防衛問題-wikipedia



無人航空機
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無人航空機(英: unmanned aerial vehicleUAV)は、人が搭乗しない(無人機である)航空機のこと。通称としてドローン(英: drone)と呼ばれることもある。

定義および名称
  英語の頭文字からUAVと呼ばれることも多い。ICAOにおいてはRPAS、アメリカの連邦航空局ではUASと呼称する。
  無人航空機に対し、人間が搭乗して操縦する従来の航空機を有人機と表現することもある。
  人間が乗り込んで操縦することも可能であり、オプションを追加することで無人でも飛行可能な航空機は「OPV」(OPV)と呼ばれる。日本の航空法では第八十七条において「無操縦者航空機」として定義されており、法的には有人機の一種として分類される。
ドローン
  「ドローン」の語義のひとつに、この種の無人航空機のことを指す用法がある。オックスフォード英語辞典第2版では「drone」の、語義のひとつとして「(遠隔操作で指向され、操縦手の搭乗しない航空機ないし飛翔体)」としており、そこに挙げられている用例としては1946年のものが最も古い。しかし2018年現在の英語圏では特に無線機と区別して自立性を持つ機体をドローンと呼んでいる場合もある。
法的規制(「en:Regulation of unmanned aerial vehicles」も参照)
  従来の航空法では目視で操縦するラジコンが想定されていたが、2010年代以降安価なマルチコプターが市販されるようになると、空撮中の墜落や空港への侵入、目視出来ない距離での飛行などの問題が発生するようになった。またメーカーが開発する際にも法的なトラブルが発生した。イギリスでは、現行の法律上、国内に軍用無人航空機の試験飛行ができる場所がなかったため、タラニスの技術者や機体をオーストラリアに派遣して試験飛行を行っている。ドイツでは、1,300億円をかけたアメリカグローバル・ホークを元にした無人機開発の計画があったが、ドイツ国内およびヨーロッパ各国で、法的に飛行が不可能であることが発覚したため、開発が破綻している。これらの問題に対処すべく、各国で法規制が検討された

  日本では2015年12月10日施行の改正航空法で「無人航空機」が定義された。『航空の用に供することができる飛行機回転翼航空機滑空機飛行船その他政令で定める機器であって構造上人が乗ることができないもののうち、遠隔操作又は自動操縦により飛行させることができるもの(200g未満の重量(機体本体の重量とバッテリーの重量の合計)のものを除く)』となっている。飛行可能な模型航空機(200g以上で遠隔操作や自動操縦が可能なもの)など殆どの無人飛行機体が含まれる。なお、単純なゴム動力飛行機などは、重量の面や遠隔操作や自動操縦が不能なことから無人航空機の定義には含まれない。
  その他、同改正航空法により、無人航空機の飛行ルールが定められた。また、2016年(平成28年)4月7日施行の小型無人機等飛行禁止法により、内閣総理大臣官邸をはじめとする国の重要施設、外国公館や原子力事業所などの周辺地域の上空でドローン等を飛行させることが禁止された

問題点
  大型機は衛星経由で遠隔操作が可能であるため、操縦員は地球の裏側の本国の基地内で、スクリーンを見ながら操縦していることも多い。このような無人機の運用は、操縦者が人間を殺傷したという実感を持ちにくいという意見がある。この場合は長期間戦地に派遣されることもなく、定時で任務を終えれば、そのまま家族のいる自宅に帰るのである。「ミサイルを発射して敵を殺す戦場」と「息子のサッカーの試合を見に行く日常」を毎日行き来する、従来の軍事作戦では有り得ない生活を送ることや、敵を殺傷する瞬間をカラーテレビカメラや赤外線カメラで鮮明に見ることが無人機の操縦員に大きな精神的ストレスを与えているという意見もある

  また、無人機の活用を推し進めるアメリカ軍では、無人機を操縦する兵士の負担が増している。有人機の操縦士に比べて無人機の操縦士は酷使されており、年間平均飛行時間は有人機では200-300時間だが、無人機では900-1,100時間にも上る。また、労働時間は平均で1日14時間、週6日勤務となっている。人手も不足しており、軍では状況を改善するための方策を考えている


イージスシステム
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  イージスシステムAegis System)は、アメリカ海軍によって、防空戦闘を重視して開発された艦載武器システム。正式名称はイージス武器システムMk.7AEGIS Weapon System Mk.7)であり、頭文字をとってAWSと通称される防衛省ではイージス・システム、イージスシステムの両方を使用している
  イージス(Aegis)とは、ギリシャ神話の中で最高神ゼウスが娘アテナに与えたというであるアイギス(Aigis)のこと。この盾はあらゆる邪悪を払うとされている(胸当てとの異説もある)
概要
  イージスシステムは、アメリカ海軍のウィシントン提督、マイヤー提督の指導のもと、RCA社のレーダー部門(現ロッキード・マーティン)が開発した艦載武器システムである
  従来、空の脅威から艦隊を守ってきた各種の艦対空ミサイル・システム(ターター・システムなど)は、いずれもせいぜい1〜2個の空中目標に対処するのが精一杯であり、また意思決定を全面的に人に依存していたことから、応答時間も長かった。こういった問題を解決するため、1950年代末よりアメリカ海軍は新しい防空システムの開発を試みたものの、計画は難航した。その後、慎重に洞察を重ね、また新しい技術を適用することで、1960年代末から1970年代にかけて開発されたのがイージス・システムである
  イージス・システムは、従来のような単なる防空システムという枠にとどまらない、極めて先進的かつ総合的な戦闘システムとして完成された。イージス・システムにおいては、レーダーなどのセンサー・システム、コンピュータデータ・リンクによる情報システムミサイルとその発射機などの攻撃システムなどが連結されている。これによって、防空に限らず、戦闘のあらゆる局面において、目標の捜索から識別、判断から攻撃に至るまでを、迅速に行なうことができる。本システムが同時に捕捉・追跡可能な目標は128以上といわれ、その内の脅威度が高いと判定された10個以上の目標を同時迎撃できる。このように、きわめて優秀な情報能力をもっていることから、情勢をはるかにすばやく分析できるほか、レーダーの特性上、電子攻撃への耐性も強いという特長もある。
  高性能ゆえに高価であり、イージス・システム全体としての価格は500億円と言われている。ただ、開発が1969年に始まったため技術としては既に成熟域に達しており、欧州諸国が独自に開発・採用している同種のシステムよりは相対的に価格がこなれている。スペインがドイツ・オランダとの防空システム共同開発から脱退し「イージス」を採用したのもそれが理由である。
開発
タイフォンの挑戦と挫折
  アメリカ海軍は、第二次世界大戦末期より、全く新しい艦隊防空火力として艦対空ミサイル(SAM)の開発に着手していた。1944年4月の開発要請に応じ、ジョンズ・ホプキンズ大学応用物理学研究所(JHU/APL)が同年12月に提出した案に基づいて開始されたのがバンブルビー計画であった。まもなく日本軍が開始した特別攻撃(特攻)の脅威を受けて開発は加速、また戦後ジェット機の発達に伴う経空脅威の増大を受けて更に拡大され、1956年にはテリア、1959年にタロス、そして1962年にターターが艦隊配備された。これらは3Tと通称され、タロスはミサイル巡洋艦、テリアはミサイルフリゲート(DLG)、そしてターターはミサイル駆逐艦(DDG)に搭載されて広く配備された。
  しかし、3Tファミリーのうち、もっとも早く開発が進行したテリアミサイルがようやく就役しつつあった1950年代後半の時点で、既にこれらのミサイル・システムには、設計による宿命的な限界が内包されていることが指摘されていた。
 ・具体的には、攻撃に際しては、同じ目標を捜索レーダーと射撃指揮装置が重複して追尾することになる
 ・ミサイルの発射から命中まで、1つの目標に対して1基の射撃指揮装置が占有されてしまう
  という問題が指摘されていた。このために、同時に対処できる目標は射撃指揮装置の基数と同数(2~4目標)に制約されていた上に、自動化の遅れから、即応性にも問題があった。一方、ソヴィエトにおいては、1950年代末より対艦ミサイルの大量配備が進んでおり、複数のミサイルによる同時攻撃を受けた場合、現有の防空システムでは対処困難であると判断された
  このことから、JHU/APLでは、アメリカ海軍との協力のもとで、1958年より次世代の防空システムの開発に着手した。これがタイフォン・システムである。
  しかし要求性能の高さに対する技術水準の低さ、統合システムの開発への経験不足のために開発は極めて難航し、最終的に技術的な問題を解決できず、1964年にキャンセルされた。ただし失敗に終わったとはいえ、タイフォン計画から得られた研究成果の多くが、のちにイージス・システムで結実することになる
ASMSからイージスへ
  タイフォン計画の失敗を受けて、1963年11月より先進水上ミサイル・システム(ASMS)計画が開始された[10]。タイフォンの轍を踏まないため、本格的な開発に着手するまえに、まず1965年1月よりASMS評価グループを編成してコンセプト開発を行った。この任務のため、ASMSプロジェクト室のほか、海軍省や海軍兵器局、艦船局および研究所、JHU/APL、競合する各社、ベル研究所、陸軍防空庁から選りすぐりの要員が集められた。そしてその指揮官として、既に退役していたフレデリック・ウィシントン少将が非常の措置として呼び戻された。
  海軍の要求に応じて各社が提出した28個の提案書はウィシントン評価チームによって吟味され、まず7社が選ばれた。1968年には、RCAジェネラル・ダイナミクス(GD)、ボーイングの3社に絞り込まれた。そして1969年12月、最終的にRCA社が選定され、主契約者となった。同年、ASMS計画はイージス計画と改称した。
  1967年に発生したエイラート撃沈事件、1970年にソ連が行なったオケアン70演習を受けて、開発は加速された。とくに、オケアン70演習においては、90秒以内に100発もの対艦ミサイルを集中して着弾させる飽和攻撃が実演され、従来の防空システムの限界が確認された。
  前準備なしに洋上試験に入って失敗したタイフォン・システムの失敗を踏まえ、1972年、ニュージャージー州ムーアズタウンのランコカス地区のRCA社構内にあった空軍のレーダー実験施設を借り受けて、地上テストサイト(Land Based Test Site, LBTS;現在はCombat System Engineering Development Site, CSEDS)が建設された。1973年より、まずSPY-1レーダーの試作機(アンテナ1面のみ)が取り付けられて試験が重ねられたのち、戦術情報処理装置などその他のシステムと統合されて、システム全体の試作機にあたる技術開発モデル1号機(Engineering Development Model 1, EDM-1)としての試験に入った。地上での航空機追尾試験などを経て、1975年にはEDM-1を実験艦「ノートン・サウンド」に移設しての洋上試験が開始された。同艦では、LBTSではシミュレータで代用されていたミサイル発射機(艦隊現用のMk.26発射機およびSM-1ミサイル)なども搭載され、ほぼ実艦への搭載に近い状況下で、太平洋上で総合的な試験がくりかえされた。このとき、ミサイル発射試験の初弾で早くもインターセプトに成功したほか、高速目標に対する迎撃能力、レーダーの対妨害能力の高さが注目されたと伝えられている。
多機能レーダー
  多機能レーダーとしては、従来、一貫してAN/SPY-1が搭載されてきた。これはイージス武器システムの中心であり、多数目標の同時捜索探知、追尾、評定、発射されたミサイルの追尾・指令誘導の役目を一手に担う多機能レーダーである。周波数はSバンドパッシブ・フェーズド・アレイ・タイプの固定式平板アンテナを4枚持ち、これを四方に向けて上部構造物に固定装備することで、全周半球空間の捜索を可能にする
  最初に開発されたA型、発展型のB型およびB(V)型は巡洋艦向けで、前後の上部構造物に分けて装備された。その後、レーダー機器を艦橋構造物に集中配置して効率化をはかるとともに小型化したD型、その改良型のD(V)型が駆逐艦向けとして開発された。また、D型をベースとしてさらに簡略化されたフリゲート向けのF型、より小型の艦艇向けのK型も開発されている。
  D型では、アンテナ1面につき4350個のレーダー・アンテナ素子が配置され、最大探知距離324キロ以上、200個以上の目標を同時追尾可能とされる。ただしSバンドで動作するため、低高度目標への対処に若干の問題があるとも言われており、ベースライン8以降の艦では、XバンドAN/SPQ-9Bレーダーが追加装備されている
  そしてベースライン10(ACB-20)では、アンテナをアクティブ・フェーズドアレイ(AESA)方式に変更して新開発されたAN/SPY-6 AMDR-Sに変更される予定となっている

・・・・・以下wikipediaにて


巡航ミサイル
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巡航ミサイル(英: cruise missile)は、飛行機(航空機)のように翼とジェットエンジンで水平飛行するミサイルである。
航空機形状
  小型の航空機のような外形をしている。大きな主翼揚力を作り、ジェットエンジンで推進力を得て、ほぼ水平に飛行する。小さな主翼と動翼だけを備えてロケットエンジンの推進力で飛行している通常のミサイルとは、著しい相違をなす。
速度と航続距離
  ジェットエンジンであるため、ロケットエンジンに比べれば低速度であるが、燃料の燃焼効率が高く長射程となる。多くの長距離ミサイルのような弾道飛行はせず、水平に飛行する。そのため、低高度で飛行することでレーダーに探知されにくいという利点がある。一方で、極超音速により迎撃を困難にする巡航ミサイルも開発されている。ロシア連邦軍が2020年1月に試射を成功させたとタス通信が報じた「ツィルコン」は、マッハ9で500キロメートル先の目標に到達した。
大規模
  一般に弾体が大きく搭載する炸薬量も多いため、威力に優れる。通常弾頭核弾頭のいずれも装着可能である。また、大きな搭載空間を利用した高性能の制御機器を内蔵するため、目標への誘導精度が比較的高い。
多様な発射機
  1つの基本となる設計型から多様な派生型が作られ、陸上、水上の艦船、水中の潜水艦、空中の航空機など比較的多様なプラットフォーム上の発射機から発射される傾向がある。
高価格
  高性能な航法装置類やジェットエンジン、大きな弾体は単価を押し上げ、高価格である。
高価値目標
  攻撃対象となる目標は固定されているか動いても低速なもので、高価値なものが選ばれる。
無人性・奇襲性
  有人航空機による爆撃及び特攻と違い、自国兵士が死傷したり、捕虜になったりするリスクを避けられる。また存在を察知されやすい空軍基地や航空母艦からでなくても攻撃できる。
・・・・・


弾道 ミ サ イ ル 防 衛 平成20年3月
防衛省
 HPへ


弾道ミサイル
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弾道ミサイル(英: ballistic missile)は、大気圏の内外を弾道を描いて飛ぶ対地ミサイルのこと。弾道弾とも呼ばれる。弾道ミサイルは最初の数分の間に加速し、その後慣性によって、いわゆる弾道飛行と呼ばれている軌道を通過し、目標に到達する。

迎撃が困難
  弾道ミサイルを撃墜しにくい理由にはいくつかの要因がある。
移動式と潜水艦発射
  一箇所に据え置いている発射台方式やサイロ方式は別にして、鉄道上や道路上を移動できる『移動式弾道ミサイル』や海中を移動できる潜水艦を利用した潜水艦発射弾道ミサイル(以下SLBM)は発射装置自体が必要に応じて移動するため、発射する前に発見するのが困難になる。潜水艦発射弾道ミサイルは偵察衛星からその姿を発見するのは困難になる。潜航中の潜水艦に対してはゴーサイン・標的・発射する日時は長波無線通信を使った暗号で送られる。
  実際に衛星の無い時代にはナチス・ドイツのV2ロケットはトラックに牽引されて運ばれる方法だったため、敗戦まで1度も発射前に発見・妨害されたことがなかったとされる。
発射直後の落下地点予測
  一箇所に据え置いている発射台方式やサイロ方式は別にして、鉄道上や道路上を移動できる『移動式弾道ミサイル』や海中を移動できる潜水艦を利用した潜水艦発射弾道ミサイル(以下SLBM)は発射装置自体が必要に応じて移動するため、発射する前に発見するのが困難になる。潜水艦発射弾道ミサイルは偵察衛星からその姿を発見するのは困難になる。潜航中の潜水艦に対してはゴーサイン・標的・発射する日時は長波無線通信を使った暗号で送られる。
 実際に衛星の無い時代にはナチス・ドイツのV2ロケットはトラックに牽引されて運ばれる方法だったため、敗戦まで1度も発射前に発見・妨害されたことがなかったとされる。
発射直後の落下地点予測
  弾道ミサイルは発射後暫くほぼ垂直に上昇して徐々に燃料を燃焼させて切り離していくことで大気圏を越えた後に、大気圏にて誘導装置のついた弾頭が徐々に向きを変えて目標に落下するように調整するという仕組みになっている。北朝鮮の場合はミサイルがスカッドノドンムスダンかで射程距離は大きく異なるが、『発射直後の時点』には発射した方角自体は分かっても大まかな落下地点さえ分からない段階である。そこからある段階で弾道ミサイルだった場合は大気圏を越える垂直の弾道を描いていくので、発射したのは弾道ミサイルだと確実な断定が出来るようになる。
   更に、日本の方向に発射された弾道ミサイルが日本海・日本を越えた太平洋・国土・領海のどれかなどの最初の落下点予測は、敵の弾道ミサイルの発射から数分後の大気圏での誘導装置による攻撃目標に向けて弾道ミサイルが調整段階にある時にある程度判明する。
  Jアラートはこの段階で日本の領土・領海に落下する可能性があると判断した場合には、この時点で何かしらの落下してくる可能性が0でないエリア毎でかなり幅広い範囲で警報がなされる。これは発射後にミサイルの弾頭を大気圏で誘導装置が調整し出した早い段階で詳細な落下予測以前に、誘導装置の故障での調整段階での落下地点からの移動・迎撃時の破片の落下の可能性にも備えさせるための警告が出来るシステムでもあると評価されている
命中精度の低さ
  基本的に弾道ミサイルの原理は、最初の数分間加速した後は慣性で飛行するというだけである。つまり最初の数分間で到達した速度によって、着弾地点はほとんど決まる。加速終了地点から着弾地点までの距離が短ければその差はそれほど問題にはならないが、弾道ミサイルは数千km単位で飛ぶためその誤差は徐々に大きくなり着弾地点では大きな差となってしまう。よって弾道弾が長射程になるほど、その誘導装置は高度な技術が必要で高価となり、開発国の技術レベルが国家の戦略にも影響を与える。
  命中精度の指数であるCEP(半数必中界)は100m-2km程度で、優秀であるほど兵器としての運用の柔軟性を持つ。米ソ(ロシア)の保有するICBMの飛翔距離は1万キロメートルを超える射程であるにもかかわらず、CEPは100-200メートルである。CEPが優秀であれば、弾頭威力が低くとも目標に対して十分な破壊力を発揮する事ができる。
  弾頭威力が低くても構わないということは(その技術があると言う前提ではあるが)弾頭の小型化を図ることができ、弾道弾の搭載量が充分であれば多弾頭化(MRV)を行う事ができる。誘導技術がさらに進歩するならば、複数個別誘導再突入体(MIRV)が可能になり、さらには大威力弾頭で大雑把に広範囲の施設を破壊するだけのカウンターバリュー戦略から、軍事目標を選択して重要な拠点のみを攻撃するカウンターフォース戦略に選択肢を広げる事が可能となる。
  この誘導装置の能力(命中精度)から、目標を破壊するための所要威力が算定され、その威力を発揮する核弾頭の小型化が困難であれば、弾頭は大型化し、弾道弾のペイロードを食いつぶすために必然的に単弾頭化し、射程も短くなる。弾道ミサイルには艦船や特定施設(レーダーサイト・港・空港・原子力発電所・司令部等)を、通常弾頭で命中を期待できるピンポイント攻撃能力は無い。近年では海上の艦船を攻撃対象とした対艦弾道ミサイルの開発が中国やインド、イランで行われているが、通常弾頭の場合、弾道ミサイルで海上にいる艦船を正確に攻撃する必要があるなど、多くの技術的問題を抱えている。
  北朝鮮は、保有する弾道ミサイルの誤差が1kmほどであり、弾道ミサイルと核兵器をセットで開発して、敵目標の壊滅効果を高めている。弾道ミサイルを原子力発電所など「特定の施設」に狙って撃ち込まれるという誤解があるが、そもそも命中率が低いからこそ、弾頭に核兵器を積んで『目標の誤差などを無視』して、攻撃目標を殲滅させるのである
価格
  価格は極端に差があるため一概には言えないが、例えばアメリカ海軍が使用する潜水艦発射弾道ミサイル(以下SLBM)トライデントD5は1基3,090万ドルと公表されている。アメリカ海軍が現在調達を進める戦闘機F/A-18E/Fスーパーホーネットが3,500万ドル、世界で3,000機を販売することで調達価格を抑えることを目的として開発中のF-35JSFの予価が3,000万ドルと言われる。戦略核兵器の整備が「軍隊をもうワンセット」そろえるほどの高額となる理由である。
  ミサイルを兵器として使用するにはこれだけではなく、ミサイルの整備、ICBMであればミサイルサイロの建造、運用費用、SLBMであれば潜水艦にかかる諸費用、更に言えばそれを護衛する潜水艦にかかる諸費用と一つのシステムとして稼動させるには天文学的な金額が必要である。
  それに対して弾頭の重量は数百kg-数トン程度であるため、通常兵器として使用するには費用対効果の面から見た場合最悪と言える。しかし、湾岸戦争時のイラクのように、旧式で命中精度も劣る弾道ミサイルを心理作戦に用いる場合もある。
  これらの特徴から、弾道ミサイルは戦略兵器としての意味合いが大きい。核兵器を搭載した大陸間弾道ミサイル(ICBM)や潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)は安全な自国内および周辺から敵国を確実に攻撃することが可能という状況を作り出すことで互いに攻撃できない相互確証破壊による抑止力で自国の安全を保障しようとする。

  弾道ミサイルは発射後暫くほぼ垂直に上昇して徐々に燃料を燃焼させて切り離していくことで大気圏を越えた後に、大気圏にて誘導装置のついた弾頭が徐々に向きを変えて目標に落下するように調整するという仕組みになっている。北朝鮮の場合はミサイルがスカッドノドンムスダンかで射程距離は大きく異なるが、『発射直後の時点』には発射した方角自体は分かっても大まかな落下地点さえ分からない段階である。そこからある段階で弾道ミサイルだった場合は大気圏を越える垂直の弾道を描いていくので、発射したのは弾道ミサイルだと確実な断定が出来るようになる。
  更に、日本の方向に発射された弾道ミサイルが日本海・日本を越えた太平洋・国土・領海のどれかなどの最初の落下点予測は、敵の弾道ミサイルの発射から数分後の大気圏での誘導装置による攻撃目標に向けて弾道ミサイルが調整段階にある時にある程度判明する。Jアラートはこの段階で日本の領土・領海に落下する可能性があると判断した場合には、この時点で何かしらの落下してくる可能性が0でないエリア毎でかなり幅広い範囲で警報がなされる。
  これは発射後にミサイルの弾頭を大気圏で誘導装置が調整し出した早い段階で詳細な落下予測以前に、誘導装置の故障での調整段階での落下地点からの移動・迎撃時の破片の落下の可能性にも備えさせるための警告が出来るシステムでもあると評価されている
命中精度の低さ
  基本的に弾道ミサイルの原理は、最初の数分間加速した後は慣性で飛行するというだけである。つまり最初の数分間で到達した速度によって、着弾地点はほとんど決まる。加速終了地点から着弾地点までの距離が短ければその差はそれほど問題にはならないが、弾道ミサイルは数千km単位で飛ぶためその誤差は徐々に大きくなり着弾地点では大きな差となってしまう。よって弾道弾が長射程になるほど、その誘導装置は高度な技術が必要で高価となり、開発国の技術レベルが国家の戦略にも影響を与える。
  命中精度の指数であるCEP(半数必中界)は100m-2km程度で、優秀であるほど兵器としての運用の柔軟性を持つ。米ソ(ロシア)の保有するICBMの飛翔距離は1万キロメートルを超える射程であるにもかかわらず、CEPは100-200メートルである。CEPが優秀であれば、弾頭威力が低くとも目標に対して十分な破壊力を発揮する事ができる。

  弾頭威力が低くても構わないということは(その技術があると言う前提ではあるが)弾頭の小型化を図ることができ、弾道弾の搭載量が充分であれば多弾頭化(MRV)を行う事ができる。誘導技術がさらに進歩するならば、複数個別誘導再突入体(MIRV)が可能になり、さらには大威力弾頭で大雑把に広範囲の施設を破壊するだけのカウンターバリュー戦略から、軍事目標を選択して重要な拠点のみを攻撃するカウンターフォース戦略に選択肢を広げる事が可能となる。
  この誘導装置の能力(命中精度)から、目標を破壊するための所要威力が算定され、その威力を発揮する核弾頭の小型化が困難であれば、弾頭は大型化し、弾道弾のペイロードを食いつぶすために必然的に単弾頭化し、射程も短くなる。弾道ミサイルには艦船や特定施設(レーダーサイト・港・空港・原子力発電所・司令部等)を、通常弾頭で命中を期待できるピンポイント攻撃能力は無い。近年では海上の艦船を攻撃対象とした対艦弾道ミサイルの開発が中国やインド、イランで行われているが、通常弾頭の場合、弾道ミサイルで海上にいる艦船を正確に攻撃する必要があるなど、多くの技術的問題を抱えている。
  北朝鮮は、保有する弾道ミサイルの誤差が1kmほどであり、弾道ミサイルと核兵器をセットで開発して、敵目標の壊滅効果を高めている。弾道ミサイルを原子力発電所など「特定の施設」に狙って撃ち込まれるという誤解があるが、そもそも命中率が低いからこそ、弾頭に核兵器を積んで『目標の誤差などを無視』して、攻撃目標を殲滅させるのである。
価格
  価格は極端に差があるため一概には言えないが、例えばアメリカ海軍が使用する潜水艦発射弾道ミサイル(以下SLBM)トライデントD5は1基3,090万ドルと公表されている。アメリカ海軍が現在調達を進める戦闘機F/A-18E/Fスーパーホーネットが3,500万ドル、世界で3,000機を販売することで調達価格を抑えることを目的として開発中のF-35JSF の予価が3,000万ドルと言われる。戦略核兵器の整備が「軍隊をもうワンセット」そろえるほどの高額となる理由である。
  ミサイルを兵器として使用するにはこれだけではなく、ミサイルの整備、ICBMであればミサイルサイロの建造、運用費用、SLBMであれば潜水艦にかかる諸費用、更に言えばそれを護衛する潜水艦にかかる諸費用と一つのシステムとして稼動させるには天文学的な金額が必要である。
  それに対して弾頭の重量は数百kg-数トン程度であるため、通常兵器として使用するには費用対効果の面から見た場合最悪と言える。しかし、湾岸戦争時のイラクのように、旧式で命中精度も劣る弾道ミサイルを心理作戦に用いる場合もある。

  これらの特徴から、弾道ミサイルは戦略兵器としての意味合いが大きい。核兵器を搭載した大陸間弾道ミサイル(ICBM)や潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)は安全な自国内および周辺から敵国を確実に攻撃することが可能という状況を作り出すことで互いに攻撃できない相互確証破壊による抑止力で自国の安全を保障しようとする。
  過去には通常弾頭の弾道ミサイルが使用されたこともあるが、これは敵国民の感情を煽るのが目的と言える。弾道ミサイルによる攻撃だけでは敵国を占領できるわけでもなく、敵戦力を削ることもほとんどできないため実際のところダメージは少ない。しかし弾道ミサイルは事前に危険を知らせることがほぼ不可能で、いつどこに飛んでくるかわからないため敵国民に与える心理的な影響は大きい。


日本の核武装論
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日本の核武装論は、日本が核武装するかどうかについての議論である。核武装論は、広義には核兵器を保有していない国家における安全保障政策上の核武装の是非や利得についての議論を指し、狭義には核武装賛成論を指す。核保有国においては、既に保有する核兵器をどのように運用整備するかという核戦略が議論される。日本においては、日本国のGHQ草案を基に制定された現行憲法や法律に基づいて法的、政治的に現行日本国憲法が定めた平和的観念、憲法前文に明記されている国際化社会における日本の平和的発展と地位保持、国民が強く望む恒久の平和などの観点、日本国が署名した国連条約に基づいて施行された現行法や特別刑法に定められた項目により、日本国が日本の防衛予算から支出される予算で核兵器を持つかどうかの議論となる。

北朝鮮の核武装以後
  2005年(平成17年)2月10日、北朝鮮が核武装を公式に宣言した。同年2月25日、大前研一韓国マスコミの「北朝鮮の核保有が最終確認された場合、日本も核武装に動くのか」という質問に対して次のように答えた。「その可能性は大きい。日本はその気になれば90日以内に核爆弾を製造し、ミサイルに搭載できる技術的能力を持っている。われわれはすでに大陸間弾道弾(ICBM)水準のミサイルロケット)を保有しており、50トン以上のプルトニウムを備蓄している。核爆弾2,000基を製造できる分量だ。日本はすでに30 - 40年前、原爆製造に必要なあらゆる実験を終えた。日本が核武装をしないのは国民情緒のためだ。9割の日本人が核兵器の開発に反対している。広島長崎の悪夢のためだ。しかしわれわれが北朝鮮核兵器の実質的脅威を受ける状況になれば、世論は急変するはずだ」。

  2006年麻生太郎外務大臣は衆議院テロ対策特別委員会にて次のように述べた。「隣の国が持つとなった時に、一つの考え方としていろいろな議論をしておくことは大事だ」「非核三原則を政府として堅持する立場に変わりはないが、日本は言論統制された国ではない。言論の自由を封殺するということに与しない(=核武装の論議容認)という以上に明確な答えはない。」
  「攻められそうになった時にどう防ぐか。万が一のことが起きた時にどうなるかを考えるのは、政治家として当然のことだ」。この発言は日本のみならず、海外にまで議論が及ぶこととなり、与野党からこの核武装とも取れかねない発言の撤回を求める意見が多数出ることとなり、この発言の後に安倍晋三総理大臣や塩崎恭久官房長官が非核三原則は厳守すると念を押す発言をし、ジョージ・W・ブッシュアメリカ大統領もこの発言に対し「中国が懸念する」と述べた。
  これら中川昭一らの発言を受けて安倍晋三は次のように述べた。「政府や党の機関としては議論しない。それ以外の議論は自由だから言論封鎖することはできない。」同年12月24日、「日本が小型核弾頭を試作するまでには少なくとも3 - 5年かかる」とする政府の内部文書が明らかになった

