ウイグル問題-1



2020.9.17-産経新聞 THE SANKEI NWES-https://www.sankei.com/world/news/200917/wor2009170028-n1.html
中国、ウイグル族の「強制労働」非難に反論

  【北京=西見由章】中国国務院(政府)新聞弁公室は17日、新疆ウイグル自治区の「労働就業保障」白書を発表した。少数民族ウイグル族らに、中国当局が強制労働させているとの米欧諸国の非難に反論するのが狙い。白書は「いかなる形式の強制労働も予防・排除している」と主張した。
  白書によると、昨年の自治区内の就業人口は約1330万人。14年比で17・2%増加した。年平均で128万8千人の労働者に職業訓練を実施したという。
  米国務省は中国で17年以降、ウイグル族など100万人以上が収容施設に強制的に入れられていると指摘したが、中国側はこの施設を「職業技能教育訓練センター」と主張している。
  白書によると14年以降、11万7千人が「より高収入を得られる」他省や直轄市で就業した。中国語や職業技能などの訓練を自治区内で実施した後、労働者を送り出したとしている。
  一方、オーストラリアのシンクタンクは今年3月、8万人以上のウイグル族が自治区外の工場に移送されており、強制労働の懸念が強いと指摘する報告書を発表した。米当局もウイグル族らの「強制労働」に関与した中国企業に対する禁輸措置を取っている。


2020.8.1-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200801/amp/k10012544821000.html
米 ウイグル自治区の治安維持組織と幹部に制裁 米中で応酬続く

  アメリカは中国の新疆ウイグル自治区で深刻な人権侵害に関わったとして、自治区の開発や治安維持を担う組織とその幹部ら2人に制裁を科すと発表しました。
  アメリカと中国の間では制裁の応酬が続いています。トランプ政権は31日、新疆ウイグル自治区でウイグル族を大勢拘束するなど深刻な人権侵害に関わったとして、自治区特有の組織である「新疆生産建設兵団」とその幹部ら2人を対象に、アメリカ国内の資産の凍結やアメリカへの渡航制限などの制裁を科すと発表しました。
  新疆生産建設兵団は66年前に防衛や開拓のために組織され、経済開発、行政、治安維持を担ってきた自治区の重要な組織です。
  ポンペイオ国務長官は声明を発表し、「制裁は人権侵害を抑止するためであり、各国がともに中国を非難するよう求める」と呼びかけました。
  トランプ政権は7月、新疆ウイグル自治区のトップら4人に同様の制裁を科し、これに対して中国は、アメリカの対中強硬派の上院議員ら4人に同じ内容の制裁を科す対抗措置を打ち出しました
  今回の措置はアメリカが制裁の範囲をさらに広げるもので、激しく対立する米中の間で制裁の応酬が続いています。


2020.6.11-産経新聞 SANKEI NEWS WEB-https://www.sankei.com/world/news/200611/wor2006110012-n1.html
「中国収容施設に100万人以上」 米国務省、信教の自由に関する年次報告書

   【ワシントン=住井亨介】米国務省は10日、世界の信教の自由に関する2019年版報告書を発表した。中国新疆ウイグル自治区で暮らすイスラム教徒の少数民族、ウイグル族などへの中国の対応について言及し、17年以降でウイグル族など100万人以上が収容施設に入れられているとの見方を示した。
   ポンペオ国務長官は記者会見で、「中国ではすべての宗教に対して政府主導による弾圧が引き続き激しい状況にある」と非難。「中国共産党は宗教団体に対して、党指導部に従うとともに共産主義の教義を信仰に取り込むよう命じている」と指摘した。
   報告書では、イスラム教だけではなく、キリスト教や仏教などの施設が中国当局によって破壊されているほか、雇用や住宅環境などの面で社会的な差別も激しいとしている。


2020.3.12-産経新聞 SANKEI NEWS WEB-https://www.sankei.com/world/news/200312/wor2003120016-n1.html
ウイグル族弾圧を非難 米人権報告書

