ミヤンマー連邦共和国(ロヒンギャ)問題-1



2020.12.11-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/201211/wor2012110028-n1.html
ロヒンギャ難民、水没危機の無人島に移送 進まぬ帰還…問題長期化
(1)
  【シンガポール=森浩】バングラデシュ政府は11日までに、ミャンマーから逃れてきたイスラム教徒少数民族ロヒンギャ難民の一部について、難民キャンプから国内の無人島への移送を開始した。難民の本格的な移送は初めて。島は高潮で水没する可能性も指摘される劣悪な環境だが、バングラデシュ政府は累計86万人(国連まとめ)に達した難民の処遇に苦慮しており、移送を進める方針だ。ミャンマー帰還に向けた作業は停滞し、難民の将来は見通せない状況が続いている。
  大量のロヒンギャ難民は2017年8月、ミャンマー西部ラカイン州で、国軍がロヒンギャ武装集団の掃討作戦に乗り出したことをきっかけに生まれた。
  住民が国境を越えて逃げ込んだバングラデシュ南東部コックスバザールは丘陵地でキャンプとして使える土地が限られているほか、難民の定住化には地元住民が反発している。受け入れは限界に達しつつあり、ベンガル湾の無人島への移送を決め、4日に最初の1600人が到着した。
  国連や人権団体は島の住環境に懸念を表明しているが、バングラデシュ政府は「住居に加え、浸水を防ぐ堤防も建設した」と反論しており、将来的に10万人の移送を実現したい考えだ。
  難民について両政府は18年11月、一度は帰還開始で合意したが、ミャンマー国内で安全が確保される保証がないことから難民に帰還希望者がおらず、その後の協議は停滞している。
(2)
  仏教徒が多数派のミャンマーでは、ロヒンギャを「不法に滞在している集団」と見なす声が強い。帰還を積極的に進めれば、国内の反発につながりかねない。国民の関心も薄く、11月の総選挙でもロヒンギャ問題は争点にならなかった。総選挙ではアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相率いる与党、国民民主連盟(NLD)が大勝したが、今後、問題解決にどこまで積極的に取り組むかは未知数だ。
  消極姿勢のミャンマーには国際社会が厳しい視線を向けており、掃討作戦がジェノサイド(集団虐殺)禁止条約に違反するとして国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)に提訴されている。ポンペオ米国務長官も8月、「忌まわしい民族浄化」と改めて批判した。
  一方、中国は集中砲火を浴びるミャンマーを「ロヒンギャ問題は内政問題だ」と擁護し、接近を図る。ミャンマーをインド洋に進出するための重要な拠点と見なしているためだ。交錯する各国の思惑によって、難民の行方には不透明感が増している状況だ。


2020.11.07-西日本新聞-https://www.nishinippon.co.jp/item/n/661950/
スー・チー政権に初の審判 総選挙8日投票、圧勝なるか ミャンマー

  【バンコク川合秀紀】ミャンマー総選挙の投票が8日実施される。2015年の前回選挙では、民主化運動をけん引したアウン・サン・スー・チー現国家顧問率いる政党、国民民主連盟(NLD)が圧勝して政権を奪取、長年にわたる国軍主導の政治に終止符を打った。スー・チー政権初の審判となる今回、少数民族和平などの公約を実現できない中、改選議席の約8割を獲得した前回同様の勝利を果たせるかは見通せない。

  ミャンマーの議会は上院(定数224)と下院(同440)の二院制。5年に1度の総選挙は各院の25%を占める軍人議員枠(両院計166議席)を除く、計498議席を小選挙区で選ぶ。今回は少数民族勢力と国軍の衝突激化を理由に、複数州で投票中止が決まったため22議席分が選出されず、計476議席を争う。
  大統領は軍人議員を含む上下両院議員の全員投票で選ばれるため、NLDが単独で大統領を選出して政権を維持するには過半数の計322議席獲得が必要。スー・チー氏は依然として圧倒的人気を誇っており、NLDが改選476議席の3分の2超を獲得して単独過半数を確保する見通しだ。
  ただ、少数民族勢力による紛争は収まらず、軍人議員枠の削減などを目指した憲法改正案も議会で否決された。新型コロナウイルスの感染拡大で景気も悪化しており「庶民にNLD政権への不満が高まっている」と現地ジャーナリストは指摘する。国軍系の最大野党、連邦団結発展党(USDP)や少数民族政党に議席を奪われ、前回ほど大勝できないとの予想もある。

  イスラム教徒の少数民族ロヒンギャが弾圧を恐れ、難民として大量に国外流出している問題は国際的な批判を集めるものの、国民の大半を仏教徒が占め差別意識も根強いため、選挙の争点となっていない。
  新型コロナ感染者は5万人を超え、選挙運動は大幅に制限された。有権者は約3800万人。8日深夜にも大勢が判明する見通し。


2020.8.3-産経新聞 SANKEI NEWS WEB-https://www.sankei.com/world/news/200803/wor2008030027-n1.html
ミャンマー、スー・チー政権に初の審判 11月に総選挙

  【シンガポール=森浩】ミャンマーのアウン・サン・スー・チー政権が、今年11月8日の総選挙で初の審判を受ける。先月、候補者登録が始まり、アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相(75)率いる与党・国民民主連盟(NLD)が上下両院選で優勢とみられている。しかし、かつての軍事政権下で任命制の軍人枠が設けられており、過半数を獲得して単独政権を維持するには、両院で改選議席の3分の2超を確保することが必要だ。軍政からの歴史的な政権交代を果たしたNLDだが、少数民族問題を中心に逆風も吹く。
  前回総選挙でNLDは改選議席の約8割を獲得し、軍系政党の連邦団結発展党(USDP)を抑えて圧勝。半世紀以上、軍が実権を握ってきたミャンマーで文民政府を実現した。スー・チー氏は選挙後、「すべて自分が決める」と宣言した。
  ただ、NLDが公約を達成できたとは言い難く、重要公約だった少数民族との和平はほとんど進まなかった。国内では軍と自治権を求める少数民族武装勢力との内戦が一部で続いている。NLD政権は政府、軍、武装勢力による対話の場は設けたものの、停戦に向けた動きは広まっていない。地元ジャーナリストは「少数民族は和平や地位向上を期待して前回選挙でNLDを支持しており、失望感が漂っている」と分析。今回の総選挙では地域政党が独自に候補を擁立する動きが見える。



2019.12.13-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191213/k10012213411000.html
ミャンマーの迫害 国際司法裁判所の審理終了 来月にも暫定判断

ミャンマー国内の少数派、ロヒンギャの人たちに対する迫害について、政府の責任を問う国際司法裁判所の審理は12日、原告と被告の双方が、改めて主張を展開して終了しました。原告側が、迫害をいち早く止めるためとして裁判所に求めている暫定的な指示についての判断は、来月にも示される見通しです。
  この裁判は、ミャンマーのイスラム教徒の少数派、ロヒンギャに対する迫害が大量虐殺などを禁じたジェノサイド条約に違反しているとして、イスラム教徒の多い国や地域を代表して、西アフリカのガンビアがミャンマー政府の責任を問う訴えを起こしたものです。
  オランダのハーグにある国際司法裁判所では、3日間の審理の最終日となる12日、原告と被告の双方が改めて主張を展開しました。
  原告のガンビア側は、前日に行われたミャンマーの反論について、子どもや女性までもが凄惨(せいさん)極まる殺され方をしたことについて、何ら説明がなかったと指摘しました。

一方、ミャンマー側は、アウン・サン・スー・チー国家顧問が発言し、「ようやく信頼を築き始めたばかりの社会に疑いと不満の種をまくような動きを進めることは民族間の融和を破壊する」として、国際的な司法の介入を拒否する考えを改めて示しました。
  今回の裁判では、原告側が、迫害をいち早く止めるためとして裁判所に求めている暫定的な指示についての判断が来月にも示される見通しです。
  ただ、ジェノサイド条約に違反しているかどうかについては、さらに双方の主張を積み重ねる必要があり、判断が出るまでには年単位の時間がかかると見られています。


2019.11.15-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191115/k10012178161000.html?utm_int=detail_contents_news-related_003
国際刑事裁判所 ロヒンギャ迫害の疑いを正式に捜査へ

ミャンマーの治安部隊が国内の少数派 ロヒンギャの人たちを迫害した疑いについて、国際刑事裁判所は「人道に対する罪」にあたる可能性があるとして正式な捜査を始めることを決めました。ミャンマー西部では少数派のイスラム教徒 ロヒンギャの武装勢力と政府の治安部隊の衝突で、これまでに推計で70万人以上のロヒンギャの人たちが、隣国バングラデシュへの避難を余儀なくされています。
「人道に対する罪」などを裁く国際刑事裁判所は、予備的な調査を進める一方、ミャンマーが国際刑事裁判所の設立を定めた国際条約に加盟していないため、この問題を取り扱う権限があるかどうか慎重に検討してきました。
  そして14日、ロヒンギャの人たちが逃れた先が条約の加盟国のバングラデシュである以上、事案を取り扱う権限があるとする声明を発表しました。
  そのうえで「広く組織的に行われた暴力行為が『人道に対する罪』にあたると信じるに足る合理的な根拠がある」として、迫害に関わった人物の訴追に向けた正式な捜査を始めるとしています。
  ミャンマー政府は、今のところ反応を示していませんが、条約に加盟していない国に国際刑事裁判所の権限は及ばないという考えを国連などの場で主張し続けています。


イスラム教徒少数民族ロヒンギャ問題

2019.9.4-産経新聞-THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190904/wor1909040017-n1.html
ロヒンギャ大量流出2年 帰還開始で合意も希望者ゼロ

