戦争の問題-1




2020.8.15-産経新聞 SANKEI NEWS WEB-https://www.sankei.com/west/news/200815/wst2008150002-n1.html
「紫電改」が墜落 葬られた列車転覆事故 75年後の慰霊碑

  第二次大戦中、さまざまな大事故や災害などが「軍事機密」を理由に秘匿された。兵庫県加西市の旧国鉄北条線(今の北条鉄道)で起こった列車の脱線転覆事故もその一つだ。多数の死傷者を出した列車事故として報道されたものの原因や経緯などは闇に葬られた当時最新鋭の戦闘機「紫電改」が墜落した際、線路に損傷を与えたため起こった事故だったからだ。操縦士や列車の乗客ら12人が死亡し、62人が重軽傷を負う大惨事だった。(小林宏之)
脱線転覆事故
  米軍による空襲が本格化し、沖縄上陸も間近に迫った昭和20年3月31日。試験運転をしていた海軍の新鋭戦闘機「紫電改」が午後4時過ぎ、北条線網引(あびき)駅近くの畑に墜落した。操縦士は不時着しようとした際、後輪を線路に引っ掛け、ねじ曲げてしまった。間もなく満員の乗客を乗せた列車が現場を通りかかり、脱線転覆事故が起こったのだ。
  当時、駅近くの自宅で農作業をしていた藤原昭三さん(91)が振り返る。「上空で飛行機のエンジン音が繰り返し聞こえては消え、おかしいなと思っていたら、『ドドーン』と腹の底をえぐるような轟音(ごうおん)が響き渡った。麦畑の方へ急いで走ると、あまりに無残な光景に息をのんだ」
  紫電改の機体が畑に突っ込み、大破していた。それだけではなく、紫電改が曲げた線路は枕木を付けたまま1メートルほど宙に浮き、そうとは知らずに突っ込んでいった列車が脱線。横倒しになった機関車に、折れ曲がった客車が乗り上げていた。
  藤原さんら駆け付けた住民は、犠牲者の搬出や負傷者の救出に当たった。「生死不明のケースを含めて数え切れない人を、急ごしらえの担架やリヤカーなどを使って近くの公会堂に運んだ」。公会堂には遺族や負傷者の家族も詰めかけ、婦人会も炊き出しを行うなど作業は深夜に及んだ。
事故伝える新聞
  北条線沿線では、昭和18年に姫路海軍航空隊の鶉野(うずらの)飛行場が開設され、隣接して軍用機の組立工場もあった。紫電改の試験飛行による事故が当地で起こったのは、そのためだ。当時16歳だった藤原さんは飛行場内の工事を請け負う会社で働き、北条線に乗って通勤していた。
  「事故の犠牲者や負傷者には海軍関係者や飛行場関連の労働者もいた。私はあの日たまたま欠勤していたが、本当なら乗っていたかもしれない列車だった」
  事故を伝える記事を載せた新聞が、藤原さんの手元にある。「戦況でも大地震でも『機密事項だ』などとして情報統制されていた時代。『紫電改』も軍人の犠牲者も登場しない、ごく小さな記事だが、事故の発生を載せただけでも歴史に残る意義がある」
  事故から75年を迎えた今年3月31日、事故現場となった線路脇で、慰霊碑が除幕された。北条鉄道や事故の遺族関係者らが建立し、出席者が「列車事故殉難の碑」と刻まれた碑に手を合わせた。
平和考える機会に
  長らくベールに包まれていた事故。生存者や藤原さんのような目撃者が事故について語ったり文章に残したりするようになったのは、ここ20~30年のことだという。
  「鶉野飛行場がなければこんな惨事が起こることもなかったとも思うが、自分にとって鶉野は、人生の一部といえる大きな意味を持つ場所だ」と複雑な心境を吐露する藤原さん。自身が慰霊碑を訪れたことはないが、「形だけの合掌ではなく、戦争について平和について考え続ける機会にしてほしい」と願っている。



2020.8.11-Yahoo!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/d6c8bf7a269748e08f97df25df22cc411b951241
「回天特攻隊員の遺書」作者存在せず 元海軍士官が創作疑い

  先の大戦で日本軍が開発した人間魚雷「回天」の搭乗員が書いたとされ、インターネット上に流布している「18歳の回天特攻隊員の遺書」の作者は実在しないことが11日、回天研究者ら関係者への取材で分かった。元海軍士官の男性(故人)の創作だった疑いが強い男性は戦後、特攻隊員の遺書の収集に携わっており、研究者はこうした複数の遺書を基に創作した可能性を指摘している。(大森貴弘)

  《お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。胸は日本晴れ。(中略)お母さん。今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、母さんの涙です》
  この元回天特攻隊員の遺書とされるものが世に出たのは平成7年。元海軍士官の男性が皇学館大の戦没学徒慰霊祭で講演し、大学が講演録として冊子にまとめた。
  この中で男性は自身を回天の元搭乗員と名乗り、先に出撃した仲間の遺書として名前を出して披露。遺書そのものは家族に渡したとして示さなかった。
  男性は立命館大在学中、海軍に志願。海軍辞令公報によると、昭和19年12月に一等巡洋艦「八雲」配属の後、富山県の伏木港湾警備隊で少尉として終戦を迎えた。防衛研究所所蔵の回天搭乗員名簿に男性の名前はない。
  男性が遺書の作者として名前を出した人物は搭乗員の中にいるが、戦死の状況が異なる上、遺書に書かれている家族構成も実際とは違っていた。そもそも別の遺書を残しており、今回の遺書とは関係がなかった。

   回天の元搭乗員でつくる全国回天会は平成12年、講演録をまとめた皇学館大に抗議した。当時は存命中の元搭乗員も多く、男性の話の矛盾を突き止めたという。大学側は謝罪し、講演録の絶版を約束した。
   しかし講演録の販売は継続され、男性は各地で同様の講演を続けた。皇学館大は「担当者が不在のため詳細は分からない」という。動画投稿サイト「YouTube(ユーチューブ)」に男性が遺書の話を語る動画が配信され、回天の基地があった山口県周南(しゅうなん)市の観光協会が遺書の内容を手ぬぐいなどに印刷して販売、事実として定着した。
   男性は戦後、広島県に住み、地元自治体の広報誌によると19年に死亡した。関係者によると、生前は特攻隊員の遺書の収集に携わっていた。
   回天研究家の山本英輔氏は「似た内容の複数の遺書を組み合わせて創作した可能性がある。戦争当事者が少なくなる中、資料の創作や改竄(かいざん)はどこでも起きると考えるべきで、受け手の意識も問われる」と指摘。回天記念館(山口県周南市)の三崎英和研究員も「さまざまな状況を考えると創作と断定せざるを得ない。この遺書を信じて来館する人もおり、正確な情報を伝えたい」と話している。

