オデッサ港湾都市他



ユーロマイダン
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  ユーロマイダンとは、ウクライナで起きた市民運動のことで、2013年11月21日夜に首都キエフにある独立広場におけるデモ活動に始まり、2014年マイダン革命(尊厳の革命)(ユーロ・マイダン革命)では、親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の追放をもたらした。ウクライナがロシアとヨーロッパ連合のどちらを選択するかが争われた2004年オレンジ革命に続く革命であった
  ユーロ(Euro)は「欧州」、マイダン(maidan)はウクライナ語で「広場」の意味で、“欧州広場”という意味になる
概要(詳細は「ユーロマイダンのタイムライン」を参照)
  この抗議運動は、ウクライナ-EU 連合協定の署名を中止する代わりに、ロシアユーラシア経済連合との結びつきを強化するというウクライナ政府の決定により引き起こされた。
  運動の規模はヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の辞任要求とともに瞬く間に拡大した。この運動は「政治の腐敗」や「権力の濫用」、「(ウクライナの)人権侵害」という認識により支えられていた。
  トランスペアレンシー・インターナショナルは、ヤヌコーヴィチ大統領を世界一腐敗した人物の例とした。11月30日のデモ参加者への攻撃の後、状況はさらに悪化してより多くの参加者を招くことになり、やがてこの抗議活動は2014年ウクライナ騒乱につながっていった。

  ユーロマイダンの間はウクライナ各地で抗議運動や警察との衝突があり、特にキエフの独立広場は、参加者らによってキエフ市政当局を含めたいくつかの行政庁舎とともに占領・封鎖された。
  12月8日、デモの群衆は近くのレーニン像を倒すに至り、対デモ法ウクライナ議会を通過した後の1月に運動と衝突は増加した。参加者はウクライナ各地の地方行政庁舎を占拠し、2月中旬に勢いは頂点に達した。機動隊は広場に向かって前進し抗議者と衝突したが、完全には占領しなかった。
  警察とデモ隊はキエフの複数の場所で実弾やゴム弾を発砲し、フルシエフスコホ通りの暴動も起きた(オタワ大学のある政治学者が2015年に出した論文では、キエフのこの虐殺は政府の転覆と権力掌握を目的として合理的に計画および実行された虚偽の操作だと仮定している。ユーロマイダンによる死者一覧も参照)。

  一連の事件の結果、2014年2月21日にロシアと欧州連合調停の下、ヤヌコーヴィチ大統領と議会反対派の指導者ら(ビタリ・クリチコアルセニー・ヤツェニュクなど)によりウクライナにおける政治危機の解決合意が結ばれた。この署名にはドイツ外相フランク=ヴァルター・シュタインマイアーポーランド外相Radosław Sikorskiらが立ち会ったが、ロシア代表のウラジーミル・ルキンは署名を拒否した。
  合意締結後まもなく、ヤヌコーヴィチとその他の政府高官らは国外へ逃亡した。抗議運動の参加者らは大統領府の管理とヤヌコーヴィチの私的不動産を得た。その後、議会はヤヌコーヴィチを解任し大統領代行としてオレクサンドル・トゥルチノフを置き、前首相のユーリヤ・ティモシェンコの釈放を命じた。
  キエフでのユーロマイダンの後まもなく、ウクライナ東部において2014年クリミア危機ウクライナにおける親露派騒動が起きた。ヤヌコーヴィチの追放や新政権の誕生、EUとの連合協定の規定採択などにも関わらず、ウクライナでのロシアの影響を拒絶するために抗議運動は政府に圧力をかけ続けている。暴動後、警察機能がなくなったため、自警団キエフの治安維持にあたったが、
その一つに政党「スヴォボーダ」と繋がりがある”C14 (ウクライナ)”などいた。
反応(詳細は「ユーロマイダンに対するウクライナ国内の反応」および「ユーロマイダンに対する国際的反応」を参照)
ウクライナ
  2013年12月の世論調査(異なる三箇所の会社)によると、ウクライナ人の45%から50%がユーロマイダンを支持していて、42%から50%がそれを反対していることが明らかになった。最もデモ隊を支持している地域はキエフ(75%支持)と西部ウクライナ(80%支持)だった。12月7~8日間の世論調査では、73%のデモ隊が要求事項が行われるまでデモを続けると回答した。なお、世論調査では三つの方向に意見が分かれていることが示された。青年層の絶対多数が親ユーロ派であるのに対し、高齢層(50代以上)はベラルーシ、カザフスタン、ロシアの関税同盟条約に賛成している。
ロシア
  ロシア国有の世論調査センターによって2014年2月24日に発行された世論調査では、「ロシアは合法的に選ばれた政権の打倒に反応するべきか?」という質問に対し、肯定的に答えたロシア人はわずか15%だった。大統領のウラジーミル・プーチンは、ネオナチが背後にいると主張した。
トレンドとシンボル
  デモ参加者らの間での一般的なスローガンは「ウクライナに栄光を、英雄に栄光を!というものであった。これはウクライナを越えて広がり、クリミア・タタール人ロシア人によっても使われた。
  ウクライナ蜂起軍(UPA)の赤と黒の軍旗は参加者にとってもうひとつの人気なシンボルであり、ユーロマイダンの間、UPAは彼らにとって大きなインスピレーションの役割を果たしてきた。
  ビクトリア大学のSerhy Yekelchykは、UPAの旗とスローガンの使用は反乱者そのものへの憧れというよりは現政権やロシアへ反発する抗議運動のより強力な象徴であると述べ、「キエフにおけるUPAの象徴的意義が突然顕著になる理由は、それが現政権の親露路線に対する抗議の最も強い可能な表現だからだ。」と説明している。UPAの軍旗の色は、ウクライナのチェルノーゼムの黒土にこぼれ落ちた赤い血を象徴している。
遺産
  2014年10月中旬、ペトロ・ポロシェンコ大統領は(ユーロマイダンが始まった)11月21日は「尊厳と自由の日」として祝われるだろうと述べた。
  2019年2月には、ウクライナ政府がНебесна Cотня通りとして知られるようになったІНСТИТУЦЬКА通りの長さにわたるであろう新たなマイダン記念碑を起工した


ゲルニカ
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  ゲルニカ=ルモ(バスク語: Gernika-Lumo)またはゲルニカ・イ・ルノスペイン語: Guernica y Luno)は、スペインバスク州ビスカヤ県のムニシピオ(基礎自治体)。ゲルニカとルモ(ルノ)が連合してひとつの自治体を形成している。2013年の人口は16,863人。

地理
  オカ川が形成する谷に位置しており、オカ川下流部(ウルダイバイ河口)の心臓地である。ウルダイバイ河口の生物保護区はラムサール条約に登録されている。ビスケー湾岸のベルメオから内陸部のドゥランゴに至る南北の道路、ネルビオン川下流部のビルバオからレケイティオに至る東西の道路の交差部分にある。
  コマルカ(郡)としてはブストゥリアルデアに属しており、市街地の標高は10mである。北はフォルア、コルテスビ、アラトゥス、東はアハンヒス、南はムシカ、西はエリゴイティと自治体境界を接している。
歴史
  1366年4月28日、テーリョ伯によってゲルニカの町が建設された。主要な河川の河口部という戦略的重要性の高い場所にあり、スソの湊には船を停泊させることができた。代々のビスカヤ伯は、その称号を受ける前にゲルニカを訪れ、ビスカヤの自治を尊重することを誓うしきたりとなっていた。伯位はカスティーリャ王に受け継がれたが、王もまたゲルニカで誓いを行った。