【シンガポール=森浩】ミャンマーからイスラム教徒少数民族ロヒンギャが隣国バングラデシュに大量に流出し、4日までに2年が経過した。両国は帰還開始で合意しつつも、難民に希望者がおらず事態は膠着(こうちゃく)。事態の早期解決が困難な状況の中、バングラデシュではロヒンギャが治安の不安要因となり始めている。
 2017年8月25日、ミャンマー西部ラカイン州で治安部隊とロヒンギャの武装集団が衝突し、国連によると、約74万人が難民となってバングラデシュ南東部コックスバザールに逃れた。
 両国は昨年11月の帰還開始で合意したが、希望者がおらず中止に。今年8月22日にも両国が約3500人の帰還開始で一致し、大型バスも用意されたが、手を挙げる難民はなく帰還は実現しなかった。逆に難民は流出2年となった25日にキャンプで10万人規模の集会を開催し、ミャンマー政府に対して抗議の声を挙げた。
 ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相率いる与党国民民主連盟(NLD)は、来年の総選挙を控え、多数派仏教徒の支持を取り付けたい局面にある。ロヒンギャの帰還を急げば、受け入れに反発する仏教徒の支持離れは免れない。国際社会に問題を解決する意向は示しつつも、積極的な帰還には及び腰だ。
 バングラデシュ側は受け入れについて、「限界に達している」(ハシナ首相)と繰り返し訴えている。2年を経て顕在化するのは、治安への不安だ。ロヒンギャ難民が犯罪グループに加入するケースが相次ぎ、特に薬物の運び屋として“雇用”されている。今年に入って40人以上のロヒンギャが薬物犯罪に関わったとして治安当局などに殺害されたとされる。バングラデシュ政府は難民キャンプ周辺で「安全保障上や治安上の理由」により携帯電話を遮断する方針も打ち出す。
 地元ジャーナリストは、難民がイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)などテロ組織に勧誘される可能性を指摘。「事態の膠着が続けばあり得ない話ではない」と警戒している。


2019.71-産経新聞-THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190701/wor1907010024-n1.html
ロヒンギャ流出から来月2年 ASEAN、ロヒンギャ問題「役割強化」で一致も遠い解決

【シンガポール=森浩】
ミャンマーからイスラム教徒少数民族ロヒンギャが隣国バングラデシュに大量に流出し、来月で2年となる。帰還への見通しが立たない中、先月23日に開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議ではASEANが解決に向けて行動することが再確認された。ただ、来年に選挙を控えるミャンマーは帰還に消極的なこともあり、早期の解決は困難な状況だ。 「果たす役割について、目に見える形で強化することを再確認した」
 ASEANは首脳会議後の議長声明で、ロヒンギャ問題への関与の強化を明言した。だが「役割」の詳細には踏み込まず、加盟国ミャンマーへの配慮をにじませた。
 国連によると、ミャンマー西部ラカイン州で治安部隊とロヒンギャの武装集団が衝突した2017年8月以降、約74万人が難民となり、バングラデシュ南東部コックスバザールに逃れた。両国は昨年11月の帰還開始で合意したが、帰還後の安全を懸念した難民に希望者がいなかったことで中止され、現在に至る。
 ミャンマーは来年に総選挙を控え、アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相率いる与党国民民主連盟(NLD)は多数派仏教徒の支持を取り付けたい局面だ。ロヒンギャの帰還を急げば、一部仏教徒の支持離れは免れない。
 こうした中、6月11日にはロヒンギャ65人が乗った船がタイ南部ラウィ島に漂着。ミャンマーからマレーシアへ向かう途中、エンジンが故障のために動けなくなったもようだ。3月と4月にもマレーシア沿岸にロヒンギャが乗った船が漂着した。15年にもロヒンギャが海上から東南アジア諸国に向かった事案が問題化したが、バングラデシュ側の国境警備が強化されたことなどで再度増加傾向にあるもようだ。 ASEAN諸国には自国に難民が押し寄せることについて懸念があるが、加盟国ミャンマーへの配慮から、ミャンマーとバングラデシュに自助努力を促す姿勢に変化はなさそうだ。内政不干渉が原則のASEANが議長声明で関与強化を明言したことを評価する声もあるが、どれだけ実効性を伴った「役割」を果たせるかは不透明だ。


ロヒンギャ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ロヒンギャとは、ミャンマーのラカイン州(旧アラカン州)に住む人々である。英語や現地ミャンマーではロヒンジャ、隣国タイ王国ではロヒンヤと発音される

概要
名称ロヒンギャが、民族集団、宗教団体、政治結社のいずれであるのか判明していない現在、本頁ではロヒンギャに民族的意味合いを持つ「族」を付加しない。ロヒンギャのエスニシティを巡る問題は、今も学界で議論中にある2016年から17年の衝突以前には100万人がミャンマーに居住していたが、国際連合の推計で60万人以上が隣国バングラデシュに避難している
ミャンマーではロヒンギャの存在そのものを否定し、バングラデシュ不法移民であるとの主張から、(ベンガル)と意図的に呼ばれている。
本項では、原則としてロヒンギャと表記し、ミャンマー側見解など、他の表記が必要な時は「ベンガル人」「ベンガル系ムスリム」などカギカッコつきで表記する。
日本の外務省は、「ベンガル系イスラム教徒のロヒンギャ」と表記している。外務大臣記者会見などではロヒンギャの語は避け、「ラカイン州のムスリム」などの表現を使っている。また、国際赤十字では、「ロヒンギャ」という表現を使用しないとしている

居住
ミャンマーの民族分布。ミャンマーのロヒンギャは、バングラデシュ国境沿いの地域(黄緑色の領域)に居住するロヒンギャの居住地域は、ミャンマー連邦共和国西部にあるヤカイン州(旧アラカン州、古い発音ではラカイン州と発音)のブティーダウン(Buthidaung)とマウンドーの両市と、バングラデシュ人民共和国東部にあるチッタゴン管区コックスバザール周辺のマユ国境一帯にある。バングラデシュへ難民化したり、ミャンマーへ再帰還したりしたため、現在では居住地域が両国に跨っている。

宗教
ロヒンギャではイスラム教が主流である。

生業
主に農業で生計を営むが、商人としての交易活動も盛んである。しかし、ミャンマーでは「不法滞在者」と見なされているため、移動の自由は認められておらず、修学も、就職も厳しく制限されている。そのため、農業や日雇い以外の仕事に就くことは困難である

人口
ミャンマーにおけるロヒンギャの人口規模は80万人と推計 されるが、政府当局の統計の信憑性が低いと考えられるため正確な数値は不明である。
2017年以降のミャンマー国軍警察自警団などによる攻撃で、国外に逃れたロヒンギャは60万人を超えており、過半数がミャンマーを追われた計算になる。2017年8月28日時点でアントニオ・グテーレス国連事務総長は、8月25日以降の難民は50万で、さらに25万人が潜在的な追放の危機にあるとした

民族
チッタゴンから移住したイスラーム教徒がロヒンギャであるとの学説があるが、英領インドから英領ビルマへ移住したムスリムには下記のように4種の移民が存在しており、実際には他のグループと複雑に混じり合っているため弁別は困難である。

  ・チッタゴンからの移住者で、特に英領植民地になって以後に流入した人々。
  ・ミャウー朝時代(1430-1784年)の従者の末裔。
  ・「カマン英語版Kammaan)」と呼ばれた傭兵の末裔。
  ・1784年のビルマ併合後、強制移住させられた人々。

現在も、ラカイン州では仏教徒であるアラカン人(ラカイン人)とイスラーム教徒であるロヒンギャの間で死者の出る衝突が頻発しているが、次代を期待されるアウンサンスーチーはこの問題についての解答を留保しているため、ロヒンギャ側は不満を露わにしている。そして、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟が政権を取っても状況は変わらず、国連調査団の入国不許可を表明した
アラカン人は「仏教の守護者」を自認している。ミャンマーの支配勢力であるビルマ人と対立する一方、ムスリムであるロヒンギャへの敵意は非常に強く、アラカン人の民族政党・上座部仏教政党であるアラカン国民党(ANP)は、「ベンガル人」追放を公約している。以前に認められていた国籍や参政権などの諸権利も、アラカン人には不法に与えられたものと認識されている。こうした主張の背景には、ラカイン州の中で「ベンガル人」ムスリムのみが不当に国際社会から優遇されているという不満もある[32]。上座部仏教徒住民による、ロヒンギャ支援妨害や、支援車両への攻撃も起きている。ミャンマーに進出した実業家の小島正憲によると、ロヒンギャの一部に、取材者に金品をせびる者がいること。また生活支援に関わるNGO関係者が、優雅に暮らしていることが「地元民から嫉妬の目を向けられている」という

難民問題

歴史的経緯
先述のミャウー朝アラカン王国は15世紀前半から18世紀後半まで、現在のラカイン州にあたる地域で栄えていた。この時代、多数を占める仏教徒が少数のムスリムと共存していた。折しもムスリム商人全盛の時代であり、仏教徒の王もイスラーム教に対して融和的であった。王の臣下には従者や傭兵となったムスリムも含まれ、仏教徒とムスリムの間に宗教的対立は見られなかった。アラカン王国は1785年にコンバウン朝の攻撃により滅亡し、その後、旧アラカン王国の地は40年ほどコンバウン朝による統治がなされるが、それを嫌ったムスリムがベンガル側に逃げ、ラカイン人仏教徒も一部が避難した

だが、このような状況は19世紀に一変した。コンバウン朝は第一次英緬戦争に敗北し、1826年にラカインは割譲され英国の植民地となった。すでに英領インドとなっていたベンガル側より、コンバウン朝の支配から逃避していた人々が回帰したことに加え、新しく移住を開始する者も増え、大勢のムスリムが定住していった。このような急激な移民の流入が、北部ラカインの仏教徒とムスリムとの共存関係を崩した。1886年、コンバウン朝は第三次英緬戦争に敗北して滅亡、ビルマ全土が英領インドに編入された。これにより多数のインド系移民(印僑)が流入するに至る。印僑には商工業経営や金融業、植民地軍将兵や下級公務員としてビルマに赴き、ラングーンなどに長期滞在したり定住するものも一定数いたが、多くの場合はヒンドゥー教徒やムスリムを問わず、下層労働者としての移住者であり、3-4年ほどでインドに戻る短期移民であった。だが、ラカイン北西部に移民したムスリムは、同じ下層労働者であっても定住移民となって土着化し、仏教徒との軋轢を強めていった。」

このような流れのなか、20世紀初頭からインド系移民への排斥感情が強まり、1939年、英領ビルマでは、ビルマ人仏教徒女性を保護するという名目で、外国人との通婚にさまざまな制限を課す法律が植民地議会を通過して施行され、実質的にビルマ人仏教徒女性とインド系ムスリム男性の結婚を制限しようとした。ほぼ同時に、結婚によって仏教徒からムスリムに改宗した(させられた)ビルマ人女性が夫へ離婚申し出をおこなう権利を保持していることを認める法律も、施行された。また第二次世界大戦中、日本軍が英軍を放逐しビルマを占領すると、日本軍はラカイン人仏教徒の一部に対する武装化を行い、仏教徒の一部がラカイン奪還を目指す英軍との戦いに参加することになった。これに対して英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化するとラカインに侵入させ、日本軍との戦闘に利用しようとした。しかし、現実の戦闘はムスリムと仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態となり、ラカインにおける両教徒の対立は取り返しのつかない地点にまで至る。特に、ビルマの戦いにおける1942年の戦闘では、英軍側のムスリムによって2万人以上のラカイン人が殺されたといわれ、今日に至るまで、ミャンマー国内における反ロヒンギャの強い動機となっている

