シベリア問題-1



2022.06.19-Yahoo!Japanニュース(8カンテレ)-https://news.yahoo.co.jp/articles/cb34d2d7fffdb244d23bf3ee3f5ae2e2e8ef282e
96歳が弾き語りで伝え続けるシベリア抑留 「恩讐を乗り越えて生きる」訴えも…ウクライナ侵攻に心痛め
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  戦後77年を迎える2022年。 兵庫県高砂市に旧ソ連によるシベリア抑留から生還した男性がいる。 田中唯介さん、96歳。 抑留生活で覚えたアコーディンで、弾き語りを通して訴えるのは、平和への願いだ。 戦争を知る人たちが年々少なくなる中、今もなお戦争の悲惨さを伝え続けている。

「骨まで凍るシベリアに…」平和を願う弾き語り
  6月5日、兵庫県稲美町で、地元の遺族会が主催して、シベリア抑留の講演会が開かれた。 集まった参加者は約200人。 日曜の昼下がり、穏やかな会場の空気は、96歳の田中さんが奏でるアコーディオンの音色で一変した。 「骨まで凍るシベリアに、今なお眠るわが友よ。命を捨てて国のため。尽くした心を誰か知る。ああわが友よ待ってくれ。お前の骨をこの胸にしっかと抱き夢に見た、祖国の地を踏む日まで」

  陸軍の兵士として中国東北部(旧満州)に渡り、ソ連軍の捕虜となってシベリアへ送られ、4年間の抑留の末、舞鶴に帰還するまでの様子を弾き語る。 96歳とは思えない力のこもった歌声で伝えられるシベリア抑留の実情に、参加者は皆、真剣なまなざしで聞き入っていた。
「東京ダモイ」列車に乗せられ着いた先は
  田中さんは、太平洋戦争が終わるおよそ半年前、19歳で陸軍の兵士として当時の満州(中国東北部)に渡った。 終戦後、旧ソ連の捕虜となり、列車に乗せられた。 口々に「東京ダモイ(ロシア語で“帰国”)」と言うソ連兵を見て、日本に帰れると信じて疑わなかった。 道中、海のような場所の前で列車が停車。 日本海だと思った田中さんは、嬉しくなって水をすくって飲むと、淡水だった。 この場所は、日本海ではなく、バイカル湖だったのだ。 日本には帰れないと悟った瞬間だった。

  田中さんが、駅から収容所まで歩かされていた時の写真がある。 これはソ連兵が撮影したもので、日本兵が時計などと交換してネガを受け取った。 田中さんは、この日本兵から帰国後にネガを譲り受けたという。 隊列前方で、1人の日本兵が隊列から離れ、逃げようとしているのが見える。 次の瞬間、ソ連兵が発砲し、その兵士は動かなくなった。見せしめだった。
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飢えと寒さと重労働 凍傷で指を切断
  収容所に送られた田中さんを待っていたのは、飢えと寒さと重労働だった。 粘土を掘りレンガ工場へトロッコで運ぶ作業をさせられた。 毎日の食事は100グラムほどのパンと、キャベツが数切れ入った粗末なスープのみ。 飢えをしのぐため、カエルやヘビも食べたという。 入浴は月1回のみで、直径20センチほどの缶に入ったお湯1杯で全身を洗わねばならなかった。 マイナス40度にもなる極寒。飢えと寒さと重労働で、戦友たちは次々と倒れていった。 ソ連兵に命じられ、自ら穴を掘り、亡くなった戦友の遺体を埋葬することもあった。 田中さんも、作業中に足を滑らせ貨車の上から転倒し、何とか一命はとりとめたものの、凍傷で両手の人差し指を切断せざるを得なくなった。 田中さんは、その時の心境を「真っ暗。絶望感を感じた」と話す。
音楽との出会いが生きる支えに
  抑留生活が3年目を迎えるころ、収容所の食堂で、捕虜となっていたドイツ・ベルリンフィル所属の楽団員たちが、みなの慰めにと演奏を披露してくれた。 中でも田中さんをひきつけたのが、アコーディオンのソリストの演奏だ。 ソ連側になんとか許可をもらい、「耳コピ」でアコーディオンを習い、同時にロシア民謡やソ連国歌などの歌も覚えた。 音楽が、田中さんにとって、生きる支えとなったのだ。 収容所でソ連国歌をロシア語で歌うと、収容所長が喜び、特別にパンを部屋まで持ってきてくれたという。 音楽は、ロシア側に取り入り、生き延びるための手段でもあった。

  田中さんが帰国できたのは、抑留生活も4年目を迎えた1949年。 「やっと解放された」 看護師に脇を抱えられながら、引揚船から降りた瞬間は、今でも忘れられないという。
「恩讐を乗り越えて生きる」平和への願い
  帰国後、田中さんはアコーディオンの演奏などで生計を立てながら、高砂市に楽器販売店兼音楽教室を開業。 舞鶴の引揚記念館の設立に尽力するなど、シベリア抑留の記憶を継承する活動に取り組んできた。 「生き残ったからこそ、語り継がなければならない」 そんな使命感が田中さんを突き動かしている。 2020年には、シベリア抑留者支援・記録センターから、「シベリア抑留記録・文化賞」を贈呈された。
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  田中さんの自宅の一角には、「恩讐を乗り越えて生きる」と書かれたポスターが貼られている。田中さんは、「ソ連のことが憎かった」と話す。 けれども、その憎しみは、音楽によって乗り越えることができた。 「日本が悪いとか、ソ連が悪いとかではなく、戦争が悪い。人が憎しみ合って殺し合うのが悪い。汝の敵を愛せよという言葉があるが、相手を愛すれば、憎しみが取れていく」 講演会では、必ずといっていいほど、ロシア民謡やソ連国歌を演奏する。 これも、「恩讐を乗り越えた」田中さんだからこそできることだ。
  そんな田中さんが今、心を痛めているのはロシアによるウクライナへの軍事侵攻だ。 田中さんは「民間人を殺しちゃだめだ。プーチンはスターリンよりひどい。戦争となれば、普通に暮らしている人たちがどんな悲惨な目にあうか考えてほしい」と話す。 今年は、関西にとどまらず、全国を回って講演会を開くことにしている。 平和を訴えるアコーディオンの音色が、少しでも多くの人に届くことを願う。 (関西テレビ放送記者 竹下洋平)








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