  スペイン内戦中の1937年4月26日には、フランシスコ・フランコらの反乱軍による北方作戦の一環としてゲルニカ爆撃が行われた。同軍のエミリオ・モラ将軍は1937年3月末から同地方の攻略にかかっており、ドイツ空軍遠征隊であるコンドル軍団の爆撃隊がその支援として空襲を行った。ゲルニカ爆撃がアメリカ、イギリス、フランスなどの報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍を非難する声が世界的に巻き起こった。この反響を危惧したフランコやコンドル軍団指揮官フーゴ・シュペルレらは「ゲルニカで都市を破壊し、子供や尼僧までを殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者アナーキストの犯行である。ゲルニカ爆撃は捏造である」という謀略宣伝に努めた。画家のパブロ・ピカソパリ万国博覧会のため壁画を依頼されており、憤怒を込めて『ゲルニカ』を描きあげた。この都市の象徴的な地位のために、現在のバスク自治憲章は、1936年の自治憲章の継承者であるバスク亡命政府の支持のもと、1978年12月29日にゲルニカで承認された。現在のバスク自治州首相(レンダカリ)もゲルニカのオークの木の前で就任宣誓を行っている。
政治的な位置付け(詳細は「ゲルニカの木」を参照)
  ビスカヤ県政府はビルバオに置かれているが、ビスカヤ県議会(Junta)はゲルニカに置かれている。何世紀もの間、ビスカヤ人の伝統的な議会は「ゲルニカのオークの木」の下で開かれてきた。バスク人にとってこの木は自由の象徴であり、オークの木は代々植え替えられてきた。19世紀末まで立っていた木(第2代)は、石化されて議会場の近くで保存されている。その木に代わって1860年に植えられた木(第3代)はスペイン内戦中のゲルニカ爆撃を生き残ったが、2004年に菌病のために枯れた。1986年から生育している木(第4代)が2005年に公式な「ゲルニカの木」となったが、その木も病気にかかったために周りの土が入れ替えられている。木のそばには集会場が建てられ、1826年に建てられた現在の議会場と兼用されている。
出身者
  マヌエル・アリェンデサラサルスペイン語版(1856–1923) : 政治家。
  ルイス・ビリャサンテスペイン語版(1920–2000) : 聖職者(フランシスコ会修道士)・神学者・著作家・言語学者。エウスカルツァインディア会長(1970-1988)。
  マウリスペイン語版(1934-) : サッカー選手。
  ロベルト・ライセカスペイン語版(1969-) : 自転車競技選手。
  ペッロ・ビルバオ:自転車競技選手
  アシエル・ビジャリブレ(1997-) : サッカー選手。
姉妹都市- ボイシアメリカ- プフォルツハイムドイツ- ベルガ、スペイン- セラヤ、メキシコ- グアダラハラ、メキシコ- セラヴァッレ、サンマリノ- バチカン、バチカン市国