 【ワシントン=住井亨介】米国務省は11日、世界約200カ国・地域を対象とした2019年版の国別人権報告書を公表した。報告書は中国政府が新疆ウイグル自治区で少数民族ウイグル族らイスラム教徒の大量収容を続けているとし、ポンペオ米国務長官は「世紀の汚点」だと改めて非難した。
   報告書は中国政府の弾圧で「100万人以上」が収容所に入れられているとの見方を紹介。ポンペオ氏は「よりよき未来を求める中国の市民は暴力の憂き目に遭っている」と述べた。
   報告書は香港で続く「逃亡犯条例」改正問題に端を発する抗議デモに関し、「警察当局によるデモ参加者への残虐行為」など重大な人権問題があると指摘した。
   イランについてはメディア情報をもとに、昨年11月にガソリンの値上げをきっかけに起きたデモで、治安当局が約1500人を殺害し、約8600人を拘束しているとした。


新疆生産建設兵団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


新疆生産建設兵団(しんきょう)は、中華人民共和国西部新疆ウイグル自治区開墾と辺境防衛を行う準軍事的政府組織与えられている役割はタクラマカン砂漠など辺境地域の開発、経済開発、社会の安定と調和の保証、東トルキスタン独立運動への弾圧。中規模の都市に駐屯し、駐屯地の行政を行う当局、いわゆる屯田兵である。兵団第一政治委員は中央政治局局員、新疆ウイグル自治区党委書記である陳全国が兼任する。兵団政治委員、司令員は自治区党政副職を兼任し、国務院が任命する(正省級、中央委員)。中央政府と新疆ウイグル自治区の両者の指揮下にあり,司法及び行政は自治区政府の管轄下にある。総部はウルムチ市。所属する団員の内約88%が漢族で、兵団全体の総人口は258万人あまり。GDPは380.16億元で2005年より12.6%増、1人辺り14,766元となっている(国家統計局『新疆生産建設兵団2006年国民経済と社会発展統計公報』から)
歴史
  1952年、中国の安定に伴い新疆に駐屯していた中国人民解放軍第2軍、第6軍、第15軍の大部分約10万人が開墾と辺境防衛任務を与えられたのに始まる。1954年には中央から正式に新疆軍区生産建設兵団の名称を与えられた。国民党軍や旧東トルキスタン共和国イリ民族軍の出身者も少なくなく、初代司令官に国民党政権時代の新疆警備総司令である陶峙岳が就いた。開墾地は国営農場となった。中心地は石河子市に所在する。1956年12月には全員が復員手続きを取って軍籍を離れた。
  1960年代にソ連との関係が悪化すると多数の構成者がソ連に逃亡してしまい、全国各地から補充を行い、1966年までに148万人を有するようになった。ただ、文化大革命で攻撃を受け1975年までには兵団経済は崩壊の危機に瀕し、最終的には全ての機構が地方政府の農墾局の管理するところとなった。
  1981年10月、イラン革命やソビエト連邦のアフガニスタン侵攻東トルキスタン独立運動イスラム原理主義などを背景に初代政治委員の王震新疆生産建設兵団の再建を鄧小平に提案し、新疆ウイグル自治区情勢の安定を図るためこれが承認される。
  2005年7月、兵団内で暴動が発生していると報じられた。1950年代に強制的に新疆ウイグル自治区に内地から徴発された漢族が、原籍に戻りたいと求めたものの拒否されたためといわれている。
  米国は2020年7月31日、新疆ウイグル自治区でウイグル族を大勢拘束するなど深刻な人権侵害に関わったとして、新疆生産建設兵団とその幹部ら2人を対象に、アメリカ国内の資産の凍結やアメリカへの渡航制限などの制裁を科すと発表しました。