核武装賛成論
核抑止力の保有(「核抑止」も参照)
  ・核抑止力とは、敵の先制攻撃によっても生存可能な報復用の核兵器を持つことにより、敵の核攻撃を抑止する力である。
  ・日本の狭く都市部に人口が密集した地理的条件から中・露など広大な国に対する核抑止力を否定する意見もあるが、それは相互確証破壊の概念と核抑止力の概念の混同である。
  ・核によって攻撃しようとする側は、核攻撃によって得られる利益が不利益を上回らなければ攻撃できない。したがって、自国が報復用の核を持つことによりその相手国の不利益の割合を増大させれば、相手国の核攻撃の動機を抑止出来ることになる。そして核抑止力の大きさは反撃可能な核の量に比例する。これが核抑止力の基本的な考えである。その核抑止力が敵対しあう2国間で最大、すなわち国家の存続が不可能となった状態が、相互確証破壊である。

中国脅威論(詳細は「中国脅威論」を参照)
  ・中国の経済成長に伴う軍事力の拡大によって米軍の影響力の低下が予想されている。
  ・中国の軍事支出の伸びは19年連続2桁パーセント増で、2007年の時点で5兆円超と公表されているが、実態はその3倍になると米国防総省は指摘している。
  ・かつて米国はソ連との冷戦期において同盟国を保護し、やがてソ連を崩壊に追い込んだが、中国相手に同様の構図は成り立たないと考えられる。ソ連は経済的には貧弱であったが、中国の経済力はやがて米国を上回るという予測もある。そして冷戦期の米ソの経済関係は極めて希薄であったが、米中の経済関係は極めて緊密であり、米国の国別の貿易額では、中国は2004年に日本を抜いて3位になっている。また米国債の保有額では2007年で日本は1兆ドル弱、中国が約7,000億ドルと推定される。
  ・今後も中国の経済発展により、米中の貿易額は確実に増加していく。それに対して日本は人口減少により対米貿易額は減少すると考えられる。即ち米国経済にとって中国の価値が日本の価値を上回れば、米国が中国の脅威から日本を守ろうとする動機が希薄になる。
  ・実際に中国が経済的、軍事的に超大国となった場合、米国は台湾や日本を守るため中国と戦争は出来ないという指摘は米国の学者からもなされている。ハーバード大学スティーヴン・ウォルトシカゴ大学ジョン・ミアシャイマー、そしてサミュエル・P・ハンティントンなどは、米国が東アジアでの覇権を放棄して中国との力関係を保つ「オフ・ショアー・バランサー戦略」という選択肢を主張している
  ・リチャード・アーミテージは講演で、米国一極超大国時代は2020年以降に不確実になる可能性があるという認識を示した
核武装によるメリット
  ・国際的影響力の大幅な増加が期待される。
  ・核武装を行っている・または進めている周辺国(中、露、北朝鮮)への抑止力を米国に依存(核の傘)する現状が、日本の自主外交力を低下させている。逆に、日本が核武装すれば米国の被保護国からの脱却を目指せる。
核武装によるデメリット
  ・唯一の核被爆国として国内には反核兵器感情が根強く、政治的混乱を招くおそれがある。
  ・国際的には核不拡散・廃絶に対する逆行であり、国際社会から敵視されるおそれがある。
  ・核兵器の開発・配備はもとより保管・管理・破棄の費用も大きく、経済的負担が重い
核廃絶への疑念
  核保有国が果たして核を廃棄するのか、という疑念がある。核保有国の一部はコスト削減のために核軍縮に積極的だが、完全に廃絶すると表明した国はまだない。米国、ロシア、中国は核廃絶しないことを表明している。
核抑止以外の核安全保障論
  北朝鮮に核抑止の効果は無い。すでに経済的に破綻し、自助努力による国家再建が不可能な北朝鮮において、核は短期的な要求を飲ませるための安易な手段になっている。アメリカ政府が封鎖した20億円の資金の解除を要求するほどに困窮している状況で、常識的に考えて数兆円の予算を必要とする対米核戦力の構築など不可能であり、その核戦力もない北朝鮮が「核を保有する」アメリカを始め、中国、ロシアの意向を無視している以上、日本が核武装したところで拉致問題や核開発において日本の要求をどのように飲ませ、効果を挙げるのかについて、確たる分析は無い。

  米ソ核抑止という有名な例があるために「核には核抑止」が半ば常識になっているが、実際には核抑止は常に成立するわけではない。核ボタンを押せば相互に損をする場合、ならびに失う物がある者に対してしか抑止が効かない。
  核抑止力の問題において核兵器保有国の戦略戦術上最も問題に問われるのが、何が敵で何が味方かつまりFOF(Friendly Or Foe)の明確な識別である。核兵器を抑止する以上明確な敵対味方識別を行い戦略戦術核や軍事的、経済的、国際的抑止を行うが、敵対標的、敵国、敵対人員、敵対機構、敵対組織を明確に全て詳細に把握して行う作業のため、敵対標的全てを明確に識別する必要がある。
  先進国の核兵器保有国の戦略戦術核武装に対する敵対標的であるため、ほとんど全ての標的が国家規模の国際的組織犯罪者及び機構であり、それらの人員が国家規模の国際的組織犯罪による核テロやその他の人道に対する罪平和に対する罪に値する国家規模の組織犯罪をどのように行っているか、それらの意図や解体はどう行うのかを明確に把握して明記し、正しく認識して全て解体破壊して対処を行う。
  戦術戦略核兵器の利用や抑止は、一度使用されれば世界的核戦争を招く可能性がある。これは人類社会、地球惑星の生命の致命的危機となり、人類社会の存亡や地球惑星の存亡に関わる問題である
現状を維持して日米安保条約に基づく核対処の維持論
  最も保守的で何も現行法、憲法、国際条約も変更せず現状を維持して日米安保条約に基づく対処を行い、有事の際には明確に速やかに米国や国連に相談協力して核対処を行う事が最も効果的で、効率的、合理的であるとする意見が大半であるが、実質的、経済的、軍事的、効率的、効果的、合理的、平和的その他の既存要素全てにおいて考慮すれば、先進国である日本の憲法や対処が国際的にも合理的で妥当であるとも判断される。
  根拠としては、日本の経済的、政治的、軍事的、地理的、国土的要素から判断して、現行憲法が国連連合軍総司令部の民生局によって作成された事、ほとんどの国が超大国に軍事的に依存協力し、実質的実用性が全く無いに等しい戦略戦術核の問題に関し、国家的、経済的、軍事的犠牲を払い核対処を行う際に、大国に依存し安全保障協定や条約を締結して不必要な核武装をアウトソーシングして行う事が戦略戦術核上不必要な国や地域において、国連条約や国際条約上適切で効率的、効果的、経済的、合理的で最も安全で簡単、明確な対処であると判断される事やその他の歴史的事例や対処から判断すると、実質的必要性の無いものを形式上や有事の際のためにアウトシーシングして核兵器廃絶までの期間の対処を行う事が有効的対処と判断する事ができるからである。

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ロシア連邦軍
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  ロシア連邦軍(略称: ВС РФ英語: Armed Forces of the Russian Federation)は、ロシア連邦の軍隊である。ソ連崩壊後の1992年に、旧ソ連核兵器を含むソビエト連邦軍の主力を継承して成立した

国防政策と軍事戦略
核戦略
  ウラジミール・プーチン大統領は2020年6月2日、『核抑止力の国家政策指針』に署名した。核兵器の使用は大統領が決定することを定め、ロシアの核戦力は「本質的には防衛的なもの」としつつ「使用の権利を保持する」と規定した。核兵器使用の条件は、核兵器を含む大量破壊兵器がロシアやその同盟国に使用された場合だけでなく、それらを狙った弾道ミサイル発射の確度の高い情報を入手したり、核報復能力を阻害する工作が行われたりした場合や、ロシアの国家存在を脅かす通常兵器の攻撃に対しても使用する可能性があると明記した。このほか「核抑止力が必要になり得る軍事的危険」の対象に、宇宙空間やロシア周辺へのミサイル防衛(MD)システムや弾道ミサイル、極超音速ミサイル、核兵器及びその運搬手段の配備を挙げた

軍事支出
  ロシアの経済規模は2000年以降の10年ほどで急成長し、これに合わせて軍事支出にも大幅な伸びが見られる。狭義の軍事支出を、各年度予算の第2章「国防」の項目として捉えた場合、1999年には1155億9400万ルーブルであったものが2010年には1兆2747億9400万ルーブルと11倍にも増加したロシア連邦保安庁 (FSB) やロシア内務省傘下の準軍事機関まで含めれば、その額はさらに大きくなる

  なお、従来は国防予算のうち7割までが人件費や福利厚生費、燃料、食料、光熱費といった維持費に当てられていた。しかし今後、老朽化した装備の更新を進める必要から、今後は国防予算中に占める装備調達費の割合を増やしていく意向である。 ロシア軍を含めた軍事組織向け装備調達は国家国防発注 (GOZ) と呼ばれ、2010年度は新規調達費用が3193億ルーブル、修理・近代化改修費が639億ルーブル、研究開発 (NIOKR) 費が1080億ルーブルで、合計4911億ルーブル程度であったと見られる。 さらに、2011年以降に大規模な装備更新計画「2020年までの国家武器計画 (GPV-2020)」が発動するのにあわせて、2011年度以降のGOZはさらに増額されることが見込まれている[注 2]。積極的に武器輸出もしており、2011年には1兆円を超えるとされている。
  2010年代も対前年比10パーセント超の増加が続き2015年度には3兆2740億ルーブルとなったが、2016年度には経済状況の悪化もあり初めて対前年比1パーセントの国防費減少に転じた。しかし予算の修正により執行額は3兆7750億ルーブルに増額された。2017年度は予算を抑え2兆8,360億ルーブルとなった
徴兵制度
  ロシアは過去3世紀(ロシア帝国ソビエト連邦時代を含む)にわたり徴兵制度を採用していて、2009年時点では、18-27歳の男性が1年間の兵役に就くことが求められており、徴募に応じる義務がある。なお大学生は兵役を遅らせることが許可されているほか、ロシアの大学には軍事教練が存在し、これが徴兵制度を補っている。
  2002年6月28日、ロシア下院は、代替奉仕に関する法案(代替文民勤務法)を採択し、良心的兵役拒否が実質的・制度的に明文化された。ソ連崩壊後の1993年に制定されたロシア連邦憲法は、宗教や他の信条を理由に兵役拒否する人に対し、代替奉仕の可能性を保障している。しかし、代替奉仕に関する具体的取り決めを定めた法律は、それまで存在しておらず、軍隊からの脱走の多発や、兵役拒否するための賄賂等、汚職原因となっていた。2002年に可決された法案によると、兵役の替わりに、民間施設で3年半、又は軍事施設で3年間の代替奉仕を選択することができる。また、大卒の場合、奉仕期間は半分ですむ。ただし、徴兵委員会が代替奉仕者の任地を決めるため、自宅や家族の近くで働ける可能性は低い。この法律は2004年1月1日から発効した。
  ロシア軍では、軍内でのいじめ殺人などの犯罪行為が後を絶たず、ロシアの徴兵制はロシア国民の間で非常に評判が悪く、若者の間では兵役逃れが蔓延している。2004年には徴兵忌避率が90%以上[注 4]に達したとイワノフ国防相が発言したなど、ロシアの徴兵制は形骸化が進み、もはや破綻寸前であるという評価もある。
  徴兵制度の機能不全や少子化のため、2014年度は100万人の定数に対して77万人(充足率77%)まで落ちていたが、段階的な兵力削減により2017年には90万人の定数に対して83.7万人(充足率93%)まで回復[1]した。また志願制度主体への移行を進めており、全体の職業軍人数は38万4千人、下士官は100%が志願制となった。2020年には兵士の3分の2が、給与を受け取りながら2~3年ほど軍で働く契約軍人になるとの予測もある。
軍改革
初期
  ロシア連邦軍の前身であるソ連軍は兵力約522.7万人を持ちアメリカ合衆国軍と並ぶ世界最強の軍隊と言われてきたが、ソ連末期には装備の老朽化と軍規の乱れなどで脆弱となった。それらの問題はソ連軍から発足時に約282万人の兵力を引き継いだロシア連邦軍にも持ち越され、1994年チェチェン紛争においてその弱体振りが国内外に露呈することになった。その後も、主に財政難から大幅な減員を余儀なくされ、兵器の調達も激減した。5個あった軍種も空軍防空軍 (PVO) の1998年の合併や戦略ロケット軍が2001年に独立兵科になったことに伴い一般的な3軍種となっている。また連邦鉄道部隊局が管轄していた鉄道部隊も国防省の管轄とされた。1997年7月16日にエリツィン政権は大統領令にて1999年1月1日から兵力定数を120万人にまで削減することを定めた
  2000年に発足したプーチン政権はロシア軍の再建に乗り出し、軍需産業を振興する一方、士官候補生養成の寄宿制の学校を各地に設立し「強固な愛国心によってロシアを守る人材」の育成に乗り出した。プーチン政権では全ての兵力を「強固な愛国心のある志願兵」から構成することを目標に掲げている。2001年にプーチン政権は「2005年までの軍建設計画」を承認し、同年3月24日の大統領令で兵力定数を100万人に定めたが、これは実施されなかった。
  2003年には、当時のイワノフ国防相が改革プラン(いわゆる「イワノフ・ドクトリン」)を発表した。同文書では、戦略的抑止力の維持、常時即応部隊の増加と統合部隊の設立、作戦訓練の改善、軍の一部を徴兵制から契約軍人に転換、装備の近代化、兵站及び技術支援の改善、教育・研究活動の発展が改革のための施策として挙げられたが、多くは実現しなかった。
セルジュコフ改革
  ソ連崩壊後、ロシアでは常に軍改革が議論されてきたが、2008年にアナトーリー・セルジュコフ国防相の主導で本格的な改革が始まるまで、実質的にはほとんど進展が見られなかった。マイナーな変化はあったものの、組織や運用ドクトリンは依然として冷戦期の大規模戦争思想に影響を受けており、冷戦後に増加した小規模紛争に機動的に対処できる体制になかった。
  たとえばロシア陸軍では、兵力が大幅に減少したにも関わらず、大規模戦争に備えて多数の師団が維持されていた。この結果、ほとんどの師団は司令部要員と装備しか持たない「スケルトン師団」になってしまい、時間をかけて大量の予備役を動員しなければ戦闘態勢を整えることができなかった。一方、ただちに戦闘態勢に移行できる常時即応部隊は、全ロシア陸軍中の17%程度、空軍では155個の航空連隊中5個でしかなかった(2008年の数字)
  また装備の旧式化も深刻で、特に精密誘導兵器C4ISRシステムの普及率は西側諸国に比べて非常に低かった。この結果、2008年8月の南オセチア紛争では、アメリカ合衆国やイスラエルから積極的にハイテク装備を導入していたグルジア軍に対し、ロシア軍は苦戦を強いられることとなった。
  これに対してセルジュコフ国防相は、2008年秋、包括的な軍改革プランを公表し、ロシア軍の体制を根本的に変革する意向を示した。その後も段階的に様々な改革プランが追加的に公表されているが、現時点までに明らかになっている主な内容は次の通りである
兵力削減
  113万4千人の兵力を2012年に100万人まで削減し、特に将校は35万5千人から15万人まで20万人以上減らし、軍事物資調達を担う後方部隊は民営化して人員も3分の1に縮小する。その一方、下級将校は増員し、軍人の給与も昇給させて指揮命令系統を効率化する。なお軍の削減への反発もあり2011年には将校の数は22万人とされた。
予算不足
  ロシアの軍事予算は対GDP比率こそ3%前後と現在の主要先進国の中では高い方ではあるが、西側の軍隊に比べて規模に対し著しく少ないとされる。2007年の軍事予算は354億米ドルであり、世界の7位でありながら米国の20分の1であった。このため、軍事予算の70%も占めていた人件費ですら絶対額は少なく、当時は将軍クラスですら500米ドル/月、一般の徴兵された兵士は3-5米ドル/月となっていた。めざましい経済成長を遂げてきた現代ロシアにあって、このような待遇では高い職業意識を維持することは困難となっている。このため2012年には給与を3倍とし各種手当廃止とあわせ手取りで約6割増しにする改正が行われている。また、徴兵制度を志願兵による契約制度にするには、給与と住宅の改善等にさらに国防予算が必要になり、このことが契約制度への移行を大きく制限している。
兵力量
  ロシアでは、ナポレオン戦争第二次世界大戦でフランス軍やドイツ軍に国内西域に侵攻されたものの、戦闘経験や兵器の技術で優位な敵に対し、それを上回る多数の兵力を動員し、これらを打ち破った経験から、広大で起伏に乏しい国土を防衛するには敵の侵攻を防ぎ得る厚い防衛線を早期に構築できる多数の動員可能な兵力規模が必須であるとする観念が今でも根強い。しかし、ロシアの人口はソ連崩壊後の1992年より減少傾向にあり、出生率は近年1.75程度と回復傾向にはあるものの他の先進国同様少子高齢化にも悩まされているロシアは、中華人民共和国に対抗して人海戦術型の戦闘形態を採ることは困難になりつつある。また、現代においては総力戦の可能性が低い事や前述の徴兵の不調もあり、その点からも100万人の定数でさえ常時維持する必要があるかロシア国内でも疑問の声がある。ロシア科学アカデミーの世界経済国際関係研究所安全保障センター長のアレクセイ・アルバートフ前下院議員は、100万人規模にはこだわる必要はなく、まず80万人規模に減らした後、科学技術の知識を備え高度な訓練を受けた、55-60万人の精鋭の契約将兵で構成されるべきであるとしている。
  ロシアの兵力を近隣国と比較した場合、日本とロシアを比較すれば、日本の人口1億2,700万人より少しだけ多い人口1億4,600万人のロシアが、自衛隊(兵員数25万人弱)の約4倍の100万人の兵力を維持することになる(但し、日本の総人口に対する兵力比はイギリスドイツ等のヨーロッパ諸国に比べても少ない)。一方で、韓国とロシアを比較すれば、ロシアの3分の1強の人口の韓国の有する兵力は約63万人で、人口に対する兵力比はロシアを上回る(但し、韓国は名目上は現在も北朝鮮戦争状態である。また、対する北朝鮮は120万人の兵力を有しており、人口に対する兵力比は韓国を更に上回り、その兵員数はロシア軍以上である)。トルコとの比較では、人口約7,500万人のトルコの兵力は約65万人で、人口に対する兵力比は概ねロシアと同等である。
  兵力削減はプロフェッショナル化(職業軍人化)と同時に続けられており、2017年時点では定数を90万人まで削減している。将来的にはさらに削減するとしている。予備役は2017年時点で約200万人が動員可能とされる。
いじめ
  隊内で新兵に対するいじめが激しく、脱走の大きな原因となっている。公式には2002年前半期だけで2,265名の脱走者が出たとされるが、ロシア兵士の母の会ではその10倍としている。2005年の公式な数字ではいじめによる死者は16人とされ、自殺者が276人、事故死者が同じく276人とされた。ロシアではこの数字に疑問の声が出た。2004年前半期のロシア兵の死者数は500人以上に達していた。
犯罪
  上記のようにソ連崩壊後の税収不足による国防予算の切り詰めで、給与が低水準のロシア軍では高級幹部から末端の兵に至るまで、その低収入を補うため何らかの犯罪・汚職に手を染めるケースが多く、風紀の乱れが深刻な問題となっている。兵士を労働力として民間に貸し出して将校らが私的な利益を得る例はまだマシな方であり、兵器や食料の横流し、新兵から物品を脅し取るなどの行為が日常的に行なわれているとされる。1993年に起きたロシア太平洋艦隊栄養失調で新兵4人が死亡した事件から久しいが、根本的な改善は行なわれていない。2004年前半期だけで5億ルーブルが国防費から犯罪によって不正使用されているといわれる。
  ソ連崩壊後のエリツィン大統領時代には、国家予算が破綻寸前もしくは破綻していたため、議会が承認した国防費は支出など行なえる状況には無かったが、公式の数値上は米国に次ぐ世界第2位の軍事大国であった。この時期には、国防費の名目上の支出と実際の支払いに大きな差異があって当然となり、予算を管理・執行する立場の軍人や官僚にとっては、不正に関与する土壌となり、いまでもその「習慣」が続いていると2008年9月の大統領府による調査報告書は指摘している
武器調達
  ソ連崩壊後の混乱で熟練工の流出や技術を若手に継承するのが思うように進まず、技術者の高齢化などによって予算を組んでも計画どおりに生産できない傾向にある。また、簡単なミスによる故障が増加している。今後は予算約20兆ルーブルの2020年までの国家装備計画に置いて武器を大量に発注して近代化を進める予定であったが、予算状況により即応部隊を優先することとなり、最新装備の配備率は即応部隊に限れば58%超となった[1]。ただし航空宇宙軍では66%なのに対し海軍では47%と軍種によって格差が発生している


中国人民解放軍
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  中国人民解放軍は、中国共産党が指導する中華人民共和国軍隊である。(中国人民解放軍の中華人民共和国における公的・法的位置については後述の「#法的規定」を参照すること。)
  単に、日本などでは「中国軍」、中華人民共和国国内では「解放軍」と略されて呼ばれている。 陸軍海軍空軍ロケット軍戦略支援部隊の5軍を軍種とする。また、正規軍たる人民解放軍とは別に、中国民兵中国人民武装警察部隊が中国共産党および中華人民共和国の武装力量に定められている。

兵力
  中国人民解放軍の人員・装備数・組織構成等は、中国政府あるいは人民解放軍自身が情報公開に積極的でなく国防白書も定期的には発行されていない。2013年4月に中国国務院は『中国国防白書:中国の武装力の多様な運用』を発表して、陸軍機動作戦部隊が85万人、海軍23万5千人、空軍39万8千人とする兵員数の概要を公表した。陸軍機動作戦部隊は、18個集団軍および軍区直轄の独立諸兵科連合師団(旅団)に該当し、国境警備部隊・海岸防衛部隊・軍事施設警備部隊は含まないとしている。陸軍機動作戦部隊に該当しない前記の各部隊の兵員数は公表されず、したがって現役陸軍全体の兵員数は明らかにされていない。また第二砲兵、予備役の兵員数も公表されず、したがって人民解放軍全体の現役・予備役を含めた総兵員数も本国防白書では明らかにされていない。

  イギリス国際戦略研究所が発行した『2013年ミリタリーバランス』によると、2012年11月時点の人民解放軍の人員数は、現役兵は228万5千人、予備役51万人と推定されており、このことから世界最大の常備軍とされている。この他に準軍事組織の人民武装警察(武警)が66万人と推定されている。これらの数は2000年の値と比較すると現役兵は2万5千人減、予備役は+1万~-9万人である。武警は84万人減であった。1982年に現在の武警が設置されてまもない時期は、人民解放軍が大規模な人員数の削減を行った頃と一致する。武警は、削減された人民解放軍兵士を受け入れ、一時は人員が増加したものの、その後に隊員の定年が進み自然減になったものと推察する。準軍事組織には他に中国民兵があり、2011年の中国共産党の発表によると過去には3000万人が所属しており、削減された2011年においても人員800万人を誇る

装備等
  中華人民共和国政府は湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争などでのアメリカ合衆国軍による軍事的成果に影響されて、近年は軍事兵器や軍事システムや戦闘スタイルの革新に力を入れ、通常兵器による軍事力も強力になりつつある。2017年には第5世代戦闘機のJ-20が配備された。また、ロシアの兵器輸出企業の重役によれば中華人民共和国はインドとは違い陸上兵器の近代化が進んでいるため、陸上兵器は地対空ミサイル以外はほとんど輸入してくれないと語っている。そして新式装備の絶対数は多く、Su-27/Su-30MKKシリーズは300機以上ある。これは日本や韓国のF-15保有機数を凌駕している。また、空軍兵器の取引においては完成した機体を購入する時代は終わり、エンジンやレーダーなどのような装備単位で買う段階になったと言われている。その象徴がJ-10である
法的規定(詳細は「中華人民共和国武装力量」を参照)
  中華人民共和国憲法第93条には、「中華人民共和国中央軍事委員会が全国の武力(武装力量)を領導する」との記載はあるが、中国人民解放軍を唯一の国軍と規定する条文はない。中華人民共和国国防法第22条では、「中国の武装力量を構成するのは中国人民解放軍現役部隊と予備役部隊、中国人民武装警察部隊、民兵組成」と規定され、その中で中国人民解放軍現役部隊については、国家の常備軍であると規定されている。
  憲法第93条第1項では、「国家中央軍事委員会が全国の武装力を領導する」としているが、一方で憲法前文に中国共産党が国家を領導することが謳われており、また国防法では、「中華人民共和国の武装力は中国共産党の領導を受ける」、「武装力の中の共産党組織は、党規約に従って活動する」とあるため、中国共産党が軍事を支配することになっている。中国共産党中央軍事委員会と国家中央軍事委員会の構成員は同一であり、即ち中国人民解放軍は実質的には国軍であると同時に「党の軍隊」であるとも言える。
軍事予算
  2013年3月5日に、中国国務院財政部は第12期第1回全人代に提出され審議された2012年支出実績と2013年度予算案を公表した。その後支出実績と予算案は全人代に承認された。それによれば2012年度(1 - 12月)軍事支出実績額は6506億300万人民元であった。2013年度の国防予算は7201億6800万人民元であり、2012年度支出実績に比べ10.7%増である。
  このような「公表額」に対して、世界各国の政府や軍事研究機関は、「中国政府が、いわゆる中国脅威論によって軍備拡張が抑え込まれることを警戒して、軍事支出が小さく見えるように操作している」との見解を持っている。ストックホルム国際平和研究所の推定による、2012年度の中国の軍事支出実績額は為替レートベースで1660億ドルで、アメリカ合衆国に次いで世界で2位(世界シェア9.5%)であり、2003年 - 2012年の10年間で175%増加した。また購買力平価ベースでは軍事支出実績額は2490億ドルで世界第2位である。 中国の軍事支出を国際比較する場合、時価為替レートベースと購買力平価ベースでは相対関係が異なってくる。物価の安い国は同等の予算金額で物価の高い国の数倍の軍備が購入可能という問題を指す。例えば、日本の陸上自衛官1人の給与金額で中国兵20人が雇用可能であり、物価の相違を修正せずに単純に金額を比較しても実際の単年度軍事資産購入量と乖離してしまう。CIAの各国国力・GDP分析は購買力平価で比較されている。

  中国の軍事支出が明確でないという見解の論拠の一般論としては、民主的政治制度が確立している国では、政府の収入と支出の予算案も、立法過程も、可決された予算も、予算の執行も、今年度および過去年度も含めて書籍とウェブで公表され、誰でも閲覧できるが、独裁政権が統治している国は、民主国家と比較して政府の情報公開度が低く、公開された情報には隠蔽・歪曲・誇張された情報が含まれているので、公開された情報の信用性は低いということが指摘される。
  2000年代に入ってからアメリカやイギリス、日本などは中国に対して国防予算の内訳の透明性を向上させることを求めている。2008年(平成20年)3月4日には、日本の町村信孝官房長官が中国の国防予算について「とても周辺の国々、世界の国々には理解できない。その中身がはっきりせず、透明性の欠如は大きい」とし、さらに「五輪を開き、平和的に発展していこうというお国であるならば自らの努力で(中身を)明らかにしてもらいたい」と批判した。また、2009年(平成21年)3月4日には河村建夫官房長官が「発表されたものは依然として不透明な部分があり、国防政策、軍事力の透明性を一層高めていただくことが望ましい」と中国の国防予算の内訳について透明性の向上を求めた。
  中国人民解放軍には他国の軍隊には見られない「自力更生」と呼ばれる独特のシステムが存在した。これは要するに、「国家などの公的予算に頼らず軍が自分で自分の食料や装備を調達する」ということである。元々は軍人が自力で耕作して食料を調達して戦闘に従事し続けたことを意味するが、1980年代になると軍事費の削減によって「軍事費は軍自らが調達する」という方針を共産党が打ち出したことにより、改革開放政策による国の近代化資本主義経済の導入が開始されたことにあわせ、軍の近代化に伴う人員削減で必然に出る失業対策も含めて、各部隊が幅広く企業経営へ乗り出していた。これは1998年に中国共産党が人民解放軍の商業活動を禁止するまで続いた。実際には現在も一般人も利用できる又は一般人向けの各種学校、食堂やクラブなどの飲食店、射撃場など娯楽施設、病院、宿泊施設、食品加工や機器製造等の工場、農牧場、養殖場、炭鉱など鉱山、出版社などあらゆる企業、施設、設備を運営している。イギリスBBCの報道によると、「食料の90%を外部からの調達に依存している」ということである。人員規模を考慮すると、およそ20万人以上の食料を自給できているということであり、他の軍隊に見られない驚異的な特徴の一つとなっているといえる。
歴史
  1921年に中華民国で設立された中国共産党は、一時は中国国民党と協力したが(第一次国共合作)、その後対立し、事実上の内戦(第一次国共内戦)に突入した。基本的に共産党は国民党に対して劣勢であり、のちに「長征」と呼称する大撤退行動などを強いられもした。しかし、1937年に中華民国と日本の間で戦争が起こると(日中戦争支那事変)、再び国民党と手を結び(第二次国共合作)、国民革命軍に編入された八路軍新四軍として日本軍と戦った。しかし、第二次世界大戦後に、敗戦した日本の勢力がいなくなると1946年にはまた第二次国共内戦が始まり、1947年には共産党軍は人民解放軍の名称を使用し、国民革命軍は中華民国国軍に改称した。日本との戦いで疲弊していた国民党軍はアメリカのハリー・S・トルーマン政権の援助停止やソ連ヨシフ・スターリンによる共産党軍への支援で劣勢となった。共産党軍が初めて保有した戦車功臣号はソ連赤軍が占領した満州で日本軍から接収したものだった。中国人民解放軍空軍は捕虜となった日本軍人、整備士が満州の日本軍機を修理、兵を訓練することで設立された(-1949)。また、捕虜となった日本の技術者や看護婦も多数参加している(-1950)。
  1949年 蒋介石南京を脱出し、台北へ移動することで国共内戦が終了(休戦)し、中華人民共和国の建国が宣言された。以降、中共政権下、国共内戦で功績のあった軍の長老が長く君臨し、今の政治人脈に引き継がれることとなる。・・・