1948年1月、ビルマは共和制の連邦国家として英国からの独立を達成した。しかし、ビルマは独立直後から、民族対立・宗教対立・イデオロギー対立などにみまわれて、混乱は収束することなくそのまま内戦に突入した(ビルマ内戦)。ラカイン州も例外ではなく、当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接する北西部は、1950年代初頭まで中央政府の力が充分に及ばない地域として残された。東パキスタンで食糧不足に苦しんだベンガル人(ムスリム)がラカインに流入し、そのことが仏教徒との対立をさらに強めた。流入したムスリムのなかには、1960年代初頭に政府軍によって鎮圧された、ムジャヒディンを名乗るパキスタン人の率いた武装反乱勢力も存在した。この混乱期において、ラカイン北西部に住むムスリムの「総称」として「名乗り」を挙げたのがロヒンギャだった。 現在、ロヒンギャの名前を付した文書として最も古く遡れるものは、1950年に彼らがウー・ヌ首相に宛てた公式の手紙である。これ以前にもロヒンギャ名が使われた可能性は否定されていないが、使用したとする確実な史料はみつかっていない。宗主国英国側の行政文書には、チッタゴン人(Chittagonians)という表記が圧倒的に多く、ロヒンギャないしはそれに近い発音(スペル)の名称はいっさい登場しない

ビルマ人の歴史学者によれば、アラカン王国を形成していた人々が代々継承してきた農地が、英領時代に植民地政策のひとつである「ザミーンダール(またはザミーンダーリー)制度」によって奪われ、チッタゴンからのベンガル系イスラーム教徒の労働移民にあてがわれたという。この頃より、「アラカン仏教徒」対「移民イスラーム教徒」という対立構造が、この国境地帯で熟成していったと説明している。

日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、失地回復したアラカン人はビルマ軍に協力し、ロヒンギャの迫害と追放を開始した。1982年市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪された。そのため、ロヒンギャの多くは無国籍者である。市民権法はロヒンギャに限らず、1948年1月の独立時点で、ビルマ国内に居住していない、あるいは居住が確認されていないとした者の国籍を全て剥奪した法律だった

現在のミャンマーは、新規の帰化についても原則として政府の認めた135民族に限っているため、ロヒンギャが改めてミャンマーへの帰化を申請しても、認められることは無い。ただし、みずからロヒンギャであることを否定し、「ベンガル人」であることを認めた者については、帰化が認められた例がある。根本敬によると、ミャンマーではリベラル派など「ベンガル人」への国籍付与を容認する論者であっても、「不法移民のベンガル人」が、ロヒンギャを名乗り、ミャンマー土着民族を「騙る」ことを止めるならば考慮してもよいという見解である。このように、ロヒンギャの存在自体の否定が、ミャンマー国内では主流となっている。

一方で参政権は、公的には無国籍であっても行使できた時期もあったが、2015年の総選挙では名実ともに剥奪された
なお、ロヒンギャのように国籍を剥奪された住民には、仮の身分証明書として「臨時証明書」が発行された。2015年6月1日より、これに代わって「帰化権審査カード」が交付されている。1982年の市民権法に基づいて再審査を行うという意味だが、前述の理由でロヒンギャのミャンマー国籍は認められない。

1988年、ロヒンギャがアウンサンスーチーらの民主化運動を支持したため、軍事政権はアラカン州(現ラカイン州)のマユ国境地帯に軍隊を派遣し、財産は差し押さえられ、インフラ建設の強制労働に従事させるなど、ロヒンギャに対して強烈な弾圧を行った。ネウィン政権下では「ナーガミン作戦」が決行され、約30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュ領に亡命したが、国際的な救援活動が届かず1万人ものロヒンギャが死亡したとされる。結果、1991年 - 1992年と1996年 - 1997年の二度、大規模な数のロヒンギャが再び国境を超えてバングラデシュへ流出して難民化したが、同国政府はこれを歓迎せず、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の仲介事業によってミャンマーに再帰還させられている。
2017年現在、ロヒンギャの国外流出と難民化の問題は解決していない。

2012年以降の現状
UNHCRは、2012年からの5年間で、ミャンマーから逃れたロヒンギャは16万8千人以上と推計している
2012年6月、ロヒンギャ・ムスリムとアラカン・仏教徒の大規模な衝突が起き、200人以上が殺害された。そのほとんどがロヒンギャであった。さらに13万~14万人のロヒンギャが住処を逐われ[46]、政府は避難民キャンプに幽閉した。ミャンマー側は、「ベンガル・ムスリム」による仏教徒への強姦や改宗強要が諸悪の根源と主張している

一般に、ミャンマーの多数派である仏教徒から迫害を受けているため、世界各地へ亡命していると説明され、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)は関係諸国に保護を求めている。実際に、仏教過激派組織・969運動を中心に、「ベンガル人」の国外追放が主張され、ロヒンギャ排斥の暴動もしばしば起こっている。ミャンマーの軍総司令官は、ロヒンギャはミャンマーの民族ではなくバングラデシュからの不法移民であると表明[50]する一方、バングラデシュでも難民や不法移民と扱われている。また、タイやマレーシアなどの周辺諸国はロヒンギャを経済移民視しており、難民認定しないことで一致している。このため、母国での迫害を逃れて、国外へと脱出するロヒンギャの人々は周辺国でも不法入国者として罰せられることが多い。

バングラデシュ南東部にも暮らす約20万人のロヒンギャのうち10~20%は、劣悪な仮定住キャンプ(政府が公認するのはナラパヤとクトゥパロンの2箇所)の環境下にあると報告されている(Human Rights Watch, 2009)。

タイでも、海路で避難したロヒンギャは違法な「移住労働者」、またはパタニ連合解放組織などの南部深南部)のテロに繋がる危険な「ムスリム」として、強制送還が行われている。タイでは、ロヒンギャの人身売買収容所が存在し、ロヒンギャの人身売買が行われている。
さらには、タイの入管当局者と人身売買業者が共謀している事例もある。そもそもタイは難民の地位に関する条約に加盟していないことから、難民を認定し庇護する法律が国内に存在していない。このためロヒンギャは、難民ではなく不法入国者として扱われている
マレーシアでは、UNHCRによると、2012年から2015年にかけて、推定11万2500人が、命を危険にさらして密輸船で入国した
長年ロヒンギャは、ミャンマーとその周辺国から見捨てられた状態であったが、2013年5月20日、テイン・セイン大統領は、バラク・オバマ大統領との会談において、直接ロヒンギャへの言及はなかったものの、「ミャンマー国内のイスラーム教」という表現を用い、民族間対立を解消すると表明した。一方、ラカイン州政府はロヒンギャ・ムスリムを対象に、2人までの産児制限の法制化を打ち出したが、国際社会の反発を受け、施行されたかどうかは不透明である

2015年には、ミャンマーから海路で流出するロヒンギャが激増したため、アメリカ国務省は周辺諸国に受け入れを呼びかけている。しかし、バングラデシュ、マレーシア、インドネシア、タイなどの周辺国は、前述のとおり経済移民であるという立場を崩さず、受入を拒んでいる
1月16日、969運動指導者のアシン・ウィラトゥら数百人の僧が国連人権高等弁務官事務所・国連特別報告者である李亮喜のミャンマー訪問を非難するデモを行った。国連に、ロヒンギャへの市民権付与を勧告されたことへの反発が理由である。デモでは国連を「イスラムと共に立つ」と揶揄し、「Kick Rohin-liars out("嘘吐きロヒン"をキック)」「ベンガリ(バングラデシュ不法移民)が偽名を使用するな」とロヒンギャを中傷した
1月21日、ウィラトゥは集会で李亮喜を「肩書があるからといって尊敬されるとは思うな。我々にとってはただの売春婦」と非難した国際連合人権高等弁務官事務所(OHCHR)のザイド・フセイン高等弁務官は声明で、「性差別主義で侮辱的な言動。到底受け入れられない」と抗議した。しかしウィラトゥは悪びれず、フランス通信社の取材に「もし、私がもっと厳しい単語を見つけられれば、それを使っていただろう。それは、彼女が我が国にしたこと(ロヒンギャへの市民権付与要求)とは比べものにならない」と主張した
5月14日にはミャンマー国会で産児制限法が成立し、事実上ロヒンギャ・ムスリムを標的とした法制化が行われた
5月27日、ミャンマーの仏教徒らは、国際社会の批判に反発し、ロヒンギャの国外追放を主張するデモを行った
5月29日、タイ・バンコクでロヒンギャ対策会議が行われた。ミャンマーや密航船が漂着するインドネシア、マレーシア、タイなど関係17ヶ国に加え、日本、アメリカ合衆国、UNHCR、国際移住機関(IOM)などがオブザーバー参加した。UNHCRのターク高等弁務官補は「ミャンマーが責任を負うべき問題であり、究極的には(ロヒンギャらに)市民権を与えることだ」とミャンマーを批判したが、ミャンマー側はロヒンギャをバングラデシュからの不法移民とみなす従来の立場を強調した
11月8日、民政移管後初となるミャンマー総選挙が行われた。前回2010年の総選挙で、ロヒンギャが暫定的に認められていた参政権は剥奪されていた。全国的には国民民主連盟が大勝したが、ラカイン州では反「ベンガル人」を掲げるアラカン国民党が国民院(上院)では12議席中10議席(+4)、代議院(下院)では17議席中12議席(+4)と大勝した。一方、ロヒンギャの議員3人は立候補そのものができなかった。

こうした国際的な孤立から、ロヒンギャにはイスラーム過激派組織による勧誘に応じる者が少なくないとみられている。インドのシンクタンク、防衛研究分析研究所(ISDA)のスムルティ・パタナイク上席研究員は、過激派集団とされる「ロヒンギャ連帯機構」(RSO)は、バングラデシュの過激派、ハルカット・ウル・ジハディ・イスラミア(HuJI)や他の過激派組織と連携しているという見解を示した。ジャマートゥル・ムジャヒディン・バングラデシュ(JMB)、パキスタンのラシュカレトイバ(LeT)[66]などに勧誘されているという。 またISIL(イスラーム国)の勧誘を受け、家族ぐるみでISILに参加するロヒンギャも増えて来ているという

