シリア・アラブ協和国問題-1


2024.03.29-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20240329-UOAK7ZNMKFLKHENZQQC6TXUXXI/
イスラエルがシリアのヒズボラ武器庫を空爆、36人死亡か 英人権監視団発表

  シリア人権監視団(英国)は29日、イスラエルが同日、シリア北部アレッポにあるレバノンの親イラン民兵組織ヒズボラの武器庫を空爆し、36人が死亡したと発表した。ロイター通信によると、死者にはヒズボラの戦闘員が含まれている

  イスラエルは敵対するイランからシリアを経由してヒズボラなどの親イラン組織に武器が密輸されているとみて、シリア領内への攻撃を繰り返している(共同)


2023.08.22-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20230822-6HJLG6P55RPTDHCVSET7DYYY3A/
シリア、異例の反政府デモ 公務員賃上げに不満

  シリア人権監視団(英国)は21日、シリア南部スワイダでアサド政権に抗議するデモが行われたと明らかにした。長期の内戦で市民生活が困窮する中、アサド大統領が最近、公務員の賃上げを決定したことへの不満が背景にある。強権的な政権の支配地域で抗議デモが伝えられるのは異例。

  監視団によると、スワイダで21日、数百人のデモ隊がアサド氏の退陣を求めて声を上げた。自治体庁舎を取り囲む人もいた。デモが起きたのは20日から2日連続だという。治安部隊との衝突は確認されていない。
  シリアでは2011年、南部ダルアーなどから全土に広まった反政府デモをアサド政権が武力弾圧し、内戦に陥った。政権軍はロシアやイランの支援を受けて優位に立ち、国土の大半を支配している。(共同)


2021.05.28-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210528/k10013055741000.html
シリア アサド大統領が95%超得票で再選 反政府勢力反発

  内戦が続く中東のシリアで行われた大統領選挙で、アサド大統領が95%を超す得票で当選したと伝えられました。
内戦での軍事的な勝利をほぼ確実にしているアサド大統領が選挙でも信任を得たとして、政権の正統性を誇るものとみられますが、反政府勢力の反発などで政治的な解決がさらに遠のくおそれがあります。
  シリアでは、21年にわたって権力の座にあるアサド大統領の任期満了に伴う大統領選挙が26日、政権の支配地域のみで行われました。
  シリアの国営通信は、在外投票も含めた開票の結果、アサド大統領が95.1%の票を獲得してほかの2人の候補に圧倒的な差をつけて当選したと伝えました。
  アサド大統領は4期目となる再選を果たしたことで今後、さらに7年間の任期を得ることになり、内戦での軍事的な勝利をほぼ確実にするなか、政権の正統性を誇るものとみられます。
  一方、アサド大統領の退陣を求める反政府勢力が最後の拠点としている北西部のイドリブ県では、政権側で投票が行われた26日に選挙を非難する抗議集会が開かれるなど反発が強まっています。
  また、国連の仲介でアサド政権と反政府勢力の双方が参加して憲法を起草するプロセスなどが行き詰まるなか、アサド政権が選挙でも信任を得たとして、権力基盤を固めることで内戦の政治的な解決がさらに遠のくおそれがあります。


2021.03.15-Yahoo!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/6cf6fb1968db260233661c4223a4350a1d01cb48
シリア内戦10年で約40万人死亡 独裁者が「強制失踪」で恐怖支配

  シリア内戦は15日、10年の節目を迎えた。中東・北アフリカで長期独裁政権を倒した2011年の「アラブの春」はシリアにも波及し、反政府デモが発生した。同国のアサド独裁政権デモ参加者を徹底弾圧し、今に至る内戦へと発展。この10年で約40万人が死亡し、1000万人以上の避難民を生んだがアサド大統領の圧政は終わらず、現在は住民を不法に拘束して連れ去る「強制失踪」が国際社会の非難の的となっている。(カイロ 佐藤貴生)

■中東を不安定化
  アラブの春で広がった反政府デモは11年1月にチュニジアのベンアリ政権、2月にエジプトのムバラク政権を倒し、シリアでも同年3月15日を機に首都ダマスカスなどで本格化した。
   アサド政権の徹底弾圧で、デモは政権打倒を狙う武装闘争に発展し、政府軍の離脱兵らが結成した「シリア自由軍」や国際テロ組織アルカーイダ系の「ヌスラ戦線」が台頭。アサド氏はロシアやイランの支援を得て封じ込めた。化学兵器の使用疑惑がたびたび浮上して欧米諸国は政権の排除を訴えたが、アサド氏は権力を手放さなかった。
   内戦による統治の空白はイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)が台頭する素地を作った。  ISは14年、シリア北部ラッカを「首都」とする政教一致の疑似国家創設を宣言。反体制派が北部の主要都市アレッポを制圧するなど勢いを増したのと相まって、アサド政権の支配地域は国土の2割まで減った。だが、15年にロシアが軍事介入して政権側を支援したことで支配地域は3分の2まで挽回したとされる。
■強制失踪で恐怖浸透
  この10年で隣国トルコなどに逃れた難民は約560万人、国内避難民は約660万人。「第二次大戦以降で最悪の人為的災害」(国連)は人々に深い傷痕を残し、なお続いている。
   国連の独立調査委員会は今月初め、シリアで連れ去られた住民の生死や所在が不明になる「強制失踪」が多発し、人道に対する罪が深刻化していると批判した。アサド政権は内戦に乗じて反体制派の住民らを不法に拘束してきたとされ、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは、強制失踪の犠牲者が8万人超に上るとみる。
   調査委によると、アサド政権は不法に拘束した者に拷問や性暴力を加え、死亡させるケースもある。家族らに所在を明かさない強制失踪は、住民に「恐怖感を浸透させる道具」となっていると指摘。小規模ながら自由シリア軍やISなども同様の行為を行っており、全土に総計100以上の収容施設があるという。
   内戦自体はかつてに比べれば沈静化したが、政権の住民弾圧は続く。トルコ南部で昨年末、産経新聞助手の取材に応じたシリア難民のアブドラ・オウダさん(55)は「最近も親類が政府軍の兵士に銃撃されたと聞いた。彼らは『ISの仕業だ』と言い訳している」と話した。
■「何をしても許される」
   「彼は国を自分の庭のように考え、『何をしても許される』と思っている」  在米シリア人の政治評論家、アイマン・ヌールさんは電子メールでの取材に対し、アサド氏に対する怒りをぶちまけた。アサド政権が友好国のイランなどから「洗練された機器」を入手して国民を監視し、獄中での拷問が組織化されているとの見方も示した。
   アサド氏は政府軍の中枢を自らと同じ少数派のイスラム教シーア派の一派アラウィ派で固め、国会では同氏の与党バース党が多数を占める。軍や中央政界を牛耳って、人口の9割を占めるスンニ派や同派のイスラム武装勢力の台頭に目を光らせている。



2020.4.29-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/200429/wor2004290016-n1.html
シリア北西部で爆発、40人死亡 トルコが非難

【カイロ=佐藤貴生】シリア北西部アフリンの中心部で28日、爆発物を積んだとみられるトラックが爆発し、少なくとも40人が死亡した。アフリンはトルコと連携するシリア反体制派の民兵部隊が支配下に置いており、シリア人権監視団(英国)によると同部隊のメンバー6人も死亡した
   トルコ国防省は、シリアの少数民族クルド人の民兵組織「人民防衛部隊」(YPG)の犯行だとして非難した。
   現場は商店街で、イスラム教のラマダン(断食月)のなか、断食明けの日没後の食事の準備などのために多数の人が訪れていたもよう。米国務省のオルタガス報道官は「こうした卑劣な行為は許されない」とする声明を出した。
   トルコのエルドアン政権は、YPGは独立を掲げる自国内の非合法武装組織「クルド労働者党」(PKK)と一体だとして敵視しており、昨年10月に越境攻撃を行った。


2020.3.16-msnニュース powered by microsoft News-
ロシアとトルコ、イドリブで共同警備開始 シリア内戦は10年目に

【カイロ=佐藤貴生】シリアの反体制派武装勢力の最後の拠点である北西部イドリブ県で15日、ロシア軍とトルコ軍による共同パトロールが行われた。両国首脳が停戦に合意した5日の会談で実施が決まったもので、パトロールを通じて停戦の定着を目指す。シリア内戦は15日で10年目に突入したが、イドリブではたびたび停戦が破られており、収束はなお見通せない。
  ロシアのプーチン大統領とトルコのエルドアン大統領は5日、イドリブを東西に貫く高速道路M4の南北それぞれ6キロを「緩衝地帯」とし、共同パトロールを行うことで合意した。
  ロシア側は15日、軍の憲兵隊が参加したもよう。ただ、ロイター通信は同国国防省が「テロリストが一般人を人間の盾に使う挑発行為」があったため、任務を短縮したと伝えた。トルコ国防省はパトロールは地上と上空から行われ、初日の任務を終えたとしている。
  トルコは2018年、イドリブに監視ポストを設けて軍駐留を開始。反体制派武装勢力の非武装化を進める名目だったが、アサド政権と後ろ盾のロシアは武装解除が進んでいないとしてイドリブへの攻勢を強めた。昨年12月以降、イドリブでは住民100万人が家を捨ててトルコ国境などへ避難したとされ、内戦発生以降、最悪の人道危機が起きているとの見方も出た。
  カタールの衛星テレビ局アルジャジーラ(電子版)によると、シリアでは中東・北アフリカで民主化を求める反政府デモが広がった「アラブの春」のあおりを受け、11年3月15日にデモが起きた。アサド政権はそれ以降、各地に広がったデモの武力鎮圧に乗り出して内戦に突入した。
  米露のほか周辺国、イスラム過激派などが入り乱れて全土で戦闘が続いたが、一時劣勢だったアサド政権はロシアとイランの支援を受けて支配地域を徐々に回復し、政権存続を確実にした。


2020.2.28-日本経済新聞-https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56164070Y0A220C2EAF000/
シリアでトルコ兵33人死亡 エルドアン氏、報復決定

【イスタンブール=共同】シリア反体制派最後の拠点、北西部イドリブ県で27日、アサド政権軍がトルコ軍部隊を空爆し、トルコ当局によると兵士33人が死亡、32人が負傷した。政権軍との衝突が激しくなって以来、トルコ側最大の被害となった。トルコのエルドアン大統領は緊急治安会議を開催し報復を決定。大統領府によると、既に攻撃を実施し、今後も継続する方針だ。戦闘激化は必至で、シリア内戦は重大局面を迎えた。

トルコはアサド政権の後ろ盾であるロシアとの協議で事態打開を模索していたが、ロシアは政権擁護を強めていた。大規模な被害が出たことでロシアとの関係悪化も避けられず、強硬姿勢を維持せざるを得ない状況だ。
  アサド政権と敵対するトルコは反体制派を支援しイドリブ県に展開。アサド政権軍との衝突が激化した2月以降、トルコ側死者は50人以上となった。政権軍側にも大きな被害が出ているほか、国境地帯に数十万人の避難民が押し寄せ、人道危機拡大が懸念されている。
  トルコの民放NTVは、今回トルコ軍が攻撃を受けたのはイドリブ県サラケブの南方と伝えた。サラケブは反体制派が政権軍から奪還したばかりの要衝で、一進一退の激しい攻防が続いていた。
  ロシアとトルコは2018年の非武装地帯合意に基づき、イドリブ県や周辺に「監視拠点」を設け、トルコ軍が駐留していたが、アサド政権軍が昨年12月からイドリブ奪還作戦を本格化。監視拠点ラインを突破して進軍を続けていた。


2020.2.18-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200218/k10012290101000.html
シリア大統領「戦闘続行」 避難民90万人に 懸念高まる

中東 シリアのアサド大統領はテレビ演説で、国の北西部に残る反政府勢力の支配地域への攻撃を続ける姿勢を示しました。戦火を逃れようと避難した人はこの2か月余りですでに90万人に上っていて、大勢の市民が戦闘に巻き込まれることへの懸念が高まっています。
  内戦が続くシリアでは、反政府勢力の最後の拠点となっている北西部のイドリブ県などに対し、アサド政権が後ろ盾であるロシアの支援を受けて攻勢を強めています。
  アサド大統領は17日のテレビ演説で「イドリブやアレッポを解放する戦いは続く」と述べ、反政府勢力の支配地域への攻撃を続ける姿勢を示しました。
  イドリブ県とその周辺では、アサド政権側と、反政府勢力を支援するトルコ軍との交戦も起き、市民が置かれた状況は日に日に悪化しています。
  国連はこの日、戦火を逃れようと避難した人はこの2か月余りですでに90万人に上り、多くは女性や子どもだと指摘しました。
  トルコとの国境付近に向かう道路にはこうした避難民を乗せた車が長い列を作っていますが、国境は事実上封鎖され、逃げ場がなくなっていて、大勢の市民が戦闘に巻き込まれることへの懸念が高まっています。
娘に怖い思いをさせないように…
内戦が続くシリアではアサド政権側による反政府勢力の支配地域への攻撃が激しさを増し、女性や子どもを含む市民が危険にさらされています。
  そんな中、幼い娘に怖い思いをさせたくないと父親がある遊びを提案しました。
  ロイター通信などによりますと、イドリブ県の友人の家に避難しているアブダッラー・モハンマドさんは3歳の娘、サルワちゃんに空爆や爆発の音をおもちゃの鉄砲の音だと思い込むように教えてきました。そして音が聞こえたら、一緒に大笑いするゲームをして遊ぶことにしたということです。動画では、実際にドンという砲撃の音がするとサルワちゃんが一瞬、驚いた顔を見せたあと無邪気に笑いながらはしゃいでいました。
  アブダッラーさんはイギリスのテレビ局の取材に対して「恐ろしい音を楽しいことに変えることで心の傷を負わないようにしてあげたかった」と語っています。
  動画はSNSで拡散し「なんてすばらしい父親なんだ」と称賛の声があがる一方で「胸が痛い」とか「現状があまりに悲しい」といった意見も多く、親子の無事を願うコメントが相次ぎました。