■回天
通常の魚雷に1人乗りの操縦席を設けることで命中率を高めようと、日本海軍が開発した特攻兵器。天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」との願いが込められた。先の大戦中の昭和18年末、2人の青年士官が考案し上層部に開発を直訴したとされる。19年7月から搭乗員を募集。9月以降、山口県や大分県の計4基地で訓練が始まり、終戦までの9カ月間で延べ148人が出撃、106人が命を落とした。回天を搭載した潜水艦が撃沈されるなど、回天作戦全体の戦死者は1299人だった。




回 天
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


回天(かいてん)は、太平洋戦争(大東亜戦争)で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍初の特攻兵器である

特徴
「回天」という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦回天丸」から取って命名した。開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)」という意味で「回天」という言葉を使っていた。秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)、㊅金物(マルロクかなもの)、(てき)との別称もある。

  1944年(昭和19年)7月に2機の試作機が完成し、11月20日のウルシー環礁奇襲で初めて実戦に投入された。終戦までに420基が生産された。兵器としての採用は1945年(昭和20年)5月28日のことだった
  回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。
  回天が実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃、すなわち泊地攻撃が行われた。最初の攻撃(玄作戦)で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、発進20基のうち撃沈2隻(ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻の戦果が挙げられている。アメリカ軍はこの攻撃を特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と誤認し、艦上の兵士はいつ攻撃に見舞われるかという不安にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという
  しかし、米軍がこまめに防潜網を展開するようになり、泊地攻撃が難しくなってからは、回天による攻撃は水上航行中の船を目標とする作戦に変更された。この結果、搭乗員には動いている標的を狙うこととなり、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。

  回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障しており、エンジンが点火されず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでスクリューが回り出す「冷走」状態に陥ることがあった。
  この場合、回天の速力や射程距離は大幅に低下し、また搭乗員による修理はほぼ不可能であったため、出撃を果たしながら戦果を得ることなく終わる回天が多く出る原因となった。また最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。
  当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった。
  また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで内部の空気が汚染され、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった 
  潜水艦は潜れば潜るほど爆雷に対して強くなるが、回天の耐圧深度は最大でも80メートルであったため、回天の母艦となる伊号潜水艦はそれ以上は深く潜行する場合は回天を破損する覚悟が必要であり、敵に発見された場合も水中機動に重大な制約を受けた。
  そのためアメリカ側の対潜戦術、兵器の発達とあいまって出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈されている。戦争最末期に本土決戦が想定された際は、回天も水上艦を母艦とすることが計画され、海上挺進部隊球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」をはじめとして松型駆逐艦等)や一等輸送艦が改造された。また局地防衛のため、突撃隊などの沿岸防備部隊にも配備された

開発段階
  小型特殊潜航艇甲標的の開発に成功した日本海軍は、大東亜戦争で実戦に投入した。真珠湾攻撃(1941年12月8日)、シドニー湾奇襲(1942年5月30日)、ディエゴ・スアレス泊地奇襲(1942年5月31日)における甲標的作戦では事前に収容方法こそ検討されたものの、搭乗員達は片道攻撃であることを覚悟していた。したがって、体当たり攻撃への気運は潜水艦関係者間に当初から潜在していた。
  人間魚雷の構想は、ガダルカナル島攻防戦が終結に近づいた1943年(昭和18年)初頭に、現場の潜水艦関係者から浮上した。潜水艦乗組員の竹間忠三大尉は「(戦勢の立て直しは)必中必殺の肉弾攻撃」として、人間魚雷の構想を軍令部潜水艦担当参謀の井浦祥二郎中佐に対して送付した。井浦も人間魚雷の実現性を打診したが、艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。 1943年(昭和18年)12月、入沢三輝大尉(当時、伊百六十五型潜水艦水雷長)と近江誠中尉(当時、同潜水艦航海長)は、戦局打開の手段としてまとめた「人間魚雷の独自研究の成果」を血書と共に連合艦隊司令部(当時の司令長官は古賀峯一大将)に直送した。だが、連合艦隊と軍令部は受け入れなかった。
  陸軍の工作機械設計者だった沢崎正恵は、人間魚雷を設計して持参したが、紹介状がなかったため軍務局長には面会ができず、嘆願書を受理してもらった。1944年2月、軍務局長から、それは海軍の管轄との返信があった。
  1943年(昭和18年)末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉も、P基地(倉橋島の大浦崎)で人間魚雷の構想を進めていた。2人は九三式酸素魚雷を改造した人間魚雷(回天の原型)を試作する山田薫に対して進言するも、省部との交渉が不十分だと判断して自ら中央に血書で請願を行った。これを受けたのは、海軍省軍務局第一課の吉松田守中佐と軍令部作戦課潜水艦部員藤森康男だった。同年12月28日に藤森から永野修身軍令部総長へこの人間魚雷が上申されるが、「それはいかんな」と明言されて却下された

  1944年(昭和19年)2月、黒木は再度上京して吉松中佐に採用を懇願する。黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。2月17日、日本海軍はトラック島空襲で大打撃を受ける。 2月26日、吉松中佐は山本善雄大佐(当時、軍務局第一課長)と協議し、呉海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた。マル6兵器(○の中に6だが、環境依存文字のため「マル6」と表記)と仮称され、魚雷設計の権威であった渡辺清水技術大佐のもと試作に着手した。最初は脱出装置(乗員の海中放出)が条件にあった。だが脱出装置の設計は遅々として進まず、開発者2人(黒木、仁科)の主張により同年5月に断念された
  同年4月4日、黒島亀人軍令部第2部長の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」の中で、大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部で担当主務部が定められて特殊緊急実験が開始された