所属各師団
  新疆生産建設兵団の人員は元々その大部分が中国人民解放軍第1野戦軍の第1兵団と第22兵団から転籍したものだった。現在、兵団は傘下に14個師団(うち建築工程1個師団含む)及び農牧団場185カ所(うち建築工程団11団)を1950年以前は荒れ地だった新疆ウイグル自治区の全体に配備されている。
師市合一
  新疆生産建設兵団の駐屯が長期化するに当たり、地方政府に対し納税義務の有無を明確にする必要があった。兵団は第八師師団本部が実質的に石河子市政府そのものとなった例を適用し、第一師、第三師、第六師、第十師がそれぞれアラル市、トムシュク市、五家渠市、北屯市の各県級市を創設しそれぞれの市政府を兼ねる形とした。つまり市政府委員会書記は同時に師団政治委員を兼ね、市長は同時に師団長を兼ねる。この制度を「師市合一」と呼ぶ。
軍団の概要
  1954年に設立された新疆生産建設軍団は、州によって付与された国境を再利用および擁護する責任を負っています。州の管轄下で、州および新疆ウイグル自治区の法律および規制に従って、開拓地で独自の行政および司法業務を管理します。個別の計画を実施する特別な社会組織は、中央政府と新疆ウイグル自治区の人民政府の二重のリーダーシップのもとにあります。新疆生産建設部隊は、チャイナニューグループコーポレーションとしても知られています。XPCCには14の部門(開拓地)、174の農場と農場、4,391の産業、建設、輸送、および商業企業があり、科学的な研究、教育、文化、健康、スポーツ、金融、保険、その他の社会事業および司法機関があります。総人口2,453,600人、従業員数933,000人
    新疆生産建設軍団は特別な歴史的背景の下に設立されました。1949年、新疆は平和的に解放されました。国境防衛を統合し、新疆の開発を加速し、地方自治体と新疆のすべての民族グループの人々の経済的負担を軽減するために、新疆に駐留する人民解放軍は主力を生産と建設に投入し、大規模な生産と建設を行った。1954年までに、新疆に駐留する人民解放軍は34の農場、8つの牧草地、77.2千ヘクタールの耕地を建設しました。収穫された農牧畜産物は、新疆に駐留する兵士にロジスティクスの供給を提供し、また、いくつかの近代的な産業および鉱業活動を構築しました。商業および商業企業は、学校や病院などの多くの機関を設立しています。
    1954年10月、中央人民政府は、新疆に駐留しているほとんどの人民解放軍に、その場で職を移し、国防軍から脱却し、生産および建設軍団を編成するよう命じました。その使命は、労働力と軍事力を組み合わせ、国境を開放し、守ることです。1956年5月以来、XPCCは農業再生省と新疆ウイグル自治区の二重のリーダーシップのもとにあります。
    国境の再生と防衛は、数千年にわたる中国の開発と国境の防衛の歴史的遺産です。歴史的な記録によると、中国の王朝と王朝は、国境の駐留と開拓を国境防衛の開発と強化のための重要な国家政策と見なしてきました。中央政府による新疆の国境の大規模な開拓は、西漢時代に始まり、その後の世代が続いた。これは国を統一し、国境防衛を強化し、新疆の社会的および経済的発展を促進する上で重要な歴史的役割を果たしてきました。1954年、中央人民政府は新疆に生産および建設軍団を設立することを決定しました。これは、新しい歴史的条件の下でのこの歴史的経験の継承と発展です。 

