世界の問題-1


2023.10.16-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20231016-SJOMNJWINFL3NGTMUT5ECWHCAQ/
アゼルバイジャン、カラバフ紛争の終結を宣言 中心都市に国旗掲揚

  南カフカス地方の旧ソ連構成国、アゼルバイジャンのアリエフ大統領は15日、隣国アルメニアとの係争地「ナゴルノカラバフ自治州」を訪れ、中心都市、ハンケンディ(アルメニア名・ステパナケルト)にアゼルバイジャン国旗を掲げた。同国メディアが伝えた。アリエフ氏は「今日は歴史的な日だ。カラバフはわれわれのものだ」と演説。30年間以上続いてきたカラバフ紛争の終結を事実上宣言した。

  アゼルバイジャンは9月、自治州の奪還を目指して軍事行動を開始。自治州の主要部を実効支配してきたアルメニア系勢力「ナゴルノカラバフ共和国」は降伏し、年内に「共和国」を解体すると表明した。アゼルバイジャンによる統治の回復が確定的となり、自治州のアルメニア系住民12万人のうち大半が迫害を恐れアルメニアに避難した。
  国際的にアゼルバイジャン領であるカラバフ自治州では1980年代後半、多数派のアルメニア系住民がアルメニアへの帰属変更を要求。両国の大規模紛争に発展した。ロシアの支援を受けたアルメニア側が自治州の実効支配を確立する形で94年に停戦が成立したが、その後も大小の衝突が散発的に起きてきた


2023.09.30-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20230930-WJGE4AN7FNON7FEWTDI2TG5WIM/
避難民9万8000人超す カラバフ、アルメニアに

  アルメニア首相府は29日、アゼルバイジャンとの係争地ナゴルノカラバフから保護を求めてアルメニアに移動した避難民が同日までに9万8600人を超えたと明らかにした。インタファクス通信が伝えた。現地の住民は約12万人だった。

  アゼルバイジャン治安当局は29日、「ナゴルノカラバフ共和国」を自称するアルメニア系住民行政府で軍事部門のナンバー2だったマヌキャン氏を拘束し、テロ活動の罪で起訴したと発表した。
  アゼルバイジャンのテレビは、ナゴルノカラバフの主要都市ステパナケルトの「共和国」内務省ビルをアゼルバイジャン側が管理下に置いたと報じた。28日に年内の解散を表明したナゴルノカラバフ行政府の崩壊が急速に進んでいる。
  ナゴルノカラバフは今月19~20日にアゼルバイジャン軍の全面攻撃を受け、武装解除を受け入れて停戦。今月24日から住民のアルメニアへの集団的移動が続いている。(共同)


2023.09.28-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20230928-JEKFEL2IDFLLHFWONT4EXJRTYM/
露、アルメニア敗北容認 ウクライナ侵略で余力なし カラバフ紛争

  アゼルバイジャンとアルメニアのナゴルノカラバフ紛争が、アルメニア側の敗北で最終決着する可能性が出てきたナゴルノカラバフ自治州の主要部分を実効支配してきたアルメニア系住民の行政府「ナゴルノカラバフ共和国」が28日、来年1月1日までに解散すると宣言した。アルメニアは同盟関係にあるロシアを後ろ盾としてきたが、ウクライナ侵略で余力のないロシアは介入せず、敗北を容認した。

  ナゴルノカラバフは旧ソ連アゼルバイジャン西部の自治州。ソ連時代末期、現地で多数派のアルメニア系住民がアルメニアへの帰属変更を求めてアゼルバイジャンと対立し、紛争に発展した。1994年、ロシアの軍事支援を受けたアルメニア側が自治州の実効支配を確立した状態で停戦。その後の和平交渉は膠着し、戦闘が散発してきた。
  アゼルバイジャンは民族的にトルコと近い。近年は石油収入とトルコの軍事支援によって国力を増し、カラバフ奪還を狙ってきた。アゼルバイジャンは今月19~20日、ロシアが介入に動けないことを見越してカラバフへの軍事作戦を行い、これが28日のアルメニア側の降伏宣言につながった。
  アルメニアは露軍事基地を擁し、露主導の集団安全保障条約機構(CSTO)加盟国でもある。しかし、ロシアは2020年秋にカラバフで大規模衝突が起きた際も介入せず、アルメニアはカラバフで実効支配地域の多くを失った。ロシアはこの衝突を受けてカラバフに平和維持部隊を派遣したものの、今月のアゼルバイジャンの軍事行動を阻止できなかった
  20年の衝突後、ロシアへの不満を強めたアルメニアのパシニャン政権はしばしば対露関係の見直しに言及し、今月には米国との合同軍事演習も行っていた。


2023.09.26-朝日新聞-https://www.asahi.com/articles/ASR9V1S58R9VUHBI001.html?iref=comtop_7_06
黒人少女だけ表彰せず 過去の動画拡散、体操協会謝罪 アイルランド
(ロンドン=藤原学思)

  表彰式で黒人選手にだけメダルを授与しなかったとして、アイルランドの体操協会は25日、当該の選手と家族に謝罪する声明を発表した。1年半前の様子がSNSで拡散され、「故意ではない」などと説明したが、「人種差別だ」とする批判が収まらなかった。

  問題の場面は昨年3月、アイルランドの首都ダブリンで起きた。SNSに投稿された動画には、協会の職人の1人が、十数人の白人の少女らに次々に首にメダルをかける一方、黒人少女にはメダルをかけず、順番を飛ばす様子がうつっている。
  この動画が広がった今月22日、アイルランドの体操協会は声明を発表。苦情を受けた後にすぐに調査に乗り出し、今年8月の時点ですでに両者間で解決している、などと主張した。声明によると、メダルを渡さなかった職員は故意ではなかったことを強調。直後にメダルを渡し、対面での謝罪は受け入れられなかったが、後に謝罪文を送付したという。
  動画の拡散はやまず、24日には、当該選手の母親が地元メディアに「協会は職員をかばっている」と批判。職員の謝罪文は「関係者へ」という短いものだったとして、「真の謝罪ではない」と憤りを語った。
  米スポーツ界のスーパースターで黒人体操選手のシモーン・バイルスさんは22日、動画について、「心が折れる」とX(旧ツイッター)に投稿。当該選手の両親から連絡を受け、ビデオメッセージを送ったことを明らかにした上で「どんなスポーツでも人種差別は絶対に許されてはいけない」と記した。
  協会は騒動が収まらないことを受けて、25日に改めて「謝罪声明」と題した文書を公表。表彰式での出来事が「あってはならないことだった」とし、「その日以来、さらなる動揺を引き起こしたことも申し訳なく思う」とした。選手の家族らや反人種差別団体と協力し、今後に向けて改善点を洗い出すという。(ロンドン=藤原学思)


2023.09.25-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20230925-DESFGLDGIZLZBPHSOMS7OOX2XA/
コソボで襲撃、警察官死亡 セルビア系が関与

  コソボのクルティ首相は24日、北部で警察官が襲撃され死傷したとX(旧ツイッター)で明らかにした。AP通信によると、襲撃には戦闘服を着た多数のセルビア系が関与した。警察官1人が死亡、襲撃者側は3人が死亡し6人が逮捕された。大量の武器や弾薬などが見つかったという。双方の緊張が高まる恐れがある。

  セルビアの自治州だったコソボは2008年に独立を宣言セルビアは認めず、対立状態が続く。コソボではアルバニア系住民が多数派で、セルビア系は少数派。
  トラックがふさいでいた橋に派遣された警察部隊が襲撃されたという。クルティ氏は襲撃者について「コソボに戦いに来た組織されたプロの一団」だと指摘し、セルビアが支援したと訴えた。
  セルビアのブチッチ大統領は24日、首都ベオグラードで、襲撃者はコソボのセルビア系住民だと訴え、セルビアの関与を否定した。(共同)


2023.09.24-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230924/k10014204791000.html
アゼルバイジャン軍の軍事行動 アルメニア側は武装解除か

  アゼルバイジャン軍が隣国アルメニアとの係争地、ナゴルノカラバフで開始した軍事行動によって事実上敗北したアルメニア側では、武装解除が進められているとみられます。一方、現地のアルメニア系住民は食料不足などに直面しているほか、アルメニア国内でも政府に抗議するデモが起きるなど、不安定な情勢が続いています。

  アゼルバイジャン軍が隣国アルメニアとの係争地、ナゴルノカラバフで19日に開始した軍事行動で、アルメニア側は武装解除などを受け入れ、事実上敗北しました。
  ロイター通信によりますと、現地ではアルメニア系の軍が戦車などの兵器の撤去を始めていて、アゼルバイジャンの大統領補佐官は22日、アルメニア側で戦闘に関わった人々に恩赦を与える可能性も示し、円滑な武装解除を進めるねらいがあるものとみられます。
  一方、アゼルバイジャン政府と現地のアルメニア側の代表者は、およそ12万人いるとされるアルメニア系の住民の帰属などについて協議を行っていますが、合意にはいたっていません
  現地では市民生活の混乱も続いていて、双方の仲介役のロシアの平和維持部隊は、食料や医薬品などの支援物資を供給したとしていますが、人権監視団体は住民の多くが食料や電気などの不足に直面していると指摘しています。
  また、アルメニアの首都エレバンでは、パシニャン首相の責任を問い辞任を要求する大規模な抗議デモも起きていて、不安定な情勢が続いています。
ナゴルノカラバフの住民「とても怖い思いをした」
  ナゴルノカラバフの中心都市、ステパナケルトに住むアルメニア系で会社員のエレン・アバネシヤンさん(48)が21日、NHKの取材に応じる形で動画を寄せました。
  アゼルバイジャン軍が軍事行動を開始した19日、ステパナケルトの市内では昼ごろから複数の方向で爆発音が聞こえたため、近くのシェルターに避難し、翌朝まで過ごしたということです。アバネシヤンさんは「以前の紛争を思い出し、とても怖い思いをした。シェルターには電気もなく、家族と連絡が取れなかった」と振り返りました。
  20日に双方が停戦を発表してからも時折、銃声が聞こえたということで、「市民が多数殺害されたという話も出回るなどしてパニックに襲われ、どうすべきか誰にも分からなかった」と話していました。
  停戦に応じたナゴルノカラバフ当局の対応について評価を下すのは難しいとした上で、「ロシアの平和維持部隊はいったい何のために来ていたのか」と非難し、「私たちの問題に全世界が目をつぶっていた」と国際社会の対応にも不満を示しました。
  アバネシヤンさんはステパナケルトも近くアゼルバイジャン側に掌握されるとみて、ヨーロッパへの脱出を考えているということですが、交通が封鎖されどこにも移動できないと訴えていました。
両国の外相 国連総会で演説 みずからの立場主張
  ニューヨークで開かれている国連総会では23日、両国の外相が演説を行い、ナゴルノカラバフをめぐるみずからの立場をそれぞれ主張しました。この中で、アゼルバイジャンのバイラモフ外相は「アルメニアが軍事的挑発に出た」と非難し、対テロ作戦だとする軍事行動を正当化した上で「テロ対策は所期の目標を達成した」と述べ、アルメニア側が武装解除を進めていると強調しました。
  一方、このあと演説したアルメニアのミルゾヤン外相は「200人以上の死者と400人以上のけが人が確認されている。軍事攻撃は地域の平和と安定を破壊し人権を著しく侵害しており、それはアルメニア人にとって存亡の危機を意味する」と強く非難しました。
  そして「国連は世界中の集団的な残虐行為の被害者に寄り添うべきだ」とした上で、国連に対し、現地調査団の派遣など速やかな対応を求めました。