2016年10月からの掃討事件

2016年10月9日、ラカイン州で武装集団の襲撃があり、警察官9人が殺害された。当局は実行犯8人を殺害し、2人を逮捕した。当局は記者会見で、犯人はロヒンギャを名乗っていたと述べ、ラカイン州政府幹部は、ロヒンギャ連隊機構の犯行との見方を示した。ミャンマー軍は過激派掃討作戦を口実としてロヒンギャを攻撃した。10月14日、大統領府は、犯行はパキスタンの過激派の支援を受けた「アカ・ムル・ムジャヒディン」による物と判明したと声明を出した

複数のロヒンギャ女性によると、軍により住民数十名が銃で脅され、強姦された。ラカイン州のAung Win MP州議は、「ベンガル人」は兵士がレイプするにはあまりにも「汚らわしい」と放言し、またロヒンギャの住居を焼き討ちした疑惑については、「ベンガル人」武装勢力が自ら火を放ったと主張した。軍は国連や各種団体、海外報道陣をラカイン州から締め出している。ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、衛星写真を解析した結果、12月9日までに約1500棟が焼かれており、それはロヒンギャの武装勢力や住民では無く、「ビルマ」軍の侵攻ルートと一致するという。
11月17日、ミャンマー政府によると、11月15日より、ラカイン州の治安維持のため、新しい訓練を開始したと発表した。4ヶ月の訓練後、州全体の治安維持に当たるという。国境警備隊のルウィンは、「ラカインの国民一人一人が、地元の武装警察の一員になれる機会がある」と述べた

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のジョン・マキシックは、ミャンマーによって「民族浄化をしようとしている」と非難した。ミャンマー大統領府のザウ・ハティ報道官は、マキシックは「単なる疑惑で物を言っている」として、「国連当局者としての立場や倫理を維持すべきだ」と反論した。

2017年前半の展開

2017年1月19日イスラム諸国機構(OIC)はマレーシアで緊急外相会合を開き、ミャンマーに事態収束を求める共同声明と難民への寄付を表明した。2月3日、UNHCRはバングラデシュに逃れたロヒンギャ難民からの聞き取り調査で、昨年10月以来、ロヒンギャ数百人以上が死亡した公算が大きいとする報告書を発表した。報告書は、「人道に対する罪」の可能性が極めて高いとミャンマーを非難した。難民となったロヒンギャは9万人に上ると推定された。別の国連機関の幹部は、「恐らく過小評価」「氷山の一角」として、死者は1000人を超える可能性が高いと述べた

2月22日、ミャンマーは、武装勢力を支援した被疑で逮捕した2人の死を隠蔽していたことを認めた
3月24日、国際連合人権理事会は、ラカイン州などでの人権侵害疑惑の実態解明に向け、独立した国際調査団を同国に早急に派遣する内容の決議を採択した。ミャンマー国家顧問府のゾー・テイ局長はFacebookなどで、調査団受入の拒否を投稿した
4月6日アウンサンスーチー国家顧問は、英国放送協会の取材に「民族浄化が行われているとは思わない。今起きていることを言い表すのに民族浄化は表現が強すぎる」「ミャンマー軍がしたいようにふるまえるわけではない」と主張した。また、「戻ってくるならば、彼らは危害を加えられない。決めるのは彼らだ」と、ロヒンギャを受け入れる旨を述べた
5月2日、アウンサンスーチーは欧州連合(EU)のモゲリーニ外交安全保障上級代表と会談し、国際調査団の受入拒否を表明した。外国メディアの取材制限についても、「私の村で(治安機関の)残虐行為はなかった」と取材に答えたロヒンギャが、武装勢力に当局の協力者とみなされ斬首された事件があったと述べ、理解を求めた6月13日、ミャンマー国連常駐・人道調整官のレナタ・ロック・デサリエンが辞職した。ミャンマー政府との関係を重視し、ロヒンギャ問題を避けて通ったことが問題視されたという
6月22日、ミャンマー政府は、「テロリスト訓練キャンプ」を発見し、武装した3人の男性を殺害したと発表した。それによると、「アカ・ムル・ムジャヒディン」は、今年3月に他の組織と合流して「アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)」を結成。「テロリスト」は村の長老ら34人を殺害し、22人を拉致したと発表した。ミャンマー政府は、「アラカン・ロヒンギャ救世軍」はパキスタンやサウジアラビアの支援を受けていると主張している。ARSA指導者のアタウラーは、ARSAの結成は2012年3月としている。また、タイ王国の安全保障アナリストであるアンソニー・デイビスは、ARSAは「国際的なイスラム教聖戦主義やISILアルカイーダと、何も実質的に繋がっていない」との見解を述べた
6月30日ミャンマー連邦議会で、同国の外務副大臣は「ベンガル人」問題について、「アウンサンスーチー氏は、我々は国連の調査団に協力しないと言っている。各国の大使館に調査団員には査証を出さないよう命じる」と答弁した
7月7日、OHCHRは李亮喜・国連特別報告者のミャンマー訪問を発表した。ミャンマーは、かねてより受入を拒否している独立(国際)調査団の活動を行わないことを条件に、入国を認めたと発表した
7月9日、ミャンマー政府によると、ロヒンギャ武装勢力とミャンマー治安部隊の戦闘があり、武装勢力側2人が死亡、2人を逮捕した。家屋の中から砲撃があり、応戦したという
7月21日、10日よりミャンマー入りしていた国連の李亮喜はヤンゴンで記者会見した。李は政府による調査の制限や圧力があったと述べ、「受け入れられない」と批判した

