宗教の問題-1(religion)



2020.9.18-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200918/k10012624091000.html
麻原元死刑囚の遺骨 次女が取得者に 四女側は不服申し立てへ

  おととし死刑が執行されたオウム真理教元代表の麻原彰晃、本名・松本智津夫元死刑囚の遺骨について、東京家庭裁判所が審判で、元死刑囚が執行直前に指名したとされる四女ではなく次女を取得者と決めたことが関係者への取材で分かりました。四女側は東京高等裁判所に不服を申し立てる方針です。
  おととし7月に死刑が執行されたオウム真理教の松本智津夫元死刑囚は執行の直前、みずからの遺骨の引き渡し先に教団とは関係を絶ったとされる四女を指名したとされ、四女の代理人の弁護士は「遺骨を引き受けて海に散骨したい」という意向を示していました。
  これに対して元死刑囚のほかの家族らは、「元死刑囚の当時の精神状態から特定の人を引き取り人として指定することはありえない」と主張し、法務省は東京拘置所で保管している遺骨を引き渡せない状況になっていました。
  四女は受取人を確定させるため東京家庭裁判所に審判を申し立てていましたが、東京家裁は17日、四女ではなく次女を遺骨の取得者と決めたことが関係者への取材で分かりました。
  四女の弁護士は、これを不服として東京高等裁判所に即時抗告を申し立てる方針で、東京高裁の判断が注目されます


2020.3.21-産経新聞 THE SANKEI NEWS WEB-https://www.sankei.com/west/news/200321/wst2003210007-n1.html
光ディスクや大量のフロッピー…滋賀の事件が暴いた「オウム」
産経WEST(オウム後継団体は今)

平成7年のオウム真理教による「地下鉄サリン事件」。3月20日の事件発生から3日後、滋賀県で1人の信者が逮捕された。現在は東海地方で暮らすその男性の車からは光ディスクやサリンプラントの設計図が見つかり、その後の捜査に大きく役立ったという。事件から25年。山梨県の旧上九一色(かみくいしき)村(現富士河口湖町、甲府市)にあった教団施設「サティアン」から遠く離れた地方で起きていた事件を、関係者の証言でたどる。
2時間カーチェイス
  7年3月23日朝、滋賀県安土町(現・近江八幡市)のレストランで機動捜査隊員がオウム真理教の車を発見した。車内には薬品名が書かれた箱などがあり、隊員は「サリンかもしれない」と恐怖にかられた。そして、運転席をのぞき込んだ隊員はさらに驚愕(きょうがく)する。「眉が太い顔つき。似ている」。運転席で仮眠している男性は指名手配されていた信者にそっくりだった。
  声をかけると、男性は助手席の方を向いたまま顔を上げない。「こいつ、逃げよる」。そう感じた直後、いきなり車が発進した。
  数十台の捜査車両とヘリで約2時間にわたって追跡。車が縁石に乗り上げたところで男性を取り押さえたが、手配犯ではない信者だった。
「解析班」を特設
 滋賀県警は男性を道交法違反容疑で逮捕。車にはサリンこそ積んでいなかったものの、当時は珍しかった光ディスクが数枚と50枚あまりのフロッピーディスク、幹部のノートパソコンが見つかった。
  まだパソコンが一般的でなかった時代。県警はパソコンを趣味にしている警察官らを、所属や階級をまたいで10人ほど集め、「解析班」を立ち上げた。メンバーには鑑識課員のほか、交通部門の警察官もいた。元捜査幹部は「(危険なので)外部の技術者に従事してもらうことはできなかった」と打ち明ける。

  光ディスクは大容量用の5インチのもので、当初県警には読み取るための機材もなかった。高度な暗号やパスワードなど、堅いセキュリティーも解析班を阻んだ。
教団武装化裏付け
 資料は印刷すると200万ページを超えた。大量の資料を確実に警察庁に運ぶため、捜査員は連日、資料を手に新幹線で東京に向かった。
 資料には全ての信者を網羅した名簿や、銃器の設計図、化学薬品の文献などが含まれ、サリンプラントの設計図もあり、武装化を突き進めていた教団の実態を裏付けた。
 元捜査幹部は「これらがなければ立件できなかった事件も多いはずだ」とする一方、25年を経過した今も、オウム真理教とその事件について「まだまだ明らかになっていない部分がある」と感じているという。
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2020.3.20-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200320/k10012341161000.html
オウム真理教後継団体 20代以下の若い信者増加 公安調査庁

オウム真理教の後継団体の監視を行っている公安調査庁は、依然として松本智津夫元死刑囚への信仰が続いているほか、特に20代以下の若い信者が増えているとして警戒しています。
  公安調査庁はオウム真理教の後継団体の「アレフ」や「ひかりの輪」などに対して施設への立ち入りを行うなど実態を調べています。
  それによりますと信者の数は合わせておよそ1650人と10年前に比べるとおよそ150人増えています
  また信者のうち20代以下の割合はおよそ21%で、10年前の14%に比べて増加傾向にあることが分かりました。
  公安調査庁によりますと特にアレフでは書店で宗教に関する本に興味がありそうな若者に声をかけたり、インターネットで自己啓発について書き込みをしている若者にSNSで接触したりして組織的に勧誘しているということです。
  また団体名を隠してヨガ教室や勉強会への参加を勧めるなど、事件を知らない若い世代を取り込もうという動きがあるということです。
  公安調査庁は後継団体について引き続き監視などを続けることにしています。
  公安調査庁の児堀達也課長は「特に若者はオウム真理教に対する抵抗感がなくなっている。後継団体はいずれも松本元死刑囚の強い影響下にあり、過去にどのような事件を起こしたのか正しく知ってほしい」と話しています。
後継団体がコメント
地下鉄サリン事件から25年を迎えたことについて、オウム真理教の後継団体の「アレフ」と「ひかりの輪」はそれぞれコメントを出しました。
  「アレフ」は「オウム真理教の流れを受け継ぐ団体として事件を重く受け止め、一連の事件に関係して亡くなられたすべての人たちに対して深く哀悼の意を捧げ、改めてご冥福をお祈りいたします」などとコメントしています。
  また「ひかりの輪」は「事件で犠牲になられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、心身に傷を負われた多くの方々が1日も早く癒されるよう祈念し、当時のオウム教団に関わった者として、あらためて皆様に深くお詫び申し上げます」などとコメントしています。


2020.3.3-LiveDoorNews-https://news.livedoor.com/article/detail/17906642/
韓国で刑事告発された“土下座教祖”の危険な思想

 新型コロナウイルスが猛威を振るっているのは、中国や日本だけではない。韓国では新興宗教団体「新天地イエス教会」内での集団感染が原因とみられ、大邱を中心に国内で感染が拡大。2日の発表では感染者数は4212人、死者は22人。感染を拡大させたとされる同教団のイ・マンヒ教祖(88)は事態の深刻さにようやく全面謝罪したが、最悪のシナリオも懸念される。
   イ教祖は2日、記者会見し、「故意ではないが、大勢の感染者が出た」と釈明し、土下座で謝罪した。同教団が批判の矢面に立ったのは、韓国内での感染者のうち、約6割が同教団の信者らとされるからだ。
   礼拝は建物内で信者が密接し、座った状態で行われる。装飾品は禁じられ、眼鏡も着用できないほど。ウイルスが感染しやすい環境下で、目や口はノーガードで感染が拡大したとみられる。1日にはソウル市が、感染拡大防止に協力しなかったことで感染者や死者が出たとし、殺人容疑に当たるとしてイ教祖ら教団幹部を刑事告発していた。
   韓国事情に詳しい文筆人の但馬オサム氏は「イ教祖はコロナ騒動を『教団の発展をねたんだ悪魔の仕業』と言っていたそうですが、まさにカルト的な要素を持っている。同教団は他の教会の礼拝に信者を潜り込ませ、その教会を乗っ取る形で組織を大きくしてきました。現在も続いていて、感染は他教団、他教会にも拡大の恐れがある」と指摘する。
   一方、刑事告発されたことで同教団に圧力がかかり、最悪の事態も懸念されている。
   イ教祖は「最後の審判の日には14万4000人を天国に連れていく」との終末思想を公言していた。「追い詰められたカルトの向かう、教祖による信徒の集団自死の扇動です。思い出すのは1978年に、南米ガイアナで起きた人民寺院事件です」(但馬氏)
   人民寺院事件とは、ジム・ジョーンズ教祖率いる宗教教団が、カルト化を問題視する米下院議員らの視察に対し、視察団関係者を殺害したほか、900人以上の信者とともに集団自殺したもの。
  「追い詰められたカルトの攻撃性が内側に向かったのが人民寺院で、外に向かったのはオウム真理教のサリンテロです。イ教祖は88歳。先の短い身です。このまま世界規模でコロナ蔓延の責任追及が続けば、いっそ信者を道連れに天国へと、狂気の選択に走る可能性も大いにある」(但馬氏)

   これまでも同教団は政府や貿易当局に協力してきたと声明を出し、今回のイ教祖の謝罪も刑事責任の追及を逃れる狙いがありそうだが、予断を許さない状況だ。


地下鉄サリン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


地下鉄サリン事件は、1995年平成7年)3月20日東京都で発生した同時多発テロ事件である。警察庁による正式名称は、地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件。日本国外では「:Tokyo Attack」と呼ばれることがある。世界でも稀に見る大都市圏における化学兵器を利用した無差別テロ事件であった。
  宗教団体オウム真理教によって、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)で営業運転中の地下鉄車両内で神経ガスサリンが散布され、乗客及び乗務員、係員、さらには被害者の救助にあたった人々にも死者を含む多数の被害者が出た。1995年当時としては、平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという世界にも類例のないテロリズムであったため、世界的に大きな衝撃を与えた。毎日新聞では、坂本堤弁護士一家殺害事件松本サリン事件と並んで『オウム3大事件と表現されている。

事件当日
  1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ、以下営団地下鉄)、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガス・サリンが散布され、乗客や駅員ら14人死亡、負傷者数は約6,300人とされる。
  営団地下鉄では、事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を臨時に通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した(後述)。運転再開後はほぼ所定どおりのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった  1995年(平成7年)3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。これは村井秀夫井上嘉浩が乗客数及び官公庁の通勤のピークが8時10分頃であると考えたためである。各実行犯は500-600gの溶液(内サリンは35%程度)の袋詰めを2つ、林泰男だけは3つ運び、犯人は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせたを使い、袋を数回突いて下車。それぞれの犯人が共犯者の用意した自動車で逃走した。これらの路線ではラッシュ時には非常に混雑するため、車両間を移動することは大変困難であった。
  この事件は教祖の麻原彰晃が首謀、村井が総括指揮を担当、そして井上が現場調整役を務めた。サリンは土谷正実遠藤誠一中川智正が生成したものが使われた。
オウムの関与判明後
事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教団教祖の麻原彰晃が事件の首謀者として逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。
  リムジン謀議(後述)には、麻原・村井・遠藤・井上・青山吉伸石川公一の6人がいた。謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の共謀が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。
  東京地方裁判所は、首謀者の麻原彰晃を始め、林郁夫を除く散布実行犯全員と、送迎役のうち新実智光死刑を言い渡し、東京高等裁判所控訴審ではさらに第一審では死刑求刑に対し無期懲役だった井上嘉浩に死刑判決が言い渡された。実行役3人及び新実・井上両名の計5人に言い渡された死刑判決はいずれも最高裁判所で、2010年1月19日に新実の上告棄却されたことをもって確定した。
  2012年(平成24年)6月15日、この事件に関与したとして特別指名手配されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で特別指名手配されていた容疑者は全員逮捕された。高橋が逮捕されるまでに、前述した新実を除く送迎役は全員求刑通り無期懲役判決が確定しており、高橋も他の送迎役同様一・二審で無期懲役判決(求刑同)を受け、最高裁に上告中であったが、上告が退けられた。
  2018年(平成30年)7月に、事件に関与した死刑囚たちの死刑が執行された。
  当事件を受けて、サリン等による人身被害の防止に関する法律が制定される運びとなった。
計画
迫る強制捜査と生物兵器テロ未遂麻原彰晃こと松本智津夫は、自ら設立した宗教団体であるオウム真理教内において、専門知識があり、また自らに対して従順な人材を複数配下に置き、日本を転覆させようと様々な兵器を開発する中でサリンにも着目し、土谷正実中川智正らがこれを製造。池田大作サリン襲撃未遂事件滝本太郎弁護士サリン襲撃事件といった事件を引き起こし、松本サリン事件では遂に死者が発生した。
  またその頃、サリン70t製造を目指してサリンプラント計画が進行していたが、1994年7月などに異臭騒ぎを起こし周辺の土壌を汚染していたため、1995年1月1日、読売新聞朝刊が「上九一色村でのサリン残留物検出」をスクープ。読売のスクープを受けオウムはサリンを処分し第7サティアンに建設中だったサリンプラントは神殿に偽装した。しかし中川智正がサリンの中間物質メチルホスホン酸ジフロライドCH3P(O)F2(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)を密かに保管しており(諸説あり、後述、これが地下鉄サリン事件に使用されることとなったとされる。
  麻原は同1月17日阪神・淡路大震災により警察の強制捜査は一旦遠のいたと考えていたが、同年2月末の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でのオウムの関与が疑われ、麻原ら教団幹部は強制捜査が切迫していると危機感を抱いた。オウム内部では、1994年11月頃から東京の現職警官信者からの情報として強制捜査の噂が流れていた。警視庁公安部内のオウム信者の情報では、薬品の購入ルートが調査されていることが麻原に報告されていた。
  このため、麻原は3月上旬、第6サティアン1階で井上嘉浩に、村井秀夫東急ハンズで買ってきた液体噴霧器「六法煙書」を用いて、遠藤誠一が研究していたボツリヌストキシンの効果実験を行うよう指示。事件5日前の3月15日に営団地下鉄霞ケ関駅井上嘉浩山形明高橋克也が六法煙書を仕込んだ改造アタッシェケースを3つ放置したが、水蒸気が出るだけで失敗した
  井上らは科学技術省の改造したアタッシェケースではどうせ失敗すると思っていたという。麻原は遠藤を叱責したが、遠藤は噴霧口のアタッシェケースのメッシュのせいで菌が死滅したとの自説を唱えた。遠藤は裁判で毒が完成していないのにやらされたとしている。なお、ケースは警視庁・警察庁の職員たちが利用する「A2」出入口構内に置かれていた。
リムジン謀議
事件2日前の3月18日午前0時、都内のオウム経営飲食店で正悟師昇格祝賀会が行われる。祝賀会中に麻原は幹部に対し、「エックス・デーが来るみたいだぞ。」「なあ、アパーヤージャハ(青山吉伸)、さっきマスコミの動きが波野村の強制捜査のときと一緒だって言ったよな。」と強制捜査を話題に出していた。祝賀会終了後の18日未明、上九一色村に帰る麻原ら幹部(麻原、村井秀夫遠藤誠一井上嘉浩青山吉伸石川公一)を乗せたリムジンにおいて、強制捜査への対応が協議された(リムジン謀議。車中謀議とも)
  麻原は「今年の1月に関西大震災(阪神・淡路大震災があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな。」と発言。井上がボツリヌス菌ではなくサリンならばよかったのではと回答すると、村井は地下鉄にサリンを撒くことを提案し麻原も同意した
  総指揮は村井、現場指揮は井上が担当となった。村井は実行役として今度正悟師になる科学技術省所属林泰男広瀬健一横山真人豊田亨を推薦し、麻原が林郁夫も加えた(ちなみに松本サリン事件では逆に林郁夫を麻原の指示で実行役から外している)。
  また井上が島田裕巳宅爆弾事件東京総本部火炎瓶事件を実行し、事件は反オウムの者によるオウム潰しの陰謀と思わせて同情を集めることも計画された。石川公一も自分の足を狙撃して自作自演事件を起こしたらどうかと志願したが、麻原はそこまでしなくていいとして止めた
  謀議内容については井上の証言に頼るものとなっているが、他に遠藤が「サリンつくれるか」「条件が整えば…」の発言があったことを証言している
犯行
3月20日午前0時頃 -
 井上嘉浩、サリン到着が遅いため井上が独断で東京から上九に向け出発し連絡不能に。上九で麻原に怒られる
午前2時頃 - 麻原は実行役に渋谷アジトから上九への帰還を指示。また、サリン袋に触れ修法(エネルギーを吹き込む儀式)を行う。先に井上が上九に到着するが、独断での出発を叱責される
午前2時30分頃 - 井上がコンビニからビニール傘7本を購入。滝澤和義グラインダーで傘先を削る
午前3時頃 - 実行役5人と運転手杉本繁郎外崎清隆、第7サティアンに到着。村井秀夫にサリンを撒く方法を教わり水で練習、その後サリン袋を受け取る
午前5時頃 - 実行役5人と杉本繁郎外崎清隆、渋谷アジトに再移動
千代田線(我孫子発代々木上原行)
千代田線の我孫子代々木上原行き(列車番号A725K、JR東日本常磐線から直通)は、散布役を林郁夫、送迎役を新実智光が担当した。当該編成はJR東日本松戸電車区(現・松戸車両センター)所属の203系マト67編成(クハ202-107以下10連)であった。
  マスク姿の林郁夫は千駄木駅より入場し、綾瀬駅北千住駅で時間を潰した後、先頭1号車(クハ202-107)に北千住駅(7時48分発)から乗車した。8時2分頃、新御茶ノ水駅への停車直前にサリンのパックを傘で刺し、逃走した。穴が開いたのは1袋のみであった。列車はそのまま走行し、二重橋前駅 - 日比谷駅間で乗客数人が相次いで倒れたのを境に次々に被害者が発生し、霞ケ関駅で通報で駅員が駆け付け、サリンを排除した。当該列車は霞ケ関駅を発車したが更に被害者が増えたことから次の国会議事堂前駅で運転を打ち切った(その後、回送扱いとなり、松戸電車区へ移動)。サリンが入っているとは知らずにパックを除去しようとした駅員数名が被害を受け、うち駅の助役と応援の電車区の助役の2人が死亡し、231人が重症を負った。
丸ノ内線(池袋発荻窪行)
丸ノ内線の池袋荻窪行きは、散布役を広瀬健一、送迎役を北村浩一が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第16編成であった。
広瀬は2号車 (02-216) に始発の池袋駅(7時47分発)から乗車し、茗荷谷駅後楽園駅停車時に3号車(02-316)に移動、ドアに向かって立ち、御茶ノ水駅到着時サリンを散布した。中野坂上駅で乗客から通報を受けた駅員が重症者を搬出し、サリンを回収したが、列車はそのまま運行を継続し終点荻窪駅に到着。新しい乗客が乗り込みそのまま折り返したため、新高円寺駅で運行が停止されるまで被害者が増え続けることとなった。また、広瀬自身もサリンの影響を受け、林郁夫によって治療を受けた。この電車では1人が死亡し、358人が重症を負っている(2020年、後遺症により更に1人死亡した)。
丸ノ内線(荻窪発池袋行)
丸ノ内線の荻窪発池袋行き(列車番号B701)は散布役を横山真人、送迎役を外崎清隆が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第50編成(02-150以下6連)であった。
  横山は5号車 (02-550) に新宿駅(7時39分発)から乗車し、高架駅である四ツ谷駅進入時にパックに穴を開けサリンを散布した。穴が開いたのは1袋のみであった。列車は8時30分に終点池袋駅に到着。その際、本来ならば駅員によって車内の遺留物の確認が行われるが、どういうわけかこの時は行われず、折り返し池袋発荻窪行き(列車番号A801)として出発した。本郷三丁目駅で駅員がサリンのパックをモップ掃除したが、運行はそのまま継続され、荻窪駅到着後に再び荻窪発池袋行き(列車番号B901)として池袋駅に戻った。列車は新宿駅に向け運行を継続した。列車はサリン散布の1時間40分後、9時27分に国会議事堂前駅で運行を中止した。同線では約200人が重症を負ったが、この電車は唯一死者が出なかった。
日比谷線(中目黒発東武動物公園行)
日比谷線の中目黒東武動物公園行き(列車番号B711T、北千住駅から東武伊勢崎線へ直通)は、散布役を豊田亨、送迎役を高橋克也が担当した。当該編成は東武春日部検修区所属の20000系第11編成(21811以下8連)であった。
  豊田は先頭車両 (28811) に始発の中目黒駅(7時59分発)から乗車し、ドア付近に着席、恵比寿駅進入時サリンのパックを刺した(ニュースやワイドショーなどで、当該車両のドア脇に転がったサリンのパックが撮影された写真が用いられている)。六本木駅 - 神谷町駅間で異臭に気付いた乗客が窓を開けたが複数の乗客が倒れた。神谷町駅に到着後、乗客が運転士に通報し、被害者は病院に搬送された。その後、後続列車が六本木駅を出たため、先頭車両の乗客は後方に移動させられ、列車は霞ケ関駅まで走行したのち、運行を取り止めた。この電車では1人が死亡し、532人が重症を負っている(後に、事件翌日に心筋梗塞で死亡した1人についても、サリン中毒死と認定された)。サリンの撒かれた車両には映画プロデューサーのさかはらあつしも乗り合わせていた。また当時共同通信社社員の辺見庸が神谷町駅構内におり、外国人1人を救出した。
日比谷線(北千住発中目黒行)
日比谷線の北千住中目黒行き(列車番号A720S)は、散布役を林泰男、送迎役を杉本繁郎が担当した。当該編成は営団千住検車区所属の03系第10編成(03-110以下8連)であった。
  他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林泰男は3パックを携帯した。また、3パックの内1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。彼は北千住7時43分発中目黒行きの3号車 (03-310)上野駅から乗車した。そして、秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布した。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出した。この状況下で一般乗客のとっさの判断を責められるものではないが、後にサリンによる被害が拡大することになってしまった。

