋」を発表。翌9月13日乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を書き終えた。
  これを機に歴史小説に進み、歴史其儘の「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」「高瀬舟」などのあと、史伝「渋江抽斎」に結実した。ただし、1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。1916年(大正5年)には、後世の外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した。
晩年
1916年(大正5年)4月、任官時の年齢が低いこともあり、トップの陸軍省医務局長を8年半勤めて退き、予備役に編入された。その後、1918年(大正7年)12月、帝室博物館(現:東京国立博物館)総長兼図書頭、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。
  さらに1918年(大正7年)9月、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長に就任した。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の元号考証・編纂に着手した。しかし『帝諡考』は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見い出した吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の『元号考』の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出した。
  1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付き添うなか、腎萎縮肺結核のために死去。満60歳没。
  (余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス)
  で始まる最後の遺言7月6日付)が有名であり、その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻された。上京した際に住んだ鷗外ゆかりの地である向島の弘福寺に埋葬され、遺言により中村不折墓碑銘を筆した。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。なお、関東大震災後、東京都三鷹市禅林寺と出生地の津和野町の永明寺に改葬された。
人物評
評論的啓蒙活動
  外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老をはじめ専門医は誰も相手にしなかったが、鷗外は新聞記者などを相手にして6年ほど論争を続けた。
  外の論争癖を発端として論争が起きたこともある。逍遥が『早稲田文学』にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このような形で外が関わってきた論争は「戦闘的啓蒙主義」などと好意的に評されることもあるが、医学論文、文学論文いずれも先進国から得た知識のひけらかしにしかなっていないことから、論争とも啓蒙とも程遠いものであり、鷗外は必死になって論点のすり替えやあげ足取りを続けたものの、石橋忍月坪内逍遙高山樗牛らに完敗してしまった。30歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的活動は、穏健なものに変わっていったことから、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。
幅の広い文芸活動と交際
  肩書きの多いことに現れているように、外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集「於母影」(共訳)と、1892年明治25年)–1901年(明治34年)に断続的に発表された「即興詩人」とが初期の代表的な仕事である。「於母影」は明治詩壇に多大な影響を与えており、「即興詩人」は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地を周る文学青年(正宗白鳥など)が続出した。
  戯曲の翻訳も多く(弟の竹二が責任編集を務める雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた。
  ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」を作っており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない
  翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象になった。単なる訳者にとどまらない外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた。その外は、上記の通り東京美術学校(現東京芸術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や帝国美術院初代院長などを務めた
  交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった夏目漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
  文学者・文人に限っても、訳詩集「於母影」は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人を招いて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月まで続いた。伊藤左千夫平野万里上田敏佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋吉井勇石川啄木木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)。
  また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が外)やらいてうや純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した。その外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(「安井夫人」、戯曲「静」、「花子」、翻訳戯曲「ノラ」(イプセン作「人形の家」))。
  晩年、『東京日日新聞』に連載した「澀江抽齋」「伊澤蘭軒」は読者および編集者からの評判が非常に悪く、なかでも「北条霞亭」は連載を途中で打ち切られるなど、その評価は必ずしも芳しいものではなかった。没後、新潮社と他二社とが全集18巻の刊行を引き受けたので、かろうじて面目が立った。1936年(昭和11年)、木下杢太郎ら鷗外を敬愛する文学者らの尽力によって岩波書店から鷗外全集が漱石全集と並んで刊行され、権威があると思われるようになった。