2017年8月からの「掃討作戦」

2017年内の動向
8月6日、ミャンマー政府は「(ロヒンギャへの)人道に対する罪や民族浄化にあたる事実は確認されなかった」と疑惑を否定する、政府調査委員会の最終報告書を発表した。ただし、ミャンマー政府は国連調査団や外国報道機関の現地訪問を拒否・制限してい。
8月24日、ミャンマー政府が設置した特別諮問委員会(委員長=コフィー・アナン国際連合事務総長)は報告書を公表。「ミャンマーは世界最多の無国籍者を抱える」と問題の存在を認め、国籍法の改正によるロヒンギャへの国籍付与などを勧告した
8月25日、ミャンマー国境で武装組織が駐在所20箇所以上を襲撃し、アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)が犯行声明を出した。ミャンマー政府情報省発行の『ニューライト・オブ・ミャンマー』によると、「過激派テロリスト」77人と、治安部隊12人がこの戦闘で死亡した
8月29日現在で、双方で100人を超える死者が出た
8月30日、複数のロヒンギャ避難民によると、トゥラ・トリ村がミャンマー国軍の襲撃を受け、住民が虐殺された(トゥラ・トリ大虐殺[100][101][102]。ある避難民は約500人が殺害されたと証言したが、実数ははっきりしていない。
8月31日、『ニューライト・オブ・ミャンマー』は、政府筋の話として、ARSAメンバー150人が治安部隊を襲撃し、1人殺害され、4人を逮捕したと報じた。同記事によると、ARSAはヒンドゥー教徒を拘束し、治安部隊によって500人以上のヒンドゥー教徒が避難した。これとは別に、警察によって300人が、また別の村のヒンドゥー教徒200人が避難したという
9月1日までに、ミャンマー軍は8月25日からの戦闘で、「ベンガル人」を399人殺害したと発表した。このうち、370人は「アラカン・ロヒンギャ救世軍」など武装勢力としている。一方、政府側は警官11人と国軍兵士2人、政府職員2人の計15人が死亡。このほか、民間人14人が犠牲になったという[105]。また、ミャンマー政府は「ベンガル人」住居2700軒以上が、武装勢力によって放火されたと発表した。しかし、AP通信などは、(ミャンマー)治安部隊による放火というロヒンギャの証言を報じた。また、「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は、衛星画像の分析で、ロヒンギャの村の一つで、ほぼ全域の700軒が燃やされ、仏教徒の村では被害を確認できなかったと発表した[106]。同日、ミャンマー国軍のミンアウンフライン最高司令官は式典で、「ラカイン州で1942年の危機を再び起こさせはしない」と主張した。これは、太平洋戦争におけるビルマの戦いで、「ベンガル人」がイギリスに味方したことを指す。その上で、軍の正当性を主張し、「ベンガル人のテロリスト」が「宗教を扇動や暴力的な攻撃の道具にし」たと非難した
9月4日、ミャンマー政府情報委員会は、ARSAが新たに660軒を放火したと発表した
9月13日、国連のグテーレス事務総長は、記者に「これは民族浄化だと考えるか」と問われ、「ロヒンギャ人口の1/3が国外に逃れている。これを形容するのにより適した表現がほかにあるだろうか」と答えた
9月14日、アムネスティ・インターナショナルは衛星写真から、8月25日以降、計画的にロヒンギャの居住地区や村を狙って放火が行われ、数万人が家を失ったとの分析結果を出した。過去4年間、同地で同様の火災は見られなかった。国境沿いで数十人から行った聞き取り調査によると、ミャンマー国軍、警察、自警団がロヒンギャの住居を襲撃し、放火や略奪、殺人を行った。ある村ではガソリンを撒き、ロケット砲で焼き払った。また、一部地域では、役人が事前に焼き討ちを通告していた。アムネスティ・インターナショナルのティラナ・ハッサンは、焼き討ちは「ベンガル人」の犯行とするミャンマーの主張を「露骨な嘘」と非難し、「私たちの調査によると、自警隊と一緒にロヒンギャの家を焼いた責任は、自国(ミャンマー)の治安部隊が負っていることがはっきりしている」と主張した。同日、ミンアウンフラインはFacebookで、「過激派のベンガル人」は「ミャンマーでは決して民族集団では無かった、(にもかかわらず)ロヒンギャとしての認知を求めている。ベンガル人問題は国家的な問題であり、私たちは真実を確立するために団結する必要がある」と改めて主張し、「ミャンマーの全ての市民[注釈 7]は、愛国心で連帯し、メディアは団結すべきである」と述べた。同日、『真相深入り!虎ノ門ニュース』で有本香は、ロヒンギャ迫害とされる報道は、BBCなど欧米・韓国によるプロパガンダと主張した。有本は、「ベンガル人」はイギリスの手先として住み着いた侵略者であり、他の(ミャンマー政府に公認された)少数民族も、「ベンガル人」を同志と認めていない。「ベンガル人」武装勢力の背後にはタリバンが付いていると主張した。また、井本勝幸やミャンマーメディアの見解として、治安部隊は「師団レベルですらない」数に過ぎず、「ベンガル人」難民は治安部隊による迫害ではなく、第三者による煽動で生まれたと主張した。その上で、ミャンマーが「中国に取り込まれないよう」、ミャンマーを支持すべきと主張した
9月19日中国の王毅外相は国連のグテーレス事務総長に対し、ミャンマー政府による安全保障上の努力を「理解し、支持する」と表明した
9月20日夜、ラカイン州の州都シットウェーの港で、ロヒンギャ避難民への支援物資を船に載せようとしていた国際赤十字のスタッフらが、約300人の仏教徒に火炎瓶や石を投げつけられ、間に入った警察官数人が負傷した。ミャンマー政府によると、積荷は港に留め置かれたままという
9月21日、ミャンマー国家顧問省の報道官は、朝日新聞の取材に「(アウンサンスーチーは)調査団を受け入れるとは言っていない。現地の平和と安定に調査団は逆効果だ」と述べた
9月24日、在韓ミャンマー人約700人が、ソウルのUNHCR韓国事務所前で反ロヒンギャ集会を開いた。
9月27日AP通信は、ロヒンギャが追われた村で、治安部隊や役人らがロヒンギャの家畜を盗み出し、相場の1/4で(非ロヒンギャの)住民や商人に売り払ったと報じた。同記事によると、ミャンマーに残っているロヒンギャは50万人を割っている。
9月28日、国連安全保障理事会は、ロヒンギャ迫害について公開会合を開いた。グテーレス国連事務総長は、8月25日の武力衝突以来の難民が、少なくとも50万人に達したと述べ、さらに25万人が潜在的に家を追われる可能性があると指摘した。その上で、ミャンマー政府に「暴力の即時停止と人道支援の許可、難民の安全な帰還という3つの迅速な対応を求める」とした。米国のヘイリー国連大使は「ミャンマー当局は残忍で、少数民族を粛清するキャンペーンを続けている」と強く非難した。一方、ミャンマーのタウン・トゥン国家安全保障顧問は、問題は「宗教ではなくテロによるもの」「民族浄化やジェノサイドは起きていない」と反論した
10月11日、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は「ロヒンギャを国外に追放するだけでなく、帰還を阻むため、ミャンマー国軍が意図的に家屋や田畑を破壊・放火した」とする調査報告書を公表した。また従来、ミャンマー国軍側は、8月25日の武装組織による攻撃への反撃と主張していたが、「掃討作戦」は8月の初めから始まっていた可能性を指摘した
10月16日、ミンアウンフライン最高司令官はフェルトマン国連事務次長(政治局長)との会談で、改めて「「ベンガル人」はミャンマーの民族ではない。1942年に(「ベンガル人」によって)2万人以上のラカイン人が殺されたことこそが真の歴史であり、隠すことはできない」と主張した。そして、ミャンマー軍は「ベンガル人」による不法占拠や「ベンガル人」テロリストに合法的に対処したまでとして、(「ベンガル人」では無い)地元民のために安全対策を取る必要があると主張した。さらに、国連の人道支援について、「ベンガル人」テロリストに支援物資が流れているという疑念があり、だからラカイン人は国連の支援に反対している。よって、支援を行うならミャンマーの政府機関との連携が必要だと主張した
10月23日、国連欧州本部で開催された支援国会合において、在ジュネーブ国際機関日本政府代表部の志野光子大使は、ロヒンギャ難民への日本政府による緊急支援を1600万ドルまで拡大することを表明した
11月13日、ミャンマー国軍は、「ベンガル人」への迫害は「していなかった」。殺害、放火、略奪、強姦などの迫害とされるものは全て「テロリストによるプロパガンダ」とする調査結果を発表した。報告書は、国軍が1ヶ月にわたって「ベンガル人」3217人、ヒンドゥー教徒2157人などに面会調査した結果という。また、「ベンガル人のテロリスト」は6200人~1万人にのぼり、「治安部隊よりも多い」。「ベンガル人のテロリスト」は治安部隊への攻撃を始め、自作自演で放火したり、ヒンドゥー教徒ら105人を拉致したとの見解を示した。
11月16日、国際連合は総会第3委員会(人権)でミャンマー政府に対し、軍事力行使の停止や、国連などによる制限のない人道支援を認めるよう求めた決議案を賛成135、反対10、棄権26の賛成多数で採択した[124]。反対はミャンマー、中国、ロシア、ラオス、フィリピン、ベトナム、カンボジア、シリア、ベラルーシ、ジンバブエ。棄権は日本、インド、ネパール、スリランカ、ブータン、タイ、シンガポールなどであった[125]。同日、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、「ビルマ」治安部隊による大規模なレイプが行われていると声明を出した。バングラデシュに逃れたロヒンギャ女性52人、支援者など19人への聞き取り調査によると、強姦の加害者はほぼ全員が軍人で、ラカイン人も共謀して性的嫌がらせなどを行った。また、兵士が幼い我が子を木に叩き付けて殺したり、子供や老親を燃えさかる家に投げ込み焼き殺したり、夫を銃殺したなどの証言が寄せられた。
12月5日、国連人権理事会で、ミャンマーによるロヒンギャへの「組織的かつ大規模な人権侵害」を「強く非難」し、ミャンマーに独立調査団への協力を呼びかける内容の決議が賛成33、反対3、棄権9で採択された。反対は中国、フィリピン、ブルンジ。棄権は日本、インド、コンゴ、エクアドル、エチオピア、ケニア、モンゴル、南アフリカ、ベネズエラであった
12月7日、『ニューライト・オブ・ミャンマー』は、人権理事会の決議を非難するウ・ヒテン・リン常任代表者の声明を報じた。声明の主な内容は以下の通り。

  ・この決議案は分裂、対立を引き起こす。
  ・特定の信仰に属する、特定のグループに焦点を当てている。人権は人種、宗教、性別にかかわらず、世界中のすべての人々にとって必要。
  ・一部にミャンマーの主権を侵害し、十分な根拠の無い内容がある。
  ・ARSAの攻撃を非難していない。

12月11日、AP通信はバングラデシュのロヒンギャ難民29人(全て女性)にインタビューした結果、ミャンマー治安部隊による強姦は「徹底的で組織的」に行われたと報じた。ミャンマー当局は取材に応じなかったが、これまで強姦や虐殺などの指摘を全て虚報と主張している
12月13日、ミャンマーは、ラカイン州で取材していたロイターの記者2人と、協力者の警察官2人を逮捕した。被疑はイギリス植民地時代に制定された国家機密法違反で、ミャンマー情報省は「(記者は)海外メディアと共有する目的で情報を不正入手した」と声明を出した。
12月17日、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、衛星画像の分析の結果、「ビルマ」治安部隊によるロヒンギャ集落への放火が、12月になっても続いていると発表した[135]。それによると、10月以降に40の村が被災し、「ビルマ」とバングラデシュの合意が成立した11月23日以降に限っても、4の村が被災していた。その上で、「ビルマ」政府が国際社会に安全な難民帰還を約束していることに対して「宣伝工作にすぎない」と批判した。
12月18日、ゼイド・ラアド・アル・フセイン国連人権高等弁務官はフランス通信の取材に対し、ロヒンギャへの弾圧は「ジェノサイド(大量虐殺)」の可能性があると述べた。武装勢力に対する適切な取り締まりを主張するミャンマー政府に対し、ゼイドは2016年の時点で30万人のロヒンギャがバングラデシュに逃れていたことを指摘し、「ミャンマー政府の主張とは合致しないのではないか」との見解を示した。同日、フセイン国連人権高等弁務官はBBCの取材に対し、ミャンマー側の行動は「ものすごくよく練られて計画されたものなのではないか、と我々は感じ始めた」と述べた。またBBCは、ロヒンギャ難民らの証言として、ミャンマーが昨年ラカイン州で組織した武装警察が、ロヒンギャ集落襲撃の実行犯になったと報じた
12月19日、世界保健機関(WHO)は、バングラデシュのロヒンギャ難民キャンプでジフテリアが流行しており、死者が21人に達したと発表した[139]。WHOは12月17日より、2度目の予防接種を開始している。
12月20日、国連によると、ミャンマーは李亮喜・国連特別報告者の入国拒否と非協力を通告した。李は声明で「ミャンマー政府の決定に失望している。大変なことが起きているに違いない」と非難した。ミャンマーは、李が7月の訪緬で「以前の(軍事)政権の手法が今も用いられている」などと批判したことが、「偏っており不公正だ」として、協力取りやめの理由に挙げた。
12月21日、アメリカ財務省は、大統領令に基づき、ミャンマー国軍のマウンマウンソー少将個人に対し、国内資産凍結などの制裁を発表した。証言によると、8月の「掃討作戦」でマウンマウンソーの率いた治安部隊が、ロヒンギャを無差別に殺害したほか、集落への放火を行ったという
12月24日、国連総会で、イスラム協力機構(OIC)の提出した、ミャンマー政府にロヒンギャ難民の全帰還や完全な市民権の付与、援助関係者の接触容認などを求める決議が賛成122、反対10、棄権24で採択された。反対はミャンマー、中国、ロシア、ベラルーシ、カンボジア、ベトナム、ラオス、フィリピン、シリア、ジンバブエ。棄権は日本、インド、タイ、ネパール、ブータン、シンガポール、パプアニューギニア、カメルーン、南アフリカ、ドミニカ共和国、ベネズエラなどであった。
12月14日、国境なき医師団は8月25日から9月24日までの1ヶ月間に、少なくとも9000人のロヒンギャが死亡し、そのうちの71.7%、6700人が殺害されたとする調査結果を発表した。難民2434世帯・11426人への聞き取り調査からの推計で、死因の69%は銃撃、9%は焼死、5%は殴打によるという。5歳未満の子どもでは、59%超が銃撃、15%が自宅で焼死し、7%が殴打、2%は地雷が死因という。また、ミャンマーから脱出できなかった世帯は調査対象に含まれておらず、家ごと焼き殺され一家全滅した例もあるとして、実際の死亡者はさらに上回っている可能性が高いとした。ミャンマー政府は、国境なき医師団の報告について「何もコメントすることはない」とした。ミャンマー政府は、全体の死者は432人、内訳は「ベンガル人テロリスト」387人、治安部隊15人、市民は「ベンガル人」7人、ヒンドゥー教徒7人、ラカイン人仏教徒16人の計30人としている