  サリンのパックを小伝馬町駅で蹴り出した当該列車は、サリンの液体が車両の床に残ったまま運行を継続したが、5分後八丁堀駅停車中に再度パニックに陥り、複数の乗客が前後の車両に避難し始めた。8時10分に乗客が車内非常通報装置を押すと列車は築地駅で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れた(この時の救出時の光景がテレビで中継された)。列車は直ちに運転を打ち切った。この光景を目撃した運転士が指令センターに「3両目から白煙が出て、複数の客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という憶測が続いた。
  小伝馬町駅ではサリンのパックが出されたことで、A720Sの後続列車である、八丁堀・茅場町・人形町・小伝馬町で運転を見合わせた4つの列車と、小伝馬町駅の手前で停止し、小伝馬町駅に停まっていた列車を人形町駅の手前まで退避させた後に小伝馬町駅に停車した列車の5列車も被害を受けた。小伝馬町駅では5列車が到着し、うち2列車が小伝馬町駅で運転を打ち切ったため、狭いホームに多数の乗客が下ろされ、列車の風圧などでホーム全体に広がったサリンを多数の乗客が吸引する結果となり、当駅では4人が死亡した。
  これにより、本事件で最多となる6列車が被害を受け、8人が死亡し2,475人が重症を負った。
事件後
  事件後、実行犯らは渋谷アジトでテレビを見て事件の発生を確認し、新実智光は死人が出たことを知ると大はしゃぎしたという。使った傘など証拠品は多摩川で焼却した後、実行犯らは第6サティアンに帰還して麻原に報告した。麻原は、「ポアは成功した。シヴァ大神、すべての真理勝者方も喜んでいる。」「これはポアだからな、分かるな。」と、あくまで事件はポアであったことを強調した。そして、「『グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方の祝福によって、ポアされてよかったね。』のマントラを1万回唱えなさい」と命じおはぎオレンジジュースを渡した
緊急処置
事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅と神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。次第に被害が拡大したため営団は8時35分、日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線・丸ノ内線では不審物・刺激臭の通報のみで、更に被害発生の確認が遅かったため、運行が継続された。
  9時27分、営団地下鉄のすべての路線で全列車の運転見合わせを決定した(当時営団地下鉄の他路線との接続がなかった南北線も含む。副都心線有楽町線併走区間を除いて未開業)。その後、全駅・全列車を総点検し、危険物の有無を確認した。
  被害者が多く発生した霞ケ関・築地・小伝馬町・八丁堀・神谷町・新高円寺のほか、人形町・茅場町・国会議事堂前・本郷三丁目・荻窪・中野坂上・中野富士見町の13駅にて救護所を設置し、病院搬送前の被害者の救護に対応した。

  大混乱に陥った日比谷線は終日運転を取りやめることになり、丸ノ内線・千代田線については被災車両を車庫や引込み線に退去させたのち、霞ケ関駅を通過扱い(停車はするがドアの開閉はしないでそのまま発車)して運転を再開したが、サリンが散布されたことが判明して自衛隊による除染作業の必要が生じた。そのため正午から約数時間、丸ノ内線は銀座駅 - 四谷三丁目駅間、千代田線は大手町駅 - 表参道駅間を部分運休した(このとき、霞ケ関駅の引込み線にあった千代田線の被災車両(203系マト67)も松戸電車区(現松戸車両センター)まで回送されている)。除染作業終了後はほぼ所定どおりのダイヤで運転を再開したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった。
  上記3路線以外の路線は確認を終えた路線から順次運転を再開させたが、全駅、全列車に警察官警備員などが配置される異例の事態となった。
  事件直後、この5編成以外の編成で事件が発生したという情報もあったが、これは情報の錯綜などによる誤報であり、5編成以外で発生はなかった。しかし、乗客等に付着したり、気化したりしたサリンは他の駅や路線にも微細に拡散していった。
  地下鉄サリン事件で使用された液体は純度が低く混合液で、その内サリンは35%程度であることが判明している。このためヘキサンなどに由来する異臭が発生した。なお純度の高いものは無色無臭で、皮膚からも体内に浸透する。これに関して、麻原は1日程度で終わるサリン分留について「ジーヴァカ(遠藤)、いいよ、それで。それ以上やらなくていいから。」と遠藤誠一に言っており、純度よりも攻撃を最優先させたのではないかとされている。
救助活動
東京消防庁化学機動中隊特別救助隊救急隊など多数の部隊を出動させ被害者の救助活動や救命活動を行った。東京消防庁はこの事件に対して救急特別第2、救助特別第1出場を発令、延べ340隊(約1,364人)が出動し被害者の救助活動・救命活動を展開した。
  警視庁では東京消防庁との連携の下、機動隊を出動させ被害者の救助活動と後方の警戒にあたった。
  当初は「地下鉄で爆発」「地下鉄車内で急病人」など誤報の通報が多くサリンによる毒ガス散布が原因とは分からなかったため、警察も消防も無防備のまま現場に飛び込み被害者の救出活動を行った。現場では、東京消防庁の化学災害対応部隊である化学機動中隊が、原因物質の特定に当たったが、当時のガス分析装置にはサリンのデータがインプットされておらず、溶剤のアセトニトリルを検出したという分析結果しか得られなかった(ただし、サリンの溶剤としてアセトニトリルが使用されていた可能性がある)。さらに、この分析結果は、「化学物質が原因の災害である」ことを示す貴重な情報であったにもかかわらず、全現場の消防隊に周知されるまで、時間を要した。
警視庁
霞ヶ関の官公庁の公務員は、通常は午前9時30分頃に出勤することが多いがしかし、月曜日だけは朝早くに朝礼があるところが多い。
  警察庁では午前9時に対策本部を設置した。警視庁でも井上幸彦警視総監をトップに対策本部を設置。警視総監が事件の指揮を行った。対策本部には警視庁刑事部長警視庁警備部長警視庁公安部長も招集された。
  通常の捜査は過去の出来事を調べるものだが、オウム真理教事件では目前で新たな事件が次々に起こっており、新たなテロを食い止める必要があったためにあらゆる法律を駆使したぎりぎりの判断を迫られるものであった。ゴールデンウィークが迫る頃には政府から警察に対し安全確保の要請が来た。東京ドーム新幹線でサリンを撒かれると大きな被害を出すという理由であった。
  救出活動と並行しつつ、警視庁鑑識課が臨場し、散布された液状サリンのある地下鉄内に入って地下鉄車両1本を丸ごと封鎖し現場検証を開始した。
  警察官が発見した事件現場の残留物の一部は、警視庁科学捜査研究所へ持ち込まれた。鑑定官が検査するとその毒物が有毒神経ガス「サリン」であると判明。この情報は、午前11時の警視庁捜査第一課長による緊急記者会見などを通じて関係各所へ伝達され、医療機関は対NBC兵器医療を開始した。
東京消防庁・病院
東京消防庁には事件発生当初、「地下鉄車内で急病人」の通報が複数の駅から寄せられた。次いで「築地駅で爆発」という119番通報と、各駅に出動した救急隊からの「地下鉄車内に異臭」「負傷者多数、応援求む」の報告が殺到したため、司令塔である災害救急情報センターは一時的にパニック状態に陥った。
  この事件では特別区(東京23区)に配備されているすべての救急車が出動した他、通常の災害時に行われている災害救急情報センターによる傷病者搬送先病院の選定が機能不全となり、現場では、救急車が来ない・救急車が来ても搬送が遅いという状況が見られた。
  緊急に大量の被害者の受け入れは通常の病院施設では対応困難なものであるが、大きな被害の出た築地駅至近の聖路加国際病院は当時の院長日野原重明の方針[注 27]から大量に患者が発生した際にも機能できる病院として設計されていたため、日野原の「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」との宣言のもと無制限の被害者の受け入れを実施、被害者治療の拠点となった。又、済生会中央病院にも救急車で被害者が数十名搬送され、一般外来診療は直ちに中止。その後、警察から検証の為にとの理由で、被害者の救急診療に携わった病院スタッフの白衣などが押収された。虎の門病院も、数名の重症被害者をICU(集中治療室)に緊急入院させ、人工呼吸管理、大量のPAM投与など高度治療を行うことで治療を成功させた。また、翌日の春分の日の休日を含め特別体制で、数百人の軽症被害者の外来診療を行った。
  有機リン系中毒の解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル (PAM) は主に農薬中毒の際に用いられるものであり、当時多くの病院で大量ストックする種類の薬剤ではなく、被害がサリンによるものだと判明すると同時に都内でのストック分が使い果たされてしまった。
  聖路加国際病院から「大量のプラリドキシムヨウ化メチル(PAM)が必要」と連絡を受けた、名古屋市東区に本社を置く薬品卸会社のスズケンは、首都圏でのPAMの在庫がほとんどなかったことから、東海道新幹線沿線にある各営業所および病院・診療所にストックしてあるPAMの在庫を集め、東京に至急輸送する為に、名古屋駅から社員を新幹線に乗せ、浜松静岡新横浜の各駅のホームで、乗っている社員に直接在庫のPAMを受け渡して輸送する緊急措置を取った。陸上自衛隊衛生補給処からもPAM 2,800セットが送られた。またPAMを製造する住友製薬は、自社の保有していたPAMや硫酸アトロピンを関西地区から緊急空輸し羽田からはパトカー先導にて治療活動中の各病院に送達した。PAMは赤字の医薬品であったが、系列の住友化学にて有機リン系農薬を製造していたため、会社トップの決断で、有機リン薬剤を作っている責任上解毒剤も用意しておくのは同社の責任だとして毎年製造を続けていた。
  有機リン系農薬中毒の治療に必要なPAMの本数は一日2本が標準であるが、サリンの治療には、2時間で2本が標準とされる。
  当時サリン中毒は医師にとって未知の症状であったが、信州大学医学部附属病院第三内科(神経内科)教授の柳澤信夫テレビで被害者の症状を知り、松本サリン事件の被害者の症状に似ていることに気付き、その対処法と治療法を東京の病院にファックスで伝えたため、適切な治療の助けとなった。一方で、「急病人」「爆発火災」「異臭」という通報で駆けつけた警察官や消防官の多くは、サリンに対してはまったくの無防備のまま、地下鉄駅構内に飛び込み、救急救命活動に当たったため、多数の負傷者を出した。
  この事件は、目に見えない毒ガスが地下鉄で同時多発的に散布されるという状況の把握が非常に困難な災害であり、トリアージを含む現場での応急救護活動や負傷者の搬送、消防・救急隊員などへの二次的被害の防止といった、救急救命活動の多くの問題を浮き彫りにした。
自衛隊
陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の化学防護服や機材を提供していた関係上、初期報道の段階でオウムによるサリン攻撃であると直ちに判断。事件後地下鉄内に残されたサリンの除去に、創設後初めて陸上自衛隊大宮化学学校教官と、化学防護小隊が当たった。事件発生29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、化学科職種である第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)、第101化学防護隊、及び陸上自衛隊化学学校から教官数人が専門職として初めて実働派遣された。
  そのうち第1師団において、午後12時50分鈴木東京都知事から陸上自衛隊第1師団長、杉田明傑陸将に対し「地下鉄霞ヶ関駅構内の有毒ガス除去のため自衛隊の災害派遣」を要請。 これにより、第1師団司令部付隊化学防護小隊(練馬・「以下司令部付隊省略」)が73式小型トラック+1/4tトレーラー1両、除染車3形(B)1両、化学防護小隊長以下6名が第1波として出動。 午後1時30分、霞ヶ関駅に到着、偵察(ガス検知器2型でサリンを検知)そして除染作業(化学兵器で汚染されたものを無害化することを「除染」という)を行なった。
  以下細部状況として、第1師団化学防護小隊のエキスパート隊員は、防護マスクに化学防護衣を装着。ガス検知をした後、事件発生の霞ヶ関駅構内、駅長室までも、付着した有毒物質「サリン」を中和させる塩素酸ナトリウム溶剤(さらし粉、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)類)を携帯除染器2型(噴霧器)で散布。第2波の隊員合流後、松戸電車区(現松戸車両センター)などへも移動して夜中まで除染作業は続いた。
  地下鉄サリン事件で、都知事からの要請があり、一番早く事件現場に駆けつけたのが練馬駐屯地に編成している第1師団の化学防護小隊(当時24名在籍、現在は第1特殊武器防護隊に改編)の生え抜き6名のスペシャリストであった。
  他に事件現場の特性として、除染を行う範囲が広範囲であったため、第32普通科連隊を中心とし各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行った。
  また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院及び衛生学校から医官21名及び看護官19名が、東京警察病院・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行った
  医官は直前に行われていた幹部研修において化学兵器対応の講習を受けていた。聖路加病院へ駆けつけた医官は現場派遣時に講習資料を持ち出し、講習で得た知識・資料と患者の様子から化学兵器によるテロと判断し、PAMや硫酸アトロピンの使用を進言し、早期治療の要因ともなった。
  なお、自衛隊では関東周辺の陸上自衛隊各部隊に対し非常呼集対応を行なったものの、実働は本稿に記載されているように、最小限の部隊の配属のみが実施されている。
報道関係
  在京キー局の中で、現場映像と同時に事件速報がもっとも早かったのが、テレビ朝日で生放送中だった『スーパーモーニング』であった。事件が発生した日、在京キー局の地上波テレビではNHK教育以外全ての局において8時30分以降の通常番組が報道特別番組に変更された。また、事件発生から2日後の強制捜査の中継も放送された。
  新聞・テレビなどの各マスメディアは、本年1月に発生した阪神・淡路大震災を中心に報道してきたが、事件発生日を境に全国ネットのメディアはほとんどがこのサリン事件を中心に報道するようになった。テレビではワイドショーや一般のニュース番組でこの事件やオウム真理教の事を事細かく報じ(興味本位の報道も目立った)、毎週1、2回は「緊急報道スペシャル」として、ゴールデンタイムにオウムに関する報道特番が放送された。新聞も一般紙はもちろんのことスポーツ紙までが一面にオウムやサリンの記事を持ってくる日がほとんどで事件当時開幕を控えていたプロ野球関係の記事が一面に出ることは5月までほとんどなかった。この過熱報道は麻原が逮捕される日まで続いた。
  事件の発生はただちに世界各国へ報じられ、その後も世界各地ではオウム関連のニュースはトップとして扱われた(国松長官狙撃事件や全日空857便ハイジャック事件、麻原教祖逮捕など)。ドイツでは『ナチスの毒ガス(=サリンの意)東京を襲う』と報道された。オウム真理教による一連の行動を東京支局を含めて全く察知していなかったアメリカ合衆国CNNでは、東京支局経由で速報を伝える段階で「アラブ系テロリストによる犯行の可能性がある」と間違って報じた。
被害者
事件の目撃者は地下鉄の入り口が戦場のようであったと語った。多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度のものはその徴候にもかかわらず医療機関を受診せず仕事に行った者もおり、多くはそれによって症状を悪化させた。列車の乗客を救助したことでサリンの被害を受けた犠牲者もいる。
  目撃者や被害者は現在も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、電車に乗車することに不安を感じると語る。また、慢性的疲れ目や視力障害を負った被害者も多い。被害者の8割が目に後遺症を持っているとされる。そのほか、被害者はに罹患する者も一般の者に比べて多い傾向があり、事件後かなり経ってから癌で亡くなる被害者も少なくない。
  また、その当時重度な脳中枢神経障害を負った被害者の中には、未だに重度な後遺症・神経症状に悩まされ、苦しめられている者も数多くいる。
  裁判では迅速化のため、負傷者は当初3,794人とされ、1997年12月には訴因変更により14人に絞っている。
  作家の村上春樹による被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』があるほか、自身も事件に巻き込まれた映画プロデューサーのさかはらあつしによる著書『サリンとおはぎ』がある。
  ジャーナリストの辺見庸も事件に遭遇した自身の体験をもとに評論、エッセイ、小説などを書いている。
  その他、フリーダイビング選手の岡本美鈴やカメラマンの野澤亘伸もこの事件に遭遇している。
  2009年、裁判員候補にサリン事件の被害者が選ばれたため、問題となった(実際には裁判員にならなかった)。
死者
  事件当日はそのまま埼玉県に墓参りに出かけ、食事も普通に摂った。翌日、銭湯で倒れ、心筋梗塞で死亡。丸一日普通に行動できたことから、サリン吸引と死亡の因果関係が証明できないとして、起訴状では殺人未遂罪の被害者とされ、訴因変更後は未遂被害者からも除外されていた。しかし、2008年12月施行のオウム被害者救済法ではサリン吸引が浴室での事故の原因と判断され、13人目の死者として認定された。2010年3月6日には被害者の会が救済金を支給していると公表した。
捜査
家宅捜索
教団の目論見とは裏腹に事件の2日後の22日、警察は全国の教団施設計25箇所で家宅捜索を実施した。自動小銃の部品、軍用ヘリ、サリンの製造過程で使用されるイソプロピルアルコール三塩化リンなどの薬品が発見された。また、事件前の1月には上九一色村の土壌からサリンの残留物が検出されたことから地下鉄サリン事件はオウム真理教が組織的に行ったと推定したが、決定的な証拠が得られなかった。サリンをまいた実行犯も特定できず、松本智津夫ら幹部を逮捕する容疑が見つからなかった。
  強制捜査後、オウム側は関与を否定するため、
  サリンの原料は農薬をつくるためであり第7サティアンも農薬プラント
  その他の劇物も兵器用ではない、劇物の保有量が多いのは不売運動に遭っているのでなるべく大量購入しているだけ
  オウムは米軍機などから毒ガス攻撃を受けており、上九一色村で発見されたサリン残留物は彼らが撒いたもの
  オウムがやったなら東京にも信者がいるので巻き添えになる
  小沢一郎森喜朗創価学会の陰謀
  といった主張を唱えた。
実態解明
  事件から19日後の4月8日、警察は教団幹部であった林郁夫放置自転車窃盗の容疑で逮捕した。教団に不信感をつのらせていた林が「私が地下鉄にサリンを撒いた」と取り調べていた警視庁警部補に対し自白。地下鉄サリン事件の役割分担などの概要を自筆でメモに記した。このメモで捜査は一気に進み、5月6日、警察は事件をオウム真理教による組織的犯行と断定し一斉逮捕にこぎつけた。この頃にはすでに新宿駅青酸ガス事件東京都庁小包爆弾事件などが相次いでいた
  4月23日、村井秀夫刺殺事件が発生。これにより事件のキーパーソンである村井の持つ情報を引き出すことが不可能となった。
関係容疑者の逮捕
  菊地直子も製造補助の被疑者として逮捕されたが、証拠不十分のため本事件については不起訴となった。また、リムジン謀議の同席者青山吉伸石川公一や、傘を研磨した滝澤和義はこの件で起訴されていない。
余波
  地下鉄サリン事件は国内史上最悪のテロ事件であった。日本において、当時戦後最大級の無差別殺人行為であるとともに1994年(平成6年)に発生したテロ事件である松本サリン事件に続き、一般市民に対して化学兵器が使用されたテロ事件として全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた。
オウム真理教
  一連のオウム真理教事件によりオウム真理教は宗教法人の認証認可取り消し処分を受けた。警察の捜査と幹部信者の大量逮捕により脱退者が相次ぎ(地下鉄サリン事件の発生から2年半で信徒数は5分の1以下になった)、オウムは組織として大きな打撃を受け破産したが、現在はアレフに改組し活動を続けている。アレフ2代目代表で、現ひかりの輪代表の上祐史浩は、地下鉄サリン事件が起きた際、オウム真理教の事件の関与を否定し続けたスポークスマンであった。日本の公安審査委員会破壊活動防止法(破防法)に基づく解散措置の適用を見送ったが、オウム新法(団体規制法)が制定され、アメリカ国務省は現在もアレフをテロリストグループに指定している。
  地方自治体賃貸住宅が信者の居住を拒否したり、商店主が信者への商品の販売を拒否する事例も相次いだ。また、信者への住居の賃貸、土地の販売の拒絶も相次ぎ、一部の自治体では信者の退去に公金を使うこととなった。
被害者の後遺症・PTSD
  事件の被害者は後遺症に悩まされる日々が続いている。視力の低下など、比較的軽度のものから、PTSDなどの精神的なもの、重度では寝たきりのものまで、被害のレベルは様々であるが、現在の所被害者への公的支援はほとんど無い。
不審物への対応
  この事件後、全国の多くのごみ箱が撤去され、営団地下鉄はこれ以降全車両のドアに「お願い 駅構内または車内等で不審物・不審者を発見した場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務員にお知らせ下さい」という文面の警告ステッカーを貼りつけた(その後、東京地下鉄(東京メトロ)への移行に前後して英語版も掲出、同時期に都営地下鉄にも拡大)。同様のステッカーやアナウンスなどが他の鉄道事業者に波及するようになるのはアメリカ同時多発テロ事件以降である。その後、各鉄道事業者で外観から中身が見えるゴミ箱が設置されるようになり、東京メトロでも2005年4月より設置されている