2023.08.25-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20230824-GX5J2722VRP3HD44323PVMOR4Y/
ノルウェーもウクライナにF16供与へ オランダ、デンマークに続き3カ国目

  ノルウェーのストーレ首相は24日、訪問先のウクライナの首都キーウ(キエフ)でゼレンスキー大統領と会談した。ストーレ氏は会談後の共同記者会見で自国が保有する米国製F16戦闘機をウクライナに供与すると表明した。供与の時期などは明言しなかった。供与表明はオランダ、デンマークに続き3カ国目となる。

  ストーレ氏は会談に先立ち、ポルトガルのレベロデソウザ大統領らとウクライナの独立記念日の式典にも出席し、ウクライナ支持を強調した。遅れが指摘される反転攻勢を加速させるため、ウクライナは防空強化を急ぐ。(共同)


2023.07.31-REUTERS-https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-belarus-wagner-poland-idJPKBN2ZA0FH
ワグネル戦闘員100人の国境接近に警戒感、ポーランド首相

  [ワルシャワ 29日 ロイター] - ポーランドのモラウィエツキ首相は29日、ロシア民間軍事会社ワグネルの戦闘員100人の集団がポーランドとの国境に近いベラルーシの都市グロドノ近くに移動したと明らかにし、状況は「ますます危険になっている」と警戒感を示した。

  今月公開された動画で、ワグネル創設者エフゲニー・プリゴジン氏はベラルーシでワグネルの戦闘員を歓迎し、ウクライナの戦争にはもはや参加しないと伝えている様子が映っていた。ポーランドはベラルーシとの国境地域で緊張が高まることを懸念し、1000人を超える兵士の東側への移動を開始している。
  モラウィエツキ首相は、ワグネルの戦闘員がベラルーシの国境警備隊を装って不法移民をポーランドに送り込み、国の不安定化を招く可能性が高いと主張。戦闘員自らが不法移民になりすましてポーランドに入国を試みる可能性も十分あるとした。
  ただ、ワグネル戦闘員の国境接近について情報源は明らかにしなかった。ベラルーシの軍事情勢を監視する「ガユン・プロジェクト」を創設したアントン・モトルコ氏はロイターに、ワグネル戦闘員がグロドノ近くに移動したことを示す証拠は目にしていないと述べた。


2023.06.16-BBC news japan-https://www.bbc.com/japanese/65924697
ギリシャ沖で沈没の移民船、子ども100人近く乗船か 全体で750人との証言も

  地中海のギリシャ南部沖で移民を乗せた漁船が沈没した事故で、船内には最大100人近くの子どもが乗っていた可能性があると、生存者が話している。この事故は、ヨーロッパで起きた移民が絡んだ惨事で、過去最悪レベルのものとなっている。
  15日までに少なくとも78人の死亡が確認されている。104人が救助され、全員男性だという。漁船には最大750人が乗っていたとも報じられており、多数が行方不明になっているとみられる。

  ギリシャのテレビは、エジプト人数人を含む9人が人身売買の疑いで逮捕されたと伝えている。ギリシャの沿岸警備隊には、早期に介入しなかったとの批判が出ている。これに対し当局は、救助の申し出が拒否されたとしている。
  生存者発見の望みが薄れる中、ギリシャ南西の海岸から約50カイリ(約92キロ)の海域で捜索活動が続けられている。ギリシャのメディアによると、船はエジプトを空の状態で出港し、リビア・トブルク港でイタリアに向かう移民を乗せたという。
  船の画像では、デッキが人で埋め尽くされている。主に男性生存者らの治療に当たった医療関係者らは、船倉に多数の女性や子どもがいたとする話を聞いたとしている。
  ギリシャのカラマタ総合病院のマノリス・マカリス医師は、「(生存者たちは)船底に子どもたちがいたと言っていた。子どもと女性たちのようだ」とBBCに説明。「(生存者の)一人は子どもが約100人いたとし、もう一人は約50人だったと話した」とした。
  同医師はまた、「正確な全乗船者数は750人だ。全員、私にそう言った」とし、死者は600人近くに上る可能性があるとの見方を示した。そのうえで、「ヨーロッパの誰も、この状況を受け入れてはならない。二度とこのようなことが起こらないよう、皆が何かをしなければならない」と訴えた。

  生存者の一人は、ギリシャメディアANT1から船内に子ども100人がいたのかと聞かれ、「そうだ」と答えた。
  BBCはこうした人数を独自に確認できていない。ただ、慈善団体「セーブ・ザ・チルドレン」も生存者の証言を基に、同様の人数を挙げている。ギリシャ政府のイリアス・シアカンタリス報道官は、船倉に何人いたかは不明だと説明。「ただ、密航業者らが統制を保つため、大勢を閉じ込めるのは承知している」と述べた。
  ギリシャ南部カラマタには、行方不明者の家族らが集まっている。イギリスから来たアフタブさんは、パキスタンの親族の少なくとも4人が行方不明だとBBCに話した。オランダに住むシリア人男性カサーム・アボジードさんは、妻と義理のきょうだいが行方不明だと言って泣き崩れた。

  漁船が危険な状態だと13日朝に最初に訴えたのは、船内の人から連絡を受けた活動家のナワル・ソウフィさんだった。ギリシャ沿岸警備隊によると、同日午後2時に漁船と最初に連絡を取ったが、救助要請はなかった。海運当局が繰り返し連絡したが、船からはイタリアを目指しているとの説明だけがあったという。
  夕方以降、商業船2隻が水を届けた。ソウフィさんのフェイスブックへの投稿によると、1隻が漁船に近づいてロープで連結し、水の入ったボトルを船に投げ入れたとき、状況が「複雑」になったという。
  当時、ロープや、水をめぐる争いが原因となって、漁船が転覆するかもしれないと「極度の危険」を感じていた人もいたという。その後、漁船は離れていったという。
  沿岸警備隊によると、14日未明に漁船のエンジンが故障。船内で人々が動き回り、船が転覆したという。海でトラブルに見舞われた移民の緊急連絡先となっている「アラーム・フォン」は、「救助隊が派遣される何時間も前から(沿岸警備隊は)漁船の遭難を認識していた」と主張。当局について、「さまざまな情報源から情報を得ていた」とした。
  しかし、沿岸警備隊の報道官は、漁船に対して助けを求めるよう呼びかけていたとし、「救助が必要になる時に備えてそばにいた」と述べた。
  ギリシャのアレクシス・チプラス元首相は15日、カラマタを訪問。何が間違っていたのか、生存者に話を聞いた。通訳は、「ギリシャ沿岸警備隊は、船についてくるよう言ったが、できなかった」、「沿岸警備隊はその後ロープを投げたが、ロープの引き方が分からず、船は右へ左へ揺れ始めた」と説明。
  「沿岸警備隊の船は速すぎた。船はすでに左に揺れていて、そして沈んだ」と述べた。
  今回の事故を受け、ギリシャは3日間の喪に服している。首都アテネや第2の都市テッサロニキなどでは15日夕、抗議のデモ行進が行われた。ギリシャは、中東、アジア、アフリカからの難民や移民が欧州連合(EU)に入る主要ルートの1つとなっている。
  先月には、海で漂流した移民を強制的に追い出したとされる映像が出回り、ギリシャ政府は国際的な批判にさらされた。
(英語記事 Capsized boat had 100 children in hold, BBC told


2023.05.26-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20230526-RSE3QZCHWVNNDCFAO5ZEKMBPIE/
関係正常化へ副首相会合 アゼルバイジャンとアルメニア

  南カフカス地方の旧ソ連構成国、アルメニアのパシニャン首相アゼルバイジャンのアリエフ大統領25日、両国関係の正常化に向けてモスクワで協議し、1週間以内に副首相級会合を開くことで一致した。両国は係争地「ナゴルノカラバフ自治州」の帰属を巡って30年間以上にわたり対立してきた。平和条約の締結に向けた動きが加速するかが今後の焦点となる。
  協議はロシアのプーチン大統領が仲介し、協議にも同席した。南カフカス両国の関係正常化問題では、米国や欧州連合(EU)も仲介作業を進めてきた。