  1944年7月初旬、試作兵器三基が完成する。同月上旬、サイパン島地上戦で同島守備隊は玉砕、潜水艦戦を行う第六艦隊司令部も地上戦に巻き込まれ、司令長官高木武雄中将が戦死した。 7月10日、日本海軍は三輪茂義中将を第六艦隊司令長官に任命する。 同日附で、特殊潜航艇と人間魚雷(回天)の訓練研究・乗員養成を目的とする第一特別基地隊を編成(司令官長井満少将)。回天開発の第一人者、仁科関夫中尉や黒木博司大尉も第一特別基地隊に配属された。 嶋田繁太郎軍令部総長は、第一特別基地隊設立の経緯を昭和天皇に上奏した。回天部隊は第一特別基地隊司令官の指揮下で訓練に従事する。潜水艦に搭載されて出撃する場合は、母艦(潜水艦)と回天で「回天特別攻撃隊」が編成され、先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官三輪茂義中将)の指揮下に入った。 7月25日、回天試作機の試験が大入島発射場で行われる。第一特別基地隊司令部では、兵器として採用するか否かの審議が行われた。指摘の主なものは「酸素エンジンのため、冷走や筒内爆発の危険がある」「魚雷改造の艇のため後進ができない」「舵が推進器の前にあるので旋回半径が大きく、航行艦襲撃が困難」「試作兵器は潜航深度が最大80mしかない。母艦の大型潜水艦の安全潜航深度は100mである。試作兵器の耐圧深度を増大すべき」などが挙げられた。
  同時期、マリアナ沖海戦(あ号作戦)における潜水艦の被害が判明し、潜水艦戦は続行困難とみなされた。同時に特攻への気運が高まっていった。 1944年8月1日、米内光政海軍大臣の決裁によってマル6は正式に兵器として採用された。試験で挙げられた3つの問題点は、終戦まで解決されなかった。 8月2日と3日に呉で行われた潜水艦関係者の研究会では、若手潜水艦長達は特攻作戦の採用を主張、会議の空気も同調した。 8月15日、大森から「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」という発言があった。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される。
運用開始
  一方、回天の生産は、8月末までに100基の1型を生産する計画が立てられたものの、実生産数は9月半ばまでに20基、以後は日産3基が呉市の工廠の限界だった。これは、アメリカ軍が実施した海上輸送の破壊による資材不足や損傷艦の増大、この頃より本格化したB-29による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。回天のベースになった九三式三型魚雷は燃焼剤として酸素を使用するため、整備に非常な手間がかかり、1回の発射に地上で3日の調整が必要だった。十分な訓練期間がない以上、回天の整備隊は3日で2回のペースで調整するよう督促された。
  回天搭乗員は甲標的要員と同居していたが、教育訓練等に支障が生じ、移動することになった。9月1日、山口県大津島板倉光馬少佐、黒木博司仁科関夫が中心となって基地が開隊され、同月5日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始された。 訓練初日の9月6日、提唱者の黒木と同乗した樋口が殉職する事故が起きる。黒木の操縦する回天は荒波によって海底に沈挫、同乗の樋口大尉と共に艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書、辞世などを残した。この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。
  9月12日、大本営海軍部(軍令部)は軍令部総長官邸で奇襲作戦の研究をおこない、丹作戦(敵艦隊所在の泊地に対する航空特攻)と玄作戦(回天攻撃)を検討した。当初の計画では大型潜水艦8隻(予備2隻含む)、潜水艦1隻あたり回天4基(可能なら5基)計32基用意、投入時期は10月下旬から11月上旬、目標はマーシャル諸島各地(メジュロ環礁、クェゼリン環礁、ブラウン環礁)の敵機動部隊となった。 この時点で、回天は水漬け実験をまだ行っていなかった。 9月27日、藤森中佐(軍令部部員)は中澤佑軍令部第一部長に、回天作戦の準備状況を報告する。回天については「回天命中確度75%(と考えられる)。冷走の原因除去に努力している。」と述べた。
実戦投入
回天特別攻撃隊菊水隊
  先遣部隊(第六艦隊)は潜水艦5隻(伊36、伊38、伊41、伊44、伊46)および回天による敵艦隊拠点奇襲攻撃(玄作戦)を、11月上旬に実施する予定で計画を進めていた。だが1944年(昭和19年)10月上旬より米軍機動部隊の行動が活発化(十・十空襲台湾沖航空戦)、日本軍は捷号作戦を発動する。
  玄作戦準備中の第15潜水隊も台湾沖航空戦の残敵掃蕩(誤認)に駆り出された。 10月17日のレイテ島の戦い生起にともない連合艦隊は潜水艦のフィリピン方面集中を下令(レイテ沖海戦)、玄作戦投入予定の潜水艦もフィリピン方面に投入されたので、最初の玄作戦は変更を余儀なくされた
  そこで回天搭載のため改造整備中の潜水艦3隻(伊36、伊37、伊47)をもって、新たに玄作戦を実施することになった。 周防灘で最後の総合訓練を実施。 10月下旬、第15潜水隊の3隻(伊36、伊37、伊47)の準備が完成し、回天特別攻撃隊菊水隊(指揮官は揚田清猪第15潜水隊司令)が編成された。菊水隊の攻撃計画は、機密先遣部隊命令作第一号(玄作戦実施要領)及び機密玄作戦回天特別攻撃隊菊水隊命令作特第一号によって発令された。
   11月5日、連合艦隊は先遣部隊(第六艦隊)に対し、11月20日の回天作戦実施を命じた。このうち、ウルシー泊地攻撃隊は給油艦ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59)を撃沈して初戦果をあげた。最初の玄作戦における軍令部報告の中で回天について、「安全潜航深度増大が必要。熱走後一旦停止すると冷走になるので熱走が続くようにしたい」といった指摘があった。玄作戦詳細は以下のとおり。

  1944年(昭和19年)11月8日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊36潜伊37潜伊47潜に各4基ずつ搭載)の12基が、回天特攻の初陣である。西カロリン諸島への潜水艦や彩雲航空偵察により、目標地点を決定。菊水隊の回天搭載潜水艦3隻のうち、伊36潜と伊47潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島ウルシー泊地を、伊37潜はパラオのコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指した。
  回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」(第1次玄作戦)は、1944年(昭和19年)11月19日から11月20日にかけて決行された。 20日、伊47潜から4基全て、伊36潜からは4基中の1基(残3基は故障で発進不能)の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇を目指して発進した。しかし、伊47潜の帰着直後の報告により作成された「菊水隊戦闘詳報」によると、「3時28分から42分、伊47潜は回天4基発進。発進地点はマガヤン島の154度12海浬」とホドライ島の遥か南より発進させている。

  伊36潜は、4時15分発進予定地点のマーシュ島105度9分5浬に到着。3基は故障で潜水艦から離れず、今西艇だけが4時54分に発進した[46]。その後、伊47・伊36より発進した計5基の回天のうち1基が、5時30分に湾外のムガイ水道前面を重巡洋艦3隻と駆逐艦3隻でサイパン島に向かって航行していた艦隊を発見し攻撃した。しかし、その艦隊の1隻である駆逐艦ケース(USS Case,DD-370 ) が回天の潜望鏡とウェーキを発見、ケースの艦長R.S.ワイリ少佐は真珠湾攻撃以来アメリカ海軍を悩ませていた特殊潜航艇と判断し、これを攻撃するために潜望鏡に向けて進路を向けた。
  回天の潜望鏡もケースを確認するとそれをかわすように大きく変針し、ケースのすぐ傍を通過して重巡洋艦チェスターに突進していった。ケースは回天を追って回頭中であったので爆雷攻撃ができず、回天は攻撃を受けることなくチェスターに向かっていったが、ワイリは爆雷攻撃ではなく、全速力での体当りを命じて、5時38分、艦首で回天の司令塔に体当りし、回天は真っ二つに切断されて、弾頭はそのまま海中に没して、海上に破片が浮上した
  同じ頃にプグリュー島の南側で2基の回天が珊瑚礁座礁して、後に機密保持のために自爆しているが、アメリカ軍の記録によれば、うち1基は故障で海上を漂流中のところを哨戒機が発見して撃破したとされている。