    新疆の生産建設部隊は、懸命な努力を通じて発展し拡大しました。新疆生産建設軍団の設立後、その使命はフロンティアを開拓し、新疆のすべての民族グループの人々に利益をもたらすことであり、産業、農業、ビジネス、教育、兵士の統合、農業、林業、畜産、副業漁業の包括的な開発、および産業、輸送、貿易の包括的な管理に向けて動いていました。
    1950年代から1960年代初頭に、XPCCは天山山脈の北と南のタクラマカンとグルバンタングート砂漠の端に、そして厳しい自然環境との国境に沿って、「人々と利益を得るために競争しない」という原則に従って、水利プロジェクトを建設しました。荒地を再生し、広大なゴビ砂漠にオアシスの生態学的経済ネットワークを構築する。フィールド、運河の垂直方向と水平方向、森林地帯のネットワーク化、道路の遮断なし。XPCCは、農産物と副産物の加工産業から始まり、近代産業を発展させ、軽工業と繊維を主力とし、鉄鋼、石炭、建築材料、電力、化学薬品、機械などの産業システムを徐々に形成しました。XPCCの国家経済システムの確立に伴い、XPCCの教育、科学技術、文化などのさまざまな取り組みも大きな進歩を遂げました。1966年末までに、XPCCのさまざまな事業がより高いレベルに発展しました。
    中央政府は1981年12月、1975年に廃止された新疆生産建設部隊を復旧することを決定した。生産建設部隊は2番目のベンチャーを開始し、その建設と開発は新しい時代に入った。2001年までに、新疆生産建設隊は2つの砂漠の端に水利保護区、植林、風と砂の固定を建設し、数千キロメートルの緑の障壁を建設し、1064千ヘクタールの新しいオアシスを形成し、石河子、五家quなどを建設しました。新興都市や町の承認、GDPは自治区の13.2%を占めています。
    新疆生産建設部隊は新疆の発展に重要な役割を果たしてきました。XPCCの農牧牧場、産業、運輸、建設会社は法律に従って地方政府に税金を支払い、新疆のすべての民族グループの人々に数十年にわたって奉仕し、地元の建設を積極的に支援し、多数の技術者を近くの郡や町に送り、村は、高度な技術を促進するために、植栽と農業機械に関するさまざまなトレーニングコースを開催しています。1964年以来、地元の計画と建設を支援し、あらゆる民族グループの人々に医療と医学を提供し、あらゆる面で支援を提供するために毎年資金を集めています。新疆の産業の発展を支援するために、XPCCはまた、すでに自治体に無料で建設された多数の産業、輸送、建設会社を引き渡しており、それによって自治区の近代化に貢献しています。

    新疆ウイグル自治区の安定と国境防衛のための重要な力として、XPCCは労働力と軍隊の組み合わせを厳守し、陸軍、武装警察、国民との国境地域に4つの一体型防衛システムを確立しています。過去50年間で、それは国内外の分離主義勢力の妨害活動と侵入活動に対抗して抵抗し、祖国の国境の安定と安全を守る上でかけがえのない特別な役割を果たしてきました。
    国境の開拓と擁護の過程で地方政府との緊密な関係を確立する。XPCCは、自治区の人民政府のリーダーシップを自覚的に受け入れ、政府の規制や法令を遵守し、少数民族の習慣や宗教的信条を尊重し、新疆のすべての民族グループの人々のために善良で実践的なことをするよう努め、統合経済を積極的に発展させ、すべての民族と緊密な協力関係を維持しています。民族の人々の肉と血のつながりは、フロンティアが一緒に保護され、リソースが共有され、補完的な利点と共通の繁栄を確実にします。
    XPCCの開発は、自治区のすべてのレベルの政府とすべての民族グループの人々によって常に支援され、サポートされてきました。開拓の初期には、すべての民族グループの大衆がガイドとして行動し、生産ツールを提供し、さまざまなサポートを提供していました。自治区のすべてのレベルの政府は、国有の荒地と草地、鉱山、自然林の広い範囲を軍団に割り当て、軍団の発展の基盤を築きました。改革開放以来、自治区人民政府が発表した多くの政策がXPCCに明確に適用され、XPCCと地方経済の統合と発展を促進してきました。
    長期的な開発では、新疆生産建設軍団は、ハン、ウイグル、カザック、ホイ、モンゴルなど37の民族グループを擁しています。干拓地には主にイスラム教、仏教、キリスト教、カトリックなどがあり、イスラム教を信仰する少数民族の人口は約25万人です。新疆生産建設軍団は、中央政府が策定した民族的および宗教的政策を完全に実施し、法律に従って宗教業務を管理し、軍団をすべての民族グループが団結した大きな家族にします。
    過去50年間の新疆生産建設軍団の発展は、新疆の経済発展を加速させ、民族の統一を促進し、社会の安定を維持し、国境防衛を強化し、祖国の統一を維持する上で非常に重要な役割を果たしてきました。 