2020.2.14-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/200214/wor2002140033-n1.html
シリア・トルコ衝突で緊迫 最後の牙城イドリブで攻防
(1)
【カイロ=佐藤貴生】シリア内戦で反体制派の最後の牙城となっている北西部イドリブ県で、アサド政権軍と反体制派を支援するトルコの戦闘が激化している。アサド政権が全土の掌握を急いでいるのに対し、トルコは難民流入の抑止などを名目にシリア北部で「緩衝地帯」を広げる狙いだとみられる。アサド政権と後ろ盾のロシア、トルコの思惑が交錯し、現地情勢の悪化に歯止めがかからない恐れが出ている。
   トルコは今月、兵士ら15人が殺害され、報復としてアサド政権側の50人以上を殺害したと発表した。首都ダマスカスと北部の主要都市アレッポを結ぶM5高速道路や、西部のラタキアから延びるM4高速道路をめぐって攻防が起きているもようだ。
   在トルコのジャーナリスト(54)は同国の思惑について、「エルドアン・トルコ大統領の狙いはイドリブ県を実効支配することだ」と分析する。
   トルコは少数民族クルド人が多いシリア北部一帯に断続的に越境攻撃を行い、支配地域を増やしてきた。中東のメディアによると、昨年3月に支配下に置いた北西部アフリンなどではトルコ語で教育する学校を設置し、「シリアのトルコ化」を進めている。
(2)
トルコがイドリブ県を実効支配すれば、アサド政権の安定を脅かすカードを持つことになる。同時に、イドリブ県周辺の制空権はロシアが握っているため、トルコ軍のアサド政権軍への攻撃規模はおのずと限定されるとの見方が多い。
   カタールの衛星テレビ局アルジャジーラ(電子版)は「トルコが軍事的緊張を高めているのは、ロシアに政権側との停戦を仲介するよう強いるためだ」という識者の見方を伝えた。
   12日には米国務省のジェフリー・シリア担当特別代表がトルコを訪れ、同国の高官とシリア情勢を協議した。
   トルコは昨年10月、シリア北部のクルド人民兵組織を越境攻撃した際、米国との停戦合意からロシアとの合意に乗り換え、クルド人勢力を国境周辺から撤退させることに成功した経緯がある。今回は米国を引き込み、ロシアとの交渉を有利に展開する狙いも見え隠れしている。
   トルコはアサド政権に対し、2月末までにイドリブ県への攻撃を停止しなければ、実力で後退させるとしている。それまでにロシアとの間で打開策を見いだせるかが当面の焦点だ。


2020.2.3-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200203/k10012270951000.html
シリア アサド政権軍が駐留のトルコ軍と交戦 緊張高まる

内戦が続くシリアで、反政府勢力の最後の拠点にアサド政権側が攻勢を強めていて、現地に駐留するトルコ軍の兵士4人が死亡しました。トルコ軍はアサド政権の軍に対し報復の攻撃を始め、緊張が高まっています。
  内戦が続くシリアではロシア軍の支援を受けたアサド政権が、国土の多くを取り返し、反政府勢力の最後の拠点である北西部、イドリブ県への攻勢を強めています。
  イドリブ県には反政府勢力の後ろ盾となってきた、隣国のトルコの軍が戦闘状況の監視などの名目で駐留していますが、トルコのエルドアン大統領は3日、アサド政権の砲撃によってトルコ軍の兵士4人が死亡、9人がけがをしたと発表しました。
  そのうえでトルコ軍が報復の攻撃を始め、アサド政権軍に30人余りの死傷者が出たことを明らかにしました。
  これについてアサド政権は公式な反応は示していませんが、シリア国営通信はアサド政権の部隊がイドリブ県南部でテロ組織を攻撃していた際、トルコ軍の兵士が死傷し、トルコ軍から反撃を受けたと伝えました。
  イドリブ県では先週、アサド政権側が交通の要衝を制圧するなど、反政府勢力に対する包囲網がせばまり、国連はおよそ39万人が家を追われ、人道危機が深まっていると懸念を示しています。
  エルドアン大統領は先週、「我慢も限界に来ている。攻撃をやめないのなら必要な措置をとる」と述べていて、トルコとアサド政権との間で緊張が高まっています。


ムハンマド・ビン・サルマーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ムハンマド・ビン・サルマーン・アール=サウード(英語:Mohammad bin Salman Al Saud、1985年8月31日 - )は、サウジアラビアの政治家で、王太子兼第一副首相兼国防大臣兼経済開発評議会議長。王族サウード家の一員で、第7代国王サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズの子、初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの孫

略歴
国防大臣就任まで
  ムハンマドは、スデイリー・セブンの一人であるサルマーンの子として1985年に生まれた。大学を卒業後、数年間民間で働き、内閣のための専門家委員会のコンサルタントを務めた。
  2009年12月15日、リヤード州知事を務めていたサルマーンの特別顧問として政界入りした。これと同時に、閑職であるリヤード競争委員会事務総長、キング・アブドゥルアズィーズ公共財団会長の特別顧問、リヤード州のアルビル社会評議委員にも就任した。
  2011年10月に伯父のスルターン王太子兼第一副首相兼国防大臣が薨御し、翌11月に伯父のナーイフが王太子兼第一副首相兼内務大臣に、サルマーンが国防大臣に就任すると、ムハンマドはサルマーンの私的顧問に就任した。
  2012年6月、ナーイフ王太子兼第一副首相兼内務大臣が薨御し、サルマーンが王太子兼第一副首相兼国防大臣に就任すると、2013年3月2日、ムハンマドは王太子府長官・王太子特別顧問に就任した。2014年4月25日には国務大臣に就任した。
  2015年1月23日、第6代国王アブドゥッラーの崩御に伴い、父サルマーンが第7代国王に即位し、併せて首相を兼ねると、同日にサルマーンが発した命により、ムハンマドは国防大臣、王宮府長官、国王特別顧問に親任された。同月29日には、廃止された最高経済評議会の後継機関となる経済開発評議会の議長に就任し、軍事に加えて経済政策でも実権を得た。
副王太子兼第二副首相兼国防大臣兼経済開発評議会議長として
  2015年1月に隣国イエメンの大統領アブド・ラッボ・マンスール・ハーディーが辞任を表明する(後に撤回)と、シーア派武装組織フーシイエメン全土を掌握した。これに危機感を持ったサウジアラビアはフーシに対立するイエメン暫定政権を支援する形で、3月からイエメンのフーシの拠点に対して空爆を行って2015年イエメン内戦への介入を開始した。これがムハンマドの国防大臣としての初めての大きな仕事となった。

  同年4月29日、サルマーンが勅命を発し、アブドゥッラーの崩御に伴い王太子兼第一副首相に昇格したばかりのムクリン・ビン・アブドゥルアズィーズが退任、副王太子兼第二副首相のムハンマド・ビン・ナーイフが内務大臣と政治・安全保障評議会議長兼務のまま王位継承順第1位の王太子兼第一副首相に昇格、ムハンマドは国防大臣と経済開発評議会議長兼務のまま王位継承順第2位となる副王太子兼第二副首相に昇格となった。弱冠30歳に過ぎないムハンマドが王位継承順第2位となる副王太子兼第二副首相に就任したことは異例であり、公益財団法人中東調査会によると、サルマーンのこの人事は、前国王アブドゥッラー派だった王太子ムクリンを権力の核心から遠ざけてサルマーン自身の周辺を近親のスデイリー・セブン閥で固めるため、また息子のムハンマドを将来の王に据えるためのものであり、ムクリンの退任は表向きは自身の希望による辞任であるが実際はサルマーンによる解任であるとされた。

  ムハンマドは、健康に問題を抱えるサルマーンの代理として、従来のアメリカパキスタン中華人民共和国に加えてロシアフランスにも接近するサウジの外交政策を委ねられているとされ、2015年6月にロシアで開催された「サンクトペテルブルク国際経済フォーラム2015」にアリ・ヌアイミ石油鉱物資源大臣やジュベイル外務大臣らを伴って訪問し、エネルギー宇宙開発原子力投資分野における6件の合意書に署名した。
  この際、シリア内戦におけるシリアアサド政権への各々の立場についても話し合ったと見られ、7月にはロシアの仲介でアサドの情報顧問Ali Mamloukと会談し、ライバルの地域大国イランがシリア内戦から手を引けばアサド政権の存続を認める意向を伝えたとされている。
  同年6月、フランスを訪問し初の「フランス・サウジ合同委員会」を開催、120億ドル分の兵器を発注し原子力発電所建設に関わる合意書にも署名した。同年9月、ムハンマドはサルマーンに同行して訪米したが、これに関してワシントン・ポストは同年9月8日付のコラムで、将来的にムハンマドが王太子のムハンマド・ビン・ナーイフを飛び越えて第8代国王に即位する可能性を示唆した。
  前政権でバンダル・ビン・スルターンらが推し進めた中国との経済的軍事的協力関係もアジアインフラ投資銀行への加盟や初の合同演習を行うなど強化し、中国から購入した無人攻撃機自走砲をイエメンに投じ、弾道ミサイルや核施設の建設でも協力を受けているとされる。また、伝統的な友好国であるパキスタンも重視し、イスラム協力機構(OIC)の条約を根拠に2015年12月にイランやシリアといったシーア派諸国を除くイスラム圏34カ国と対テロ連合イスラム軍事同盟を発足させ、初代最高司令官に前パキスタン陸軍参謀長のラヒール・シャリフを任命した。パキスタンも加盟する中露主導の上海協力機構にも参加を申請している。