  ロシアはこの問題で主導権を握り、「勢力圏」とみなす旧ソ連地域で欧米の影響力が強まるのを防ぎたい考えとみられる。会合に先立つ22日、パシニャン氏は「アルメニア系住民の安全が保障されることを条件に、アルメニアはナゴルノカラバフ自治州がアゼルバイジャン領であることを認める」と表明。関係正常化に向け、条件付きながらも「譲歩」に応じる姿勢を示していた。
  関係正常化に向けた焦点は、同自治州内のアルメニア側実効支配地域とアルメニア本国を結ぶ唯一の陸路「ラチン回廊」の封鎖問題だ。アルメニアは、アゼルバイジャンが2020年の停戦合意に反して回廊を封鎖し、物資輸送を妨害していると非難。アゼルバイジャンは封鎖を否定している。
  プーチン氏は25日の協議で、回廊を巡る問題は「純粋に技術的なもので解決可能だ」と指摘。1週間以内にロシアを含む3カ国で副首相級会合を開くことを提案し、パシニャン、アリエフ両氏も同意した。
  協議に先立って25日にモスクワで開かれた露主導の「ユーラシア経済連合(EAEU)」首脳会議の場でも、パシニャン、アリエフ両氏は関係正常化への意欲を表明した。
  パシニャン氏が「譲歩」を示したのは、和平機運がアルメニア国民内に高まっていることなどが理由とされる。ただ、野党勢力は同氏の姿勢を「敗北主義」と批判。自治州内のアルメニア人系勢力も同氏に批判的で、関係正常化に向けた道筋は平坦ではない。
  国際的にはアゼルバイジャンの一部であるナゴルノカラバフ自治州では旧ソ連時代末期、多数派のアルメニア系住民がアルメニアへの帰属変更を求めてアゼルバイジャンと対立20年の大規模紛争ではアルメニアが自治州内の実効支配地域の大半を失った。


2023.04.27-Yahoo!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/a3074d56ba099d8994d5577d95d8572d240edf7f
G7各国と比べる要人警護態勢 政治家襲撃海外でも
(大渡美咲)

  広島市で5月に開かれる先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)を控える中、岸田文雄首相に爆発物が投げ込まれる事件が起きた。事件では有権者との近い距離感を重んじる日本の選挙警護ならではの難しさが改めて浮上。海外では大統領らの演説時には、容易には近づけない警備態勢が敷かれる一方、地方視察などで襲撃される事件も起きている。サミットと選挙応援の警備は異なるが、多くの要人が来日するため、警察当局は事件を念頭に置いて警備を強化する構えだ。

  日本では、首相や首相経験者、閣僚、政党幹部ら警護対象者には警視庁警護課所属のSP(セキュリティーポリス)らが専属で付く。地方遊説の際にも同行し、地元警察と連携して警護にあたる。
  昨年7月の安倍晋三元首相の銃撃事件を受け、警察庁は警護態勢を強化し、警察庁が都道府県警の警護計画を事前に審査するようにした。このほか、警視庁では今春、要人警護を担当する警護課を300人以上に増員。全国の警護担当者の能力底上げを図るため、道府県警の選抜者の警視庁研修を年1回から2回に増やすなど、態勢の見直しを続けている。
  警察が警護を担う日本とは異なり、大統領など要人直轄の専門機関が警護にあたる国もある。 米国では、「シークレットサービス」が大統領や副大統領、元大統領や元副大統領らを24時間態勢で警護している。シークレットサービスは職員が6500人以上で、このうち実際に警護を担当する職員だけでも3200人いるとされる
  大統領や大統領経験者の支持者集会や他候補の応援演説では、金属探知機をくぐって持ち物検査を受け、大きな荷物を持ち込むことは厳しく制限される。 メディア関係者は事前登録の上、銃器や火薬類を探知する訓練を受けた犬によるチェックなども行われる。演説する際にも透明の防弾ガラスが設置され、聴衆との握手などの直接的な接触機会は限定的だ。
  韓国にも大統領直属の警護専門機関「大統領警護処」に約700人が所属している。銃器で武装した「CAT(Counter Assault Team)」と呼ばれる部隊もおり、3月に尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が来日した際も、銃器は所持していないものの、防弾の上着やヘルメットなどの重装備で警護についていた。
  和歌山市で爆発物が投げ込まれた事件を受けて、大統領警護処は、尹大統領の海外日程に関する警護をより強化するとしている。 フランスも大統領や首相らを警護する専門部隊に1260人が所属している。しかし、2021年にはマクロン大統領が、地方視察の際に歓待する住民に紛れ込んでいた男に突然平手打ちされる事件が起きた。
  日本と同様に警察が警護にあたっているのは英国だ。ロンドン警視庁が王族や政府要人の警護を担っている21年に下院議員が地元選挙区で有権者との集会中に刺殺される事件があり、有権者と交流する際の安全確保が課題となった。 英紙デーリー・メールによると、事件を受け、議員らは身辺警護を強化。演説中や有権者との面会中に着用する防刃ベストや、万が一の事態を想定した出血を抑える医療用具などの購入も進められた。
  ただ、過度な警備強化は「有権者を萎縮させ、せっかくの対話の場を台無しにしてしまう」との懸念もあるという。
  英国同様、有権者との近い関係を重くみてきた日本。事件後の23日に行われた衆参補欠選挙などで首相が街頭演説を行う場合について、自民党は、防弾対策などを講じて街宣車の上から実施するよう各県連に伝えた。与野党幹部の遊説会場にも金属探知機や手荷物検査が導入され、厳戒態勢が敷かれるなどした。
  だが、警護対象となる政治家などの側に、「多くの有権者と広く触れ合うのが選挙活動だ」といった意識が強く、厳しい警備を望まないという側面もある。警察関係者は「改めて政治と安全について本格的に考える時期にきている」と話している。(大渡美咲)


2023.03.17-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230317/k10014012091000.html
“ウクライナに戦闘機供与” ポーランドとスロバキアが表明

  ウクライナ南部に面した黒海の上空で、アメリカ軍の無人機がロシア軍機の妨害を受けたあと墜落したとアメリカ側が発表し、ロシアが反発するなど双方がけん制し合っています。一方、ポーランドやスロバキアがウクライナに旧ソビエト製の戦闘機を供与すると表明し、ウクライナ側の反転攻勢の追い風になるかが焦点です。

  アメリカ軍はウクライナ南部に面した黒海の上空で14日、偵察用の無人機がロシア軍の戦闘機から妨害行為を受けて衝突し、制御できなくなったため海上に墜落させたと発表しています。
  さらに、無人機がロシア軍機と衝突したときに撮影したとする映像を公表し、ロシア側に安全な飛行を行うよう重ねて求めました。
  この映像についてロシア側は、直接コメントしていませんが、ロシア国防省は17日、「ショイグ国防相はアメリカ軍の無人機の侵入を阻止した戦闘機の乗組員に勲章を授与する」とたたえ、さらに、「ロシアの戦闘機は武器を使用せず、無人機との接触もなかった」と従来の主張を繰り返しています。
  また、プーチン大統領の側近も無人機を回収して軍事機密を入手するとして、アメリカをけん制しています。ロシアの前の大統領で、安全保障会議のメドベージェフ副議長は17日、SNSに「アメリカは正気ではない。軍どうしが連絡を取り合うことは必要だが、アメリカとの協力は間違っている」などと投稿し、批判しました。
  こうした中、ポーランドのドゥダ大統領は16日、旧ソビエト製のミグ29戦闘機4機を数日中に、ウクライナに供与すると表明しました。さらに、ウクライナの隣国のスロバキアのヘゲル首相も17日、13機のミグ29を供与すると明らかにしました。
  欧米メディアは、実現すればNATO=北大西洋条約機構の加盟国として初めての戦闘機の供与になると伝えていて、アメリカのシンクタンク「戦争研究所」は「ウクライナ空軍はすでにミグ29を運用していて、受け取った場合、次の反転攻勢に使用できる」と分析しています。
  これに対し、ロシア大統領府のペスコフ報道官は「NATOの加盟国の多くが、紛争への直接的な関与のレベルを上げる、新たな事例となる」と反発しています。


ナゴルノ・カラバフ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  ナゴルノ・カラバフ戦争は、アルメニア共和国アゼルバイジャン共和国ナゴルノ・カラバフ自治州を巡る争い。ナゴルノ・カラバフ紛争と呼ばれることもある。この戦争でナゴルノ・カラバフの大部分に加え、周辺のアゼルバイジャン領土もアルメニアに占領されたが、2020年の第二次戦争停戦協定により占領地域の3分の2がアゼルバイジャンに返還され、残りの3分の1はアルメニア(アルツァフ共和国)により占領されている。

背景(詳細は「ナゴルノ・カラバフの歴史」および「ナゴルノ・カラバフ自治州」を参照)
  南カフカース南部に位置するカラバフは、古くからアゼルバイジャン人アルメニア人による領土紛争の舞台となってきた。アルメニア人の側は、「カラバフが古代アルメニア王国の時代から数千年に渡るアルメニア文化の中心地である」と主張する。一方のアゼルバイジャン人の側は「自らがカフカース・アルバニア人の末裔であり、アルメニア人よりも古くにカフカース・アルバニア王国を形成していたカラバフ一帯の先住者である」と主張する。