オウム真理教
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オウム真理教(AUM Shinrikyo)は、かつて存在した日本の(新興)宗教団体。1988年から1995年にかけて、オウム真理教事件を引き起こし、1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴いオウム真理教という名称は消滅した。
  破産とほぼ同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは後にアーレフを経てAlephに改称され、また別の宗教団体であるひかりの輪山田らの集団ケロヨンクラブが分派した。

概説
地下鉄サリン事件を筆頭に、現世人の魂を救済する「ポア」を大義名分として、組織的に数多くの殺人事件を起こした新興宗教団体である。教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)は、「ヒマラヤで最終解脱した日本で唯一の存在で空中浮揚もできる超能力者であり、その指示に従って修行をすれば誰でも超能力を身に付けることができる」、などと謳って若者を中心とする信者を多く獲得した。教義的にはヒンドゥー教仏教といった諸宗教に合わせ、1999年に世界に終末が訪れるとするノストラダムスの予言など、オカルトもミックスしていた。麻原自身は釈迦の教えを忠実に復元したとしていたものの、実際のところ麻原にとって都合の良いものとなっていた。
  当初はヨーガを学ぶ和気藹々としたサークルに過ぎなかったが、次第に常軌を逸した行動が見え始め、出家信者に全財産をお布施させたり、麻原の頭髪や血、麻原の入った風呂の残り湯などの奇怪な商品を高価で販売するなどして、多額の金品を得て教団を拡大させた。内部では奇怪な商品の売付けや過激な修行で懐疑的になって逃走を図った信者を拘束したり殺害するなどして、1988年から1994年の6年間に脱会の意向を示した信者のうち、判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名以上に及び、恐怖政治で教祖への絶対服従を強いていた。
  「出家」や高額の布施を要求し信者の親族その支援者と揉め事が多く、当初より奇抜、不審な行動が目立ったため、信者の親などで構成される「オウム真理教被害者の会」(のちに「オウム真理教家族の会」に改称)により、司法行政警察など関係官庁に対する訴えが繰り返されたが、取り上げられることなく、その結果、坂本堤弁護士一家殺害事件をはじめ松本サリン事件地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(詳細は「オウム真理教事件」を参照)を起こしたほか、自動小銃化学兵器生物兵器麻薬爆弾類といった教団の兵器や違法薬物の生産を行っていた。
  第39回衆議院議員総選挙での真理党の惨敗もあり、最終的には、麻原に帰依しない部外者を「ポア」により「救済」するとして、国家転覆計画すらも実行するようになった。その到達点と言える1995年3月20日の地下鉄サリン事件は、宗教団体が平時の大都市を狙い複数箇所を強力な化学兵器同時多発テロを起こすという過去に類のない事件であり、比較的治安の良い戦後日本で起きたことも含めて、日本国内だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えた(海外ではTokyo Attack等と称された)。
法人格の喪失後
  1996年平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い「オウム真理教」としては消滅した(2009年に破産手続きが終了した)。同時に、新たな宗教団体アレフ」が設立され、教義信者の一部が引き継がれた。アレフは後に「Aleph」と改称され、また2007年(平成19年)5月に上祐史浩を中心とした別の仏教哲学サークルひかりの輪」が、2014年(平成26年)〜2015年(平成27年)頃にAleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派(自称ではない)が結成された。また、既に目立った活動はなく崩壊したと見られているが、北澤優子により「ケロヨンクラブ」なる組織が分派して結成されていた時期もある。
  2018年には麻原をはじめとした幹部達の死刑が執行されたが、Alephを中心に未だに麻原信仰は根強く、後継組織の施設周辺は抗議の看板が掲示されるなどしている。2019年現在も日本の公安調査庁団体規制法により後継団体の動向を監視している。公安調査庁の調査では、米国政府、欧州連合(EU)、オーストラリア政府、カザフスタンアスタナ市裁判所、ロシア連邦最高裁判所からテロリストの認定を受け、各国で活動を禁止されている。
  麻原の三女松本麗華は、マスメディアではオウム真理教出家者が高学歴のインテリばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、実際は一般社会に居場所を無くした構成員も多かったと語る。例えば、普通に生きていくことに疑問を生じたり、居場所が無かったりした人や、DV被害者、被虐待児、精神疾患発達障害パーソナリティ障害などの社会的弱者が少なからずいたという。
名称
  「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文「」でもあり、「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。これは宇宙の創造・維持・破壊を表しており、その意味は「すべては無常である」、すなわちすべては変化するものであるということを表している。
  また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦イエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。特にチベット仏教原始仏教の要素をアピールしたため仏教系とされることも多いが、あえて仏教を名乗らなかった理由は、「仏教」という言葉自体が釈迦死後に創作されたものであるからとしている。また真理と密接に関係のあるものが科学である。
  しかし、実は命名には京都の私立探偵目川重治が関わっていたという。目川は「松本智津夫」から天理教の全容の調査を依頼され、その調査結果を松本に手渡した。その際、目川があんりきょう、いんりきょう・・・と「あ」から続けていき、「しんりきょう」に至ったという。「オウム」は目川の家の向かいにあったオーム電機オームの法則に由来し、目川が「オームなんていいんじゃないか?」と勧めたとされる。後に目川は松本が麻原彰晃であると知った。
  時期は目川の手記では1978-1979年頃、ノンフィクションライターの高山文彦および東京新聞記者瀬口晴義の文献によれば1984年春頃とされている(詳細は「目川重治#オウム真理教」を参照)。高山は勢力を拡大し教団名が市の名前(天理市)にまでなるに至った天理教を自分の夢と重ねていたのではないかとする。
沿革
前史
ヨーガ教室
  1984年(昭和59年)、超能力開発塾「鳳凰慶林館」を主宰していた麻原彰晃(本名・松本智津夫)は後に「オウム真理教」となるヨーガ教室「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めた。当時は超能力の獲得を目指すアットホームで明るいヨガ教室だった
  この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた。麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事や、『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などの本を執筆するなどして宣伝した。
麻原と家庭
  当時は松本家一家は千葉県船橋市に住み、貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。食事野菜中心での代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にはちゃぶ台があり、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使っていた。
  当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。1986年ころには世田谷区道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合うような普通の家庭であった。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の松本知子は麻原が滅多に帰宅しないことから精神不安定であり、麻原に向かってなじるようないさかいがあり、麻原はこれにほとんど抵抗をしなかった。3女松本麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、知子は麻原の著書の代筆を深夜まで行っており、後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。
  麻原は子供に向かって「に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は蚊を平気で殺していた
合法な宗教活動
オウム神仙の会からオウム真理教へ
  1987年(昭和62年)、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。同年11月にはニューヨーク支部も設立。
  「真理教」の名前は石井久子以外には「いかにも新興宗教」と不評であり、もっと宗教色を隠さないと一般受けしないという意見もあったが、麻原は「救済活動をする為なのだから真理教にする」と拘った。宗教化後は多額の献金を要求するようになり、ワークも増え、会員の三分の一が脱会した。
  1989年(平成元年)8月25日に東京都に宗教法人として認証された(1993年以降の登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。麻原は解脱して超能力を身に付けたといい、神秘体験に憧れる若者を中心に組織を急速に膨張させていく。さらに麻原は自らをヒンドゥー教の最高神の一柱である破壊神シヴァ神あるいはチベット密教の怒りの神「マハーカーラ」などの化身だとも説き、人を力尽くでも救済するこの神の名を利用し目的のためには手段を選ばず暴力をも肯定する教義へと傾斜していく。
  同年にはサンデー毎日で「オウム真理教の狂気」特集がスタートし、オウム批判、オウムバッシングが始まった。
ダライ・ラマを利用した宣伝
  麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、1987年(昭和62年)2月24日ならびに1988年(昭和63年)7月6日にダライ・ラマ14世インドで会談した。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「ねえ君、今の日本の仏教を見てみたまえ。あまりにも儀式化してしまって、仏教本来の姿を見失ってしまっているじゃないか。これじゃあいけないよ。このままじゃ、日本に仏教はなくなっちゃうよ。」「君が本当の宗教を広めなさい。君ならそれができる。あなたはボーディ・チッタを持っているのだから」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した。ペマ・ギャルポはその後まもなくオウム真理教と積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても今後は麻原と関係を持たないように進言した。
  ダライ・ラマと同様オウム真理教は教団の権威づけに多くのチベットの高僧やインドの修行者と接触し宣伝材料として利用していたが、事件後に行われたマスコミの取材に対して、オウム真理教から接触があった高僧や修行者は軒並み深い関係を否定している。
  1995年4月5日来日したダライ・ラマ14世は記者会見で「(麻原と)会ったことはあるが、私の弟子ではない。彼は宗教より組織作りに強い興味を持っているという印象が残っている。私に会いに来る人には誰でも友人として接している。しかし、オウム真理教の教えを承認してはいない。私は超能力や奇跡には懐疑的だ。仏教は、一人の指導者に信者が依存し過ぎるべきではないし、不健全だ」と語った。この話はオウム真理教が江川紹子と出版社を相手取り損害賠償請求訴訟を行なった際の争点の一つとなったが、判決は「名誉毀損に当たらない」としてオウム真理教の請求を棄却した。江川紹子は「多額の寄付をしてもらえば、普通お礼はするし、多少のリップサービスをすることもある。麻原教祖はそうした相手の反応を利用し、(中略)オウムの権威や信用を高めようとしたのではないか」と推測している。
麻原の健康不安と死への願望
  1988年10月頃、富士宮市人穴に総本部道場建設。この頃より麻原は体調を崩すことが多くなり、健康面に不安を感じ始め「自分が死んだら、教団をどうするのか」あるいは「私は長くてあと5年だ」「死にたい」などと洩らすようになる。肝硬変肝臓がんだと大騒ぎになったりもする。高弟の前でも「もう死のうかな」と呟き、新実智光は「お供します」、早川紀代秀は「困ります」、上祐史浩は「残って救済活動をします」と答え、妻の松本知子は「勝手にすれば」と言ったという。3女松本麗華は、この頃から「麻原のへの願望は強まった」と考えている。解脱者が多くなりオウム真理教が世界宗教へと変貌し救済ができるとの真剣な思いがあったが、弟子の修業が思うように進まず、通常通りの方法では人間界が救われないという否定的な認識が麻原彰晃に芽生えたと見ている。
宗教法人の認可申請
  宗教法人に適用される不課税、税額控除目的に1989年3月1日、東京都に認可申請を行った。しかし、未成年の信者を巡って家族及び被害者の会からの批判によって認証手続きが遅れる。4月24日には麻原が信者200人を引き連れ東京都庁に押しかけ、抗議するという騒動を引き起こした。この認証手続きには被害者の会の家族から依頼を受けた北川石松衆院議員の圧力に対し、教団側は『元弁護士で裁判官だった出家信者』及び『沖縄の参院議員』を利用し、認証手続きを推し進めようとしたことが麻原の第43回公判で明らかになっている。しかし結局、不認可する理由がないことから8月25日、宗教法人認可を受けた。
衆議院議員総選挙への出馬
  1989年参院選マドンナ旋風が沸き起こったことから、1990年2月に行われる衆院選に、当初麻原は石井久子をはじめとした女性信者を出馬させる構想を立てたが、その後麻原自身が徳によって政を行い、地上に真理を広めるために1990年(平成2年)には真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙へ麻原と信者24人 が集団立候補。選挙に立候補するかどうかはオウムとしては珍しく幹部による多数決が採られた。結果は10:2で賛成派が勝利。反対した2人は上祐史浩岐部哲也であった
  しかし結果は惨敗し、当時立候補者1人あたり200万円だった供託金として計5,000万円が没収される
海外への進出
  麻原は自らの権威づけをかねて主要な弟子を引き連れて世界各地の宗教聖地を巡った。1987年には、「麻原の前世が古代エジプトのイムホテップ王であった」ということから、同王が埋葬されているピラミッドの視察目的でエジプトツアーを行った。後に麻原は自著において「ピラミッドはポアの装置だ」と述べた[27]1989年(平成元年)8月、所轄庁の東京都知事より宗教法人としての認可を得た後、日本全国各地に支部や道場を設置する一方、ロシアスリランカなど海外にも支部を置いた。ロシアでは優秀な演奏者を集めキーレーンという専属オーケストラを所有、布教に利用した。日本では1989年(平成元年)に約1万人程度の信者が存在していたとされる。麻原は1991年(平成3年)を「救済元年」とし(教団内でこれを元号の如く用いた)マスメディアを中心とした教団活動を活発化させた。
  1992年11月12日には、釈迦が菩提樹の下で悟りを開く瞑想に入ったとされる聖地、インドブッダガヤ大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた。麻原は日本では盛んにテレビ・ラジオ番組に露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行った。このほか講演会開催、ロシア東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行った。図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国立国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学の学園祭での講演会を更に頻繁に開催するなどした(東京大学京都大学千葉大学横浜国立大学等)。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン製造などを行う会社「株式会社マハーポーシャ」を設立し、格安パソコン製造販売を行うようになった。
オウム真理教放送の開始
  ロシアでは、1992年4月1日オウム真理教放送が開始される。日本語の他、英語ロシア語で放送を行っていた。当初は「エウアゲリオン・テス・バシレイアス」という番組名で、放送局名や放送時間、周波数等の告知すらなく、同年4月半ばからは「オウム真理教放送」と名乗る。ギリシア語では「エウアンゲリオン」が正しい発音だという聴取者の指摘により、8月1日の放送分より「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」に変更された。制作は富士山総本部で、録音テープをモスクワに空輸し放送していた。電波の受信状態が悪かったため12月1日からは富士山総本部のスタジオからの生放送に変更された。1992年6月15日にはモスクワ放送の英語ワールドサービスの時間枠を使用し、日本時間の5時30分と13時30分からそれぞれ約30分間、全世界に向けての英語放送を開始。1992年9月1日からは「マヤーク」という約25分間のロシア語放送が開始された。11月19日にはモスクワのテレビの2×2にて「真理探求」という番組が開始される
  一連の事件が強制捜査を受けたことから、ロシア当局は放送の中止を決め、日本時間の1995年3月23日の放送が最後となった。翌24日もスタジオからは番組を発信したが、ロシア側が放送中止を決めたため、電波には乗らなかった。