  2015年秋に王族内で、ムハンマドが事実上統治を代行している現行のサルマーン体制を非難する怪文書が出回り、この中でムハンマドは「サウジアラビアを政治的にも経済的にも軍事的にも破局に導いている。」と非難された。ムハンマドが独断専行的に「サウジアラビア版サッチャー革命」と評されるような急進的な経済改革プランを志向していることやイエメンへ軍事介入していることが非難の的となった。またイエメン介入に関しては、同年12月にドイツ諜報機関連邦情報局が「ムハンマドが自らをアラブの指導者として見せ付けるために、独断的に衝動的なイエメンへの介入政策を繰り返しており、これに対して王族内で不満が高まっており、サウジの体制に危機が迫っている。」とする分析結果を公表した。
  2016年1月、サウジが国内のシーア派指導者・ニムル師を処刑すると、これにシーア派のイランが反発し駐イランのサウジ大使館が群衆に襲撃された。これを受けてサウジはイランと国交断絶したが、一連のサウジ側の決定は、ムハンマドが軍事・外交で実権を握った影響もあるとされる。この件でムハンマドはアメリカのケリー国務長官からイランとの関係を修復するよう電話を受けた。
  同年8月31日から9月2日まで訪日し、明仁天皇皇太子徳仁親王安倍晋三内閣総理大臣稲田朋美防衛大臣と会談し、経済・安全保障分野での二国間協力に関する覚書を交わした。この訪日は翌年のサルマーン国王の訪日の地ならしでもあった。
王太子として
  2017年6月、サルマーン国王の勅命によりムハンマド・ビン・ナーイフ王太子が解任され、ムハンマドが王太子に昇格し王位継承者となった。同時に第一副首相となり、国防相などのポストは継続する。また、同時期、2017年カタール外交危機が起き、サウジアラビアはカタールと国交断絶した。
  2017年10月24日、リヤドで開かれた経済フォーラムに台臨。フォーラムの演説の中で、過激なイデオロギーを倒して「より穏健なイスラム」に立ち返る政治方針を示した。
  サウジアラビアを支えてきた石油資源に依存しない経済・社会を目指した改革を進めている。生活や仕事は夜型で、午前0時過ぎに省庁幹部の携帯電話を鳴らして、業務の進捗を問うこともしばしばあるという。
  2017年11月、ムハンマドが率いる反汚職委員会が、ムトイブ王子(国家警備相)やアルワーリド王子ら王子11人を含む複数の閣僚経験者を逮捕した。表向きは汚職容疑であるがムハンマドが志向する急進的な改革に対する抵抗勢力を潰すためであると観測された。
  2018年3月のアメリカ合衆国訪問を前に米CBSテレビとのインタビューに応じ、「サウジアラビアは核爆弾を持つことを望んでいないが、イランが核兵器を開発すれば、それに従うことになる」と語った。
  2018年10月、ジャーナリストのジャマル・カショギがトルコのイスタンブールにあるサウジアラビア領事館に入館後に行方不明になっている事件に関連し、トルコ政府は「カショギがサウジアラビア領事館の中で殺害されたという証拠を持っている」と述べた。なお、オンラインニュースサイトの「ミドル・イースト・アイ」は、ムハンマド・ビン・サルマーン王太子のボディガードが実行犯であると報じている。
  2018年11月16日、米紙ワシントン・ポストは消息筋の話として、米中央情報局CIA)はカショギ殺害事件の黒幕はムハンマド・ビン・サルマン王太子だと結論付けたと報じた。
  2019年2月、パキスタンと中国を訪問し、パキスタンを訪れたムハンマドは一帯一路構想による開発が進むグワーダルの製油所建設などの合意書に署名し、訪中の際はテロとの戦いに必要な中国の措置を支持すると述べて新疆ウイグル自治区での人権弾圧を容認するものとして物議を醸した。同年7月の国際連合人権理事会では日本などの22カ国が中国の新疆ウイグル再教育キャンプなどを非難した共同書簡に対抗して中国を擁護する書簡を公開したロシア、シリア、イラン、カタールなどの50カ国にサウジも加わった。また、サウジアラビアの主導するイスラム協力機構もムスリムに対する中国の措置への「称賛」を表明した。
  2019年6月26日、「ムハンマドが、サウジ政府に批判的な同国の記者カショギ氏殺害を指示した確かな証拠がある」と、国連人権理事会で報告された。
  2020年3月6日、OPECプラスの会合で追加減産を拒否したロシアと対立したサウジアラビアのエネルギー相であるアブドルアジズ・ビン・サルマン王子は「今日という日を後悔するだろう」と述べて増産を表明して1991年湾岸戦争以来最大の原油価格の暴落を引き起こし、「石油価格戦争」「原油価格戦争」と呼ばれる様相を呈した。アメリカのインターナショナル・オイル・デーリー紙などはアブドルアジズ・エネルギー相に「もっと強烈な減産強化策を出せ。ロシアが反対したら、こちらの減産も打ち止めにする」と指示したムハンマド・ビン・サルマン王太子の意向と報じられたが、翌4月に新型コロナウイルス感染症の流行による原油市場の低迷の影響もあってOPECプラスは減産で合意した


シリア内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


シリア内戦は、シリアで起きたアラブの春から続く、シリア政府軍とシリアの反体制派及びそれらの同盟組織などによる内戦である。

概要

  シリアにおける内戦は、2011年にチュニジアで起きたジャスミン革命の影響によってアラブ諸国に波及したアラブの春のうちの一つであり、シリアの歴史上「未曾有」のものといわれている。チュニジアのジャスミン革命とエジプト民主化革命のように、初期はデモ行進ハンガーストライキを含む様々なタイプの抗議の形態をとった市民抵抗の持続的運動とも言われた。
  初期の戦闘はバッシャール・アル=アサド政権派のシリア軍と反政権派勢力の民兵との衝突が主たるものであったが、サラフィー・ジハード主義勢力のアル=ヌスラ戦線とシリア北部のクルド人勢力の間での衝突も生じている。

  その後は反政権派勢力間での戦闘、さらに混乱に乗じて過激派組織ISILアル=ヌスラ戦線、またクルド民主統一党(PYD/Partiya Yekitiya Demokrat)をはじめとしたシリア北部のクルド人勢力ロジャヴァが参戦したほか、アサド政権の打倒およびISIL掃討のためにアメリカ合衆国フランスをはじめとした多国籍軍、逆にアサド政権を支援するロシアイランもシリア領内に空爆などの軍事介入を行っており、内戦は泥沼化している。また、トルコサウジアラビアカタールもアサド政権打倒や自国の安全・権益確保のために反政府武装勢力への資金援助、武器付与等の軍事支援を行った。
  アサド政権の支配地域は一時、国土の3割程度(但し、依然として支配地域に西部の人口集中地域が含まれていた)に縮小したが、ロシアやイランの支援を得たことに加え、反政権諸勢力の中でISILやクルド系武装勢力が台頭する中で、反政権諸勢力間での戦闘も激化した事に伴い「アサド政権打倒」を掲げていた欧米がISILとの戦闘を優先する方向に舵を切った事や、クルド系武装勢力とはISILやアルカイダなど対イスラム過激派系反政権勢力打倒を優先する双方の戦略上ある程度の協調関係を構築するなど、情勢の変化も追い風となり、反政権諸勢力のうちISILが外国や他の非政権軍の攻撃対象になって壊滅したことで勢力を回復。2019年春~2020年夏時点でシリア領土の7割前後を奪還した。

  なおアサド政権は内戦下でも、支配地域においては2020年7月までに3度の人民議会を実施しており、バース党による支配を維持している(2016年シリア人民議会選挙など)。
  反体制派からの情報を収集する 英国拠点の反体制派組織シリア人権監視団は2013年8月末の時点で死者が11万人を超えたと発表している。国際連合により、2012年5月下旬の時点でもはや死者数の推計は不可能と判断されている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の推計によると、2017年までに元の居住地を離れて約630万人が国内で避難生活を送り、500万人以上が国外に逃れた。こうした難民の主な行き先としてはトルコ(320万人)、レバノン(100万人)、ヨルダン(65万人)、イラク(24万人)、エジプト(12万人)で、トルコなどを経由してヨーロッパなどに渡った人々も多い。日本には2014年6月20日時点で52人が難民申請しているが、日本政府は一人も認めていない。
  反政府武装組織の一つ自由シリア軍によりキリスト教会が破壊されたとされる事例 をはじめ、反政府主義者によるキリスト教徒(その大半は正教非カルケドン派東方典礼カトリック教会といった東方教会の信者)への排撃が問題となる局面も出てきている。

  2014年に入り、ISILと、シリア反政府勢力との間で戦闘が激化した。当初、ISILは、シリア反政府勢力から歓迎されていたが、ISILが他の反体制派組織を支配下に置こうとして内紛が起きた。さらには、ISILが一般市民も巻き込んで暴力を振るうようになり、関係が悪化した。反体制派の主要組織である「国民連合」は、ISILとの戦闘を全面的に支持している。
  急速に勢力を拡大させたISILに対し、反体制派が依然として内紛を繰り返す状況で、シリア国内では唯一ISILに対抗できる存在であるアサド政権の国際的価値が高まり、欧州各国や国連、シリア国内の反体制派ですら、当初の要求であったアサド大統領の退陣を要求しなくなっている。
  しかしアサド政権が4月4日に行ったカーン・シェイクン化学兵器攻撃を受けてアメリカ軍はアサド政権のシャイラト空軍基地攻撃を行った。また、実態として西側諸国が穏健派とする反政府武装勢力やアルカイダ系組織・ISILの間に明確な線引きをするのは難しく、各勢力が強固な組織を基盤としているわけではない。さらに、いずれも反アサド政権、反世俗主義、反シーア派、反少数派イスラム教(アラウィー派ドゥルーズ派等)、反キリスト教を掲げるスンニ派イスラム主義組織であるという共通点があることから、資金力の増減や戦況の良し悪しによって戦闘員の寝返りや武器交換も相互に行われている。そのため、あくまでもISILも反政府武装勢力のうちの一つと捉えた方が実態に近く、イスラム国の残虐性だけが突出しているわけではない。さらに、シリア政府側に立つ組織もシリア軍の他にシーア派民兵ヒズボラやイランのイスラム革命防衛隊なども参戦しており、これもまた統率が取れているわけではない。実際に、アルカイダは自由シリア軍などの反政府勢力と協力している。

  さらに、アルカイダ系武装集団は、2013年9月に協力体制にあったはずの自由シリア軍に攻撃を仕掛けるなど、アサド政権、他の反政府勢力、クルド系武装勢力と敵対し、シリア国内は複数勢力の戦いになりつつある。更にアルカーイダと協力関係にあった武装集団ISIL(イラク・レバントのイスラム国)が、2013年5月に出されたアルカイダの指導者アイマン・ザワーヒリーの解散命令を無視してシリアでの活動を続けているなど、アルカイダやアル=ヌスラ戦線との不和も表面化している。
  他にも、クルド人などのシリア国内の少数民族も武装化して、政府軍やアルカイダ系の武装集団を襲撃して事実上の自治を行っており、さらにイラククルド人自治区のような正式な自治区を作ろうとしている。
  シリアで内戦が激化している理由として、主に4つがあげられる。1つ目は、アラブイスラム世界の中で敵対関係にあるイスラエルなどと国境を接するという地政学的事情。2つ目は、シリア・バース党政権が一貫した親露・親イランである一方、親欧米・親NATO諸国であるサウジアラビアを中心としたスンニ派の湾岸諸国とは激しく対立している点。3つ目は、トルコ政府と対立するクルド人の問題。4つ目は、アサド大統領がシーア派の分派でありキリスト教の影響も強いアラウィー派で、イスラム色の薄いスンニ派も含めた世俗派主体に支持者が多いのに対し、反政府勢力はスンニ派イスラム主義勢力が多く、世俗主義とイスラム主義の対立や宗派対立の様相も呈していることにある。
  レバノンの3月14日勢力は、反政府抗議者たちに財政支援をしたとして非難されているが、自らはこれを否定しており非難の応酬となっている。シリアによるレバノンへの武器輸送を阻むためとして、イスラエル国防軍がシリア国内の軍事基地を何度も空爆している。レバノンに敵対しているイスラエルは、これを自衛のためとしている。また、戦闘による流れ弾がトルコの街に着弾し、トルコ軍が反撃を行うなど、隣国との戦闘も発生している。(詳細は「トルコ軍によるシリア侵攻 (シリア内戦)」および「トルコ軍によるシリア侵攻 (2019年)」を参照)
性質
  国際的なシリア国内の状況の認識としては、2011年12月にUNHCRが事実上の内戦 (Civil war) 状態であるとしたほか、2012年6月12日にはエルベ・ラドゥース国連事務次長が高官としてはじめてシリアが内戦状態にあるとの見解を示している。同年7月15日には赤十字国際委員会が事実上の内戦状態であるとしている。一方でシリア政府側は騒乱開始以来、これはあくまで対テロ戦争であり、内戦ではないとの認識を示している。2012年6月になって大統領アサドが公の場で「戦争状態にある」と発言している。アサド大統領は、2013年9月には「現在シリアで起きているのは、内戦ではなく戦争であり、新しい種類の戦争だ」としており、シリアは「テロの犠牲者」と語っている。また、反体制派の8割から9割はアルカイダとも主張している。
外国勢力を巻き込んだ複雑な対立と利害関係
  シリア内戦は各国・各勢力の思惑が露骨に衝突した戦争となっており、それがこの紛争の解決をより一層難しくしている。アラブの春に影響を受けた、当初の目的である平和的な反政府デモを発端とするものの、その後は反体制派が周辺国からも入り乱れて過激派にとって代わられることで双方の対立が激化。その反体制派からはISILまで生んだ。

  つまり、欧米諸国とその同盟国が描く巨悪・アサド政権に対する自由を求める民衆の蜂起という構図は、その後のシリア内戦で変質した。多国籍の軍隊がそれぞれ別の思惑でシリアを舞台にして、自らの権益を拡大・死守する代理戦争と化し、欧米が支援する反体制派では、民主化とは正反対であるイスラム原理主義の過激派勢力が台頭した。同時にこの対立構造ではSNSを駆使した情報戦が行われており、アサド政権とその支援を行うロシアイラン、さらに反体制派を支援するサウジアラビア・トルコ・カタールのアルジャジーラ、さらにBBCCNN等の西側メディアも含めて悲惨な難民の姿や女性、子供の被害者・犠牲者をメディアを通じてセンセーショナルに報道する場面が目立ち、プロパガンダの応酬となっている。特に欧米諸国が資金援助を行っているホワイト・ヘルメットの扱いや、化学兵器の使用に関する報道で顕著となっている。