オデッサ
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  オデッサは、ウクライナ南部、ドニエストル河口から北に約30km、黒海に面した港湾都市である。オデッサ州州庁所在地で、首都キエフから約443km南に位置する。2015年現在の人口は約101万人、ウクライナで3番目に大きな都市となっている。面積は約160km2。オデッサはウクライナ最大の港湾を備え、ウクライナを代表する工業都市、リゾート地としても知られている。
  ロシア帝国時代には黒海に面する港湾都市であるオデッサはロシア帝国と外国の経済・文化の交流の拠点となっていた。20世紀のオデッサ出身の作家レフ・スラーヴィンはオデッサの人間の気質について「何かを理解するためにはどんなものでも手でじかに触り、歯で噛んでみなければ気のすまない」と説明している
名称
  オデッサの名称は、この地に古代ギリシアの植民都市オデソスが存在するという誤認に由来すると考えられている。実際のオデソスは、オデッサから離れたブルガリアヴァルナ周辺に存在していた。ギリシア風の名前が付けられた背景には、皇帝エカチェリーナ2世の治世に流行していた古典主義、町の発展に不可欠であるギリシア系商人と植民者の誘致を意図したことが挙げられている。
  ウクライナの独立以降、公用語はウクライナ語のみとなっている。従ってこの町の名もウクライナ語名Одесаのみが公式な名称と認められる。この名前については、日本語ではオデーサ、あるいはアクセント位置を示す長音符を用いずにオデサと表記する。古くはアクセント位置に長音符ではなく促音を用いていた慣習もあり、従来の表記オデッサがウクライナ語名からかけ離れているわけではない。
  ウクライナの独立まで長らく公用語として用いられてきたロシア語では、Одессаと書き「アヂェーサ」のように発音する。
歴史
建設以前
  オデッサ、およびその周辺にはキンメリア人サルマタイ人スキタイ人ギリシア人スラヴ人が居住していた。オデッサが位置する場所にはタタール人によってカチベイという集落が形成され、15世紀オスマン帝国によってカチベイの跡地に建設されたハジベイという集落がオデッサの直接の起源にあたる。1764年にハジベイにエニ・ドゥニア要塞が建設された。
  露土戦争の過程で1789年ロシア帝国はハジベイを占領し、1792年に締結されたヤシ条約によって正式にロシア領に編入された。露土戦争に従軍した海軍中将ホセ・デ・リバス、オランダ人技師デ・ヴォランらは皇帝エカチェリーナ2世にハジベイに港を建設することを進言し、1794年から港の建設が開始される。1795年にハジベイは「オデッサ」に改称される
ロシア帝国時代
  エカチェリーナ2世の死後に帝位に就いたパーヴェル1世はリバスを首都ペテルブルクに召還し、オデッサに与えられていた補助金と特権が廃止される。パーヴェル1世の跡を継いだアレクサンドル1世はオデッサの経営に関心を示し、1803年にフランス人アルマン・エマニュエル・リシュリューをオデッサの長官に任命した。また、移民の誘致と並行して、貿易の振興に必要な港湾施設の整備、税制の優遇政策が実施された。リシュリューの下でオデッサは劇的に発展し、1803年当時9,000人だった人口は1813年の時点で35,000人に増加し、1804年に2,340,000ルーブルだった輸出総額は1813年には8,860,000ルーブルに増加する。1812年8月から1814年2月にかけてオデッサでペストが流行し、人口の2割程度が死亡したと推定されている。1814年9月にリシュリューはオデッサ長官の職を辞し、フランスに帰国した。
  1819年にオデッサは自由貿易港に定められ、1823年にノヴォロシア総督に就任したミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフの下で自由貿易港となったオデッサは飛躍的な発展を遂げる。ヴォロンツォフは経済の振興以外に文化事業、慈善事業にも力を注ぎ、彼の在任中に考古学博物館、救貧院、孤児院、聾盲学校が設立され、有力紙となる『オデッサ報知』が創刊される。雨後の筍に例えられる急速な発展を遂げたオデッサは「幼年期を持たない都市」とも呼ばれ、19世紀後半に入った後にも成長は続く。また、ペテルブルクからの追放処分を受けていた詩人アレクサンドル・プーシキンは、オデッサ滞在中の一時期ヴォロンツォフに仕えていた。プーシキンとヴォロンツォフの妻は恋仲になり、ヴォロンツォヴァ夫人がプーシキンに贈ったヘブライ文字が刻まれた指輪はオデッサに伝説を残した。プーシキンが指輪を持ち帰ったにもかかわらず、指輪はオデッサに残されていると信じられ、指輪がオデッサを守護し続けていると言われている。
  1853年から1856年にかけてのクリミア戦争においてオデッサも戦渦に巻き込まれ、1854年に4月10日にイギリス・フランス合同艦隊の砲撃によって死傷者が出、ヴォロンツォフ宮殿などの建築物も被害を被った。砲撃を受けてもオデッサは抵抗を続け、防御を突破できなかった合同艦隊はやむなく退却する。クリミア戦争時にイギリスのフリゲート艦から奪取した大砲は海並木通りに置かれ、当時の記憶をとどめている。
  19世紀末にオデッサはペテルブルク、モスクワワルシャワに次ぐロシア帝国第四の都市に発展し[7]、ペテルブルクに次ぐ貿易港となる。1865年に鉄道が開通し、オデッサ大学の前身であるノヴォロシア大学が開校した。生活用水の需要を満たすために1873年ドニエストル川の水を汲み上げる設備が建設され、翌1874年に大規模な下水道が完成する。上下水道の整備、市当局による環境・衛生状態の調査によりオデッサはロシアを代表する衛生的な都市として知られるようになる。
  1875年にロシア初の労働者の政治組織とされる南ロシア労働者同盟がオデッサで結成され、1900年にはロシア社会民主労働党オデッサ委員会が設立された。1905年から1907年にかけてのロシア第一革命ではオデッサは革命運動の一拠点となり、1905年6月には水兵による反乱が起きたポチョムキン号が入港する。革命後に町は落ち着きを取り戻し、穀物輸出と工業生産が上向きを見せ始めた。1914年第一次世界大戦が勃発した後、オスマン帝国によってダーダネルス海峡が封鎖されたためにオデッサの対外貿易は停止し、町は爆撃を受ける。
ソビエト連邦時代
  1917年二月革命後のオデッサには臨時政府ソビエト権力、ラーダなどのウクライナ民族派が並立し、それらの勢力に外国の干渉軍も加わって支配権を争った。1918年1月にソビエト政権が支配権を握るが、3月から11月にかけてドイツ・オーストリア軍がオデッサを占領した。ウクライナ民族派のディレクトーリヤの支配を経て、1919年4月までイギリス・フランス連合軍の占領下に置かれる。1919年8月から1920年2月まで反革命勢力のアントーン・デニーキンがオデッサを制圧するが、デニーキンはソビエト軍に破れ、1920年2月7日にオデッサにソビエト政権が樹立された。二月革命からソビエト政権の樹立に至るまでの騒乱はオデッサの経済に大きな痛手を与え、町の建築物の4分の1が破壊されたと言われている。1914年当時のオデッサは630,000人の人口を擁していたがボリシェヴィキ政権を避けて多くの人間がロシア国外に脱出し、さらに1921年から1922年にかけての大飢饉が町の衰退をより進め、1924年に人口は324,000人に減少していた。
  ソビエト連邦時代にオデッサはウクライナ共和国オデッサ州の州都に定められる。第二次世界大戦期においては、1941年8月5日にドイツ・ルーマニア軍がオデッサを攻撃し、2か月以上の戦闘の末にソ連軍はセヴァストポリに撤退した(オデッサの戦い (1941年))。1941年10月16日から1944年4月10日までオデッサはナチス・ドイツ、ルーマニア連合軍の占領下に置かれ、複雑に入り組んだ地下の石灰岩の採掘跡を拠点としてパルチザン活動が行われた。第二次世界大戦中にオデッサの多くの建物が破壊され、280,000に及ぶ人間が虐殺・連行されたが、犠牲者の多くはユダヤ人だった。ドイツ軍に対するオデッサ市民の抵抗を顕彰され、戦後町は英雄都市の称号を与えられた。
  オデッサの工業は第二次世界大戦後も成長し、1970年代には新しい港湾施設が建設された。1970年代後半に人口は1,000,000人に達し、ソ連時代末期の1989年には1,115,000の人口を擁していた

ウクライナ独立後
  ソビエト連邦崩壊後のオデッサには一時的に経済的に困窮した時期が訪れる。2000年3月にオデッサの商業活動を振興するため、約140年ぶりに自由貿易港に指定された。
  2021年8月、旧ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンによる「大粛清」の犠牲者とみられる数千人の遺骨が同都にて発見された。これらの遺骨について、国立記憶研究所の地方館長を務めるセルギー・グツァリュク(Sergiy Gutsalyuk)は、国家保安委員会(KGB)の前身かつスターリンの秘密警察として知られた内務人民委員部(NKVD)が1930年代に処刑した人々のものではないかと観ている。
気候
  オデッサは温暖で日照時間も多く、古くから保養地として利用されていた。太陽の光に恵まれているオデッサは映画の撮影にも適し、映画スタジオで多くの作品が生み出された。7月の平均気温は22度、1月の平均気温は-3度
民族・言語
民族
  オデッサの民族の中で最大の割合を占めているのはウクライナ人(69%)で、それに次いでロシア人(29%)が多い。
  ロシア帝国時代のオデッサは帝国内部から移住したロシア人ウクライナ人と、国外からの移住者が混在する多民族都市の性質を持っていた。1803年にオデッサの長官に就任したリシュリューの元で外国人の商人や職人の誘致が行われ、彼らには軍役の免除などの特権が与えられた。ユダヤ人、ドイツ人、フランス人、ギリシア人、ポーランド人、セルビア人、アルメニア人、ハンガリー人、モルドバ人、ブルガリア人、アルバニア人、トルコ人、ロマなどの民族がオデッサに移住している。また、メノー派古儀式派ドゥホボール派などの宗教的少数派に属する人間もオデッサとその周辺に移住した。
  ギリシア人はオデッサの発展に多大な貢献をし、経済の中心となっていた穀物輸出、ホテルとレストランの経営、文化・公共事業で活躍した。1879年からおよそ4半世紀の間オデッサの市長を務めたグリゴリー・マラズリはギリシア系移民の子孫の一人で、教育施設、公共図書館の建設を行い、ロシア初の細菌学研究所の設立を支援した。穀物輸出ではギリシア人だけではなくイタリア人も重要な役割を担い、イタリア人はオデッサの文化面においても大きな影響を与えている。貿易の世界にユダヤ人が進出し、貿易活動が停滞するとギリシア人とイタリア人の多くはオデッサを離れ、19世紀後半に入るとギリシア・イタリア系住民の数は減少に転じた。