ウイグル
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  ウイグルは、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族とその国家、及びその後裔と称する民族(あるいは現今の政治的必要性から自ら「ウイグル」と名乗る民族)を指す。現在は中国の新疆ウイグル自治区やカザフスタンウズベキスタンキルギスなど中央アジアに居住しており、人口は約1千万人テュルク諸語のウイグル語を話すムスリムである
「新疆」
  現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼んだが、マーワラーアンナフルタリム盆地のオアシス都市の住民は、都市国家単位での緩い民族名称しかもたず、異教徒に対してはムスリム、他所者に対してイェルリク(土地の者)と呼ぶ程度であった。  モンゴル帝国、ジュンガルへの服属を経て、18世紀半ばにジュンガルを清朝が滅ぼすと、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」また「失った土地を取り戻す」を意味する「新疆」と呼ばれた。その後ロシアが中央アジアに進出し、1881年にトルキスタンを併合すると、清朝は1884年にタリム盆地・ジュンガル盆地を纏めて新疆省を設置した(1884-1955年)。
ウイグル(維吾爾)
  1921年、ソ連トルキスタン地方のタリム盆地出身者が「ウイグル」という呼称を用い始めたことをうけて、親ソ派でタリム盆地・ジュンガル盆地・東トルキスタン(イリ地方)一帯に独立的な軍閥を形成した盛世才政権が、1934年に「ウイグル」という呼称と「維吾爾」の漢字表記を定めた。この呼称は中華人民共和国にも引き継がれている(維吾爾族、维吾尔族)。
民族・定義
ウイグル語テュルク諸語であるため、ウイグル人はテュルク系民族に属する。なお、テュルク系民族(トルコ民族)とは、「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥鉄勒、ウイグル、カルルクバスミル沙陀族などを一括りにした呼称」と定義される
  森安孝夫(歴史学者)は、古代のテュルク民族は唐代まではそのほとんどが黒髪、直毛、黒目のモンゴロイドであったとしている。唐代末期にモンゴリアアルタイ地域を本拠としていた回鶻(ウイグル・カガン国)が崩壊し、遺民の一部が甘州や天山山脈一帯からタリム盆地へ移動する。それによって、タリム盆地に先住していたトカラ語や西南部の東イラン語の話者がテュルク語化した。なお、テュルク民族が先住の非古テュルク語話者[17]の住民を虐殺したのではなく、共存していたといわれ、形質的特徴も多様である。

  こうした言語からの民族の定義ではなく、近代的民族概念の観点からすれば、当時の住民は同じ民族意識をもっていたわけではない[16]。たとえば、「民族集団」としてはモンゴル時代に被支配集団となったウイグルの残部でイスラム化したタリム盆地周辺のトルコ(テュルク)人や、カラハン朝下でイスラム化したトルキスタンのトルコ人は、それぞれの居住地であるオアシス都市ごとに自己認識していた(「トルファン人」、「クチャ人」、「カシュガル人」、「サマルカンド人」、「ブハラ人」など)。このようにタリム盆地周辺のオアシス定住民は固有の民族名称を持たず、異教徒に対しては「ムスリム」、異邦人に対しては「イェルリク(土地の者)」と自己を呼称していた。
  20世紀に入って、ロシア革命により成立したソビエト政権は、民族政策として「民族別の自治」を掲げた。トルキスタンでも遊牧諸集団やオアシス都市の定住民の間に「民族的境界区分」が引かれ、諸民族が「設定」されていった。当時、トルキスタンには、1881年イリ条約の締結の際にロシア領に移住したイリ地方の東トルキスタン出身者が多数いたが、彼らは東トルキスタンの政治的統一を志向する際に、古代の「ウイグル」という民族呼称を再び見出し、1921年のアルマ・マタ会議で民族呼称として決定される。森安孝夫によれば、このとき「本来ウイグルではない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までもウイグルと呼ぶようになった」として「新ウイグル」は「古ウイグル」は異なるとしている
  この呼称は中華民国統治下の新疆省にも知られるようになり、1934年盛世才政権は従来当局が用いていた「纆回(ぼくかい)」からウイグルの音写である「維吾爾」への改称を決め、省府議会で正式にこの民族呼称を採用させた。「維吾爾」という漢字表記も正式に確定し現在に至っている。