  シリア紛争に関しては双方の利害の主張が著しく、中立的な視点を持つ報道が過小または中立的な視点を持つジャーナリズムは主流メディアから殆ど追いやられているといってよい。そこには、かつての各地で起こった民族間や旧宗主国とその権益から来る利害関係から起きた内戦とは大きく異なっており、より複雑でグローバル戦争ともいえる。人道主義を掲げて樽爆弾や無差別爆撃、化学兵器の使用等からアサド政権の残虐性を厳しく指摘する欧米諸国も反体制武装勢力によるキリスト教徒への迫害を批判したバチカン市国ローマ教皇庁等の一部を除き、反体制派の残虐性やサウジアラビアが関与するイエメンの惨状(2015年イエメン内戦)には余り言及されていない。
主要勢力
シリア軍・アサド政権支持勢力
  シリア軍、特殊戦力師団、共和国防衛隊、第4機甲師団、第18機甲師団、国民防衛軍(国民防衛隊)
シリア反政府武装勢力/アルカイダ系
  自由シリア軍 、イスラム戦線タハリール・アル=シャーム(旧アル=ヌスラ戦線)
過激派組織IS(イスラム国)
  ISIL(Islamic State of Iraq and the Levant、イラク・レバントのイスラム国/別名:ISIS (Islamic State of Iraq and Syria、イラク・シリアのイスラム国)/ダーイッシュ)
  IS(Islamic State、イスラム国) - 2014年6月末の最高指導者アブー・バクル・アル=バグダーディーのカリフ僭称及びイスラム国家樹立宣言に伴いISILから改称。
ロジャヴァ(シリア北部地域)
  シリア民主軍、クルド人民防衛隊、クルド民主統一党 
シリア内戦に参戦しているシリア国外からの支援を受ける軍隊・武装勢力
  シリア政府軍側-ロシア軍(空爆)、中国軍(特殊部隊)、イスラム革命防衛隊、マフディー軍、ヒズボラ、シリア社会民族党、パレスチナ解放人民戦線総司令部、フーシ
  反体制派側en:Syrian opposition)-トルコ軍、イスラエル国防軍 (Israel Defense Forces、IDF)、アメリカ軍 - FSA(Free sryian army)、フランス軍、イギリス軍、IF、FSA、アル=ヌスラ戦線、 FSA、アル=ヌスラ戦線、アル=ヌスラ戦線、ハマス、 ハマース、 ファタハ・イスラム、ハマス、パキスタン・ターリバーン運動、東トルキスタンイスラム運動、アルカイダ、 東トルキスタンイスラム運動
(ISILなどを除く反政府勢力の約9割を束ねるとされる組織「シリア反体制派革命勢力国民連合」があり、欧米諸国やトルコとは支援を受けたり、協議したりする関係にある。)
  ロジャヴァ・クルド人勢力側-ペシュメルガ,クルディスタン労働者党、ロシア軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、カナダ軍、有志連合 (Coalition of the willing)
背景
歴史(詳細は「w:History of Syria」を参照)
  シリアはイスラエルと戦争状態にあった1962年に非常事態宣言を出してより非常事態法の下にあり、憲法による国民の保護は事実上停止されていた。シリア国民は住民投票によって選ばれた大統領に好意的であり、シリア議会は複数政党制を採っていない。
  1963年のクーデター以来、シリアはバアス党の支配下にある。1966年のクーデター1970年の革命などで支配構造を変化させつつ、バアス党は独占的権力を保持した。

  1970年の革命以後、ハーフィズ・アル=アサド(H.アサド)は、ライバルを抑えながら30年近くシリアを指導してきた。1982年、国内で起きた6年間に及ぶイスラム暴動の最盛期において、ムスリム同胞団等を含むスンナ派イスラム主義運動を鎮圧するため、大統領H.アサドはハマーで焦土作戦を指揮した。このハマー虐殺において、10-80,000名の一般市民を含む数万の人々が殺害されたとされている。
  H.アサドの後継者問題は、1998年人民議会選挙後の暴力的な抗議行動と武力衝突を引き起こし、ラタキア事件に発展した。この事件はH.アサドと彼の弟リファアト・アル=アサドとの間の積年の確執が暴発したものであった。シリア警察はラタキアにあるリファートの港湾施設の取り締まりを行い、この際に警察とリファアト支持者らとの銃撃戦があり2名が殺害された。政府側は否定しているものの、この事件の死傷者は数百人にのぼったとも言われる。ハーフィズ・アル=アサドは肺線維症のため1年後に死去した。H.アサドの息子であるバッシャール・アル=アサド(B.アサド)は、大統領となりうる年齢の規定が40歳から彼の年齢である34歳に引き下げるよう憲法を修正した後に指名され、後継者となった。B.アサドはフランス語英語を話し、イギリス出身でスンナ派シリア人女性アスマー・アフラースと結婚し、改革派として期待され、2000年1月からダマスカスの春と呼ばれる激しい政治的、社会的論争が引き起こされた。

 2004年以来、クルド-アラブ暴動により緊張が高まっていた。この年はシリア北東部のカーミシュリーで反政府暴動カーミシュリー事件が起きた。混乱したサッカー試合で人々がクルドの旗を掲げ、試合はやがて政治的な衝突に発展した。シリア警察の暴力的な対応やクルド人とアラブ人によるグループ間の衝突により、少なくとも30名が殺害された(一説によると、死傷者は約100名。)。クルド人活動家と政府組織との小規模な衝突はそれ以降も続いた。

  アサド家は、シーア派でも少数派でシリア人口の6-12パーセントを占める貧困なアラウィー派の一員であり、シリア治安機関の「厳格な統制」によって維持されており、シリア人口の4分の3を占めるスンナ派の中に「深い敵意」が生じていた。同じく少数派であるクルド人からも抗議や不満の声が上がっていた。B.アサドは、彼の地位がエジプトで起きた大規模抗議運動のようなものに影響されないと表明した。大統領顧問ブサイナ・シャアバーン)は、カタールを拠点とするユースフ・カラダーウィーが3月25日にドーハで行った演説などを挙げ、スンナ派暴動を煽ったとしてスンナ派イスラム法学者や説教師を非難した。ニューヨーク・タイムズによれば、シリア政府は暴動の鎮圧において「ほぼ全面的に」アラウィー派治安機関に信頼をおいてきた。彼の弟マーヘル・アル=アサド共和国防衛隊と陸軍第4機甲師団を指揮し、義兄のアースィフ・シャウカトは陸軍参謀副長を務めていた。彼の家族は、抗議に対して強硬路線を採ることができなければそれを増長し、街頭がより大きな群衆であふれることを恐れているといわれた
社会経済
  政府への不満は、主に保守的なスンナ派が多いシリアの貧しい地域で強かった。こうした地域には、ダルアーホムスといった貧困率が高い都市、2011年前半に激しい旱魃に見舞われた農村地帯、それに大都市の貧困地区が含まれていた。社会経済の不均衡は特にH.アサド政権の末期に進められた自由市場の導入以後大きく拡大しており、B.アサド政権になってからはさらに悪化していた。自由市場の恩恵を受けられたのは国内の限られた人々、主に政府とコネクションを持つダマスカスアレッポのスンナ派商人層に限られていた。2011年、シリアは全国的な生活水準の悪化と生活必需品の値上がりに直面した。さらに若者の高い失業率にも見舞われていた。
  会経済については、気候変動の影響も可能性として上げられている。シリアでは2006年 - 2010年の3年間に深刻な旱魃が発生し、150万人(人口の1割弱)の農民が都市部に移住、急速な人口変化により地域の不安定化を招いていた。シミュレーションや観測結果をもとにした研究では、気候変動により旱魃の発生率が高まっていたことが示唆されている。
人権(詳細は「w:Human rights in Syria」を参照)
  シリアの人権(en:Human rights in Syria)は、国際機関からの激しい非難にさらされた。1963年以来、非常事態宣言の効力が続いており、保安部隊には逮捕・拘留の権限が与えられ、シリアは自由選挙のない一党独裁状態によって支配されていた[70]。当局は、人権活動家や政府批評家を苦しめたり投獄していた。表現、結社、集会の権利は厳格に制限された。女性や少数派民族は差別に直面している。2010年のヒューマン・ライツ・ウォッチによれば、B.アサドは権力を握って以来の10年間で、シリアの人権状況の改善に失敗した。この人権団体は、シリアの人権状況が世界で最悪の部類に属すると言明している。
  5月5日のBBCニュースは、非武装の一般市民に対して狙撃手や対空機関銃が使われているとのダマスカス人権研究所(DCHRS)の表明を報じた。
シャッビーハ
  シャッビーハ (、英語: Shabiha)とは、アル=アサド家に資金提供を受けた3000人以上の構成員からなる暴力団である。この呼称は幽霊を意味し、かつてアル=アサド家やその縁者が使っていたメルセデス・ベンツの車に由来する。彼らは、政府への批判者(非武装者を含む)にあらゆることを行う権限を持っていた。新聞やメディアニュースチャンネルによれば、シャッビーハの構成員はアサドの傭兵であるとも言われる。
  シャッビーハが人権を守らないことについては、地元の新聞やチャンネルだけでなく国際メディアからも非難されており、特にFacebookYouTubeなどのソーシャルメディアを通じて数百もの映像がアップロードされている。
  重信メイはその著書『アラブの春の正体』で、Wikipediaのシャッビーハについての記述はデマを真に受けたものであると批判している。この言葉は「幽霊」とは全く無関係であり、アル=アサド家からの資金提供を受けている証拠もないとしている。さらに動画についてはCNNがシャッビーハが暴行を行なっているとして流したものが誤報であった例を挙げ、その多くは検証が必要であるとしている。
2011年(アラブの春)
  B.アサドは、ラジオ局が西洋のポップ・ミュージックをかけることを容認する一方で、Amazon.com、Facebook、ウィキペディア、YouTubeのようなウェブサイトへの接続を制限していたが、2011年1月1日以降は全ての国民がブロードバンドインターネット接続を許され、これらのウェブサイトに接続できるようになった。しかしながら、2007年の法律によってインターネットカフェオンラインチャットにおける全ての投稿を記録することが義務付けられた。
  2011年1月31日に発表されたインタビューにおいて、B.アサドは改革の時が来たことを宣言するとともに、2011年のエジプト革命チュニジア革命イエメン騒乱の抗議運動は中東に「新しい時代」(アラブの春)が到来したことを意味し、アラブの支配者たちは人々の間に高まる政治的、経済的要求を受け入れるためにさらなる行動が求められるとした。
内戦(詳細は「シリア内戦の年表」を参照)
抗議運動初期
  シリアでの抗議運動は初めのうちはささやかなもので、勢いを得るまでにはしばらく時間がかかった。運動は2011年1月26日に始まった。チュニジアのモハメド・ブアジジが2010年12月17日にチュニスで行ったのと同様、ハサカのハサン・アリ・アクレーが自らの体にガソリンを被り火を放った。目撃者によれば、この行動は「シリア政府に対する抗議」であったとされる。2日後の2011年1月28日、ラッカにおいてクルド人の血を引く2名の戦士が殺されたことに抗議するデモが行われた。
 2月3日、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディアウェブサイトにおいて、2月4日から2月5日をシリアの「怒りの日」とする呼びかけが行われた。抗議者たちは政府の刷新を要求したが、抗議の大部分はシリア国外にとどまる小規模なものであった。このときシリア国内で確認された唯一の抗議活動は、2月5日のハサカにおけるアサド退陣を求める数百名規模のデモであった。シリア当局が多数の人々を逮捕したことが引き金となり、デモは急拡大した。「怒りの日」の試みが失敗した後、アルジャジーラは、この国が「沈黙の王国」であると表現した。シリア安定の鍵となる要素は、シリアの厳重な監視機構、アサドの人気、イラク暴動に見られるような政府が倒れた際に起きうる宗派間抗争への懸念などである。
  2月22日、ダマスカスのリビア大使館周辺に約200名の人々が集まり、リビア政権に対する抗議を行い、大使の辞任を求めた。政府の治安部隊はデモの鎮圧を行い、14名が逮捕され数名が警官から暴行を受けた。逮捕された者は後に釈放されている。3月6日のタイム誌は、シリアの若者たちは依然として関与しているものの、きっかけが必要だったと述べている。リバル・アル=アサドは、シリアが次のドミノになると述べた
運動の高まり
  3月15日、シリア各地の主要都市で一斉にデモが行われ抗議運動が拡大し始めた[95]ハサカダルアーデリゾール、ハマーで数千人の抗議者が集まった。反体制側の報告によれば、治安部隊との衝突が起きたとされる。ダマスカスでは、200名程度の小さなグループが1,500名にまで膨れ上がった。ダマスカスでは1980年代以来これほどの抗議は見られなかった。「2011年シリア革命(Syrian Revolution 2011)」と呼ばれるFacebookの公式ページに、カイロニコシアヘルシンキイスタンブールベルリンにおける支援デモの画像が掲げられた。リビアに縁のあるシリア革命支持者たちがパリのシリア大使館に押し寄せたとする未確認情報もある。3月18日、シリアにおいて過去10年間で最も深刻な暴動が発生した[101]金曜礼拝の後、オンラインで「尊厳の金曜日」が呼びかけられ、政府汚職疑惑の解決を求めた数千人の抗議者がシリア各地の街路に繰り出した。地方治安部隊の指揮の下、抗議者たちに対する暴力的な取り締まりが行われた。抗議者たちは、「神、シリア、自由」そして汚職反対のスローガンを叫んだ。