  ロシア帝国の他の都市と異なり、オデッサではユダヤ人の生活に課せられる制限が少なく、抑圧に苦しむ多くのユダヤ人がこの町に移り住んだ。18世紀後半のポーランド分割後、オデッサにポーランド出身のユダヤ人が多く移住し、19世紀後半には町の人口の35%近くをユダヤ人が占めるようになっていた。オデッサのユダヤ人は商業以外に法曹、医療といった専門分野で活躍し、病院、学校、孤児院などの社会的な施設を設立した。オデッサはロシア帝国最大のユダヤ人都市となり、19世紀と20世紀の変わり目には人口の約3分の1がユダヤ人で占められていた。1870年代以降オデッサでは二度の大規模なポグロムが発生し、1905年に起きた最大のポグロムでは1,000人の死者が出、50,000人のユダヤ人が退去したと言われている。19世紀末からのポグロムに加えて第二次世界大戦によってユダヤ人人口は激減し、1959年当時のオデッサの人口はウクライナ人の273,000人、ロシア人の254,000人に対してユダヤ人の人口は107,000人で、割合は16%となっていた。それでもオデッサはウクライナ、ひいてはソ連最大のユダヤ人コミュニティを有していたが、1970年代からのユダヤ人の大量出国によって人口の減少に拍車がかかった。
  ソビエト連邦時代のオデッサではウクライナ化、ロシア化が進められたために国際都市の特徴が失われ、ウクライナ南部地方の中心都市に変化していった。1930年代にソビエト政府はウクライナ化政策をロシア化政策に転換し、オデッサでも文化的・言語的にロシア化が進展した。オデッサは民族解放運動が盛んな町としても知られ、ロシア帝国やオスマン帝国からの独立を志向する運動家、シオニスト、革命家の活動拠点となった。
言語
  ウクライナ人が多数派であるにもかかわらず、町ではロシア語が支配的な地位を有している。2015年では、家庭で話される言語の割合はロシア語が78%、ウクライナ語が6%、ロシア語とウクライナ語の両方が15%だった。ウクライナ東部・南部の地域と同様に、オデッサではウクライナ語よりもロシア語の方が多く話されていると言われており、オデッサのロシア語には独特の語彙や言い回しが使われている。多民族都市として誕生したオデッサでは多くの言語が話され、19世紀末には50以上の言語が使われていたという。
  多民族都市の様相を示していた19世紀後半のオデッサでは人口の50.78%を占めるロシア語話者と32.5%を占めるイディッシュ語の話者が二大勢力となっていた。ウクライナ語の話者は3番目に多いものの、ロシア帝国ではウクライナ語の使用・教育が禁止されていたため、5.66%にとどまっている。初期のオデッサで活躍したイタリア人が話すイタリア語は長い間オデッサの主要な言語となり、公正証書、勘定表、価格表だけでなく劇場の広告がイタリア語で表記されていた。ソ連時代のオデッサでは言語のロシア化が進められ、1990年にオデッサで実施された調査において市の人口の65%、ウクライナ人の3分の1以上、ユダヤ人の大部分がロシア語が母語だと回答した
経済
  デ・リバス、リシュリューらによって統治された初期のオデッサは貿易・商業の発展に重点が置かれ、オデッサの背後に広がる穀倉地帯から集まる穀物の輸出を基盤としてロシア有数の国際貿易港に成長した。19世紀半ばの自由貿易港時代に交易はより活発になり、オデッサの穀物輸出で主要な役割を果たしていたギリシア人とイタリア人によってウクライナの小麦がヨーロッパ中に輸出され、ウクライナは「ヨーロッパのパンかご」と呼ばれるようになった。1847年の時点では、ロシア帝国全土から輸出される穀物のうち、半分以上がオデッサから積み出されていた。小麦以外には、ロープ類、皮革獣脂が輸出されたほか、輸入量も大きく増加し、ワイン、果物、タバコ、絹などの輸入品の一大集積地となった。また、貿易・商業の振興に伴って金融機関が整備され、1804年に商業銀行、1806年にロシア初とされる海上保険会社が設立された。1880年代から港湾施設の老朽化やウクライナの対外的な小麦の供給地としての地位の低下のため、オデッサの貿易に陰りが見え始め、輸出総額と輸入総額が減少する。