  湾外で回天とアメリカ軍艦隊の戦闘が起こった数分後の5時45分、湾内のタンカーの停泊地に停泊していたシマロン級給油艦ミシシネワに回天1基が命中した。ミシシネワには重油85,000バレルディーゼル油9,000バレル、航空燃料405,000ガロンが満載されていたのでオレンジ色の炎と煙が天に高々と舞い上がり、周辺数海里離れたところからもこの火柱を見ることができた。30秒後に搭載していた航空燃料が誘爆し猛火災となって、最後は武装の38口径5インチ単装砲の砲弾薬庫も誘爆し、消火もままならないまま1時間15分後に転覆して、さらに1時間後に完全に海中に没した。燃えている海上には多数の水兵が投げ出されたが、水上機が水上滑走して、機体後部から曳航したロープに水兵を掴まらせて救助するなどの懸命の救助活動が行われたが、63名が艦と運命を共にし、大量の貴重な燃料油が失われた
  ミシシネワに回天が命中する少し前に、軽巡洋艦モービル (USS Mobile, CL-63) が特殊潜航艇と覚しき目標を発見し発砲した。そのため環礁内は大混乱に陥り、停泊していたあらゆる艦艇がまだ見ぬ目標に向けて発砲をはじめ、100基以上の探照灯が煌々と環礁内を照らした。ちょうどそのころに10,000m離れたタンカー泊地で大爆発が起こり、混乱は一層増長された[50]。6時00分頃、残った1基の回天がモービルに向けて突入してきたが[46]、潜望鏡によって2 - 4ノットの速力で直進してくる回天を発見したモービルが、5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、5インチ砲弾の至近弾を受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、のちに護衛駆逐艦ラール(USS Rall, DE-304)、ハロラン(USS Halloran, DE-305)、ウィーバー(USS Weaver, DE-741)の3隻が代わる代わる爆雷攻撃を行った
  ラールが爆雷攻撃をしたのちに2名の日本兵が海上に浮上してきたのを確認したが、うち1名が元気に泳いでいたので、救出しようとしてハロランが接近したところ泳いでいた日本兵はまた海上に没してしまったという。その後にハロランは容赦なく爆雷を投下、7時18分に多くの破片と大量の油が浮き上がってきたので完全撃破と確認した。その後、ハロランからボートを下ろして回天の破片を回収したところ、日本語で何か書かれた木と金属でできた腰掛と女学生が差し入れた座布団を回収した。その日は浮上していたはずの日本兵の遺体は発見できず、3日後になってこの付近の海面で遺体を発見し、これを日本兵の遺体と確認した

  伊37潜はパラオ・コッソル水道に向かったが、11月19日にパラオ本島北方で発見された。これは米設網艦ウィンターベリー(USS Winterberry, AN-56)が、8時58分に浮上事故を起こした伊37潜(ポーポイズ運動を行った)を発見し、通報したものである。この報告を受けて、米護衛駆逐艦コンクリン(USS Conklin, DE-439)、マッコイ・レイノルズ(USS McCoy Reynolds, DE-440)が9時55分に現場付近へ到着し、両艦はソナーで探索を開始。午後も捜索を続けたのち、15時4分にコンクリンが探知し、レイノルズが15時39分にヘッジホッグで13発を発射したが効果なく失探、16時15分にコンクリンが再度探知して攻撃したところ、「小さい爆発音(命中音と思われる)らしきもの1」を探知。
  続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)接近したところ、17時1分に海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。以後は反応無く、撃沈と判定された。伊37潜の乗員と隊員は全員戦死と認定された。なお、のちにコンクリンは金剛隊を搭載した伊48潜も撃沈している。
  伊47潜の折田善次艦長と乗組員たちは、ミシシネワから上がったオレンジ色の巨大な炎と煙の柱を確認していたが、そのあとに2つの閃光が走ったのを見てさらに2基が命中したと考えて歓喜した。しかし、詳細な戦果を確認する暇もなく、警戒を強化したアメリカ軍の駆逐艦の艦影を発見したため、急速潜行しての退避を余儀なくされた。
  伊47潜と伊36潜はその後無事に内地に帰投し、参謀や潜水艦関係者200名以上の前で折田と伊36潜の寺本巌艦長が戦況を報告した結果、2艦から発進した5基の回天は全基命中したと認定され、空母3隻、戦艦2隻撃沈の戦果を挙げたと公表された。特に折田が、攻撃前に日本軍の偵察機が撮影した環礁内の写真に2隻の空母が写っていたが、攻撃後の偵察写真にその空母がいなくなっていたことを見て、空母撃沈を強く主張したことが、この過大戦果判定に大きく影響した。折田は攻撃前の撮影写真で確認できたのは正規空母ではなく護衛空母と認識していたが、撃沈されたミシシネワは、その外見が同じT2型油槽船から設計されたサンガモン級航空母艦と酷似しており、見間違えた可能性も指摘されている
回天特別攻撃隊金剛隊
  この菊水隊の泊地攻撃で、アメリカ軍の泊地の警戒が厳重になった。生還した伊三六と伊四七の報告を元に研究会が開かれ、潜水艦3隻の喪失と米軍の対抗策を予想して泊地攻撃への懸念が表明されたが、上層部は聞き入れなかった。当山全信海軍少佐(伊四八艦長)の抗議に、艦隊司令部は「精神力で勝て」と命令している。第二次玄作戦は、回天特別攻撃隊金剛隊と命名された。参加潜水艦は6隻(伊36、伊47、伊48、伊53、伊56、伊58)。12月19日、連合艦隊は電令作第448号をもって第二次玄作戦開始を命じる。
  12月21日に伊56(目標地点アドミラルチー諸島ゼアドラ―港)、12月25日に伊47(フンボルト湾)、12月30日に伊36(ウルシー)と伊53(コッソル水道)と伊58(グアム島アプラ港)、翌年1月9日に伊48(ウルシー)が、それぞれ内海西部を出撃した。伊56は警戒厳重のため攻撃機会がなく、伊47は1月12日に四基発進(判定:大型輸送船4隻轟沈)、伊53は同日三基発進(大型輸送船2隻轟沈)、伊58は四基発進(特設空母1、大型輸送船3隻轟沈)、伊36は四基発進(有力艦4隻轟沈)、伊48は未帰還(油槽船1隻・巡洋艦1隻・大型輸送船2隻轟沈)となった。 総合戦果判定は特空母1、大型輸送船9、油槽船1、巡洋艦1、有力艦6、合計18隻轟撃沈というものだったが、戦後調査によれば該当する記録はない。金剛隊の回天作戦は、泊地攻撃の困難さを改めて浮き彫りにした