組織・機構
  最高軍事指導機関である中国共産党中央軍事委員会の内部に弁公庁をはじめとする15の機関があり、その下に陸軍海軍空軍ロケット軍(元第二砲兵部隊)、戦略支援部隊および五大戦区が置かれている。
  中央軍事委員会直属部門は、2016年1月11日に15個の内部機関が発足したことで大幅に改編された。これらは七大部・三箇委員会・五箇直属機構と分けて呼ばれる。また、五大戦区も2月1日に新しく発足したもので、それまでは軍区制に従い七つの大軍区が置かれていた。
  七大部は弁公庁・連合参謀部・政治工作部・後勤保障部・装備発展部・訓練管理部・国防動員部の七部局をさす。弁公庁は日常業務、連合参謀部は作戦指揮や戦略、政治工作部は政治宣伝、後勤保障部は兵站計画や政策、装備発展部は武器の開発や調達、訓練管理部は訓練や体育、国防動員部は有事のための動員準備を担当する。
  三箇委員会は紀律検査委員会・政法委員会・科学技術委員会の三委員会をさす。紀律検査委員会は綱紀の監察、政法委員会は軍の司法機関への指導、科学技術委員会は科学技術指導を担当する。

  五箇直属機構は戦略規画弁公室・改革編制弁公室・国際軍事合作弁公室・審計署・機関事務管理総局の五部門をさす。戦略規画弁公室は組織の建設戦略、改革編制弁公室は組織改革管理、国際軍事合作弁公室は軍の国際協力、審計署は財務監査、機関事務管理総局は内部機関の事務管理を行う。
  五軍は軍組織の運営維持や軍事行政を担当し、五大戦区は割り振られた地域別に軍種の別なく部隊の統合作戦指揮を担当する。また国防科学技術大学軍事科学院国防大学などが中央軍事委員会直属の軍区級組織である。
  かつては中央軍事委員会の下に、作戦指揮を担当する総参謀部人事政治教育を担当する総政治部補給を担当する総後勤部武器の調達を担当する総装備部の四総部があり、その下に各軍・七大軍区が位置していた。現在の中央軍事委員会内部機関は、これらの四総部を直轄化したうえで解体・再編制したものである。

  国務院国防部は外国との軍事交流などを担当しているだけで、人民解放軍に対する指揮権を持っていない。国務院の管轄下にない解放軍はあくまで党の軍隊であり、国家の軍隊ではないとする。党と軍の関係については、憲法で中央軍事委員会の指導下にあると規定されているが党主席とは記載されていない。そのため、毛沢東など歴代の最高指導者は中央軍事委員会主席を兼任している。
  中国人民解放軍が党の軍である、という立場をとるのは暴力装置である国家を操作する立場である中国共産党が、国家の最大の暴力装置である軍隊を管理するのは当然であると考えられたからである。建前上、中国人民解放軍は人民の軍隊であり、革命を遂行・防衛するための軍隊であるとされている。なお、ソビエト連邦では第二次世界大戦後の1946年に赤軍を国家の軍隊であるソビエト連邦軍に改組している。

  文化大革命では、紅衛兵弾圧を中央軍事委員会主席である毛沢東の命令に従って行った。第一次天安門事件でも四人組からの命令を最後まで無視し、第二次天安門事件が発生した際も中国人民解放軍が、民主化勢力(民主化運動に理解を示していた一部の政府中枢を含む)と共産党保守派のどちらかに付くかを、全世界が注視したが、中央軍事委員会主席である鄧小平の命令によって民主化勢力の弾圧を行った。中国人民解放軍の行動は中央軍事委員会主席の一言に左右されている事を知らしめた。この弾圧によって、国際社会の中国人民解放軍を見る目がいっそう厳しくなり、中国人の中にも「人民を抑圧している軍隊」という印象を持ち、人民解放軍に失望した人がいた。そのため、天安門事件後に行った国際連合休戦監視機構(UNTSO)と国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)への軍事監視要員と工兵部隊の派遣に始まる国連平和維持活動(PKO)に対する積極的な参加、積極的な災害派遣と党を挙げた宣伝活動等により、イメージの改善が行われた。

戦域統合作戦指揮組織
戦区(詳細は「戦区」を参照)
  2016年2月1日に新設された組織。これまであった七つの「大軍区」を、戦略正面と民族分布を考慮して五つに整理統合するとともに名称を「戦区」に変更した。その機能も「大軍区」では軍令軍政の両方を兼ね備えていたのに対し、「戦区」では軍令の機能のみを有する。一方、これまで海軍司令員・政治委員や空軍司令員・政治委員などは隷下の部隊に対して指揮・指導する権限を有していたために、指揮系統に不明瞭な部分があった。今回の戦区新設によって、各軍種司令部は軍種内組織の運営事務や人事管理、教育訓練などの軍事行政に専念し、戦区の連合指揮部が戦域別に統合作戦指揮を執ることになった
  五つの戦区はそれぞれ東部戦区、南部戦区、西部戦区、北部戦区、および中部戦区と名づけられ、それぞれの戦区内の各軍種の各部隊は戦区連合指揮部の指揮下に入るとしている。例えば海軍においては、北海艦隊は北部戦区の、東海艦隊は東部戦区の、南海艦隊は南部戦区の連合指揮部の指揮下に入るとしている。空軍においては、五つの戦区毎に戦区空軍が新たに新設され、それぞれの戦区連合指揮部の指揮下に入るとしている。
軍種
陸軍(詳細は「中国人民解放軍陸軍」を参照)
  1927年8月1日南昌蜂起をもって創立とする。兵力160万人(2010年度)だが、近代化のため兵力削減傾向にある。最新鋭戦車の生産数よりも旧式の59式戦車などの退役数が上回っているため、世界で最も多かったMBT保有数も段階的に縮小している。兵役は事実上の志願兵制をしいている。法律では不足に応じて、選抜徴兵制を実施することになっているが、不足した事は今までにない。
  全体として近代化を進めつつある。陸軍は地域別の軍区に区分されていたが、軍近代化により多くの軍区が削減され、現在は軍区制そのものが陸軍から独立し五大戦区となっている。陸軍時代の軍区司令官は管内所属の空軍および海軍部隊の指揮権を有していたが、2015年12月31日に「陸軍司令部」が新設され、陸軍は海軍・空軍と同列の組織として位置付けられた。
海軍(詳細は「中国人民解放軍海軍」を参照)
  1949年4月23日創立。2011年時点で、現役兵力約250,000人、うち海軍航空隊約26,000人、沿岸防衛陸上部隊約28,000人、海兵隊に相当する中国人民解放軍海軍陸戦隊24000-40000人を有する。世界最多の艦艇保有数を持ち、航空母艦2隻、駆逐艦26隻、フリゲート54隻、弾道ミサイル搭載原子力潜水艦3隻(夏級を1隻と晋級を2-4隻)、攻撃型原子力潜水艦漢級を3隻、商型原子力潜水艦を2-4隻、通常動力型潜水艦54-60隻を保有する(旧式の明型が19隻)。また、海軍航空隊は、5個海航師(海軍航空師団)、4個独立飛行団から成り、各種軍用機571機を保有する。沿岸防衛陸上部隊として、35個岸防導弾砲兵団(海岸防衛ミサイル砲兵団。65,300人)が存在する。
  当初はソ連より艦艇およびその技術を導入していたが、1960年代以降の中ソ対立によって新技術の提供が打ち切られたことから、これらをベースとして独自に設計した艦艇の開発に転じ、旅大型駆逐艦091型原子力潜水艦を就役させた。しかしこれらは、技術的に見て当時の一級品とは言いがたいものであった。現在は、ロシアとの関係改善や中国自身の経済発展などを背景に、ロシアより駆逐艦潜水艦を購入したほか、ヨーロッパやロシアの技術を導入した国産艦艇の設計・配備を進めており、戦力の質的向上を図っている。
  中国人民解放軍海軍は、その艦艇部隊に航空援護を提供するため、ある程度の規模の戦闘用航空機部隊を有している。艦艇部隊の外洋志向に呼応して、航空部隊はその覆域を広げる努力を続けており、空中給油による航続距離の延伸のほか、国産空母の導入も模索していると伝えられている。空母の技術を研究するため、中国はオーストラリアウクライナ、ロシアの中古ないし建造途中の航空母艦を計3隻購入した。このうち、75%まで完成した状態でウクライナより購入したヴァリャーグを、大連において建造を再開した。完成を疑問視されることもあったが2009年の5月には機関部の修復が完了し、ドックに移されたことが確認された。2012年には遼寧として就役させている。また、2019年に初の国産空母「山東」を就役させた。現在3隻目となる空母を上海で建造中
空軍(詳細は「中国人民解放軍空軍」を参照)
  1949年11月12日創立。総兵力38万人(空挺部隊を含む)。作戦機約1950機。このうち、数における主力は、中国がMiG-21を国産化したJ-7、およびこれをベースに開発した拡大改良版のJ-8II、またSu-27、さらに旧式のQ-5などである。以前数千機という多数を保有していたMiG-19の国産型機J-6は既に退役している。
  設立時には満州で捕虜となった日本軍人や整備士が中国兵を訓練している。ソ連からの軍事援助を受けるまでの訓練機及び主力機は日本軍が満州に残した日本軍機であった。
  当初はソ連から航空機およびその技術を導入していたが、1960年代以降の中ソ対立によって新技術の提供が打ち切られたことから、これらをベースとして発展させた航空機の開発に転じた。現在は、ロシアとの関係改善や中国自身の経済発展などを背景に、ロシアからの完成機の購入およびライセンス生産、また国産の航空機に西側の技術を導入することによって、保有する航空機の質的向上を図っている。戦闘機については、2017年にステルス戦闘機J-20を配備し、ロシア製のSu-27およびSu-30の導入、および国産のJ-10戦闘機の量産が進められている。その第4世代戦闘機勢力は、現時点では海軍機とあわせ383機と全体の2割程度であるが、将来的には増勢が確実視されている。 近代化のペースは非常に早く、米国国防省のQDRでは、すでに中台海峡は中国圧倒的有利、さらに周辺先進国への重大な脅威となりつつあるという判定を下している。実際、人民解放軍空軍の実質的な空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍をあわせたものに匹敵し、インドを含むアジアの空軍で最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発しているとされる。
  空輸戦力としては、旧ソ連のAn-12を国産化したY-8を主力とする。また、大型の戦略輸送機として、国産のY-20 (航空機)をはじめ、1990年代前半よりIL-76MDを調達しているほか、これをベースとした空中給油機であるIl-78の購入も予定されている。また、ロシアのIl-76をもとに開発し、イスラエル製の早期警戒装置を搭載した空警2000の導入により、空中早期警戒能力の獲得を図っている。
ロケット軍(詳細は「中国人民解放軍ロケット軍」を参照)
  1966年7月1日に独立兵種第二砲兵として創立される。1984年10月1日の建国35周年記念軍事パレードにおいて、部隊の装備する弾道ミサイルが初めて公開された。地上発射長距離巡航ミサイル短距離弾道ミサイルから大陸間弾道ミサイルまで幅広く保有している。設立当初は、核弾頭を搭載した弾道ミサイルによる先制不使用の核反撃力としての性格が強かったが、第三次台湾海峡危機の頃から命中精度の高い通常弾頭搭載の短距離弾道ミサイル、準中距離弾道ミサイルの開発、大量保有を志向し急激に戦力を増強している。2000年代以後は、長距離巡航ミサイルもラインナップに加わっている。兵員数は約10万人以上と推定されている。2015年12月31日、第二砲兵からロケット軍へ改称。2016年4月に存在が公開されたロケット軍所属の金輪工程指揮部と呼ばれる秘密部隊は第二砲兵時代の1980年代からDF-3を導入した王立サウジアラビア戦略ミサイル軍の運用訓練や基地建設などのためにサウジアラビアに駐留しており、中国人民解放軍初の事実上の海外拠点とも呼ばれている。
戦略支援部隊(詳細は「中国人民解放軍戦略支援部隊」を参照
  2015年12月31日に新設された。中身は明らかにされていないが、習近平主席は「国の安全を守るための新型戦力だ」とし、サイバー攻撃や宇宙の軍事利用を担う部隊が含まれると考えられている。
特殊部隊
  旧来の人民戦争理論からハイテクノロジーを背景とした近代戦への移行という思想のもと、特殊部隊の育成も進んでおり、緊急展開作戦、対テロ作戦、情報収集を任務とし、7つの軍区に数万人の特殊部隊員が在籍している。最近では世界最難関の特殊部隊育成機関であるArmy international Bootcampの合格者も輩出している。(部隊の編成については「特殊部隊の一覧#中華人民共和国」を参照。)
準軍事組織
人民武装警察部隊(詳細は「中国人民武装警察部隊」を参照)
  名目的には公安部(警察担当省庁)に所属し、非武装の公安警察とともに警察活動を行うほか、重要施設の警備や辺境警備にも従事する、準軍事組織である。しかし解放軍部隊を国内治安維持に転用したものであり、各軍区ごとに編成されており、戦時には人民解放軍の指揮下に入る。1982年の創設時の兵力は40万人だったが、人民解放軍の近代化による兵力削減にともない人民武装警察に転用される部隊が増え、現在の兵力は66万人と発表されている。北京の武警総隊が主管している。
諜報活動・政治工作
三戦(世論戦・心理戦・法律戦)(詳細は「中国人民解放軍政治工作条例」を参照)
  2003年12月5日、中国人民解放軍政治工作条例が修正され、解放軍に「三戦」の任務を与えることが明記された。三戦とは、世論戦、心理戦、法律戦の3つの戦術を指す。経済・文化交流を通じて世論誘導あるいは分断をし、敵の戦闘意思を削ぎ、戦わずして中国に屈服するよう仕向けるものを目的としている。
  輿論戦は、中国の軍事行動に対する大衆および国際社会の支持を築くとともに、敵が中国の利益に反するとみられる政策を追求することのないよう、国内および国際世論に影響を及ぼすことを目的とする。ニュースメディアなどの報道映画テレビ番組、書籍などによる世論形成が手段とされる。世論戦の特徴としては中国共産党上層部からのトップダウン方式による指令[37]、敵の意思を削ぐためにメッセージを先取りして「兵馬の動く前に世論はすでに動いている」という形をとって提示するのが目指され、放送局からインターネットユーザーまで利用できる手段をすべて使うことなどが挙げられる。
  心理戦は、敵の軍人およびそれを支援する文民に対する抑止・衝撃・士気低下を目的とする心理作戦を通じて、敵が戦闘作戦を遂行する能力を低下させようとする。
  法律戦は、国際法および国内法を利用して、国際的な支持を獲得するとともに、中国の軍事行動に対する予想される反発に対処する

  心理戦も法律戦も効果を高めるために世論戦が利用される。
  三戦については情報の流出が少なく、具体的な事例は明らかにされていないが、同志社大学教授の浅野亮尖閣諸島への進出は三戦の一環としている。また岡崎久彦は日本に対して中国が歴史認識、特に日中戦争太平洋戦争などの戦争認識に関して宣伝工作が行われているとして、「日本は昔、中国に悪いことをした」という戦争に結びついた主張は中国国民に訴えやすく、また第二次世界大戦での「反ファシズム戦争の勝利」という図式を強調することで連合国であったアメリカに「第二次大戦中の連帯意識を思い起こさせる効果を狙ったもの」と指摘している。ただし、当時アメリカと連合していたのは蒋介石らの中華民国である。
  2012年11月にアメリカのヘリテージ財団研究員ディーン・チェン(Dean Cheng)はこのような中国の戦略に対抗してアメリカ合衆国も世論外交をさらに行うべきであるとして、中国へ外国人記者に対して相互主義にもとづいてビザ提供するよう要求することを提案している。アメリカでは中国人記者が数百人活動しているのに対して、中国ではアメリカ人記者は大きく規制されている。
サイバー攻撃(「サイバー戦争」および「中国サイバー軍」を参照)
  中国政府は人民解放軍がサイバー攻撃に関与していることを繰り返し否定しているが、複数のメディアにより以下の事件が報じられている
  ・2007年ドイツ首相府、経済省、外務省、教育研究省へのサイバー攻撃。
  ・2007年6月アメリカ国防総省にあるロバート・ゲーツ国防長官のコンピューター・システムへの不正侵入が確認された。
  ・2007年イギリス外務省ら複数の政府機関へ不正侵入の可能性。
  ・2013年、アメリカの情報セキュリティ会社であるマンディアントは人民解放軍の「61398部隊」がサイバー攻撃に関与しているという報告書を発表した。
陸水信号部隊の関与
  2010年7月6日に、米国の調査機関メディアス・リサーチは、「中国・サイバー・スパイと米国の国家安全保障」を発表、同報告書のなかで、2009年から2010年にかけて米国の政府・軍機関や民間企業に対して頻発したサイバー攻撃の発信源は中国人民解放軍海南島基地陸水信号部隊(隊員数は約1100人)であるとした。IPアドレスをはじめ、各種データの分析より分析され、発信源は「海南テレコム」と認定されたが、この海南テレコムは事実上、陸水信号部隊と同一である。サイバー攻撃の標的は米国や台湾の軍事関連施設、チベット関連施設であった。また同報告書は、陸水信号部隊は中国人民解放軍総参謀部第3部の指揮下で育成されたサイバー戦争用部隊とした。
  中国政府は政府は無関係と主張したが、中国政府に自国内からのサイバー攻撃の調査を実施し、その結果を米国に伝えるよう求める決議案が米国議会上院に提出された。

日本へのサイバー攻撃
  また、2010年9月に日本の政府系機関に対して行われた中国からのサイバー攻撃について、警察庁は「サイバーテロの脅威はますます現実のものになっている」と警戒感を示し、日本だけでなく米国などの各国機関に対して行われた一連のサイバー攻撃に関して、「米国の民間機関が、単一で最大の発信源は中国の海南島に拠点を置く中国人民解放軍の部隊と断定した」と指摘した。更に、中国の情報収集活動について、「諸外国にて違法な活動を行っている」と言及した。「日本国内でも防衛関連企業や先端科学技術保有企業、研究機関に中国人留学生や中国人研究者を派遣するなどして、巧妙かつ多様な手段で情報収集活動を行っている」と警戒感を示した。

グーグル攻撃(「Google」を参照)
  2010年1月13日、中国で中国政府に批判的な政治活動家が所有するGmailアカウントに対して中国国内からInternet Explorerの脆弱性を利用した攻撃を受けていたことをGoogleが公式ブログで告白、攻撃した一部ユーザーが中国政府であったため中国政府の検閲についても反発し中国から検索事業の撤退を示唆した
  中国外務省スポークスマンは「国内の法律に従うしかない」と述べるも、ヒラリー・クリントンアメリカ合衆国国務長官は「サイバー攻撃に対して説明を求める」とした。なお、Internet Explorerはこの攻撃に使われた脆弱性が問題となり、オーストラリア政府機関が同攻撃に対する脆弱性が無い他ブラウザへの推奨を進めるといった異例の事態に発展、特にGoogleは中国ユーザーに利用者が多いInternet Explorer 6のブラウザに対してのサポートを同年3月で打ち切った。
  Google社は中国政府と交渉を重ねたが、2010年3月23日にGoogleは中国国内から検索事業を撤退、中国(google.cn)にアクセスすると検閲のない香港(google.com.hk)に飛ぶようになった。ただし、中国国内から香港の当該サイトで中国政府の規制しているキーワードを検索すると接続が出来なくなるなど、中国当局による規制が行われていると一部のメディアで報道された。(「ゴーストネット」も参照)
  2010年12月には、ウィキリークスが公開をした米外交公電により、一連のグーグル攻撃は中国政府が行ったもので、攻撃を統括したのは周永康李長春であったことが判明した。
中国国防部による認知
  2011年5月25日中華人民共和国国防部の耿雁生報道官は、定例記者会見において広東省広州軍区のサイバー軍に関する質問を受け、その存在を認め 、中国軍のインターネットセキュリティーの水準向上が目的と説明した。
  また、新唐人テレビによれば「中国のネット上には当局にとり有利な発言を書き込む“五毛”(ウーモ)と呼ばれる“世論誘導役”がおり、その数約30万人」としている(五毛党)。
  中国網は「国防部は「『ネット藍軍』はいわゆる『ハッカー部隊』ではなく、国防当局が自らの必要に基づき臨時創設したネット防衛訓練機関だ。国際社会は行き過ぎた解釈をすべきでない」と回答した。」とし、あくまでアメリカが設立した点と防衛用である点を強調する事で、アメリカ側の攻撃用だと示唆した。なお、アメリカ側は中国側からの攻撃に対応するために米サイバー軍を立ち上げていると主張している。
  2011年11月3日、米国の国家防諜局は報告書「サイバー空間で米国の経済機密を盗む外国スパイ」を議会に提出し、そのなかで中華人民共和国は「世界で最も活発かつ執拗な経済スパイ」とし、他ロシアを含め、スパイ活動の実行者として非難した。
軍事戦略・軍事外交・発言
台湾問題と核攻撃発言(詳細は「台湾問題」および「米中関係」を参照)
  1989年に発生した六四天安門事件で米国をはじめとした主要国はこぞって中国の人権状況を非難し、米国は高レベル交流を中止し、対中武器禁輸及び経済制裁を課した。こうした米中関係の悪化をうけて、1995年、中国軍部副参謀総長熊光楷は「もし米国が台湾に介入したら、中国は核ミサイルでロサンゼルスを破壊する。米国は台北よりロサンゼルスを心配した方がよい」と、台湾海峡での武力紛争に米国が介入した場合、中国はロサンゼルスに対して核攻撃する可能性があると表明した。
  翌1996年中華民国総統選挙に際して、中国は台湾海峡においてミサイル演習を行い、台湾を恫喝した。米国は2つの空母機動部隊を派遣、第三次台湾海峡危機が危ぶまれたが、1997年に江沢民の訪米が実現し、1985年に結ばれた平和的な核協力協定で合意。1998年にはビル・クリントン大統領が訪中したことで台湾海峡の緊張は緩和された。その後、人権核不拡散などの協議が行われ、米中関係は改善した。
  2001年4月1日、米軍偵察機と中国の戦闘機が空中衝突事故(海南島事件)が発生するが、米中関係は緊張するものの悪化しなかった。
上海協力機構
  2001年6月15日に中国は、西側諸国を警戒するロシア中央アジア諸国とともに安全保障機関「上海協力機構」 (SCO) を発足させて、西側を牽制。その後、上海協力機構には中立国のモンゴルや米国の同盟国であるパキスタンと友好国インドも参加、米国と対立するイランも参加した。同機構加盟国はしばしば共同軍事演習を行い、2005年には中ロ共同軍事演習、露印共同軍事演習を行い、同2005年には、米軍が中央アジアから撤退するように要求した。
  2007年に中印共同軍事演習が実施されたものの、インドと米国は2006年に、パキスタンが中国の技術提供により核武装を進めつつあるため、米印原子力協力協定 (Indo-US civilian nuclear agreement) を締結している。日本も西側陣営として2006年11月には麻生太郎外相が「自由と繁栄の弧」政策を打ち出し、2007年8月には安倍晋三首相が訪印して日印の安全保障・防衛分野での協力を確認している。
台湾問題の再燃と朱成虎発言
  2005年にもし台湾が公式に独立宣言をするならば中国は武力を用いてそれを阻止する事を述べた反国家分裂法が中国で制定された。
  同2005年7月6日には、朱成虎少将が「米国政府が台湾海峡での武力紛争に介入した場合、核攻撃も辞さない」と海外メディア記者会見において発言した。発言は以下の通り。

  この朱成虎発言に対してアメリカ国家安全保障会議報道官のショーン・マコーマックは7月15日、朱成虎発言は「極めて無責任で、中国政府の立場を代表しないことを希望する。非常に遺憾」と非難し、7月22日にはアメリカ下院議会は、発言撤回と朱成虎少将の罷免を求める決議を採決した。中国政府はのちに公式見解ではないと発表したが、これについて台湾高等政策研究協会執行長官楊念祖は朱成虎の発言はアメリカ合衆国と日本に向けられたもので、中国政府は米日両国の反応を試しているとした

太平洋分割管理構想
  2007年5月にアメリカ太平洋軍総司令官、ティモシー・J・キーティング海軍大将が訪中した際、中国海軍幹部から、ハワイを基点に米中が太平洋の東西を「分割管理」する構想を提案されていた事が2008年の上院軍事委員会公聴会で明らかにされた。中国海軍幹部は、中国が航空母艦を保有した場合、ハワイ以東を米国が、ハワイ以西を中国が管理する事で合意したいと申出た。キーティング司令官は「冗談だとしても、人民解放軍の戦略構想を示すもの」とした。なおキーティング司令官は提案者を伏せたが、2007年5月時点で中国海軍の呉勝利司令官と会談している為、この発言は呉司令官に可能性が高い。
  また2007年8月には、中国軍による太平洋分割管理提案について、米政府内の親中派内で提案に前向きな姿勢を示す者も有ったと報道されている。
  2012年11月、ヒラリー・クリントン米国務長官は中国と南シナ海領有権問題について協議した際、中国側の高官の1人が「(中国は)ハワイの領有権を主張する事もできる」と発言し、これに対してヒラリー長官は「やってみてください。我々は仲裁機関で領有権を証明する。これこそ貴方がたに求める対応だ」と応じた事を明らかにした。
オバマ政権
  2008年アメリカ合衆国大統領選挙民主党候補で勝利し、第44代アメリカ合衆国大統領に就任したバラク・オバマは外交政策では当初「親中派」と見られていたため、米中両国の友好関係の緊密化が期待された。
  オバマ大統領は、同年11月に訪中して胡錦濤主席と会談、共同声明で「米中の戦略的相互信頼の構築と強化」を謳い、G2チャイメリカ)という二大大国を意味する言葉が謳われ、米中接近が演出された。この当時は、オバマ大統領は会談などで中国国内の人権問題チベット自治区新疆ウイグル自治区、国内における少数民族への弾圧や民族浄化政策などへの批判を控え、中国側の自制を期待していた。
  しかし中国はその後も、南沙諸島問題などで周辺諸国に積極的な軍事行動をとり、中国におけるアメリカ寄りの民主化活動家劉暁波へのノーベル平和賞授与への妨害介入など、毅然とした態度を取り続けた。
  アメリカ側も、2010年以降台湾への兵器売却の決定、ダライ・ラマ14世とオバマとの会談を実施するなど、方向転換しつつあるという見方も有る。
  ただし、オバマは中国を経済的なパートナー国であるとも宣言しており、米中関係の緊密化は必要だとも述べていた。
米中関係の緊張
  2011年1月14日には米紙ワシントン・ポストにおいてアメリカ政界の重鎮であるヘンリー・キッシンジャー元米国務長官が「米中は冷戦を避けなければならない」と述べ、米中が冷戦状態に入りつつあると警鐘を鳴らす記事が掲載された。キッシンジャーは米中が冷戦状態に入った場合、「核拡散や環境、エネルギー、気候変動など、地球規模で解決が必要な問題について、国際的に(米中の)どちらに付くかの選択を迫ることになり、各地で摩擦が発生する」と述べた
  2011年11月9日アメリカ国防総省は「エア・シーバトル」(空・海戦闘)と呼ばれる特別部局の創設、中国の軍拡に対する新たな対中戦略の構築に乗り出していることが明らかとなった。この構想には中国以外の国は対象に入っていないとアメリカ側は事実上認めており、米政府高官は「この新戦略は米国の対中軍事態勢を東西冷戦スタイルへと変える重大な転換点となる」と述べた
  2014年には環太平洋合同演習リムパック)に参加して米中合同演習を行うも、中国から情報収集艦「北極星」が派遣されたことは物議を醸した。
米軍のオーストラリア駐留
  アジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議の3日後の2011年11月16日、オバマ米大統領はオーストラリア北部への米海兵隊駐留計画を発表し、2012年から米軍がダーウィンなどに半年交代で駐留、豪州軍と共同訓練や演習を実施し、最終的に2500人の駐留を目指すとし、海上交通路(シーレーン)確保を狙った米軍配備を進め、中国への牽制を行った。
  豪州は米国が東アジア有事として想定していた台湾海峡朝鮮半島などから距離があり、これまで拠点としての重要度は低かったが、中国から直接の軍事攻撃は受けにくいこと、また南シナ海、インド洋へのアクセスにおいて戦略的な位置付けが高まったとされる。
  これに対して中国政府は中国共産党機関紙・人民日報系の英字紙『グローバル・タイムズ』を通じて「豪州は中国をバカにしてはならない。中国の安全保障を弱体化させているのに、それと切り離して経済協力を進めることはできない。越えてはならない一線がある」と批判した。
  またインドネシアのマルティ・ナタレガワ外相は、米軍の豪州駐屯について、中国の反発を生むとして危険性を指摘した。
「第一列島線」構想(「第一列島線」を参照)
  米議会諮問機関「米中経済安全保障見直し委員会」年次報告書は2011年11月16日、中国が東アジアにおける有事の際、奇襲攻撃や先制攻撃で米軍の戦力を低下させ、日本周辺を含む東シナ海までの海洋権益を支配する戦略を中国軍は持っていると指摘した。また中国軍は、指揮系統をコンピューターに依存する米軍の弱点を突く形でサイバー攻撃を仕掛ける作戦や、南シナ海や東シナ海での紛争では対艦弾道ミサイルや巡航ミサイルによって、九州―沖縄―台湾―フィリピンを結ぶ第一列島線を規準に防衛戦線をとり、かつ米軍等を含む他国の介入を阻害する作戦があるとも指摘した。