  番組内では、麻原彰晃作曲とされる多くのオウムソングが流され、「超越神力」、「エンマの数え歌」、「御国の福音」第1楽章の一部や「シャンバラ・シャンバラ」などのほか、モスクワ大学での麻原彰晃説法の様子も放送された。麻原の3人の弟子として、アナウンサーのカンカー・レヴァタ(杉浦実)、ダルマヴァジリ(坪倉浩子)、アシスタント役にはマンジュシュリー・ミトラ(村井秀夫)が登場した。麻原夫人の松本知子(ヤソーダラー)が、かつてはアンチ宗教だったという衝撃的な発言にはじまり、夫人の考え方が変わってゆく様子なども流された。英語放送では麻原の英語のメッセージのほか、当初は朝のパーソナリティーをマイトレーヤ(上祐史浩)が、昼の放送はヤソーダラー(松本知子)が受け持っていた。
  1995年3月22日、オウム真理教に対する警察の強制捜査が行われ、翌23日にはこれに対する麻原自らの反論が放送された。音質から、第4サティアンのスタジオではなく、他の場所での収録と推測されている。1995年2月からは、麻原が「わたしは、君たちがわたしの手となり、足となり、あるいは頭となり、救済計画の手伝いをしてくれることを待っている さあ、一緒に救済計画を行なおう そして、悔いのない死を迎えようではないか」と呼びかけるメッセージを送り続けていたが、3月23日の放送の最後にもこれが放送されオウム真理教放送最後のオンエアとなった。
非合法活動
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件逮捕(拉致)現場
住民によるオウム真理教追放運動。各地で住民との摩擦が表面化し時にはヒステリックなまでにエスカレートした。
暴走の起源
  1988年(昭和63年)、在家信者死亡事件が発生。麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」とつぶやいたという。隠蔽のため、1989年(平成元年)には男性信者殺害事件を起こし殺人に手を染める。
坂本弁護士事件と衆議院選の裏側
  翌年の選挙戦など教団の活動の障碍になるとして、前年の1989年11月4日、オウム批判をしていた坂本堤弁護士とその一家を殺害(坂本堤弁護士一家殺害事件)。中川智正が殺害の際プルシャ(オウムのバッジ)を落としたためオウム犯行説が一時広まるが、任意の失踪の可能性があるなどとされこの頃はまだ事件性すら確定されていなかった。
  そして1990年、麻原は真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙に出馬。選挙の際には信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビ報道され、徐々に知名度が上がっていく。この時には公職選挙法で定められた時間帯を大きく超える16時間/日に及ぶ街頭宣伝運動を繰り広げ、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレット、雑誌を選挙区中に撒き、麻原そっくりのお面を大量に作って運動員に被らせた。これは違法で警視庁から警告を受けたが、運動にかり出された元信者は「もしも誰かから注意されたりしたら、『これは布教活動です』と言って逃れるように」と指示を受けていた。また他の候補者のポスターを剥がす、汚損するなどを麻原自身が勧め、深夜に信者を使って他の候補者を中傷するビラを配布させた。
  結果はこの選挙で最も得票の多かった麻原でさえ1,783票 であり、惨敗を受け麻原は「票に操作がなされた」と発言し、「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナでいく」として、ボツリヌス菌ホスゲンによる無差別テロ計画(オウム真理教の国家転覆計画)を指示する。このことからもこの選挙がオウム真理教の被害者意識をより一層高め、非合法活動を更にエスカレートさせたといわれている。
無差別テロ計画
 麻原は選挙での惨敗を受け、オウム真理教の国家転覆計画を実行に移し始めた。教団内ではかねてから、現代人は死後三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に転生してしまうためこれを防がなくてはならない などと教え込まれていたため、信者は麻原に従って武装化に協力していった。
   1990年4月、「オースチン彗星が接近しているために、日本は沈没するが、オウムに来れば大丈夫」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行き石垣島セミナーを開催した。
  セミナーの当初の目的は、オウム真理教が計画をしていたボツリヌス菌ボツリヌストキシン散布によるテロから、オウムの信者を守ることであった。しかし村井秀夫遠藤誠一らはボツリヌス菌の培養に失敗をしたためテロは実行されなかった。
  参加者によると、参加費は30万円であったが、会場はきちんと予約されておらず、天候が悪かったこともあり、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年のオースチン彗星の接近によって何かが起こる」とただそれだけの話があっただけで行事は予定を繰り上げてお開きになった。しかしこのセミナーで多数の出家者を獲得し、選挙での惨敗後に脱会者が続出した教団を蘇生することには成功した。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった。
波野村の攻防
  1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村(現在の阿蘇市)に進出するが、地元住民の激しい反対運動に会う。波野村進出の目的のひとつは武装化拠点の確保であった。しかし村民はオウムの進出に反発し、反対運動が激化した。村の反対運動の背景には、村長派と反村長派との対立があったともされる。また右翼団体なども扇動され激しい攻防があった
  そして1990年10月22日、オウム真理教波野村の土地売買に関する国土利用計画法違反事件強制捜査を受け、早川紀代秀満生均史青山吉伸石井久子大内利裕など教団幹部が続々と逮捕された。しかしオウムは熊本県警内の信者から情報を入手しており、強制捜査も1週間延期されていたものだったので、武装化設備を隠蔽することができた。
  後の1994年、結局波野村はオウムが5000万円で手に入れた土地を和解金という形式で9億2000万円で買い戻すことで合意、オウムの大きな資金源となった。
武装化の中断、妄想・幻聴の出現
  国土法違反事件の影響もあり、1991年(平成3年)〜1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った。
  だが1992年頃より、「宇宙衛星から電磁波攻撃を受けている」などといった麻原の妄想幻聴が現れ始める。「シヴァ大神の示唆では仕方ないな」とつぶやき、「内なる声」が自らの進みたい道とは違うことに苦しみ始め「いっそ死んでしまいたい」と言ったのを3女麗華が聞いている。麗華は麻原を統合失調症などの精神疾患に罹患していたのではないかと推測している。
教団の再武装化(「麻原彰晃#マハーヤーナとヴァジラヤーナ」も参照)
  1993年(平成5年)前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開。武力を保有するため、オカムラ鉄工を乗っ取りAK-74の生産を試みたり(自動小銃密造事件)、NBC兵器の研究を行うなど教団の兵器の開発を進めた。1993年以降は麻原がオウム真理教放送等を除くメディアに登場することはなくなり、国家転覆を狙った凶悪犯罪の計画・実行に傾斜してゆく。
  この中で土谷正実中川智正滝澤和義らの手によってサリンなど化学兵器の合成に成功。1993年より、これを利用した池田大作サリン襲撃未遂事件滝本太郎弁護士サリン襲撃事件を起こし、敵対者の暗殺を試みた。さらに第7サティアンにおいてサリン70トンの大量生産を目指した(サリンプラント建設事件)。
  また生物兵器の開発も再開し、遠藤誠一、上祐史浩らが炭疽菌を用いて亀戸異臭事件などを起こしたが、こちらは成功しなかった。
  この頃には、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると主張するようになり、車には空気清浄機を付け、ホテルでは大真面目に隙間に目張りをしていた。ヘリコプターが通過する際には、毒ガスだと言って車に駆け込み退避するよう命じる有り様だった中川智正によると、この被害妄想1993年10月頃に第2サティアンの食物工場から二酸化硫黄を含む煙が出た事故を、毒ガス攻撃と思い込んだことから始まったという
洗脳の強化
  過激化とともに布施の強化が図られ、社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになる。麻原は信者に対して「教団の秘密を漏らした者は殺す」「家に逃げ帰ったら家族もろとも殺す」「警察に逃げても、警察を破壊してでも探し出して殺す」と脅迫していたという。教団内の締め付けも強くなり、薬剤師リンチ殺人事件男性現役信者リンチ殺人事件逆さ吊り死亡事件などが発生した。
  1994年からオウムでは違法薬物をつかったイニシエーションを次々と実行するようになり、LSDを使ったイニシエーションが在家信者に対しても盛んに行われた(LSDは麻原自身も試している)。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる。LSDを使った「キリストのイニシエーション」は出家信者の殆どに当たる約1200人と在家信者約200〜300人、LSDと覚醒剤を混ぜた「ルドラチャクリンのイニシエーション」は在家信者約1000人が受けた。
  また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。麻原は林に、信者達の行動を監視するよう命じ、信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。林郁夫はさらに「ニューナルコ」と呼ばれる薬物を併用した電気ショック療法を使い始め、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。他にも、村井秀夫によりPSIという奇妙な電極付きヘッドギアが発明され、教団の異質性を表すアイテムとなった。
  洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、LSDを飲ませたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語っている光景も目撃されている。
  麻原本人は言葉巧みに若い女性信者を説得し、左道タントライニシエーションと称して性交を行っており、避妊も行っていなかったため妊娠出産に至る女性も数多く現れた。
省庁制発足と松本サリン事件
  1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭省庁制発足式が開かれ、これにより教団内に「科学技術省」「自治省」「厚生省」「諜報省」などといった国家を模したような省庁が設置された。
  3女松本麗華によれば、1994年6月に麻原の体調が悪化し、教団運営ができなくなる恐れが出たために、省庁制が敷かれたという。各省庁の責任者や大臣が大きな権限を持つようになり、3女は、11歳にして法皇官房長官に任命される。任命時に麻原は麗華に「お前はもう11歳だから大人だ」と言ったが麗華がふてくされていると「法皇官房は、私のことを一番に考える部署なんだ。お前は長官だから、私の世話をしっかり頼む」と言った。
  同日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた長野県松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者600人を出す惨事となる(松本サリン事件)。当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。またマスコミによる報道被害も問題になった。
戦いか破滅か
  1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察当局の監視が強化された。オウム内ではビデオ「戦いか破滅か」や雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」などで危機感を煽った。
  「信徒用決意」という決意文にはこうある。「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」「はぎとって、はぎとって、すべてを奪い尽くすぞ」。さらに、決意Ⅲ-2にはこうある。「たとえ恨まれようと、憎まれようと、どんなことをしてでも、真理に結び付け、救済することが真の慈愛である」「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」「そして、まわりの縁ある人々を高い世界へポワするぞ」。これらの教義は、信者の監禁事件へと発展していき、1994年には教団は拉致監禁を平然と行うようになり、ピアニスト監禁事件宮崎県資産家拉致事件鹿島とも子長女拉致監禁事件といった多数の拉致監禁事件を起こし、サティアンに作られた独房や監禁用コンテナ、一日中麻原の説法テープを聞かせる部屋(ポアの間)に被害者を監禁した。
  さらに土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いて敵対者の暗殺を計画、駐車場経営者VX襲撃事件会社員VX殺害事件オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件を起こした。麻原は「もうこれからはテロしかない」、「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」、「ポアしまくるしかない」などと語っていた。
サリン事件は、オウムである
  松本サリン事件後に「サリン事件は、オウムである」などと書かれた「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書が出回り、さらにオウムを追っていたジャーナリストの江川紹子が何者かに毒ガス攻撃を受ける(江川紹子ホスゲン襲撃事件)など、オウムと毒ガスの関係性が噂され始めた。1994年11月には強制捜査接近の噂迫が教団内に流れ、サリンプラントの建設を中断するなどの騒ぎとなっていた。そして1995年(平成7年)1月1日読売新聞上九一色村サティアン周辺でサリン残留物が検出されたことを報じ、オウムへのサリン疑惑が表面化、教団は「上九一色村の肥料会社が教団に向けて毒ガス攻撃をしているため残留物が発見された」と虚偽の発表をするとともに、隠蔽工作に追われることとなった。
  だが麻原は1995年1月17日阪神淡路大震災で強制捜査が立ち消えになったものと考え、1995年2月28日、東京都内で公証人役場事務長逮捕監禁致死事件を起こす。この事件で教団信者松本剛の指紋が発見されたことにより、ようやく警視庁公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で全国教団施設の一斉捜査を決定したのであった。3月15日には霞ケ関駅で自動式噴霧器が発見されたこともあり、毒ガスによる抵抗を想定して、陸上自衛隊から戦闘用防護衣450着と化学防護衣50着を借用するとともに、3月19日には警視庁機動隊員300名と捜査一課捜査員20名が朝霞駐屯地に派遣され、防護服の装着訓練を受けていた。
地下鉄サリン事件と強制捜査
  しかし教団はそれを察して警察より早く動き、強制捜査を遅らせるため1995年3月20日地下鉄サリン事件を決行。13人の死者と数千人の負傷者が発生する大惨事となった。
  ただし、唯一地下鉄サリン事件が決定されたリムジン謀議の内容を詳細に証言している井上嘉浩によると、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う。」、2015年2月20日の高橋克也の公判において「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言しており、自身の「ハルマゲドン」の予言を成就させるためという説もある。
  いずれにせよ強制捜査延期には至らず、事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)を中心とした教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター、衰弱状態の信者50人以上等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕された。
  強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する。オウムの犯罪行為は一部の信者以外には秘密であったうえ、「オウムは米軍に毒ガス攻撃されている被害者」「不殺生戒を守り虫も殺さぬオウム信徒が殺人をするはずがない」と教わっていたため、事件を陰謀と考える信者の抵抗は大きかった。
  強制捜査後、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、サリンはつくっていないなどと潔白を主張した。一部の幹部は逃走し、八王子市方面に逃げた井上嘉浩中川智正らのグループは村井秀夫から捜査撹乱を指示され、4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件都庁爆弾事件を起こした。また、その村井秀夫は1995年4月23日に東京南青山総本部前に集まった報道陣を前にして刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。4月15日予言などオウムに関するデマも飛び交った。
  1995年(平成7年)5月16日には再び、自衛隊の応援を得て付近住民を避難させた上で、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。また、証拠品の押収や、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された。
麻原逮捕後の活動
長老部体制
  東京地検麻原彰晃こと松本智津夫を17件の容疑で起訴した。1996年1月18日時点で、一連の事件に関与して逮捕された信者は403名、そのうち起訴183名
  教団は村岡達子代表代行と長老部を中心として活動を継続していたが、1995年(平成7年)10月30日東京地裁により解散命令を受け、同年12月19日の東京高裁において、即時抗告が、翌1996年(平成8年)1月30日の最高裁において特別抗告がともに棄却され、宗教法人法上の解散が確定した。
  1996年(平成8年)3月28日、東京地裁が破産法に基き教団に破産宣告を下し、同年5月に確定する。1996年(平成8年)7月11日公共の利益を害する組織犯罪を行った危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、同法及びその適用は憲法違反であるとする憲法学者の主張があり、また団体の活動の低下や違法な資金源の減少が確認されたこと等もあって、処分請求は1997年(平成9年)1月31日公安審査委員会により棄却されている。
  破防法処分請求棄却後により教団も活動を継続し、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動や、パソコン販売による資金調達などを行った[69]。一方、一連の事件については「教団がやった証拠がない」とし、反省や謝罪をせず、被害者に対する損害賠償にも応じなかった。
  この頃教団は、当時黎明期であったインターネット上に 公式サイト を開設 (1999年、休眠宣言により事実上閉鎖。初期版/中期版/後期版)。麻原が毒ガス攻撃を受けていた、坂本弁護士一家殺害事件は弁護士事務所の者が怪しい、だんご三兄弟ヒットはフリーメイソンの陰謀などと主張したり、麻原や上祐が出てくる探索ゲーム「サティアン・アドベンチャー」、オウム×新世紀エヴァンゲリオンの二次創作があったりとやりたい放題の内容であった。さらに一部の熱心な信者は一般人を装って、ネット上にオウム事件陰謀説を流布していた。
休眠宣言
  教団の姿勢は社会の強い反発を招き、長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)の住民運動をきっかけに、オウム反対運動が全国的に盛り上がりを見せ、国会でもオウム対策法として無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(いわゆる「オウム新法」)を制定するに至った。
  予言されたハルマゲドンもなかったことから、教団は1999年9月に「オウム真理教休眠宣言」、12月1日は「正式見解」を発表し事件を形式的に認めた。

12月1日教団正式見解

9月末の休眠宣言以来、教団として、一連のいわゆるオウム事件に対する見解を発表すべく検討を重ねてまいりました結果、本日以下の見解を発表できる ことになりました。

いわゆるオウム事件に関して、教団として現在まで裁判の進行を見守ってきた結果、当時の教団関係者の一部が事件に関わっていたことは否定できないと判断するに至りました。

長老部のメンバーを代表とする現教団の信者たちにとって、一連の事件は知らないところで起こったこととはいえ、当時の教団にあって同じ団体に属した者 として、現在裁判で明らかになりつつあることが起こったことは大変残念であるとともに、被害に遭われた方々をはじめ、ご家族の方々に対し、心からお詫びを申し上げたいと思います。
(省略)
最後になりますが、現在「オウム新法」といわれる法律が成立しようとしており ます。わたしたちの関係者が関与した事件によって、憲法で保障された基本的人権を侵害する法律が制定されようとしていることは、大変遺憾なことであり、また国民の皆さまに対して申し訳なく思う次第です。

この法律が、もし成立するとするなら、わたしたち以外の団体に決して適用されることがないよう心から願ってやみません。

— 1999年12月1日 教団代表代行 村岡達子[75]
後継教団
アレフ系
Aleph
  2000年(平成12年)2月4日、教団は破産管財人からオウム真理教の名称の使用を禁止されたため、前年に出所した上祐史浩を代表として「オウム真理教」を母体とした宗教団体「アレフ」へと名称変更した。同年7月、「アレフ」は破産管財人の提案により、被害者への賠償に関する契約を締結したが、その支払いは遅々として進んでいない。2003年(平成15年)には「アーレフ」、2008年(平成20年)にはさらに「Aleph」(アレフ)と改称した。2010年(平成22年)3月に公安調査庁は、サリン事件当時の記憶が薄い青年層の勧誘をしていることなどについて、警戒を強めている旨を発表した
ひかりの輪
  2007年(平成19年)5月にはアーレフから上祐派の信者たちが脱会、新団体「ひかりの輪」を結成した。この団体は麻原の教えからの脱却を志向していると主張し、またオウム被害者支援機構との協定により被害者への賠償金支払いを行っている。なお公安調査庁『内外情勢の回顧と展望』2010年1月版では、その活動が麻原の修行に依拠していることが報告されている
山田らの集
  2014年(平成26年)から2015年(平成27年)頃、Aleph金沢支部の山田美砂子(ヴィサーカー師)を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派が結成された。「山田らの集団」は公安調査庁の定めた便宜上の呼称であり、正式な団体名は不明。
その他
ケロヨンクラブ
  「ケロヨンクラブ」は1995年(平成7年)のオウム事件後に結成された分派。代表の北澤優子が信者の死亡事件で有罪判決を受けた。
偽装脱会者
  麻原の4女によると、偽装脱会者が「第二オウム」として陰謀論占いスピリチュアル、IT、福祉などを通じ陰の布教を図っているという
教義
教義の概要
  オウム真理教の教義は、原始ヨーガを根本とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教インド・ヨーガの技法を取り入れている。日本の仏教界が漢訳仏典中心であるのに対しあえてパーリ仏典やチベット仏典を多用した理由は、漢訳は訳者の意図が入りすぎているからとしている
  そして、「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガ・ヒンズー宇宙観の一部に含まれる、と説く。その結果、例えばキリスト教創造主としての梵天(オウム真理教では“神聖天”と訳す)のことである、等と説かれる。オウムでは、世界の宗教の起源は古代エジプトにあり、アブラハムの宗教もインド系宗教もエジプトから始まったとし、万教同根シンクレティズム的な宗教観を持つ。
  従って、オウム真理教に於いては儒教道教・キリスト教・ゾロアスター教等ありとあらゆる宗教・神秘思想を包含する「真理」を追求するという方針がとられた。結果として、キリスト教の終末論も、ヒンズー教的な「創造・維持・破壊」の繰り返しの中の一つの時代の破滅に過ぎない、として取り込まれた。すべての宗教および真理を体系的に自身に包括するという思想はヒンズー教の特徴であり、麻原はそれを模倣した。
  具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。特にヨーガにはかなり傾倒しており、その理由として釈迦もヨーガを実践していたからとする。

  また、オウム真理教の教義には、ヘレナ・P・ブラヴァツキーに始まる近代神智学の影響も指摘されている。ブラヴァツキーの死後、神智学の組織である神智学協会はインドに本部を構え、ヨーガ理論とその実践による霊性の向上と霊能力開発を強調するようになったが、社会学者の樫尾直樹や宗教学者の大田俊寛は、こういった面を含めて近代神智学の構えはオウム真理教の諸宗教の編集の仕方に非常によく似ており、その影響が伺われると指摘している。たとえばオウムで用いられた「アストラル」「コーザル」は神智学の用語である。麻原が神智学の原典から直接学んだのか、麻原が一時はまったというGLAなどの新宗教の経典や出版物、オカルト雑誌などから間接的に教義を構築したのかは定かではない。
  麻原自身は逮捕後、こう語っている。

オウム真理教が三乗の教えについて、例えばパーリ三蔵をパーリ語から翻訳しなければならないと考え、それに対して労力、人材、時間を使っている理由は、まずその根本であります上座部仏教、北伝では小乗仏教といわれていますが、この上座部仏教を検討しない限り仏教は語れないと考えているからでございます。

(省略)
では、なぜ原始ヨーガという言葉が入ってくるかということについて説明をしなければなりません。もともとヨーガと仏教の関係は、10世紀前後あたりから非常に密接な関係が生じました。そして例えばヘーヴァジラ・タントラなどの場合、これは仏教徒も修行しますし、あるいは非仏教徒であるヨーガ修行者も修行するという形をとり、結局その原典の完全な復元をなすためには、ヨーガ、仏教を問わず、あらゆるインドに伝わった教えを検討し、そしてそれから原典を復元する以外にないということがあるわけです。
(省略)
そして、それらの教団、それらの経の完全な復元こそが、私は、この日本人に大きな最高の恩恵を与えるものと確信し、今までやってきました。