多聞隊の成功
  沖縄戦も終わり、敗色が濃くなった1945年7月に、第6艦隊は、日本海軍の作戦可能な全潜水艦兵力を回天作戦に投入することとし、伊47潜伊53潜伊58潜伊363潜伊366潜伊367潜の6隻を出撃させた。多聞隊という部隊名は、日本本土への侵攻に対抗するべく武神多聞天から採ったものであった
  この多門隊は、海上において通商破壊を任務としており、各艦は沖縄と太平洋上のアメリカ軍各拠点を結ぶ補給線上でアメリカ軍船団を待ち構えていた。7月24日に伊53潜は戦車揚陸艦7隻、輸送艦1隻と護衛の護衛駆逐艦 アンダーヒル 他数隻で編成された船団を発見し、勝山淳中尉が搭乗する回天1基を射出した。まもなく護衛艦隊が回天を発見し爆雷攻撃を加えたが、護衛艦もパニックに陥っており、射出された回天は1基だったのにも関わらず、何本も潜望鏡が見え、日本軍の特殊潜航艇数隻が攻撃してきたと誤認した。
  そのうち1つの潜水艇らしきものを発見したアンダーヒルは、衝突してその潜水艇を撃破しようと前進したが、勝山艇はアンダーヒルと衝突後に大爆発を起こして、アンダーヒルはあっという間に真っ二つになり、一瞬で10名の士官と102名の水兵が戦死した。アンダーヒルの艦体の前部はたちまち海没したが、残った後部はしばらく浮いていたため、他の艦の砲撃によって処分された。アンダーヒルの沈没は、日本軍潜水艦がフィリピン沖という外洋で積極的に作戦行動しているという衝撃的な情報であったが、なぜかこの情報がアメリカ海軍内で共有されることはなかった

  伊53潜はそのまま回天作戦を続行していたが、8月4日、不意に大量の爆雷攻撃を受けた。新兵器の三式探信儀で探索したところ、伊53潜が気づかないうちに半径1,000mで5隻の敵艦に包囲されていることが判明した。艦長の大場佐一大佐は、30mから回天の耐圧深度80mを超える100mまで艦を激しく上下させたり、艦を激しく左右に急旋回させて爆雷を回避するよう命じた。
  しかし投下された爆雷は100個以上となり、大場も今まで経験したことのない窮地に追い込まれた。搭載していた回天4基のうち2基も損傷により使用不能となったが、残る2基の搭乗員関豊興少尉と荒川正弘一飛曹が、このままやられるよりは、乾坤一擲、死中に活を求めたいと出撃を直訴し、大場も最後の望みと考え出撃を許可、2基の回天は頭上で爆雷攻撃中の敵艦に突入するという困難な任務となったが、2基のうちの1基が アールV.ジョンソン(護衛駆逐艦)の至近で爆発、同艦は主機関と舵取機が損傷し戦線離脱を余儀なくされ、伊53潜は窮地を脱することができた
  伊58潜は広島長崎に落とされた原子爆弾(核部分)をテニアン島まで運び、1945年7月30日にレイテ島へ単独航行中であった重巡洋艦インディアナポリスを発見、橋本以行艦長は敵艦は真っすぐに向かってきたことから、発見されたものと考え(実際には発見されていなかった)、攻撃後に即潜航することが必要と考えて、回天搭乗員の出撃要求を抑えて通常魚雷6本を発射、うち2~3本が命中してこれを撃沈した。

  伊58潜はその後もこの海域に留まり、回天作戦を継続して、4基の回天を射出していた。8月12日には、トマス・F・ニッケル(護衛駆逐艦)オークヒル(ドック型揚陸艦)(橋本は15,000トン級の水上機母艦と誤認)の船団を発見、橋本は残った2基のうち1基の回天(林義明一飛曹搭乗)の射出を命じた
  オークヒルは回天の潜望鏡を発見し、トマス・F・ニッケルが攻撃に向かったが、回天はそのトマス・F・ニッケルの側面に命中した。しかし、命中した角度が浅かったため信管が作動せず、林艇はトマス・F・ニッケルの側面をこすったのちに、同艦から25m離れたところで爆発した。林が信管の起動スイッチを押して自爆したものと思われる。
  回天の慣性信管はしばしば同様に命中しても、角度が浅く起動しないことがあった。金剛隊の攻撃で損傷した輸送艦ポンタス・H・ロスも同様に回天が命中しながら、信管が起動せずに小破で止まっている。搭乗員は突撃の際には安全装置を外し、敵艦への突入角度が足りなくても突入と同時に信管が作動するよう自爆装置に腕をかけるなどしていたが、個々人の覚悟と工夫だけでは限界があった。九死に一生を得たトマス・F・ニッケルであったが、受けた衝撃は大きく、なおも数基の回天が同艦を攻撃していると誤認して、2時間に渡って幻の回天相手に転舵と回避を繰り返しながら、爆雷を投下し続けるという独り相撲を取り続けたが、船団に被害はなかった。残った1基の回天は故障していたためこれが回天最後の出撃となり、故障した回天の搭乗員の白木一郎一飛曹は生還した。
  多聞隊は戦果を挙げながら、6隻全艦が無事帰投している。アメリカ軍は多聞隊の動静を出撃前から掴んでいたが、大戦末期で自信過剰となっていたのか、情報の共有や日常の哨戒活動が徹底されておらずに終戦直前に手痛い損害を被ることとなった。日本海軍からすれば多聞隊は1隻の潜水艦を失うことなく、回天の初陣となった「菊水隊」を超える戦果を挙げて、回天作戦の有終の美を飾ることができ、アメリカ軍からも、戦争終結前の日本海軍の大きな成功と評された

  回天作戦により、回天搭乗員80名~87名が作戦中に戦死、母艦の潜水艦も8隻を損失しており、その損害に対して戦果は期待外れであった。しかし、アメリカ軍は回天を過大評価しており、菊水隊によるウルシー攻撃の際にウルシーに滞在していた第38.3空母群司令フレデリック・C・シャーマン少将は「我々は一日終日、そして次の日も、今にも爆発するかもしれない火薬庫の上に座っている様なものだった。」と、当時のアメリカ軍の回天への警戒ぶりを率直に述べており、また、8月12日に回天と最後の戦闘をした駆逐艦トマス・F・ニッケルの艦長C・S・ファーマー少佐は、回天による巧みな戦闘ぶりに、母艦が回天をソナーの捜索範囲外からコントロールしているものと信じて疑わなかった。沖縄戦時に第1戦艦戦隊司令官であったジェシー・B・オルデンドルフ中将は、回天との戦闘経過の報告を受けて「戦いを継続していく上で回天は最大の脅威となっていた」と考えた。
  吉田俊雄(海軍中佐、参謀)は、終戦時ダグラス・マッカーサー司令部のリチャード・サザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦が行動中かどうか」について質問され、行動中と聞くと動揺したというエピソードを紹介し、アメリカ軍をこれだけ恐れさせた回天であるのに戦果が少ないので、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽しているのではと疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいると指摘している。アメリカ軍の全ての文書が公開対象となっておらず、民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、上記戦果はあくまで現在確認されているもの。
  なお、一回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) を撃沈しているとの報告が日米双方に存在したが、実際にペンシルベニアが受けた被害は1945年(昭和20年)8月12日の夜間雷撃によるものだった。ペンシルベニアは戦後のビキニ原爆実験における二度の核爆発に耐えたのち、1948年2月10日に沈没した。