2018年内の動向
2018年5月22日、アムネスティ・インターナショナルは、ARSAが最大で99人のヒンドゥー教徒を虐殺したとする報告書を発表した。ARSAは報告書の内容を否定している

8月27日、国際連合人権理事会(UNHRC)は、ミャンマー調査団の報告書を発表した。それによると、「ラカイン州のイスラム教徒に人権はない」と指摘し、2017年からの掃討作戦は「即時で、残忍で、(武装勢力の脅威に対し)不均衡」であり、少なくとも1万人が殺害され、ロヒンギャ居住地の4割が焼き払われたとした。また、治安部隊や他民族が、ロヒンギャ居住地への「再定住」を進めていると指摘した。ロヒンギャに対する差別発言、ヘイトスピーチへのミャンマー政府の対応は不十分であり、オンラインには差別発言が蔓延した。ソーシャルメディアでは、Facebookが憎悪の拡散に使われ、Facebook側の対策は後手に回った。一方、ARSAは、数十人のラカイン人、最大で100人のヒンドゥー教徒を殺害した可能性があるとした。総体として、ミャンマー治安部隊の行動はARSAを対象としたものではなく、「ベンガル人」全体を標的としたジェノサイドであり、人道に対する罪であり、国際刑事裁判所あるいは国際特別刑事裁判所への訴追が必要と結論付けた。ミャンマー政府のザウ・ハティ報道官は、1.政府は人権侵害を厳しく取り締まっており、また調査団自体を入国を含めて認めていないので、人権理事会の決議にも同意しない。 2.国連や他の国際機関の主張は虚偽であり、それを立証するために独立した調査委員会を組織した。また訴訟も検討している。 3.政府は安全保障と法の支配・国民の利益を守るためにサイバー法の制定を努力すべきである。として、報告書を全て虚偽とする見解を示した。また報告書で名指しされたFacebookは、ミンアウンフラインら軍幹部18人のアカウントを削除したが、ミャンマー国内で激しい反発を受け、ザウ・ハティ報道官も「なぜ削除したのか多くの疑問がある」と言及した

8月28日、国連安保理においてミャンマー大使は、ARSAが「250人以上の非ムスリム少数民族および、100人以上のヒンドゥー教徒を虐殺」したと主張し、人道的問題は全てARSAおよび、それを支援した外国のテロ組織に責任があるとする見解を示した。その上で、「(「ベンガル人」の)無実の民間人」難民の帰還については計画を進めており、「ミャンマー政府と人民」による遂行を強調した上で、国際社会の協力を求めた。
8月31日、ロイターは、ミャンマー軍広報部が7月に出版した『ミャンマー政治と国軍(原題:Myanmar Politics and the Tatmadaw: Part I)』で写真の捏造があると報じた。同書は「ベンガル人」の悪事をアピールする内容であった。キャプションに「ベンガル人は無残にも地元の民族を殺した」とある写真は、実際は1971年、バングラデシュのダッカで、パキスタン側の人物がベンガル人殺害した写真だった。また、キャプションに「ベンガル人は英国によって(ミャンマーに)侵入した」とある写真は、実際は1996年ルワンダ虐殺に際したフツ族難民のカラー写真を、白黒に加工して古びて見せたものだった[151]。版元は9月4日までに、「間違った写真が印刷されていた」ことを認め、謝罪した
2016年10月より、新たに難民となりバングラデシュに逃れたロヒンギャは、2017年6月15日までに7万5千人に達した。さらに、8月25日の武力衝突から2018年8月までの間だけで、72万5千人に達した。以前の難民を含めると、90万人以上が難民となっている。

バングラデシュの対応
バングラデシュは、ミャンマーに強制送還を要求しているが、ロヒンギャを自国民とは認めないミャンマー政府は、これを拒んでいる。バングラデシュは、ロヒンギャをミャンマーへの強制送還前提でガンジス川河口の無人島ブハシャンチャ―ル島(テンガルチャール島)に隔離しようとして、批判を受けた。バングラデシュのアブル・ハッサン・マームード・アリ外相は、6月15日に国会で「ラカインの人々」が犯罪を働き、「国家安全保障上の懸念」となっていると答弁した
10月5日、バングラデシュは8月以降の大量の難民流入を受け、80万人超を収容できる巨大キャンプの設置を発表した。完成次第、すべての難民を移す方針である

10月24日、バングラデシュのカーン内相は、ミャンマーのチョー・スエ内相と会談し、ロヒンギャのミャンマー帰還手続きなどを協議した。ミャンマー側は、自国の記録照合で住民確認が必要と主張し、受入は1日100~150人程度としたが、早期帰還を求めるバングラデシュとは、条件が折り合わなかった。
11月23日、バングラデシュとミャンマーはロヒンギャのミャンマー帰還について合意書に署名した。しかし、帰還の具体的手続きや期限は合意に至らず、さらに交渉を続けることになった

バングラデシュは、9月より「治安上の理由」から難民用の身分証発行を始めた。しかし「ロヒンギャ」の明記がなく、「ミャンマー国民の登録証」と表記されていることに反発し、受け取りを拒否するロヒンギャ難民が相次いでいるという

日本政府の対応
2017年8月4日、日本財団の招きで来日したミンアウンフライン軍司令官が、安倍晋三首相を表敬訪問した。日緬防衛協力などを会談し、「国民和解や少数民族支援」にも触れたが、ロヒンギャについて特段の言及は無かった。
8月29日、外務報道官は武装勢力による治安部隊への襲撃を「強く非難」した。その一方、アナン委員長らによるラカイン州助言委員会の最終報告書の勧告履行へのミャンマー政府の取り組みを「支援」すると表明した。
9月19日、河野太郎外相は、改めて武装勢力による襲撃を「強く非難」した。一方で人道状況や住民殺害の疑惑、この時点で40万人にのぼる難民流出に「深刻な懸念」を表明した

11月14日、安倍首相はアウンサンスーチーと会談し、「深刻な懸念」を伝え、治安回復や避難民帰還の実現を求めた
11月16日、日本政府はバングラデシュへの避難民支援として、1500万ドル(今年度支出レートで16億5000万円)の緊急資金協力を決定した。
11月18日より11月20日にかけ、河野外相はバングラデシュを訪問した。11月19日、河野外相はバングラデシュのアブル・ハッサン・マームード・アリ外相と会談し、バングラデシュ政府の難民受入を高く評価すると共に、日本政府として支援をして行くことを表明した[169]。同日、河野外相はガブリエル・ドイツ副首相兼外相、モゲリーニEU外務・安全保障政策上級代表、ヴァルストローム・スウェーデン外務大臣と共にロヒンギャ避難民キャンプを視察した[170]。また、河野は『デイリー・スター』紙への取材に対し、1.武装勢力を「強く非難」し、2.ラカイン州の人権状況や60万に上る難民流出などを「深刻に懸念」し、3.バングラデシュの取り組みに対し、合計1860万ドルの支援を行うことを改めて述べた。
11月20日中根一幸外務副大臣は、ミンアウンフラインと会談した。中根は、ミャンマー国軍の人権侵害疑惑について、必要があれば処罰を行うよう求めた。ミンアウンフラインは、「バングラデシュに流出した避難民」について、「審査の上で受け入れる用意がある」と述べた。
12月14日、安倍首相は訪日したティン・チョウ・ミャンマー大統領と会談した。安倍首相の発言は以下の通りである。1.ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)支援を引き続き進める。2.「自由で開かれたインド太平洋戦略」の下、官民合わせて8千億円の資金投入、文化交流の推進などを行う。3.ラカイン州の人権・人道状況を「懸念」している。避難民帰還に関するミャンマー・バングラデシュ合意を歓迎する

日本におけるロヒンギャ難民条約加盟国である日本でもロヒンギャが難民申請しているが、入国管理局によって退去を強制させられている事例がある。日本の法廷で争われているとおり、ロヒンギャ難民の問題には不可解な点が多く認められ、加えて「難民条約」の定義では解決し難いため、難民認定は低調な数字のままである。
在日ビルマロヒンギャ協会によると、2015年6月現在、日本には約230人のロヒンギャが生活している。そのうち約200人が、群馬県館林市に集中している[176]。また、日本政府は、ロヒンギャをミャンマー国籍として扱っているが、国籍を剥奪されたためにそのほとんどが無国籍である実態とかけ離れた国籍認定が懸念されている[177]。2017年8月4日、国連難民高等弁務官事務所のダーク・ヘベカー駐日代表が館林市を訪れ、ロヒンギャの現状を視察した。ヘベカーは、NPO法人が行うロヒンギャの子供たちの学習支援教室などを見学し、「素晴らしいプロジェクトで、学ぶ意欲を感じた」と評価した
日本ロヒンギャ支援ネットワークのゾーミントゥ事務局長は、「世界に向かってミャンマー軍が何をやっているか語ってほしい」とアウンサンスーチーに呼びかけた。2017年9月には、日本赤十字社の医療チームがバングラデシュの避難キャンプに派遣された9月8日、東京・品川のミャンマー大使館に、ロヒンギャら約150人が抗議デモを行った
その一方で、在日ミャンマー人社会との対立は深まっている。1988年9月に在日ミャンマー人協会が設立された当初は、ロヒンギャが協会書記長を務めたことがあるなど、表だった排斥は見られなかった。しかし2000年以降、ミャンマーの政情が落ち着くと、在日ミャンマー人の間に「ロヒンギャ(「ベンガル人」)はミャンマー人ではない」という認識が浸透し、表だった迫害こそ起きていないが、ロヒンギャは排除されるようになった[182]。2015年には、日本放送協会の(「ベンガル人」に対する)ロヒンギャ表記への抗議声明を、複数の在日ミャンマー人団体が出した
2017年9月13日、東京・渋谷の国際連合大学本部前で、ミャンマー人らが反過激派、反ロヒンギャのデモを行った。デモはロヒンギャ過激派(武装勢力)によるテロを非難し、アウンサンスーチーの支持と、ロヒンギャはミャンマー人ではないと主張した。ロヒンギャへの迫害とされるものは、欧米やイスラム教勢力のプロパガンダとする報道を行った有本香は、「在日ミャンマー人からも謝辞をいただいた」という。また、「ミャンマー・ジャパン交流会」は、インドの『SWARAJYA』誌の記事を引き、ロヒンギャの保護を引き受けるべきはイギリスとバングラデシュであるとの見解を示した。