したがって、このオウム真理教の教義そのものが麻原独特の教えであると公安調査庁が断定するとするならば、公安調査庁の言っている本当の仏教とは何か。それをここで明示すべきでございます。— 麻原、破防法弁明において[6]
教義の柱
1995年当時のオウム
オウム真理教の「五つの柱」として、以下の点が挙げられており、「実践宗教」であることが強調されている。
  最終地点まで導くグル(霊的指導者)の存在
  無常に基づく正しい教義
  その教義を実体験できる修行法
  その教義を実際に実践して修行を進めている先達の修行者の存在
  修行を進めるためのイニシエーションの存在
無常
  オウム真理教では、修行による苦悩からの解放を説き、無常である欲望煩悩から物理的に超越することを「解脱」、精神的に超越することを「悟り」と呼ぶ。
  「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という、仏教の無常観に即した麻原の言葉に象徴されるとおり、この世の中のすべての現象は無常である。よって今感じている喜びはいつか終わりが訪れた時にその喜びが失われることで苦しみを必ず生じさせる。また今は何も無くともいつか自分にとって嫌な現象が訪れた際にも同様に必ず苦しみが生じる。何かを欲求して得られなかった場合も同様に苦しみが生じる。したがって無常である煩悩的な喜びにとらわれることは必ず苦しみを生み出す。
  逆に、自己の煩悩を超越し、無常を越えた状態が、ニルヴァーナ(涅槃、煩悩破壊)である。また、そこに留まることなく、更に全ての魂を苦悩から解放し絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態に導くことによって自身も絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のマハーニルヴァーナ(大完全煩悩破壊)、あるいはマハーボーディニルヴァーナ(大到達真智完全煩悩破壊)へと至る。
シヴァ
  オウム真理教の主宰神は、シヴァ大神である。オウム真理教に於けるシヴァは「最高の意識」を意味し、マハーニルヴァーナに住まう解脱者の魂の集合体であり、またマハーニルヴァーナそのものと同義としても扱われる。当時の教団内で麻原彰晃はこのシヴァの弟子であるとともにシヴァの変化身とも称されていた。ヒンドゥー教にも同名のシヴァ神があるが、これはシヴァ大神の化身の一つに過ぎないとされる。
輪廻転生
  教団では輪廻転生が信じられていた。麻原は自らの出版物を通して、徳川家光朱元璋など多くの前世を持つと称していた。中でも意識堕落天の宗教上のは直前の生であったため、その世界で麻原に帰依していた人たちが多く転生し、現在の信者になっていると教団内では信じられていた。また、道場では「宿命通」というアニメビデオを放映し、麻原のエジプトでの前世の物語を展開していた。ジェゼル王の時代に彼は宰相のイムホテップとして王に宗教的指導を施し、最古のピラミッドである「ジェゼル王の階段のピラミッド」を造ったとしている。(詳細は「麻原彰晃#前世」を参照)
  輪廻転生と関連してカルマの法則も信じられていた。虫500匹を殺すカルマが人1人を殺すカルマに相当する、接触しただけでカルマが交換される、スポーツやグルメを楽しむとカルマを負って低い世界に落ちるなどといった独特の教義があった
エネルギー
  オウムでは霊的エネルギー()を実在すると考え、これを強めるためとして様々な修行をしていた。麻原の爪や体毛を煎じて飲んだり、麻原の風呂の残り湯を飲んだりするのも「エネルギー」を高める目的があった。(「エネルギー (オカルト)」も参照)
ポア
  ポア(ポワ)とは、ヨーガの用語で「意識を高い世界へと移し替えること」と定義されていた。これは実際の生死とは関わりなく意識の中の煩悩的要素を弱めて意識を高次元の状態に移し替えることと解釈されていた。このポアの中で最も重要なものは死の直後、中間状態にある意識の移し替えで、これは次の生における転生先を決定することになる。
  したがって、死の際の意識の移し替えが狭義の「ポア」となる。これが転じて、「積極的に(実際に)死をもたらし、より高位の世界へ意識を移し替え転生させる」という特殊な技法も「ポア」と呼ばれることがあり、これが「『ポア』なる言葉の下に殺戮を正当化する」と検察側が主張する根拠となっている(※これは、一連の犯行の際に、教団幹部らが教団内部で実際に使用した事例などに基づく解釈である)。
  オウムは人々の救済を説く一方、「ユダヤフリーメイソンに支配され物欲に溺れ動物化する人々、三悪趣に落ちる人々」と「霊的に進化する人々」を二分し、前者を粛清しようとする思考に陥っていたとされる。
ハルマゲドン
  麻原は転輪王経ヨハネの黙示録ノストラダムス酒井勝軍出口王仁三郎らの予言、占星術(大宇宙占星学)などをミックスし、第三次世界大戦ハルマゲドンが迫っていると盛んに主張した。現代の人類は悪業を積んでいてこのままでは三悪趣に転生してしまうので、ハルマゲドンを引き起こすことも救済であると問いていた。
  麻原によるとハルマゲドンの原因は、フリーメイソン物質主義派とユダヤ勢力が物質崇拝やオウム迫害を広めてカルマが溜まっていることと、キリストと人類の進化を求めるフリーメーソン精神主義派及び米・中・露のバックにいるものたちの計画であり、大戦は中東の石油危機をきっかけとして1997年に始まり1999年8月1日ごろ激化する。この他、ナチス残党の第四帝国も参戦する。日本は不況のためファシズムに傾倒し東南アジアに侵攻、さらにアメリカと対立しNBC兵器プラズマ兵器、電磁パルス攻撃などで蹂躙され殆どが死ぬが、「神仙民族」であるオウムが生き残り、2000年に日本から「6人の最終解脱者」が登場、オウムは地球を救い、旧人類を淘汰して超人による世界をつくるという、アニメ漫画的ともいえるストーリーであった。オカルト本などが元ネタのひとつだった。また、ニューエイジ的な「アセンション」による精神革命論の影響も指摘される。
  とはいえ麻原はソ連崩壊を予言できず(当初は1995年にソ連があることになっていた)1999年を迎える前から破綻していた。麻原は逮捕後の1996年破防法弁明手続において「1995年11月にラビン首相の暗殺によって世界の首脳がイスラエルに集まったため、これをもってハルマゲドンに集まったというプロセスは終了した」「私たちはハルマゲドンに出会うかもしれない。出会わないかもしれない。ハルマゲドンが起きるなどということはその中でも一言も言っていない」と予言を半ば撤回した。
疑似科学
  麻原は宗教の教えと科学の理論をごちゃ混ぜにして話すことを得意とし、空中浮揚からビッグバンに至るまで疑似科学理論で説明していた。最先端の科学でも難しい「ビッグバン直後の世界」などのことでも、適当に誤魔化して説明できてしまうことから、多くの理系信者が惹きつけられた
信者
  教団の信者は在家信徒と出家修行者(サマナ)に分けられる。在家信者は通常の生活を行ないながら、支部道場に赴いて修行したり説法会に参加する。また、休暇期には集中セミナー等も開かれる。
  このほか名目上の信徒である「黒信徒」がいた。黒信徒の入会金は信者の家族や知人が代わりに払っていたので一応信徒としてカウントし水増ししていた
  オウムの修行の最終的な目標は、現実世界を越えた真実に到達することで、サマナと呼ばれる出家修行者らはその目標に到達するために、激しい修行を行った。現実世界を超えるためには、この世界の価値観を超越し観念を壊す必要がある。社会の価値観に重きを置かない点で、最初からオウムは「狂気」の思想を内包していた。当初はこの狂気の割合が低く社会性も帯びていたものが、バッシングなどや終末思想などにより次第に崩壊をはじめ、社会性が薄れていった。
  修行の達成度、精神性の度合いを示すものとして「ステージ」制度があり、時期によるが、1995年(平成7年)時点の出家者には、サマナ見習い、サマナ、サマナ長、師補、師(小師、愛師・菩師、愛師長補・菩師長補、愛師長・菩師長)、正悟師(正悟師、正悟師長補、正悟師長)、正大師の各ステージが存在した。師は「クンダリニー・ヨーガ」の成就者、正悟師は「マハームドラー」の成就者で仏教の阿羅漢相当、正大師は「大乗のヨーガ」の成就者と規定され、これらのステージに従って教団内での地位、役職等が定められた(詳細は「オウム真理教の階級」を参照)。
  オウム真理教幹部には難関大学の卒業者も多く、教団の武装化を可能にした村井秀夫土谷正実遠藤誠一など理系幹部を多く抱えていた。また弁護士資格を持つ青山吉伸公認会計士資格を持つ柴田俊郎、上田竜也、医師免許を持つ林郁夫中川智正、芦田りら、佐々木正光、平田雅之、森昭文、小沢智、片平建一郎など社会的評価の高い国家資格を持つ者も多くいた。
  他にも山形明丸山美智麿など自衛隊員、建設会社出身で教団の不動産建設やロシアとの交渉を手がけた早川紀代秀、元暴力団員の中田清秀松任谷由実のアルバム制作にも関わったことのあるデザイナーの岐部哲也彰晃マーチなどを作曲したミュージシャンの石井紳一郎、盗聴技術を持っていた林泰男、元日劇ダンシングチーム鹿島とも子など幅広い層の信者を有していた。
  以下に示すのはオウム真理教の雑誌ヴァジラヤーナ・サッチャが1995年6月28日(強制捜査・オウム事件発覚後)に行った出家修行者対象のアンケートデータである
国外での活動
  1991年(平成3年)には、麻原彰晃がロシア(当時はソビエト連邦)を初訪問した。当時のモスクワ放送もこの模様を伝え、クレムリン宮殿で宗教劇の上演が行われたことやアナトリー・ルキヤノフ最高会議議長と会談したことを報じた。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ルツコイロシア連邦首相ヴィクトル・チェルノムイルジン、モスクワ市長のユーリ・ルシコフ等、ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。
  モスクワ放送(現・ロシアの声)の時間枠を買い取って「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」(御国の福音)というラジオ番組が1992年4月1日から1995年3月23日まで放送された。またロシアで「キーレーン」というオーケストラを組織。日本からロシアの施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどが輸入されている。またロシアに数ヶ所の支部を開設。ソ連崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。
  このためオウム事件後、実はオウムはロシア北朝鮮のスパイだという陰謀説がまことしやかに語られるようになった。しかし一連の捜査・裁判により、化学兵器土谷正実が中心となり自力でつくったことが発覚した。新アメリカ安全保障センターも、オウムのサリン合成プロセスはロシアで主流の方法ではなくナチス・ドイツの方法に由来していると分析している。
  また上祐史浩は「麻原は自分が一番であり、利用することはあっても配下になるタイプではない」「(事件を陰謀としたい)Alephを助長している」と批判している。2018年5月1日、ロシアのオウム真理教の中心人物とされるミハイル・ウスチャンツェフが逮捕された。
事業
  オウム真理教は、宗教活動のかたわら、多彩な事業を行っていた。業種は、コンピューター事業、建設不動産出版印刷、食品販売、飲食業、さらに家庭教師派遣土木作業員などの人材派遣など多岐におよび、さながら総合商社の観を呈していた。数多くの法人を設立し、ワークと称して信者をほぼ無償で働かせていたため、利益率は高く、特に中心となっていたのはパソコンショップ『マハーポーシャ』の売り上げで、公安調査庁によると年間70億円以上の売り上げ(1999年当時)があり、純利益は20億円に迫る勢いであった。出家信者200人がそこで働いていた。95年11月からは「トライサル」「グレイスフル」「PCバンク」「PC REVO」「ソルブレインズ」「ネットバンク」と名称を変えコンピューター事業を継続した
  様々な業種に進出し集まった社員を教団に勧誘したり、オウム系企業グループ「太陽寂静同盟」を結成するという構想もあった


五行思想
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  五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物は火・水・木・金・土の5種類の元素からなるという説である。
  また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。
  西洋の四大元素説(四元素説)と比較される思想である。(木火土金水)
起源
  「五行」という語が経典に現れたのは、『書経』の”甘誓”、”洪範”の章であった。甘誓篇の「五行」は五つの星の運行を示すものとする説もあり、五元素を指しているかは不明である。一方、洪範篇の方は水・火・木・金・土であると明言され、「五行」を五元素として見ている。そのため、今現在の意味としての「五行」は洪範篇が最古であるとされている。また、洪範篇では「五行」と五味を関連付けて解釈している。 五行思想は、戦国時代陰陽家騶衍紀元前305年頃 - 紀元前240年頃)が創始した。陰陽説は五行説と無関係に古くから存在したのに対し、五行説は陰陽説よりも後から出来たので、当初から陰陽説と一体であり、陰陽五行説といわれる。 元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだったともいう。 「五」は四方に中央を加えたものであるとされる。それを明確に示したものとして『河図』と『洛書』がある。どちらも中央に「五」が置かれた構造ではあるが、『洛書』の場合は九星図を構成した図となっている。その後も『左伝』に五教・五節(音楽)・五味・五色・五声が、『国語』に五味・五色・五声・五材・五官などの言葉が見られる。
五行
  自然現象の四季変化を観察し抽象化された、自然現象、政治体制、占い、医療など様々な分野の背景となる性質、周期、相互作用などを説明する5つの概念である。単に5種の基本要素というだけでなく、変化の中における5種の、状態、運動、過程という捉え方もされる。

木(木行)・・・木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
火(火行)・・・光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
土(土行)・・・植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
金(金行)・・・土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
水(水行)・・・泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。

  四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号は秋の白秋にちなんだものである。
五行の生成とその順序
  五行説と陰陽説が統合されて陰陽五行説が成立した段階で、五行が混沌から太極を経て生み出されたという考え方が成立して、五行の「生成」とその「順序」が確立した。

・太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北に移動して水行を生じ、
・次いで陽の中で特に熱い部分が南へ移動して火行を生じた。
・さらに残った陽気は東に移動し風となって散って木行を生じ、
・残った陰気が西に移動して金行を生じた。
・そして四方の各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。
  というのが五行の生成順序である。そのため五行に数を当てはめる場合五行の生成順序に従って、水行は生数が1で成数が6、火行は生数が2で成数が7、木行は生数が3で成数が8、金行は生数が4で成数が9、土行は生数が5で成数が10、となる。
  なお木行が風から生まれたとされる部分には四大説の影響が見られる。
五行の関係
  五行の互いの関係には、「相生」「相剋」「比和」「相乗」「相侮」という性質が付与されている。
相生(そうしょう)・・・順送りに相手を生み出して行く、陽の関係。
 木生火(もくしょうか)・・・木は燃えて火を生む。
 火生土(かしょうど)・・・物が燃えればあとには灰が残り、灰は土に還る。
 土生金(どしょうきん)・・・鉱物・金属の多くは土の中にあり、土を掘ることによってその金属を得ることができる。
 金生水(きんしょうすい)・・・金属の表面には凝結により水が生じる。
 水生木(すいしょうもく)・・・木は水によって養われ、水がなければ木は枯れてしまう。
相剋(そうこく)・・・相手を打ち滅ぼして行く、陰の関係。
木剋土(もっこくど)・・・木は根を地中に張って土を締め付け、養分を吸い取って土地を痩せさせる。
土剋水(どこくすい)・・・土は水を濁す。また、土は水を吸い取り、常にあふれようとする水を堤防や土塁等でせき止める。
水剋火(すいこくか)・・・水は火を消し止める。
火剋金(かこくきん)・・・火は金属を熔かす。
金剋木(きんこくもく)・・・金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。
  元々は「相勝」だったが、「相生」と音が重なってしまうため、「相克」・「相剋」となった。「克」には戦って勝つという意味がある。「剋」は「克」にある戦いの意味を強調するために刃物である「刂」を「克」に付加した文字である。同様に克に武器を意味する「寸」を加えたを使うこともある。
比和(ひわ)-同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。
相侮(そうぶ)-逆相剋。侮とは侮る、相剋の反対で、反剋する関係にある。
木侮金-木が強すぎると、金の克制を受け付けず、逆に木が金を侮る
金侮火-金が強すぎると、火の克制を受け付けず、逆に金が火を侮る
火侮水-火が強すぎると、水の克制を受け付けず、逆に火が水を侮る
水侮土-水が強すぎると、土の克制を受け付けず、逆に水が土を侮る
土侮木-土が強すぎると、木の克制を受け付けず、逆に土が木を侮る
火虚金侮-火自身が弱いため、金を克制することができず、逆に金が火を侮る
水虚火侮-水自身が弱いため、火を克制することができず、逆に火が水を侮る
土虚水侮-土自身が弱いため、水を克制することができず、逆に水が土を侮る
木虚土侮-木自身が弱いため、土を克制することができず、逆に土が木を侮る
金虚木侮-金自身が弱いため、木を克制することができず、逆に木が金を侮る

相乗(そうじょう)-乗とは陵辱する、相剋が度を過ぎて過剰になったもの。
木乗土-木が強すぎて、土を克し過ぎ、土の形成が不足する。
土乗水-土が強すぎて、水を克し過ぎ、水を過剰に吸収する。
水乗火-水が強すぎて、火を克し過ぎ、火を完全に消火する。
火乗金-火が強すぎて、金を克し過ぎ、金を完全に熔解する。
金乗木-金が強すぎて、木を克し過ぎ、木を完全に伐採する。
土虚木乗-土自身が弱いため、木剋土の力が相対的に強まって、土がさらに弱められること。
水虚土乗-水自身が弱いため、土剋水の力が相対的に強まって、水がさらに弱められること。
火虚水乗-火自身が弱いため、水剋火の力が相対的に強まって、火がさらに弱められること。
金虚火乗-金自身が弱いため、火剋金の力が相対的に強まって、金がさらに弱められること。
木虚金乗-木自身が弱いため、金剋木の力が相対的に強まって、木がさらに弱められること。
相剋と相生 ・・・相剋の中にも相生があると言える。例えば、土は木の根が張ることでその流出を防ぐことができる。水は土に流れを抑えられることで、谷や川の形を保つことができる。金は火に熔かされることで、刀や鋸などの金属製品となり、木は刃物によって切られることで様々な木工製品に加工される。火は水によって消されることで、一切を燃やし尽くさずにすむ。
  逆に、相生の中にも相剋がある。木が燃え続ければ火はやがて衰え、水が溢れ続ければ木は腐ってしまい、金に水が凝結しすぎると金が錆び、土から鉱石を採りすぎると土がその分減り、物が燃えた時に出る灰が溜まり過ぎると土の処理能力が追いつかなくなる。
  森羅万象の象徴である五気の間には、相生・相剋の2つの面があって初めて穏当な循環が得られ、五行の循環によって宇宙の永遠性が保証される。
  相生相剋には主体客体の別があるため、自らが他を生み出すことを「洩」、自らが他から生じることを「生」、自らが他を剋することを「分」、自らが他から剋されることを「剋」と細かく区別することがある。
中国の王朝と五行相生・相剋
  中国の戦国時代末期の書物『呂氏春秋』は五行の相剋の説を使って王朝の継承を解釈した。それぞれ王朝には五行のうちの一つの元素に対応した「」が充てられた。そして、その王朝の正色もそれに対応して、元素としてその「徳」の色になった。例えば、殷王朝の徳は金徳で、その正色は白だった。前の王朝が衰え、新しい王朝が成立した時、新しい王朝の徳が前の王朝の徳に勝ったことにより、前の王朝から中国の正統性を受け継いだ。例えば、周王朝の火徳は殷王朝の金徳に勝ったとされた。これは鄒衍の五徳説から発展した思想である。五徳説は、周の世を基準として黄帝の世までを五行で解釈したものである。色を配したのは管子幼官篇からだとされる。また、この五徳に準じて王朝ごとに歳首を変更していた。例えば、殷王朝夏王朝の12月を、周王朝夏王朝の11月を正月とした。 後漢王朝以降、中国の王朝は五行の相克の代わりに相生の説を使って王朝の継承を解釈した。例えば、隋朝の火徳は唐朝の土徳を生み出したとされた。
時令と五行
  四季に中央の「土」を加えた五季時令は、『管子』幼官篇、四時篇、五行篇の他、『呂氏春秋』十二紀、『礼記』月令などがあげられる。四時篇から十干の配当がなされ、「土」が夏と秋の間に置かれるようになった。また、五行篇では各季節を七十二日間としている。五季時令は『淮南子』天文訓、『史記』天官書、『漢書』律暦志に受け継がれ、発展していく。
日本神話における五行
  日本では中世以来、記紀の伝える神話を五行説で解釈しようとする動きがあり、それら諸説の中でも比較的有名なのは『神皇正統記』の説で、水徳の神が国狭槌尊、火徳の神が豊斟渟尊、木徳の神が泥土瓊尊沙土瓊尊、金徳の神が大戸之道尊大苫辺尊、土徳の神が面足尊惶根尊だとしている。水戸学などの儒学者の間で議論された。

創価学会
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  創価学会は、日本宗教法人である。法華経系の在家仏教の団体 で、国内に公称827万世帯を擁する。1930年(昭和5年)11月18日創立。
「創価」とは「価値創造」の意味。創価学会は価値の中心に「生命の尊厳」の確立を置き、それに基づいた「万人の幸福」と「世界の平和」の実現を目標としている。
  『聖教新聞』(日刊)、『創価新報』(月2回)、『大白蓮華』(月刊)などの機関紙誌を発行。1964年(昭和39年)に結党された日本初の宗教政党公明党の支持団体である