  ダルアーの街は暴動の焦点となりつつあった。3月20日、数千名がダルアーの街路に繰り出し、3日間にわたって非常事態法に反対するスローガンを叫び続けた。治安部隊の発砲により、1名が殺害され多数の人々が負傷した。市内のバアス党本部庁舎や、ラーミー・マフルーフの経営する通信企業シリアテルの建屋に火が放たれた。翌日、ジャーシムで数百名が抗議を行い、バニヤース、ホムス、ハマーでも同様の抗議が行われたとされる。アサドはいくつかの懐柔策を示したが群衆は増大し続け、ダルアーのオマリモスク周辺に集まって要求を繰り返した。要求の内容は、全ての政治犯の釈放、抗議者を殺害した者に対する裁判の実施、48年間に及ぶシリア非常事態法の撤廃、さらなる自由、および汚職の終息であった。この日、ダルアーの携帯電話回線は切断され、市内いたるところに検問所が設置され、兵士が配置された。また、ヒズブ・タフリール解放党)は、バアス党政権に対する抗議の拡大に主導的な役割を果たすとともに、国内での抗議活動や世界中のシリア大使館に対する抗議活動を組織化した。
蜂起と譲歩
  3月25日、オンラインで「栄光の金曜日」と呼ばれる大規模デモが新たに呼びかけられ、国内各地の街路で数万人が抗議活動を行った。シリア南部では軍隊が発砲し、平和的なデモの参加者が殺害されたとする証言があり、ニュースでも報道された。抗議者たちに対する取り締まりはますます暴力的になった。ダルアーでは10万人以上の人々がデモに参加し、少なくとも20名の人々が殺害されたとする報告がある。H.アサドの彫像がばらばらにされて火が放たれた。知事の家にも火が放たれた。ダマスカス、デリゾール、ホムス、ラタキアラッカにおいても抗議活動が起きたとされる。サナマインでは20名の人々が治安部隊に殺害されたとする証言がある。ダルアーではデモ中に17名の人々が殺され、オマリモスク周辺では40名、サナマインで25名、ラタキアで4名、ダマスカスで3名の死者があった。
  AFPは、亡命中のシリア反体制派指導者がパリに立ち寄り、アサドを失脚させ、フランスが「罪のない人々の殺害をやめさせる」ようシリア指導者に圧力をかけるよう働きかけたと報じた。

  3月26日、アサドは200名以内の政治犯釈放を発表し、抗議者たちに対する政府側の最初の譲歩を提示した[118]。翌日、アサドのメディア顧問ブサイナ・シャアバーンは、事前予告なしに非常事態法の撤廃を発表した。3月29日、シリアの新聞アル=ワタンは、主要閣僚の入れ替えが行われると報じ、後日アサドは首相ムハンマド・ナージー・アトリー率いる内閣の辞表を受理した。但し、新内閣が選ばれ公式発表されるまでは暫定的に首相を続けるとされた。
  アサドに忠誠を示す軍部隊が動き出した。シリアの大ムフティーアフマド・バドルッディーン・ハスーンは次のように述べた。「全ての国民には自由を求めて抗議する権利がある。しかしながら私は言う。流血の背後にいる全ての者は有罪となるであろう。抗議する者に対して発砲する軍役人はいません。彼らは自衛のために応戦をしただけです。何かが起きた後、人々は和解をしなければなりません。この国には堕落した者が居り、堕落した者は有罪としなければなりません。」
  3月29日、ダマスカス、アレッポ、ハサカ、ホムス、タルトゥース、ハマーでアサドを支持する数十万人規模のデモが行われた。
  3月30日、アサドは暴動を扇動した外国人を非難し、ブサイナ・シャアバーンが示した非常事態法の撤廃を実施せず、将来の検討課題に留めるとする演説を行った。YouTubeに投稿されたCNNの報告において、水曜日に演説を終えたアサドの車を一人の女性が攻撃したとするシリア国営テレビの映像が示された。ラタキアでは、アサドの演説に失望した抗議者たちが街路に繰り出し、警官から発砲を受けた。翌日の国営シリア・アラブ通信(SANA)は、アサドが4月1日から公務員給与を引き上げる命令を出したことを伝えた。
2011年4月
  オンラインで4月1日の「殉教の金曜日」が呼びかけられ、金曜礼拝から現れた数千名の抗議者たちがシリア各地の多くの都市で街路に繰り出した。ダマスカス近郊のドゥーマに集まった1,000名の抗議者たちに治安部隊が発砲し8名が殺された。ダマスカスでは金曜礼拝を終えた抗議者たち数百名がアル・リファイ・モスクに集まった。しかしながら、政府軍部隊はモスクを封鎖し、逃げようとした人々を攻撃したとも言われる。さらに南部のダルアー近くの小さな町では抗議中のデモ隊が殺された。この衝突事件は次第に国際社会からの注目を集め始めた。4月1日、シリア当局はシリアとトルコの間の国境を閉鎖し、トルコおよび他国の記者たちがシリアに入ることを禁じた。翌日、トルコの首相レジェップ・タイイップ・エルドアンはアサドに改革を進めるよう圧力をかけることを表明した

  4月3日、アサドはアーデル・サファルをシリアの新首相に任命し、組閣を指示した。4月6日、アサド政権はスンナ派とクルド人に譲歩を示した。教師たちに再びニカーブの着用を許可し、国内唯一のカジノを閉店させ、近日中にシリア在住の数万人のクルド人にシリア市民権を与えることを提案した
  4月8日は「抵抗の金曜日」として知られるようになった。この日はダルアー、ラタキア、タルトゥース、イドリブバニヤース、カーミシュリー、ホムス、ダマスカス郊外のハラスタにおいて数千名の抗議者たちが街路に繰り出し、これまでで最大規模のデモとなった。ダルアーでは投石する抗議者たちを追い払うために治安部隊がゴム弾や実弾を発砲し、27名の反政府抗議者たちが殺され、多数が負傷した。ダマスカス郊外のハラスタでは少なくとも3名が殺され、シリア第3の都市ホムスでは死者2名と数十名の負傷者があった。人権団体は、この金曜日にシリア国内各地で起きた暴動で37名が殺されたと述べた。
  4月中旬にかけて、暴動はさらに拡大し、ますます暴力的になった。4月15日、数万人がバニヤース、ラタキア、バイダ、ホムス、デリゾールなどシリア国内のいくつかの街で抗議活動を行った。アルジャジーラは、ドゥーマ郊外からダマスカスに入ろうとした最大5万人の抗議者たちが催涙ガスを使う治安部隊に追い払われ、このとき首都のバルゼ地区において、モスク前に集結した約250名の抗議者たちを、武装した私服の男たち数十名が取り囲み、暴力事件に発展したと伝えた。一方、ダルアーでは数千名のデモがあつたものの市内に治安部隊は見られず、当局は抗議活動を容認したと見られた。アサドは、「犯罪行為に関わっていない」囚人数百名の釈放と新内閣発足(シリアの内閣en:Cabinet of Syriaを参照)を発表した。
非常事態法(戒厳令)の撤廃
  2日後、アサドは人民議会に向けてテレビ演説を行い、政府に対して非常事態法の撤廃を求めていることを表明し、国民と政府との間に隔たりがあることを認め、政府は人々の願望に関心を持ち続けなければならないと述べた。4月19日、政府はこの国の非常事態法を撤廃する議案を承認した。非常事態法の撤廃は48年ぶりのことである。4月21日、アサドは、非常事態法を終わらせ、国家最高治安裁判所を廃止し、平和的なデモを行う権利を規制する法令に署名した。
4月の暴力―継続される暴力
  非常事態法を撤廃しても抗議は収まらなかった。4月22日は一連の騒乱において最も忌まわしい日となり、数万人が街路に繰り出した。ダマスカスと、国内の少なくとも10都市で抗議活動が行われた。ダマスカス中心部では数百名の抗議者たちが追い払われたものの、首都を囲む都市に数千名の抗議者たちが集まっ。抗議者側の報告によれば、治安部隊のデモ隊への発砲により全国で少なくとも70名の人々が殺された。100名以上が殺害されたことが明らかになりつつあったものの、シリアはほとんど全ての他国メディア関係者を国内から締め出していたため迅速な確認は困難であった。
  翌4月23日、国内いたる所で亡くなった抗議者たちの葬儀が行われた。ダルアーでは暗殺者が発砲し8名が殺されたと伝えられ、そのうちの5名は治安部隊の隊員であった。その夜、私服の治安部隊が家々を襲い活動家たちを逮捕した。聖金曜日の抗議の後、数十名の市民が行方不明となり、ある人権団体によれば金曜日から土曜日にかけて217名の行方不明者があったとされる。(詳細は「w:Siege of Daraa」を参照)

  4月25日、シリア政府は初期の抗議において焦点となったダルアーに戦車を展開し、少なくとも25名を殺害した。数百から6,000名と見積もられる兵士と狙撃兵が戦車に随伴し、上水道・電力・電話回線を切断した。住民の話によると、抗議者たちが軍用車両を焼き、兵士を人質に取ったといわれる。政府は近くのヨルダンとの国境を封鎖した。少なくとも1名のシリア軍主要指揮官がダルアーに対する軍事作戦に加わることを拒否した。ダルアー住民は記者に電話で次のように訴えた。「シリアをオバマに占領させろ。シリアをイスラエルに占領させろ。ユダヤ人を呼べ。どれもバッシャール・アサドよりはましだ。」

  アメリカ大統領バラク・オバマは暴力の行使を「著しく正義に反する」として非難し、合衆国内におけるシリア当局資産の凍結を準備した。国際連合安全保障理事会(国連安保理)常任理事国であるフランスとイギリスを含むEU各国は、国連に対して国際的な制裁の実施を働きかけた。但し、常任理事国のロシアと中国の支持が得られるかどうかは不透明であった。シリアはイスラム主義者たちの扇動による暴動であると主張した。
  4月28日、アルジャジーラは、負傷した兵士がシリア市民に介抱されている模様を示す映像を放映し、彼ら兵士が抗議者たちへの発砲命令を拒否し、体制派の部隊を攻撃したと報じた。この放送局は映像の信憑性を確認できないとしながらも、「信頼できる情報源」によるものと主張した。
  ダルアーやドゥーマなどの都市における過酷な取り締まりにもかかわらず、4月29日も抗議者たちの行動を阻止できなかった。アレッポ、ホムス、デリゾール、シャイフ・ミスキーン、ダマスカス、およびシリア国内の他の都市でも数千名が集まった。シャイフ・ミスキーンにおいて兵士が非武装の抗議者たちを実弾で攻撃し殺害している映像が匿名で投稿された。アルジャジーラは、金曜礼拝の後に始まった治安部隊による攻撃で少なくとも50名の人々が殺されたと報じた。ロイターは死者62名と報じた
武装した抵抗派
  反政府抗議者たちの中には武装した集団もあるといわれ、シリア政府は彼らがサラフィー主義のイスラム教徒たちであると主張した。シリア治安部隊のうち100名以上が殺されており、シリア政府はこれが抗議者たちの中にいる「武装したギャング」によるものとしているが、反政府側は政権側の責任であるとしている。
  国際キリスト教コンサーンによれば、ここ数週間の間、シリアのキリスト教徒が抗議活動に参加しないという理由で反政府抗議者たちによる攻撃を受けた。
イラン関与疑惑
  オバマはアサドによる鎮圧活動を秘密裏に支援しているとしてイランを非難した。アメリカのスーザン・ライス国連大使は、シリア政府のデモ取り締まりに対するイランの積極的支援について証拠があると述べた。イランは抗議鎮圧に対するあらゆる関与を否定した。
2011年5月詳細は「w:Siege of Baniyas」を参照
  5月1日、バニヤースは抗議者たちが掌握する南部と、治安部隊によって政府の支配下におかれる北部とに分裂した。
  5月6日、金曜礼拝の後、政権に抗議するデモ隊がシリア各地の街に集結した。抗議開始から1時間の間に、治安部隊の映像や音声がオンラインに出現し、中には致命的な暴力も見られた。ホムスでは武装グループが軍の検問所を武力攻撃し、11名のシリア軍兵士が殺された。ホムスだけで少なくとも3名が死亡し20名が負傷、ホムスとハマーにおける死者は合わせて12名にのぼり、反政府指導者のムアーズ・アル=ハティーブリヤード・セイフが秘密警察によって拘留されたといわれる。ダマスカスおよびその郊外では数万人が行進したといわれ、アルジャジーラアラビア語チャンネルがこの街から数分間中継したところによれば、そのうち7,000名は葬儀の装束に身を包み、バニヤースで集めたオリーブの枝と花を持ち、人々は「平和的に軍隊を迎えたい」と語った。ダルアー周辺では数千名のシリア人が抗議の行進に参加し、街の包囲を固めていた治安部隊は、住民のための物資を携えた抗議者たちが市内に入ることを拒絶した。