  第一列島線はもともと1982年に鄧小平の意向を受けて、中国人民解放軍海軍司令官・劉華清(1989年から1997年まで党中央軍事委員会副主席)が打ち出した構想で、2010年までに第一列島線内部(近海)の制海確保をし、2020年までに第二列島線内部の制海権確保をし、2040年までに航空母艦建造によって、米海軍による太平洋、インド洋の独占的支配を阻止し、米海軍と対等な海軍を持つというものであった。
  2011年12月25日の日中首脳会談では、中国側が中国包囲網を切り崩すために懐柔するとみられ、実際、日中で高級事務レベル海洋協議の開設と海上捜索・救助協定(SAR協定)の締結で合意した。なお12月17日(発表は19日)には北朝鮮の金正日書記の死去をうけて、周辺諸国は緊張していた。

  2012年1月5日、オバマ大統領は5日、アジア太平洋地域での軍事的なプレゼンスを強化する内容の新国防戦略「米国の世界的リーダーシップの維持と21世紀の国防の優先事項」を発表した。新戦略文書では中国とイランを名指し、サイバー攻撃やミサイル開発などの非対称的手段で米国に対抗していると指摘、中国について軍事力増強の意図の透明化を求めたうえで、オバマ大統領は演説で「第二次大戦やベトナム戦争の後のように、軍を将来への準備もない状態にする失敗は許されない。米軍を機動的かつ柔軟に、あらゆる有事に対応できるようにする」と述べ、米国が安全保障を主導する決意を示した。これに対して中国政府系メディアは警戒感を示した


大韓民国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  大韓民国(、: Republic of Korea)、通称韓国は、東アジアに位置する共和制国家。首都はソウル特別市冷戦で誕生した分断国家のひとつであり、朝鮮半島(韓半島)全域を領域と主張しているが、実際には半島南部のみしか実効支配していない。日本北朝鮮国家として承認しておらず、日本は韓国を朝鮮半島唯一の合法政府とする

概説
  憲法上は鴨緑江豆満江以南の「朝鮮半島及び付属島嶼」全域を領土とするが、現在北緯38度付近の軍事境界線以北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治下にあり、韓国の施政権は全く及んでいない。朝鮮戦争で争った北朝鮮とは1953年休戦したが、その後も断続的に軍事的対立や小規模な衝突が発生している。
  政治面は1980年代半ばまで独裁体制が取られていた。しかし、1987年民主化宣言によって成立し、現在まで続いている第六共和国憲法に基づく体制は民主主義政体と評価される。
  経済面は1960年代前半まで世界最貧国グループにあったので、独自に資金や技術を調達できなかった。しかし、ベトナム戦争参戦で獲得したアメリカ合衆国からのドル資金と、日本からの1960年代半ばから1990年までの約25年に渡る円借款およびその後も続いた技術指導や技術援助により、社会インフラを構築し輸出産業が育ち早い経済発展を遂げた。これは漢江の奇跡と呼ばれ、国内総生産(GDP)で世界11位(2015年時点)となっている。2017年、韓国全体のGDP(1.531兆ドル)で東京(約1.8兆ドル)を多少下回る程度にまで成長した。韓国の一人当たりGDPは、2018に3万3,346ドル(USD)を記録した(日本は約4万ドル)。

  日本の隣国ではあるが、歴史的経緯や共に民主党政治教育などの誘導により一部の韓国民における反日感情は世界的に見てもその傾向は高い方である。日本に対して批判的な意見を持つ人もいるが、一方でそれ以上に日本や日本人、日本文化に好意的な言動を示す人も多くいる。日本と韓国は相互に貿易総額で第3位(2016年)の貿易相手国であり、韓国の財閥企業は多くの部品・素材・生産機器を日本からの輸入に依存しており、経済的な結び付きは高い。
  支配領域の面積は日本の約26%で、山地が多く平野部は少ない。森林と農地で国土の約81%を占める。ソウル首都圏には全人口5千万人の約半数が居住し世界の都市圏人口の順位でも第5位となっている。海上では南と東に日本、西に中華人民共和国と各々国境を接する。
国名
正式名称
  「」は、古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」と呼ばれる馬韓辰韓弁韓の国々の名称に由来する朝鮮民族の別名で、1897年に当時の朝鮮国(朝鮮王朝)がから独立するにあたって使用した国号大韓帝国」に由来している(朝鮮国が国号を「大韓帝国」とした経緯については大韓帝国#国名を参照のこと)。1910年日韓併合後、朝鮮の地域呼称は「韓」から「朝鮮」へ戻されたが、1919年朝鮮独立運動の活動家たちが中華民国で「朝鮮の亡命政権」(大韓民国臨時政府)を樹立する際、共和制国家の名称として「大韓」と「民国」を採用した(名称採用の経緯については大韓民国臨時政府#名称の由来参照のこと)。
  現在の「大韓民国」という国号は、李承晩金九などの「大韓民国臨時政府」を正当な独立運動の主体と考える大韓独立促成国民会(独促国民会)の強い意向により決まった。
  1945年日本の降伏時点で、連合国は大韓民国臨時政府の政府承認を否定し、朝鮮全土を連合国軍の占領下に置いた。その後、1948年米軍統治下の朝鮮のみで独立することが決まると、米軍は憲法制定(制憲)国会を招集して独立準備にあたらせた。その際、憲法起草委員会が新国家の憲法起草とともに新国家の国号と年号も決めることになり、国号候補として「大韓民国」「高麗共和国」「朝鮮共和国」「韓国」の四つが挙げられた。最終的には、1948年6月23日に採決が行われ、独促国民会が推す「大韓民国」が新国家の国号に決定した。なお委員会が国号を決定しかねていたある日、臨時政府側の池青天(チ・チョンチョン)将軍(光復軍司令官)が起草委員でもないのに突然委員会に姿を現し、「国号は『大韓民国』、年号は『檀紀』に即決せよ、さもないと割腹自殺する」というハプニングがあったという。
日本における呼称
  日本語表記は、大韓民国。略称は、韓国。もしくは南北朝鮮の対比の略称として南鮮。ただし、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府を「朝鮮の合法な政府」として支持する者(朝鮮総連など)や共産趣味(チョソンクラスター)の間では、南朝鮮または南鮮なんせんという呼称が使用される。
  大韓民国の建国からしばらくの日本では、「韓国」のほかに「南朝鮮」「南鮮」などの呼称も一般的であった。1965年日韓基本条約締結で国交が樹立されてからは「大韓民国(韓国)」の呼称も使用されるようになるが、メディアなどでは「南朝鮮・大韓民国」と二つ並べて呼称されることが多かった。1980年代中ごろ以降、「南朝鮮」「南鮮」の呼称は公式の場面でほとんど用いられなくなっている。例外として日本共産党が南北が国際連合へ加盟した際、「どちらかが全体を代表するという響きがない」として用いていたことがあった。日本語での伝統的な異称としては「高麗(こま、「狛」とも表記)」があり、「こまひと(高麗人)」といえば朝鮮半島の人々の異称であった。独立直後は「ハーヌ民国」と表記する地図もあった。
ヨーロッパ諸語における呼称
  ヨーロッパ諸語でのコリアKorea)はマルコ・ポーロの『東方見聞録』における「高麗-コリョ)」に由来する。大韓民国のヨーロッパ諸語の呼称は Republic of Korea(英語)を公式に使用している。また、北朝鮮を North Korea、韓国を South Korea と略称することも多い。
朝鮮民主主義人民共和国と韓国における「朝鮮」の呼称
  朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府は、自国や自民族の呼称として「朝鮮」を用いており、かつ韓国を主権国家として正式に承認していない。南北朝鮮は、東西ドイツ基本条約を結んだかつての東西ドイツとは違い、条約に基づく相互国家承認をしていない。1991年南北基本合意書に「相手方の体制を認定し尊重する」(第1条)との規定はあるが、合意書が批准を経たものでないため、法的拘束力を持っていない。このため、北朝鮮の人々は、韓国政府が実効支配している地域を南朝鮮と呼んでいる。韓国政府をアメリカ合衆国の傀儡政権と見なして、「南朝鮮傀儡」と表記することもしばしばである。

  韓国(南朝鮮)の人々も、大韓民国建国まで、韓国政府の実効支配区域(38度線以南の朝鮮)に居住する朝鮮民族の間でも、自国や自民族の呼称として「朝鮮」を用いていた。しかし、韓国と北朝鮮は、1948年の両者の建国以来、「朝鮮の合法な政府」としての地位をめぐって対立しており、1950年には朝鮮戦争によって甚大な被害を受けている。このため韓国の人々は、大韓民国建国以降は、敵対する北朝鮮が半島全土の呼称として「朝鮮」を用いていることや、韓国を「南朝鮮」と呼称していること、韓国人から歴史的にあまり芳しくないと考えられている日本統治時代李氏朝鮮を想起させることなどの歴史的・政治的事情により、「朝鮮」という表現を避ける傾向が強い。
  これらの事情のため、韓国人が「朝鮮民族」「朝鮮語」などの言葉を日常で使うことはほとんどなく、「韓民族」「韓国語」という表現が主流となっている。また、朝鮮半島を「韓半島」、朝鮮戦争を「韓国戦争」または「韓国動乱」などと呼称するのが一般的となっている。朝鮮の南北についても「北韓・南韓」と呼んでいる。さらに、朝鮮人参も「高麗人参」という
  ただし、ごく一部の民族民主(NL)系人士が自国のことを「南朝鮮」と呼んでいるほか、ホテル名学校名朝鮮日報のような大韓民国成立以前から存在する組織など、ごく少数の固有名詞では、あえて歴史的な事実を尊重して、歴史的感覚から「高麗」「新羅」と同様に「朝鮮」を使用している場合もある]
歴史(詳細は「朝鮮の歴史」および「韓国の歴史年表」を参照)
独立に至る経緯(詳細は「連合軍軍政期 (朝鮮史)」を参照)
  朝鮮1910年韓国併合によって日本の統治下に入り、国際的に併合の合法性を問題視する国もなかった。しかし、第二次世界大戦の勃発で日本連合国が敵対するようになると、連合国の首脳は1943年に発表したカイロ宣言の中で大戦後の朝鮮に「自由且独立ノモノタラシムル」ことを宣言した1945年2月、ヤルタ協定にて連合国首脳は戦後朝鮮を4か国による信託統治下に置くことを決定、ヤルタ会談と米軍との秘密協定に基づいてソ連軍8月9日対日参戦後速やかに朝鮮半島へ侵攻を開始した。1945年8月15日、日本がポツダム宣言の受託を宣言したことで朝鮮の日本統治からの離脱が決定的となった。韓国ではこれを「光復」と呼び、8月15日を光復節という祝日に定めている(北朝鮮も同日を祝日に定めている)。
  光復後、朝鮮は北緯38度以北(北朝鮮)をソ連軍に、以南(南朝鮮)をアメリカ軍にそれぞれ占領された。米軍司令部は9月7日に朝鮮における軍政(占領統治)実施を宣言し、独立運動家らが自発的に樹立した朝鮮人民共和国大韓民国臨時政府政府承認を否定した。9月9日米軍朝鮮総督府から降伏文書の署名を受け、南朝鮮では新設された在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が朝鮮総督府の統治機構を一部復活させて直接統治を実施した

  米軍軍政下の朝鮮半島南部には幾つかの政治勢力が存在した。このうち李承晩を中心とする右派のグループは米国ともっとも近い関係にあった。しかし李承晩は米国本国との直接のパイプを見せながら米軍軍政に対して接したため軍政の当局からは厄介な存在として扱われていた。ただ李承晩には長年本国を離れていたため国内に組織的な支持勢力を持っていないという弱点もあった。右派の政治勢力には李承晩のグループとともに大韓民国臨時政府の中心となっていた金九のグループがあった。さらに右派には宋鎮禹金性洙など韓国民主党(韓民党)を結成した政治勢力がおり、韓民党は財政的基盤では他よりも優位にあった。一方、左派の政治勢力には朴憲永のグループがあった(朴憲永はのちに北朝鮮へ越北)。このほか呂運亨を中心とする中道左派のグループや金奎植を中心とする中道右派のグループが存在した
  第二次世界大戦後の朝鮮半島南部では左右対立が激しく、無償農地改革を主張していた左派勢力のほうが優勢だった。しかしソ連が提案した朝鮮半島の国際信託統治案をめぐって左派が「賛託」と呼ばれる賛成派につき、右派が「反託」と呼ばれる反対派についたことを契機に状況は変化した。連合国は1945年12月のモスクワ三国外相会議にて朝鮮半島の信託統治を協定し、翌1946年1月から京城府で信託統治実施に向けた米ソ共同委員会を開催した。しかし、共同委員会は信託統治受け入れに反対する李承晩、金九ら大韓民国臨時政府系の右派の扱いをめぐって紛糾し、米ソ対立から1947年7月に決裂した。

  アメリカは朝鮮問題を国際連合に持ち込み、国連は1947年11月14日に国連監視下で南北朝鮮総選挙と統一政府樹立を行うことを決定した。翌1948年1月に国連は国連朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮へ派遣し、総選挙実施の可能性調査を行った。ソ連がUNTCOKの入北を拒否したため、アメリカ主導の国連は2月26日にUNTCOKが活動可能な南朝鮮単独での総選挙の実施を決定、金九、金奎植ら大韓民国臨時政府重鎮や北朝鮮人民委員会による南部単独での総選挙反対を押し切って5月10日南部単独総選挙を実施した。
  米軍軍政は李承晩や金九を絶対的に支持していたわけではなく、中道派を軸に左右の勢力を取り込んだ政権を実現しようとしたが挫折(左右合作運動。結局、李承晩と韓民党の連携による政権樹立が目指された。憲法案では大統領制を採用するか内閣責任制を採用するかが争点となり、強大な権力を理想とする李承晩や金九は大統領制を主張したのに対し、議会に基盤を置いていた韓民党は内閣責任制を主張した。制憲憲法はその折衷案として大統領を国会議員間接選挙により選出する大統領間接選挙制を採用した。選挙によって成立した制憲議会7月12日制憲憲法を制定、7月20日には李承晩を大韓民国大統領に選出して独立国家としての準備を性急に進めた。この制憲憲法には進歩的な条文も含まれていたが、自由に関しては法律での制限を広範に認める内容で、国内の多くの政治勢力の意向を汲んだ妥協点が反映されたものだった。
  光復から3年後の1948年8月15日、李承晩が大韓民国政府樹立を宣言。同日独立祝賀会が行われ、実効支配地域を北緯38度線以南の朝鮮半島のみとしたまま大韓民国が独立国家となった
  南朝鮮単独で大韓民国が建国された翌月の1948年9月9日、大韓民国の実効支配が及ばなかった残余の朝鮮半島北部は金日成首相の下で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として独立した。
  双方に政権ができてからも南北分断回避を主張する南北協商論は強く、金九や金奎植は平壌で金日成と会談したが決裂した(南北連席会議)。南北間には隔たりがあり、金日成はこの会議を朝鮮半島全体の指導者として印象づけるために利用したという評価もある。
  1948年の時点では南北の分断はまだ強固で強靱に制度化されたものとはみられていなかったが、冷戦を背景に南北で非常に対照的な憲法が制定されたことで南北の分断は次第に固定化された。互いに朝鮮半島全土を領土であると主張する分断国家はそれぞれの朝鮮統一論を掲げ、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は建国翌日の9月10日最高人民会議の演説で「国土完整」を訴え、他方大韓民国(南朝鮮)の李承晩大統領は軍事力の行使をも視野に入れた「北進統一」を唱えた。互いを併吞しようとする両政府は1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争によって、実際に干戈を交えることになる。
朝鮮戦争(詳細は「朝鮮戦争」を参照)
  1950年6月25日朝鮮人民軍(北朝鮮軍)は韓国との境界であった北緯38度線を越えて南下を開始し、朝鮮戦争(韓国動乱)が勃発した。そのころ、弱体である韓国軍は敗退を重ね、洛東江以東の釜山周辺にまで追い詰められた。北朝鮮の侵攻に対して国連安保理は非難決議を上げ、米国を中心とする西側諸国国連軍を結成して韓国軍とともに後退戦を戦っていたが、仁川上陸作戦により北朝鮮軍の戦線を崩壊させ、反攻に転換した。韓国軍・国連軍は敗走する北朝鮮軍を追って鴨緑江近辺にまで侵攻した。これに対し中国義勇軍を派遣して北朝鮮の支援を開始、韓国軍・国連軍を南に押し戻し、一時再びソウルを占領した。その後、北緯38度線付近で南北の両軍は膠着状態になり、戦争で疲弊した米国と北朝鮮は1951年7月10日から休戦合意を巡る協議を開始した。2年間にわたる戦協議の末、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定締結をもって大規模な戦闘は停止した。ただし、韓国政府は休戦協定に署名しておらず、戦争自体も協定上は停戦状態のままとなっている。この戦争により、朝鮮半島のほとんど全域が戦場となり、インフラや文化財の焼失、戦闘での死者のみならず、保導連盟事件済州島四・三事件の例にあるように双方とも敵の協力者と見なした一般市民の大量処刑を行うなど、物的、人的被害が著しく、国土は荒廃した。また、38度線が引かれたことにより朝鮮半島の分断が確定的となり、朝鮮統一問題が南北朝鮮の最重要課題となっている。
李承晩時代(詳細は「第一共和国 (大韓民国)」を参照)
  1948年に初代大統領に就任した李承晩は、日本から戦争賠償金を獲得するために「対日戦勝国連合国の一員)」としての地位を認定するよう国際社会に要求したが、連合国からは最終的に認定を拒否され、1951年日本国との平和条約を締結することができなかった。そのため、李承晩は李承晩ラインの設置(1952年)や竹島の占拠(1953年)によって武力で日本の主権を奪う政策に出た。一方、国内では朝鮮戦争という危機的状況下でも権力を維持し、戦争中に釜山へ移転していた政府を休戦後に再びソウルへ戻すことができた。朝鮮戦争後、李承晩は政敵の排除(進歩党事件など)や反政府運動に対する厳しい弾圧とともに、権威主義的体制を固めていった。しかし、経済政策の失敗で韓国は最貧国の一員に留まっており、権威主義的な施策もあって人気は低迷していった。そのため、不正な憲法改正や選挙など法を捻じ曲げての権力の維持を図ろうとしたものの、1960年4月19日の学生デモを契機として政権は崩壊し(四月革命)、李承晩はハワイへ亡命した。
朴正煕時代(詳細は「第二共和国 (大韓民国)」、「第三共和国 (大韓民国)」、および「第四共和国 (大韓民国)」を参照)
  李承晩失脚後は、張勉内閣の下、政治的自由化が急速に進展したが、学生を中心とした北への合流を目指した南北統一運動が盛り上がりを見せるに至り、危機感を抱いた朴正煕少将をはじめとした軍の一部が1961年5月16日クーデターを決行し、国家再建最高会議 が権力を掌握した。第三共和国憲法の承認後、朴正煕は1963年10月に第5代大統領に当選 した。1972年、野党勢力の伸張により政権の合法的延長が難しくなった朴正煕は10月17日非常戒厳令を発し憲法を改正(第四共和国)、大統領の直接選挙を廃止して、自らの永久政権化を目指した。「維新体制」と呼ばれるこの時期には、反対派に対する激しい弾圧により政治的自由が著しく狭まったが、1979年10月26日、側近の中央情報部長により朴正煕は暗殺された。朴正煕時代は強権政治の下、朝鮮戦争以来低迷していた経済の再建を重視した。しかし、世界最貧国グループに属していた韓国は自前で「資金」や「技術」を調達できず、いずれも、特に米国や日本など海外に依存せざるを得なかった。資金面では、米国のベトナム戦争参戦で得た巨額のドル資金や、1965年日韓基本条約締結を契機に日本からの1990年までの約25年にわたる円借款、技術面は、日米の技術者による指導や日米企業との技術提携を通して、技術やノウハウを吸収し、鉄鋼、石油化学などの基礎産業が整備され、造船や自動車産業などの輸出産業も成長した。のちに「漢江の奇跡」と呼ばれた。これにより韓国は世界最貧国の層を脱した。一方で朴政権は人材登用や産業投資に際し、自身の出身地である慶尚道を優遇し、全羅道に対しては冷遇をしたため、慶尚道と全羅道の地域対立、差別の問題が深刻になった。この問題は今に至るまで解決していない。
全斗煥・盧泰愚時代(詳細は「第五共和国 (大韓民国)」を参照)
  朴正煕暗殺により、急速に規制が解かれた韓国の政治はソウルの春と呼ばれる民主化の兆しを見せたが、1979年12月12日より始まった粛軍クーデターにより、全斗煥陸軍少将をはじめとした「新軍部」が軍を掌握した。新軍部の権力奪取の動きに対して反対運動が各地で発生したが、80年5月17日非常戒厳令拡大措置が発令され、政治活動の禁止と野党政治家の一斉逮捕が行われた。5月18日、光州では、戒厳軍と学生のデモ隊の衝突が起こり、これをきっかけに市民が武装蜂起したが、5月27日、全羅南道道庁に立てこもる市民軍は戒厳軍により武力鎮圧された(光州事件)。新軍部は朴正煕暗殺後に大統領の職を引き継いでいた崔圭夏8月16日に辞任させ、全斗煥が大統領に就任し、憲法を改正。翌81年2月25日に行われた選挙により全斗煥が大統領に選出された。1987年、大統領の直接選挙を求める6月民主抗争が起こり、与党盧泰愚大統領候補による6.29民主化宣言が引き出されたため、大統領直接選挙を目指した改憲が約束された。しかしながら、12月に行われた大統領選挙では、野党側の有力な候補が金泳三金大中に分裂したために、全斗煥の後継者である盧泰愚が大統領に当選し、軍出身者の政権が続くこととなった。全斗煥、盧泰愚の時代は、軍政に反対する民主化運動とそれに対する弾圧の激しい時代であったが、朴正熙時代から引き続いた高度な経済成長と、1988年ソウルオリンピックの成功、中華人民共和国ソビエト連邦1990年9月30日)との国交樹立国際連合への南北同時加盟などにより新興工業経済国として韓国の国際的認知度の上がった時代でもあった。
文民政権登場以後(詳細は「第六共和国 (大韓民国)」を参照)
  1990年金泳三率いる統一民主党金鍾泌の率いる新民主共和党とともに盧泰愚政権の与党である民主正義党と合同(「三党合同」)し、巨大与党である民主自由党が発足した。金泳三は1992年大統領選挙に民主自由党の候補として出馬し当選した。金泳三は久しぶりに軍出身者でない文民の大統領であったが、旧軍事政権と協力したために実現したものだった。しかしながら、金泳三政権時代に、全斗煥、盧泰愚元大統領らに対する軍事政権下の不正追及が開始された。1997年大統領選挙では、長年にわたって反軍政・民主化運動に関わってきた金大中が大統領に当選した。金大中政権において民主化・自由化は本格化し、国家安全企画部の改組、民主労総の合法化などが行われた。民主労総を支持基盤とした民主労働党が結成され、のちに国政進出を果たした。対北朝鮮政策も「太陽政策」のもと2000年6月南北首脳会談を実現させ、分断された鉄道の連結や経済協力など南北融和が進み、近い将来の統一の期待を膨らませた。金大中は日本文化の開放も進め、日韓ワールドカップの共催を頂点に日韓の友好ムードは高まった。2002年大統領選挙で当選した盧武鉉は支持基盤的に金大中の後継であり、政策も引き継いだ。2007年大統領選挙に当選した李明博2012年大統領選挙に当選した朴槿恵により、再び政権は慶尚道系保守勢力へ戻り、各種政策も揺り戻しが起こっているが、民主的政体は大韓民国においてもはや定着していると言える。2017年3月には民主化以降初めての大統領弾劾が成立して朴槿恵が失脚。5月の大統領選挙文在寅が当選し、再び革新系に政権が戻った。
地理(詳細は「大韓民国の地理」を参照)
政治(詳細は「大韓民国の政治」および「大韓民国の法制度」を参照)
政治体制(詳細は「大韓民国憲法」を参照)
  1948年8月15日の建国以来、大韓民国は共和憲政体制を採用している。国家体制を定める憲法は、建国直前の1948年7月17日最初の憲法を採択して以来、9回の憲法改正を経て現在に至っている。特に、国家体制を大きく変えた5回の改憲は韓国政体の歴史的な一区切りとされ、それぞれの時期に存続していた憲法は第一から第六憲法と呼称されている。それにともない、各憲法に基づいて構成されていた政体も、第一から第六共和国と呼称されている。現在の憲法は第六共和国憲法と呼ばれ、1987年10月29日に採択された。この憲法は、5年毎の直接選挙による大統領の選出を定めているほか、大統領の再選禁止なども盛り込まれており、韓国憲政史上もっとも民主主義的な体制を規定した内容である。第六共和国憲法に基づいた第六共和国は、1988年2月25日盧泰愚大統領の就任以来、今日まで持続している。現在でも役人の権限が非常に強い役人社会である。腐敗があまりにも蔓延しているため、中央・地方の全公職者・公企業・国公立の教職員とされていたが、社会に与える影響力が大きいという点から記者などマスコミに携わる従事者と私立学校教職員、そのらの配偶者への接待・贈り物を禁止するキムヨンラン法が制定された
地方自治(詳細は「韓国の地方自治」を参照)
  1990年代以降は地方自治体の選挙も実施されているが、それ以前の広域自治体の首長は政府の任命、基礎自治体の首長は知事や特別市長、直轄市長による任命であった。
警察(詳細は「大韓民国の警察」を参照)
司法 (「国民情緒法」および「大韓民国の法制度」も参照 )
  大陸法を採用している。三審制で最高の司法機関は大法院である。法律の合憲性、弾劾裁判、政党への解散命令、憲法訴願審判については大法院に設置される憲法裁判所で審判が行われる。
司法通訳
  誤訳・意訳が問題になった通訳が再び担当になること、弁護士が用意した通訳者に頼ることなどがあり通訳が不足している。外国人が関係した刑事裁判は2012年の3249件から2014年の3790件と増加傾向にあるが、韓国内の裁判所に2015年に登録されている司法通訳は計約1200人で、英語、中国語、日本語など28言語の通訳が選択可能だが、難しい法律用語を正確に伝えられる司法通訳の数は限られている。
   加藤達也産経新聞ソウル支局長を含め、メディア側に対する民事・刑事での法的措置も頻発しており、大統領の主張・意向通りで検察が動くなど批判が多い。加藤支局長のときは韓国の検察は、記事に「朴槿恵大統領の名誉を傷つける意図」があったことを立証するためとして、記事を読んで朴氏の男女関係を臆測したインターネット掲示板2ちゃんねるの書き込みを証拠として提出するほど形振り構わない。名誉毀損の告訴が増加傾向にあり、2005年以降の9年で告訴件数は70%も増え、年間1万2000件を超えた一方で、検察当局が実際に起訴する割合は下がり、2013年の起訴率はたったの22%だった。強引な告訴の多さを示している。政府がマスコミや市民への告訴を乱発していることが国民にも影響を与えているとみられ、実際に裁判で無罪となるケースも多い。判決も含め、韓国の司法判断は、時の政権の意向や世論の動向に影響されやすい
酒酔減軽
  韓国刑法10条2項にある「心身障害で事物を弁別したり意思を決定したりする能力が低下している場合には、刑を軽減する」を根拠として酩酊状態だと減刑される。ナヨン事件以降に酒酔減軽廃止を求める世論がある。2018年4月27日には2017年12月に隣家の幼稚園児を車に連れ込んで性的暴行し、「酒に酔って犯行を覚えていない」と主張した50代の会社員に懲役10年を宣告したため、「酒に酔って、通常の精神状態ではなかった」という被告人の主張を受け入れて懲役12年の刑で済んだナヨン事件の再来として、未成年者への性暴行をアメリカのように無期懲役にすることを求める請願に20万人以上が参加するなど廃止世論が再び強まった

軍事
国防部と国軍 (詳細は「大韓民国国防部」および「大韓民国国軍」を参照 )
  大韓民国大統領陸軍海軍空軍の最高司令官であり、大統領、国防部長官、合同参謀本部議長のもとに陸海空軍本部が所属する。2020年の国防予算は約50兆1500億ウォン、兵力は陸軍約52万、海軍約6.8万人(大韓民国海兵隊2.8万人含む)、空軍約6.5万人である。18か月から22か月の徴兵制志願兵制を併用しており、すべての男性には兵役義務があるが、近視などの身体的問題やその年度の予算不足のため免除や短縮勤務となる者もある。政治家の息子や有名俳優やスポーツ選手などの中には徴兵逃れをしている者もおり、たびたび報道されている。