  カラバフの中でも中部の山岳地帯(ナゴルノ・カラバフ)には特にアルメニア人が集中しており、1916年の時点でナゴルノ・カラバフのアルメニア人は総人口の約70パーセントまで達していた。やがてロシア帝国が崩壊し、両民族がアゼルバイジャン民主共和国アルメニア共和国として独立すると、カラバフをめぐる対立は軍事衝突(アルメニア・アゼルバイジャン戦争)にまで発展した。
  しかし両国はほどなくして、北方のロシア社会主義連邦ソビエト共和国から派遣された赤軍の圧力により、アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国アルメニア社会主義ソビエト共和国として、いずれも1920年末までに共産化された。そして翌1921年7月4日には、現地のボリシェヴィキらの間で行われた国境画定交渉により、ナゴルノ・カラバフはアルメニア側に帰属すると確認された。ところが、このナゴルノ・カラバフのアルメニア帰属決定は、アゼルバイジャン側の激しい反発により、翌日にはアゼルバイジャンへの帰属決定として覆された。ナゴルノ・カラバフのアルメニア人には自治権が与えられることとなり、1923年7月、アゼルバイジャン領内に「ナゴルノ・カラバフ自治州」が成立した。
連邦内での紛争
 紛争の始まり
  自治州が成立して以降、アルメニア人たちはソビエト連邦の政局が変化する度、ナゴルノ・カラバフをアルメニアへ編入するようモスクワへ訴え続けた。そして、1985年ミハイル・ゴルバチョフ連邦共産党書記長に就任し、ペレストロイカなどの自由化政策が開始されると、現地のみならずロシアでも、物理学者のアンドレイ・サハロフなどの著名人がナゴルノ・カラバフのアルメニア編入を支持するようになった。さらにはソ連国外でもアメリカフランスを始めとする各国のアルメニア人ディアスポラがナゴルノ・カラバフ編入を支持するデモを行った
  しかし、ゴルバチョフがアルメニア人の要求を拒絶したため、ナゴルノ・カラバフでは騒乱事件も発生し、アルメニア本国でもナゴルノ・カラバフの統合を求めるデモが行われた。同年冬にはアルメニア国内でアゼルバイジャン人に対する暴行、略奪、強姦などが始まり、大量のアゼルバイジャン人避難民がアルメニアから逃れてアゼルバイジャンのスムガイトへ流れ込んだ。そして1988年2月には、ナゴルノ・カラバフ自治州政府までも公然とアルメニア本国との統一を訴えるに至った。
  連邦共産党中央委員会とアゼルバイジャン政府はこの要求を拒絶したが、アルメニア共産党は領土問題の徹底的な検討を中央委員会に訴えた。2月24日には自治州党書記で親アゼルバイジャン派のボリス・ケヴォルコフが解任され、時を同じくしてアルメニアの首都エレヴァンでも百万人が参加したと言われるソ連史上空前の規模の統一要求デモが発生した。これに対して、アゼルバイジャンの首都バクーでもカウンター・デモが行われ、国営新聞の『アゼルバイジャン』も、ナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャンの歴史的領土であると訴える詩人のバフティヤール・ヴァハーブザーデなど知識人たちの手紙を掲載した。
 相次ぐ衝突
  民族間の対立が深まる中、1988年2月26日にゴルバチョフはナゴルノ・カラバフ統一運動指導者のゾリ・バラヤンシルヴァ・カプティキャンと面会し、アルメニア人の関心に答えるためのできる限りのことをすると述べた。その後アルメニアへ戻ったカプティキャンは群衆に向けて「アルメニア人は勝利した」と宣言したが、これはモスクワに対し圧力をかけるための行為だったとみられる。
  しかし、他の地域の領土問題に危険な前例を作ることを恐れたゴルバチョフは、3月10日にソ連憲法第78条に基づき、共和国の国境を変更することはないと宣言した。アゼルバイジャン人はゴルバチョフの意向に完全に同調したが、アルメニア人は「失地回復」こそが憲法に定められた自分たちの権利であると考えた。
  6月15日、アルメニア最高会議はナゴルノ・カラバフ自治州の自国への移管を決議し、その2日後にはアゼルバイジャン最高会議がこれを否認する決議を採択した。7月5日には事態を収拾しようとエレヴァン近郊のズヴァルトノッツ国際空港に到着したソ連兵とアルメニア人市民の間で衝突が発生し、市民側に1人の死者と36人から50人の負傷者が発生した。
  これによってアルメニアでは反露感情が高まり、悪化する情勢を危惧した連邦最高会議は、1989年1月にナゴルノ・カラバフを一時的に連邦共産党の直轄地とし、状況は若干の安定を見せた。しかしこれに反発したアゼルバイジャン人民戦線がアルメニアとナゴルノ・カラバフに対する鉄道の封鎖を提案し、9月に実行された封鎖により、物資の85パーセントを鉄道輸送に頼っていたアルメニアの経済は破壊された。
  しかしこれは同年初夏からアルメニアがナヒチェヴァンに対して行っていた禁輸措置への対抗策だったとする反論もある。やがて鉄道網の麻痺は一部のアルメニア人武装勢力によるアゼルバイジャン人鉄道員への攻撃に繋がってゆく。反発の大きさから連邦最高会議は11月に再びナゴルノ・カラバフをアゼルバイジャンの管轄へ戻すと決議したが、エレヴァンではこれに抗議して30万人が参加するデモが繰り広げられ、アルメニア最高会議もナゴルノ・カラバフ編入決議を繰り返した