  1930年(昭和5年)11月18日に、『創価教育学体系』が発刊され、尋常小学校校長であった牧口常三郎と、戸田城聖ら当時の教育者などが集い、日蓮仏法精神に基づく教育者の育成と雑誌の発行を目的とする「創価教育学会」(初代会長:牧口常三郎、理事長:戸田城聖)を創立した。1937年(昭和12年)に、創価教育学会は日蓮正宗の1つとして位置付けられた。この組織が創価学会の前身となる。
  しかし、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)6月に牧口、戸田を含む幹部が治安維持法並びに伊勢神宮に対する不敬罪逮捕され、牧口は1944年(昭和19年)11月18日に獄死。1945年(昭和20年)7月3日、出獄した戸田は、組織名を「創価学会」に改称し組織を再建、1952年(昭和27年)、宗教法人の認証を得る。
  1951年(昭和26年)5月3日に第2代会長に就任した戸田城聖の下で、75万世帯を目標にした「折伏大行進」という名の大規模な布教活動が行われ、日本国内での創価学会の勢力は急拡大したが、強引な勧誘の手法は批判を呼び、社会問題化した。1958年(昭和33年)4月2日に戸田第2代会長が死去した後、1960年(昭和35年)5月3日に池田大作が第3代会長に就任した(現・名誉会長)。1991年(平成3年)11月に日蓮正宗宗門から破門される。
  教義的には日蓮末法時代の本仏と定め、法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊を認定して掲げ、「南無妙法蓮華経」の唱題を実践し、「法華経」思想の布教を宣言(広宣流布)し、平和世界の実現を目標とするとしている。
  1964年(昭和39年)には、「公明政治連盟」を創設し、日本の政党の要件を満たしている唯一の宗教政党として「公明党」を結成し、日本政治にも関わっている。政治学者の中北浩爾は、「公明党は、宗教団体の創価学会を支持母体として、一九六四年に結成された。自民党が財界をスポンサーとしつつ農村部に主な支持基盤を築いたのに対し、公明党は高度経済成長に伴って都市部に流入した比較的貧しい人々を組織化した。日本政治の中枢に位置した自民党とは違い、公明党は周辺から生まれ、成長していったのである。」とした。


教勢
  日本における創価学会公称の会員世帯数は約827万世帯。ただし、ここでいう世帯数とはこれまでに下付された本尊の総数であることから、当然に信仰を脱退した世帯や信仰心を失った世帯もあることに留意が必要である。
  宗教学者の島田裕巳は、創価学会がこのような大勢力となった要因について、2つの点を指摘している。
  ・1つ目は、「に対する信仰の有無」である。創価学会以外の新宗教は「不幸の原因は十分に供養されていない先祖の霊である」とする所が多いが、創価学会は「霊魂は存在しない」と断言している。戦後、新宗教に入信した人々は農村部から都市部に働きに出てきた農家の次男、三男などが多かったが、彼らは都市部に就職・移住していく時に仏壇を持参することもなく、先祖の供養に対する意識が希薄であったため、先祖供養信仰の新宗教に関心が無かったとしている。
  ・2つ目は、「葬儀」である。「創価学会は教勢を伸ばしていた頃は出家した僧侶集団である日蓮正宗と密接な関係を持っており、創価学会の会員になることは同時に日蓮正宗の信徒にもなったため、葬儀も日蓮正宗の形式で行われていた。しかし、他の新宗教は会員やその家族が死去した場合の葬儀という儀式がある所はほとんど無く、実家の仏教宗派の形式で葬儀が行われた為、その際、入会した新宗教の信仰を脱退して実家で信仰していた既成の宗教に逆戻りするきっかけとなっていた」と指摘している。
日本国外への進出、海外展開
  世界においては創価学会インタナショナル(SGI)として、日本を含む世界192カ国・地域に広がり、日本国外全体で約220万人のメンバーを擁している
教義関連
教義・理念
 ・法華経を広め、仏法が説く生命尊厳の思想を根本に、人類の幸福と社会の繁栄、世界平和の実現を目指す「広宣流布」という運動を実践する。(詳細は「広宣流布#解釈」を参照)
 ・万人の生命に等しく内在する、智慧と慈悲と勇気に満ちた仏の生命を最大に発揮する「人間革命」を信仰の指標とする。
 ・島田裕巳によれば、「かつては他の宗教や宗派を一切認めない姿勢を持っていた。また、創価学会員の子弟は、修学旅行などで神社仏閣を訪れた場合には、神社鳥居寺院の山門はくぐろうとしない」という。
経典・『法華経』・『新編日蓮大聖人御書全集』(創価学会版)
法華経を最高の経典とした天台智顗五時八教説と、それを受け継いだ日蓮の思想を基礎としている。
勤行 - 仏壇の前で経典を読誦する。創価学会勤行要典にもとづき、法華経の「方便品第二」と「如来寿量品第十六」を読誦する。朝と夕、一日に二回「勤行」を行う。
唱題-「南無妙法蓮華経(なん)」(「なむ」ではない)という題目を唱える行為。「勤行」のあと、随時「題目」を唱える。
  時間が取れない場合など「勤行」を行わずに、「題目」を唱えてもよいとされる。「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する。
本尊・本仏(「法華曼荼羅#日蓮宗の「大曼荼羅」」も参照)
 ・本尊に関する事項は、会長が司る(創価学会会憲第9条第4項 及び 創価学会会則第12条第1項)。
 ・破門に伴って下付停止となったため、1993年(平成5年)10月からは日寛上人書写の本尊の複写を御形木御本尊として授与している。入会の条件が整った場合に日寛上人書写の本尊が会員に授与される。
 ・諸事情で自宅に仏壇を安置できない場合は、「お守り御本尊」と呼ばれる小型の御本尊を授与する。この本尊も日寛上人書写の複写である。
 ・「本門戒壇の大御本尊」については2002年(平成14年)の会則変更により表記が変更された。さらに2014年(平成26年)の会則改正により、「弘安2年(1279年)の本門戒壇の大御本尊は受持の対象とはしない」と聖教新聞上で公式発表された。
 ・「謗法払い」については、創価学会は新入会希望者に対して、
  1入会希望者自身が、かつての信仰対象の処分・返却を行うこと。
  2本人が承諾しても他人が手伝ったり預かって持ち帰ったりしないこと。
  3謗法払いは入会する会員自身が自から自分自身で行う。
  4同居家族や所有関係者の事前了解を得ること。・・・を指導として徹底している。(詳細は「信者#創価学会」を参照「折伏大行進#歴史」も参照
本仏・・・日蓮末法本仏と仰ぐ。これは日蓮正宗系の教義であり、釈迦本仏論を採用する日蓮宗系と異なる点である。(詳細は「本仏#日蓮本仏論」を参照)
勤行
  創価学会勤行要典(2015年制定)に基づき、仏壇に御安置してある御本尊に向かい『法華経ニ十八品』のうち、「法華経方便品第二」の冒頭から十如是まで(十如是は三回唱える)、続いて「法華経如来寿量品第十六」の自我偈を読誦ののち、各御記念文を御祈念し、「南無妙法蓮華経」と題目を三回唱えた後、勤行を終える。日々、朝と夕(夜)の2回行う。(詳細は「勤行 (日蓮正宗)#創価学会の勤行」を参照)
組織活動
  央忠邦の1968年(昭和43年)の著書によれば、創価学会の会合には、本部総会(5月)、男子部総会(11月)、女子部総会(11月)、学生部総会(7月)、夏期講習会(8月)などがある。央氏によれば、創価教育学会時代(牧口の時代)から、会員同志が「それぞれの悩みや克服した信仰体験などを話り合い、信仰の結びつきを確認し合った」(央忠邦の1968年の著書より引用)場である座談会が伝統となっていた。座談会は班や地区の単位で行われ、央忠邦の1968年の著書によれば座談会の拠点は日本に二十万か所以上あった。
『聖教新聞』の購読者の開拓(詳細は「聖教新聞#購読について」を参照)
財務
  創価学会では年1回、広布部員を希望した会員にのみ、申込み用紙が会員宅に届けられる。1970年代中頃以前は財務部員と呼ばれ、現在は広布部員。以前は年間3000円程度であったが、現在は1口1万円からとなっている。生活保護者など一部を除き財務の対象者となっている。
  島田裕巳によると財務の一か月程前には決起大会が開かれ、「100万円出したら息子がいい企業に就職できた。」「保険を解約して学会のために捧げたら幸せになりました。」などの発言が相次ぎ、他の会員にプレッシャーをかけるという
教学の研鑽
  創価学会が編さんし出版している『日蓮大聖人御書全集』を基に行われる。その資料として月刊機関誌『大白蓮華』が用いられ、会員には「教学試験」の受験が奨励されている。(詳細は「大白蓮華#教学試験」および「御書 (日蓮)」を参照)
葬儀
  地域の儀典長を中心に読経の中心者とする「友人葬」の形式で執り行われている。原則として友人葬への参列では香典は必要ないとされているが、参列者が香典を持参する事、遺族が参列者が持参した香典を受け取る事は各位の自由である。また「読経料」「戒名料」などが必要な他宗派と違い、友人葬の中心者の儀典長は、謝礼を一切受け取らないものと定められている。
友人葬の料金
  友人葬を取り扱っている葬儀社や在住している地域によって若干の差は存在するが、東京の場合では友人葬の基本料金は概ね35万円位から50万円位である。 友人葬を取り扱う葬儀社によっては、一式で基本料金に含まれているケースとオプション料金として別料金になる場合がある。
  詳細は葬儀社への確認が必要である。
  ・納骨は、地区部長を通じて申し込むと、全国にある創価学会墓地公園が利用出来る。
  ・儀典長を中心に、生前の名前で葬儀を行うため、戒名料・読経料はかからない。
布教活動
  無宗教あるいは他の宗教を信仰する者を改宗させる事を「折伏」という。
  1951年(昭和26年)に戸田が「青年訓」を発表し、青年部を中心に折伏大行進と呼ばれる大々的な布教が行われた。布教活動は多くの会員を増やすことになった反面、その強引な手法から社会問題になった。(詳細は「折伏大行進#歴史」を参照)
入会・退会の手続き(詳細は「信者#創価学会」を参照)
社会貢献活動
地域貢献活動
  創価学会では、個々の会員および団体レベルの双方で、近隣友好や地域貢献を推奨している。具体的には、祭りなどの行事への協力がある。創価学会本部および聖教新聞社本社がある新宿区信濃町では、町内会の盆踊り大会や防災イベントに会場を提供するなどしている。
  また、音楽隊が地域行事に際し演奏を行うケースもある。地域貢献の体験談集が過去に発刊されている
  宗教学者の島田裕巳は、「創価学会員が『広布即地域貢献』として団地自治会長や学校PTA、商店街役員などに積極的に就任し、それらの組織を『折伏の足場』にしようとしていると述べている。一般の人は仕事などに追われてそれらの役員には就きたがらないが、創価学会はそうした状況を利用して地域で主導権を握ろうとしている」と、分析している。島田によれば、昭和30年代から40年代の高度経済成長期には、仕事を求めて故郷を離れて都会を目指し多数の青年たちが、大企業中心の総評などにすいあげられることもなく、未組織労働者・中小零細業者として孤立無援の生活を送らざるを得なかった人たちが、組織化されて、「民族」とも形容できる濃い人間関係ができあがっていった。この組織化が画期的であり、そこに創価学会の社会的な意義があったと主張する
災害時の救援・復興活動
  大規模災害の発生時には、地域の会館で被災者を受け入れ、救援活動にあたっている。宗教専門紙の中外日報は、「阪神・淡路大震災では、創価学会の迅速な救援活動に対し兵庫県などから感謝状が贈られ、フランスオーストラリア香港シンガポールなど海外の新聞でも活動が報じられた」ことを報道した
  日本大震災に際しては、42の会館で約5千人を一時避難所として受け入れたほか、義捐金を拠出した。避難所はおおむね、地元会員組織の責任者と、他地域から派遣された専従職員を中心に運営され、医師看護師が健康相談を実施した。発災翌日には山形県新潟県などから支援物資が到着している。一部の会館は行政の指定避難所となっている。
  また、創価学会による東北被災地への救援活動は、アメリカのCNNのブログにも取り上げられたそして、東日本大震災からの復興にあたっては、「心の福光(復興)プロジェクト」を展開。その中で音楽隊(創価グロリア吹奏楽団、しなの合唱団、創価ルネサンスバンガード等)は「希望の絆」コンサートを開催し、仮設住宅の集会場などで合唱吹奏楽マーチングなどの演奏会を開催している
  なお、のちに「希望の絆」コンサートは、熊本地震 西日本豪雨などの被災地でも開催されるようになった。 2015年(平成27年)3月に宮城県仙台市で開幕された国連防災世界会議と、2016年(平成28年)5月にトルコイスタンブールで開催された世界人道サミット(en)では、一連の復興支援活動を報告している。
   宗教学者の寺田喜朗は、東日本大震災における、福島県浜通りの創価学会がどのようなサポートを提供してきたのかを検証した。「創価学会の支援活動のもっとも大きな特質は経済的・物質的な支援以上に、被災者へ積極的に生きる意味を提供し続けている点にあると考えている。」とした。
  また、「不条理な現実を受け止め、苦難・困難を試練と捉え返し、「人生に勝利する」ことを鼓舞するコミュニティとして創価学会は機能している。」とした
難民支援活動
  大規模災害や紛争の発生時に、各国大使館国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)への寄付を行い、難民支援にも関与している。
国際連合NGO(非政府組織)としての活動
  創価学会は国連広報局登録NGO(非政府組織)である。SGI(創価学会インタナショナル)は1983年(昭和58年)に、国連経済社会理事会との諮問資格を持つNGOとして登録された。SGIニューヨーク国連連絡所は、2009年(平成21年)に、国連の「軍縮平和安全保障NGO委員会」において議長を務めた。SGIジュネーブ国連連絡所は、特に人権教育のテーマで活動を展開。2005年(平成17年)からスタートした国連の「人権教育のための世界プログラム」は、コスタリカ政府とSGIが中核となって実現している
図書贈呈運動
  創価学会の図書贈呈運動は、へき地や離島をはじめ教育環境に恵まれていない地域や、震災台風などの被害を受けた地域の子どもたちに書籍を贈呈するものである。1974年(昭和49年)にスタートした。2011年(平成23年)発生の東日本大震災以降は特に、被災地の学校への寄贈が重点的に行われている。
法華経の原典資料保全・研究活動
  法華経の原典研究に寄与する「法華経写本シリーズ」の出版活動を、公益財団法人・東洋哲学研究所と協力して推進している。各国に保存されてきた貴重な法華経写本を鮮明なカラー写真で撮影した「写真版」と、写本の“読み”をローマ字化した「ローマ字版」を公刊し、世界の研究者に広く提供して『法華経』を中心とした初期大乗仏教の研究に貢献するためのもの。2016年(平成28年)頭時点で16点が刊行され、「インド国立公文書館所蔵ギルギット法華経写本:写真版」「ロシア科学アカデミー東洋古文書研究所所蔵梵文法華経写本:写真版」などが含まれる
名誉会長と歴代会長
  歴代会長の中でも、初代・牧口常三郎、第2代・戸田城聖、第3代・池田大作のいわゆる「三代会長」は、「広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である」と2002年(平成14年)の会則変更(同年4月6日、文部科学大臣が認証)の際に定められた。ただし、三代の会長個人を本仏である日蓮と同等またはそれ以上に崇め奉ることは認められていない。
  1960年代から1970年代にかけて、「池田を現人神とみなす狂信的な会員」が現れたため、池田自身が聖教新聞紙上で「私などを絶対視してはいけない」と明言したことがある。
  また、会長の任期は当初終身制だったが、池田の会長辞任に合わせて制定された創価学会会則で「1期5年で再任を妨げない」と改正された。「会長が任期途中で辞任、または死亡によって欠けた場合、後任者は前任者の残存任期を引き継がない」とされる。なお、会長任期は2015年(平成27年)の会則改正で「1期4年」に変更された。

  歴代会長の中で名誉会長となっているのは池田のみであり、任期は定められていない。
池田の後継者に関する憶測
  2010年に第一線を退いた池田の後継者候補として、長男で創価学会副会長・副理事長を務めていた池田博正(現・主任副会長)の名前が浮上している。池田は当初、「学会は永久に世襲制はとりません。これは初代、二代、そして三代の私を含めた不文律のようなものになっている。」 と述べていた。
  一方で、関西創価学会のドンとして知られ、与野党問わず政界とのつながりが深い元総関西長の西口良三が2015年に死去したことを受け、池田から長男・博正への世襲が近くなったと予測する学会関係者もいる

日蓮系教団との関係[編集]

日蓮正宗との関係[編集]

日蓮正宗傘下の時代[編集]

かつて創価学会は日蓮正宗の在家の信徒団体であったが、戸田が布教の利便と宗門である日蓮正宗を外護するため、宗門に宗教法人格の取得の許可を願い出た。そこで日蓮正宗は「新規に入会した会員は信徒として末寺に所属させること」、「(日蓮正宗の)教義を守ること」、「仏・法・僧の三宝を守ること」を条件に承諾した[40]

昭和52年路線[編集]

1977年(昭和52年)1月の第9回教学部大会において、池田は創価学会を在家・出家の両方に通じる存在として位置付け、「創価学会の会館や研修所こそが近代における寺院」(島田裕巳(2004年)による引用)であり、『人間革命』は日蓮の遺文に匹敵する御書であるとした[60]。これに対し、宗門である日蓮正宗側は池田の主張は教義からの逸脱であると批判し、批判を受けて創価学会は謝罪した[60]山崎正友が独自に宗門若手僧侶を扇動し、批判活動を行わせた。

学会幹部が日蓮正宗総本山大石寺に登山を行う事で一応は収まったものの、その後も日蓮正宗(宗門)僧侶や檀徒による批判は続いた。

1979年(昭和54年)7月22日に管長細井日達が遷化(死去)。日達は生前、後継者を指名していなかった。67世法主として阿部日顕が登座すると学会を含めた日蓮正宗内は混乱に陥る。学会に批判的な僧侶が「正信会」を結成、山崎も学会を退会して正信会に参加した。これに対し日顕は学会に友好的に接し、学会も日達から日顕に血脈相承が行われたと指導、池田も宗門を擁護する立場を取った。その結果、宗務院は正信会僧侶の大量処分に踏み切り、ついには批判派僧侶のほとんどが日蓮正宗から追放された。後に池田や学会は日顕が受けたのはあくまでも内証(内定)であって、正式な儀式は行われておらず、後継指名は成り立たないと解釈を変更している。

日蓮正宗との対立・決別[編集]

1990年平成2年)7月17日、日蓮正宗との連絡会議の席上、学会側が宗門や法主を批判して席を立つ[61][注 22]。同年11月16日、第35回本部幹部会における池田のスピーチに対し、日蓮正宗側は法主や僧を軽視するものだとして学会に説明を求める「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」文書を送る[61]。「お尋ね」文章の内容は、池田が僧を批判した、四箇格言を否定し親鸞を好意的に評価した、外道(仏教以外)の歌である『歓喜の歌』を評価した、などとして批判する内容で[50]、これに対し、学会側は「お尋ね」文書に対する「お伺い」文書を送付し、日蓮正宗側が自分たちを誹謗・中傷していると回答を拒否[61][SG 41][注 23]

これを受け、日蓮正宗は規約を改正し、1984年1月に再任されていた池田の法華講総講頭の役職を解くことにした[61]。1991年、創価学会は『聖教新聞』紙上等において日蓮正宗へ反論を行う[61]。同年11月、日蓮正宗は、「創価学会」と「創価学会インタナショナル」(SGI)を破門した[61][注 24]

シアトル事件[編集]