中華人民共和国政府による新疆接収
人民解放軍によるウイグル接収

  1949年国共内戦を制した中国共産党は、新疆の接収を行うために、鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京政治協商会議に招いた。しかし、8月27日北京に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ、アブドゥルキリム・アバソフイスハクベグ・モノノフ、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、デレリカン・スグルバヨフらイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内アルマトイで消息を絶った。
  首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。
  12月までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された(新疆侵攻)。ウイグル族とソ連領中央アジア出身者、モンゴル族シベ族回族で構成された東トルキスタン共和国軍(イリ民族軍)を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル族のユルバース・カーンは白系ロシア人と中国人ムスリムの軍(帰化軍)を率いていた。
  1950年伊吾で国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧した(伊吾の戦い)。これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。この後、民族名称はウイグル族(维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている。
  中国政府は1950年ごろ、新疆ウイグル自治区に漢族を中心とする新疆生産建設兵団を大量に入植させた。その後、入植当初人口7パーセントだった漢族1991年には40パーセントになり、ウイグル族に匹敵する割合となり、駐留する人民解放軍とあわせるとウイグル人よりも多いとも言われる。

新疆ウイグル自治区の設置(詳細は「新疆ウイグル自治区」を参照)
1955年には中華人民共和国で2番目の自治区新疆ウイグル自治区が設置された。

1990年代
1990年にはウイグル人住民のデモに対して武装警察が発砲し、15名(数十名とも)が射殺されるバリン郷事件がおきている。
1991年にはウイグル人作家トルグン・アルマスの著作『ウイグル人』が、「大ウイグル主義的」「民族分裂主義的」であることを理由に発禁処分となり、著者も軟禁状態に置かれた
  バリン郷事件以降、反政府とみられるテロ事件も相次いでいる。1997年にも大規模なデモが発生し、鎮圧に出動した軍隊と衝突して、多くの死傷者を出したグルジャ事件が発生している。
  1996年中国人民政治協商会議全国委員を務める実業家のラビア・カーディルが政治協商会議で漢族によるウイグル人抑圧を非難する演説を行うが公安当局の間で問題となりラビアは1997年に全ての公的役職から解任された。ラビアの夫で作家のシディク・ハジ・ロウジが行った書籍のウイグル語訳が当局より問題視されたといわれるが、シディク・ハジ・ロウジは1996年に米国に亡命した。
  1999年8月13日、公安当局は、ウルムチ市内に滞在していた米国議会関係者に接触しようとしたラビアを国家機密漏洩罪で逮捕し、米国に亡命した夫に対して「不法に機密情報を漏洩した」として懲役8年の実刑判決を下した。
  1997年グルジャ事件以降はアフガニスタンパキスタンに逃れたウイグル族もいたが、アメリカのアフガニスタン侵攻の際に米軍による拘束やパキスタン政府の引き渡しによってキューバグアンタナモ湾収容キャンプに収監された。
  また1999年1月より漢族の作家王力雄が新疆の民族問題に関する著作執筆のため、新疆ウイグル自治区で資料収集を開始すると、同年1月29日に新疆自治区国家安全庁(上級機関の国家安全部は旧ソ連のKGBに相当する諜報機関)に国家機密窃取の容疑で拘束(法手続きを踏んだ正式な逮捕ではない)され、42日後に解放された。その経緯を『新疆追記』にまとめ、インターネット上で公表した。王力雄はその後、ウイグル問題に関する調査をもとに2007年10月『我的西域、你的東土』(邦題:私の西域、君の東トルキスタン)を台湾で出版した。