  オデッサ最初の工場は、1799年にフランス人によって建てられた化粧品の工場である。後背地から豊富な原料を調達できるオデッサには、マカロニビールウオッカ、ロープ類、獣脂、石鹸ロウソクなどの加工製品の工場が多く建てられた。19世紀末からは加工工業に代わり、金属工業が成長を見せ始める。
  ソビエト政権下のオデッサでは外国との自由取引が制限されていたために貿易の役割が低下し、金属工業、機械製造業が主要な産業となった。オデッサに30以上の企業が新設され、古いものは再建された。1940年の工業生産は1913年の水準の8倍に達した。第二次世界大戦後にオデッサの重要性は低下するが、工業の一中心地としての地位を保ち続けた。主として工作機械、鉱山用・農業用機械、クレーン、ウィンチ、ガス発生炉、冷凍機、印刷機、映写機、計量器などの機械が生産されていた。
  ウクライナ独立後のオデッサの主要工業は機械製造、金属加工、造船、食品加工、石油化学などで、ソ連時代と比べて大きな変化は無い。2002年5月にはオデッサとブロディを結ぶ石油パイプラインが完成した。
  ソビエト連邦時代に保養地としての開発が進められ、サナトリウムや休息の家が建設され、泥や鉱泉を利用した治療が行われた。オデッサの近郊にはアルカーディヤなどのビーチが点在する。
建築物
  19世紀以前のオデッサの町並みは「海賊の集落」と呼ばれるように建設が進んでいなかったが、1803年に長官としてオデッサに赴任したリシュリューによって町作りが進められていった。デ・リバスの都市計画を生かした上で左右対称の町並みが形作られ、新古典主義様式の建物が建てられていった。建物の建設以外に並木道の整備、街灯の設置が進められ、植林が推奨された。リシュリュー時代を代表する建築物として1809年に完成した市立劇場があり、800の座席と立見席を有していたが、1873年に劇場は火災で焼失した。19世紀後半には1884年に完成したオデッサ駅1887年に再建された市立劇場、1898年に完成した新しい証券取引所などのオデッサを代表する建築物のいくつかが建てられた。オデッサの開発にあたって必要な石材は現地で調達され、石材の採掘跡として1,000kmにわたる地下道が残された。第二次世界大戦期に地下道はパルチザンの拠点となり、一部はパルチザン記念博物館として一般に公開されている。
  歩行者道のデリバスィフスカ通りはオデッサの中心で、商店や安宿が集まっている。もう一つの表通りである高台を通るプリモールスキー並木通りは、デリバスィフスカ通りとは対照的に閑静な雰囲気がある。町の各所にはデ・リバス、リシュリュー、ヴォロンツォフら町の建設に貢献した人物や、オデッサに滞在したプーシキンの像が建てられている。市の中心部にはポチョムキン号の水兵を記念するモニュメントが置かれているが、帝政ロシア時代にはエカチェリーナ2世の像が建てられていた。アレクサンドル2世によって建設されたアレクサンドル公園はソ連時代にシェフチェンコ公園に改称され、公園に建てられていたアレクサンドル2世を追悼するモニュメントはシェフチェンコの像に代えられている。
主な観光名所
  ・オデッサ・オペラ・バレエ劇場 - 1873年に市立劇場が焼失した後、1887年建てられた劇場で、オデッサのシンボルとして知られている。ウィーンの建築家であるフェルナーとヘルマーの設計によって1883年から建設が開始され、1887年に完成した。イタリア・ルネサンス様式とバロック様式が融合した建築物で、外壁にはプーシキン、ゴーゴリ、グリボエードフグリンカの胸像が飾られている。また、正面ファサードには音楽、舞踏、喜劇、悲劇の神の彫像が置かれている。
  ・ポチョムキンの階段 - 1837年から1842年にかけて建設された階段。最上段の幅は12.5m、最下段の幅は21mと下に向かうにつれて広くなり、下から見上げると踊り場は見えず、上から見下ろすと踊り場は見えるが段は見えない。階段を上った先にある広場にはリシュリューの像が建つ。映画『1905年』の撮影のためにオデッサを訪れたセルゲイ・エイゼンシュテインはこの階段にインスピレーションを得て『戦艦ポチョムキン』の制作に取り掛かった。
  ・ヴォロンツォフ宮殿 - 1828年に建設された総督ヴォロンツォフの居所。1905年の革命後は技師学校とされ、ソ連時代にはピオネール宮殿として使われた。
  ・愛の橋 - プリモールスキー並木通りの西端に架かる橋。恋人たちや新郎新婦は愛の誓いとして橋の欄干に南京錠をかけていく。
  ・オデッサ美術館 - ソフィーシカ通りに位置する。オデッサ最古の邸宅の一つである、1810年にポトツキー伯爵邸として建設された建物。19世紀末に市長を務めていたマラズリによって市に寄贈され、1899年に美術館として開設された。収蔵品は10,000を超え、オデッサをモチーフとした作品を描いたコスタンジ、イヴァン・アイヴァゾフスキーの作品も展示されている。
  ・東洋西洋美術館 - プーシキン通りに位置する。1920年開館。展示室は古代美術、東洋美術、西洋美術の3部門に分けられている。
  ・オデッサ考古学博物館 - ランジェロン通りに位置する。160,000点以上の黒海北岸の古代史に関する収蔵品を擁する。
  ・国立オデッサ文学博物館 - 1977年設立、1984年開館。バーベリらオデッサ出身の作家やプーシキンらオデッサにゆかりのある作家に関する展示品が置かれている。
  ・プーシキン博物館 - プーシキンが滞在したホテルの跡地に建てられた博物館。プーシキンが滞在していた当時の部屋が再現されている。
  ・オデッサ動物園
教育
  19世紀半ばまでにオデッサに歴史・考古学博物館、大学が設置された。オデッサはウクライナ南部の教育の中心地であり、オデッサ大学をはじめとする14の大学や様々な研究機関が置かれている。角膜移植で知られるフィラトフ研究所はオデッサに置かれている。
  1805年にオデッサにはじめて貴族学校が開設され、その後全ての人間に入学が認められたギムナジヤが開設される。1817年に二つの学校は統合され、両方の学校の創立者であるリシュリューの名前に由来する「リシュリュー貴族学校」と命名された。1860年代にノヴォロシア地域に大学を設置する計画が持ち上がり、1865年にリシュリュー貴族学校はノヴォロシア大学に改組された。ロシア革命後にノヴォロシア大学はいくつかの大学に分割されるが、1933年に統合されてオデッサ大学に改称し、1945年からは大学で教育・研究に従事した医学者イリヤ・メチニコフの名前を冠するようになる。
交通
  オデッサ港は貿易港、漁港、軍港の機能を併せ持ち、世界100か国、600以上の港から出航する船舶がオデッサに入港している。オデッサ港の全長は約8kmで全長250m、吃水12.5mまでの船舶を収容できる。イスタンブールハイファヴァルナなどのウクライナ国外の都市との間にフェリーや客船が定期的に運航されており、夏季には地中海などからのクルーズ船が寄港する。
  オデッサ駅  1865年にオデッサとバルタを結ぶ鉄道が開通し、1872年に線路がハルキウ(ハリコフ)まで延伸されたことでモスクワ、ペテルブルクと接続された。1884年に新古典様式の駅舎が完成した。1944年にドイツ軍によって駅舎は破壊されるが、1952年に原形を生かした建物が再建された。現在はウクライナ南部の鉄道の拠点であり、国内の主要都市やモスクワやサンクトペテルブルクワルシャワプラハウィーンベルリンとの間に定期的に旅客列車が運行されている。
  オデッサ市電1880年ベルギーの企業によって開業した馬車鉄道が起源である。路線は次第に拡大され、一部で路面機関車も使用された。1910年には路面電車への切り替えが開始された。
  オデッサ国際空港が市街地の南西12kmの地点に位置している。1908年にオデッサ飛行クラブが設立され、1910年3月にはミハイル・エフィーモフの乗る飛行機がオデッサの競馬場から離陸し、ロシア人によるロシア国内での初飛行を成功させた。
  ロシア国内の他の都市よりも早く自転車が流行し、1880年代に新しいもの好きの市民の間で自転車が流行した。1891年のオデッサではロシア国内で初めて自動車が走り、ベンツ、フォード、オペルなどの店舗が進出した。長距離バスはウクライナ内の都市だけでなく、ブルガリア、ギリシアに向かう便も存在する
文化
文学
  アレクサンドル・プーシキンニコライ・ゴーゴリマクシム・ゴーリキーらのロシア文壇の作家はオデッサに滞在し、町を創作のモチーフとした。ロシア革命の直後にはアレクセイ・トルストイイヴァン・ブーニンらソビエト政権の樹立を受け入れない作家が一時期オデッサに亡命した。しかし、20世紀初頭までロシア文学史上に名前を残すオデッサ生まれの作家は現れなかった。
  ソビエト時代初期の1920年代にイサーク・バーベリワレンチン・カターエフユーリイ・オレーシャらの作家がオデッサに現れ、1920年代後半にモスクワに移って本格的な文学活動を開始し、ソビエト文学界から注目を集めた。オデッサ出身の作家には、社会性・思想性を重視する伝統的なロシア文学とは異なる幻想的な作風、あらすじの重視、オデッサ独特のロシア語文体といった共通性が見られ、評論家のヴィクトル・シクロフスキーは彼らを「南西派」と呼んだ。
  ユダヤ人が多いオデッサはメンデレ・スフォリムショーレム・アレイヘムといったイディッシュの作家とも繋がりがあり、ポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィチブルガリアの作家イヴァン・ヴァゾフはオデッサ滞在中に作品を書き上げている。ウクライナ文学に対するオデッサの影響は薄いと言われ、タラス・シェフチェンコイヴァン・フランコレーシャ・ウクラインカらの作家は文学活動よりも民族解放運動に従事する形でオデッサと関わりを持った。
音楽
  オデッサの貿易において重要な役割を果たしたイタリア人によって、19世紀のオデッサにイタリアの音楽文化が広められた。中でもオペラは上流階級から庶民に至るまで人気を集め、19世紀のロシア帝国におけるイタリア・オペラの中心地はペテルブルク、モスクワではなくオデッサだったとも言われる。オペラ以外の芸術音楽も徐々に根付いていき、1842年にオデッサ音楽協会が設立され、1860年には交響楽団が結成された。庶民や暗黒街の人間は居酒屋で音楽に親しみ、居酒屋ではヴァイオリニストが活躍していた。
  1887年に再建されたオペラ・バレエ劇場では、ピョートル・チャイコフスキーフョードル・シャリアピンなどの国内外の音楽家が上演を行った。
  1897年に開設された音楽学校は1913年にオデッサ音楽院に改編され、音楽院から多くの演奏家が巣立っていった。オデッサでは世界的な名演奏家が多く生まれ、特にダヴィッド・オイストラフなどのヴァイオリニストが多い。
国際関係
  オデッサにはルーマニアギリシャポーランドトルコロシアジョージア(グルジア)の総領事館が置かれ、 イタリア南アフリカ共和国カザフスタンラトビアの領事機関、イスラエルの文化機関が設置されている。また、1902年から1934年までの間には日本の領事館が開設されていた。オデッサ市沿海地区には、ウクライナ人を父に持つ横綱大鵬の銅像が建てられている。
  オデッサは世界各地の都市と姉妹都市協定を結んでおり、その多くが国際的な港湾都市であ