  民族間の対立は高まる一方で、1989年前期の数か月でアルメニアに住むアゼルバイジャン人とアゼルバイジャンに住むアルメニア人の間で強制的な住民交換が行われ、1988年末までに、20万人以上のアゼルバイジャン人とイスラム教徒クルド人がアルメニアの数十の村から追放された。
  アゼルバイジャン政府の調べでは、スピタクグガルクステパナヴァンで1988年11月27日から29日にかけて33人が、1987年から1989年を通してでは216人が殺害されたという。一方でアルメニア側は、1988年から1989年を通して殺害されたアゼルバイジャン人は25人であると主張している。紛争の最初の2年間での犠牲者数は推計に幅があるが、1989年10月号の『タイム』誌では、1988年2月からの死者は双方が百人を超えているとされている。アルメニアから脱出するアゼルバイジャン人も、アゼルバイジャンから脱出するアルメニア人も、双方が国境で通行料を取り立てられた。
  また、1988年12月にアルメニアで数万人の犠牲者を出したスピタク震災が発生した際も、アルメニア人は「ムスリムの血を体内に入れるくらいなら死んだほうがまし」と、アゼルバイジャンから大量に送られた医薬品や輸血用血液を活用しなかった。一方でアゼルバイジャン人も、震災後にアルメニアに向けて「震災おめでとう」と書かれた列車を走らせた。加えて、この震災で中央政府に先んじて救援活動を行ったのがレヴォン・テル=ペトロシャンを始めとする対アゼルバイジャン強硬派の「カラバフ委員会」のメンバーであったため、さらに両国の関係は冷却し、アルメニア共産党の権威も下落していった
 アスケラン事件
  1988年2月20日、ナゴルノ・カラバフの州都ステパナケルトの病院で2人のアゼルバイジャン人の女子研修生がアルメニア人によって強姦されたと伝えられた。22日にもステパナケルトでアゼルバイジャン人が殺害されているとの噂が流れ、大勢のアゼルバイジャン人が現地の共産党本部を取り囲んだ。
  党本部は殺人の噂を否定したが、群衆はそれを信じず、道中で破壊行為を行いながらナゴルノ・カラバフへの行進を開始した。暴徒化した群衆を止めるために当局はおよそ千人の警官を投入し、最終的に自治州のアスケラン地区で発生した衝突により2人のアゼルバイジャン人が死亡し、50人のアルメニア人の村人と人数不明の警官及びアゼルバイジャン人の群衆が負傷した。
  これはアゼルバイジャン側の発表ではアルメニアの民族主義団体、アルメニア革命連盟の武装隊員による殺人事件と報道された。しかし、モスクワに本部を置く人権団体メモリアル」による、現地のアゼルバイジャン人警官が銃を暴発させた結果の事故であるとの報告も存在する。
 スムガイト事件(詳細は「スムガイト事件」を参照)
  アスケランでの事件に呼応して、以前にアルメニアから追われてスムガイトに流れ込んでいたアゼルバイジャン人の避難民たちは28日に集会を開き、アルメニア人の「残虐行為」を非難したが、ソ連のメディアはこれを単なる煽動とした。だが、その集会から数時間を経ずして、アルメニア人に対する虐殺が開始された。ソ連軍が介入した3月1日までの3日間で、スムガイトのアルメニア人は屋内、屋外を問わず暴行され、強姦され、手足を切断され、当局もこれを制止することはなかった
  公式発表では26人のアルメニア人と6人のアゼルバイジャン人が死亡したとされている。この事件は不良グループによる暴力事件が虐殺に発展したとの見方が一般的だが、アゼルバイジャンでは、事件を煽動したのはアルメニア人あるいはKGBであるとの説が繰り返し報道され、定説化している。一方、アルメニアでは事件はアゼルバイジャン当局が組織的に計画したものであるとされ、実際の犠牲者数も1500人を超えており、その手口もオスマン帝国によるアルメニア人虐殺よりも残虐であったと信じられている。
  最終的にソ連当局は86人のアゼルバイジャン人を逮捕し、うち1人に死刑判決を下した。中央政府は監視と情報操作によって事態の決着を図ったが、横行する噂と陰謀論は武力衝突をさらに悪化させることとなった。
 キロヴァバード事件
  1988年の秋口にはアゼルバイジャン北西部のキロヴァバードでも民族対立が先鋭化し、アルメニア人は自らの家を離れてアルメニア本国へ避難することを余儀なくされていた。ソ連軍は市内のアルメニア人を暴力から保護するために進駐し、11月23日に戒厳令を発した。しかし同日には市の執行委員会庁舎がアゼルバイジャン人によって襲撃され、この際にアルメニア人を保護しようと出動したソ連兵のうち3人が衝突によって死亡し、その他67人の民間人が負傷した。
  これについては、24日の時点で死亡者数は40人に上っており、その3分の1はアゼルバイジャン人であったという報告や、アルメニア人の死者だけで最大130人に上っているとの報告もある。25日にサハロフは、当局から得た情報では、アルメニア人側に130人以上の死者と2百人以上の負傷者が発生していると語ったが、ソ連外務省報道官のゲンナジー・ゲラシーモフはその情報を否定している。後の回顧録で、サハロフも自身の述べた数字を撤回した。
  一方、ソ連当局は軍の活躍と地元当局の尽力によりキロヴァバードでの虐殺は防がれたとコメントし、犠牲者を総数7人、内訳がソ連兵3人、アゼルバイジャン人3人、アルメニア人1人であるとした。また、現場で取材を行っていたBBCのレポーターは、最低でも6人のアルメニア人が殺害されたと報告している。
 黒い一月事件(詳細は「黒い一月事件」を参照)
  1990年1月にはまたしてもバクーでアルメニア人に対する虐殺(バクー事件)が発生し、加えてこの頃にはアゼルバイジャンでの連邦独立運動も活発化していたため、ゴルバチョフは非常事態宣言の発令と内務省軍の派兵を余儀なくされた。
  1月20日深夜、内務省軍はバクーを制圧するよう命令を受けたが、その日の午前5時に戦車が市内へ入るのを目撃したバクー市民たちは、最初に発砲を行ったのは軍の側であると証言している。また、市内のバリケード部隊が武装していたという証拠も発見されていない。夜間外出禁止令も発令され、軍と人民戦線との衝突が激化した末に8人の内務省軍兵士と120人のアゼルバイジャン人が死亡したが、この間にアゼルバイジャン共産党は市内のアルメニア人を保護することよりむしろ党の威信を守ることを選んだ。
  西側諸国の反応は概ねゴルバチョフに同情的だったが、この軍事行動は実際には、勢いを増す人民戦線を破壊するためのものであったとソ連国防相ドミトリー・ヤゾフは25日に認めている。この事件で人民戦線は支持を失い、その後の議会選挙でも共産党が圧勝した。しかし、新たに共産党書記長に指名されたアヤズ・ムタリボフもまた、民族色を強めてモスクワから離反していったデューク & カラトニツキー 1995, 。この頃アルメニアでは、カラバフ委員会から改組されたアルメニア全国民運動のテル=ペトロシャン候補が最高会議議長に就任したデューク & カラトニツキー 1995
 アルメニア人民兵の国境地帯襲撃
  1990年初頭からアルメニア北東部国境沿いの村バハニスはアゼルバイジャン人民兵から継続的な攻撃を受けていたが、それと時を同じくしてアルメニアの民兵組織も国境地帯アゼルバイジャン側のガザフ県サダラク県の村に対して攻撃を行っている。
  1990年3月26日の朝、アルメニア人民兵らを乗せた数台の車両がバハニスに到着し、その日の夕暮に民兵らは国境を越えてアゼルバイジャン側へ侵入してバガニス・アイルムの村を襲撃した。20を超える家屋が放火され、乳幼児を含めた8人から11人のアゼルバイジャン人が殺害されたが、内務省軍が現場に到着した時にはすでに民兵らは逃走した後だった
  それから半年後の8月19日にもアルメニア国軍の部隊がアゼルバイジャン側に対して、目撃者の証言によれば迫撃砲ロケット弾を使用した攻撃を行い、アシャギ・アスキパラとアルメニア領内の飛び地であるユハリ・アスキパラを占領した。この攻撃にはエレヴァンからの援軍も加わっていたが、翌20日の夜までにはソ連軍の攻撃によってアルメニア人らはアゼルバイジャン領内から撤退した。
  この事件についてソ連内相は、内務省職員1人と警官2人が死亡し、兵士9人と市民13人が負傷したと発表した。一方アルメニア側の報道によれば過激派5人が死亡し25人が負傷したとされ、アゼルバイジャン側の報道では約30人の死者と約百人の負傷者が発生したとされた。
 円環作戦(詳細は「円環作戦」を参照)
  やがて、ナゴルノ・カラバフ全域で両民族は自衛のために武装を開始した。ムタリボフはアルメニア人住民の武装解除のための共同軍事作戦をゴルバチョフへ提唱し、1991年4月末、シャウミャノフスク地区の村からアルメニア人を強制的に排除するための、ソ連軍とアゼルバイジャンのOMON (en) による「円環作戦」が開始された。装甲車や火砲も投入されたこの作戦に対しては、複数の国際人権団体から重大な人権侵害であるとの指摘がなされている。この作戦はソ連政府とアルメニア政府の双方により、アルメニア人の統一主張に対する威圧であるとみなされている
  2006年には、この時期のナゴルノ・カラバフを描く、アルメニア史上最高額である380万ドルを投じて制作されたフィクション映画『運命』が公開された。
  1991年後半に入り、アルメニア人民兵らはOMONによって占領された村のうち、放火を免れていたものの奪還を試みた。「メモリアル」によれば、この際の攻撃でシャウミャン地区およびその周辺で数千人のアゼルバイジャン人が住居を失ったという。また、いくつかの村ではアルメニア人民兵による放火や暴行も報告されている。
  晩秋になりアゼルバイジャン側が抵抗を始めると、アルメニア側はアゼルバイジャン人の村を標的に選ぶようになった。メモリアルによれば、マリベイリユハリ・クシチュラルなど、以前ステパナケルトに対して継続的に砲撃を加えていたアゼルバイジャン人の村をアルメニア人が襲撃して放火を行い、数十人の住民を殺害したという。相手方の村落が砲撃のための戦略拠点になっていたとの批判は、双方から行われている。
 ジェレズノヴォツク共同宣言
  程なくして、ナゴルノ・カラバフ問題に関する最初の和平調停が、ロシア共和国最高会議議長ボリス・エリツィンカザフ大統領ヌルスルタン・ナザルバエフによって開始された。
  1991年9月20日から23日にかけてバクー、ギャンジャ、ステパナケルト、エレヴァンを視察し、両当局の合意を得て会談を重ねたエリツィンとナザルバエフは、両国大統領に共同宣言への署名を認めさせることに成功した。
  ロシアのジェレズノヴォツクで署名されたこの宣言により、紛争地域からのソ連軍及び内務省軍を除く全軍の撤退、捕虜と避難民の帰還の許可、輸送・通信システムの正常化、そして停戦交渉の即時開始が取り決められ、和平プロセスはロシアとカザフの監視団によって監督されることとなった。
  しかし、宣言から僅か2か月後にアルメニア側の武装勢力がロシアとカザフの監視団員の同乗したMi-8輸送ヘリを撃墜し、乗組員全員を死亡させる事件が発生した。これによってカザフ側は和平活動を停止し、共同宣言は以降捨て置かれた状態となってしまう。
  やがてソビエト連邦の崩壊に際して連邦内務省軍は12月19日にナゴルノ・カラバフから撤退を開始し、27日に撤退を完了した。以降、モスクワの統制を失ったナゴルノ・カラバフ、アルメニアとアゼルバイジャンは宣戦布告のないままに全面戦争を激化させてゆくこととなる。
軍の再編と各国の介入
  かつての冷戦時代、NATO加盟国であるトルコと国境を接するアルメニアはソ連にとって重要な戦略拠点であり、またトルコ軍の侵攻を許した過去があったため、ソ連は主戦場になると想定したアルメニアを避け、アゼルバイジャンへ多くの兵力を配置していた。
  当時のアゼルバイジャンが5個師団と5か所の軍用飛行場を擁していたのに対し、アルメニアには3個師団が配備されていたが軍用飛行場は存在しなかった。弾薬輸送貨車の数も、アゼルバイジャンの1万両に対しアルメニアが保有していたものは5百両に過ぎなかった。
  だが、ソ連軍の解体によりアゼルバイジャン軍はゼロからの出発を余儀なくされた。国軍のみでの戦争の遂行が不可能となったアゼルバイジャンでは、国内の富裕層や近隣諸国からの援助が不可欠となり、富豪のスラト・フセイノフは私兵として陸軍第709旅団を臨時に編制し、第23自動車化ライフル師団の兵器庫から大量の武器弾薬を購入してそれに充てた。
  その一方で、アルメニア側は1990年代初頭から既に独自の軍隊の編成を開始していたため、アルメニア軍の再編は独立直後からスムーズに進めることができた。そして、ソ連崩壊後に独立国家共同体 (CIS) が創立されると、トルコの軍事的介入という脅威を感じていたアルメニアは、加入を躊躇、アゼルバイジャンを尻目にCISへ加入し、集団安全保障の傘に入った。
  1992年1月にはステパナケルトにCIS軍司令部が置かれ、以前から駐留していたソ連陸軍第4軍や第366自動車化ライフル連隊の一部を含む新たな部隊が編制された。しかし、アルメニアはロシアと広範な条約を結んでおらず、また当時は集団安全保障条約も存在しなかったため、アルメニアはトルコとの国境を自力で防衛せざるを得なかった。そしてナゴルノ・カラバフ戦争の期間中、アルメニア軍はそのほとんどをトルコとの国境地帯に配備しておくことを余儀なくされた。
  両民族の徴兵年齢の男性はそのほとんどがアフガニスタン紛争などの軍務に服した経験があり、カラバフのアルメニア人の60パーセントは従軍経験があった。しかし、アゼルバイジャン人の大部分はソ連軍では差別の対象となり、実戦ではなく建設大隊へ配属されることが多かった。このような状況は、アゼルバイジャンには2つの士官学校があったにもかかわらず、彼らに実戦経験が欠けていた要因の一つとなった
アゼルバイジャンへの支援
  アゼルバイジャン政府はカスピ海油田を通じて得た利益で他国から傭兵を招き、これによりロシア人ウクライナ人の傭兵、そして北カフカース中央アジアからのイスラム教徒の義勇兵がアゼルバイジャン側で戦った。その他にアゼルバイジャン軍は、ファザル・ハック・ムジャーヒドによってペシャーワルで徴募され、グルブッディーン・ヘクマティヤールに率いられたムジャーヒディーンたちによっても支援された。
  さらに、アゼルバイジャン側にはシャミル・バサエフ率いるチェチェン人民兵も加わっていた。彼らは同時期のアブハジア戦争の際にロシアのGRUから直接軍事訓練を受けてアブハジアのために戦っていた勢力だった。
  アゼルバイジャン軍大佐のアゼル・ルスタモフ (Azer Rustamov) によれば、バサエフとサルマン・ラドゥエフが指揮した数百人のチェチェン人義勇兵は、アゼルバイジャンにとって大きな助けとなったという。だが、やがてバサエフはアゼルバイジャンがイスラム主義よりもナショナリズムのために戦っていると考えるようになり、戦闘から撤退した。
  また、ソ連時代に各地で弾圧されたユダヤ人を保護したことでイスラエルと良好な関係を築いたアゼルバイジャンは、独立後もイスラエルから多くの財政支援を受け、負傷者のケアを行うNPOなどの精神的支援もイスラエルから受けている。アゼルバイジャンと友好関係を築いていたトルコもアルメニアに対して経済封鎖を行い、これはアルメニア側の疲弊に拍車をかけた。米国系の石油企業であるメガ・オイル (Mega Oil) も、石油の掘削権と引き換えにアゼルバイジャンに軍事顧問を派遣している。
アルメニアへの支援
  世界各国のアルメニア人ディアスポラは、本国への多額の資金援助やロビー活動を繰り広げ、1992年にはアメリカからアゼルバイジャンへ向けた軍事支援を全面的に禁止する「自由支援法 S. 907」法案を合衆国議会で通過させる後押しをした。これに対してアメリカ国内では、アゼルバイジャンを支援するオイル・ロビーやユダヤ・ロビーが「自由支援法 S. 907」の撤廃を求めて活動を行っている。
  ロシア連邦はアゼルバイジャンの警告を無視してアルメニアに違法な軍事援助を行い、その額は1993年だけで10億ドルに上った。これについてロシアは、軍事支援は政府の関知しないところで行われていたと弁解している。
戦力の詳細
  撤退する連邦内務省軍はアルメニアとアゼルバイジャンに大量の武器を残していった。崩壊間近のソ連で内務省軍の多くを占めていたのは若く貧しい徴集兵たちで、彼らは現金やウォトカのためにたやすく双方に戦車装甲兵員輸送車を売り渡した。
  1993年アゼルバイジャン共和国外務省の発表によれば、この取引によってアゼルバイジャンは戦車286両、装甲車842両、火砲386基を入手し、当時のアゼルバイジャン軍はアルメニア側よりも恵まれた状況にあったとの指摘もある。これについてアルメニア、アゼルバイジャンの双方とも、紛争発生の最終的な原因は武器の管理を徹底しなかったゴルバチョフの政策にあると非難している。闇市場へ出回った武器のほとんどはロシア製か東欧製だったが、市場の拡大は西欧からの武器の輸入も促進させた
航空戦力
  ナゴルノ・カラバフ戦争における航空戦は、主に戦闘機と攻撃ヘリコプターによって行われた。特に両軍で広く投入されたのはMi-8とその改良型のMi-17攻撃ヘリで、両軍はガンシップとしてMi-24攻撃ヘリも保有していた。アルメニア側はSu-25攻撃機も2機保有していたが、そのうち1機は同士討ちで喪失しており、その他にいくつか保有していたSu-17戦闘爆撃機も、その老朽化のために前線へ出動することはなかった。しかし、結果的にアルメニア側はアゼルバイジャン軍の戦闘機28機と攻撃ヘリ19機を撃墜した
  アゼルバイジャン空軍は4、50機の戦闘機を保有しており、それらは多くの場合旧ソ連軍出身の経験豊富なロシア人とウクライナ人の傭兵がパイロットとなっていた。ステパナケルトを爆撃したのはMiG-21MiG-25といったジェット戦闘機の最新型、その他旧式のSu-24戦闘爆撃機だったが、これらのパイロットたちには5千ルーブルを超える月給が支払われていた。
  彼らはかつてのソ連内務省軍兵士と同様に貧しい人々で、その家族を養うために傭兵として雇われた男たちだった。アゼルバイジャン軍機はロシアの支援を受けたアルメニア軍に撃墜されることもあったが、そうした場合にはパイロットは処刑の危機に瀕することもしばしばだった。また、アルメニア側の強固な防空体制により、アゼルバイジャン軍が航空作戦で大きな成果を上げることはなかった
ソ連崩壊後
  1991年夏の保守派クーデターが失敗に終わると、アルメニア人は国民投票で圧倒的多数の賛成でソ連からの独立に賛成したデューク & カラトニツキー 。続く9月の大統領選挙ではテル=ペトロシャンが80パーセントの得票率で独立アルメニアの初代大統領に就任したデューク & カラトニツキー 。一方のアゼルバイジャンでも9月に共和国最高会議が満場一致で独立に賛成し、続く直接制大統領選挙では、共産党を離脱し無所属となったムタリボフが人民戦線に圧勝して独立アゼルバイジャン初代大統領となったデューク & カラトニツキー
  12月10日、ナゴルノ・カラバフ自治州はアゼルバイジャンからの独立を問う住民投票を行った。自治州内のアゼルバイジャン人はこれをボイコットしたが、アルメニア人を中心とする有権者の85パーセントが投票に参加し、95パーセントの賛成多数によって、翌1992年1月6日に、ナゴルノ・カラバフ自治州は「アルツァフ共和国」として独立を宣言した。
  輪作戦は両民族の散発的な衝突を激化させ、双方の臨時編制軍に数千人の義勇兵が志願した。アルメニアではこの紛争は19世紀末から20世紀初頭にかけてのオスマン帝国に対する民族解放運動と重ね合わせられ、当時のアルメニア人ゲリラであるアンドラニク将軍ガレギン・ヌジュデをテーマとする作品が流行した。
  18歳から45歳の男性が政府に徴集され、女性たちも衛生兵として軍に参加した。多くの人々が戦いに志願したが、これと反対に出征に応じない者も多く、兵士の死体からの略奪や物資の闇市場への売却なども行われていた
ホジャリ大虐殺詳細は「ホジャリ大虐殺」を参照
  2月初頭、マリベイリ、カラダグリ、アガダバンのアゼルバイジャン人の村が襲撃され、村人が排除される過程で民間人から少なくとも99人の死者と140人の負傷者を出した。
  当時、アルメニアとナゴルノ・カラバフを接続していたのは細い山道を通るラチン回廊のみで、ナゴルノ・カラバフで唯一の空港はステパナケルトからおよそ10キロメートル北西の、人口7千人の小さなアゼルバイジャン人居住区、ホジャリに置かれていた。
  加えてホジャリはステパナケルトに対するアゼルバイジャン側の砲撃拠点とされており、ステパナケルトには数日にわたって4百発ほどの122ミリロケットがアルメニア人の多層アパートに向かって降り注いでいた。
  2月末、アルメニア軍はアゼルバイジャン側へ通告を行い、今後砲撃を停止しない場合はホジャリを占領すると最後通牒を発した。一方、アゼルバイジャン側の報道によれば、ホジャリは周囲のアルメニア人居住区から3か月にわたって爆撃を受けており、水道や電気も1月から停止していたという山道を通るラチン回廊のみで、ナゴルノ・カラバフで唯一の空港はステパナケルトからおよそ10キロメートル北西の、人口7千人の小さなアゼルバイジャン人居住区、ホジャリに置かれていた。