  この「反抗の日」の後、アムネスティ・インターナショナルは、活動家のラザン・ザイツーネ、ワエル・ハマダ、ハイサム・アルマレ、カマール・アッ=ラブワーニーの子供であるヒンド・アッ=ラブワーニーとオマル・アッ=ラブワーニー、ジュワン・ユセフ・ホルシド、ワリド・アルブンニ、およびスハイル・アルアタッシが連れ去られたと報告した。
  反政府活動家によると、5月8日、ホムスでの政府による取り締まりにおいて、12歳の少年が殺され、10歳の少年が逮捕された。
2011年6月
  6月に入っても反政府デモは沈静化の兆しを見せることはなく、イギリスやフランスなどからは国際連合安全保障理事会決議を求める声も上がりはじめる。6月9日にはIAEAにて核問題を安保理に付託する決議を採択するなど 国際的な包囲網が敷かれる中、アサドは新たな軍事活動を開始する。10日には全土で反政府デモが発生し市民32人が死亡、トルコへの脱出も相次いだ。こうした弾圧に対してアメリカも英仏などが提案する決議案を支持する姿勢を明らかにし、16日には国連事務総長潘基文もアサドに対して国民に対する弾圧の停止を要求、対話を求めた
  20日にはアサドが憲法改正も含む国民との対話を行う意向を表明するなど柔軟な姿勢を見せたもののデモ沈静化にはつながらず、24日には全土で再びデモが発生。数万人が参加し治安部隊が発砲、市民15人が死亡した。アサドが宣言した国民との対話は7月10日に行われると発表している。
2011年7月 自由シリア軍の発足
  10日に行われるとアサドが宣言した国民との対話は多くの野党勢力が政府側との交渉を欠席した。野党勢力の代表達は「アサド大統領が,自分達が出した主要な要求の数々を遂行しないうちは、交渉に参加しない」と述べた。主張の内容は「抗議行動に対する弾圧の停止と政治犯の釈放。」である。10日シリア政府は、在野勢力側との「国民対話」スタートを発表、「10日から二日間、与党と在野勢力との間の会合が始まっている」としている。なお交渉への参加意向を示した野党勢力もシリアの与党アラブ社会社会主義バース党(バアス党)の優位性撤廃を求めた。シリア憲法では、バアス党を「国家を指導する政党」と規定している。

  反体制派勢力はトルコのイスタンブールで16日に開かれた会合で評議会設立に関する決定を承認した。同会合は、数ヶ月続くアサドの大統領退陣を求める反政府デモが静まらないことを背景に開かれた。会合には、シリアから追放された350人以上の活動家らが出席、反体制派の著名な活動家ハイサム・アル=マーリフは、「他の反体制派グループを支援し、民主的発展の道に従って国を導くために、我々は活動してゆく」と述べた。
  国内で高まりをみせる反政府運動を背景に、バアス党は独占的な政治的地位を放棄せざるを得なくなったと見られ、政府は国内での結党を許可する法案を25日に承認した。1963年以来、シリアの政治システムで主導的な役割を担ってきたのは、憲法で与党の地位を保守されたバアス党で、アサドはその書記長を務めている。なお新しい法案には、政党は宗教を基盤にして創設する事はできず、さらに外国の政治組織の支部として軍あるいは武装組織を基盤として党を作ったりする事は禁止している。
  7月29日、シリア軍の大佐リヤード・アスアドは、インターネットでビデオ映像を配信し、そのなかで軍を離反し、「自由シリア軍」設立を発表する。「民間人を殺害する治安部隊に対して、合法的な目標をもって対峙することになる」と述べ、「我々はシリア領内のあらゆる場所で例外なく目標を実行する」と表明した。また、「名誉あるすべての軍人」と彼が名づけた兵士に直ちに軍を離反し、国民の胸に自らの銃を向けることを止めるよう呼びかけた。
2011年8月
  8月に入っても反政府デモに対する弾圧は続き、国連安保理では対策をとることができない事態が続く。リア・ノーボスチ通信によれば、2日目となる安保理でのシリアに関する議論では、15の理事国の間での意見が分かれているという。ロシアの国連常駐代表ヴィタリー・チュルキンが記者らに、「欧米諸国はシリアでの問題の責任が完全に政府側にあるとしており、シリア政府に圧力をかけることが必要だと考えている一方で、ロシアを含むほかの国々は、シリア国内のすべての勢力を対話のテーブルにつかせることが重要だと考えている」とのこと。シリア問題に関しては、どのような形で安保理としての反応を示すのかについても定まっていない状態であった。