  当時の日本軍側は回天発射後の母艦からの潜望鏡による火柱、爆煙の目視、爆発音の聴取など間接的な形でしか戦果を観察できず、そこに「発進から30分以内での爆発音は、突入時刻と一致するため敵突撃の可能性は濃厚」や「燃料の切れる1時間前後での爆発音は自爆の可能性が高い」など推定を多く重ねざるを得ず、戦果報告は現実とかけ離れたものにならざるを得なかった。例えば伊58潜の橋本以行艦長は、回天作戦に従事した時には潜水艦長勤務が3年に及ぶベテランであったが、インディアナポリス撃沈時には目標艦が酸素魚雷3本を被雷しながらしばらく沈まなかったことを考慮し、アイダホ型戦艦撃沈と報告している。さらに8月12日の回天戦では発進後44分後に爆発と黒煙を確認、1万5000トン級水上機母艦を撃沈したと報告している



プロパガンダ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

プロパガンダ: propaganda)は、特定の思想世論意識行動へ誘導する意図を持った行為である。
通常情報戦心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。最初にプロパガンダと言う言葉を用いたのは、1622年に設置されたカトリック教会の布教聖省 (現在の福音宣教省) の名称であるラテン語 propagare(繁殖させる、種をまく)に由来する。

概念
あらゆる宣伝や広告、広報活動、政治活動はプロパガンダに含まれ、同義であるとも考えられている。利益追求者(政治家・思想家・企業人など)や利益集団(国家・政党・企業・宗教団体など)、なかでも人々が支持しているということが自らの正当性であると主張する者にとって、支持を勝ち取り維持し続けるためのプロパガンダは重要なものとなる。対立者が存在する者にとってプロパガンダは武器の一つであり、自勢力やその行動の支持を高めるプロパガンダのほかに、敵対勢力の支持を自らに向けるためのもの、または敵対勢力の支持やその行動を失墜させるためのプロパガンダも存在する。
  本来のプロパガンダという語は中立的なものであるが、カトリック教会の宗教的なプロパガンダは、敵対勢力からは反感を持って語られるようになり、プロパガンダという語自体が軽蔑的に扱われ、「嘘、歪曲、情報操作、心理操作」と同義と見るようになった。このため、ある団体が対立する団体の行動・広告などを「プロパガンダである」と主張すること自体もプロパガンダたりうる。
  またプロパガンダを思想用語として用い、積極的に利用したウラジーミル・レーニンソビエト連邦や、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とナチス・ドイツにおいては、情報統制と組み合わせた大規模なプロパガンダが行われるようになった(詳細は「ナチス・ドイツのプロパガンダ」を参照)。そのため西側諸国ではプロパガンダという言葉を一種の反民主主義的な価値を内包する言葉として利用されることもあるが、実際にはあらゆる国でプロパガンダは用いられており、一方で国家に反対する人々もプロパガンダを用いている。あらゆる政治的権力がプロパガンダを必要としている。
  なお市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)は、戦争や人種差別を扇動するあらゆるプロパガンダを法律で禁止することを締約国に求めている。報酬の有無を問わず、プロパガンダを行なう者達を「プロパガンディスト」と呼ぶ。
プロパガンダの種類
  プロパガンダには大別して以下の分類が存在する。
ホワイトプロパガンダ・・・情報の発信元がはっきりしており、事実に基づく情報で構成されたプロパガンダ。
ブラックプロパガンダ・・・情報の発信元を偽ったり、虚偽や誇張が含まれるプロパガンダ
グレープロパガンダ・・・発信元が曖昧であったり、真実かどうか不明なプロパガンダ。
コーポレートプロパガンダ・・・企業が自らの利益のためにおこなうプロパガンダ。
カウンタープロパガンダ・・・敵のプロパガンダに対抗するためのプロパガンダ。
プロパガンダ技術
アメリカ合衆国宣伝分析研究所は、プロパガンダ技術を分析し、次の7手法をあげている
  1-ネーム・コーリング - レッテル貼り。攻撃対象をネガティブなイメージと結びつける(恐怖に訴える論証)。
  2-カードスタッキング - 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、都合の悪い事柄を隠蔽、または捏造だと強調する。本来はトランプの「イカサマ」の意。情報操作が典型的例。マスコミ統制。
  3-バンドワゴン - その事柄が世の中の趨勢であるように宣伝する。人間は本能的に集団から疎外されることを恐れる性質があり、自らの主張が世の中の趨勢であると錯覚させることで引きつけることが出来る。(衆人に訴える論証
  4-証言利用 - 「信憑性がある」とされる人に語らせることで、自らの主張に説得性を高めようとする(権威に訴える論証)。
  5-平凡化 - その考えのメリットを、民衆のメリットと結びつける。
  6-転移 - 何かの威信や非難を別のものに持ち込む。たとえば愛国心を表彰する感情的な転移として国旗を掲げる。
  7-華麗な言葉による普遍化 - 対象となるものを、普遍的や道徳的と考えられている言葉と結びつける。
また、ロバート・チャルディーニは、人がなぜ動かされるかと言うことを分析し、6つの説得のポイントをあげている。これは、プロパガンダの発信者が対象に対して利用すると、大きな効果を発する
 1-返報性 - 人は利益が得られるという意見に従いやすい。
 2-コミットメントと一貫性 - 人は自らの意見を明確に発言すると、その意見に合致した要請に同意しやすくなる。また意見の一貫性を保つことで、社会的信用を得られると考えるようになる。
 3-社会的証明 - 自らの意見が曖昧な時は、人は他の人々の行動に目を向ける。
 4-好意 - 人は自分が好意を持っている人物の要請には「YES」という可能性が高まる(ハロー効果
 5-権威 - 人は対象者の「肩書き、服装、装飾品」などの権威に服従しやすい傾向がある。
 6-希少性 - 人は機会を失いかけると、その機会を価値のあるものであるとみなしがちになる。
ウィスコンシン大学広告学部で初代学部長を務めたW・D・スコットは、次の6つの広告原則をあげている。
 1-訴求力の強さは、その対象が存在しないほうが高い。キャッチコピーはできるだけ簡単で衝撃的なものにするべきである。
 2-訴求力の強さは、呼び起こされた感覚の強さに比例する。動いているもののほうが静止しているものより強烈な印象を与える。
 3-注目度の高さは、その前後に来るものとの対比によって変わる。
 4-対象を絞り、その対象にわかりやすくする。
 5-注目度の高さは、目に触れる回数や反復数によって影響される。
 6-注目度の高さは、呼び起こされた感情の強さに比例する。