  ほどなくホジャリの大部分は包囲され、26日にアルメニア軍は第366軍の装甲車両数台を以てホジャリの制圧を開始した。ヒューマン・ライツ・ウォッチや「メモリアル」の報告書、そしてアルメニア軍司令官モンテ・メルコニアンの兄によるメルコニアンの評伝が共通して記すところによれば、ホジャリを攻略した後、アルメニア軍は街から避難しようとする数百人のアゼルバイジャン人に対して虐殺を行った。
  アルメニア軍は以前、ホジャリを攻撃したとしても、市民の退避のためにアゼルバイジャン支配域への回廊は封鎖せずに残しておくと述べていた。にもかかわらず、攻撃が始まるとアルメニア軍は民間人を含むホジャリの防衛組織を武力で圧倒して空港の滑走路を破壊し、退路を断たれ回廊へ逃れようとした民間人たちに銃撃を加えた。生存者の多くも、凍死するか重度の凍傷を負い、犠牲者たちの遺体にも執拗に損傷が加えられた。
  事件の正確な犠牲者数は不明だが、少なく見積もったとしても485人、アゼルバイジャン当局の公式発表では女性106人と子供83人を含む613人の民間人が虐殺されたという。この他にも1257人がアルメニア側の人質となり、拷問、強姦されたとされる
  ホジャリでのアルメニア人の略奪も、アルツァフ共和国政府によって合法化された。ホジャリの市長は、紛争の4年間で千人以上が殺害され、200人以上が行方不明となり、同じく200人が戦闘で負傷して300人が捕虜となったと語っている。