  大韓民国国軍の主たる国防対象は軍事境界線38度線)を挟んで対峙する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の朝鮮人民軍であり、大半の陸上戦力を向けている。1950年に勃発した朝鮮戦争以来、朝鮮戦争休戦後の1953年に締結された米韓相互防衛条約に基づいた米韓同盟によりアメリカ軍と緊密なつながりがあり、しばしば朝鮮半島有事を想定した米韓合同軍事演習を実施している。協定により平時の作戦統制権は韓国軍が単独行使するが、有事の際の戦時作戦統制権は少なくとも2020年代半ばまでは米軍と共同行使するため米韓連合司令部が置かれている[89]。2008年4月に行われた米韓首脳会談において、在韓米軍を2万8500人体制で維持することが決定されている。
  また、韓国軍は国防対象を日本へも向けている。日本から韓国への策源地(敵地)攻撃能力が皆無なのとは対照的に、韓国国内から日本のほぼ全域を射程とする射程1500キロの玄武-3巡航ミサイルシリーズや、射程180 - 500キロの玄武-1・玄武-2弾道ミサイルシリーズやATACMS弾道ミサイル、イージスシステムを搭載し巡航ミサイルの発射が可能な世宗大王級駆逐艦の配備をするなど、日本本土をも攻撃可能な兵器の増強をしている。また、新造する強襲揚陸艦に竹島の韓国名である「独島」と名づけたり、最新鋭機のF-15Kに空軍参謀総長が自ら乗り込んで、日本に対して竹島の実効支配を見せつけるために竹島上空を飛行するなどしている。さらに政府要人や軍幹部が相次いで公然と日本に軍事的に対抗する意思を示しており、盧武鉉大統領時代にはアメリカ政府に対して「日本を仮想敵国にするよう」正式に要請している。また伊藤博文を暗殺したテロリストの名を冠した潜水艦安重根文禄・慶長の役で豊臣軍と戦った武将の名を冠した李舜臣級駆逐艦を保有し、日本に対する海軍艦艇の数的劣勢を補うために、日本本土と至近の済州島に建設中の海軍基地に独島級揚陸艦と最新鋭の214型潜水艦を配備する予定であるなど、日本に対する軍事的対抗心を露にしている。
核開発疑惑
  1970年代に大韓民国大統領であった朴正煕は大韓民国独自の核兵器開発を構想しており、大韓民国の核保有を望まないアメリカ合衆国との政治問題に発展していた2004年には過去において韓国がウラン濃縮など核兵器開発の研究を行っていた事実が発覚し、国際原子力機関(IAEA)の査察を受けている。
  また、1979年朴正煕暗殺事件以後も現職の政治家や大統領が核武装を肯定する発言が相次いでいる。ハンナラ党鄭夢準議員や宋永仙議員は北朝鮮への対抗上、韓国は核武装を進めるべきだと述べている。2013年2月、李明博大統領は韓国国内から核武装論が出ていることについて、「愛国的で、高く評価する」「北朝鮮と中国への警告になり、間違っているとばかり言えない」と述べた
  その他にも外国への核拡散関与が発覚することもある。2005年には大韓民国の放射性アイソトープ販売企業であるキョンド洋行が、イラン企業のパトリス社に放射性物質であるニッケル63を売ったほか、フランスからは別の放射性物質である三重水素(トリチウム)を買い入れ、パトリスに売り渡していたことが報道された。
国際関係 (詳細は「大韓民国の国際関係」、「大韓民国の在外公館の一覧」、および「南北等距離外交」を参照 )
  大韓民国は、国際連合加盟国のうち189か国と国交を結んでいる。2020年1月時点で国交のない国連加盟国は朝鮮民主主義人民共和国、キューバ、シリアの3か国である。国交締結国のうち、特にアメリカ中国日本とは経済または軍事のいずれかの面で結びつきが親密となっている。
朝鮮民主主義人民共和国との関係(詳細は「朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の関係」、「朝鮮統一問題」、および「北朝鮮による韓国人拉致問題」を参照)
  1948年8月15日の朝鮮半島南部における大韓民国建国以来、翌月の1948年9月9日に朝鮮半島北部にて建国された朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とは「朝鮮唯一の正統な国家」としての立場をめぐり、敵対的な関係が続いた。2013年3月6日付の朝鮮労働党機関紙『労働新聞』が「米帝核兵器を振り回せばわれわれは精密核打撃手段でソウルだけでなくワシントンまで火の海にするだろう[96]」と大韓民国とアメリカ合衆国を並べて非難したように、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国は南韓、大韓民国を「米帝傀儡」だとみなし(「南朝鮮傀儡」)、特に米韓合同軍事演習実施のたびに関係が悪化する。

 1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争以後、朝鮮半島の分断は決定的となった。強硬な反共主義者であり、「北進統一」論を掲げていた李承晩初代大統領は軍事力による朝鮮半島統一の可能性を断ち切らなかったため、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定国連軍中朝連合軍の間で署名された際も、北側は朝鮮人民軍南日大将が署名したのに対し、南側はアメリカ軍ウィリアム・ハリソン・Jr中将が署名し、大韓民国の要人は休戦協定に署名しなかった。朝鮮戦争休戦後も初代大統領の李承晩朴正煕全斗煥らによる軍事政権は強固な反共主義政策を実行し、1987年6月29日民主化宣言まで朝鮮民主主義人民共和国が「対南工作」で派遣したスパイや、大韓民国国内の共産主義者に対しては「国家保安法 (大韓民国)」やその他の法令に基づき厳重な取り締まりが行われた。ただし、1987年の民主化以後は「国家保安法」の存在にもかかわらず、大韓民国にも政治集団として朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮労働党の指導理念である「主体思想」を支持する「主体思想派」が存在する。また、1990年代北朝鮮の経済が崩壊し、北朝鮮で「苦難の行軍」と呼ばれる飢餓が発生したあとには「脱北者」と呼ばれる亡命者が南朝鮮、大韓民国に流入している。

  大韓民国政府は1万人を超える「北派工作員」を北朝鮮に送り込み多くの犠牲を出している。1971年8月23日に発生した実尾島事件はこの「北派工作員」派遣の過程で発生した事件であった。朝鮮民主主義人民共和国政府もさまざまな手法で韓国に対する「対南工作」を行っており、青瓦台襲撃未遂事件ラングーン事件文世光事件で大韓民国大統領の暗殺を謀ったり、イ・スンボク事件江陵浸透事件などで大韓民国への侵入事件を引き起こしている。また、大韓航空機YS-11ハイジャック事件等で韓国国民の拉致事件を引き起こしており、大韓航空機爆破事件では韓国国民を標的とした無差別テロ事件を引き起こしている。また陸上の軍事境界線や海上の北方限界線をめぐっては、南北分断以降、1976年ポプラ事件1999年第1延坪海戦2002年第2延坪海戦2009年大青海戦2010年天安沈没事件延坪島砲撃事件等の武力衝突が断続的に発生している。
  このような中、統一に向けた努力が試みられているが、実を結ぶには至っていない。1960年四月革命によって学生と市民が李承晩初代大統領を退陣させたあと、同1960年8月14日に朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は南北朝鮮統一のために「連邦制統一案」を発表、両政府代表による「最高民族委員会」の結成を提唱し、初めて具体的な平和統一案を提出したが、大韓民国の張勉首相がこの提案を検討することのないまま、翌1961年5・16軍事クーデターによって朴正煕少将が軍事政権を樹立したため、この提案は流れてしまった1972年ニクソン大統領の中国訪問によってそれまで敵対していた米中関係が改善した結果が南北朝鮮に波及したため、同1972年7月4日に大韓民国の朴正煕大統領と朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は共同で南北共同声明を発表したが、その後朴正煕大統領が維新クーデターでさらなる権力集中を進め、また1973年金大中事件で大韓民国国内の民主派を弾圧する姿勢を維持したため、以後北側からの南北間の対話は途絶えた。なお、金大中事件直前の1973年6月23日に朴正煕大統領は「平和統一外交宣言」を、金日成主席は「祖国統一五大方針」をそれぞれ提出しているが、国際連合同時加盟問題に対する南北両政府の主張の隔たりの大きさが浮き彫りになる結果に終わっている

  1979年10月26日朴正煕暗殺事件が発生したあと、翌1980年5月に5・17非常戒厳令拡大措置によって全斗煥将軍が実権を握ると、同1980年10月10日に朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席は、軍事政権である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の両国間の政治体制の相違を乗り越えて低い段階での連邦制を実現するため、「高麗民主連邦共和国」創設を提示した。
  冷戦終結以後は雪解けが進み、1991年の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の国際連合同時加盟や南北基本合意書に結実した。1993年に大統領に就任した金泳三は「三段階統一論」を提示した。1998年に発足した金大中政権は「太陽政策」の名の下、積極的に朝鮮民主主義人民共和国との融和政策を進め、2000年6月には金正日国防委員長南北首脳会談を実施、6.15南北共同宣言を締結し、大韓民国国内に和解ムードが広がっていた。
  2003年に発足した盧武鉉政権も太陽政策を引き継ぎ、朝鮮民主主義人民共和国による2006年の核実験以後も、2007年10月に第2回南北首脳会談を実施したが、北朝鮮による日本人拉致問題が発覚し、相次ぐ北朝鮮によるミサイル発射実験北朝鮮核問題をめぐる六者会合の実施など北朝鮮包囲網が国際的に形成されたこともあり、2008年2月25日に発足した李明博政権以降は太陽政策を転換した。李明博政権下では南北間の緊張が高まり、2009年大青海戦2010年天安沈没事件延坪島砲撃事件などの軍事衝突が勃発している。

  朴槿恵政権下の2014年には韓国政府から北朝鮮に対して30億ウォン(約3億円)規模の人道支援が実施された。
  なお、北朝鮮と韓国は対中関係で大きく変化してきており、2014年の北朝鮮による核実験の強行によって建国以来の血盟関係にあった中朝関係は急速に悪化する一方、習近平中国最高指導者が北朝鮮首脳との面会に先だって訪韓するなど中韓両国は急速に接近し、北朝鮮政府は中国に派遣する自国の貿易商に中韓関係の情報収集を命じ、警戒を強めているとされている。2015年2月に北朝鮮は中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加しようと特使を派遣したが中国側の拒否によって失敗に終わったのに対し、韓国は同年3月にアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加した。2015年9月の中国の軍事パレードでは、韓国は大統領の朴槿恵が参加し党総書記である習近平と肩を並べて参観したのに対し、北朝鮮は朝鮮労働党書記である崔竜海を派遣したが席は端に近い位置であった。韓国の聯合ニュースはその写真と1954年に金日成と毛沢東が同じ場所で軍事パレードを参観した写真を並べ、「主人公の変化は、半世紀を超える間に韓中関係と中朝関係がどれだけ変化したかを象徴している」と報じた
中華人民共和国との関係(詳細は「中韓関係」および「中国朝鮮関係史」を参照、「黄海」、「東北工程」、および「渤海 (国)」も参照
反共期(「台韓関係」も参照)
  1948年8月15日に建国された大韓民国は、李承晩初代大統領の反共主義の影響もあって、1949年10月1日中国共産党毛沢東主席によって中華人民共和国が建国されたあと、中国国民党蒋介石総統とともに台湾に逃れた中華民国と親交を深めた。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、緒戦での首都ソウルの最初の陥落後、臨時首都釜山にまで追い詰められた李承晩政権はダグラス・マッカーサー司令官率いる国連軍の介入によって朝鮮民主主義人民共和国が統治していた38度線以北を北上し、1950年中に大韓民国国軍は一時中朝国境の鴨緑江にまで到達したが、毛沢東主席はアメリカ合衆国(中国語では国)にして鮮民主主義人民共和国をけるため(「抗美援朝」)に朝鮮戦争参戦を決断、彭徳懐司令官率いる中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)はアメリカ軍主体の国連軍を38度線以南にまで押し戻し、一時中朝連合軍国連軍が奪還した首都ソウルを再占領した

  1953年7月27日中朝連合軍代表の南日大将と国連軍代表のウィリアム・ハリソン・Jr中将の間で朝鮮戦争休戦協定が署名されたあとも、大韓民国は反共主義から中華人民共和国と敵対した。中華人民共和国も1961年7月11日中朝友好協力相互援助条約締結で示したように、大韓民国よりも朝鮮民主主義人民共和国を重視する姿勢を示した。
  しかし、1976年の毛沢東主席の死後、中華人民共和国の実権を握った鄧小平1978年12月にそれまでの経済政策を変更して改革開放路線を歩み、西側諸国からの外資導入への意欲を見せたことと、1990年の東西冷戦体制の崩壊を要因として、大韓民国の対中政策は転換した。
  1992年8月24日に盧泰愚大統領は、人口が多く市場として有望で、安価な労働力の提供が可能な中華人民共和国との国交樹立を模索する産業界からの要請もあり、中華人民共和国との国交を正常化し(中韓国交正常化)、「一つの中国論」に基づいて中華民国台湾)とは断交した。
中韓国交正常化後
  中韓国交正常化以降、韓国では対中投資ブームが起こり、多くの韓国企業が安い労働力を求めて中華人民共和国に進出した。現在では韓国の対中投資額は日本のそれを上回り、投資額は国家としては第1位となっている。特に山東省青島遼寧省大連吉林省延辺朝鮮族自治州には韓国企業の投資が累積している。また中華人民共和国に留学する外国人学生数で、韓国はトップを占めるほどになっている。
  投資額が国家として1位とはいえ、韓国企業の対中投資実行額は2004年の62億5000万ドルから、2007年には1月から11月の段階で32億3000万ドルと、3年でほぼ半減のペースとなっている。要因としては2008年1月より施行された外資優遇を原則廃止した新たな企業所得税法、従業員の待遇を向上させる労働契約法や現地トラブルも重なり「中華人民共和国離れ」が加速している
  また、WTO香港ラウンドにおいて、韓国の農業従事者が香港で激しいデモ活動を展開した。香港の警察はデモを行った人々を拘束した。
  韓国は2014年3月に中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加することを決定し、韓国の企画財政省高官はAIIBを通じた北朝鮮でのインフラ開発に期待感を示した。また、2015年9月3日に中国が開催した抗日戦争勝利70年記念式典には大統領の朴槿恵が出席した。しかし中国軍にとって脅威になりうるTHAADミサイルシステムの在韓米軍配備をめぐり両国の関係は悪化していき、2016年7月8日に米韓両国関係者がTHAAD配備が最終的に決定したと発表したことに対し、中国側は「強烈な不満と断固とした反対」を表明。国交正常化25周年となる2017年8月24日の記念式典の共同開催や文在寅韓国大統領の訪中も中国側によって拒否され実現せず、それぞれが主催する式典が北京で別々に開催された。

ソビエト連邦及びロシアとの関係(詳細は「ソビエト連邦の外交関係#朝鮮半島」および「露韓関係」を参照)
  1945年第二次世界大戦終結により、朝鮮半島は北緯38度線を完全な境界線として、8月に進駐したソビエト連邦軍軍政下の北部と、9月に進駐したアメリカ軍軍政下の南部と分断占領された(連合軍軍政期)。朝鮮半島北部では1945年9月11日朴憲永ら朝鮮半島内部で抗日運動を行っていた共産主義者が中心となって朝鮮共産党が再建されたあと、中国共産党八路軍に所属し抗日闘争を戦っていた中国朝鮮族の共産主義者や、ソ連や満洲から帰還した抗日パルチザンが朝鮮半島北部に流入し、こうした社会主義者共産主義者の協同戦線党として1946年8月に北朝鮮労働党が結成され、その中でもソ連軍の士官として朝鮮半島に帰還した金日成は1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会委員長に就任したあと、農地改革を実施する中で徐々に権力基盤を固めた。
  1948年にアメリカ合衆国主導の南北統一総選挙が国連で決議されたが、北部を軍政統治するソビエト連邦が拒否し、南北分断が確定した。同1948年8月15日には朝鮮半島南部単独で大韓民国が独立を宣言し、追って9月9日には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が残余の朝鮮半島北部のみで独立を宣言したため、大韓民国は建国当初からソ連と敵対関係になった。
  ソ連は朝鮮半島北部で朝鮮労働党の指導による社会主義国の建設に成功し、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発後は朝鮮人民軍の南侵を支持したが、国際連合安全保障理事会における欠席戦術を逆手に取られてアメリカを中心とした国連軍の編成と介入を許し、朝鮮半島全域への勢力拡大は失敗した。この際、ソ連軍は直接介入を控えたものの、軍事顧問団の派遣や兵器の供給で朝鮮民主主義人民共和国や中華人民共和国の中朝連合軍による軍事作戦を支えた。

アメリカ合衆国との関係(詳細は「米韓関係」を参照)
  第二次世界大戦終結後、アメリカ合衆国(米国)を盟主とする西側諸国ソビエト連邦(ソ連)を盟主とする東側諸国の間で東西冷戦体制が形成される中、朝鮮半島南部は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による連合国軍政に置かれた。1948年5月10日左派や朝鮮半島北部の反対の中で実施された朝鮮半島南部単独での初代総選挙を経て、同1948年8月15日李承晩初代大統領の下、アメリカ軍軍政下にあった朝鮮半島南部に右派を中心とする大韓民国が成立し、1948年11月20日に大韓民国国会でアメリカ軍の無期限駐留要請が決議された。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍が大韓民国の首都ソウルを攻略したあと、釜山に逃れた李承晩政権の防衛には、ダグラス・マッカーサー元帥率いるアメリカ合衆国を中心とする国連軍が大きな役割を果たした。1953年7月27日朝鮮人民軍南日大将とアメリカ陸軍ウィリアム・ハリソン・Jr中将の間で朝鮮戦争休戦協定が署名されたあと、同1953年10月1日に調印された米韓相互防衛条約によって大韓民国はアメリカ合衆国の同盟国となった。

2000年代
  2003年2月25日に発足した盧武鉉政権はイラク戦争に際して米英軍主導の有志連合大韓民国国軍を派兵し、2004年にはイラクアルビール県ザイトゥーン部隊を派遣した一方、金大中政権以来の太陽政策を引き継ぎ、特に2006年の北朝鮮の核実験後も北朝鮮との宥和政策推進のために2007年10月に第2回南北首脳会談を行う親北反米政策をとったため、米国との関係は悪化した。
  2008年2月25日に発足した李明博政権は金大中政権以前の親米路線に方針を転換したため、対米関係も改善されると見込まれていた。しかし4月、BSE問題に端を発する米国産牛肉の輸入をめぐり反発する野党、市民と政権の対立が激化しており、今後も米国との良好な関係が維持できるのか不透明な状態が続いている。
  アメリカとは固い絆を築いているとされ、アメリカ軍への慰安婦として数十年にわたって提供された女性たちが謝罪と補償を求めているが、日本を相手とした場合とは異なり、韓国政府は女性たちを支援しないこととしており、韓国人とアメリカ人によってアメリカ各地の公共施設に建立が進められている慰安婦追慕碑にはアメリカ軍慰安婦や韓国軍慰安婦は対象外としている。一方で、日本軍慰安婦を非難することには共同歩調をとっている。
2010年代
  しかし、2014年2月末以降、日韓の歴史問題をめぐるシャーマン米国務次官の発言、韓国国内でのリッパート駐韓米大使襲撃事件の発生、中国主導のアジアインフラ投資銀行への韓国の参加表明などにより米韓関係には不協和音が生じていると報道されており、4月には米韓連合軍の防衛力強化を主要議題として米韓国防相会談がセッティングされたが、中国への配慮から米国が求めている最新鋭ミサイル防衛システム「最終段階高高度地域防衛(THAAD)」の在韓米軍への配備は議題に含まないとされた
2020年代
  2020年6月11日、ドナルド・トランプ大統領の側近、リチャード・グレネルは、「在韓米軍撤収計画」を示唆した。
日本国との関係(「日朝関係史」、「日本海呼称問題」、「親日派」、「竹島 (島根県)」、および「進歩的文化人」も参照)
  大韓民国は1965年朴正煕大統領佐藤栄作内閣総理大臣との間で批准された日韓基本条約に基づき、日本国朝鮮半島の唯一の正統国家として承認している国家であり、隣国であるだけでなく、かつては日本の一部であったという歴史的背景もあり、政治・経済・文化などあらゆる分野で比較的緊密な関係にある。
  一方で、歴史的経緯や政治・教育などの誘導により韓国民における反日感情は著しく高い。特に1910年朝鮮併合から1945年第二次世界大戦大東亜戦争)までの日本の統治に対して朝鮮半島の近代化などを無視した否定的な意見は多く、2003年に発足した盧武鉉政権下では日本統治時代の「親日派」の子孫を排除・抑圧する法律(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法および親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)が施行されている。これらの法律は法の不遡及の原則に反するとの指摘があり(法の不遡及#韓国法)、このような法律が施行されることで自国民を政治的に反日派へ誘導し日韓関係に対し思想や言論などの自由を失わせている。
  公然と戦前・戦中の日本(韓国や北朝鮮では「日帝」と呼ばれる)について肯定的な発言をする人物は激しく非難され、出国拒否、発言の撤回などの制裁を受けている。(「李栄薫」、「金完燮」、「趙英男」、および「韓昇助」も参照)
  韓国側では李承晩金九右派民族主義者を中心として建国された当初から現在に至るまで、朝鮮併合と、それに伴う同化政策(皇民化教育など)に屈辱的な感情を抱いており、韓国統監として朝鮮併合案に反対して朝鮮国家の樹立に尽力していた伊藤博文を暗殺したテロリスト・安重根を英雄視するなど、根強い反日感情がある。外交の舞台でも日本に批判的な発言が多く、金泳三大統領は中国の江沢民国家主席との中韓首脳会談で、竹島問題について「日本のポルジャンモリ(ばかたれ)をしつけ直してやる」と発言している。(「反日感情」、「反日教育」、および「特定アジア」も参照)
  鈴置高史は韓国政府にとって、日本に謝らせることそのものが外交得点で国内対策でもあるとし、日本がそのたびに要求通りにしたとしても国内で困ったときには「やっぱり不十分だった」と再び謝罪を求めてくると述べている。韓国の三大紙の東亜日報論説委員による社説の見出しが[オピニオン]2人の春樹の無限謝罪論という「謝罪は無限に続くべき」だという「無限」という言葉に韓国人の本音がよく現れていると分析した。村上春樹東京新聞で「相手(韓国人)が納得するまで謝ることが大切」、慰安婦問題で活動してきた和田春樹東京大学名誉教授が訪韓インタビューで「もういい、納得した、と言える人は当事者しかいない」と強調したと言っていることが、韓国人はどう謝罪・賠償されても納得するつもりはまったくないので、韓国人が納得するまでというなら日本・日本人・日本政府の「謝罪は無限に続く」ことになると結論づけた。
連合軍占領期と大韓民国建国後
  1945年第二次世界大戦終結後、日本軍の武装解除のために連合軍の一員であるアメリカ軍が日本統治下にあった朝鮮半島南部に上陸し、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による軍政が敷かれた
  1948年8月15日の大韓民国建国直前に発生した済州島4・3事件では、南朝鮮政府の弾圧から逃れるために済州島民が日本に移入することとなった
  また、李承晩政権下では反民族行為処罰法に基づき、1949年反民族行為特別調査委員会が組織され、親日反民族行為者が法的に認定された。
  1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争では、連合軍占領下にあった日本は、韓国を助けるために海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、開戦からの半年間だけでも56名が命を落としている。韓国政府は1950年のソウル会戦で北朝鮮軍に敗北すると、亡命政府を設けるために山口県を提供することを日本政府に求めている(仁川上陸作戦の成功により亡命政府が立ち消えになったため実現せず)
  また、韓国政府は犯罪者や密入国の韓国人の強制送還の大半を拒んだため、日本政府は抑留された日本人の返還と引き換えに韓国人の密入国者・犯罪者の送還を諦め、日本国内で釈放した。1959年には在日朝鮮人の帰還事業を阻止する目的で在日米軍立川飛行場経由で工作員を日本に送り込み、新潟日赤センター爆破未遂事件を起こしている。
  日本が自国領土とする竹島(韓国名は独島:독도)を、韓国が自国の領土と主張して武力占拠、日本海上に李承晩ラインを設定し、この線を越えて操業する日本漁船を拿捕し乗員を抑留殺害してきた。この時代には、第一大邦丸事件のように、多数の日本人が韓国人によって殺害された。1965年に国交が回復するまでに、韓国によって日本漁船328隻が拿捕日本人44人が殺傷、3929人が抑留されることとなった。
日韓基本条約締結後の国交樹立
  李承晩政権期は国交断絶状態であったが、1960年四月革命で李承晩政権が打倒され、1961年5・16軍事クーデター朴正煕帝国陸軍士官学校第57期生にして、日本名は高木正雄であった)政権が成立したあと、両国の国交正常化交渉が本格化した。国交正常化交渉の過程では請求権問題がもっとも紛糾した。韓国による対日請求権の主張に対して日本側は、日本統治時代に朝鮮半島に投下した資本および引き揚げた日本人が残した財産(GHQ調査で52.5億ドル)を主張することで韓国側に対抗した。

  1965年サンフランシスコ平和条約と国際連合総会での採択決議第百九十五条を想起して、日韓基本条約が締結された。サンフランシスコ平和条約では沖ノ鳥島の存在が明記されている。ともに締結された財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定に基づいて、日本が朝鮮に投資した資本および日本人の個別財産のすべてを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助することによって、日韓間の両国間および国民間の請求権に関する問題は完全かつ最終的に解決されていることが確認された。しかし、韓国政府や韓国メディアは国民に積極的に周知を行わなかったため、日本政府への新たな補償を求める訴えや抗議活動がなされ続けていたが、2009年8月14日にソウル行政裁判所による情報公開によって韓国人の個別補償は日本政府ではなく韓国政府に求めなければならないことが韓国民にも明らかにされている。なお、韓国はその資金をインフラの整備に充て、戦時徴兵補償金は死亡者1人あたり30万ウォン(約2.24万円)であった。
2000年代以降(※2000年代以降の、慰安婦や竹島などの顕著な係争となっている個別問題と関連した日韓関係の記述は、関係の推移をわかりやすくするため分離して後述する。)
  2003年に発足した盧武鉉政権は当初「歴史問題に言及しない」と発言するなど両国関係の改善が期待されたが、国内においては日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法および親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を制定するなど、一貫して反日的な態度をとり矛盾を伴う二枚舌な政策を行う。盧武鉉政権は日本時代の親日派問題の清算として、「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」および「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定し、反民族行為認定者の子孫の土地や財産を国が事実上没収する人権蹂躙とも取れる法を制定し、実際に「親日派」10人の子孫が所有する約13億6000万円相当の土地を没収するなど、韓国民主化以前の反共主義さながらの反日主義で上記特別法適用を開始している。2006年に韓国政府は親日反民族行為者財産調査委員会を設置し、2010年までに親日反民族行為者の子孫の資産約180億円を没収した

  日本は2000年代の小泉純一郎政権時にG4諸国を結成し国連常任理事国入りを目指したが、韓国は日本の歴史教科書の記述や竹島問題や小泉総理の靖国神社参拝を持ち出し、日本の常任理事国入りに反対する国際運動を行った。また小泉政権時の2004年から2005年にかけては靖国問題や歴史教科書問題や竹島問題を理由とした日本に対する抗議デモの影響により、韓国側が民間交流行事をキャンセルする事態がいくつか発生し、その後もソウルの日本大使館前で韓国人の老人が焼身自殺を図ったり安倍晋三首相の写真や人形に火をつける過激なデモが発生している。
  2010年代に入っても韓国の要人が歴史問題に関して日本を非難する発言を繰り返しており、2013年3月に朴槿恵大統領が日韓関係について「加害者と被害者という歴史的立場は1000年の歴史が流れても変わらない」、2015年4月には柳興洙駐日本韓国大使が「加害者は100回謝罪しても当然。何回したかは関係ない」、2015年に韓国与党セヌリ党の金乙東(キム・ウルドン)最高委員が「日王(天皇)はひきょうにも命乞いして生き残った」と述べ、2019年2月に文喜相国会議長が明仁天皇を「戦争犯罪者の息子」と呼ぶなどしている(後述)。
  2013年1月、韓国は日韓間で締結した犯罪人引渡し条約を無視して、靖国神社に放火した刑事犯の中国人の日本への引渡しを拒否して、「政治犯」として中国に送還した。これに対して安倍晋三首相は抗議声明を発表した。同年3月11日、韓国は日本政府主催の東日本大震災二周年追悼式を中国とともに欠席した。
  2015年、韓国地検による産経新聞支局長名誉毀損起訴事件などを受けて、日本の外務省は韓国について「報道の自由」などに疑念があるとし、2014年版外交青書にあった「自由、民主主義、基本的人権などの基本的な価値を共有する」という表現を2015年版外交青書では削除した
  2000年代以降、韓国政府が日本の国際的地位を失墜させることを目的とした『ディスカウント・ジャパン運動』を行っており、VANK等の民間団体を強力に後援しながら、世界に向けて日本を貶める対日宣伝工作活動を行っている。
  韓国側が行っているさまざまなディスカウント・ジャパン運動、全米各地への慰安婦像の建立、軍事情報包括保護協定締結の突然のキャンセル、日韓犯罪人引き渡し協定を無視しての中国人靖国神社放火犯の引き渡し拒否、対馬の盗難仏像の返還拒否、韓国三大紙中央日報東日本大震災時の「日本沈没」報道や「原爆は神の懲罰」コラム、大統領の竹島上陸と天皇謝罪要求など、韓国側の反日的な動きが活発になっているが(後述)、この原因として、中国の国力の増大と日本の国力の低下により、韓国が伝統的に持つ「従中卑日」の小中華思想が強くなって先祖返りしていることが原因であると専門家から分析されている[158]。またこれを裏づける証言として、竹島に上陸した李明博が日本の国力が落ちたことに言及している。以後に2000年代以降の日韓関係をわかりやすく項目ごとに記述する。
徴用工訴訟問題に関する関係(詳細は「徴用工訴訟問題」を参照)
  2018年10月に韓国大法院が、1965年の日韓請求権協定に基づいた両国間での長年にわたって続いてきた政治的合意を覆し、日本への個人請求権を認める判決を下した。これにより日韓関係が極度に悪化し、1965年の日韓国交正常化以降で最悪といわれるまでの状況になった。
慰安婦問題に関する関係
  韓国政府は、日本軍慰安婦は日本軍により組織的に拉致・監禁・強姦された「性奴隷」だったとして、日本への謝罪と賠償を求める運動を世界各国で行っており、その結果、世界各国の議会で対日謝罪要求決議が可決され、米国の複数の公共施設で韓国人によって当事国であるアメリカ軍慰安婦韓国軍慰安婦ではなく、第三国である日本軍の慰安婦を対象とした追慕碑の設置が行われる事態となっている。2011年には、韓国の市民団体が駐韓日本大使館正面に13歳の少女慰安婦と称する像を建立し、訪日した李明博大統領が野田佳彦首相に対し、日本国が韓国の求める誠意を示さない限りさらなる銅像の建立がなされるとする強要を行った。また、大韓民国女性家族部が韓国漫画映像振興院や漫画家と協力してアングレーム国際漫画祭で日本を非難する慰安婦の漫画を出展し、世界各国で慰安婦写真展を開催し、ユネスコ世界記憶遺産に慰安婦の証言録を登録することを企画している。さらに、訪韓外国人観光客に韓国の歴史認識に基づいたパンフレットを配るなどして日本の「不当性」を知らしめる運動も企画している。これと同時に、韓国政府は政府見解に反し日本軍慰安婦が自発的な売春婦であったことを公に発する国民に対しては検挙するなどして言論統制を行っており、慰安婦の自発的売春や、日本の朝鮮半島統治による恩恵の存在、竹島に対する日本の領有権を主張をしているブログや掲示板などの「親日賞賛サイト」の記述を、放送通信審議委員会の指示の下で強制的に削除したり接続を遮断している
  2015年12月28日、日韓政府の間で、日本軍の従軍慰安婦問題を最終かつ不可逆的に決着させることを目的とした慰安婦問題日韓合意が結ばれた。しかし、2017年5月に文在寅政権が発足すると、この合意を覆そうとする動きが活発になった。2016年9月29日には韓国外交部が「日本側が慰安婦被害者の方々の心の傷を癒やす追加的な感性的措置をとることを期待している」と合意を覆して日本の追加対応を求める声明を発表し、2019年2月には、韓国の国会議長の文喜相(ムン・ヒサン)が、明仁天皇を「戦争犯罪の主犯の息子」と呼びながら天皇の慰安婦への直接謝罪が必要と発言した。これに対し日本の各界から抗議の声が上がると、文議長は「日本は盗人猛々しい」とさらに日本を非難した。