1992年(平成4年)6月、『創価新報』・『聖教新聞』に「日顕が1963年(昭和38年)に法務で米国ワシントン州シアトルに出張した際に、現地の売春婦と料金トラブルを起こして警察に通報され、身柄を拘束された」、「現地在住の学会員、ヒロエ・クロウが保釈手続きを行った」として、日顕を痛烈に批判する記事が掲載された。日蓮正宗側はそのような事実はまったく存在しないと否定し[注 25]、日米両国で訴訟が行われた。また、この報道は創価学会や日顕と敵対する正信会・顕正会の機関紙でも報じられた。

偽造写真事件[編集]

破門後の1992年(平成4年)11月、学会は機関紙『創価新報』に、芸者と戯れる日顕の宴席写真を掲載。日蓮正宗との訴訟に発展。地裁の判決では、学会側の写真修正を認定し、賠償請求を命じた。しかし、学会側が控訴した高裁において、日顕が芸者と戯れた宴席の事実を認定。よって、原告が求めた損害賠償は認められなかった。日蓮正宗側は上告するも、最高裁で棄却された。

コーヒーカップ裁判[編集]

1992年(平成4年)、神奈川県川崎市中原区にある日蓮正宗持経寺に息子の遺骨を預けていた創価学会員夫婦が、同伴した数人の学会幹部とともに息子の遺骨を受け取りに訪れた際、本堂で夫が遺骨を受け取り退出。しかし、5分後に再び本堂を訪れ遺骨骨壷ではなくコーヒーカップに入っていたと主張した。その後の裁判では、数々の証言から創価学会員は敗訴し主張は退けられた。

日蓮正宗住職交通事故死[編集]

1994年(平成6年)7月、北海道内で日蓮正宗住職の運転する自動車と学会員の運転する自動車が正面衝突する交通事故が起き、住職が死亡、学会員が重傷を負った。現場検証で住職の全面過失と認定されたが、週刊新潮など一部週刊誌が交通事故は創価学会によって仕組まれたものとする内容を掲載。後に事故の当事者である学会員が週刊新潮を提訴、最高裁は週刊新潮の敗訴を言い渡した。

池田大作に対する狂言訴訟[編集]

1996年(平成8年)、自らの金銭借款が原因で北海道創価学会の幹部を解任された女性が池田大作にレイプされたとの告発手記を『週刊新潮』に掲載。女性とその夫が池田を相手取り損害賠償請求の訴えを起こした。判決は「訴権の濫用による却下」として訴えそのものが退けられた[他 16]。『週刊新潮』誌上においても、山田直樹は「およそ5年に及んだ裁判は、なんと実質審理に入らないまま終結」と訴訟を振り返り[62]、「裁判を傍聴し続けた」という乙骨正生も「女性の訴えは時効であるとし、女性の夫の損害部分についても実質的な事実審理に入ることなく訴えを退けた」と記述している[63]

池田大作本仏論論争[編集]

歴代会長の中でも、初代・牧口、第2代・戸田、第3代・池田の「三代会長」は、「広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である」と2002年(平成14年)の会則変更の際に定められた[批 2]。さらに、2016年(平成28年)11月7日に施行された改正会則の第1章第3条2項として、「『三代会長』の敬称は、『先生』とする。」と加筆明記された[SG 89]。ただし、三代の会長個人を本仏である日蓮と同等またはそれ以上に崇め奉ることは認められていない。池田は過去に聖教新聞紙上で「私などを絶対視してはいけない。」と明言している[SG 90]。一方、日蓮正宗側は「池田本仏論」として批判している。

冨士大石寺顕正会との関係[編集]

創価学会と、顕正会の前身である妙信講は共に日蓮正宗内の一法華講という立場であったが、1970年代に学会が主導した大石寺正本堂の建立をめぐり、正本堂が日蓮の遺言(御遺命)にある「本門の戒壇」にあたるか否かの解釈で対立したのを皮切りに関係が悪化した。

妙信講は「非国立」の戒壇を認めない、と言うよりは「国家権力立」ないし「皇室立」でなければならない[批 3] とする解釈を顕正会に改名した現在も崩していないのに対し、学会と当時の宗門管長細井日達は「戦後民主主義体制の根幹たる主権在民の下では日蓮の指す国の概念は権力ではなく民衆である」[SG 91][64] という解釈のもと、正本堂落慶をもって御遺命は達成されたと宣言する。

その後日達の仲介で両団体が協議し「正本堂は御遺命の戒壇にはあたらない」とする学会理事長・和泉覚(当時)の談話を聖教新聞に掲載することで一応和解。この談話は落慶法要直前の1972年(昭和47年)10月3日付紙面に掲載され、法要には妙信講関係者も出席した。しかし、和解した後も妙信講は国家権力ないし皇室による「狭義の」国立戒壇建立という思想を放棄せず、学会中央本部に対するデモなどの実力行使に踏み切る。これを受け日達は1974年(昭和49年)8月12日付で妙信講を講中解散処分に付した。

日蓮宗との関係[編集]

創価学会を含む日蓮正宗系教団では日蓮宗を「身延派」と呼び、距離を置いている。

小樽問答[編集]

1955年(昭和30年)、日蓮正宗妙照寺所属の創価学会小樽班の会員と日蓮宗妙龍寺との間で論争が起こった。日蓮正宗及び創価学会と日蓮宗は幹部を派遣し、小樽市公会堂で公開法論に臨んだ[5]。法論では日蓮宗側がスピーチするたびに激しいヤジが飛び大荒れとなった[65]

他の宗教との関係[編集]

戸田城聖が存命だった1950年代から、教祖・日蓮の教義に従い、日蓮正宗以外のすべての他宗教・他宗派を一切認めず「邪宗・邪教」として批判してきた[16]。その攻撃の矛先は折伏大行進期には立正佼成会天理教など日蓮・法華系あるいは神道系の新宗教団体、正本堂建立以降は妙信講(現・冨士大石寺顕正会)や正信会といった日蓮正宗系新宗教団体、そして破門後は日蓮正宗宗門へと向けられた。立正佼成会が新日本宗教団体連合会日本宗教連盟統一教会が傘下の政治組織国際勝共連合を通じて他教派との交流を取っているのと異なり、2017年(平成29年)現在でも学会本体・公明党共に日本国内の他の新宗教教団とは協調するまでには至っていない[66]

一方、日蓮正宗からの干渉により進捗に支障があったキリスト教イスラム教など仏教以外の既存世界宗教との対話は、同宗からの破門と前後して徐々に軟化。その傾向が顕著になったのは「SGI憲章」が制定された1995年(平成7年)11月23日以降で、憲章の7番目の項目として「仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく。」と記述され、方針転換を正式に表明した。現在、創価学会インタナショナルは(日本を含む)世界192の国と地域に組織を持ち、特定の宗教以外が厳しく制限されているイスラム圏社会主義国など一部地域を除いて全世界に活動の幅を広げるまでに至っている。

戦前の国家、神道との関係[編集]

島田裕巳によると初代会長の牧口常三郎皇太神宮の神札である神宮大麻を拝むことを拒否し焼却させたが、国家神道の全てを否定していたわけではないという[67]。第5回総会での全員座談会において牧口は靖国神社に参拝する意義を説き、靖国神社への参拝はご利益を得るためのものではなく感謝の心を表すものである点を強調した[67]。さらに牧口は、天照大神や代々の天皇に対して「感謝し奉る」と言い、昭和天皇現人神と認め、「吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが純忠だと信ずる」と述べている[67]

また、現代ビジネス(Web版週刊現代)によると、当初、創価学会の前身である戦前の創価教育学会は治安当局と左翼運動取締りにおいて協力的な関係にあった[68]。創価教育学会は「赤化青年の完全転向は如何にして可能なるか」とうたったパンフレットを発行し、治安当局との蜜月ぶりを会員獲得に向けた宣伝材料にもしていた[68]。牧口らは警視庁特高課やその元締めである内務省警保局思想検事ら治安当局と緊密に連絡を取り合っていた[68]。しかし、共産党を壊滅させた後、治安当局が次に取り締まり対象としたのは宗教団体であった[68]。一転して創価教育学会は特高警察の弾圧を受けることになった[68]。ただしそれは創価教育学会が反戦・平和を訴えたからではない[68]。神宮大麻を拝むことを拒否し焼却させるなどしたからである[68]

当時、大方の宗教団体がそうだったように、日蓮正宗も戦争には協力的な立場だった[69]。それは日蓮正宗の在家信徒団体である創価教育学会も同じであった[69]。例えば、創価教育学会の機関紙「価値創造」の第6号には、日蓮正宗宗務院が1942年1月21日付で出した布告を転載していた[69]。その布告の内容は、日蓮正宗が2月8日午後、大石寺において全国から僧侶や檀信徒を集め「大東亜戦争戦勝祈願大法要」を開催し、日蓮正宗にとって信仰の根本である「戒壇の大御本尊」の御開扉に続き、「戦争完遂宣誓式」を行うというものであった[69]。さらに1941年10月の「価値創造」第3号ではアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』について大きく紙面を割いて紹介し、ヒトラーを「現代の転輪聖王」と持ち上げ、理想的な君主とみなしていた[69]

1942年になると、日本軍が南方で緒戦の勝利を重ねていたためか創価教育学会の幹部達から勇ましい発言が相次ぐようになる[69]。『価値創造』の後継誌として出された小冊子「大善生活実証録」(国立国会図書館に覆刻版が所蔵されている)によると、総会の開会にあたり幹部の一人が「陛下の御稜威の下、我が陸海軍将兵が緒戦以来、赫々たる戦果を挙げている事は、吾等の衷心より感激に堪えない次第である……我国としても、もう寸毫の妥協も許されず、勝つか負けるかの一時のみ、否、断じて勝つの一手あるのみである」と挨拶[69]。閉会では別の幹部が「いまや、皇国日本か北はアリューシャン群島方面より遥かに太平洋の真中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、更に南洋諸島を経て、西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又蒙彊満州に至るの広大なる戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐くが戦場精神によって一丸となり、ひたすらに目的達成に邁進しつつあることは、すでに皆様熟知されるところである」と締めくくった[69]。また、総会はいつも皇居に向かっての遥拝で始まり、会の終わりには軍歌が歌われた[69]

一方、創価学会は「学会が軍部政府におもねっていたとすれば、牧口会長も戸田会長も、逮捕されることなど全くなかった」とする見解を取っている[SG 92][注 26]。その見解によると、1943年6月、牧口は戸田とともに日蓮正宗総本山・大石寺に召喚され、当局による弾圧を懸念した宗門側から「神札を受けるように」と勧められるも、日興の残した遺戒にある「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」[SG 94] の精神を貫き通し、「承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません」と言って拒否した[SG 95]。それから1か月後、神札の受け入れを拒否した行為が不敬罪治安維持法違反にあたるとして、牧口や戸田、他の幹部ら21人は逮捕・投獄された[SG 96]。幹部たちは退転していったが、牧口・戸田の2名だけが最後まで信仰を貫き通した。牧口は1944年11月18日、学会の創立記念日にあたるこの日に東京拘置所で「殉教(=獄死)」し、1人生き残った戸田は終戦1か月前の1945年7月3日豊多摩刑務所から出獄[注 27]し、弾圧によって壊滅状態だった学会の再建に挑んだ[SG 100] というものである。

政治との関係[編集]

創価大学中野毅によれば、創価学会の政治参加の動機は、中小企業労働者を中心とする民衆の代弁、政治の監視、信教の自由の確保の三点に集約されるという[70]。会長秋谷日本外国特派員協会での1995年(平成7年)の会見でもこの3点が強調された[71]

創価学会インタナショナルの Rie Tsumura によれば、創価学会の政治への関与は第二次世界大戦時に弾圧された経験をもとにした「主に防御的」("largely defensive")なものであった[72]

國學院大學塚田穂高によれば、第二代会長戸田城聖は「国立戒壇」の建立を訴え、「王法仏法が冥合すべきである」(「王仏冥合」)として政教一致的な理念を論じた[73]。中野毅によれば、戸田の展開した王仏冥合論・国立戒壇論は政教分離原則に反するとの疑念を受けやすかったが、戸田に日蓮正宗国教化を目指す意図はなかったという[74][75]。国立戒壇の建立は創価学会の政治進出における宗教的目的であり、世俗的な目的はあくまで「社会の繁栄と個人の幸福」を一致させることにあったと中野は指摘した[74]。中野によれば、「国立戒壇」建立は戸田時代初期の創価学会の政治参加の目標の一つだったが、早い段階でそれは放棄された[70]島田裕巳は、創価学会の政治への関心について戸田が1956年(昭和31年)に記した中での「本門の戒壇」への言及、池田の1959年(昭和34年)の「国立戒壇の建立と学会員の前途」という講演における「政治上に、本宗の正義を用いる」という発言に注目し[76]、これらの表現は「実質的には日蓮正宗の国教化を意味」[77][78]していたのではないかと論じた。

戸田の下、創価学会は1956年(昭和31年)の第4回参議院議員通常選挙での白木義一郎北条雋八擁立などを通して政治に進出した[73]。第三代会長池田大作の時代に「国立戒壇」という言葉は「本門の戒壇」「民衆の戒壇」などに言い換えられ[79]、「仏法民主主義」「世界民族主義」など普遍性のある用語が目立つようになり[79]、「国立戒壇」は1964年(昭和39年)の公明党結党宣言にも盛り込まれなかった[79]。創価学会批判の妨害や政教分離を巡る言論出版問題を受けて1970年(昭和45年)に創価学会は「国立戒壇論」放棄・「政教分離」を宣言し[80][81][82]、公明党綱領から「王仏冥合」などの文言が削除された[80][43][82]

創価学会・公明党は、公明党結成後の1960年代靖国神社国家護持法案反対・日米安保条約改定反対など革新政党の立場にあった[81]。中野毅によれば、このことが理由で創価学会は保守陣営から危険視された[81]島田裕巳は創価学会は「下層階級を組織化」[83]する点で左翼陣営と競合していたと指摘し[84][83]、創価学会が政界進出を始めた時点で創価学会は左翼陣営に批判されることはあったが保守陣営に批判されることはなかったと主張する[83]。初期の創価学会は大都市に流入した下層民を中心にしており[85]、学会員の圧倒的多数が社会階層の下層から中間層の下に位置することは2010年(平成22年)に至るまで変わりがない[85]

寺田喜朗によれば「創価学会の中央―地方組織(中央本部・方面本部・都道府県本部―総合本部・圏ゾーン・本部・支部・地区・ブロック)は、選挙の区割りに対応する形で編成されて」おり、「選挙は、会員間の結合を強化し、組織を引き締め、会員を切磋し、達成感・充実感を与え、創価学会への帰属意識を高める重要なモメント」であるという[82]。島田裕巳は、創価学会では選挙活動が一種のイベントとしての性格を持っており、選挙活動を共にしたことで親密になり、結婚にいたる創価学会員のカップルも少なくないとしている[86]

政教分離の問題[編集]

宗教団体政治活動の自由を制限したり禁止したりすることは、憲法に定められた表現の自由結社の自由を侵害するものであり、宗教を理由にした差別になる。よって、憲法20条に反しないと解釈される[87][88][89]

1970年(昭和45年)4月24日、民社党中央執行委員長春日一幸が「宗教団体が、議会政治機構を利用して政権を獲得することは、憲法の政教分離原則に反するのでは」と質した質問主意書を送付。政府は「宗教団体が推薦や支持をした者が公職に就任し、国政を担当しても、その宗教団体と国政を担当することとなった者とは法律的には別個の存在であり、(憲法20条が禁じている)宗教団体が政治上の権力を行使することには当たらない」旨の答弁書を出した。

政府の見解は[要出典]

となっている。 その他、一部議員[誰?]により「政教一致」であるとの批判はたびたびなされている。[他 17]

また内閣官房参与の飯島勲は2014年(平成26年)6月、「公明党と創価学会の関係は政教一致と騒がれてきたが,内閣法制局の発言の積み重ねで政教分離ということになっている。」と政府見解を説明したうえで、仮定の話として「法制局の発言,答弁が一気に変われば,『政教一致』が出てきてもおかしくない。」と発言した[90][91]。しかし、直後に政府・与党は飯島の発言を否定。自民党の石破茂幹事長は「内閣を代表した形ではない。」と語り、菅義偉官房長官は政教分離についての政府見解を維持するかと問われ、「まったくその通りだ。」と回答している[91]。宗教社会学者の弓山達也は、著書のなかで創価学会を例にあげながら「日本においては政教分離の原則があるが、宗教教団の政治への関与を禁じているわけではない。 むしろ、宗教教団が現世での幸福を願う限り、政治への関与は不可欠となり、特定の政治家を応援したり、宗教政党を結成して積極的に政界に進出したりすることは自然なことともいえよう。」と述べている[92]

日本共産党との関係[編集]

日本共産党と創価学会は支持層ないし支援対象が重なることなどから、1950年代以降、選挙活動において互いを非難しあうなど対立関係にあった[93] 1969年(昭和44年)12月2日には日本共産党機関紙の『しんぶん赤旗』が藤原弘達の『創価学会を斬る』の出版を創価学会・公明党が妨害したと報じ言論出版妨害事件が表面化。1970年(昭和45年)には日本共産党委員長宮本顕治の自宅の電話回線を創価学会の学生部幹部数名が盗聴し、逮捕者も出た。

その後1974年(昭和49年)12月、向こう10年間の「相互不干渉」と「共存」をうたう「創共協定」を両者で締結した[46] が、自公連立政権の誕生後は対立が再燃し、しんぶん赤旗が「公明党と創価学会 『政教一体』で『悪政戦犯』の役割」と題した記事で、創価学会首脳が選挙戦で陣頭指揮を執り聖教新聞に会員を鼓舞する記事が掲載されるなどと批判したり[批 4]、入信強要問題を取り上げる[批 5] などしている。

自由民主党との関係[編集]

自民党とは自民党結党以降2代会長戸田城聖と自民党で総裁を務めた岸信介が友好関係にあり、岸の娘婿安倍晋太郎が岸の名代として大石寺の大講堂の完成式典に列席し祝辞を述べた。また創価学会が起こした言論出版妨害事件では公明党中央執行委員長・竹入義勝が自民党幹事長・田中角栄に事態の収拾を依頼、その後自民党田中派竹下派と公明党創価学会は親密、親交を深めていき田中の愛弟子小沢一郎が1993年に自民党を離党すると公明党幹部の市川雄一が小沢に接触、後に「ワン・ワン・ライス」となぞらえられた連携を見せ公明党が非自民党政権細川連立政権に参加、創価学会も全面的に協力した。この動きを見た自民党は、1993年(平成5年)に同党所属の有志議員が憲法20条を考える会を結成(会長は亀井静香)、「公明党と創価学会の政教分離問題を追及する」を旗頭に創価学会・公明党・細川連立政権に攻勢をかけた。

1994年(平成6年)5月には公明党および創価学会に批判的な宗教団体や有識者からなる四月会の結成に同党所属の河野洋平が参加[注 28]、自民党は長年の宿敵であった社会党と手を組み、政権を奪取すると、同年10月、同党の川崎二郎衆議院予算委員会日蓮正宗住職交通事故死事件を取り上げた[94]

1995年(平成7年)11月の衆議院宗教法人に関する特別委員会では同党所属の衆議院議員熊代昭彦が創価学会について「我々が内々にいろいろ聞いたところでは、不動産資産9兆円、流動資産1兆円というような堂々たるお力を持っておられるようなことでございますが……」と発言したほか、穂積良行朝木明代市議転落死事件と創価学会の関係について質問した[95]

1996年(平成8年)には党の運動方針に「いま、わが国の政治にとって最も憂うべきは、宗教団体・創価学会が新進党という政党の皮をかぶって国民を欺き、政治の権力を握ろうと画策していること」というスローガンが存在したがこれは前年に行われた参議院選挙で自民党が新進党に敗北したことから来る衆議院選挙で勝利し政権維持を目的としたものである。同年週刊誌に掲載された「池田大作レイプ事件」の内容を党の機関紙『自由新報』へ引用、内藤国夫、俵孝太郎が「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」と題し「池田大作と金の問題」や「池田大作レイプ問題」を数回掲載した一方、衆議院選挙で勝利し政権維持を目的を達成した後は自由民主党竹下派を中心に公明党との連立を模索する動きも出ていた。1998年(平成10年)4月、自民党総裁首相橋本龍太郎が(創価学会の抗議に応じて)『自由新報』の「池田大作レイプ問題」について事実ではなかったと謝罪した。自由新報は現在廃刊されている。これら一連の動きは自民党による反創価学会キャンペーンとして大々的に行われた。