  米国は、アサド側の行動に原因があると考えを政府報道官のカーニーが伝えた。カーニーは、シリア政府が一般市民への武力行使を停止するために、米国はシリア政府に圧力をかけるための新たな対策の検討を続けていると指摘した。カーニーは、アサドがいないほうがシリアのためになると指摘した。報道官は、アサドは反政府抗議デモの参加者らへの武力行使を強化することで、国民の要求に応える用意も、その能力もないことを提示していると述べた。人権擁護家らのデータによるとシリアでは約4ヶ月前から続く大規模な抗議デモへの弾圧によってこれまでに1300人以上が犠牲になったとした。シリア政府は、軍は武装した過激派グループに対抗しているだけにすぎないと述べてい
  シリア外相ワリード・アル=ムアッリムが6日、ダマスカスで外国の大使らと会談した際に自由な人民議会選挙が今年末までに実施されると述べた。現議会の任期は、来年4月までとなっている。外相の声明はペルシャ湾岸諸国がシリアに対して武力行使を即時停止するよう呼びかけた後に表明された。アサドは4日、野党政党の活動を承認する大統領令を発令した。
  アサドは8日、反政府デモが発生している各都市の代表者らと協議した後、国防相を更迭しシリア軍参謀長ラージハを新国防相に任命した。2009年から国防相を務めていたハビーブは欧州連合によるシリアの高官らに対する制裁リストに含まれていた。シリア国営放送によって、翌日9日に死去したことが発表された。72歳だった。死因は健康上の問題とのこと。
  ブラジル外務省が10日、インド、ブラジル、南アフリカの外務省代表らとアサドがダマスクスで会談した際にアサドは、複数政党制導入と憲法改正を行うことを明らかにした。憲法改正プロセスは来年の2月から3月に終了するという
  アサドは、国連事務総長パンとの電話会談で「シリア国内での反政府抗議行動参加者に対する軍と治安部隊による作戦は、停止された」と伝えた。しかしながら以降も軍による弾圧の死者は増え続けた
2011年9月 シリア国民評議会の形成
  デモ開始から半年目の15日にトルコのイスタンブールで開かれた会合でアサド退陣を求める反体制派の統一機関「シリア国民評議会英語版」が形成された。「国民評議会」のメンバーとして、140人が正式に任命された。メンバーの多くは、シリアに滞在していた。
  9月27日、イギリス、フランス、ドイツ、ポルトガルが国連安保理にシリア政府による反政府勢力への弾圧を非難する決議案を提出。しかし10月4日、ロシアと中国の拒否権行使により否決。
  アサドは28日、最高選挙管理委員会組織に関する大統領令に署名した。サナ通信によれば、委員会のメンバーには高等裁判所の顧問10名が含まれていた。選挙に関する法案は、7月に政府により承認済みだが、その際、新しい政党法についても討議すべきだとの声が上がった。
2011年10月
  安保理決議採択が4日に行われたが否決された。AFPが伝えたところでは安保理15カ国のうち9カ国が、シリア国民に対する同国当局の弾圧を非難する決議に賛成、4カ国が棄権した。ロシアと中国は拒否権を行使した。投票後、ロシアの国連大使ヴィタリイ・チュルキンは「西欧諸国が持ち出した決議案が採択されたならば、シリア内戦激化を煽る事につながっただろう」と指摘し「ロシアは、シリアでリビアのシナリオが繰り返されることには反対だ」と強調した
  野党はアサド政権との対話に反対の立場であることを表明、野党はシリア政府は対話を危機から脱出するための解決策の模索ではなく、政権側にとってより好適なイメージをつくるために利用していると述べ、シリアで暴力が高まっている責任は政権側にあるとし、武力を用いて危機を解決する方法は緊張を高めるだけだと強調した。
2011年11月
  アラブ連盟はシリア問題に関する緊急会合を16日、モロッコの首都ラバタで開催する。アルジェリアの外務報道官アマラ・ベラニの声明では、「我々は16日ラバタで、シリア問題に関するアラブ連盟外相会合を開催することに決定した。」と述べられている。アラブ連盟による最後通牒への返答のために、48時間が残された。16日には、シリアに対する制裁措置が発効、アラブ連盟におけるシリアの加盟国としての立場の停止と、それに伴う経済的、政治的制裁が行われた。アラブ連盟は、シリア政府が反政府デモの「流血の弾圧」を停止し、同国への監視団派遣を認めるために3日間を与えた。
  アサドは、英国の新聞「サンデー・タイムス」のインタビューに応えた中で「シリアへの軍事侵攻は、中東全体を不安定化させ、その後遺症は『ひどく恐ろしいもの』になるだろう」と述べ、「もし西側のリーダーに道理と理性があるならばそんな事はしないだろう。自分個人としては、外国軍と戦い、シリアのために死ぬ用意ができている。アラブ連盟は『挑発行為』を行い、外国による対シリア干渉の土壌を用意している。自分は大統領の座を去るつもりはない。」と述べた。
  11月20日未明、バアス党支部にロケット弾が撃たれた。「自由シリア軍」が犯行声明を出した。
  11月23日国連総会は、シリアにおける人権侵害を非難する決議案を採択した。賛成122、反対13、棄権はロシアを含め41カ国だった。
2011年12月
  シリアは、アラブ連盟からの監視団を受け入れるための議定書に調印した。AFP通信が明らかにした。監視団は、シリア政府が危機の克服について、実際に平和的な手段での解決を目指し、流血を止めようとしていることを確認するのが目的。これより先、アラブ連盟はシリア国内での暴動が続いていることを受けて、シリアの加盟国としての立場を停止し、経済的な制裁措置を導入していた。国連の資料によれば、シリア国内では5千人以上が犠牲になっているという。
  アラブ連盟からの定期監視団が25日、シリアに到着する。監視団は、アラブ連盟によるプランがシリア政府によって守られているかどうかを確認することを目的としたもの。そのプランには、政府軍の都市部からの撤退をはじめ、暴力の停止、政治犯の恩赦、野党勢力との対話などが盛り込まれている。これより先22日、首都ダマスカスには30人からなる最初の監視団が到着していた。25日に到着する監視団は150人規模となる。団長を務めるのは63歳のスーダンの将軍ムハンマド・アフマド・ムスタファー・アッ=ダービー。アッ=ダービーはスーダンの軍事諜報を指導した経歴があり、アフリカ各地の外交使節や平和維持活動に参加していた。シリア政府は先週、アラブ連盟のプランに調印し、その一部を実行に移した。
2012年3月 政府軍によるホムス制圧(第1次ホムス制圧)(詳細は「ホムス包囲戦」を参照)
  3月1日、政府軍が反体制派の最大拠点であったホムスを制圧。
2012年6月 政府軍によるトルコ軍機の撃墜
  6月22日、トルコ軍のF4ファントムがシリアに撃墜された。
2012年7月 反体制派の大攻勢
  7月15日、ダマスカスで反体制派と政府軍による激しい戦闘が勃発し、17日には反体制派が市民に対して一斉蜂起を呼び掛けた。18日、ダマスカスの治安機関本部で反体制派の自爆テロにより、国防相ラージハ、副国防相シャウカト(大統領アサドの義兄)、副大統領補トゥルクマーニーの3人が死亡し、内相シャアールと国家治安局長イフティヤールが負傷した。これに対してアサド政権側は、直ちに新国防相にファリージを任命し、反体制派への報復を宣言し攻撃を開始した。20日、イフティヤールが死亡。
  7月19日、国連安保理において、「国際連合シリア監視団 の派遣延長」と「アサド政権への制裁」を合わせた欧米の決議案を採決したが、またもや中国・ロシア両常任理事国が拒否権を発動し、否決された。同日、反体制派がトルコ国境検問所とイラク国境検問所を含む3か所の検問所を制圧し支配下に置いた。
  7月20日、反体制派がアレッポ東部を掌握(アレッポの戦い (2012-)) 。
2012年8月 日本人ジャーナリスト殺害
  8月11日、アメリカ国務長官ヒラリー・クリントンは声明を発表し、シリアの反体制派に対しさらに550万ドルの非軍事的支援を行うことを明らかにした。
  8月12日、シリア当局は、国際テロ組織アルカイダとの関連が疑われるジハード主義組織ヌスラ戦線の指導者ワーイル・ムハンマド・アル=マジダラーウィーを殺害した、と発表した
  8月20日、日本人ジャーナリスト山本美香がアレッポを取材中にシリア政府軍と思われる部隊に射殺された。
  8月21日、シリアのカドリー・ジャミール副首相は、モスクワでロシア外相セルゲイ・ラブロフと会談し、「シリア政府は直ちに反体制派と政治対話を行い、各方面との和解のために努力していきたい」と述べ、また、会談後の記者会見において、反体制派との対話が行われれば、アサド退陣についても協議する用意があることを表明した。
2012年9月
  9月6日、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の職員が、自宅で銃撃され殺害された。9日、ダマスカス郊外でUNRWAの職員が、出勤途中に銃撃され死亡した。
  9月17日、国連人権理事会の独立調査団長パウロ・ピネイロは、シリア国内におけるジハード主義者を含む外国人勢力の存在感の増大と、それら勢力が国内反政府武装勢力をより過激な姿勢に仕向けている傾向がある、と報告した。
  9月20日、ダマスカス近郊のドゥーマーで、シリア政府軍のヘリコプターが墜落した。反体制派は、撃墜したと主張した。
  9月23日、ダマスカスで、外国からの支援を受けた武装勢力や在外人士中心の反体制派組織「シリア国民評議会」に批判的な左派系反体制派組織・「民主変革勢力国民調整委員会(NCCあるいはNCB)」の呼びかけで反体制派の会議が開かれ、平和的手段によるアサド政権打倒で一致した。この会議には他に約20の反体制派勢力が参加したが、反体制派武装勢力・自由シリア軍は、この会合への参加を拒否した。
  9月26日、カタール首長ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーは、国連総会一般討論演説で、シリア問題に関して「政治的・軍事的・人道的義務からアラブ諸国自身が軍事介入した方が良い」と述べた。一方で、エジプトのムルシーは、前日の25日アメリカPBSテレビのインタビューにおいて、シリアに対する外国の軍事介入について、反対である、と述べ、大いなる誤りだ、と指摘した
2012年10月
  10月2日、レバノンの治安当局者が、アサド政権と密接な関係を持つレバノンのシーア派組織・ヒズブッラーの司令官アリー・フセイン・ナースィーフと戦闘員がシリア国内で死亡したことを明らかにした。ヒズブッラー系紙アル=インティカードは、「ジハードの義務を遂行中に」死亡した、と伝えたが、ヒズブッラーの報道官イブラーヒーム・ムーサウィーは、死亡については認めたが、いついかにして死んだかなど詳細については明らかにしなかった。同日、ヤン・エリアソン国連副事務総長は、シリア問題に関して「エジプトと協力しながら進めていく」と述べ、ブラヒミ特別代表が来週からカイロで活動をはじめることを明らかにした。
  10月3日、シリア北部の都市アレッポのサアドッラー・アル=ジャービリー広場で、シリア政府軍を狙った車爆弾攻撃が3件発生し多数の死傷者が出た、とシリアメディアなどが報じた。シリアに拠点を置くジハード主義組織ヌスラ戦線が、車爆弾攻撃への関与を認め、この攻撃が自爆攻撃であったと主張している。
  3日にシリアからの砲弾でトルコ住民5人が死亡して、両国の国境で高い緊張状態が続いており、トルコ政府は4日、シリアに派兵する議会承認を得た。
  10月20日、シリアを訪問していた国連・アラブ連盟合同特別代表ブラヒミは、ダマスカスで外相ムアッリムと会談した。ブラヒミは、先に26日から29日のイード・アル=アドハー(犠牲祭)期間内の停戦案を提示しており、これに対しトルコやイラン、中国などの支持を得ていた。
2012年12月
  12月17日、同日付のレバノン紙アル=アフバールのインタビューで、シリア副大統領ファールーク・アッ=シャルアは、政権・反体制派ともに最終的な解決をなし得ないこと、軍事的・政治的解決が一層困難となっていることを指摘し、国連安保理・周辺国などの関与の下での挙国一致政権の樹立が不可欠、と主張した。
  12月26日、シリア政府の憲兵隊司令官少将アブドルアズィーズ・アッ=シャッラールが、動画投稿サイトに掲載したビデオ声明で、政権より離反し反体制派へ加わることと明らかにした。
2013年3月
  3月6日、国連難民高等弁務官事務所は、シリアから国外へ逃れた難民の数が100万人に達したことを明らかにした。また同日、ゴラン高原において停戦監視にあたっている国連兵力引き離し監視軍(UNDOF)のフィリピン人要員21人がシリア反体制派勢力に拘束された。「ヤルムーク殉教者」と名乗る組織がネット上に犯行声明を出した。9日、UNDOFのフィリピン人21人が解放された。
  18日、シリア軍戦闘機2機がレバノン北部の町アルサールにロケット弾3発を撃ち込んだ。この攻撃による犠牲者などは伝えられていない。レバノン大統領ミシェル・スライマーンは、「受け入れられない」としてこの攻撃を批判、シリア外務省は攻撃を否定している。
2013年5月
  5月5日、5日未明にダマスカスの近郊にある科学研究施設がイスラエル国防軍によるミサイル攻撃を受けた、とシリア国営のシリア・アラブ通信(SANA)が伝えた。
  5月5日、国連人権理事会のシリア問題に関する国際調査委員会の調査官カルラ・デル・ポンテは、シリア反体制派武装勢力がサリンを使用した可能性が高いこと、現在のところシリア政府軍が化学兵器を使用した根拠が発見されていないことを明らかにした。
2013年8月 政府軍による化学兵器使用疑惑とNATO軍介入危機(詳細は「グータ化学攻撃」を参照)
 2013年8月、化学兵器によって殺害されたとされる市民の遺体(リンクをクリックして画像を開く) 8月18日、サリンなどの神経ガスの使用の有無を調査するための国連調査団がダマスカスに入った。
  28日、イギリスが化学兵器の使用を根拠としたシリアへの武力行使を容認する決議案を国連安全保障理事会に提出。しかし中国・ロシアの反対により合意に至らなかった。オバマ大統領はテレビ局のインタビューに応じた中で、アサド政権が化学兵器を使用した事を結論付けたと発言し、軍事介入を示唆した。29日、英国下院が同国によるシリアへの軍事介入を容認する動議を否決した。
2013年9月
  9月4日、アメリカ上院外交委員会は、シリアへの軍事攻撃を条件付きで承認した。地上軍投入は禁止し、軍事行動の期間を最大90日間に限定するなどの内容となっていた。
  9月5日、ロシアのサンクトペテルブルクG20首脳会議が開催された。経済問題を話し合う場だが、今回はシリア情勢について意見がかわされた。攻撃を主張するアメリカ、フランスに対してロシア、中国は攻撃反対を主張し、その溝は埋まらないまま閉幕した。また、教皇フランシスコは、プーチンに書簡を送り、軍事介入は「無益な努力」だと訴えた。
  9月9日、ロシア外相ラブロフは緊急記者会見で、シリアの化学兵器を国際管理下に置き、シリアが化学兵器禁止条約に参加することを要請した。9月12日、シリアのアサド大統領は、ロシアの国営通信RIAノーボスチのインタビューで、この要請に応じる準備があると回答した。また化学兵器禁止条約への署名後、1ヶ月後に化学兵器の情報を提供すると発表した。9月14日、シリアの化学兵器廃棄に向けて、アメリカとロシアは同意し、アメリカやフランスによるシリア攻撃は当面回避される事となった。
2013年10月
  10月14日、シリアは化学兵器禁止条約の190番目の正式な加盟国となった。
  10月23日、シリアの友人たちのアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、エジプト、ヨルダン、カタール、サウジ、トルコ、アラブ首長国連邦の11カ国が、シリア反体制派の代表とロンドンで会合を開く。将来のシリア政権にアサドを参加させないことでは一致したが、11月に予定されている和平会議に反体制派が出席するかどうかについては決まらなかった。
  10月31日、化学兵器禁止機関は、シリア国内の化学兵器生産施設の破壊が完了したと発表した。化学兵器禁止機関は、予定されていた23箇所すべての施設を破壊した。化学兵器禁止機関の広報官は、シリア政府は、今後、化学兵器を製造する能力は無くなったとしている。しかし、この発表はシリア政府自身の説明に依存する所が大きく、反政府勢力は「これほど迅速に全ての設備が破壊できるものだろうか」と発表を疑問視している。アメリカの政府高官の話として、シリアが化学兵器や設備をどこか他の場所に隠した可能性がある事も指摘されている。化学兵器禁止機関による完全な化学兵器の無力化作業は、2014年6月30日まで続く予定とした。