課題

国際社会と人道主義団体(NGO)には、感情論に走らない冷静な対応が求められる一方、「人間の安全保障」の観点からすれば、英領植民地時代の遺恨である宗教・民族間の怨讐から生じる差別と迫害が存在することは明らかであるため、冷静な対応と同時に早急なロヒンギャの身柄保護と効果的な人道支援を急がねばならない、というジレンマに陥っている。
一方で、ミャンマーには官民共に強い反ロヒンギャ感情があり、特にラカイン州の上座部仏教徒住民のそれは甚だしい。そのため、ミャンマー現地での活動を妨害されないために、国連や援助団体などは、ロヒンギャ問題の公言を避け、ミャンマー側の嫌がる「ロヒンギャ」表記さえ避ける傾向にあった。敢えて問題にする者は「トラブルメーカー」のレッテルを貼られたという。
この難しい局面を打開するために周辺諸国の協力も必要とする声があるが、マレーシアがロヒンギャの流出にある程度同情的なのに対し、タイ、バングラデシュ、インドネシアなどは、国連やNGOの批判に取り合わず、ロヒンギャの正規受け入れを拒否し続けている。一方、人権団体アムネスティ・インターナショナルは、「まずは、ビルマ(ミャンマー)国内におけるロヒンギャの人権が確保されるべき」と主張している。
また、ロヒンギャの側にもアラカン・ロヒンギャ救世軍という武装集団がおり、彼らはミャンマー軍の暴虐に乗じる形でヒンドゥー教徒などの異教徒の村への襲撃を繰り返している。しかし、国際社会においてロヒンギャは被害者であるため、ロヒンギャから襲撃を受けた者たちの被害は無視される傾向にあるという主張がある


ミャンマー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ミャンマー連邦共和国英語: Republic of the Union of Myanmar)、通称ミャンマーは、東南アジアに位置する共和制国家。首都はネピドー、最大の都市はヤンゴン(ラングーン)である北西にバングラデシュとインド、北東に中国、東と南東にラオスとタイ、南と南西にアンダマン海とベンガル湾に接している。ミャンマーは東南アジア本土最大の国であり、面積ではアジア第10位の国である。2021年1月現在の人口は約5,462万人

概要
  初めモン族イラワジ川流域に栄えたが、南下してきたビルマ族11世紀パガン朝を建てた。パガン朝が1287年モンゴルの侵略で滅ぼされた後は小国分立したが、ビルマ族のタウングー朝1531年に国土を再統一。タウングー朝は1752年にモン族に滅ぼされたが、間もなくコンバウン朝が成立して全ビルマを統一。19世紀に3度にわたる英緬戦争でコンバウン朝が滅びた後はイギリス植民地となった。1886年イギリス領インド帝国の一州とされたが、1935年にはインドと分離された。第二次世界大戦中に日本の占領を受け、ビルマ国としてイギリスから独立したが、日本の敗戦で連合国に再占領され、イギリス植民地に戻った。その後英植民地体制崩壊の流れの中で1948年に英連邦に参加せずビルマ連邦共和国として独立。1962年のクーデター後、ビルマ社会主義計画党ネ・ウィンの独裁政権となる。1974年に国名をビルマ連邦社会主義共和国と改名。1988年に民衆の民主化運動でネ・ウィン体制は崩壊したが、これを危惧したミャンマー国軍がクーデターを起こして軍事政権を開始し、国名をミャンマー連邦に改名した。

  独立してからのほとんどの期間、ミャンマーは横行する民族紛争に巻き込まれ、無数の民族グループが世界で最も長く続いている内戦の一つに巻き込まれてきた。この間、国連をはじめとするいくつかの組織は、一貫して組織的な人権侵害を報告してきた。
  2011年には、2010年の総選挙で軍事政権が正式に解散し、名目上の文民政権が発足した。これにより、アウンサンスーチーや政治犯の釈放とともに、同国の人権記録や対外関係が改善され、貿易などの経済制裁が緩和された。また国名をミャンマー連邦共和国に改名した。しかし、政府の少数民族への扱いや民族反乱への対応、宗教的な衝突への批判が続いている。2015年に行われた画期的な選挙では、アウンサンスーチーの党が両院で過半数を獲得した。しかし、ミャンマー軍は依然として政治に大きな影響力を持ち続けた。2021年2月1日、ミャンマー軍はアウンサンスーチー国家顧問と大統領を拘束し、非常事態を宣言した。軍は政権が国軍トップのミン・アウン・フライン最高司令官に「移譲された」とし、政権を奪取したと発表した(2021年ミャンマークーデター)。
  ミャンマーは東アジアサミット非同盟運動ASEANBIMSTECに加盟しているが、英連邦には加盟していない。ヒスイ宝石、石油、天然ガスなどの鉱物資源が豊富な国である。再生可能エネルギーにも恵まれており、太陽光発電のポテンシャルは大メコン地域の中で最も高い。2013年のGDP(名目)は567億米ドル、GDP(PPP)は2,215億米ドルであった。経済の大部分が旧軍事政権の支持者によって支配されているため、ミャンマーの所得格差は世界で最も大きい。

  人口は5141万人(2014年ミャンマー入国管理・人口省発表)。うち70%をビルマ族が占め、カチン族シャン族カレン族などの少数民族が25%ある。それ以外には中国人やインド人が暮らしている。宗教は住民の大半(85%)が上座部仏教を信仰し、他にヒンドゥー教などがある。公用語はビルマ語が大半を占め、一部に少数民族の言語が存在する。
  地理としてはインドシナ半島西部を占め、アンダマン海に面している。おおむね北部が高く南部が低い地形であり、西部にはアラカン山脈(最高峰は3053mのヴィクトリア山)が南北に走る。東部はラオスタイに続くシャン高原シャン州)が広がっており、サルウィン川が南流している。中央部をイラワジ川シッタン川が南流し、下流部に大デルタを形成している。南東端タニンダーリ地方域は入江と小島が多い。熱帯季節風気候であり、雨季(5-10月)と乾季(11-4月)の別が明瞭である

国名(「ミャンマーの国名」も参照)
  2010年以降の公式の英語表記は Republic of the Union of Myanmar。通称は Myanmar。
  2010年以降の日本語表記はミャンマー連邦共和国。通称はミャンマー。
  1948年から1974年までビルマ連邦
  1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国
  1988年から1989年まではビルマ連邦、1989年から2010年まではミャンマー連邦
  通称は、独立以前からビルマ連邦まで一貫してビルマ漢語(北京官話)で緬甸(Miǎn diàn)と表記し、日本語でも同じ表記(読みは「めんでん」)が用いられ、略語のも用いられた(泰緬鉄道など)。日本軍統治(太平洋戦争)の間通称(ビルマ国)にされる。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語ポルトガル語由来説もある)からもたらされた。
  1989年6月18日軍事政権国家法秩序回復評議会」(SLORC)は、国名の英語表記を Union of Burma から Union of Myanmar に改称した。変更したのは英語表記のみで、ビルマ語での国名は以前のまま同じである。軍事政権が代表権を持つ国連と関係国際機関は「ミャンマー」に改めた。日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本マスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧つきで「ビルマ」を使い続けるマスメディアもある。『朝日新聞』は長らく「ミャンマー(ビルマ)」と表記していたが、2012年のごろに「(ビルマ)」を削除している。また、毎日新聞は「ミャンマー」表記を原則としつつも、専門家の寄稿については「ビルマ」表記も容認している。
  軍事政権の正当性を否定する人物・組織は、改名が軍事政権による一方的なものだとして英語国名の変更を認めていない。ただし、「ビルマ」が植民地時代にイギリスにより利用された名称であり、より民族主義的であるとされる「ミャンマー」表記を擁護する意見もある。
  名称変更を認めていない立場から、アウンサンスーチービルマ連邦国民連合政府(NCGUB)のほか、アメリカ合衆国は「ビルマ」とし、イギリス、EUが両表記を併記する例もあった。ASEAN諸国、日本、インド、中国、オーストラリア、ドイツ政府などは「ミャンマー」表記を採用している。マスコミも対応が分かれている。タイの英字紙、『ワシントン・ポスト』、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)、『タイム』は「ビルマ」を用い、『ニューヨーク・タイムズ』『ウォール・ストリート・ジャーナル』、CNNAP通信ロイターは「ミャンマー」を採用している。BBCは2014年に変更し、軍事政権の否定からビルマを使用していた人権団体は民主化してから併記を採用している。
歴史(詳細は「ミャンマーの歴史」を参照)
  ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことがうかがえるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝11世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である仇池の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。四散した氐族は、中国雲南省大理にあった烏蕃氏の六詔の傘下に入ったと考えられている。のちに六詔が統一されて南詔となった。
驃国・タトゥン王国
  ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀ピュー人ピュー(驃)を建国した。832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間にわたって王朝がなかった。9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国(9世紀 - 1057年)が建国された。
ビルマ族の南下
  1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。王統史のいう「44代目」のアノーヤター王(在位1044年 - 1077年)が初代国王とされる。1057年、パガン王朝はタトゥン王国を滅ぼした。パガン王朝は13世紀モンゴルの侵攻を受け、1287年パガンの戦いで敗北し、1314年に滅びた。下ビルマには、モン族がペグー王朝 1287年 - 1539年)を建国し、上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系シャン族ピンヤ朝1312年 - 1364年)とアヴァ王朝1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。
  1385年から40年戦争が起こり、今日のミャンマー全土を巻き込む内戦となった。1486年タウングーに流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によってタウングー王朝が建国された。タウングー王朝はポルトガルの傭兵を雇い入れ、タビンシュエーティーの治世にペグーとアヴァ王朝を併合し、次のバインナウンの治世には1559年には現東インドのマニプールを併合し、アユタヤ王朝ラーンナー王朝などタイ族小邦や、チン・ホー族が住む雲南シップソーンパーンナーを支配した。
  しかし1612年にはムガル皇帝ジャハーンギールのもとで、プラターパーディティヤが支配していたチッタゴンを除く現バングラデシュ地域がムガル帝国の統治下に入り、1666年にはさらにムガル皇帝アウラングゼーブが現ラカイン州に存在したアラカン王国支配下のチッタゴンを奪った。
  17世紀にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が再興ペグー王朝を興した。1752年3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、アラウンパヤーが王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。1754年にビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。に助けを求めたシャン族が乾隆帝とともに興した国土回復戦争が清緬戦争1765年 - 1769年)である。しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになる。タイは1767年のアユタヤ王朝滅亡以来ビルマの属国だったが、1769年タークシン率いるトンブリー王朝1768年 - 1782年)が独立し、その後に続くチャクリー王朝1782年-1932年)は、ビルマと異なった親イギリスの外交政策をとって独立を維持することに成功した。
イギリス統治時代(詳細は「英緬戦争」および「イギリス統治下のビルマ」を参照)
  一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする3度に渡る英緬戦争を起こした。国王ザガイン・ミン(在位:1819年1837年)治下の初期には、英緬間に緩衝国家としてアーホーム王国1228年1826年)が存在していたが、ビルマのアッサム侵攻1817年1826年)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、インドを支配するイギリスに対してベンガル地方[18]の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争1824年-1826年)が勃発した。ビルマが敗れ、1826年2月24日ヤンダボ条約が締結され、アッサムマニプールアラカンテナセリムをイギリスに割譲した。
  イギリスの挑発で引き起こされた1852年第二次英緬戦争で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王パガン・ミン(在位:1846年1853年)が廃されて新国王にミンドン・ミン(在位:1853年1878年)が据えられた。イスラム教徒のインド人華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは穀倉地帯を喪失したために、から輸入し、ビルマは綿花雲南経由で清へ輸出することになった。
  1856年から1873年にかけて中国の雲南省・シップソーンパンナーパンゼーと呼ばれる雲南回民チン・ホー族)によるパンゼーの乱が起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。1858年から1861年にかけて新首都マンダレーを建設して遷都。イギリス領インドと印僑の反対で雲南問題は遅れていたが、1885年7月にイギリス側も芝罘条約を締結して解決し、雲南・ビルマ間の国境貿易が再び許可された。1885年11月の第三次英緬戦争で王朝は滅亡。1886年6月、英清ビルマ条約でイギリスは清にビルマの宗主権を認めさせると、ビルマはイギリス領インドに併合されて、その1州となる。国王ティーボー・ミン(在位:1878年1885年)と王の家族はインドのゴア州ボンベイの南に近いラトナーギリーに配流され、その地で死亡した。