島田裕巳は、公明党は自民党と連立与党を組んでから政策面で必ずしも独自性を打ち出すことができず、結局、自民党の政策を追認しているだけに終わっていることが少なくなく、特に安全保障政策で公明党が党是とする平和主義の貫徹が妨げられていることから、創価学会内部で公明党に対する批判が潜在化しているとしている[96]

また、島田は自民党内にも創価学会=公明党の発言力が強まることを警戒する人間はいることから、自民党内部において創価学会=公明党への批判が高まれば創価学会=公明党としては民主党と連立を組む可能性が出てくる[97]。そうなれば創価学会=公明党は動物と鳥の両方に取り入ろうとして結局はどちらからも嫌われ、暗い洞窟に追いやられたイソップ物語のコウモリになる危険がある、としている

提言[編集]

原水爆禁止宣言[編集]

1957年(昭和32年)9月8日、第2代会長戸田城聖が創価学会第4回東日本青年部体育大会「若人の祭典」で核兵器の使用禁止を訴える宣言、いわゆる「原水爆禁止宣言」を行った。

戸田はこの宣言を遺訓として会員たちに託し、以後、創価学会が行っている、戦争体験者の証言を集めて出版する「反戦出版」や、反核・平和運動活動の淵源となったとされている[他 18]

日中国交正常化[編集]

1968年(昭和43年)9月8日、池田大作は、東京・両国日大講堂で行われた学生部幹部会の席上、「日中国交正常化提言」を発表した[98]。 創価学会の出版機関第三文明社は日中が国交正常化にこぎつけることができたのは、日本では、通産大臣や初代経済企画庁長官などを歴任した高碕達之助、厚生、農林、文部の各大臣を歴任した松村謙三、首相を務めた田中角栄大平正芳、創価学会会長(現名誉会長)の池田大作、中国側では、最高指導者(中国共産党主席)の毛沢東、日本留学の経験をもつ首相の周恩来、早稲田大学で学んだ政治家の廖承志、中日友好協会会長を務めた孫平化ら、日中双方の政治家や各界指導者たち、そしてさまざまな民間人や諸団体の忍耐強い努力があったからにほかならないとまとめている[99]

マスメディアとの関係[編集]

機関紙である聖教新聞などは、「無冠の友」と呼ばれる会員の有志[注 29] による全国的な宅配網が整備されており、一般紙と同じく日刊で全国に配達されている。聖教新聞社は自前の印刷所を持たず、全国紙の系列の印刷会社や複数の地方紙に聖教新聞の印刷を委託している。

地方紙としては印刷所の輪転機を遊ばせておく時間を減らせる上に、印刷代金を確保できる貴重な収入源として、聖教新聞社(=学会)としては自社で全国に高速輪転印刷機の設備を維持せずに全国津々浦々に日刊で新聞を届ける事ができるという風に、両者の利害が一致している。また、全国紙でも毎日新聞社読売新聞社は聖教新聞の印刷を傘下の印刷会社で受託しており[100]、読売新聞社は2020年(令和2年)5月1日から茨城県での聖教新聞などの配達業務を受託するまでになった[101]。聖教新聞社(=学会)側には「無冠の友」の人手不足や学会員の高齢化が、読売新聞社には部数減に歯止めがかからない中、全国に整備した販売店の存続という課題が背景にあるといわれている一方、全国紙傘下の印刷会社に聖教新聞の印刷を受託させることで良好な関係を築き[注 30][102]、学会批判の記事を書かせないようにしているという側面もあるといわれている[102]

創価学会には聖教新聞社(『グラフSGI』)を始め、潮出版社(『潮』、『pumpkin』)・第三文明社(『第三文明』、『灯台』)などの系列出版社がある。

また、全国・地方を問わずラジオ局への番組提供は複数ある(下記参照)。テレビ局では地方局や独立U局を中心に池田原作のアニメや広報番組が放映されているほか、在京キー局などで聖教新聞のCMが放送されている。ただ、J-WAVE関西テレビテレビ熊本のように、公明党のCMおよび政見放送と当学会系列の学校教育機関創価大学創価学園)のCMを除き、創価学会関連組織(聖教新聞を含む)のCMの出稿(放送)の一切を受け入れない放送事業者もある[103]


創価学会が起こした社会問題[編集]

折伏大行進[編集]

戸田城聖は、第2代会長就任時の挨拶で、自身の存命中に75万世帯の弘教を発表。会員が折伏を進める過程で、入会しようとした家庭に他宗派の仏壇や神棚が置かれていると、それを謗法払い(焼却)したり、大人数で対象者を取り囲んだりと、時として強引さを伴ったため批判を呼び、社会問題化した[104]

未成年者への入信強要[編集]

1959年(昭和34年)6月、長崎県に住んでいた当時19歳の少年Aは学会員から度重なり入信を強要された。入信を拒むAに対し学会員は自宅で座り込みをしたためAは根負けし入信。入信から20日後Aは「創価学会への入会は誤っていた。こんなものに入ったのは、自分がしっかりしていなかったからだ。」という遺書を残し自殺、Aの自殺を知った母親も後追い自殺をした。中国新聞は「創価学会に入会を強要されたばかりに、2人ともこんなことになって」という長女の談話を掲載した[105]。その後週刊新潮がこの事件を報道。その中でAの自殺は創価学会への信仰の薄さが原因とする学会員から匿名の手紙が届き、それを見てショックを受けた母親が後追い自殺をしたとしている[106]

言論出版妨害事件[編集]

1960年代末から1970年代にかけて、創価学会と公明党が会長の池田大作や自らに批判的な書籍の出版、流通を阻止するため、学会員や公明党党員が著者・流通業者・取次店・書店に、脅迫や圧力をかけて出版を妨害したり、出版前の原稿に自らの主張を織り込むよう要求した問題。

公明党が結成され衆議院で議席を獲得しはじめると、創価学会批判の書物が発表されることが増えた[107]。1969年(昭和44年)の藤原弘達の『創価学会を斬る』をはじめとする様々な批判本に対して創価学会から圧力がかけられていることが明らかとなり、池田は1970年(昭和45年)5月に一連の妨害行為に対し謝罪した[107]。この件は日本共産党の不破哲三も1970年国会での質問で取り上げた[108]1969年、共産党がNHKでの公明党との討論会で藤原弘達の『創価学会を斬る』をはじめとする様々な批判本に対し創価学会が著者出版社書店等に圧力をかけるなど出版妨害の事実があったことを告発したり、機関紙『赤旗』(現「しんぶん赤旗」)紙上で、田中角栄から介入を受けたという藤原の告発を掲載するなど追及した。[要出典]

これらの行為が、日本国憲法に保障された、言論の自由および出版の自由を侵害するものだとして、国会で取り上げられたが、当初、公明党はNHKの公開討論で「これらは全て嘘、デタラメである」と主張した。しかし、国会に招致された出版社や取次店などの証言により、創価学会・公明党が事件に関与していたことが明らかになるとマスメディアから激しい社会的批判にさらされると共に、創価学会・公明党の密接な関係や当時、公明党が創価学会の内部局として存在し、国会や地方議員を務めた人間が再び学会幹部として組織に戻るなど公明党が組織として独立していなかったことが、政教分離の観点から問題視された。

1970年(昭和45年)、池田大作が「言論妨害の意図はなかった」としながらも、妨害行為に対し公式に謝罪、公明党を創価学会から切り離し組織として完全に独立させるなど、創価学会・公明党の問題点を改善することを公約した。しかし後年、池田の著書「新・人間革命」では「衆院選前に、藤沢達造(藤原弘達の仮名)の本とともに、学会の批判本が次々と出されたのだ。暗黒の嵐が吹き荒れ、伸一(池田氏の仮名)を倒さんとする、攻撃の毒矢が放たれたのであった。」と掲載[SG 101]。「週刊新潮」と不破哲三は、年月が経ったことに乗じて、歴史を改竄するものだと批判した[109][批 6]

選挙における不正投票、不正行為、問題行動[編集]

学会員が起こした犯罪、問題行動[編集]

学会員が起こした犯罪や社会問題で裁判所が創価学会の組織的関与認めた事案として大阪事件[110] といった選挙違反、コーヒーカップ裁判[111]宮本顕治宅盗聴事件[112] といった反目する団体への誹謗中傷行動、手帳強奪事件[113][114] のように学会と袂を分かった元学会幹部への違法行為が挙げられる。かつて犯罪を起こし逮捕された学会幹部を除名せず、その幹部が数年後再び刑事事件を起こし学会幹部として逮捕されたこともあり組織として学会の体質が批判されたケースも存在した[115]

セクト問題、諸外国での騒動[編集]

フランス[編集]

1995年12月にフランスの下院(フランス国民議会)で採択された「通常の宗教か、セクト(カルト)か」を判定する国際的な指針は調査委員会の委員長の名前を取って『アラン・ジュスト報告書』と呼ばれる。 「①精神の不安定化②法外な金銭的要求③住み慣れた生活環境からの断絶④肉体的保全の損傷⑤子供の囲い込み⑥反社会的な言説⑦公秩序の攪乱⑧裁判沙汰の多さ⑨従来の経済回路からの逸脱⑩公権力への浸透の試み」を「セクト構成要件の10項目」として列挙し、このうち1項目でも該当するものがあればその団体をフランス政府はセクトとみなしている[116]。 リストアップされたのは創価学会を含む全部で174の宗教、宗教団体であった。

フランス国家警察情報機関総合情報局が、UNADFI(カルトの被害者と家族を守る協会の全国連合)など、複数のカルト監視グループと編集
カルトと金銭に関するフランス議会報告、30数団体に注意を集中させ調査した。

2011年9月、フランスの新聞『ル・モンド』の月刊誌「Le Monde DES RELIGIONS」に『創価学会、自己の内なるブッダ』と題するルポタージュが掲載され、創価学会の歴史や活動が詳しく報じられた。ルポタージュは、創価学会が日蓮正宗と絶縁した理由について「創価学会のプラグマティズム、およびその在家による現代世界を中心に捉える方向性は、日蓮正宗の聖職者集団による教条主義的宗教観とはもはやできなくなったからである。」と解説した。また、過去にフランス国会に提出された報告書が創価学会をセクト扱いしていた背景についても解説し、首長直属機関であるセクト逸脱行為監視取締り関係省庁委員長ジョルジュ・フネックによる「ここ5年以上に渡りSGIフランスに関して、我々はセクト逸脱行為の通報を一切受けてない。運動体(SGIフランス)は礼拝文化商業活動を区別し、フランスにおいてはまったく問題を提起しない。」とのコメントを紹介している[SG 102]

ベルギー[編集]

ベルギーでは創価学会(SGI)が複数の未成年者を勧誘したことが発覚し社会問題となる、1997年、ベルギー議会調査委員会は未成年者保護のため創価学会(SGI)をセクト的な活動を行う団体にリストアップし未成年者への勧誘、入会を禁止した。[117]

ドイツ[編集]

1980年代から90年代にかけて、日本に留学していた複数のドイツ人が創価学会の総会で池田大作が右手(実際は右の拳)を高くつきだし、それに呼応して参加者たちが一斉に右手を突きだした光景を目撃したことから「創価学会はナチス式敬礼を行う危険な団体」[118] などといった誤った風潮がドイツ国内に伝わる。その後1996年、創価学会インタナショナル(SGI)等を新宗教と精神世界グループの一団体としてリストアップした。[119]

イギリス[編集]

イギリスの経済紙『エコノミスト』1999年7月3日号で「創価学会は(日蓮正宗[大石寺]が創価学会との結び付きを断ち池田氏を破門したことによって)主な目的を失った現在、世界中で行っているよい仕事の成果を強調するようになった。さらに創価学会は富裕になって以降初期の目標を失ったその他多くの組織と同様に、批判者を脅迫、主流マスコミを脅して黙らせるという容赦なさでその利害を守っている。」と批判した。

イタリア[編集]

2015年06月27日、イタリア共和国とイタリアSGI(イタリア創価学会仏教協会)との間に、インテーサ(宗教協約)が調印され、調印式がフィレンツェのイタリア文化会館で厳粛に執り行われた。しかし、式典に池田大作が出席せず代理人をたてたことからイタリアの大衆紙「Corriere della Sera」は「Nessuna cerimonia di vincitori(受賞者なき授賞式)」、「Governo ha dato lui la medaglia di fantasmi(幽霊に勲章を授けた)などの批判記事を掲載した。

韓国 [編集]

韓国に関連した批判が下記のようにある。

創価学会に関する疑惑[編集]

P献金[編集]

「創価学会には、P献金と呼ばれる献金が存在している」という疑惑。P献金のPとは「プレジデント(英:President)」の略で公明党の支持母体、創価学会の池田大作名誉会長を指しているというもの。公明党出身の国会議員福本潤一が2007年(平成19年)6月、外国人記者クラブで外国人記者を前にし、「公明党の議員は選挙で当選した際に衆議院議員は300万円、参議院議員は600万円の献金を行うよう要請されている」と記者会見した。福本の記者会見の内容を民主党の石井一が2007年(平成19年)10月16日、参議院予算委員会で「P献金」を追及した[他 21]

暴力団への暗殺依頼疑惑[編集]

創価学会に反抗・批判する人間の暗殺暴力団へ依頼したとされる疑惑。後藤組の元組長後藤忠政によれば元公明党最高顧問藤井富雄が後藤のもとを訪れ、池田大作名誉会長の名のもとに反創価学会の活動をしている有名画伯A(仮名)や亀井静香ら4名の暗殺を依頼されたという[123]。また、共同通信社記者の魚住昭は『月刊・現代』の中で藤井が後藤に、創価学会に対して批判的な亀井静香を黙らせて欲しいと依頼する場面が収録されたビデオテープがあることを記している[124]。暗殺リストに名前があった亀井静香は警察関係者、弁護士などと創価学会対策会議を行うこととなる[125]。後藤は著書の中で池田が裏で何をしていたかといったら、山崎や藤井をパイプ役にして俺達ヤクザを散々利用し、仕事が終われば知らんぷりだ。それで俺達がちょっとでももの言おうもんなら、今度は警察権力を使って潰しにかかる。で、それがマスコミにバレそうになったら、頬かむりだ。と批判した。

大鳳会という組織[編集]

「大鳳会(おおとりかい)」という組織の存在について以下で取り上げられた。

  1. 週刊文春が『皇太子妃雅子外務省の創価学会シンパ「大鳳会」とディナーをした』という記事を掲載したこと[126]
  2. 「創価学会が外務省幹部に『外遊特別待遇』要請書を送った」とされる問題[127]
  3. 「外務省が、池田大作の海外訪問に特別の便宜を図っている」とされる内容が国会で審議されたこと[他 22]

財務私的流用疑惑[編集]

下記のような例がある。

創価学会へのデマ[編集]

茨城新聞による「香典泥棒」報道[編集]

茨城新聞は創価学会信者宅からの取材をもとに1962年(昭和37年)4月1日号において「創価学会は信徒の家に葬式があると、親戚、知己から集まる香典はすべて創価学会支部が持ち去ることになっている」と報道した。創価学会側は記事の内容は事実無根と茨城新聞社へ抗議した。その後、確証が取れないと判断した同社は4月17日、茨城新聞に訂正記事を掲載した。

月刊ペンに掲載された名誉毀損[編集]

雑誌『月刊ペン』が掲載した「四重五重の大罪犯す創価学会」や「極悪の大罪犯す創価学会の実相」という記事が名誉毀損罪にあたるとして、編集長の隈部大蔵が告訴され隈部が有罪となった。

朝木明代市議転落死[編集]

1995年(平成7年)9月、東京都東村山市議会議員朝木明代マンションから転落死し、後に警察が自殺と断定。朝木が創価学会と公明党の批判活動をしていたことから、他殺説や学会の陰謀説が浮上した。『週刊現代』・『週刊新潮』・『東村山市民新聞』の記事に対して、創価学会は名誉毀損で提訴し、3つとも学会側が勝訴した。

映画監督伊丹十三の転落死[編集]

1997年(平成9年)に自殺(転落死)した伊丹十三の死が自殺ではなく他殺であるとした説(創価学会が関与したと断定する内容)が2ちゃんねるに掲載された。創価学会は2ちゃんねるの運営者を相手取り、訴訟を起こした。東京地方裁判所は2009年(平成21年)2月、証拠もないのに断定的な内容を掲載し続けたとして、被告に損害賠償金80万円の支払いを命じる判決を言い渡した[他 23]

週刊文春による「池田大作重病説」報道[編集]

週刊文春』が2011年(平成23年)10月27日号(176ページから179ページ)で池田大作の看護師からの情報をもとに『衝撃スクープ 池田大作「創価学会」名誉会長 担当していた元看護師が語る「厳戒病室」本当の病状』と池田大作名誉会長の重病説を掲載した。週刊文春の記事を受け創価学会は週刊文春や発行元の文藝春秋社に「該当する看護師は存在せず、証言は事実無根である」と抗議。週刊文春は2カ月後の12月29日号で当時の編集長が「小誌は再取材を行いましたが、証言者が看護師であるとの確証を得るに至りませんでした。病状についての記述を取り消し、ご迷惑をおかけした関係者にお詫びいたします。」と謝罪した。

ワールドビジネスサテライトによる報道[編集]

テレビ東京系列で放送されている『ワールドビジネスサテライト』が2017年(平成29年)11月24日の放送で創価学会についての特集を組んだものの、テレビ東京側の不手際で創価学会への取材依頼などがなされないまま取材が行われた上、学会から除名された人物ら[注 32]の主張や言動を一方的に取り上げ、視聴者に学会に対する偏見を植え付けるものとなっていることなどを問題視した創価学会が抗議。テレビ東京は2018年(平成30年)2月22日までに報道内容の誤りを認めて謝罪した[SG 103]

創価学会に対する肯定的評価[編集]

日本国内[編集]

日本以外[編集]

創価学会に対する批判[編集]

政界進出を始めた時期に創価学会は、日蓮宗系他教団のほか、浄土真宗系教団、左翼陣営からの批判を受けることが増えた[83]。島田裕巳によれば、1957年(昭和32年)の北海道での創価学会青年部隊と日本炭鉱労働組合と間の戦いを一つのきっかけとして[83]、また1960年代の公明党結成に応じて[84]、左翼陣営からの批判が刊行されるようになった[84]。島田はこれらの教団・陣営は「民衆をターゲットとし」[84]、「下層階級を組織化」[83]する点で創価学会と競合していたと指摘し[84][83]、一方の保守陣営はこの段階では創価学会批判を展開していなかったとする[83]

離反者による批判[編集]

元公明党書記長の矢野絢也は「学会員二世、三世は幼い頃から、家庭において池田大作が著した絵本やアニメを見せられ、いかに池田と創価学会の教義が素晴らしいかを刷り込まれる。しかも、一貫教育システムにより、筋金入りの創価学会員としてエリート教育される。一貫教育システムという醸成装置があればこそ、創価学会は次々と新たな学会員と「池田名誉会長」を信じて疑わない幹部を養成できる。」と指摘している[145]。このほか、現在の学会の幹部は、こうした「池田チルドレン」たちによって固められ、公明党議員にも創価学園創価大学出身者がいる。このような教育によって、学会は強固な組織となり、池田の独裁体制も確立されたとしている[145]。また、「100万円財務は、戸田第二代会長の表現を借りれば、学会が決して手を染めてはならない「邪宗教」への一歩を踏み出した瞬間だった」としている[145]

他団体による批判[編集]

著名人による批判[編集]

創価学会は「池田教」であるという批判[編集]

創価学会は池田教であると批判される主な要因として以下が挙げられる。











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