ポーランドとウクライナの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  国際関係としてのポーランドとウクライナの関係は、1990年代、ウクライナソビエト連邦からの独立に始まり、ポーランドは世界で初めてウクライナを独立国として承認した。以来、両国間の関係は改善と悪化を繰り返している。歴史的な経緯に由来する論争がポーランド・ウクライナ両国のあいだに再浮上することもあるものの、両国間の関係に深刻な影響を及ぼしたことはない。
  ウクライナとポーランドは、スラブ系諸国としてそれぞれロシアについで第二・第三の規模を誇る。両国の国境線の総延長は、約529kmである。ポーランドによるシェンゲン協定の受け入れは、ウクライナの国境通行に問題を生じさせた。2009年7月1日、両国のあいだで結ばれた、地方国境交通に関する協定が発効された。これによって、国境地帯に住むウクライナ人は自由化された手続きに従いポーランドへの国境を越えることができるようになった。
  ウクライナは、2009年にポーランドが主導した、EU=東欧間で貿易・経済戦略・旅行協定などを協議するためのプロジェクト、東方パートナーシップの一員である。
  ウクライナは、各国の中でポーランド領事館の数がもっとも多い国である。
歴史
  ポーランドとウクライナの関係は、16世紀から17世紀にかけて栄えたポーランド・リトアニア共和国、そして、ポーランド化した貴族(シュラフタ)とコサックの間の波瀾に満ちた関係にまでさかのぼることができる。更にさかのぼるならば、13世紀から14世紀のポーランド王国ハールィチ・ヴォルィーニ大公国との関係にまで辿れよう。現在の両国関係は、幾分ぎこちないものになっている。
近代(「ワルシャワ条約機構」、「衛星国#ソビエト連邦の衛星国」、および「ウクライナの歴史#ウクライナ人民共和国・ウクライナ国・西ウクライナ人民共和国」も参照)
  両国間の関係が次の段階に移ったのは、第一次世界大戦後1918年から1920年、すなわちポーランド第二共和国ウクライナ人民共和国成立後に起こったウクライナ・ポーランド戦争二国間の同盟を経てからのことであった。
  戦間期において、ポーランドは独立国家であり続けたが、ウクライナ人民共和国は、ポーランドとソビエト連邦に分割される形でその独立を失った。この経緯はポーランドとウクライナのあいだに遺恨を残し、戦中戦後に入ると、両民族間の緊張は再び燃え上がることとなった(なかでもヴォルィーニの悲劇ヴィスワ作戦はもっとも悪名高いものである)。また、1937年から翌1938年にかけ、大粛清の一環として実行された「ポーランド作戦」や、1940年のカティンの森事件といったソビエト連邦による虐殺事件は、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国NKVDが実行役であった。
  上述のように、20世紀半ばのポーランド=ウクライナ関係は良い状態と言えるものではなく、ポーランド人民共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の間に有意義で独立した外交的接触が行われることは無かった。両国の関係が劇的に変化したのは、ソビエト連邦の崩壊によって、ポーランドとウクライナ両国ともに独立国となり、外交権をふたたび獲得してからのことであった。
現代
1989年から2004年
  1989年9月1日独立自主管理労働組合「連帯」を中心とした民主化勢力が政権を握った直後のこと、ポーランドの国会議員らによる一団が、ウクライナ人民運動英語版(通称「ルフ」)の構成員会議支援のためにキエフへと到着した。彼ら議員は、ウクライナの国民民主主義勢力の志を支持していた。この時こそが、ポーランドとウクライナの新しい関係モデルの基礎が築かれた時であった。
  ポーランドとウクライナの関係の進展は、ポーランド共和国上院1990年7月27日に決議した、ウクライナによる主権宣言(1990年7月16日)に対する声明によって、具体的な形となった。この文書は次のように述べている。
  「祖国の自由と独立を中核的価値観とするポーランド人民は、ウクライナの歴史の転換点を十分に理解し、この隣人と、対等かつ親密な民族として共生し、あらゆる面で協力を発展させる。……」
  1990年8月3日、ポーランド共和国上院は、1947年に発生した「ヴィスワ作戦」に対して政治的・道徳的評価を行う内容の、特別声明を採択した。この声明は以下のように述べている。

  「共産主義政権は、ウクライナ蜂起軍の部隊の粛清を始めると同時に、ウクライナ人を主とした人々を強制的に移住させた。3ヶ月のあいだに、15万人ほどの人々が財産・住居・聖堂を奪われ、各地からの立ち退きを強いられた。彼らは長年に渡って帰還を許されず、そして再び故郷に戻ることが困難となった。ポーランド共和国上院は、全体主義の典型である『ヴィスワ作戦』を批難し、この行動から生じた恥辱に対しての補填を行っていくよう務める所存である。」

  1990年10月13日、ポーランド・ウクライナ両政府は「波宇関係の発展の基礎と一般方針に関する宣言」について合意した。この宣言の第3条は、両国は双方に対していかなる領土権も主張せず、また、将来にも持ち込まないと述べている。両国は、自国の領土に居住する少数民族の権利を尊重し、彼ら少数民族が置かれている状況を改善することを約束した。
  1991年12月2日、ポーランド共和国は、他の国に先駆けてウクライナの独立を正式に承認した。1992年1月8日、両国間の外交が正式に始まった。
  1992年5月18日から19日、ウクライナ大統領レオニード・クラフチュクによる、ポーランド共和国への初の公式訪問が行われた。この訪問において、ウクライナとポーランドの間で「善隣・友好・協力に関する条約」が結ばれた。この条約は、全欧安全保障協力会議で採択された新しいヨーロッパのためのパリ憲章の最終項に基づいて「両国は、双方に共通する遺産である好ましい伝統を保存・発展させ、両国間がもつ偏見と負の固定観念を克服するための措置を取り、これを支援する」旨が記載されている。
  1993年5月24日から25日の間、ポーランド大統領レフ・ヴァウェンサがウクライナへの公式訪問を行った。この訪問の成果として、ウクライナ・ポーランド共和国大統領諮問委員会の設立があった。同年2月、ウクライナ国防省ポーランド国防省の間に軍事協力に関する協定が締結された。その後も、この協定はいくつかの議定書で補完されている。
  1994年3月、両国の外務大臣が、国家間レベルでは初めてウクライナ・ポーランド関係の戦略的重要性について明言し、この関係の発展を誓約する内容の「ウクライナ=ポーランド・パートナーシップの原則に関する宣言」に調印した。