2000年代
上海協力機構
  中国政府は、中央アジア諸国の在外ウイグル人社会が、ウイグル民族運動の拠点となっていることを警戒し続けており、1996年には上海ファイブ2001年には上海協力機構を設立し、国内のイスラーム原理主義勢力の伸張を警戒するロシアや中央アジア諸国と共に、分離主義、イスラーム過激主義に対する国際協力の枠組みを構築した。
  また、2001年9月11日の米国での同時多発テロ事件以降、中国政府はブッシュ政権の唱える「対テロ戦争」への支持を表明し、ウイグル民族運動と新疆におけるテロを結びつけて、その脅威を強調している。
公教育における漢語使用の義務化
  2003年には、これまで少数民族の固有言語の使用が公認されてきた高等教育で、漢語の使用が中国政府によって義務付けられた。
  2005年ライス米国国務長官の訪中を控え、米国から人権問題での批判を受けることを恐れた中国政府は、2005年3月14日に「外国での病気療養」を理由にラビア・カーディルを釈放。ラビアは米国に亡命し、のち世界ウイグル会議議長に選出され、2006年にはノーベル平和賞候補にもなった。
2009年ウイグル騒乱前後(詳細は「2009年ウイグル騒乱」を参照)
  2008年3月には、新疆南部のホータン市で、600名を超える当局への抗議デモが発生し、2009年6月には、広東省韶関市の玩具工場で漢族従業員とウイグル人従業員の間で衝突が起き、死者2名、負傷者120名を出し、翌7月には、事件に抗議する約3,000名のウイグル人と武装警察が、ウルムチ市内で衝突し、140名が死亡、800名以上が負傷した(2009年ウイグル騒乱)。ラビア・カーディルは、事件以降、ウイグル人1万人が行方不明となっており、死者は197人でほとんどが漢民族とする中国側の発表は信用できないと述べている。

  2014年のウルムチ駅爆発事件以降「テロとの戦い」(厳厲打撃暴力恐怖活動専項行動、厳打高圧)を名目に当局は新疆ウイグル再教育キャンプなど徹底的な管理統制の構築に乗り出し、様々なハイテクを用いて一挙手一投足を住民は監視されていることから「世界でも類のない警察国家」「完全監視社会の実験場」が築かれてると欧米メディアや人権団体は批判している。
  2015年8月17日と18日、タイの首都バンコクで死者20名、負傷者125名(うち邦人1名)を出す連続爆破テロ事件が起こった。タイ政府は、事件の1カ月前、亡命を目指していたウイグル族109人を中国に強制送還していた為、これに対する報復テロではないかとの見方が広がっている。また、タイと同じ軍事政権のエジプトなどでもウイグル族の中国への強制送還が相次いでることは問題となっている
  2019年、ウイグル族の収容所の実態が報道され始め、証言や衛星写真の裏付けなどから収容規模は数十万人とも推測されるようになった。これら報道に対して中国側は、白書を通じて反論して主張は平行線をたどった。2019年9月23日、国連総会に合わせてアメリカ国内で開催された宗教弾圧に関する会合では、マイク・ペンス副大統領やジョン・J・サリバン国務副長官らが、中国によるウイグル族への弾圧について批判を行った。これに対して中国側は乱暴な内政干渉だとしてアメリカ側の姿勢に強く反発した