国土と海洋(竹島・対馬・日本海呼称など)問題に関する関係
  2008年7月21日、韓国国会議員50名によって対馬島返還要求決議案が韓国国会に提出された。同年11月、日本は大陸棚限界委員会(Commission on the Limits of the Continental Shelf、略称:CLCS)に対して、沖ノ鳥島を基点とする海域を含む七つの海域を大陸棚の延長として申請を提出した。その申請に対して、韓国は「沖ノ鳥島は、島に該当せず岩にあたる」という抗弁を2009年2月に大陸棚限界委員会へ提出した。しかしながら大陸棚限界委員会が沖ノ鳥島を起点とする大陸棚を日本の大陸棚の延長として認定したため、韓国の主張は事実上、国際機関から退けられることとなった(日韓基本関係条約サンフランシスコ平和条約の関係規定を想起し条約を締結することに決定と定められており、そのサンフランシスコ平和条約において沖ノ鳥の存在が明記されているが、それにもかかわらず韓国はこの時点から公式に沖ノ鳥島を岩だと主張しはじめた)。
  韓国は官民をあげて世界各国で「竹島は韓国の独島である」「日本海呼称は東海呼称が正しい」「韓国が日本に文化を伝えてあげた(一部韓国起源説も含む)」という宣伝工作活動も行っており、VANKが協力していることも助力して、1999年時点で3%しかなかった世界の主要機関・地図制作会社・出版社の日本海/東海併記の世界地図が、13年後の2012年時点では30%にまで増加している。2014年にアメリカバージニア州で、在米韓国人の政治運動により、すべての教科書で日本海と東海を併記することを決定する法律が成立した。日本政府は、このような竹島問題や日本海呼称問題などの外交案件に関わる韓国側の宣伝工作活動に対しては抗議を行っている。
  ・012年8月、李明博大統領が竹島に上陸し、天皇への謝罪要求を行うと、日韓関係は一気に悪化した。
  ・2012年12月、韓国政府は東シナ海での韓国の大陸棚を、同国沿岸から200海里(約370キロ)を越えた沖縄トラフ付近まで拡張することを求める大陸棚境界画定案を国連の大陸棚限界委員会に提出した
  ・2015年7月には韓国与党セヌリ党金乙東最高委員が「韓国の領土である対馬を取り戻そう」と主張した
文化財問題に関する関係
  日韓間では、文化財についても問題となっている。韓国政府は、日本にある朝鮮半島から流出した文化財の「返還」を日本政府や民間機関に求めている。これらの文化財は売買や寄贈、所有権の移転等の合法的な手段によって日本に持ち込まれたものや、朝鮮併合以前に由来したものがほとんどであることから、韓国に引き渡す場合は「返還」ではなく「寄贈」となるのだが、韓国政府や韓国マスコミは「略奪文化財」なので「返還」が正しいと主張している。そして、菅内閣はこれに迎合する形で日韓図書協定を結び、1200冊あまりの図書文化財の事実上の「返還」を談話で決定した
  また、韓国では小中華思想韓民族優越主義の観点から「日本文化のほとんどが日本人が朝鮮半島から盗み出したもの」という韓国起源説が蔓延しており、「日本に略奪された韓国文化財と文化を取り戻しにいく」という名目で、韓国人によって日本にあるさまざまな文化財が組織的・計画的に韓国に盗み出され、日本文化が剽窃される事例が相次いでいる。特に日本人が正当に入手した高麗仏画が盗難の標的にされ、このうち長崎県壱岐市安国寺から盗まれた「高麗版大般若経(重文)」は大韓民国指定国宝284号に指定され、兵庫県高砂市鶴林寺から盗まれた「阿弥陀三尊像(重文)」は韓国の寺に寄付されている。対馬市の観音寺からは、長崎県指定有形文化財「観世音菩薩坐像」が盗み出され韓国に持ち込まれたが、韓国地裁は観音寺返還を事実上拒否する判決を下した。韓国政府は日本の外務省からの度重なる文化財の返還要請にもかかわらず、文化財不法輸出入等禁止条約を無視し続け、盗難文化財の日本への返還を拒否し続けている。このような状況がありながら、菅内閣が在韓日本文化財については完全に無視したまま朝鮮半島由来の文化財の「返還」を決定したため、野党から批判された。

軍事問題に関する関係
  2010年韓国哨戒艦沈没事件では日本政府は韓国を強力に支持した
  2012年6月、日韓間で結ばれる予定だった軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の締結が、締結1時間前になって突然韓国側からキャンセルされた。
  2018年12月、韓国海軍レーダー照射問題が発生し、慰安婦問題や徴用工訴訟問題などの歴史認識問題で悪化の一途をたどる日韓関係をさらに悪化させる事態となったが、これは親北朝鮮の文在寅大統領の影響もあると分析されている
経済的関係
  経済面において韓国は、日本との関係が深い。韓国から日本への電子部品や工作機械などの輸出も増大している。韓国の対外輸出の増加に伴い、日本からの部品輸入や日本への特許使用権料の支払いも増加しており、戦後一貫して韓国の対日貿易は赤字が続いている。
  2007年度には対日貿易赤字が過去最高の289億ドル(約3兆2000億円)に達した。原因として、韓国は自国で賄えない技術、部品、素材の日本への依存度がきわめて高いうえ、その加工技術、信頼性は日本製品に比べて著しく劣ることから、韓国製品の日本輸出が難しいという構造的問題があり[197]、「韓国が世界貿易で稼いでも、その半分以上を日本へ引き渡している構図である」と指摘されている。対日輸入の金額自体は増加しているが、輸入に占める割合は2005年には18.5%、2006年は16.8%と全体的に減少傾向であり、また輸出でも同様の現象が起こっている。
  しかし、韓国の対日貿易赤字は日本の経済政策における為替変動が問題であるとして、2013年2月のロシアモスクワにおいてのG20では「円安は日本政府の意図的政策によるもの」として問題提起、続いて同年4月米国ワシントンでのG20においても「日本の量的緩和は韓国輸出競争力に打撃と懸念する」として声明を発表、公式会議において名指しで日本を非難する立場をとっている。
  過去の李承晩政権時代には外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月から翌年1月と1959年6月から翌年4月の2度にわたり通商断交を宣言したことがあるが、2回とも韓国側の要請で1年以内に通商再開をしている。2003年に両国首脳は自由貿易協定(FTA)締結を目指すことで合意したが、交渉は難航している。
  2008年韓国通貨危機では日本は韓国と300億ドルの通貨スワップの協定を締結した
  2002年の日韓ワールドカップ以降、一部の日本女性の間で韓流ブームが起こり、2010年から2012年にかけてK-POPブームが起こるなど、特に若年女性層で音楽CDや化粧品などの韓国製品が消費されるようになった。このように日本では韓国文化の受容が一部で進み韓国文化に対する政治的統制もないが、韓国ではテレビ地上放送での日本の番組放送が禁止されているなど日本文化に対する統制が続いている
ベトナムとの関係
  ベトナム戦争では南ベトナム陣営として参戦し約5000人の兵士が戦死、帰還兵が枯葉剤の影響によって後遺症に苦しめられることになったこと、ハミの虐殺などの韓国兵士による民間人の虐殺行為から両国間に根強いわだかまりが残っている。1992年に北ベトナムの後継国であるベトナム社会主義共和国と国交を樹立。韓国政府は虐殺行為を認めていない立場であり補償問題は遅れている
  一方でベトナムは韓国の主要な輸出先のひとつであり、2014年から2017年現在にかけて韓国人の直接投資の割合がトップであったこと、韓国で働く外国人労働者の7%にあたる約15万人がベトナム人であることなど経済的な結びつきも強い。2019年時点でベトナムの総輸出の25%がサムスン電子のものであり、コロナショックではサムスンの技術者が14日の隔離措置を免除された。

経済史概要
  経済面において韓国は、日本との関係が深い。韓国から日本への電子部品や工作機械などの輸出も増大している。韓国の対外輸出の増加に伴い、日本からの部品輸入や日本への特許使用権料の支払いも増加しており、戦後一貫して韓国の対日貿易は赤字が続いている。
  2007年度には対日貿易赤字が過去最高の289億ドル(約3兆2000億円)に達した。原因として、韓国は自国で賄えない技術、部品、素材の日本への依存度がきわめて高いうえ、その加工技術、信頼性は日本製品に比べて著しく劣ることから、韓国製品の日本輸出が難しいという構造的問題があり、「韓国が世界貿易で稼いでも、その半分以上を日本へ引き渡している構図である」と指摘されている。対日輸入の金額自体は増加しているが、輸入に占める割合は2005年には18.5%、2006年は16.8%と全体的に減少傾向であり、また輸出でも同様の現象が起こっている。

  しかし、韓国の対日貿易赤字は日本の経済政策における為替変動が問題であるとして、2013年2月のロシアモスクワにおいてのG20では「円安は日本政府の意図的政策によるもの」として問題提起、続いて同年4月米国ワシントンでのG20においても「日本の量的緩和は韓国輸出競争力に打撃と懸念する」として声明を発表、公式会議において名指しで日本を非難する立場をとっている。
  過去の李承晩政権時代には外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月から翌年1月と1959年6月から翌年4月の2度にわたり通商断交を宣言したことがあるが、2回とも韓国側の要請で1年以内に通商再開をしている。2003年に両国首脳は自由貿易協定(FTA)締結を目指すことで合意したが、交渉は難航している。
  2008年韓国通貨危機では日本は韓国と300億ドルの通貨スワップの協定を締結した。
  2002年の日韓ワールドカップ以降、一部の日本女性の間で韓流ブームが起こり、2010年から2012年にかけてK-POPブームが起こるなど、特に若年女性層で音楽CDや化粧品などの韓国製品が消費されるようになった。このように日本では韓国文化の受容が一部で進み韓国文化に対する政治的統制もないが、韓国ではテレビ地上放送での日本の番組放送が禁止されているなど日本文化に対する統制が続いている。
ベトナムとの関係
  ベトナム戦争では南ベトナム陣営として参戦し約5000人の兵士が戦死、帰還兵が枯葉剤の影響によって後遺症に苦しめられることになったこと、ハミの虐殺などの韓国兵士による民間人の虐殺行為から両国間に根強いわだかまりが残っている。1992年に北ベトナムの後継国であるベトナム社会主義共和国と国交を樹立。韓国政府は虐殺行為を認めていない立場であり補償問題は遅れている。
  一方でベトナムは韓国の主要な輸出先のひとつであり、2014年から2017年現在にかけて韓国人の直接投資の割合がトップであったこと、韓国で働く外国人労働者の7%にあたる約15万人がベトナム人であることなど経済的な結びつきも強い。2019年時点でベトナムの総輸出の25%がサムスン電子のものであり、コロナショックではサムスンの技術者が14日の隔離措置を免除された
経済
  韓国建国直後の経済は、朝鮮戦争による国土荒廃で日本統治時代のインフラが破壊されたことにより大きく立ち後れていたが、日韓基本条約により獲得した日本からの資金と技術移転などにより、1962年から1994年の間、年20%の輸出の伸びを記録し、毎年平均GDPが10%成長した。これは漢江の奇跡と呼ばれ、アジア四小龍のひとつにも例えられた。高度経済成長を遂げ、新興工業経済地域(NIEs)のひとつに数えられた時期を経て、1996年にアジアで2番目のOECD(経済協力開発機構)加盟国になった。それによりアジアの先進国は2国、日本と韓国になった。
  1997年にはアジア通貨危機により韓国経済は大きな危機に直面し、大量倒産や失業と財閥解体が起こり、外資導入と市場の寡占化が進んだ。大手輸出企業や銀行の株主の多くは外国人になった。2000年ごろには一時期な経済の立ち直りがあったものの、政府の金融政策のためクレジットカードを大量に発行した余波もあり、2003年ごろには個人破産が急増して国内での信用不安が高まり、金融が危機的状態となった。2008年時点では大学新卒者が正規社員として働くのは困難であり2009年大卒者就業見込みは55万人中4万人だけであった。徴兵義務や就職難のため、優秀な若者は韓国国内の経済状況に関わらず海外への脱出を目指す傾向が強いが、経済的苦境のためにますます国を離れて米国や日本の企業に就職する若者が多くなっており、頭脳流出が懸念されている。

  大手製造業である一部財閥系輸出企業は好調だが、韓国全体の雇用に寄与しているとは言いがたく、内需はきわめて停滞しており、韓国国内においては財閥系企業の寡占が問題となっている。2008年時点で、韓国の国内総生産の18%、輸出の21%を三星財閥ひとつで占めていた。このため、社会では「二極化」という言葉がよく使われるようになり、経済的格差の拡大が問題となっている。2000年ごろから富裕層向けの高層マンションブームとなり、2002年から2012年までの10年間に不動産価格は68.5%上昇(日本のバブル景気とほぼ同率)した。しかし人口動態の高齢化や内需の不振により、すでに不動産価格は下落を始めており、ソウルのアパート価格は2011年2月以後22か月連続で下落した。2010年段階で国民の約10分の1にあたる500万人が、屋上部屋、地下、ビニールハウスなどの政府が定めた最低居住水準に満たない住居で暮らしている
  2007年ごろには、韓国の製造業が、技術的に先行する日本と、大量生産により追い上げる中国の存在に追い込まれるのではないかとする「サンドイッチ現象」への懸念が持ち上がっていたが、2010年ごろから2012年末までに続いた超円高や、2011年タイの大規模洪水や東日本大震災などの天災で、日本の製造業が大規模な被害を受けたため、韓国の製造業は大きく業績を伸ばした。特に好調なサムスン電子は売り上げ高と利益を伸ばし、世界最大の電機企業になっている。また現代・起亜グループは世界における自動車販売台数を急激に伸ばした。
  主要な産業は情報技術、造船、鉄鋼、自動車などである。主要な企業としては、サムスン電子や、現代自動車、LG電子ポスコ、現代重工業などがある。リーマン・ショック以降、ウォン安政策によって輸出が伸び、2011年には韓国の貿易依存度は対GDP96%となった。2011年度の統計によると、核心技術や素材、部品産業を日本に依存しているために、日本との貿易収支は277億ドルの赤字であるが、好調な輸出に支えられて、韓国の総貿易収支は333億ドルの黒字であった。2011年度は東日本大震災の影響で石油製品や鉄鋼の対日輸出が43%増加し、前年度比で85億ドルの対日貿易赤字が解消されている。
  2018年 10月時点での国内総生産は世界11位。近年は知的財産への投資も増加している(韓国の知的財産権問題も参照)。

  一向に解消されない財閥企業への一極集中により若者の就職難や格差問題が続いており、2015年ごろから韓国のSNSでは「ヘル朝鮮」という言葉が流行語になり、韓国内外の複数のマスコミにも報道される事態となっている。2018年時点で従業員300人未満の中小企業が国内の労働者全体の87%に相当する1300万人を雇用している。最低賃金上昇など人件費負担や政府の政策に反発する中小企業の国外脱出が増加している。行きすぎた最低賃金引き上げによる副作用の補填に8兆ウォン(8000億円)を投入する事態になっている。
金融(「大韓民国の銀行の一覧」および「韓国の企業一覧#金融・保険」を参照)
  金融関係は大きな転換期にある。銀行関係では、韓国銀行中央銀行で、民間の主要銀行にはKEBハナ銀行国民銀行ウリィ銀行(もと韓一銀行など)、新韓銀行がある。証券韓国証券取引所で新規発行・取引されており、証券会社のウリィ投資証券、NH投資証券など四大証券会社が買収交渉に揺れているところに、新しく未来アセット大宇などが生まれている。保険会社にはサムスン生命、クモ生命(錦湖アシアナグループ)、サムスン火災などがある。
建築・土木・プラント
  韓国の建築・土木企業は1990年代ごろまで、「不実工事」(手抜き工事)による三豊百貨店聖水大橋KB橋の崩落事故等により多数の死者を出したことから信頼性に疑問を持たれることもあるが、近年は韓国建設業界の発展は目覚ましく、世界への進出を加速させている。
  2000年以降、韓国建設業界は単純な土木工事から脱却し石油化学などのプラント受注などに力を入れており、中東地域やアジアからの受注が多い。また、リゾートやニュータウンの建設にも力を入れており、サムスン建設がドバイで完成時点で世界一の高さになったブルジュ・ハリファを外国企業と共同で建設した。ただし源泉技術は海外に依存しており、たとえば第2ロッテワールドタワーの基礎・構造・風洞設計や外壁や衛星測量などの核心技術はすべて外国企業の技術に依存している
  韓国の建築企業は、発電所や淡水・発電プラントなどの大型プロジェクトを一括(ターンキー方式)受注している。おもな企業は、斗山重工業現代重工業サムスンエンジニアリングサムスン物産現代建設サムスン建設SK建設SKエンジニアリングGS建設大宇インターナショナル韓電KPSハンソルEMEなどである。
造船
  現代重工業鄭周永会長が、創建期に研修生を1年間日本の造船会社に派遣してコンテナ2台分の設計図などの各種資料を不法に盗み出させたことを告白しているように、韓国の造船業は日本からの技術移転や不法なスパイ行為による技術流出により発展してきた。
  その後、プラザ合意以降の日本の円高による競争力低下とアジア通貨危機を受けての空前のウォン安が韓国造船業界に追い風になり、2000年に建造量と受注残(いずれも標準貨物船換算トン数)で日本を抜き世界1位の造船大国になった。
  それとともに造船技術も発展し、2002年から2006年までに世界で発注されたLNG船の78.3%、ドリルシップの68%、油田開発用洋上石油生産設備(FPSO)の53.8%を韓国メーカーが受注し、高付加価値船舶市場でも高いシェアを得た。ただし海洋プラント市場では、核心技術の不足により国産化率が20%ほどにとどまり、大半の利益は海外企業に流れており見かけのシェアほどの利益を得られていない
  2008年に世界金融危機を受けて世界経済の収縮が始まると、造船業界の景気も急激に悪化し、韓国造船業界の成長も急速に落ち込んでいる。2009年の9月期までの韓国大手造船メーカーの受注額は年初計画の3%から10%に留まり、年間建造量こそ世界1位を維持したが年間受注量と受注残(いずれも標準貨物船換算トン数)が初めて中国に抜かれ世界2位になった。2010年上半期には建造量、受注量、受注残量すべての指標で中国に抜かれた
  2015年は現代重工、サムスン重工、大宇造船の造船大手3社だけで総額8兆ウォン(7300億円)以上の赤字を出した。赤字額の多くの要因は海洋プラントであった
軍需産業
  兵器の製造の受注においては、韓国の国内企業ではほとんどを現代重工業が担っており、歩兵用銃器の製造に関しては大宇重工業が行っている。また兵器の多くを輸入(ライセンス生産も含む)に頼っており、韓国の2006年から2010年までの兵器輸入額は74億300万ドルで、インドと中国に次ぐ世界3位であった。2000年代に入り兵器の国産化が続々と進められたが、K2戦車K9 155mm自走榴弾砲K21歩兵戦闘車K11複合型小銃コムドクスリ級ミサイル艇などの初期運用前後に欠陥が次々と発覚し、新型国産兵器の生産や配備が遅滞する事例が続出している

工作機械・金型/製造装置
  2000年代初頭より中小企業庁は京畿道富川市の金型産業を地域特化品目に認定するなど金型産業にも力を入れている。これを受け富川市は金型産業支援条例を制定し、世界で初めての金型集積化団地を造成し、世界的な金型産業の前進基地として育成している。
  事務用機器、医療用機器、自動車用ギアボックス、携帯電話、PDA・半導体用金型部品、プレス用金型部品、自動車用プレス金型部品、エンジニアリングプラスチック金型、二重射出金型、ダイキャスティング金型、ブロー金型、マシニングセンタ、放電加工機、NCフライス盤、研削盤などのさまざま金型メーカーが存在している。長らく金型・工作機械産業は輸入超過の赤字であり韓国の産業界では問題児とされていたが、2005年以降黒字に好転し、外貨獲得率80 - 90%の優秀な産業に変貌している。
  アメリカの最先端ブロンコ・スタジアムの骨組みとなる数十トンの鉄骨用高強度ボルト・ナットの輸出や、独BMWの部品供給メーカー、カイザー社への工作機械供給など世界各国に輸出している。韓国にはKPF、ファチョン機械牙城精密貨泉機工ドラゴン電気などの中小企業から斗山インフラコアのような大企業まで1000社以上が存在している。
製鉄
  ポスコ(POSCO、旧浦項製鉄)などの製鉄会社がある。ポスコは新日本製鐵から当時の最新の技術をそのまま導入して設立された。近年、中国で粗鉄の需要が急速に伸び中国国内の調達だけでは間に合わないため、中国は韓国から輸入するケースが出ている。また日本の自動車メーカーもポスコの鋼板を採用するようになった。
  ポスコの製鉄技術は2004年ごろから急激に品質が向上し、新日本製鐵の高品位製品のシェアを奪っていったが、これは90年代に新日鐵を退職した技術者が、新日鐵が数十年と数百億円をかけて開発した門外不出の「方向性電磁鋼板」の技術をポスコに流出させたことによるものである。2012年、ポスコと新日鐵の元技術者は新日鐵から、不正競争防止法の「営業秘密の不正取得行為」にあたるとして、1000億円の損害賠償と高性能鋼板の製造・販売差し止めを求めて提訴されている。この裁判によると、ポスコ本社の社長の意思決定により日本から機密情報が盗用されており、ポスコ東京研究所の実態について「研究所とは名ばかりで実験設備は何もなく、もっぱら日本の鉄鋼メーカーの情報を収集し韓国の本社に送っていた」ことが明らかになった
自動車(「韓国車」も参照)
  2020年時点の韓国の独立系自動車資本は現代-起亜自動車グループだけであり、その他の自動車メーカーは外国企業の傘下である。
  韓国の自動車産業の歴史は日本企業との提携から始まった。現代自動車三菱自動車、現在では現代自動車の傘下に入っている起亜自動車マツダ大宇自動車(GM大宇を経て現在は韓国GM)はトヨタルノーサムスン自動車日産自動車と提携していた。韓国国内では1988年に自動車の輸入が自由化されたが、「輸入先多辺化(多角化)制度」と呼ばれる事実上の対日輸入禁止品目において自動車が指定されていたために、日本車の輸入・販売は1998年7月に至るまで禁止されていた
  現代-起亜自動車グループは、2000年代中盤までには日本以外の世界市場ですでに一定の低・中価格帯の車種のシェアを獲得し、2000年代後半にはさらなる高価格帯への参入を企図し、2008年に初めて海外の高級車マーケットにヒュンダイ・ジェネシスを投入した。一方、趣味性の高いスポーツカーはほとんど販売しておらず、数々の特色のあるスポーツカーを市場に投入してきた日本の自動車メーカーとこの点で異なる。2002年、現代・起亜はアメリカで、エンジン出力水増し広告が発覚し、集団訴訟され、補償金を支払った。2012年、今度は燃費水増し広告が発覚し集団訴訟されている
  韓国車のデザインは2000年代前半ごろまでは日本車の影響が強かったが、2000年代後半からその影響を脱し飛躍的に向上している。これは現代-起亜自動車グループが、生産効率よりもデザイン優先に経営方針を定め、起亜がアウディのチーフデザイナーだったペーター・シュライヤーを獲得して最高デザイン責任者に、現代がBMWのチーフデザイナーだったクリストファー・チャップマンを獲得してデザイン責任者に据えたことが影響している。現代起亜グループの立役者となったペーター・シュライヤーは2012年12月に現代起亜グループの社長となった。また品質の向上も著しく、世界金融危機以降の円高ウォン安の影響もあり、特に米国や欧州市場で販売シェアを伸ばしており、2011年の現代-起亜自動車グループの現代自動車と起亜自動車の合計販売台数は660万台で世界4位であった(ルノー・日産アライアンスを順位に入れると5位
半導体・電子部品
  DRAMでは世界シェアの約半数近くを占める。1997年のアジア通貨危機で、当時、単なる主要企業にすぎなかった韓国の半導体メーカーらは一時的に倒産寸前にまで追い込まれるが(ハイニックス半導体は、2001年に一度経営破綻している)、韓国政府からの公的資金注入による韓国の将来をかけた半官半民体制や、破綻を避けるための広範な構造改革、効率的な経営計画の実行、大規模投資、日本の電機メーカーとの相互協力(ソニーとの液晶パネル製造の合弁会社設立や、相互特許使用契約の締結。 東芝との光ディスク装置の合弁会社設立。古くはフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約の締結などもしている)などを経て著しく躍進し、グローバル企業への成長を加速させる。半導体技術力向上の一環として、世界中から人材を集めるのが特徴で、サムスン電子などは韓国政府のバックアップのもと、1991年の日本のバブル崩壊時に大がかりにリストラされた東芝松下電器三洋電機シャープNECなどの日本人技術者を高給でヘッドハンティングし、日本人技術顧問が外国人技術者中77名と大半を占めるなどの環境下で、最新技術を取得(ちなみに、韓国企業に協力した日本技術者の多くは、数年すると勤めた韓国の会社を辞め、中には自殺する人もいた。日本企業にも戻れず、あまり幸せな経歴を歩んでいないという)。それらの要因と日本の電気メーカーの緩慢さ・展望の見誤りもあり、1990年代まで日本が優位にあったDRAM業界のシェアを韓国が塗り替えることになった。これに対し日本や他国の企業は技術流出の対抗策として、自社技術者の監視、生産技術の内製化を進めている。一方で韓国企業でも同様に他国への技術流出対策を積極的に行っている。フラッシュメモリーは日本や米国にも輸出する反面で部品を輸入し、水平分業が盛んである。パソコンや携帯電話などで使われる汎用品の液晶パネルでもDRAMと同じ産業構造であり、韓国が世界トップのシェアを占めている。

情報通信インフラ
  韓国ではブロードバンドが普及しており、インターネット放送や通信型ゲーム、サイワールド[246]などのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)やオーマイニュースなどの市民参加型インターネット新聞サイトなど多様なサービスを展開している。部分的には、IPマスカレードが法律で禁止されているため、ルーターをあまり使用せず、IPアドレスが不足するといった問題もある。これは電話会社との料金設定上の契約によるものである。全世界のスパム発信元ランキングではワースト6位であり、全体としてのセキュリティ対策は十分とは言いがたい現状である(日本は33位)が、セキュリティに対する関心は高まっている。また、韓国国内ではネット上のマナーや倫理問題から、韓国内サイトでの発言は匿名性を排し、個人名や国民番号を記載させる傾向にある。

  無線通信技術の分野では、CDMA技術など米国の会社に対する基本技術への特許使用料が増加しており、新規技術開発が急がれていた。こうした中、韓国電子通信研究院(ETRI)が 2007年に「WiMAX」規格の派生規格である「WiBro」の開発に成功し、「モバイルWiMAX wave1」規格はWiBroに準拠して策定された。しかし世界的に導入が進み事実上の国際標準になっているのは「モバイルWiMAX wave2」規格であり、期待通りの成果を収めたとはいえない。

治安
  韓国の治安は国際的にはいいほうとされるが、殺人・強姦・強盗などの凶悪犯罪を含む犯罪発生率は日本と比べると大幅に高い。犯罪割合は日本の3倍以上、殺人は2.4倍、強姦わいせつ事件は5.8倍という統計データがある。聯合ニュースは2009年7月31日付で韓国での殺人、強盗、強姦、窃盗、暴力の5大犯罪の発生件数がここ5年間で20%近く増加していることを伝えている。韓国警察研究学会の資料によると、殺人、強盗、強姦の三大凶悪犯罪の発生件数は、2001年に1万4896件、2010年には2万7482件となっており、10年間でほぼ倍増している。また、警察庁の発表によると、2016年に韓国内で発生した放火事件は1052件である
  韓国の警察庁の発表によると、2007年から2011年の5年間で発生した性犯罪事件は8万1760件で、その半数以上は強姦事件である。2013年の強姦・強制わいせつ事件は2万2310件であり、そのうち強姦事件2691件は10万人あたりの発生率は日本の約5倍である。まれに40倍という数字が出るが、韓国警察では強姦と強制わいせつを同じ枠で集計するため注意が必要である(40倍という数字は韓国は強姦+強制わいせつ、日本は強姦のみで比較しているため)2008年には、再発を防止するために、性犯罪前歴者に電子足輪の装着が義務づけられたが、足輪をつけたまま暴行する再犯者が後を絶たない。韓国女性の半数が性犯罪に遭遇している(2012年調査)ことから男性から女性への性犯罪が日常茶飯事であるとされている
  特に未成年者による性犯罪が多く、低年齢化も進んでいる。強姦事件は日本の10倍、アメリカの2倍(人口10万人あたり)となっており、2003年から2008年にかけて42.9%増加するなど、減少傾向にあるアメリカや日本と対比的である。
  また、未成年者による強姦の50.7%は輪姦である。アメリカ国務省は、韓国の犯罪発生率は低いが、強姦事案が報告されており、性犯罪に巻き込まれないよう夜間の一人旅は慎重にすべしと旅行者に呼びかけており、韓国の大都市ではアメリカの大都市と同程度の安全対策をすることが望ましいとしている。また、同様の警告は、イギリス外務省よりも発せられている。
  韓国警察庁の資料によると、2016年に、詐欺24万1613件、横領5万0053件、背任4358件も起きている。また、2016年に、偽証罪で2657人、誣告罪(日本では虚偽告訴罪)で4841人が起訴されている
  2010年現在、韓国女性10万人以上が海外で売春を行っているが、その半数にあたる5万人が日本で売春をしており、韓国内で募集された高校生を含む未成年者までもが売春目的で渡航するなど深刻な問題となっている。また、韓国国外で収監されている韓国人犯罪者の43.2%が日本で収監されている。しかし2008年3月31日、ソウル市城北区下月谷洞のアパート工事現場前で売春に従事する女性と売買事業主ら300人あまりが片道2車線の道路を占拠し、本地域での営業権を求めデモ活動を行うなど、アングラな産業として売春が黙認されているのも事実である。また『ハント全国連合』と呼称する性売買事業主たちによる連合団体が存在し、売春を禁止する法律自体の変更、撤回を求め活動していることから、国際的な世論とは裏腹に売春業に従事する者は権利や保障を求め活発である。
  2012年6月15日付の朝鮮日報の記事によると、2007年に女性家族部が実施した実態調査の結果、韓国の風俗産業の経済規模は約14兆952億ウォン(当時の為替レートで約9622億円)と試算されており、これは同年の国家予算239兆ウォン(約16兆円)の約6%に相当する額である。また同調査によると、韓国全土で46247か所の風俗店が営業しており、これらの店で働く女性は26万9707人に達し、客となる男性は年間延べ9395万人、1人の成人男性が1年に5回近く風俗店を利用していることとなる。一般的に売買春行為が密かに行われている点を考慮すると、実際の数はこれよりもはるかに多いと考えることもでき、男性の権利擁護を目指す男性連帯は2011年12月に韓国国内の風俗店で働く女性の数を189万人(韓国女性人口の約7.5%)と推定され、同団体の関係者により「自発的に売春を行う女性が、現実として非常に多いことも問題だ」と指摘されたことが同記事にて報道された。
  韓国内の宗教家、医師、芸術家、大学教授、ジャーナリスト、弁護士という6種の職業による2011年から2016年までの5年間の強姦と強制わいせつ犯罪の統計結果では1位宗教家、2位医師、3位芸術家、4位大学教授、5位ジャーナリスト、6位は弁護士の順となっている。代表的な六つの職業の中では医師と芸術家の性犯罪が増加している傾向にある