  ポーランドは、北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)といった、西側の枠組みにウクライナが加盟するのを支援することに合意している。1996年初めに初代駐ウクライナ大使イェジ・コザキエビッチは、「ポーランドの外交にとって最も重要な課題の1つは、ウクライナとの二国間関係のなかで、彼の国にとって欧州機関への道を容易にする様々な手段を普及・強化ことである」と述べている。また、ウクライナ外務省の代表は、ポーランドとの協力の主要な方向性を、以下のように比喩的に定義している:「ウクライナにとって、モスクワを通る道はシベリアへと至るが、ワルシャワを通って至るのは――パリだ」。
  1996年6月25日付けで両国間で結ばれた「第二次世界大戦中に失われ、不法に移転された文化財の保護と返還に関する合意書」は、二国間対話構築にとってのさらなる一里塚となった。この合意書は、当事国間の相互協力の対象と範囲を定義・規定したものであった。具体的には、第2条で次のように述べている:「両締結国[波・宇]の文化及び歴史に関連し、遺失・又は不法に他方の締約国の領土に移転された文化財を保護・保存・捜索及び返還するため、両締約国は、『(第二次世界大戦中に遺失・不法に移転された文化財の保護及び返還のための)ウクライナ・ポーランド政府間委員会』を設置する」
  1996年6月25日から27日のウクライナ第2代大統領レオニード・クチマのワルシャワ訪問と、1997年5月20日から22日のポーランド第3代大統領アレクサンデル・クファシニェフスキのキエフ訪問を経て、ウクライナとポーランドの関係は戦略的パートナーの水準まで達した。1997年5月21日には、両首脳によって非公式な共同声明「統一と調和宣言」の調印が行われた。
  ポーランド=ウクライナ間の政治的協力関係の意義ある発展は、ウクライナにとって、米国およびヨーロッパの主要国との最初の対話の確立にあたり、ポーランドからのバックアップをもたらした。ポーランド国家安全保障戦略白書は、ウクライナのNATOへの加盟願望を、特に、NATOに対する「オープン・ドア」政策継続の一環として、ポーランド政府が支持することを明言している。これに加え、同白書は、ポーランドとウクライナの協力は、欧州の安全保障政策におけるウクライナの重要な役割を強化するのに役立つはずだとも強調している。
  1998年9月15日から16日に行われた、ポーランドの外務大臣ブロニスワフ・ゲレメクのウクライナ公式訪問のあいだ、両国は、EUの拡大がもたらしうる負の影響を回避するため、共同行動を強化することに合意した。ゲレメク外相はまた、ポーランド政府がウクライナのヨーロッパ統合志向、特にEUの準加盟国としての地位の獲得への意向を引き続き支援することについて言及した。1999年3月の終わりには、「ウクライナ・ポーランド欧州統合会議」の第1回会合がワルシャワで開催された。
  ウクライナの政府関係者や有識者、政治学者のなかには、ポーランドのNATO加盟後に、ポーランドはウクライナに背を向けるのではないかという懸念を示した者もいる。しかし、ポーランド政府の「対ウクライナ政策」は、NATO加盟後も一貫して「ウクライナの、NATOとの信頼関係の確立ならびに協力」への支持でありつづけている。2002年には、ウクライナ政府はNATO参加への意思を表明している。この動きの背景には、ポーランドにとっての、同国の国益の観点から見た欧州の安全保障の趨勢と、(冷戦終結後の)現状に合わせて刷新した同盟のなかで重要な立場を得たいという目論見がある。
  ウクライナの欧州統合に対するポーランドの支援も、同様の動機によるものである。ポーランド共和国にとって、独立的で強力な、そして――最も重要な要素であるが――「友好的な隣国である」ウクライナは、ロシアの影響と野心に対して重大な対抗手段であり、ポーランドの東欧政策において重要な手段である。1998年3月5日、ゲレメク外相は下院議会において「独立したウクライナは、ポーランドと我が国の安全保障、そして地域全体の安定にとって、戦略的に重要な意味を持ちます。ウクライナとの特権的な関係の維持は、ヨーロッパの安全保障の強化に貢献します」と演説している。
2004年から2014年(「オレンジ革命」も参照)
  ポーランドの外交政策において、ウクライナの主権に対する支援は重要な要素となった。ポーランドは、2004年にウクライナで発生したオレンジ革命についても平和的・民主的な解決を強く支持したほか、NATO=ウクライナ協力や同国の欧州連合加盟に向けた後援も行っている。
  ポーランドのEU加盟は、ウクライナの外交方針に新たな局面をもたらした。ウクライナのEU加盟やNATOへの加入をEU加盟国の中から働きかける国が初めて出現したのである。それと時を同じくして、オレンジ革命開始後の状況において、ウクライナ=ポーランド間の政治対話の構造と充填を大幅にアップデートする必要があった。
  例えば、EU加盟の要件であるコペンハーゲン基準のひとつである「政治的要件」、すなわち「民主主義、法の支配、人権、マイノリティの尊重と保護を確保する安定した体制を有する」ことが、ウクライナには求められた。ポーランド共和国は、2005年を「ウクライナ年」と定めた。同年4月、ワルシャワで、ヴィクトル・ユシチェンコ大統領の出席のもと開始された。また、ウクライナとポーランドは、教育や科学的な学位に関する文書の学術的な承認、および情報化分野での協力に関する協定を締結している。ウクライナとポーランドの貿易、経済、科学、技術関係は拡大した。ポーランドは、ウクライナにとって中欧における最も重要な経済パートナーとなった。2020年現在、ポーランドは、ウクライナの対外輸出先としては中国についで2番目である。2008年時点の科学技術分野における共同協力プログラムには、150以上の共同研究プロジェクトが含まれている。

  ポーランド・ウクライナ両国の越境地域協力は、1990年代中頃に設立された、カルパチアブグという2つのユーロリージョンの枠組みのなかで発展してきた。一方で、2007年のポーランドのシェンゲン協定加盟は、波・宇両国間の関係についてのほぼ全ての分野で、新たな問題をもたらした。ポーランドのシェンゲン協定加盟は、両国間越境のための新規の手続き・規則を生じさせ、結果として、二国間の協力関係の発展と最適化を阻害することとなった。
  ポーランドがEUの対東欧政策の活性化へ着手したことで、二国間の関係は新たな局面を迎えた。欧州近隣政策(ENP)の東方へ向けた強化という考えは、2008年時点でのポーランド外交の優先事項となり、またポーランドはEU東側におけるリーダー的立場に位置づけられることとなった。2008年5月7日、ポーランド外務大臣ラドスワフ・シコルスキは下院議会で2008年度の外交政策を発表し、「ポーランドは引き続き東方への共通外交政策の展開に特化すべき 」とその考えを明言した。
  同時にポーランドは、東欧での役割を強化することによって、EU中での地位を高めようと務めてきた。ワルシャワ大学東欧研究センターのヤン・カリツキ所長は、ラジオ局ポーランド放送でのインタビューで、「ポーランドのEUにおける地位の強さは、東欧での支援と強さに依存していることを強調したい」と語り、この考えへの支持を表明した。
  ポーランド外相は、自国のパートナーであるチェコスロバキアハンガリーエストニアリトアニアラトビアルーマニアブルガリア、そしてスウェーデンとともに、ヨーロッパ東方における欧州近隣政策を実施するつもりであることを強調した。2008年3月の欧州理事会で、ポーランドは地中海連合の創設案を支持し、これによるENPの東方への分離に対するEUの支持を期待した。
  同時に、ポーランドのこうした意図は、2008年5月23日にポーランド・スウェーデンが提出した共同提案「東方パートナーシップ」に反映され、実現された。この提案は、同月26日にブリュッセルで開催された欧州連合総務理事会と欧州外交問題評議会の会合で発表・承認され、EU全体の旗振り役となるイニシアティブとなった。JV構想はウクライナ、モルドバ、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア、そして技術と専門家の協力のみの連携を決めたベラルーシの6カ国が対象となった。JV構想への参加は、欧州連合への加盟を確約するものではないが、特定の国における統合プロジェクト推進に向け、当該国に欧州連合と協力を行う機会を提供する。
  2012年、ポーランドとウクライナは、UEFA欧州選手権UEFA EURO 2012を共同で開催した。(国際連合総会決議68/262」、「2014年ウクライナ騒乱」、および「ウクライナ紛争 (2014年-)」も参照)