J.A.C.Brownによれば、宣伝の第一段階は「注意を引く」ことである。具体的には、激しい情緒にとらわれた人間が暗示を受けやすくなることを利用し、欲望を喚起した上、その欲望を満足させ得るものは自分だけであることを暗示する方法をとる。またL.Lowenthal,N.Gutermanは、煽動者は不快感にひきつけられるとしている
  アドルフ・ヒトラーは、宣伝手法について「宣伝効果のほとんどは人々の感情に訴えかけるべきであり、いわゆる知性に対して訴えかける部分は最小にしなければならない」「宣伝を効果的にするには、要点を絞り、大衆の最後の一人がスローガンの意味するところを理解できるまで、そのスローガンを繰り返し続けることが必要である。」と、感情に訴えることの重要性を挙げている。また「大衆は小さな嘘より大きな嘘の犠牲になりやすい。とりわけそれが何度も繰り返されたならば」(=嘘も百回繰り返されれば真実となる)とも述べた。
  杉野定嘉は、「説得的コミュニケーションによる説得の達成」「リアリティの形成」「情報環境形成」という三つの概念を提唱している。また敵対勢力へのプロパガンダの要諦は、「絶妙の情報発信によって、相手方の認知的不協和を促進する」事である、としている。
歴史
有史以来、政治のあるところにプロパガンダは存在した。ローマ帝国では皇帝の名を記した多くの建造物が造られ、皇帝の権威を市民に見せつけた。フランス革命時にはマリー・アントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と語ったとしたものや、首飾り事件に関するパンフレットがばらまかれ、反王家の気運が高まった。
  プロパガンダの体系的な分析は、アテネで紀元前6世紀頃、修辞学の研究として開始されたと言われる。自分の論法の説得力を増し、反対者への逆宣伝を計画し、デマゴーグを看破する技術として、修辞学は古代ギリシャ古代ローマにおいて大いに広まった。修辞学において代表的な人物はアリストテレスプラトンキケロらがあげられる。古代民主政治では、これらの技術は必要不可欠であったが、中世になるとこれらの技術は廃れて行った。
  テレビインターネットに代表される情報社会化は、プロパガンダを一層容易で、効果的なものとした。わずかな費用で多数の人々に自らの主張を伝えられるからである。現代ではあらゆる勢力のプロパガンダに触れずに生活することは困難なものとなった。
国家運営におけるプロパガンダの歴史
国家による大規模なプロパガンダの宣伝手法は、第一次世界大戦期のアメリカ合衆国における広報委員会が嚆矢とされるが、ロシア革命直後のソ連 で急速に発達した。 レーニンは論文 でプロパガンダは「教育を受けた人に教義を吹き込むために歴史と科学の論法を筋道だてて使うこと」と、扇動を「教育を受けていない人の不平不満を利用するための宣伝するもの」と定義した。レーニンは宣伝と扇動を政治闘争に不可欠なものとし、「宣伝扇動」(agitprop)という名でそれを表した。十月革命後、ボリシェヴィキ政権(ソビエト連邦)は人民に対する宣伝機関を設置し、第二次世界大戦後には社会主義国に同様の機関が設置された。またヨシフ・スターリンの統治体制はアブドゥルアハマン・アフトルハーノフによって「テロルとプロパガンダ」の両輪によって立っていると評された。

  1930年代にドイツの政権を握った国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、政権を握る前から宣伝を重視し、ヨーゼフ・ゲッベルスが創刊した「デア・アングリフ」紙や、フェルキッシャー・ベオバハター紙による激しい言論活動を行った。また膨大な量のビラやポスターを貼る手法や、突撃隊の行進などはナチス党が上り調子の政党であると国民に強く印象づけた。
  ナチ党に対抗した宣伝活動を行ったドイツ共産党ヴィリー・ミュンツェンベルクは、著書『武器としての宣伝(Propaganda als Waffe)』において「秘密兵器としての宣伝がヒトラーの手元にあれば、戦争の危機を増大させるが、武器としての宣伝が広範な反ファシズム大衆の手にあれば、戦争の危険を弱め、平和を作り出すであろう」と述べている。
  ナチス党が政権を握ると、指導者であるアドルフ・ヒトラーは特にプロパガンダを重視し、ゲッベルスを大臣とする国民啓蒙・宣伝省を設置した。宣伝省は放送出版絵画彫刻映画オリンピックといったあらゆるものをプロパガンダに用い、ナチス党によるドイツとその勢力圏における独裁体制を維持し続けることに貢献した。
  第二次世界大戦中は国家の総動員態勢を維持するために、日本やドイツ、イタリアなどの枢軸国イギリスアメリカ、ソ連などの連合国を問わず、戦争参加国でプロパガンダは特に重視された。終戦後は東西両陣営の冷戦が始まり、両陣営はプロパガンダを通して冷たい戦争を戦った。特に宇宙開発競争は、陣営の優秀さを喧伝する代表的なものである。
  1950年代、中華民国政府(台湾政府)が反共文芸を推奨し、趣旨に共鳴した「中華文芸奨金委員会」が活躍していた。

コーポレートプロパガンダ
コーポレートプロパガンダ(企業プロパガンダ)は、企業がその活動やブランドイメージに関する市場消費者意見を操作するために行なうプロパガンダの一種である。
  特定の人間がその企業の製品やサービスに対して支持を表明する事で、社会における好意的な印象形成に影響をもたらす。このようなコーポレートプロパガンダについてジークムント・フロイトの甥であるエドワード・バーネイズは著書「プロパガンダ(1928年刊行)」の中で詳細に解説しており、また一般大衆の稚拙さについても歯に衣着せず言及している。バーネイズは大衆向けのイベント、メディアや有名な俳優などを多用し、その影響力を駆使して大衆の意思決定を操り、大衆行動をクライアントの利益に結びつけてきた。叔父であるフロイトが示唆した、人間の潜在的な欲求に関する心理学理論を駆使し、バーネイズは人々に現実的には何の利益もない商品を一般大衆が自ら買い求めるように仕向ける事に成功し、そのプロパガンダの手法を進化させていった。現実に、今日多用されているような、有名人の広告への起用や、実際には偽科学的だが一見科学的な主張のようにみえる意見を利用した広告など、悪意的な現在の大衆操作に関する知識の多くは、バーネイズの開発したミーム論を利用した広告戦略に基づいたものであり、彼の著書「自我の世紀」に、その手法の多くが言及されている。大衆の世論操作に際してのプロパガンダの有効性について、バーネイズは次のように述べている。

  (もし我々が、集団心理の仕組みと動機を理解するならば、大衆を我々の意志に従って 彼らがそれに気付くことなしに制御し組織化することが可能ではないだろうか。プロパガンダの最近の実践は、それが可能であることを証明してきた。少なくともある地点まで、ある限界の範囲内で。— エドワード・バーネイズ)