・・・続く


電子戦
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  電子戦: Electronic Warfare, EW)は、電磁波にまつわる軍事活動を意味する。
  電子戦とは、敵による電磁周波数帯域の利用状況を検知、分析した上で妨害や逆用する活動と自軍の電磁波の円滑な利用を確保するための活動を総称する。現代型の戦争ではレーダー無線通信が重要になってきており、各国の軍隊では電磁波をうまく利用することで戦闘を優位に進めようと、最新の電波に関わる軍事技術が開発され、火薬に代表される物理的兵器に代わって電子機器を利用した兵器が新兵器の主体を占めるようになっている。電子戦は物理学的な電磁波の原理に支配されている。
  また近年では、敵防空網制圧SEAD)作戦、対指揮統制戦を含めて電子戦闘Electric Combat, EC)と称することもある

初期の電子戦
  電子戦の歴史は電磁波を通信として利用すると共に始まった。1895年にグリエルモ・マルコーニが無線電信を成功させ、電磁波による通信が戦争に用いられるようになった。最初の本格的な電子戦は日露戦争において行われた。1904年、日本海軍旅順のロシア艦隊に対して間接射撃をはじめた。しかしロシア軍は弾着観測に派遣されていた駆逐艦に対して電波妨害を行い、報告を妨害した。日本海軍もウラジオ艦隊の無線を傍受して行動を事前に察知し、作戦行動に利用することができた。
発展
  第二次世界大戦においてはレーダー技術が発展し、イギリス本土航空戦マリアナ沖海戦に影響を与えた。レーダーに探知されない機体の開発が進んで現代のステルス機の基礎となった。ベトナム戦争においては米軍地対空ミサイル防空体制を充足してきた北ベトナム軍に対抗するために組織的な電波妨害を行った。1965年に電波妨害装置を実戦に使用してその有効性が発揮された。
湾岸戦争
  湾岸戦争においては、多国籍軍によって高度な電子戦が展開され、イラク軍の通信や防空組織を破壊した。また防空指揮所や情報機関本部、軍司令部、配電所などを空爆したが、その際も電子戦支援機が地対空ミサイルを無力化することに大きく影響した。
電子攻撃(詳細は「電子攻撃」を参照)
  電子攻撃(英語: Electronic Attack, EA)とは、敵が利用する電磁スペクトルを妨害するための活動のこと。下記のように細分化される。
電子防護(詳細は「電子防護」を参照)
  電子防護(英語: Electronic Protection, EP) とは敵の電子攻撃活動から、友軍兵士、部隊、装備、作戦目的を保護する全ての活動を指す。電子防護は自軍のEAの影響を友軍が受けてしまうのを避けるためにも利用される。以前は電子防護手段 EPM (Electronic protective measures) 、または対電子対策 (Electronic counter countermeasures, ECCM) と呼ばれた。電子防護は、能動的なものと受動的なものに分けられる。
電子戦支援(詳細は「電子戦支援」を参照)
  電子戦支援(英語: Electronic warfare Support, ES)とは戦場において受動的に電磁スペクトラムを利用し、友軍以外の対象を発見、識別し、潜在的脅威ないし標的の位置を特定するための活動である。敵の動きを事前に察知するために、敵の電磁放射を捜索、傍受、分析する活動を指す。以前は電子支援手段 (electronic support measures, ESM) と呼ばれていた。
  電子支援は敵軍の戦場での位置特定のために使われ、電子攻撃・電子防護のためにも使われる。電子攻撃は電磁波の放射を伴うために敵から発見されることを前提とするが、電子支援は敵に存在や行為、意図を知られないよう努めて行なわれる。世界の多くの国の軍隊や情報機関が、有事での電子戦で優位となる戦術情報を得るために、平時から敵性国の電磁放射を傍受・分析することで電子装備とその運用に関する情報収集を継続的に行っている。


フォークランド紛争
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  フォークランド紛争: Falklands War/Conflict/Crisisスペイン語では「マルビナス戦争」(西: Guerra de las Malvinas))は、大西洋イギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)の領有を巡り、1982年3月からイギリスアルゼンチン間で3ヶ月に及んだ紛争のこと。日本語では「フォークランド紛争」と表記されることが多い。英語圏では「Falklands War(フォークランド戦争)」とも呼ばれる。ただし、イギリス陸軍の公式ウェブサイトでは「Falklands Conflict(フォークランドの争い)」の語を用いている

  1982年3月19日アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島のイギリス領サウス・ジョージア島に2度に渡って寄港、イギリスに無断で民間人を上陸させた(サウスジョージア侵攻)。イギリスはサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すと共に、3月28日には、アメリカ合衆国連邦政府へ支援を要請、アメリカ軍アメリカ海軍原子力潜水艦派遣を決定した。
  4月2日にはアルゼンチン正規陸軍が同島に侵攻してきた。4月25日には、サウス・ジョージア島にイギリス軍が逆上陸、即日奪還した。しかしアルゼンチン軍は航空攻撃でイギリス海軍艦船を次々と撃沈するなど優位に戦いを進めたものの、イギリス軍は経験豊富な陸軍特殊部隊による陸戦や長距離爆撃機による空爆、また同盟国アメリカ合衆国EC及びNATO諸国、さらにアルゼンチンと対立関係にあるチリの支援を受けて情報戦を有利に進め、アルゼンチンの海軍戦力を足止めさせるなど徐々に勢いを削いだ。6月7日には、フォークランド諸島にイギリス軍地上部隊が上陸、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏し戦闘は終結した。

  フォークランド紛争は、第二次世界大戦以降の西側諸国近代化された軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは、その時点まで実戦を経験していなかったものの、同紛争で定量的な評価を受けた。また、アルゼンチンはイギリスから一部の兵器を輸入していた上、両軍ともアメリカフランスベルギーなどの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴もあった。
  両国の国交が再開され、戦争状態が正式に終結したのは、1990年2月5日だった。しかし、国交再開交渉でもフォークランド諸島の領有権問題は棚上げされ、現在もアルゼンチンは領有権を主張している。
フォークランド問題の起源
フォークランド諸島の発見とイギリスの実効支配
  最初にフォークランド諸島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれる。ヨーロッパ人による発見についても諸説あり、1520年ポルトガルマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとも、あるいは1592年のイギリスの探検家ジョン・デイヴィスによるともされている。アルゼンチン政府は前者を、イギリス政府は後者を採っている
  同地は大西洋太平洋を結ぶマゼラン海峡ビーグル水道に近く、パナマ運河開通までは戦略上の要衝であったことから、18世紀には領有権争いの舞台となった。1764年、フランスは東フォークランド島に入植し、サン・ルイ港と名づけた(現在のバークレー湾)。イギリスは翌1765年にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにあるソーンダース島の港にエグモント港と名づけた。スペイン・ブルボン朝は、1767年にフランスからフォークランド諸島の売却を受け、1770年にはブエノスアイレスからエグモント港に侵攻した。当時、北米植民地の情勢急迫に対処しなければいけなかったイギリスは全面戦争を避け1774年にはスペインの領有権が一時的に確立した。しかし1833年には、イギリスが派遣したスループ「クレイオー」によって無血占領に成功(1833)、以後、実効支配を進めたことで、長らくイギリスの海外領土(属領)とされてきた。
アルゼンチンの独立と諸島返還交渉の開始
  1810年五月革命を発端とする独立戦争を経て、1816年アルゼンチンが独立すると、スペイン領土を継承するものとして、同諸島の返還を求めるようになった。1820年代には領有・課税宣言やアメリカ船の拿捕なども行われた。しかしまもなく1825年から1828年シスプラティーナ戦争で忙殺されたほか、その後も大英帝国非公式帝国として経済的な繁栄を享受していたことから、返還要求は続けられていたとはいえ、実質的には棚上げ状態となっていた。
  その後、1929年の世界恐慌を経て、「忌まわしき十年間」にはナショナリズムが台頭し、第二次世界大戦後の1946年には左翼民族主義者フアン・ペロンが大統領に就任したが、その後も変わらず棚上げ状態となっていた。このペロンが下野した後、ペロン派都市ゲリラと軍部、政党との間で衝突が続き、1960年代には内政の混乱をもたらしていた。またペロン政権時代から極度のインフレに見舞われていたこともあって、政治闘争に明け暮れる政権に対し国民の不満が鬱積していた

  この国民の不満をそらすため、急遽フォークランド諸島というナショナリスティックな問題が取り上げられるようになり、1960年代には「マルビナス記念日」の制定をはじめとする様々なプロパガンダ工作が推進された。また1965年12月16日には、国際連合総会決議第2065号により「いかなる形態の植民地主義も終結させるため」アルゼンチン・イギリス双方が平和的な問題解決のため交渉を開始するよう勧告したことから、両政府の交渉が開始されることになった
  しかしイギリスにとって、フォークランド問題はごく一部の政治家や官僚のみが知るのみの問題であった。1960年代に入り英国病に苦しむ状況下では、同諸島の維持そのものが負担となっており、アルゼンチン側への売却という案も検討されていた保守党マクミラン政権下でヒース王事尚書1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、アルゼンチン側が主権問題を取り上げたためそれ以上の進展はなかった
  1967年3月にイギリス外務省が作成したメモランダムでは、「島民が望めば」という条件で、フォークランド諸島における主権の委譲を認めることとなっており、アルゼンチン側は大きな前進と受け止めた。しかし実際には、アルゼンチンへの帰属を望む島民は皆無であり、またイギリス側でも、議会やマスコミは諸島返還には反対の方針を貫いていた
諸島返還交渉の停滞と挑発行為
  1975年、キャラハン外相の依頼を受けて、リオ・ティント社の重役でもあるエドワード・シャクルトン貴族院議員を団長として、諸島の経済状況に関する調査団が派遣された。その報告書は1976年6月に提出され、フォークランド諸島の経済状況が絶望的であることが確認された。アルゼンチンへの過度の経済的依存はなく、自給自足に近かったものの、逆にいえば、植民地時代からほとんど発展していないということでもあった。5年間で1,400万ポンドという莫大な投資が必要であると見積もられたが、これはイギリス単独では実現困難であった。イギリス政府はこの報告書を公開し、アルゼンチンからの経済的な協力を促そうとしたが、アルゼンチン政府はこれを諸島の経済的自立を進めるものであると誤解して、危機感を強めた。また島民は、この報告書によってイギリス本土からのさらなる投資が呼び込まれるものと期待した
  シャックルトン議員が調査を進めていた1976年2月4日、イギリスの南極調査船「シャックルトン」が南緯60度線近くのアルゼンチンの排他的経済水域で、同国海軍による警告射撃を受けて、数発を被弾するという事件が発生した。2月19日、国防省は諸島の防衛について検討したものの、当時、同諸島には軽武装の氷海警備船「エンデュアランス」と海兵隊員36名しか配備されておらず、侵攻阻止はほぼ絶望的であると見積もられ、奪回作戦に重点が置かれた

  同年のクーデターで権力を掌握したホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領は、国民弾圧へのガス抜きのためにフォークランド問題解決への糸口を探っており、交渉を進めるための挑発行動として、12月には、50名のアルゼンチン軍部隊がイギリス領サウスサンドウィッチ諸島南端の無人島、南チューレに無断で上陸し、アルゼンチン国旗を掲げる事件が発生した。イギリスの合同情報委員会(JIC)は、これをアルゼンチン軍事評議会において強硬派が優勢になりつつある兆候と分析した
  1977年11月にJICが作成した情報見積もりによれば、アルゼンチンが軍事行動を含めたより強引な手段に訴えてくる危険性があると指摘された。そのため、キャラハン首相は、11月21日に原子力潜水艦「ドレッドノート」とフリゲートアラクリティ」「フィービ」および支援艦艇を派遣することを決定した。キャラハンは機動部隊派遣について秘密情報部長官に話し、これがアメリカ合衆国を経由して非公式にアルゼンチンに通告されることを期待した。アルゼンチンがこの艦隊派遣を知りえていたかどうか、またそのことがアルゼンチンの行動に影響を及ぼしたかどうかについては、不明である。一方、イギリス側は交戦規定の策定など軍事行動のシミュレートを進めるとともに、「エンデュアランス」も一時的に本国に戻されて、レーダー探知機や通信傍受装置などの装備が施された
リース案の検討と拒絶
  1979年に就任したマーガレット・サッチャー首相は外交経験がなかったことから、老練なピーター・キャリントンを外務大臣に迎えた。当時、外務連邦省と国防省では、南チューレ上陸事件への対応を踏まえて、任務部隊を諸島に常駐させるという「フォークランド要塞化」案を検討していたが、これにはかなりの財政的負担が伴うことから、キャリントン外務大臣およびニコラス・リドリー外務閣外大臣は、名目上の主権をアルゼンチン側に委譲したうえで諸島をイギリスが借り受ける「リース案」を腹案としていた。1980年8月25日には、この案を携えたリドリー外務閣外大臣がアルゼンチンのカヴァンドーリ外務副大臣と会談し、おおむね好意的な反応を受けた
  しかしサッチャー首相は、国際連合憲章第1条第2項人民の自決の原則にもとづき、フォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていたのに対し、島民は自分たちが「イギリス国民」であることに固執しており、リドリー外務閣外大臣は11月22日にスタンリーを訪問して400名の島民と討論を行なったものの、惨憺たる結果となった。またイギリス側は議会への通知を後回しにして交渉を進めていたところ、マスコミにすっぱ抜かれて周知の事実となってしまったことで、議会も態度を硬化させてこの案を拒絶した。
アルゼンチンからの警告と情勢判断
  アルゼンチン側は、イギリスによるフォークランド占有から150年の節目に当たる1983年までには、諸島問題を「いかなる手段」を使っても解決することを目標としていた。また1981年12月8日に新大統領に選出されたレオポルド・ガルチェリ大将は、翌年には陸軍司令官を退任することになっていたため、退役までに政治的な功績を残す必要に迫られていた
  1981年当時、イギリスでは国防政策見直しの作業が進められており(1981 Defence White Paper)、トライデント潜水艦発射弾道ミサイルの予算を捻出するため、氷海警備船「エンデュアランス」や空母インヴィンシブル」の退役が検討されていたが、アルゼンチン政府は、これらの検討内容について、イギリスはフォークランド諸島の安全保障問題よりも国内の財政問題を優先したものと解釈していた。12月15日、海軍総司令官ホルヘ・アナヤ大将(Jorge Anaya)は、海軍作戦部長フアン・ロンバルド中将に対し、フォークランド諸島侵攻作戦計画の作成を下令し、本格的な武力行使の計画が開始された

  1982年1月27日、アルゼンチン外務省はイギリスに対して、主権問題解決のための定期的な交渉の開始を提案し、2月27日にはニューヨークで会談が持たれた。アルゼンチン外務省としてはイギリスを交渉の場に繋ぎ止め、武力紛争の勃発だけは避けようとしていたが、イギリス側はアルゼンチンがそこまで強硬な姿勢を固めつつあることを想定しておらず、まずは島民の意思を変える時間を稼ぐための引き伸ばしを図っており、積極的に話し合いを進める意図はなかった。アルゼンチン外務省は落胆し、3月1日、「イギリス側に解決の意思がない場合、交渉を諦め自国の利益のため今後あらゆる手段を取る」との公式声明を発表した
  これはアルゼンチン側からの明確な警告であったが、依然としてイギリス側の反応は鈍く、3月9日に開催された合同情報会議では、外交交渉が続いている限りアルゼンチンが極端な行動には出ることはない、という結論であり、もしアルゼンチン側が武力に訴えるとしても同年10月以降になるであろう、という推測であった。同日、サッチャー首相は国防省に対して非常時の対策を練っておくよう指示していたが、その後2週間は具体的な検討は行われなかった。ブエノスアイレス駐在のウィリアムス大使は「もしイギリスがアルゼンチン側の要求を受け入れなければ、3月中の武力行使もありうる」との情報を入手して本国に伝達したが、狼少年と見なされてしまい、重視されなかった
サウスジョージア島上陸(詳細は「サウスジョージア侵攻#不穏な動き」を参照)
  3月19日、アルゼンチンのくず鉄回収業者、コンスタンティノ・ダヴィドフ(Constantino Davidoff)はアルゼンチン海軍の輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」(ARA Bahaia Buen Suceso)によってサウス・ジョージア島のクリトビケンに上陸した。これは旧捕鯨施設解体のためであり、この解体自体はイギリス政府との契約に基づくものであったが、上陸のための事前許可をサウスジョージア民政府から得ていなかったうえに、作業員のなかにアルゼンチン軍人が紛れ込んでおり、上陸すると、アルゼンチン国旗を掲げた施設を設置し始めた。 イギリス外務・英連邦省はアルゼンチン外務省に抗議するとともに、氷海警備船「エンデュアランス」に海兵隊員22名と軍用ヘリ「ワスプ」2機を乗せて同島海域に派遣したが、これに対抗して、アルゼンチン海軍もコルベット2隻を派遣した。アルゼンチン側の強硬姿勢に驚いたイギリス側は、偶発的な衝突を避けるため、「エンデュアランス」をサウスジョージア島沖に待機させ、状況を監視させた。イギリス側は、戦闘行為がフォークランド諸島にまで飛び火することを恐れており、問題の範囲をサウスジョージア島に留めておきたいと考えていたが、アルゼンチン側を抑止するのか撃退するかという根本的な方針を定めないまま「エンデュアランス」を派遣したために、対応が中途半端となり、かえって危機を悪化させてしまった

  3月23日、イギリスは危機の収束のためには譲歩もやむなしとして、サウスジョージア島からアルゼンチン軍部隊が速やかに退去すれば外交交渉で妥協する用意があることを緊急に伝えた。しかしこの譲歩は既に手遅れであった。同日、アルゼンチン側の軍事評議会において、サウスジョージア島から部隊を撤収させないということが決定されてしまっており、その上で部隊を撤収させた場合はイギリス側の恫喝に屈したことになるため、強硬派のガルチェリ大統領にとって、もはや受け入れがたい選択となっていた。
  3月26日、アルゼンチンのコスタ=メンデス外相は、サウスジョージア島に上陸したアルゼンチン人同胞の保護のために海軍砕氷艦「バイア・パライソ」を同地に派遣しており、必要に応じてあらゆる措置を講ずる用意がある由を発表した。同艦から海兵隊員がサウスジョージア島リース港に上陸するに及んで、イギリス側も、外交的手段による状況の打開が極めて困難になっているということを、ようやく理解した
開戦前夜におけるイギリスの情勢誤認
  このように情勢が加速度的に悪化しているにもかかわらず、依然としてイギリスの対応は鈍かった。イギリスの情報機関は、3月22日になっても、あくまで問題はサウスジョージア島であって、フォークランドにまで侵攻して来るなどとは想定していなかった。3月28日には、政府通信本部(GCHQ)により、アルゼンチン海軍の潜水艦「サンタ・フェ」がフォークランド諸島沿岸に派遣されていることが傍受されたものの、同日、アルゼンチン海軍総司令官アナヤ大将が「サウスジョージア島でアルゼンチン人が殺害されない限りフォークランドには手を出さない」と発言したこともあって、この情報の重要性は十分に認識されなかった。
  3月31日の時点においてすら、JICは「アルゼンチンはサウスジョージア問題を逆手にとって交渉の材料にしようとしている」として、サウスジョージア島で挑発してイギリスの行動を誘うことがアルゼンチンの目的であって、よもや先に仕掛けて来ることはないであろう、との判断であった。しかし同日、GCHQは、アルゼンチンの海兵部隊一個大隊が4月2日にはフォークランドのスタンリーに達するということ、そしてブエノスアイレスから在英アルゼンチン大使館に対してすべての機密書類の焼却命令があったという決定的な情報を傍受した
  事ここに至り、イギリス政府も、ついにアルゼンチンの狙いがフォークランド諸島にあり、情勢が想定を大きく超えて急迫していることを理解した。サッチャー首相はアメリカ合衆国に事態収拾の仲介を要請しており、4月1日レーガン大統領はガルチェリ大統領に対する説得工作を行っていることとアメリカの立場がイギリス寄りであることを伝えたが、ガルチェリ大統領との連絡は困難であった。駐アルゼンチンのアメリカ大使が既にガルチェリ大統領と面会していたが、大統領は「何を言っているのか全く訳がわからない」状態であった。ワシントン時間で4月1日午後8時半頃、レーガンはようやくガルチェリと電話で話すことができたが、侵攻を思いとどまるよう説得するレーガン大統領に対し、ガルチェリ大統領は自分たちの大義について演説し始める始末であり、説得は失敗であった
  このような外交的手段と並行して、イギリス側も重い腰を上げて、軍事的な対応に着手していた。3月29日には、物資と海兵隊員200名を乗艦させたフォート・グランジ級給糧艦「フォート・オースティン」が急派された。また4月1日には原子力潜水艦「スパルタン」と「スプレンディド」も派遣されたほか、ジブラルタルに寄港していたフリゲート艦「ブロードソード」と「ヤーマス」も追加されることになった。海軍は、今後も増派を続けるのであればこのような五月雨式の派遣を続けるべきではないと考えており、第一海軍卿リーチ提督は、空母機動部隊の編成を上申した。これを受けて、3月31日の時点で、サッチャー首相は任務部隊の編成を下令していた。しかしこれら先遣隊の到着は4月13日前後、そして空母機動部隊の出港も4月5日の予定であった
  これに対し、アルゼンチンにおいては、3月26日の時点で、軍事評議会によってフォークランド諸島侵攻に関する最終的な決断がくだされていた。現地時間4月1日19時、アルゼンチン軍はロサリオ作戦を発動、同日23時、最初の部隊がスタンリー付近に上陸して、本格侵攻を開始した

アルゼンチン軍の侵攻
作戦計画の立案と前倒し (1981年12月-1982年3月)
  上記の通り、フォークランド諸島侵攻作戦の具体的な計画作成は、1981年12月15日、海軍総司令官アナヤ大将から海軍作戦部長ロンバルド中将への下令を端緒とする。この際、アナヤ大将の指示は「マルビナス諸島を奪回せよ。しかしそれらを確保する必要はない」というものであり、イギリスの反撃は予期されていなかった。1982年1月中旬より、陸軍・空軍も加えて統合作戦計画作成が着手された。
  この時点では、作成完了時期は9月15日とされており、その前に何らかの動きを取ることは考慮されなかった。これは真冬の過酷な天候が終わる時期であり[注 6]、年初に招集されたアルゼンチン陸軍の徴集兵の訓練も進展しており、海軍航空隊にはシュペルエタンダール攻撃機エグゾセ空対艦ミサイルの配備が進み、またフォークランド周辺にイギリス海軍が有する唯一の軍艦である氷海警備艦「エンデュアランス」も解役されているはずであった。上陸部隊としては海兵隊第2歩兵大隊が選定され、2月から3月にかけて、フォークランドに地形が似ているバルデス半島で数回の上陸演習を行った。基本的な上陸計画は3月9日に軍事政権の承認を受けて、9月までかけて作戦計画は準備されるはずだった
  しかし3月下旬、廃材回収業者のサウスジョージア島上陸を巡り、情勢は急激に緊迫し始めていた。3月23日、アルゼンチン政府は、イギリスによる業者の退去を阻止するためサウスジョージア島に兵力を送るとともに、この危機を口実にフォークランド諸島を占領することを決心し、侵攻計画の立案グループに対して、計画をどの程度前倒ししうるかを諮問した。3月25日、ロンバルド中将は、同月28日に出港してフォークランド上陸は4月1日であると回答した。軍事政権はこの回答を承認し、ただちにフォークランド上陸作戦とサウス・ジョージアへのさらなる兵力増強の準備に取りかかるよう命令した。