軍医として
  外は東京帝國大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であった。医学先進国のドイツに4年間留学した。留学中に執筆した二本の論文「日本兵食論」および「日本兵食論大意」は、師のホフマンらの研究論文と1882年(明治15年)頃の日本国内論文を種本に切り貼りして書かれ臨床実験もまったく行われていない論文捏造だった。帰国した1889年(明治22年)8月–12月には陸軍兵食試験の主任を務めた。その試験は、当時の栄養学の最先端に位置していた。日清戦争と日露戦争に出征した外は、小倉時代を除くと、常に東京で勤務、それも重要なポジションに就いており、最終的に軍医総監中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権を握るトップの陸軍省医務局長にまで上りつめた。
  ビタミンの存在が知られていなかった当時、軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について、医学界の主流を占めた伝染病説に同調した。また、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯について、日本海軍の多くと日本陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麦飯と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的に)証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度をとり、麦飯を禁止する通達を出したこともあった。外が麦飯支給に否定的だった一因として、日本国内の麦の生産量が少なく自給できていないということが挙げられる。数十万人単位で存在する陸軍の兵食は、国内で自給できる食物で賄うべきだという考えは一概に否定されるものではない。そもそも、外は「日本兵食論大意」において「米食と脚気の関係有無は余敢て説かず」としている。外自身はあくまで陸軍軍医として兵食の栄養学的研究を行っていただけで、脚気の研究をしていたわけではない。鷗外は脚気の原因についての確たる理論や信念を持っておらず、門外漢であるがゆえに、当時の学術的権威の説(これが間違っていたのだが)を採用したのではないかと思われる。
  日露戦争では、1904年(明治37年)4月8日第2軍の戦闘序列(指揮系統下)にあった鶴田第1師団軍医部長、横井第3師団軍医部長が「麦飯給与の件を森(第2軍)軍医部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎日露戦役従軍日誌』)との記録が残されている(ちなみに第2軍で脚気発生が最初に報告されたのは6月18日)。その「返事なし」は様々な解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部が決め、勅令(天皇名)によって指示された戦時兵食「白米6」を遵守した。結果的に、陸軍で約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となった。
  脚気問題について外は、陸軍省医務局長に就任した直後から、臨時脚気病調査会の創設(1908年・明治41年)に動いた。
  脚気の原因解明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、多くの研究者が招聘され、多額の予算(陸軍費)が注ぎ込まれた。予算に制約がある中、「脚気ビタミン欠乏説」がほぼ確定して廃止(1924年・大正13年)されたものの、その後の脚気病研究会の母体となった。外が創設に動いた臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台を作り、ビタミン研究の基礎を築いたと位置づける見解がある。
  反面、「その十六年間の活動は、脚気栄養障害説=ビタミンB欠乏症(白米原因)説に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけにあったようなものであった」と否定的にとらえる見解もある。
  なお、晩年の外は、同調査会で調査研究中の「脚気の原因」について態度を明らかにしなかった。
脚気惨害をめぐる議論
  陸軍の脚気惨害をめぐって、外の責任に関しての議論は絶えない。批判だけでなく擁護論もあり、鷗外は脚気被害をなくすため腐心し、後世に貢献したとする。そのうち外への批判として、(副食物 が貧弱な)米食を麦食に変えると脚気が激減する現象が多く見られたにもかかわらず、麦食を排除し続けた姿勢について激しい非難がある。また、鷗外が岡崎桂一郎著『日本米食史 - 附食米と脚気病との史的関係考』(1912年)に寄せた序文で「私は臨時の脚気病調査会長になって(中略)米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している事実から、鷗外は脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、あえてそれを排除し、細菌原因説に固執して、調査会の結論を遅らせていたとの指摘もある[24]外を擁護するものとして、以下の見解がある。
  陸軍の脚気惨害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任を負う大本営陸軍部の野戦衛生長官(日清戦争では石黒忠悳、日露戦争では小池正直)ではなく、隷下の一軍医部長を矢面に立たせることへの疑問。
  外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判については、日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として、軍の輸送能力に問題があり、また脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとの指摘である。その別のものとは、白米飯は当時の庶民が憧るご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情とされる。
  外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したとの批判については、兵食試験の内容(当時の栄養学に基づく栄養試験であり、脚気問題と無関係の試験)を上官の石黒忠悳に歪められたためとの見解を示した。
  以上を端的に言えば、外が脚気問題で批判される多くは筋違いとの見解である。ただし、そもそも建軍当初は金銭で支払われていた兵士への食費が仕送りなどに化けて(必要な食事を採らず)兵士の栄養状態が悪化したことから「必要なカロリーと栄養を任務として摂取する」ための給食へと変化した経緯がある以上、現場指揮官の情などというものは部下を健康に保つという任務を果たした上での話でしかなく、兵士の健康を保つためであれば軍として輸送能力を確保するのが本筋であり、輸送能力や医学的素養の無い現場の「情」を口実とするのはそれこそ筋違いであり、兵士を健康に保つ軍医としての任務を果たしたとは到底言えない。以下に外への批判の主なものを記す。