  ポーランドは、2013年ユーロマイダン(尊厳革命)や2014年クリミア危機などに直面するウクライナに対し、熱心な支援を続けた。ポーランド政府は、欧州連合のなかでウクライナ支援の広報活動を行うと同時に、ロシアがウクライナ国内での行いに対し、制裁を支持する立場をとった。さらに、ポーランドは、ロシアによるクリミア併合を決して容認しないと宣言している。2014年、ポーランドの元外相ラドスワフ・シコルスキは、2008年にロシアのプーチン大統領が訪露中のポーランド首相(当時)ドナルド・トゥスクに、ポーランドとロシアの間でのウクライナ分割を持ちかけた、と主張した。シコルスキは後に、一部の言葉は誇張されたものであり、ポーランドは併合に関与していないと述べた。この時期、ポーランドは多くのウクライナ人難民を受け入れている。
2015年から現在
  2015年以降、両国の外交関係は、第二次世界大戦中に発生したポーランド人とウクライナ人をめぐる悲劇に関する認識の相違によって、急速に悪化した。
  ウクライナ蜂起軍(略称UPA)と、彼らがヴォルイーニと東ガリチアで行ったポーランド人虐殺に関する歴史問題は、両国のあいだで依然として争点となっている。
  2015年にウクライナが制定した記憶法(いわゆる脱共産主義法)は、UPAの組織とメンバーを顕彰する内容であったことから、ポーランドで批判を浴びた。この法律の制定を受け、2016年7月、ポーランド下院は、与党法と正義(略称PiS)が提出した法案決議を可決した。この法案は、7月11日をジェノサイド犠牲者追憶の日と定め、且つUPAの組織的な攻撃によって10万人以上のポーランド国民が虐殺されたことに言及するものだった。ウクライナ大統領ペトロ・ポロシェンコは、ポーランドによるこの決議が「政治的な憶測」を招く可能性があるとして、遺憾の意を表明した。ウクライナの無党派議員、オレクシイ・ムシイは、ポーランドのこの動きに対抗する形として、3月24日を「1919年から1951年のポーランド国家によるウクライナ人に対する大量虐殺の犠牲者の記念日」と宣言する決議案を作成した。ポーランド上院議長のスタニスワフ・カルチェフスキは、この動議を非難した。
  2016年ポーランド広報文化センターの主催で、ウクライナの国会議員向けにキエフでの開催を予定されていた、ポーランド映画『ヴォルイーニ』の特別上映会が、ウクライナ外務省の勧告により、公共秩序を乱す恐れがあるとして延期された。
  2017年4月ウクライナ国立記憶研究所は、ウクライナにおけるポーランド人記念碑の合法化を阻止する広範な行動の一環として、1943年に発生した「ヴォルイーニの悲劇」の犠牲者の発掘を禁止した。これは、ポーランドポトカルパチェ県フルショヴィツェにあるUPA兵士の記念碑を解体したことへの報復とされる

  ポーランド大統領アンジェイ・ドゥダは、反ポーランド的な民族主義的見解を示す人間がウクライナの高官に任命されることについて、懸念を表明した。ウクライナ外務省はこれに対し、ウクライナに一般的な反ポーランド感情は存在しないという声明を発表した。
  2018年、ポーランドは、「ウクライナ人民族主義者やドイツ第三帝国に協力したウクライナ人組織のメンバーによる犯罪」について言及した「国立記憶研究所法」第2条aを可決し、再びウクライナからの批判を招いた。この法律は、ウクライナでは「反バンデーラ派法」と呼ばれている。
  2019年8月、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、前政権が決定した、UPAによる「ヴォルイーニの悲劇」のポーランド人犠牲者の遺骨の発掘作業禁止について、ウクライナ国内のポーランド人集団墓地の発掘の一時禁止を解除すると約束した。
  2020年7月28日、ポーランドとウクライナ、リトアニアの三ヵ国は、「ルブリン・トライアングル」と呼ばれる、新たな地域連合を形成した。調印式はポーランドのルブリン市で行われ、各国の外務大臣、波外相ヤツェク・チャプトヴィチと宇外相ドミトロ・クレーバ、リ外相リナス・リンケヴィチウスがそれぞれ署名した。クレーバ外相は、この新たな枠組みについて「中欧の発展と強化にとって重要な要素であると同時に、欧州および欧州大西洋地域の一員であるウクライナを強化するものである」と述べた。この協力は防衛問題だけでなく、三ヵ国の経済・貿易・観光分野での協力の強化も含まれる。ルブリン・トライアングルの創設に関する共同宣言では、EU・NATO・東方パートナーシップ間の協力を強化することと、三海洋イニシアチブの発展に特別な注意を払うことの重要性が強調された。
  2021年8月COVID-19パンデミックが続くなか、ポーランドはウクライナに対し、新型コロナワクチン65万本と酸素濃縮器人工呼吸器、防護服など、129トン以上の医療機器を提供した。同年12月、ポーランドはさらにウクライナにCOVID-19ワクチンを30万本提供した。

  ウクライナ近郊でのロシアの軍拡を受け、ポーランド政府は2022年1月31日、ロシアによるウクライナ侵攻の脅威を考慮し、ウクライナに対する武器・弾薬の供給と人道支援を決定したと公表した。翌2月17日、イギリス・ポーランド・ウクライナ三者協定が発表。同月23日、ロシアの行動よる事態の緊迫化と、同国がウクライナ東部の占領地に建てた傀儡国家ドネツク人民共和国ルガンスク人民共和国を正式に承認したことを受けて、ポーランドのドゥダ大統領はリトアニア大統領ギタナス・ナウセダとともにキエフを訪問、共同でウクライナへの連帯と支援を宣言し、ロシアに対する国際制裁を呼びかけた。ロシアがウクライナに侵攻を開始した24日、ポーランド下院は、ロシアの侵攻に対する非難決議を満場の拍手で採択した。ポーランドはこの侵攻を受けて、直ちに国内に9カ所の受け入れ拠点を設け、ウクライナからの難民を受け入れた







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