2013年11月
  11月15日、化学兵器禁止機関はオランダハーグの本部で会合を開き、シリアの化学兵器については、廃棄の優先度の高い兵器をシリア国外に持ちだして、2014年3月末までに処理することなどで合意した。毒性の弱い兵器も、2014年6月末までに廃棄する予定とし、シリアに残った生産設備などは、シリア側が破壊する計画とされた。しかし、処理場所として有力視されていたアルバニアは受け入れを拒否しており、計画通りに廃棄が進まない可能性が示唆された。当初、アルバニアのリエディ・ラマ首相は、化学兵器の受け入れに積極的だったが、国内の環境団体や学生の反対デモを受け、受け入れ反対に転じたという。他の有力候補とされていたノルウェーベルギーも、受け入れを拒否した。廃棄は2014年7月9日より公海上で開始され、同年の8月18日に終了した。これにより発生する分解物質はイギリス・アメリカ・ドイツ・フィンランドで処理されることとなった。
2014年5月 反体制派のホムス旧市街からの撤退(第2次ホムス制圧)(詳細は「ホムス包囲戦」を参照)
  5月9日、停戦交渉に基づき、反政府勢力がホムス旧市街からの撤退を完了。
2014年6月 バグダディのカリフ僭称とイスラム国家の樹立宣言
  6月3日、大統領選挙実施。投票率73%、得票率88.7%で現職アサドが当選(3期目続投)。反体制派の多くは大統領選挙をボイコットし、正当性は皆無と主張。
  6月30日、ISILの指導者アブー・バクル・アル=バグダーディーカリフを指導者とするイスラム国家の樹立と自らのカリフ即位を宣言し、組織の名称をISIL(イラクとレバントのイスラム国)からIS(イスラム国)へ改称。
2014年7月 アサドの大統領就任(3期目)
  7月16日、現職アサドの3期目の大統領就任式を実施。
2014年8月 ISによるラッカ県制圧
  8月24日、ISはシリア北東部のラッカ県にあるシリア政府軍の空軍基地を制圧、ラッカ県のほぼ全てを手中に収めた。  
  アサド政権は、ISの勢力拡大に対して国際社会と協力する用意があると表明した。これまでアサド政権打倒を目指してきた反政府派を支援してきたイギリスやアメリカの協力も歓迎するとした。
  8月28日、国連ゴラン高原の兵力引き離し監視軍要員43名が武装勢力に拉致されたと発表、この武装勢力は、シリアの反体制派ヌスラ戦線の可能性が指摘された。また、同日28日、ISは先日、シリア空軍基地を制圧した時に捕らえていたシリア国軍兵士500人のうち、160名の処刑を発表、処刑映像を公開した
2014年9月 ISによるコバニ包囲とアメリカ軍によるIS空爆(詳細は「コバニ包囲戦」を参照)(詳細は「生来の決意作戦」を参照)
  9月16日、ISの軍勢がトルコ国境沿いのクルド勢力の拠点都市コバニ(アイン・アル=アラブ)市街地に侵入、コバニを巡る戦闘が激化。
  9月23日、アメリカ軍がISに対する空爆を開始(生来の決意作戦)。
2015年1月 YPGによるコバニ解放
  2015年1月1日、イギリスのNGO、シリア人権監視団は2014年を通じたシリア国内の戦闘による死者数を7万6,021人と発表。この数字は、2011年3月の戦闘開始以降で最多。死者のうち約18,000人が一般市民。
  2015年1月26日、コバニを防衛していたクルド人民兵組織のYPG(人民防衛部隊)がISの撃退に成功(コバニ包囲戦)。
2015年8月
  8月18日、ISがパルミラ研究の第一人者である考古学者ハレド・アサドを殺害。
2015年9月 ロシア軍による軍事介入(詳細は「ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆」を参照)
  9月30日、ロシア航空宇宙軍がシリア政府を支援するためISに対しSu-24Su-25Su-34による空爆を開始。さらに10月にはカスピ小艦隊の艦艇がイラン、イラク領空を通過する巡航ミサイルによる攻撃を加えた。アメリカ政府は「ロシアが空爆した場所にISILはいない」としてロシアを非難。
  これ以降、ロシアやイランの支援を受けたシリア政府軍が優勢となる。
2015年10月 シリア民主軍結成
  10月12日、シリアのクルド人民兵部隊クルド人民防衛隊(YPG)と、複数のアラブ系反政府勢力などが正式な同盟関係を結び、シリア民主軍(Syrian Democratic Forces、SDF)を結成。
2015年11月 政府軍によるクワイリス軍事空港解放
  11月11日、シリア政府軍がISにより包囲されていたアレッポ近郊のクワイリス軍事空港を解放。約2年ぶりに同基地に対する陸路の補給路を確保。
2015年12月 政府軍のホムス平定(第3次ホムス制圧)(詳細は「ホムス包囲戦」を参照)
  12月9日、中部ホムスにおいて反体制派が支配してきた最後の拠点ワエル地区で停戦が成立。反体制派が撤退を開始し、アサド政権がホムス全土を掌握。
2016年1月
  1月16日、ISがデリゾールで大規模攻撃を実施。一時はISの市内への侵入を許し、住民の虐殺や137旅団基地内の弾薬庫を抑えられる等、人的・軍事的な被害も発生したが、政府軍はハサカカーミシュリーからの兵力の引き抜きとロシア軍の空爆支援で対処し防衛に成功。
2016年3月 政府軍によるパルミラ奪還
 3月23日、アサド政権が2015年6月よりISに占領されていたパルミラを奪還。
2016年7月 政府軍によるアレッポ包囲
  7月25日、シリア軍がヌスラ戦線、アレッポ・ファトフ軍作戦司令室からなる反体制武装集団との戦闘の末、アレッポ市北部のライラムーン地区を完全制圧し、アレッポ市東部地区への封鎖をさらに強化した。これにより、アレッポ市北部とアレッポ市北東部のシリア軍支配地域は面でつながったという。
  7月31日、反体制諸派が政府軍によるアレッポ東部の包囲網を打ち破るべく猛攻撃を開始。
2016年8月 アレッポ包囲の失敗・トルコ軍による軍事介入
  8月6日、シリアの反体制派が3週間にわたっていた政府軍によるアレッポ(Aleppo)東部の包囲を破ったと発表。南西からアレッポに入る新しいルートを開くことに成功し、政府軍による包囲を破った。形勢は逆転され、ロシアの支援を受ける政府軍が守勢に回るかたちになる。
  8月24日、トルコ軍が自由シリア軍とともにアレッポ県北東部のISおよびクルド勢力支配地域を攻撃(ユーフラテスの盾作戦)。
2016年9月 政府軍によるアレッポ再包囲
  9月4日、政府軍は、「同盟諸部隊」とともに、アレッポ市南西部郊外の士官学校(兵器科など)一帯で反体制派を掃討、8月上旬に喪失していた同地を奪還。反体制派の兵站路すべてを再び遮断し、アレッポ市東部街区を再包囲。
2016年12月 政府軍によるアレッポ奪還(詳細は「アレッポの戦い (2012-)」を参照)
  12月13日(日本時間14日未明)、政府軍がアレッポ全土を完全制圧。国連安全保障理事会の緊急会合で「反体制派戦闘員が脱出するための合意ができ、戦闘員は退去を始めた。その過程で政府軍の軍事行動も停止された。」と発表。12月14日、アサドがYou Tube上にアレッポ戦での勝利を祝うインタビューを公開、事実上の勝利宣言を実施。22日、シリア軍武装部隊総司令部が、アレッポ市東部に残留していた反体制武装集団戦闘員の退去が完了し、アレッポ市を解放し、治安と安定を回復したと発表。
2017年2月 トルコ軍と反体制派によるアルバブ奪還(詳細は「トルコ軍によるシリア侵攻 (シリア内戦)」を参照)
  2月23日、トルコ軍とその支援を受ける自由シリア軍がISILからアル=バーブを制圧した。28日、トルコ軍が攻略を目指すクルド勢力の拠点都市にアメリカ軍地上部隊が展開した。
2017年3月 トランプ政権、アサド政権打倒の方針変換を表明
  3月31日、米のドナルド・トランプ政権はアサド政権打倒を最優先する方針を転換することを発表した。露と協力してISやテロリストの打倒を目指す方針を表明。一方、武器援助等で米国の支援を受けていた反政府武装勢力側は、受け入れられないと強く反発した。米国内では上院議員ジョン・マケインがこの政策の転換を強く非難した
2017年4月 化学兵器の使用疑惑と空軍基地攻撃
  4月4日、シリア人権監視団により、アサド政権軍による北西部イドリブ県の反政府軍が支配する町への空爆(カーン・シェイクン化学兵器攻撃)があり、少なくとも72人の死者が出て、多数の人が負傷しているとの発表が行われた。発表された映像には、呼吸困難や痙攣などで苦しむ子供や女性の動画が流され、サリンや塩素ガス等の神経ガスを使った化学兵器が使用されたと発表した。国際NGOの国境なき医師団アムネスティ・インターナショナルはアサド政権の化学兵器を使った空爆による被害であるとして強く非難した。しかしながら、シリア政府軍によって神経ガス攻撃が行われたことの証拠は示されておらず、アサド政権は化学兵器の使用を全否定した。
  4月7日、米政府はシリア政府軍の安全保障理事会の規約を無視した独断的な化学兵器の使用に対し、米海軍の地中海に展開する駆逐艦ポーター』と『ロス』より59発の巡航ミサイルをシリア国内のシャイラート空軍基地に向けて発射した(シャイラト空軍基地攻撃)。シャイラート基地は化学兵器貯蔵に使われていたため、ここの空軍機が空爆を行ったと判断しここに向けての巡航ミサイルによる攻撃に踏み切ったとした。米政府はISに対しての空爆攻撃は行っていたものの、アサド政権に対する攻撃に踏み切ったのはこれが初めてであった。またトランプは「シリアの独裁者、アサドが罪のない市民に対して化学兵器を使って攻撃を行った。このとても残虐な行為によって可愛い赤ちゃんたちも無慈悲に殺された。シリアの空軍基地に対する攻撃を指示した。この攻撃は化学兵器の使用と拡散をやめさせるための安全保障上、非常に重要な国益だ。」と述べた。またプーチンはアサド政権支持を表明した。日本政府はいち早く米政府の支持を表明した。
2017年10月 IS(イスラム国)の崩壊(詳細は「ラッカの戦い (シリア内戦)」を参照)
  10月20日、シリア民主軍がラッカ解放宣言を発表。
2017年11月 政府軍のデリゾール奪還とイラク国境到達
  11月3日、政府軍がデリゾール全域を奪還。
  11月9日、政府軍がイラク国境の町アブ・カマルを奪還。11日、ISがアブ・カマルを再度占領。19日、政府軍がアブ・カマルを再度奪還。
2017年12月
  12月11日、プーチンがシリアのフメイミム空軍基地を訪問。IS掃討完了とロシア軍主力の撤退開始を宣言。
2018年1月 トルコ軍のアフリーン侵攻
  1月5日夜~6日、シリアに駐屯するロシアのヘメイミーム空軍基地に対してドローン10機、タルトス海軍基地に対して3機による攻撃があり、ロシア軍が撃墜または捕獲したとロシア国防省が発表。
  1月20日、トルコ大統領エルドアンが、クルド人勢力の民主連合党(PYD)が支配するシリア北部への攻撃(オリーブの枝作戦)開始を発表。
  1月30日、ロシアが主導して同国南部ソチで開かれた「シリア国民対話会議」が憲法委員会の設置に合意。会議はアサド政権と反体制派のうち政権に融和的な一部のみが参加し、ジュネーブ和平協議に参加する反体制派代表団「高等交渉委員会」(HNC)は出席を拒否。
2018年2月 アサド政権とYPGの協調と政府軍の東グータ攻勢
  2月10日、シリア防空軍がシリア南部でイスラエル軍機を撃墜。
  2月11日、シリア政府はYPGがハサカ・コバニ方面からアフリーンへの増援部隊派遣の経路を確保することでYPGと合意。12日、トルコ軍のアフリーン侵攻に対し、YPGがシリア政府に軍事支援を要請。18日、シリア政府とYPGの間でアフリーン市を巡る合意が成立。アフリーン市一帯のシリア政府への移譲と、シリア軍の進駐が決定。20日、シリア政府がアフリーンへの民兵部隊の派遣を開始。22日、シリア政府の派遣した親政府民兵からなる「人民部隊」がアフリーン入り。YPGがアレッポ市内の支配地域をシリア政府に移譲、YPGに代わってシリア軍が同地に展開。
  シリア政府軍が反体制派支配地域の東グータへの空爆を激化する。28日、シリア政府軍による18日以降の東グータへの空爆による死者が602人になるその中に子ども147人が含まれている。
2018年3月 政府軍による東グータ分断包囲とトルコ軍のアフリーン制圧
  3月9日、政府軍は反体制派の支配下にあるバイト・サワー村を制圧し東グータ地方を南北に分断。10日、政府軍は東グータ地方をドゥーマ市および同市北部一帯、ハラスター市一帯、それ以外の南東部の三つに分断する事に成功。15日、政府軍が東グータ地方中部ハームリーヤ市を制圧、同市住民約2万人が政府支配地域に避難。同日、東グータ地方ドゥーマ市でも市民数千人がシリア政府支配地域に退去。15日、ダマスカス近郊ヤルムーク・パレスチナ難民キャンプで政府軍とISの停戦合意が成立。18日、アサドが東グータの前線を視察。22日、ロシアの仲介により20日に成立したシリア政府とシャーム自由人イスラム運動(シリア解放戦線)の停戦合意に従い、21日に開始された東グータ地方ハラスター市の戦闘員と家族の退去が完了。24日、22日にロシアの仲介で交わされたシリア政府とラフマーン軍団の停戦合意に従い、東グータ地方のアルバイン市から退去を開始。
  3月18日、トルコ軍及び反体制派がロジャヴァの拠点都市の一つアフリーンを制圧。
2018年4月 米英仏による化学兵器関連施設への攻撃と東グータ制圧
  4月1日、ロシアの仲介でシリア政府とイスラム軍による東グータ地方ドゥーマ市での停戦合意が成立。2日、イスラム軍が東グータ地方ドゥーマ市からの撤退を開始。
  4月2日、ハマ県南部の10ヵ村がシリア政府との停戦に合意、シリア政府軍が進駐。
  4月5日、イスラム軍の内部対立によりドゥーマ市からの撤退が延期。
  4月6日、YPGがアレッポ県タッル・リファット市から撤退し、シリア政府軍が引き継いで展開。
  4月8日、イスラエル軍がホムス県タイフール航空基地を爆撃。
  4月8日、シリア政府とイスラム軍の停戦交渉が再開、イスラム軍がドゥーマ市から戦闘員を退去させる事に合意。9日、イスラム軍のドゥーマ市からの退去が再開。
  4月14日、アメリカのトランプ政権はイギリス、フランスとともに、アサド政権の化学兵器に関連するとされる3か所へのミサイル攻撃を行った。
  4月14日、シリア政府軍がドゥーマ市を奪還し東グータ全域の制圧を発表。アサド政権が国土の約6割を掌握。
  4月17日、東カラムーン地方(ダマスカス郊外県)の反体制派が停戦に応じ退去を開始。
  4月19日、イラク政府軍が、シリア東部デリゾール県のIS拠点を越境空爆。36人を殺害したと22日発表。
2018年5月 政府軍による首都ダマスカス完全掌握
  5月21日、シリア軍は激しい戦いの末にダマスカス南部からISを駆逐し、首都とその近郊を完全に支配下に置いたと発表。
アサド政権存続後の内戦
   東グータの陥落に伴い、反体制派がアサド政権中枢であるダマスカス官庁街を攻撃する手段を完全に失った事で、アサド政権の存続は確定的となり、アラブの春に端を発し、アサド政権打倒を目指して始まったシリア内戦は事実上の終焉を迎えた。しかし、シリア全土の奪還を目指すアサド政権に対し、イドリブを中心とした北西部に撤退した反体制派は抗戦を続け、ロジャヴァからユーフラテス川東岸を実効支配するシリア民主軍もアサド政権と一定の協調はしつつも勢力圏の維持を図り、欧米やトルコなども依然として支持勢力への支援を継続して継戦能力を維持させ、アサド政権の施政権を阻むことで、内戦の様相はアサド政権打倒から分離・独立に近いものへと変化している。
2019年10月 トルコ軍のシリア侵攻・米軍のバグダディ殺害(詳細は「トルコ軍によるシリア侵攻 (2019年)」を参照)(詳細は「カイラ・ミューラー作戦」を参照)
2020年1月
  1月3日、アメリカ軍がバグダッドでシリア内戦にも深く関わっていたイラン革命防衛隊の司令官ガーセム・ソレイマーニーを殺害。
2020年2月 シリア・トルコ紛争
2020年3月 停戦と戦線の膠着
  3月1日、シリア政府軍はイドリブ県上空の封鎖と領空侵犯機の撃墜を宣言。
  3月1日、ダルア―県で治安維持の為にサナマイン市に駐留しようとしたシリア政府軍と、シリア政府と和解していた元反体制派が衝突。
  3月2日、シリア政府軍がサラキブ市を再奪還。
  3月5日、ロシアのプーチン大統領とトルコのエルドアン大統領がシリア北西部の情勢を巡りモスクワで会談、6日未明から停戦に入る事に合意。







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