企業プロパガンダは一般的に、婉曲的な表現として広告広報もしくはPRとも呼ばれている。

国策プロパガンダ
宗教組織や企業、政党などの組織に比べて、強大な権力を持つ国家によるプロパガンダは規模や影響が大規模なものとなる。国策プロパガンダの手法の多くはナチス体制下のドイツ大東亜戦争直前・戦中の日本太平洋戦争直前・戦中のアメリカ合衆国革命下のロシアやその後のアメリカ合衆国ソビエト連邦中華人民共和国など全体主義・社会主義の国のみならず資本主義諸国でも発達した。社会主義国や独裁国家では情報活動が国家によって統制・管理されることが多いため、国家による国内に対するプロパガンダは効率的で大規模なものとなりがちである。
  どのような形態の国家にもプロパガンダは多かれ少なかれ存在するものだが、社会主義国家や ファシズム国家、開発独裁国家など、情報を国家が集中して管理できる国家においては、国家のプロパガンダの威力は強大なものがある。また、特定のグループが政治権力とメディアを掌握している国でも同じ事が起こる。こうした国家では、国家のプロパガンダ以外の情報を入手する手段が著しく限られ、プロパガンダに虚偽や歪曲が含まれていたとしても、他の情報によって情報の精度を判断することが困難である。
  さらに、こうした国家では教育とプロパガンダが表裏一体となる場合がしばしば見られる。初等教育の頃から国民に対して政府や支配政党への支持、ナショナリズム、国家防衛の思想などを擦り込むことにより、国策プロパガンダの威力は絶大なものとなる。
  しかし、こうした国家では情報を統制すればするほど、また国内向けのプロパガンダが効果を発揮すればするほど、自由な報道が保障されている外国のメディアからは疑惑の目で見られ、そのプロパガンダが外国ではまったく信用されない、という背理現象も起こりうる。
  また、国家のプロパガンダは国家、政府機関、政党などが直接手がけるとは限らない。民間団体や民間企業、個人が自主的、受動的、または無意識に行う例もある。

  (大衆の受容能力は極めて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、全ての効果的な宣伝は、要点を出来るだけ絞り、それをスローガンのように継続しなければならない。この原則を犠牲にして、様々なことを取り入れようとするなら、宣伝の効果はたちまち消え失せる。というのは、大衆に提供された素材を消化することも記憶することもできないからである。……
……大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎しみか、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しく、半分は違うなどということは決してあり得ないのである。
— アドルフ・ヒトラー「我が闘争」より

軍のプロパガンダ
部隊・装備
軍隊は国家が直接行動を命令できるため、プロパガンダに利用されやすい。このため本来軍事行動には必要の無い人員や装備が配備されている。
  多くの軍隊では国民や諸外国に正当性や精強さをアピールするため、見栄えの良い宣伝用の写真や映像を多数公開しており、それらの撮影のために第301映像写真中隊自衛隊)のような専門の部隊が編成されている。特にアメリカ軍は兵器が運用される様子から休憩中の兵士にいたるまでほぼ全ての広報写真をウィキメディア・コモンズに投稿し、ウィキペディアなどで自由に使えるようにしているが、公開されるのは軍に都合が良い写真だけである。アメリカ軍では第二次世界大戦時に隊員教育やプロパガンダ用の映画を制作するため第1映画部隊を編成し、映画業界人を徴兵扱いで多数動員していた。
  第二次世界大戦時のアメリカによる日系人の強制収容に対し、日本は「白人の横暴の実例」として宣伝し日本の軍事行動は「アジアの白人支配からの解放」であると正当化した。アメリカではこれに対抗するため日系移民の志願者による部隊(第100歩兵大隊)を急遽創設した。

  多くの空軍では実戦部隊以外にも曲技飛行による広報活動を任務とする曲技飛行隊を有している。これは国民向けに曲技飛行を披露し軍への関心を高めることに加え、パイロットの技量を外国へ誇示する目的もある。使用する機体は既存機の流用であっても武装の撤去、スモーク発生装置の搭載、派手な塗装を施すなど実戦には不適格な改造を施したり、既に時代遅れとなった複葉機を曲技専用に配備するなど予算的に優遇されている。またアメリカ軍では空軍サンダーバーズ)、海軍ブルーエンジェルス)、太平洋空軍(PACAF F-16 Demo Team)など複数の部隊が併存している。なおブルーエンジェルスは、第二次大戦終結により海軍航空隊への国民の関心が低下し、予算の減額や空軍との統合など権限縮小を危惧したチェスター・ニミッツ提督が「大衆の海軍航空兵力への関心を維持しておく事」を意図して組織され、第1映画部隊はアメリカ陸軍航空軍司令官だったヘンリー・アーノルド将軍が陸軍航空軍の独立性を強調する為にも独自の撮影部隊が必要だと考え、宣伝映画を担当していた陸軍信号隊とは別の組織として映画業界人に依頼して編成されたなど、宣伝部隊でありながら純粋な広報ではなく政治的な意図で創設された例もある。
・・・・・
戦争遂行のためのプロパガンダ
  国家が戦争を遂行するためには、国民に戦争するしか道がないことを信じ込ませるために国策プロパガンダが頻繁に行われる。アーサー・ポンソンビーは、第一次世界大戦でイギリス政府が行った戦争プロパガンダを分析して、主張される事に関する10の要素を以下のように導き出した。

  1-
我々は戦争をしたくはない。
しかし敵側が一方的に戦争を望んだ。
敵の指導者は悪魔のような人間だ。
我々は領土や覇権のためではなく、偉大な使命(大義)のために戦う(正戦論)。
我々も誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為におよんでいる。
敵は卑劣な兵器や戦略を用いている。
我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大。
芸術家知識人も、正義の戦いを支持している。
我々の大義は、神聖(崇高)なものである(聖戦論)。
この正義に疑問を投げかける者は、裏切り者(売国奴非国民)である。
  フランスの歴史家アンヌ・モレリは、この十要素が第一次世界大戦に限らず、あらゆる戦争において共通していることを示した。そして、著書『戦争プロパガンダ10の法則』の序文中で、「私たちは、戦争が終わるたびに自分が騙されていたことに気づき、『もう二度と騙されないぞ』と心に誓うが、再び戦争が始まると、性懲りもなくまた罠にはまってしまう」と指摘している。

もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。(— ヘルマン・ゲーリング ニュルンベルク裁判中、心理分析官グスタフ・ギルバートに対して)
使用されるメディア・媒体
プロパガンダには様々なメディア・媒体が利用されるが、マスメディアは、一度に多くの対象に強烈なメッセージを送ることができるため、プロパガンダの要として最も重要視されている。権威主義的国家では、マスメディア(インターネットメディアを含む)に対する様々な統制が行われ、実質体制の宣伝機関となっているところもある。
  自由主義国家では利益関係はさらに複雑なものがあり、体制からの圧力だけではなく、私企業・外国・政党・宗教・団体の影響を受け、自主的にプロパガンダを行うこともある。また、新聞社や雑誌社、テレビ局のスタッフなどの個人的信条が影響を与えることがある。








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