  ホジャリの生存者らは、ムタリボフが自身の失政を隠蔽するためにホジャリからの救援要請を無視したと主張し、これに対しムタリボフは、虐殺事件そのものが自分を失脚させるために政敵のアゼルバイジャン人民戦線が仕組んだマッチポンプであると述べた。アルメニア側もムタリボフの論に同調し、虐殺を捏造であるとして否認している。ヒューマン・ライツ・ウォッチの前身であるヘルシンキ・ウォッチによる同年の調査では、制服あるいは武装した状態のアゼルバイジャンのOMONもしくは民兵が民間人の中に紛れており、アルメニア軍はそれに向けて発砲した可能性があると報告されている。
  8万人を超す抗議者が議事堂を取り囲むなか、ホジャリの喪失と人命の損傷について野党人民戦線から責任を追及されたムタリボフは3月8日に議会に辞表を提出し、臨時大統領には人民戦線のヤグブ・ママドフが就任した。
テヘラン共同宣言
  一方、1992年初頭からは新たな和平調停の試みがイランによって始められていた。2月から外相アリーアクバル・ヴェラーヤティーがバクー、エレヴァン、カラバフを訪問し、その後の一時調停はホジャリ大虐殺によって中止されていたが、3月にも特使のマフムード・ヴァエズィーシャトル外交を繰り返し、最終的に大統領ハーシェミー・ラフサンジャーニーが5月7日にテル=ペトロシャンとママドフの両国大統領をテヘランでの会談に出席させることに成功した。この会談によって、軍人を含む両国の最高レベルの代表者による協議の組織化が取り決められ、当事者間のすべての紛争は全欧安全保障協力会議 (CSCE) によって国際法に基き解決されることが宣言された。ヴァエズィーとCSCEのオブザーバーの介入の後、両国はあらゆる交流の再開に合意した。合意事項には国境地帯の安全確保のみならず、継続的な難民問題の解決を国際基準や国連憲章によって保障することも含まれていた。
  だが、合意の翌日に停戦協定に違反してアルメニア軍がシュシャに侵攻し、和平交渉は無に帰した
シュシャ占領(詳細は「シュシャ占領」を参照)
  3月28日にアゼルバイジャン側はステパナケルトへ攻撃を開始し、翌日午後には街の近くまで達したが、ほどなくアルメニア人たちによって押し返された。ホジャリ占領後の数か月後にはシュシャはアゼルバイジャン側の最後の砦となり、アゼルバイジャン軍は再びグラートミサイルでステパナケルトに対する砲撃を開始した。
  4月にはステパナケルトの5万人のアルメニア人は相次ぐ砲撃により地下壕暮らしを強いられ、都市周辺部からのアゼルバイジャン軍侵入の危険も高まったため、アルメニア軍は5月8日に戦車やヘリコプターと数百人の兵力を以てシュシャのアゼルバイジャン軍要塞に攻撃を加えた。繰り広げられた激しい市街戦によって双方に数百人の死者が発生したが、翌日にはアゼルバイジャン軍はアルメニア軍によってシュシャから追い立てられた。これにより、アゼルバイジャン側には23,156人の難民が発生した。
  シュシャの占領は隣国トルコで大きな反響を呼び、首相スュレイマン・デミレルは、自国民から紛争に介入しアゼルバイジャンを支援するよう強く要求されていると語った。デミレルは、トルコの介入はイスラム世界とキリスト教世界のさらなる対立を引き起こす恐れがあるとしてこれに反対した。しかし、トルコは派兵こそ行わなかったものの、実質的な軍事支援と顧問の派遣をアゼルバイジャンに対して行った。1992年5月にはCIS元帥エフゲニー・シャポシニコフが、カフカース情勢への干渉は第三次世界大戦を招きかねない、とアメリカと西欧諸国に対して警告を発した。
  2012年夏には、プレイヤーがアゼルバイジャン兵となってシュシャでの戦闘に参加するという設定の、ゴア描写を含むファーストパーソン・シューティングゲーム占領下―シュシャ』が、アゼルバイジャンでリリースされている。
ラチン占領
  5月18日、アゼルバイジャンでの政争を尻目にアルメニア軍は回廊内の小さな町、ラチンに攻撃を加え、ほとんど防御のなされていなかったラチンは翌日までに制圧された。その後もアルメニア軍は周辺の山岳地帯を攻略し、やがてナゴルノ・カラバフと本国のアルメニア人勢力圏は地続きとなった。
  同月にはナヒチェヴァンにもアルメニア軍によって砲撃が加えられている。これを受けてアゼルバイジャン国内では人民戦線の武装クーデターによって大統領府や議事堂、空港が占拠され、一時は復権していたムタリボフも政治生命を絶たれモスクワへ亡命した。
  6月7日には大統領が改選され、人民戦線大統領のアブルファズ・エルチベイが議会によって次代大統領に指名された。エルチベイは徹底した親トルコ、親欧米、かつ主戦派であり、ロシアとイランに対しては冷淡であった。シュシャ占領後も和平の努力を続けていたヴァエズィーの尽力もこれに至っては意味を持たず、最終的にイランは紛争によるアルメニア側の国境変更要求を一切受け入れないと言明するに至った。
  同年夏にはCSCE加盟国のうち11か国がアルメニア・アゼルバイジャン間の和平調停を目的として新たに「ミンスク・グループ」を結成した。CESEは停戦の監視や難民への人道支援の保護のためにNATOとCISによるPKOの投入を決定し、いくつかの地域で停戦は見られたものの、7月に入ると両国間の交渉は完全に決裂した。
  CESEは冷戦終結後に相次いで発生したユーゴスラビア紛争沿ドニエストル戦争チェチェン紛争、アブハジア戦争、南オセチア戦争などへの対応に追われ、ナゴルノ・カラバフ戦争についてはほとんど影響力を発揮することができなかった。また、ミンスク・グループで最も強い影響力を持っていたロシアが現地の親露勢力に肩入れするばかりで、民主化に注力しなかったことも、CSCEの和平調停が行き詰まった原因に挙げられる。
ゴランボイ作戦(詳細は「ゴランボイ作戦」を参照)
  6月後半、アゼルバイジャン軍はナゴルノ・カラバフ北側に接し、アルメニア側の占領下にあったゴランボイ県へ進軍した。これに対して、従来まで戦争はアゼルバイジャンでの内戦であり自国は無関係であると主張していたアルメニア政府は、ナゴルノ・カラバフ分離独立を支援するとして公然とアゼルバイジャンを威嚇した。6月18日にアルツァフ共和国政府は非常事態宣言を発令し、8月15日にはロベルト・コチャリャン率いる国家防衛委員会が結成された。ナゴルノ・カラバフでは18歳から40歳、将校では50歳までの男性と訓練経験のある女性が国防軍へ徴兵された。しかし、アゼルバイジャン側でこの攻撃に加わっていたのが当時ギャンジャに駐屯していたロシア空挺軍第104防衛師団からのロシア人兵士であったため、彼らはアルメニア側の説得に応じて攻撃を停止し、また武器の譲渡も行ったため、反対にアルメニア側の武装が強化されることとなった。
  1993年3月のテレビ・インタビューにおいてメルコニアンは、自分の軍はマルトゥニだけで55両のT-72と24両のBMP-2、15両の装甲兵員輸送車及び25基の重砲を鹵獲し、「我々の武装のほとんどはアゼルバイジャンからの鹵獲品だった」と語っている。また、ナゴルノ・カラバフ国防軍指揮官であったセルジ・サルキシャンは、戦争全期を通して鹵獲したアゼルバイジャン軍の戦車は156両に上ると主張している。
窮乏
  冬が近づくと、民生用のエネルギーが不足し始めたため、両勢力は大規模な攻撃を控えるようになった。アゼルバイジャンによる経済封鎖は未だ続いていたが、アルメニアとナゴルノ・カラバフにはトルコを経由した援助も散発的に届いていた。
  しかし、震災によってメツァモール原子力発電所が閉鎖されて以降、アルメニアの電力不足と食糧不足はその深刻さを増していった。さらに、隣国グルジアでアブハジアと南オセチアの分離戦争が発生したことにより、ロシアからアルメニアへ通じていた唯一の石油パイプラインも破壊された。そのため、1992年から翌1993年の冬の寒さは湯の供給を断たれたことにより、アルメニアとナゴルノ・カラバフで特に耐え難いものとなった
  穀類の供給も滞るようになったが、これに対しては各国のアルメニア人ディアスポラが本国へ寄付と援助を行った。1992年12月にはアメリカからバトゥミを経由して3万3千トンの穀物と150トンの乳児用調整粉乳がアルメニアへ届けられた。翌年2月には欧州経済共同体からECUが450万送付された。
  一方、アゼルバイジャン国内に発生していた難民たちは、アゼルバイジャンとイランの両政府が設置した臨時のキャンプでの生活を強いられていた。しかし、国際赤十字によれば、12月までに毛布の配給を受けており、食糧の状態も充分であったという。また、国家財政の重要な地位を占めていた石油の輸出も、ソ連時代からの設備の老朽化と、欧米企業の投資や介入によって、完全にその利益をアゼルバイジャンのものとすることはできなかった。
カルバジャルの戦い(詳細は「カルバジャルの戦い」を参照)
  エルチベイはアルメニアとの和平交渉には楽観的で、またエリツィンとアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュも和平を求めていたが、1993年1月から機運は衰えていった。3月になると、ナゴルノ・カラバフ北部、マルタケルト近郊のサルサング貯水池にもアゼルバイジャン軍により攻撃が加えられた。ゴランボイでの戦いから戻ったばかりのメルコニアンの軍勢は、砲撃地点と考えられたカルバジャルへ向かい、ほどなく同地を占領していくらかの装甲車両と戦車を鹵獲した。4月2日にはアゼルバイジャン軍は壊滅的な打撃を受け、翌日の第二波攻撃でアルメニア軍はカルバジャルを占領した。
  この戦闘の後2か月間、エルチベイは非常事態を宣言し国民皆兵制を敷いた。翌月の4月30日、トルコとパキスタンが共同主催した国際連合安全保障理事会決議822では、すべての敵対行動の即時停止とカルバジャルからのすべての占領軍の撤退が求められている。また、ヒューマン・ライツ・ウォッチはアルメニア軍がカルバジャルで民間人の強制追放や人質利用、無差別の放火を犯したと指摘している。
アゼルバイジャン側の劣勢
  ゴランボイとカルバジャルでの相次ぐ敗北、そして反露、反イラン政策により両国の親アルメニア化を招いたことにより、アゼルバイジャンでエルチベイは支持を失った。そして、ギャンジャで軍閥を形成していたスラト・フセイノフ大佐がロシアに支援されたクーデターを引き起こしたことによりエルチベイは失脚し、後任に元共産党第一書記で新アゼルバイジャン党に所属するヘイダル・アリエフが大統領となった。一時は首相に就任していたフセイノフもアリエフにより逮捕され、以降のアゼルバイジャンではアリエフによる権威主義体制が構築されてゆくこととなる。10月に大統領となったアリエフはロシア、トルコ、欧米とのバランス外交を志向し、エルチベイ政権下で脱退していたCISへも再加盟を果たした。
  1994年1月初め、アゼルバイジャン軍とアフガニスタンからのゲリラが、アルメニア側に占領されていたイラン国境のフィズリ県の一部を奪回したが、フィズリの街そのものを制圧するには至らなかった。同月10日にはマルタケルトに進軍し、いくらかのアルメニア軍兵士を捕虜としたりもしたが、アルメニア側が徴集兵、正規陸軍及び自国の内務省軍を出動させたことにより、ほどなくアゼルバイジャン軍は失速した。最終的に5千人のアゼルバイジャン人と数百人のアルメニア人が死亡し、アゼルバイジャン軍は1万5千人の兵員を喪失し撤退した。