  海軍の兵食改良を徹底して非難したこと。外は留学先からわざわざ高木を非難する論文まで送っており、これは日本国内における脚気栄養説への攻撃にも利用された。コッホが細菌を発見するまで人類は病気のメカニズムすら把握していなかった。海軍や高木が行い、陸軍でも日露戦争開戦前に取り入れて成果の挙がっていた「原因は(当時は)わからないが結果として脚気が治る」という対症療法を認めなかった、あるいは軍の輸送能力や現場からの要求という「情」を持ち出してむしろ後退させた結果が、日露戦争での陸軍の脚気死亡者27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)となって現れた。日露戦争での戦没者は88,429人、脚気などの戦病死以外の、戦死戦傷死者は55,655人に上るが、ロシア側には「歩行もままならない幽鬼のような日本兵」が当時の新兵器である機関銃を備えた陣地に無謀な攻撃を仕掛け、なすすべもなく撃ち倒されたという記録がある。戦病死よりもまだ名誉の戦死の方がマシであると兵士や現地指揮官に思わせ、無為な戦死者を生んだ原因は、陸軍軍医部上層部の脚気根絶の無理解、あるいは栄養説への反発と保身にあった。
  論理にこだわり過ぎて、学術的権威に依拠し過ぎたこと。原因が判明しないまま全軍に取り入れることはできないというのは一面で正しいものの見方であるが、経験が蓄積され、あるいは研究が進展してからもなお細菌説に固執した。外は自身同様にコッホに師事した北里柴三郎が「脚気細菌説は誤り」とした時、これを批判した。北里がペスト菌を発見した際もこれを痛烈に批判している。軍医、しかも高官にまで出世する立場にあるならば、ビタミンなどの微小栄養素が発見前であることから原因の説明ができない高木の栄養説を攻撃する前に、徴兵主体の兵士の健康を確保するべきであったが、外にとってそれは重要ではなかった。コッホの助言によって東南アジアでの同種の栄養素欠乏症であるベリベリの調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という手法が日本にも導入された。この結果、細菌説の支持者だった臨時脚気病調査会の委員が栄養説へ転向したが、会長の外はこれを罷免した。また麦飯派の寺内が求めた麦飯の効能の調査については、栄養の問題そのものを調査会の活動方針から排除した。
  日清戦争時に上官の石黒に同調したこと。石黒は日清戦争当時に土岐頼徳からの麦飯支給の稟議を握りつぶし、日清戦争後の台湾の平定(乙未戦争)でも白米の支給を変えてはならないと通達した。石黒自身は、脚気を根絶可能とし、実際に患者を減らした海軍と異なり「脚気根絶は甚だ困難」という談話さえ発表している。土岐が台湾で独断の麦飯支給で脚気の流行を鎮めると、軍規違反を問うて即刻帰京させ、5年後に予備役に追い込んだが軍法会議は開かなかった。軍法会議を開いた場合、軍規違反を起こした士官の上官としての統率責任と、そもそもなぜ軍規違反に至ったかの経緯が公になるためである。しかし石黒が隠そうとした「麦飯で脚気が減った」経緯を知る元台湾鎮台司令官の高島鞆之助は陸軍大臣になると石黒を辞任させた。外が同調した上官とはこのような人物であり、同じ陸軍の軍医が麦飯で脚気を減らしてもなお高木の栄養説の欠陥を批判するのみで、脚気患者を減らすことを目的とした対策は採らず、日露戦争での膨大な戦病死を惹起した。
  日本で脚気の原因が栄養にあることが認められたのは海外での研究の結果であり、海外での成果が確定すると細菌説の支持者も自らの間違いを認めざるを得なくなった。外が初代会長を務めた臨時脚気病調査会は原因が栄養であるという国内での研究の阻害こそすれ、その研究に貢献したとは言い難いものであったと言われる所以である。ただし、当時の日本は年間で1万から2万人が脚気によって死亡しており、またコレラの流行で4万人が死亡するなど病死の捉え方、あるいは生命の価値というものが現代とは大きく異なる部分があった。脚気が即死するような病でないこともあり、「パンや麦飯を食うぐらいなら、死んだほうがマシ」という声は少なくなかった。日本で脚気患者が根絶といってよい程度に激減するのは、ビタミンを薬品として大量供給できるようになった1960年代以降のことである。

家計図


 
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山口真由
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山口 真由(1983年7月6日 - )は、日本の弁護士、ニューヨーク州弁護士、信州大学特任准教授。元財務官僚

人物
  札幌市に生まれ、両親と妹は医師である。札幌市立真駒内中学校卒業。筑波大学附属高等学校で学び、東京大学法学部を卒業した。大学在学中は、男子ラクロス部でマネージャーを務め、履修科目は全ての評価が優で、3年次に旧司法試験合格し、4年次に「法学部における成績優秀者」として総長賞を受け、2006年3月に首席で卒業した。
  大学卒業後、財務省へ入省し主税局に配属されたが2008年に退官し、弁護士登録後、2014年まで長島・大野・常松法律事務所にてアソシエイト弁護士として勤務し、主に企業買収等の企業法務を担当した。2016年ハーバード大学法科大学院LL.M.を取得
  タレントとしてテレビ番組へ出演するなどしているが、大学院に入学し研究者を目指している。 「家族法」が研究対象
  2017年より日米財団主催の日米リーダーシップ・プログラムの日本代表メンバー(任期2年)。
  2020年信州大学特任准教授就任。
経歴
  ・2002年 - 筑波大学附属高等学校卒業。
  ・2002年 - 東京大学教養学部文科Ⅰ類に入学。
  ・2004年 - 3年次に司法試験に合格。
  ・2005年 - 4年次に国家公務員採用Ⅰ種試験(法律)合格。
  ・2006年 - 東京大学法学部を首席で卒業。平成17年度東京大学総長賞(学業)を受賞[12]
  ・2006年 - 財務省入省、主税局配属。
  ・2008年 - 財務省を依願退官。
  ・2009年 - 弁護士登録(62期、第一東京弁護士会
  ・2009年 - 長島・大野・常松法律事務所アソシエイト。(2015年まで)
  ・2015年 9月 - ハーバード大学ロースクール入学。
  ・2016年 8月 - ハーバード大学ロースクールでLL.M.を取得。
  ・2017年 4月 - 東京大学大学院 法学政治学研究科 総合法政専攻 博士課程に入学[3]
  ・2017年 6月 - ニューヨーク州弁護士登録[1]
  ・2020年 3月 - 東京大学大学院 法学政治学研究科 総合法政専攻 博士課程を修了。博士(法学)
  ・2020年 4月 - 信州大学先鋭領域融合研究群社会基盤研究所 特任准教授







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