資源
  ウイグルは石油天然ガスの埋蔵量が豊富で、1980年代後半から探査が本格的に開始された。1988年11月以降、タリム盆地で未開発の油田としては世界最大級の油田群が発見される。可採埋蔵量は100億バレル以上とされ、確認埋蔵量は原油で60億トン、天然ガスで8兆立方メートルとされているが、油田地帯がばらばらで地質構造も極めて複雑であることから、ブレは大きいものと考えられている。
  新疆の石油と天然ガスの埋蔵量は、それぞれ中国全体の埋蔵量の28%と33%を占めており、今日では油田開発が新疆の経済発展の中心となっている。西部大開発政策や西気東輸プロジェクトによって開発を促進し、1990年代後半からパイプライン敷設や送電線建設などが活発化している。これには、中国国内最大の油田であった黒竜江省大慶油田の生産量が21世紀に入って減少してきたために、新疆の油田の重要性が相対的に増していることも関連している。2008年には新疆最大級の油田があるカラマイが一人当たりのGDPが中国本土で最も高い都市となった
日本との関係
  ウイグル地域に日本人がはいったのは、1880年の大日本帝国のロシア駐在公使の西徳二郎がはじめてとされる。1902年から1908年および1910年にかけては大谷探検隊が入った。1905年には上海亜同文書院二期生の波多野養作林出賢次郎桜井好幸が入っている。1906年には参謀本部将校の日野強上原多市が入った。このうち上原多市の現地での活動については不明な部分が多いが、中国側資料によれば、1907年にイリで陸軍武備速成学堂を設立した際に、軍事教官として日本人の「原尚志」を任命したという記録があり、これが上原ではないかと推定されており、イリ地方で1912年まで6年間活動していたともいわれる。こうした大日本帝国軍部による情報収集活動はロシアの動向に関するものであったとされる
  関岡英之によれば、大日本帝国陸軍は、満州モンゴル、ウイグル、チベットイスラム教勢力などを支援することによって、ソ連や中国共産党などの共産主義勢力を包囲する戦略として「防共回廊」政策があったと指摘している。大日本回教協会を創設した林銑十郎や、板垣征四郎らが推進したといわれる。関東軍は満州を中心に、土肥原賢二らのハルビン特務機関がシベリアでの諜報活動、板垣征四郎少将率いる奉天特務機関が華北分治工作松室孝良ら承徳特務機関が内蒙工作を展開するという三正面作戦を構えたとされ、このうち松室孝良は1934年2月に「満州国隣接地方占領地統治案」を起案し、そのなかで満州、モンゴル、イスラム、チベットの環状連盟を提唱した大日本帝国時代の諜報員に、西川一三がおり、1945年に内モンゴルより河西回廊を経てチベットに潜行した。戦後、インドを経て帰国した。ほかに木村肥佐夫も同様に諜報員としてチベットに入った。西川、木村にチベット入りを指示したのは東條英機であった。

  戦後、日本は1972年9月29日日中共同声明、及び1978年8月12日日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した。その際、中華人民共和国を正当な国家として認定し、かつ中華人民共和国に配慮する外交方針をとったため、台湾を独立した国家とはみないことを約束するとともに、チベット問題やウイグル問題などを含め、中華人民共和国の「国内問題」について公式には積極的な態度をとるにいたっていない。しかし2000年代以降、激化するチベットやウイグルの動乱などを受けて、ウイグルにおける人権侵害の問題などを民間の活動が活発化し、2008年(平成20年)6月、在日ウイグル人と日本人支援者によって日本ウイグル協会が設立され、世界ウイグル会議の傘下団体として活動を行っている。
  2009年ウイグル騒乱直後の2009年7月にラビア・カーディルが二度目の来日を果たしたが、中国外交部の武大偉副部長は宮本雄二駐中国大使を呼び、「日本政府が即刻、カーディルの日本での反中国的な分裂活動を制止することを求める」と述べ中国政府の強い不満を表明した。中国政府は、カーディルが騒乱の黒幕だと断定している。
  2012年4月23日日本ウイグル国会議員連盟自民党本部で結成され、日本の外務省安倍晋三黄文雄三原じゅん子山谷えり子古屋圭司衛藤晟一新藤義孝らが参加している。顧問は安倍晋三中曽根弘文鴻池祥肇らが務めるなど、日本の国会議員でもウイグル問題を取り扱うようになっている。また同日、地方議会でも東京都庁で日本ウイグル地方議員連盟が発足した










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