分析
  ナゴルノ・カラバフ戦争においてアゼルバイジャン側が守勢に立たされ続けた原因には、開戦時の両軍の状態の差の他にもいくらかの要因が挙げられる。第一にアルメニア側に比較してアゼルバイジャン側の士気は概して低く、国益よりも私利私欲を優先するアゼルバイジャン人が数多く存在した。国費で武器を購入しながら廉価な装備を兵士に与えて私腹を肥やす者、果てはアゼルバイジャン人青年を数人単位百ドルでアルメニア側へ戦力として売り払うアゼルバイジャン人ブローカーもいたとされる。
  ロシアの政治学者ゲオルギー・ミルスキーもまた、アルメニア人の若い義勇兵はアゼルバイジャン人に比べて士気が高く、領土のために命を失う覚悟を持っていたと指摘している。あるジャーナリストは、ステパナケルトでは制服を着たアルメニア人男性の中に健常者を見つけることができなかったのに対し、アゼルバイジャンでは壮年の男たちがカフェでたむろしていたと述べている。
  サハロフもまた、アゼルバイジャン人にとってナゴルノ・カラバフは単に野心の問題に過ぎなかったが、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人にとってそれは生死の問題に直結していたのだと指摘している
停戦
  ロシアはかねてから南カフカースでの自国の影響力を増すためにCSCEを差し置いて独自の和平工作を行っていたが、1994年5月5日キルギス首都のビシュケクでアゼルバイジャン、アルメニア、アルツァフ、そしてロシアの代表が停戦協定に調印したことによってそれは実を結んだ。この「ビシュケク議定書」は非公開であるが、その内容には、アゼルバイジャンの主権を維持した上でのナゴルノ・カラバフへの広範な自治権の付与、ナゴルノ・カラバフに対する安全保障システムと難民問題に対する調整、占領地域からのアルメニア人の撤退、ラチン回廊及びアゼルバイジャン・ナヒチェヴァン間ルートに関する調整、などが含まれていると分析されている。6年間の戦闘の末、1994年5月12日午前0時1分に停戦は成立した。
結果
  「アルツァフ共和国」は国際社会からの承認を得られないまま事実上独立し、アルメニア側はナゴルノ・カラバフとアルメニア本国を連結する形でアゼルバイジャン領の約14パーセント(ナゴルノ・カラバフ自体を除外すると9パーセント)を占領下に置いた。アゼルバイジャン側では72万4千人、アルメニア側では30万人から50万人が難民として住処を追われた。停戦後にアルメニア人の多くはナゴルノ・カラバフへ帰還することができたが、アゼルバイジャン人の難民はアゼルバイジャン国内で難民キャンプ暮らしを余儀なくされており、深刻な社会問題となっている。
  さらに「アルメニア占領下のナゴルノ・カラバフ一帯では古代からのアゼルバイジャンの多様な文化遺産が破壊されている」とアゼルバイジャン側は主張している。青銅器時代の古墳やモスクの破壊、歴史博物館からの盗難、古文書の焼却などが行われ、アゼルバイジャン人の文化的源泉であるシュシャの被害は特に甚大であるという。占領地で「文化的ジェノサイド」が繰り広げられているとのアゼルバイジャンの抗議に対しては、国際連合を始めとする多くの組織がアルメニアを批判する決議を採択しているが、国際社会はアルメニアの行為を強く制止するには至っていない。その一方で、アゼルバイジャン側もナヒチェヴァンに中世から存在するジュルファのアルメニア人墓地2005年までに破壊し尽くしている。
  「アゼルバイジャンは情報戦でアルメニアに負けた」との意識が共有されているアゼルバイジャンでは、戦争後も日常的にテレビでナゴルノ・カラバフに関する特別番組が組まれており、これは国内で和平への妥協を許さない空気を醸成している。一方のアルメニアではナゴルノ・カラバフに関する報道はほとんど行われず、ナゴルノ・カラバフをアルメニアの一部とする既成事実化が図られているという。
和平交渉
  1997年から、CSCEの後身である欧州安全保障協力機構 (OSCE) は再三に渡ってナゴルノ・カラバフに関する和平案を提唱し続けたが、そのいずれもアルメニアとアゼルバイジャンの了承を得ることができなかった。同年にテル=ペトロシャンはナゴルノ・カラバフの一部をアゼルバイジャンへ譲渡することでの和平の用意があると述べ、ナゴルノ・カラバフの指導層を過激派であると批判した。このためにアゼルバイジャンに対し弱腰であると批判されたテル=ペトロシャンは失脚した。大統領後任にはナゴルノ・カラバフ出身でさらなる強硬派のコチャリャンが就任し、アゼルバイジャン側もバクー・トビリシ・ジェイハンパイプラインバクー=トビリシ=カルス鉄道の敷設によってアルメニア排除の姿勢を見せたことにより、和平への道は遠ざかった。
不法行為
  ソ連から独立して間もなくの戦闘だったが、1993年半ばまでアルメニアとアゼルバイジャンは国際的な協定に調印していなかった。これにはジュネーヴ条約も含まれていた。両国およびナゴルノ・カラバフ政府は第三者のメディア、人権団体によってたびたび確認されていた敵の残虐行為を非難した。
  例えば1992年ホジャリ大虐殺がヒューマン・ライツ・ウォッチとメモリアルによって確認され、同時期にマラガ虐殺がイギリスに拠点を置くChristian Solidarity Internationalのグループによって主張された。ヒューマン・ライツ・ウォッチは市民が多数住む地域へのアゼルバイジャンの空爆を非難した。また両勢力とも無差別放火、人質の拘束、市民への退去の強要を非難された。
  双方において戦争犯罪に対する事実上の拘束に従わない国際法違反があった。略奪と死んだ兵士からの身体の切断が広く報告され、それが兵士らの間で自慢された。
  もう1つの大きな出来事は兵士ではなく一般の市民によって行われた、アルメニアとアゼルバイジャンでの囚人の交換だった。正規軍または民兵とその家族との連絡が途絶えたとき、家族はしばしば彼らが捕らえていた敵兵士との捕虜交換を主導した。ニューヨーク・タイムズのジャーナリストYo'av Karnyは「この慣習はこの土地に住んでいる人々と同様に古いものである」とした。
  戦争終結後、双方が捕虜を拘束し続けているとして相手を非難した。アゼルバイジャン側はアルメニアが5,000人近くを拘束していると主張し、アルメニア側はアゼルバイジャンが600人を拘束していると主張した。
  戦争後、非営利団体のHelsinki Initiative 92はシュシャステパナケルトの2ヶ所の収容所を調査したが、戦争捕虜は1人もいないと結論づけた。また、アゼルバイジャンで労働させられているというアルメニア人の調査でも同様の結論がなされた。調査を行った団体のSvetlana GannushkinaがIWPRに語ったところによると「我々は数百人のアルメニア人がいるという情報を確かめるためアゼルバイジャンの採石場に登ったが、そこにアルメニア人は1人もいなかった」という
現在の状況(詳細は「:en:Madrid Principles」、「:en:Prague Process (Armenian–Azerbaijani negotiations)」、「:en:Nagorno-Karabakh Declaration」、および「:en:Landmine situation in Nagorno-Karabakh」を参照)
  戦争終結以来、いくつかの組織が紛争に関する決議を行っている。
  2005年1月25日、PACEは法的拘束力はないものの物議を醸した決議1416を採択した。これは「大規模な民族追放、単一民族地域の建設」を批判し、アゼルバイジャン領がアルメニア軍によって占領されているとした。
  2008年5月14日、国際連合総会の39ヶ国は総会決議62/243を採択した。これは「すべてのアゼルバイジャン領内占領地からの即時、完全かつ無条件でのアルメニア軍の撤退」を求めるものだった。しかしながら、この採決ではほぼ100ヶ国が棄権し、ミンスクグループOSCEがナゴルノ・カラバフ問題の平和的解決のため発足させた)の共同議長であるロシア、アメリカ、フランスを含む7カ国は反対した。
  2008年3月14日、イスラム協力機構の首脳会議、外相会議において加盟国はOIC決議10/11を採択し、2010年5月18日から20日にかけて外相会議決議10/37を採択した。どちらもアルメニアのアゼルバイジャンに対する侵略行為を非難し、直ちに国連安保理決議822,853,874 および 884を履行することを求めた。これに対してアルメニアの指導者らは、アゼルバイジャンは「国際的な支援を呼び込むためにイスラームを悪用している」とした。
  2008年、ロシアの軍事雑誌モスクワディフェンスブリーフはアゼルバイジャンの国防費の急激な増大のため、軍事力のバランスがアゼルバイジャン優位にシフトしつつあると述べた。別のアナリストらはより慎重な見方を示しており、アゼルバイジャン軍には管理上および軍事的な明らかな欠陥があると指摘し、またナゴルノ・カラバフ軍には「常に万全の用意」があるとする
停戦後の衝突(詳細は「2016年ナゴルノ・カラバフ紛争」および「2020年ナゴルノ・カラバフ紛争」を参照)
  2008年、アルメニア、アルツァフ共和国、アゼルバイジャンの間で緊張が高まった。外交面では、アゼルバイジャン大統領イルハム・アリエフは「必要とされれば、アゼルバイジャンは領土を奪還するため武力行使に出るだろう」と再度述べ、これと同時に境界線での銃撃事件が増加した。
  2008年3月5日、最も重大な停戦違反となった第一次マルダケルト衝突が起こり、最大で16人の兵士が死亡したとされる。どちらの側も、もう一方が戦闘を始めたと主張した。さらに、この事件は砲撃が行われたという点で、狙撃あるいは機銃掃射にとどまっていたそれまでの衝突とは一線を画している。
  2010年夏には同様に死傷者が発生した第二次マルダケルト衝突が起こった。
  2014年6月から8月にかけてアゼルバイジャンによる停戦違反、そして大統領がアルメニアに対し戦争を示唆したことで緊張が再び高まった。
  2016年の4日戦争で緊張は沈静化するどころか悪化した。これは1994年の停戦以来最悪の衝突となった。アルメニア国防省はアゼルバイジャンが領土を奪うため攻勢を仕掛けたのだと主張した。アゼルバイジャンの報告ではアゼルバイジャン軍兵士12人が死亡、Mi-24と戦車が撃破された。アルメニア大統領セルジ・サルキシャンはアルメニア軍兵士18人が死亡、35人が負傷したと述べた。
  2020年9月27日、再びナゴルノ・カラバフでの戦闘が勃発した。アルメニア軍は、アゼルバイジャン軍が先に爆撃を行ったと主張した。一方、アゼルバイジャン軍はトルコから供与されたUCAVであるバイラクタールTB2によるアルメニア軍の地対空ミサイル車両を撃破する映像を公開した。戦闘はナゴルノ・カラバフ戦争以来最悪の規模となり、700人以上が死亡したとみられる

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