フォークランド諸島侵攻 (3月28日-4月1日)
詳細は「フォークランド諸島進攻」を参照
双方の態勢
  アルゼンチン軍においてフォークランド諸島の占領を担当したのは、カルロス・ブセル海兵隊少将を指揮官とする第40.1任務群であった。上記の通り、海兵隊第2歩兵大隊を基幹として、上陸特殊作戦中隊および水中障害破壊部隊、野戦砲兵などを配属されていた。主たる攻撃目標は総督公邸と海兵隊兵舎であり、多方面から圧倒的に優勢な兵力で奇襲攻撃することで、できれば流血無しに占領することを企図していた
  イギリス側では、ちょうど同地の警備にあたる海兵隊分遣隊が交代の時期を迎えたタイミングで情勢が緊迫し、大使館付武官の助言を容れて交代を中止したため、定数の倍にあたる69名の海兵隊員が駐在していた。また「エンデュアランス」から陸戦隊11名が派遣されていたほか、同地に住んでいた退役海兵隊員1名が再志願して加わっていた。海兵隊指揮官マイク・ノーマン少佐は、侵攻を受けた場合、緒戦で可能な限り激しい打撃を加えて交渉の時間を稼ぐことを企図していた
特殊作戦上陸中隊の錯誤
  3月28日、アルゼンチン軍侵攻部隊が出航した。当初計画では3月31日から4月1日の夜間に上陸する予定であったが、荒天のため24時間延期された。4月1日、フォークランド諸島総督レックス・ハント卿は、アルゼンチンの侵攻が迫っていることを本国より通知されて、これを島民に向けてラジオ放送した。これにより、アルゼンチン側は、既に戦術的奇襲が成立しなくなっていることを悟った
  4月1日21時30分(以下特記無い限りタイムゾーンはUTC-4)、ミサイル駆逐艦「サンティシマ・トリニダド」より、特殊作戦上陸中隊92名がゴムボート21隻に分乗して発進した。これらの部隊は二手に分かれ、サバロツ少佐に率いられた76名はイギリス海兵隊兵舎を、またヒアチノ少佐に率いられた16名は総督公邸を目指した。一方、イギリス側は、停泊中の民間船の航海用レーダーで港を見張っており、2日2時30分には、これらのアルゼンチン艦艇の動きを把握していた。また監視哨からも報告が相次ぎ、4時30分、ハント総督は緊急事態を宣言した
  アルゼンチン側の計画では、イギリス海兵隊が兵舎で就寝中のところを奇襲し、死傷者を出さずに制圧することになっており、サバロツ少佐はこれに従って催涙弾を投げ込んだが、実際にはイギリス海兵隊は既に全員が戦闘配置に就いており、兵舎はもぬけの殻であった。一方、ヒアチノ少佐の隊は、急遽この目標に振り替えられたため、総督公邸に関する情報を何も持っていなかった。ヒアチノ少佐は4名の部下を連れて降伏勧告に赴いたが、誤って総督公邸ではなく執事の住居に入ってしまった。そして公邸では、海兵隊員31名と水兵11名、退役海兵隊員1名が自動小銃を構えていた上に、総督付運転手が散弾銃を、そして総督自身も拳銃を構えていた。誤りに気づいて出てきたヒアチノ少佐たちに銃撃が浴びせられ、ヒアチノ少佐は戦死、1名が負傷して、降伏勧告に向かった全員がイギリスの捕虜となった。指揮官を失ったアルゼンチン側は次の動きを決められず、事態は膠着状態となった
本隊の上陸とイギリス軍の降伏
  一方、アルゼンチン軍本隊では、まず4時30分、潜水艦「サンタ・フェ」より水中障害破壊部隊のダイバーたちが出撃し、偵察を行うとともに、水陸両用車のための誘導灯を敷設した。続いて6時、戦車揚陸艦「カボ・サン・アントニオ」よりLVTP-7装甲兵員輸送車およびLARC-5貨物車に分乗した海兵隊第2歩兵大隊が出撃し、母艦からの誘導に従って岩礁を迂回したのち、誘導灯に従って無事上陸した。上陸すると、まずスタンリー空港を確保し、イギリス側が滑走路に設置した障害物を撤去したのち、スタンリー市街に向けて前進していった
  7時15分にはイギリス海兵隊の小部隊による妨害攻撃が行われたものの、双方とも戦死者はなく、8時には市街を掌握した。既に海兵隊の砲兵部隊や予備隊も上陸し、スタンリー空港には増援の陸軍部隊を乗せた航空機が着陸し始めていた。イギリス側が保持している施設は総督公邸のみとなっており、ハント総督は、島民と軍人へ不必要な生命の損失を与える徹底抗戦を避けて交渉することにした。9時25分に武装解除が命令されて、フォークランド諸島における戦闘は一旦停止した。
サウスジョージア島侵攻 (3月24日-4月3日)
詳細は「サウスジョージア侵攻」を参照
双方の態勢
  アルゼンチンは、サウスジョージア島占領のため、セサル・トロムベタ海軍大佐を指揮官とする第60任務群を派遣した。これは極地輸送艦「バイア・パライソ」とコルベット「ゲリコ」から構成されており、艦載ヘリコプター2機と海兵隊員80名が乗り込んでいた
  サウスジョージア島には、研究者等を除けば定住者はなく、通常は軍隊の配備もないが、廃材回収業者のサウスジョージア島上陸への対応措置として、3月24日より、氷海警備艦「エンデュアランス」と、ミルズ中尉指揮下の海兵隊員22名が警戒活動にあたっていた。その後、海兵隊は3月31日に下船し、グリトビケンのイギリス南極探検隊の基地に駐屯した。4月1日には、ハント総督によるフォークランド諸島民へのラジオ放送が受信されたほか、4月2日には、BBCワールド・ニュースによって、アルゼンチンによるフォークランド侵攻が報じられた。国防省からの指令を受けて、「エンデュアランス」はアルゼンチン軍に見つからないように離れつつ情報収集母体として活動することになり、ミルズ中尉は、猛烈な嵐のなかで防御陣地を構築し、また海岸と桟橋に鉄条網と爆発物を敷設させた
サウスジョージア島占領
  4月2日12時25分頃、グリトビケンのあるカンバーランド湾に「バイア・パライソ」が侵入してきた。本来、この日にサウスジョージア島への侵攻作戦も実施される予定であったが、極度の悪天候のために断念し、無線で「明朝もう一度来て通信する」と通告して去って行った。4月3日の夜明けには天候も回復しており、6時30分には再び来航した「バイア・パライソ」からのVHF通信で降伏要求がなされた。この間、アルゼンチン軍は、まずピューマ・ヘリコプターのヘリボーンによって部隊を展開させていたが、同地にイギリス軍はいないものと誤認しており、ピューマ・ヘリコプターは陣地の近くを飛行したため、ミルズ中尉たちの一斉射撃によって数十発が命中し、2名が戦死、残りは全員負傷して、機体は不時着した。
  トロムベタ大佐は「ゲリコ」へイギリス軍陣地への艦砲射撃を命じたが、目標があまりに近くて俯角を取れず、射撃できずにいるうちに、逆にミルズ中尉たちのカールグスタフ無反動砲M72 LAW対戦車ロケット弾、そして機関銃および自動小銃の射撃を受けて、水兵1名が戦死し、砲の旋回機構も破壊された。しかしこの間に、アルエットIIIヘリコプターによって、不時着したピューマの負傷者は収容され、また増援部隊を着陸させた。アルゼンチン海兵隊は巧みに展開し、ミルズ中尉たちを包囲していった。また「ゲリコ」も、いったん沖に後退したのちに艦砲射撃を再開しており、砲の旋回機構を破壊されたために弾着の誤差が大きかったものの、徐々に陣地に近づいていた
  ミルズ中尉は、事前に「無益に人命を失うおそれが生じる前に、抵抗をやめる」と指令されていたこともあって、この時点でアルゼンチン軍に対し十分な損害を与えたとして、降伏した。イギリス側は重傷者1名を出したものの、戦死者はなかった。これに対し、アルゼンチン軍は圧倒的に優勢であり、またミルズ中尉が無線で海兵隊の駐屯を宣言していたにも関わらず、イギリス軍はいないだろうという思い込みで不用意に兵力を投入した結果、フリゲート1隻損傷、ヘリコプター1機全損、死者3名という損害を被った。
政治・外交的対応
戦時内閣の設置
  3月31日の時点で、サッチャー首相は、「ハーミーズ」「インヴィンシブル」の2隻の軽空母を中核として、第3コマンドー旅団を伴った機動部隊の編成を下令しており、4月1日夜の閣議で、機動部隊をフォークランドに派遣することが決定された。アルゼンチンの侵攻に対して、サッチャーが既に任務部隊派遣の準備が整っていることを表明すると、世論はこれを熱狂的に支持したが、アルゼンチンの侵攻を未然に防げなかったことについて野党は追求の手を緩めず、責任を取って、キャリントン外相、アトキンズ閣外大臣、並びにルース次官は辞任を余儀なくされた。そして4月6日には、サッチャーはイギリスの伝統に基づいて戦時内閣を設置し、サッチャーと数名の閣僚によって意思決定を行える制度を整えた
国連の動きと経済制裁
  このように部隊を派遣してはいたものの、イギリスにとって、武力行使による奪回は最終手段と位置づけられており、できれば任務部隊の派遣効果と対アルゼンチン経済制裁によって、アルゼンチンが全面的に屈服するか、あるいは国連やアメリカによる調停を期待していた。サッチャーは、スエズ危機の教訓を踏まえて、アメリカや国際法を無視した武力行使はありえないと考えており、まずこれらの地固めを重視した
  しかし国連はもともと平和主義と反植民地主義的志向が強く、イギリス寄りでの調停は期待し難かった。またイギリスとしては自衛権の発動を主張することも困難であった。自衛権とは攻撃を受けてから生ずるものであるのに対し、フォークランド総督府は既に降伏し、戦闘はいったん終結していたためである。4月3日には、アルゼンチンとイギリスの間の開戦を受けて開かれていた国連安全保障理事会において決議第502号が出され、アルゼンチンのフォークランド諸島一帯からの撤退を求めたが、これが精一杯であった
  イギリスでは軍事作戦と並行して経済制裁についても検討しており、4月2日には国内のアルゼンチン資産を凍結しその額は15億ドルにも及んだ。ただし当時のアルゼンチン経済は食糧、エネルギー分野においては自給に近かったことから短期的な影響は小さく、長期的な影響を与えるためには諸外国との連携が必要であった。欧州、コモンウエルス諸国、そして日本は外交的にイギリスを支持し、対アルゼンチン武器禁輸、アルゼンチンからの輸入の部分的停止、対アルゼンチン新規融資の禁止などを含んだ対アルゼンチン経済制裁に同意したが、日本は経済制裁には追随しなかった
調停の試み
  これと並行して、アメリカのアレクサンダー・ヘイグ国務長官やイギリスのフランシス・ピム外相のシャトル外交により、事態の打開が模索された。アメリカにとって、反共という立場では共通するイギリスとアルゼンチンが対立を続けることは望ましくなかったこともあり、積極的に調停を試みた。ヘイグ国務長官の基本的な構想は、まずアルゼンチンが撤兵し、それを確認してイギリスも任務部隊の派遣をやめるというものであった。4月12日にはロンドンを訪れて、この構想に基づく提案を提示した。イギリスも一時はその案の受諾の方向で進んでいたが、アルゼンチンは主権の移譲を主張して譲らず、ヘイグを愕然とさせた
  イギリス側が諸島統治は島民の意思を尊重する立場であったのに対し、アルゼンチン側の言い分は、同諸島での現地統治および参政権をアルゼンチン島民にも与えるとした。また、排他海域の設定やイギリス軍の進軍停止・撤退なども協定案としてやり取りがあったものの、イギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないよう定める文言が、4月24日のアルゼンチン案に含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的と考え、さらに外交交渉が時間稼ぎのために使われていることを懸念した

  ヘイグ長官はなおも調停を試みたものの、4月25日のサウスジョージア島奪還を受けて、27日にはアルゼンチン軍事評議会はヘイグの調停案を拒絶する決定を下し、2日後にヘイグにそのことを伝えた。ヘイグは、もし戦闘が勃発すればアメリカはイギリスを支持することを表明した
  戦争中もイギリス政府や諸外国政府は、外交的に戦争の落としどころを探っていた。ヘイグ国務長官はイギリス、アルゼンチン双方に対して48時間以内の即時停戦とフォークランド諸島からの撤退を求めていた。またペルー政府も仲介役に積極的であり、即時停戦や部隊の撤収、第三国によるフォークランド諸島の一時的な統治の確立などの調停案を持ちかけていた。しかしこのときにイギリス原子力潜水艦「コンカラー」によってアルゼンチン巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」が撃沈され、またイギリス駆逐艦「シェフィールド」にエグゾセを命中させたことで、アルゼンチンは態度を硬化させており、ペルーとアメリカの仲裁には関心を持たず、国際連合の場でイギリスに国際的な圧力をかけて譲歩を引き出そうとしていた。
  アメリカにとっては、米英関係と同時にラテン・アメリカ諸国との関係も良好に保つ必要があった。そしてチリを除くラテンアメリカ諸国にとっては、アルゼンチンが完敗して再び政変が生じることは望ましくなかった。5月31日、レーガン大統領はブラジルの大統領と協議したのち、サッチャー首相に電話して、ヘイグ国務長官の即時停戦案を受け入れるよう提案したが、イギリスはグース・グリーンの戦いで勝利を収めた直後であり、到底受け入れられるものではなかった。サッチャー首相は猛抗議し、しまいにはレーガンが「自分でも余計な指図をしたことはわかっているが…」と折れる有様であった。
  6月2日には、今度は国際連合安保理の場においてスペインとパナマが独自の即時停戦案を提出した。サッチャー首相は折からのヴェルサイユ・サミットで各国首脳への根回しを行っていたが、日本の鈴木善幸首相だけは問題の平和的解決に拘って即時停戦案への賛成を表明しており、サッチャー首相を激高させた。そして2日後の安保理では、日本とソ連を含む9ヶ国が停戦案に賛成したため、イギリスは拒否権を発動して停戦案を封じ込めざるを得なかった
イギリス軍の反攻開始
第317任務部隊の編成と海上封鎖の開始 (3月31日-4月18日)
  上記の通り、イギリス軍は、当初は情勢が緊迫するにつれて五月雨式に派遣部隊を増やしており、まず3月29日にフォート・グランジ級給糧艦「フォート・オースティン」、4月1日に原子力潜水艦「スパルタン」と「スプレンディド」が派遣されたほか、ジブラルタルに寄港していたフリゲート「ブロードソード」と「ヤーマス」も追加されることになっていた。アルゼンチン軍の侵攻の時点で、「フォート・オースティン」と原子力潜水艦は大西洋を南に向けて航行中、フリゲート艦隊はようやくジブラルタルの海軍基地を出港したところであった
  そして3月31日の時点で、サッチャー首相は、「ハーミーズ」「インヴィンシブル」の2隻の軽空母を中核として、第3コマンドー旅団を伴った機動部隊の編成を下令しており、4月1日夜の閣議で、機動部隊をフォークランドに派遣することが決定された
  当時、第1艦隊はカサブランカ沖でNATOの演習「SPRINGTRAIN」に参加しており、ここから下記の7隻が抽出されたほか、既に演習部隊から分離されて西インド方面における長期任務へと向かっていたロスシー級フリゲート「プリマス」も呼び戻された。
  ・カウンティ級駆逐艦2隻 - 「アントリム」「グラモーガン・42型駆逐艦3隻 - 「コヴェントリー」「グラスゴー」「シェフィールド」・22型フリゲートブリリアント」・21型フリゲートアロー
  月5日には、大々的な見送りとともに、ポーツマスより2隻の空母が出撃した。同日、ひっそりと21型フリゲート「アラクリティ」「アンテロープ」、そして補給艦支援給油艦「ピアリーフ」、艦隊補給艦、「リソース」および補給艦「オルメダ」も出港した。また4月6日には強襲揚陸艦「フィアレス」が、また4月9日には第3コマンドー旅団の大半および増援された陸軍の第3空挺大隊を乗せた徴用船「キャンベラ」も出港した。第1艦隊司令官ウッドワード海軍少将は、ジブラルタルから「グラモーガン」に座乗して既に南下しており、4月15日、空母部隊と合流した。搭載品の移載や会議を経て、4月18日、空母機動部隊はアセンション島を出港した
  また4月7日の時点で、イギリス政府は、12日4時(UTC)以降、フォークランド諸島周辺200 マイルに海上排除海域(Maritime Exclusion Zone: MEZ)を設定すると宣言していた。12日、原子力潜水艦「スパルタン」が排除海域で配備に入り、予定通りMEZが発効した。また15日には「スプレンディド」も配備に入った。「スパルタン」は東フォークランド島の近くを、「スプレンディド」はアルゼンチン本土の港湾とフォークランド諸島の中間になる海上排除区域の北方の哨戒水域を担当した

アルゼンチン軍の迎撃体制
  一方、フォークランド諸島ではアルゼンチン軍による防衛準備が進められ、歩兵部隊、装甲車両、レーダー設備、野砲や対空機関砲、対空ミサイル発射機などの兵力が輸送艦、輸送機により運び込まれた。4月12日以降のイギリス海軍の海上封鎖から大規模な揚陸はできなくなったものの、輸送機による空輸や小規模な海上輸送は続けられ、同島のアルゼンチン軍守備隊の総兵力は9000名を超えた。さらに制圧したスタンリー、グース・グリーン、ペブル島の各飛行場にアルゼンチン空軍第1、第3グループと海軍の第1・第4航空隊の軍用機約30機や陸軍の輸送ヘリ部隊が配備され、戦力の増強が図られた。軍用機はプカラ攻撃機イタリアアレーニア・アエルマッキ社製の軽攻撃機MB-339MB-326、アメリカのビーチエアクラフト社製のT-34Cターボメンター軽攻撃機等で編成された。
  また、アルゼンチン本国では空海軍の航空隊がフォークランド諸島に近いリオ・グランデ、リオ・ガジェゴス、サン・フリアン、トレリューなどの南部の基地に展開し、イギリス海軍への要撃準備が進められた。更に当時アルゼンチン海軍がフランスダッソー社から購入したばかりのシュペルエタンダール攻撃機に、同じくフランスのMBDA社から購入した空対艦ミサイルエグゾセAM39が5発搭載された。
サウスジョージア島奪還 (4月18日-25日)
詳細は「パラケット作戦」を参照
  アルゼンチン軍は、4月3日のサウスジョージア島占領ののち、駐屯軍として海兵隊員55名をグリトビケンとリースに配置した。また廃材回収業者39名が引き続きリースに残っていた。しかし同地は地理的に隔絶しており、特にイギリス軍潜水艦の哨戒下ではアルゼンチン海軍による支援を受けることも困難で、守るに難しい状況であった。このため、イギリス軍としては、まず同地を奪還することで、来るべきフォークランド諸島奪還へと弾みをつける心算であった
第317.9任務群の編成と事前偵察
  4月7日にはサウス・ジョージア島奪回のための部隊として、フリゲート「プリマス」と駆逐艦「アントリム」およびタイド型給油艦「タイドスプリング」によって第317.9任務群が編成され、のちにサウスジョージア島近海で氷海警備船「エンデュアランス」が合流、更に4月24日にフリゲート「ブリリアント」が合流した。上陸部隊は第42コマンドーのM中隊が割り当てられ、後に陸軍特殊空挺部隊(SAS)のD中隊と海兵隊特殊舟艇部隊(SBS)の1個分隊も追加された。作戦は「パラケット作戦」(Operation Paraquet)と名付けられたが、作戦参加者は、わざと文字を1字だけ変えて「パラコート(Paraquat)作戦」と呼んだ。これらの任務群を掩護するため、4月20日から25日の間、サウスジョージア島からアルゼンチン本土の沿岸までを、空軍のニムロッド哨戒機が哨戒したほか、原子力潜水艦「コンカラー」もサウスジョージア島沖を哨戒していた
  本隊の上陸に先立ち、まずSASがリースを、SBSがグリトビケンを偵察することになっていた。4月21日12時、リースを偵察するSAS分隊は、周囲の忠告を押し切って「アントリム」と「タイドスプリング」の艦載ヘリコプターによってフォーチュナ氷河に降下したが、おそるべき悪天と氷河の状態のために5時間弱をかけて500メートルしか進めず、4月22日10時に救出を要請した。ホワイトアウトの状態が続き、まず隊員の発見に難渋した上に、救出作業中に2機が墜落してしまった。幸い死者も重傷者もなく、残る1機は一度艦に戻って隊員を降ろしたのち、残されていた隊員と乗員を救出しようとしたが天候不良で二度も引き返し、三度目の挑戦でようやく救助に成功、1トン以上の過荷重状態で無事帰還した。またSBSのグリトビケン偵察も、強力な向かい風と、吹き寄せられた氷山によって阻まれ、失敗した
  4月23日には、SASの偵察隊員が、今度はボートによってストロームネス湾に潜入しようとしたが、極寒の環境で船外機がうまく動かず、5隻中目標に達したのは3隻のみで、1隻は外海に吹き出されてしまったところをヘリコプターで救出され、もう1隻は別の場所に吹き寄せられたのち3日後に救出された。しかし残る隊員は偵察活動を完遂した。
グリトビケンとリースの奪還
  アルゼンチン海軍最高司令官アナヤ大将は、サウスジョージア島について、将来は科学観測基地を設けてアルゼンチンの実効支配を示そうと考えていた。その後、イギリス艦艇がこの島に近付いているという情報が入ると、一度はこの島をあきらめ、部下には無抵抗で降伏するよう命じた。しかしその後考えを変えて、潜水艦「サンタ・フェ」によって、増援として約40名の海兵隊員を送り込むことにした。同艦は、4月21日にマル・デル・プラタ海軍基地を出発し、24日深夜にカンバーランド湾の入り口に到着し、25日の2時頃から約2時間をかけて、海兵隊員と補給物資をグリトビケンに揚陸した。しかし帰路、カンバーランド湾内で第317.9任務群のヘリコプターに攻撃されて行動不能になり、グリトビケンに戻って、キング・エドワード崎に乗り上げた。
  第317.9任務群では、この勢いに乗じるべきであると衆議一致した。この時点で、上陸部隊主力が乗艦する給油艦「タイドスプリング」は潜水艦脅威を避けて退避しており、上陸作戦は、駆逐艦・フリゲートに乗艦しているM中隊の指揮班と迫撃砲兵、そしてSASとSBSの特殊作戦部隊のみで行うことになった。まず13時より、「アントリム」と「プリマス」によってグリトビケンへの上陸準備射撃が開始され、続いて13時30分より寄せ集め部隊79名のヘリボーン展開が開始された。実のところ、艦砲射撃が始まるとすぐにアルゼンチン軍は白旗を揚げており、16時5分には接近した地上部隊がこれを確認し、16時30分にはイギリス国旗とイギリス海軍旗が掲揚された。この戦闘で両軍に死者・負傷者はでなかった
  引き続きリース奪還のため、17時15分、SASとSBSの隊員が「プリマス」と「エンデュアランス」に乗艦してリースのあるストロームネス湾へ派遣された。「エンデュアランス」艦長は無線で降伏を説得したところ、リースのアルゼンチン軍指揮官は、当初は「民間人は投降するが海兵隊員は戦う」と返答していたものの、21時45分には「決心を変え海兵隊員も降伏を準備している、イギリス軍指揮官は明日リースのサッカー場へヘリコプターで飛来して欲しい、そこで降伏の指示を受ける」と返答を変えた。イギリス側はいったんそれを認めたが、明朝、予定を変更して、武装解除したのち、上陸していたSAS・SBSの隊員のところに出頭するように命じた。その後、アルゼンチン側が夜のうちにサッカー場などに地雷を敷設していたことが判明し、イギリス側の判断の正しさが裏付けられた

航空・海上優勢を巡る戦闘
TEZの設定とスタンリー飛行場攻撃 (5月1日)
  4月12日より原子力潜水艦による海上封鎖が開始され、フォークランド諸島周辺にMEZが設定されていたが、空母戦闘群の到着に伴って、4月28日には、2日後の4月30日をもって、MEZをアルゼンチン航空機をも対象とする完全排除水域(TEZ)に強化することを宣言した。
  紛争勃発時点で海軍が保有していたシーハリアーは31機だけで、しかも2機が未引き渡しであった。艦隊の派遣にあたって、20機を機動部隊に配属して、8機を予備、4機を訓練・機材試験用に保持することとなり、第899飛行隊の保有機は第800・801飛行隊に分割されて配属され、下記のように配分された
  ・ハーミーズ - 第800飛行隊:12機・インヴィンシブル - 第801飛行隊:8機
  「ハーミーズ」のほうが大型であることから多くの機体を搭載しており、後に空軍のハリアーが派遣された際も同艦に搭載された
  5月1日早暁、空軍のバルカン戦略爆撃機による爆撃の直後より、「ハーミーズ」の第800飛行隊のシーハリアーによる攻撃が行われた。「インヴィンシブル」は小型で搭載機数が少ない一方でレーダーが近代的であったことから防空艦に指定され、同艦の第801飛行隊は艦隊防空のための戦闘空中哨戒を担当した。攻撃を終えたシーハリアーを収容すると空母戦闘群は離脱していったが、駆逐艦「グラモーガン」、フリゲート「アロー」および「アラクリティ」は分派されて、ポート・スタンリー周辺のアルゼンチン軍守備隊に対し艦砲射撃を行なった。3隻は13時25分に射撃を終了し、離脱中にアルゼンチン空軍のダガー攻撃機3機による爆撃を受け、「アロー」の乗員1名が腕に負傷し、3隻とも軽度の損傷を受けたものの、重大な損害はなかった
  一方、空戦が本格化したのは午後遅くからであった。まず戦闘空中哨戒(CAP)中のシーハリアー2機がアルゼンチン空軍のミラージュIIIEA戦闘機2機と交戦し、ミラージュ1機が撃墜され(パイロットは脱出)、中破した1機もスタンリー飛行場に不時着しようとしたところを味方の対空砲に誤射されて撃墜された(パイロットは戦死)。またその数分後には、アルゼンチン空軍のダガー攻撃機2機がシーハリアー2機と交戦し、ダガー1機が撃墜された。その更に数分後には、アルゼンチン空軍のキャンベラ爆撃機3機がシーハリアー2機と交戦し、キャンベラ1機が撃墜された。これらの撃墜はいずれもサイドワインダー空対空ミサイルによるものであった
第79任務部隊の攻撃の試みと挫折 (4月30日-5月2日)
  4月5日より、アルゼンチン海軍はイギリス海軍との決戦に備えて大規模な艦隊の再編成を行い、主要な戦闘艦艇および補助艦艇は第79任務部隊として再編された。4月30日、この任務部隊は、下記の3つの任務群に分割されてそれぞれの作戦海域に配備された。
  ・第79.1任務群 - 航空母艦「ベインティシンコ・デ・マヨ」および駆逐艦4隻
  ・第79.3任務群 - 巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」、駆逐艦2隻および給油船
  ・第79.4任務群 - コルベット3隻
  第79任務部隊指揮官アララ准将は「ベインティシンコ・デ・マヨ」に乗艦しており、5月1日、同艦搭載のトラッカー哨戒機がイギリス空母戦闘群を発見したことで、同日23時7分(UTC)、攻撃作戦の開始を命じていた。作戦では、第79.1任務群と第79.3任務群によってイギリス空母戦闘群を挟撃することになっていた。しかし5月2日1時(UTC)以降、風はどんどん弱くなっており、「ベインティシンコ・デ・マヨ」の航空艤装では、スカイホーク攻撃機を発艦させることは困難になっていた。また同日3時30分(UTC)、イギリスのシーハリアー艦上戦闘機が飛来し、アララ准将は、自らの位置が曝露したものと信ずるに至った。4時45分(UTC)、アララ准将は作戦の続行を断念し、各任務群は、イギリスの潜水艦を避けるため、浅海域に戻ることになった。
  一方、イギリス軍は実際には第79.1任務群の位置を把握していなかったが、第79.3任務群は、5月1日14時(UTC)以降、原子力潜水艦「コンカラー」によって追尾されていた。同群はTEZに入らず、その外縁部を沿うように進んでいた。すなわち「ヘネラル・ベルグラーノ」はTEZの外にあったが、一方でこの巡洋艦は元々ブルックリン級軽巡洋艦フェニックス」として第二次大戦前の1938年にアメリカ海軍で就役した艦であり、旧式艦とはいえ強力な艦砲装甲を備えていたため、通常の水上戦闘艦の4.5インチ砲やエグゾセ艦対艦ミサイルでは対抗できず、対処には潜水艦の長魚雷かシーハリアーの1,000ポンド爆弾が必要となるので、もし針路を変更してTEZに突入してきた場合、重大な脅威となることが予想された。このため、イギリス軍にとって、これを攻撃するべきか否かは懸案事項となり、最終的にサッチャー首相の認可を受けて交戦規定(ROE)が変更され、攻撃が認可された。
  「コンカラー」の通信装置の不調のために命令文の受領には時間がかかったが、5月2日17時10分(UTC)までに攻撃する意思を示す電報を送信し、18時13分(UTC)、「コンカラー」は戦闘配置についた。第79.3任務群は同艦の存在に気付いていなかったものの、緩やかに蛇行しながら前進していた。18時57分(UTC)までに、理想的な位置である「ヘネラル・ベルグラーノ」の左艦首1,400 ヤードに占位し、「コンカラー」は、Mk8魚雷3発を斉射した。このうち2発が命中し、「ヘネラル・ベルグラーノ」は撃沈された。荒天のために救助活動は難航し、850名が救助されたものの、321名が戦死した
  第79任務部隊が大陸棚の浅海に戻って以降、紛争が終わるまでの間、アルゼンチン海軍の水上戦闘艦は現存艦隊主義に徹し、二度と出撃してくることはなかった。「ベインティシンコ・デ・マヨ」の艦載機は搭載解除され、ほぼすべての航空機は陸上基地に配置され航空作戦全般に参加することになった
イギリス駆逐艦「シェフィールド」の沈没 (5月4日)
詳細は「シェフィールド (駆逐艦)#フォークランド紛争」を参照
  5月4日11時15分(UTC)、アルゼンチン軍のP-2哨戒機が1隻の駆逐艦のレーダー波を逆探知し、「ハーミーズ」がフォークランド諸島の東方にいると考えられたことから、30分以内にエグゾセAM39空対艦ミサイルを1発ずつ搭載したシュペルエタンダール攻撃機2機がリオ・グランデ基地を発進した。14時(UTC)、この編隊は3隻の42型駆逐艦を発見した
  このとき発見された駆逐艦は、主隊の西18海里で防空任務にあたっていた「グラスゴー」「コヴェントリー」「シェフィールド」であった。5月1日のスタンリー飛行場攻撃作戦の際にアルゼンチン空軍が大きな損害を出したことから、反撃を予想して、「グラスゴー」の艦長は日中のSCOT衛星通信装置の使用を禁止するなど警戒を強めていた。13時56分(UTC)、「グラスゴー」の電波探知装置は、シュペルエタンダールの機上レーダによる掃引(レーダー波)を探知し、ただちに僚艦に急報した。しかしシュペルエタンダール(エグゾセ搭載可能)とミラージュIII(エグゾセ搭載不能、通常爆弾のみ)の機上レーダの信号パターンはよく似ており、5月1日には取り違えによる誤警報も何回かあったことから、「シェフィールド」や「インヴィンシブル」の対空戦調整室では、今回もミラージュIIIであろうと判断していた。また「シェフィールド」はSCOT衛星通信装置を作動させていたため、自身の電波探知装置は使えなくなっていた
  13時58分(UTC)、「グラスゴー」は目標を再探知し、14時(UTC)に対空戦闘配置を下令、チャフを発射した。このためにシュペルエタンダールは右に逸れて、「シェフィールド」を捕捉することになった。シュペルエタンダールは計2発のエグゾセAM39ミサイルを発射したが、うち1発は海面に突入した。残り1発のミサイルは順調に飛行を続け、14時3分(UTC)、「シェフィールド」に命中した。命中の15秒前、艦橋の当直士官が2つの煙を視認したが、最後までエグゾセAM39ミサイルの飛来は理解されず、ソフトキル・ハードキルのいずれも試みられることはなかった。弾頭は爆発しなかったものの、固体燃料ロケットの燃焼によって大火災が生じ、電源の喪失や消防ポンプの機能喪失によって消火活動の遂行も困難となりシーダート対空ミサイルの弾薬庫に誘爆の恐れが生じたことから、21時(UTC)、総員退去が下令された
ブラックバック作戦 (5月1日-6月12日)
詳細は「ブラック・バック作戦」を参照
  イギリス空軍は、任務部隊にハリアーやヘリコプターを提供するとともに、長い航続力を持つ固定翼機をアセンション島に進出させ、掩護や哨戒を行なっていた。このとき展開した航空機には、アブロ バルカン戦略爆撃機4機が含まれていた。NATOの作戦では空中給油の必要がほとんどなかったため、バルカン戦略爆撃機は空中給油装置を取り外していたが、この事態を受けて、直ちに再装備していた
  5月1日の第1次ブラックバック作戦で、この空中給油装置が活かされることになった。バルカンはアセンション島を発進したのち空中給油を重ね、16時間をかけてスタンリー飛行場上空に進出し、21発の爆弾を投下して、1発が滑走路に命中してクレーターを作ったほか、空港施設や駐機していた航空機にも損害を与えた
  この5月1日の爆撃作戦は、直接的な戦果は乏しかったものの、アルゼンチン軍の意思決定に多大な影響を与えたという点で意義が大きかった。バルカン戦略爆撃機によるアルゼンチン本土攻撃の可能性がにわかに注目されることとなり、この時を境に、アルゼンチン本土の脅威がアルゼンチンの計画における主題の1つとなった。これによって、アルゼンチン空軍の最有力の戦闘機であるミラージュIIIEAは本土防空のために拘置されることになり、ミラージュIIIEAとシーハリアーの本格的な空中戦は5月1日の戦闘が最初で最後の機会となったのであった
  またウッドワード提督は、シーハリアーの機数と攻撃能力の不足から、引き続きバルカン戦略爆撃機による爆撃を要望していた。「ヘネラル・ベルグラーノ」などの撃沈に対する反撃として、スタンリー飛行場にシュペルエタンダールを展開するのではないかという懸念もあり、飛行場に対する攻撃を継続することになった

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