  ビルマ人の対英独立運動第一次世界大戦中に始まり、1929年世界恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年には、タキン党が結成された。また、タヤワディ地方では農民が武装蜂起を行い、Saya San rebellionと呼ばれる反植民地運動が下ビルマ全域に広がったが、1931年半ばに鎮圧された。1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領となり、アラカンは返還されたが、アッサムマニプルはインド領(インド独立後に分割され、7姉妹州と呼ばれる)となった。1939年タキン・ソービルマ共産党 (CPB)を結成した。
  日中戦争の激化に伴い、ビルマは中華民国蔣介石政府をイギリスなどが支援する「援蔣ルート」の一つとしても使われた。1941年12月、日本はイギリスやアメリカ合衆国などに対して開戦(太平洋戦争)。日本陸軍南方作戦の一環として、タイ王国進駐に続いて英領ビルマに進撃した(ビルマの戦い)。
  1942年アウンサンビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。

  しかし1944年の独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの独立はまやかしだ」と発言。 1944年インパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚と見るや、1944年8月に秘密会議で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、1945年-1962年)が結成され、Thakin Soe率いるビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍ウー・ヌ率いるthe People's Revolutionary Party (PRPが三派合同した。1945年3月27日、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合国軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。1946年2月、ビルマ共産党が、内部抗争の末にAFPFLを離脱し、タキン・タントゥンの率いるビルマ共産党(CPB)から、タキン・ソーの率いる赤旗共産党が分裂した。
独 立
  1947年7月19日にアウンサンがウー・ソーの傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。1948年イギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない一方で、ミャンマー国軍については、1945年3月27日のビルマ国および日本への蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としている。
  1949年国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊(KMT/NRA)がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国際連合中華民国と米国の策動に抗議した。一方で政権は中華人民共和国と連携し、シャン州の一部に中国人民解放軍および国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍(KMT)勢力を一掃した(中緬国境作戦)。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族シャン族コーカン族など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党(CPB)が黄金の三角地帯麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。一方、ロー・シンハン(羅星漢)のKa Kwe Ye (KKY)が、ビルマ共産党(CPB)に対抗させる狙いを持つネ・ウィンの後押しで結成された。また、中国国民党残党から独立したクン・サ率いるモン・タイ軍も独自に麻薬ビジネスを行なった他、ビルマ共産党に対する攻撃も行なった。
  ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。
軍事政権時代
  1958年10月27日、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで暫定内閣1958年-1960年)が組閣された。1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、4月4日連立内閣を組閣した。1960年12月、ベトナム戦争1960年-1975年)が勃発。1962年3月2日にネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)を結成して大統領1962年3月2日1981年11月9日)となり、ビルマ式社会主義を掲げた。
  ネ・ウィンは、中立を標榜しつつ瀬戸際外交を行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍(KMT)への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党 (CPB) の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。1966年から始まった中国の文化大革命の影響がビルマに及び、1968年9月24日にビルマ共産党 (CPB) は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。
  1973年8月、ロー・シンハンが、シャン州軍(SSA)に協力した容疑でタイに拘束された。この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。1974年ビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領二期目に就任(ビルマ連邦社会主義共和国)。1976年に中国の最高権力者である毛沢東が死去すると、支援が減らされたビルマ共産党 (CPB) は、シャン州のアヘンが最大の資金源となった為、コーカン族・ワ族の発言力が増大した。1980年、ロー・シンハンは恩赦釈放された。1981年にネ・ウィンが大統領職を辞した後も1988年までは軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させた。

  1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持を図った。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、1989年ワ州連合軍が結成された。この時、キン・ニュンが、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。
  1989年6月4日、中国で天安門事件が勃発。1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。1989年12月、マルタ会談1990年5月27日に実施された総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。1991年12月25日ソビエト連邦の崩壊
  1992年4月23日タン・シュエ将軍が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任。軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から中国が大ココ島を賃借し、中国はレーダー基地と軍港建設した。こうした中国の海洋戦略は、バングラデシュスリランカモルディブパキスタンなどへの進出と合わせてインドを包囲する「真珠の首飾り作戦」と呼ばれている。1997年11月、国家法秩序回復評議会(: State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が国家平和発展評議会: State Peace and Development Council、略称:SPDC)に名称変更した。2000年9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。2002年12月、ネ・ウィンが死去。
  2003年8月、キン・ニュンが首相に就任。キン・ニュンは就任直後に民主化へのロードマップを発表し、保守派と対立。2004年10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。

  後任の首相には、保守派のソー・ウィンが就任。同年、中国・ビルマ・パイプラインの協議が中国との間で開始され、翌2005年に中国石油天然気(PetroChina)との間で契約が成立し、中国のミャンマー進出が加速した。この緬中関係では、キン・ニュンの庇護の下でホテル経営を行っていたロー・シンハン(羅星漢)率いるアジア・ワールド社が独占的な契約を結んでいった。2005年11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、2006年10月に行政首都ネピドーへの遷都を公表。2007年9月27日APF通信社長井健司反政府デモ(サフラン革命)の取材中に射殺された。
  2007年10月12日ソー・ウィン首相が死去したことに伴い、軍出身のテイン・セイン2007年10月に首相へ就任すると、軍政主導の政治体制の改革が開始される。2008年5月、新憲法案についての国民投票が実施・可決され民主化が計られるようになる。2008年5月2日サイクロン・ナルギスがエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し、甚大な被害をもたらした。2010年10月、国旗の新しいデザインを発表。
選挙と民主化
  2010年11月には新憲法に基づく総選挙が実施される。また、政府はアウンサンスーチーの自宅軟禁が期限切れを迎えると発表し、総選挙の終了直後に自宅軟禁が解除された。2011年3月30日、テイン・セインは総選挙の結果を受けて召集された連邦議会の議決を経て大統領に就任。同月国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。11月、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録された。
  ただしミャンマー国軍は、2011年の民政移管後も連邦議会の4分の1の議席をあらかじめ国軍に割り当てられることや、同国で最も権力のある省庁を支配する権限を憲法で保障されることなどによって裏から政治権力を維持し続けた。
  2015年11月8日、民政復帰後では初めてとなる総選挙が実施され、NLDが圧勝した。NLDは党首のアウン・サン・スー・チーの大統領就任を要求したものの、ミャンマー連邦共和国憲法の規定と国軍の反対によってそれはかなわず、次善の策としてスー・チー側近のテイン・チョーを自党の大統領候補に擁立した。ティン・チョーは2016年3月10日に連邦議会で大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出、3月30日には連邦議会の上下両院合同会議で新大統領就任式が行われた。ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治が終結した。さらに、NLD党首のアウン・サン・スー・チーが国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」と評されている。
宗教上の対立
  ミャンマーのムスリムイスラム教徒)の起源は一様ではなく、古くは1000年ほど前に遡るところからのインド(現在のバングラデシュを含む)人漂流民、あるいは16世紀以降の諸王朝における戦争捕虜、新しいところでは19世紀から20世紀前半のイギリス植民地時代にインドから流入した労働者など、その事由は様々である。
  宗教上の比率としては4%程度と低いものの、独自のコミュニティ形成などにより、実際の存在感はこの数字以上、というのがミャンマーにおける一般的な見方である。また地域的には、とりわけラカイン州における比率が高く、同州内にはムスリムが多数派という町もある。
  長らく続いた軍事政権下では、宗教上の対立は表面化してこなかったが、2012年6月8日にはラカイン州でムスリムのロヒンギャと仏教徒との対立が激化(ラカイン州暴動)。2013年3月20日にはメイッティーラでも死者が多数出る暴動放火が発生、政府により非常事態宣言が出されている。
ロヒンギャ問題
  2016年のミャンマー国軍によるイスラム教徒の虐殺、民族浄化が続いており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)により非難されている。2016年以降、軍部によるロヒンギャ虐殺の被害者数が6千人以上の月もあったことが報道されている。
  2017年8月25日には、反政府武装組織アラカン・ロヒンギャ救世軍がラカイン州内の治安組織を襲撃。軍の大規模な反撃を契機に、数十万人規模の難民がバングラデシュ側へ流出した。同年9月、アウンサンスーチー国家顧問は、国連総会への出席を取りやめ国内の混乱収拾にあたることとなった。
2021年軍部クーデターで再び軍事政権に
  2020年11月に総選挙があったが、スー・チー率いるNLDが改選476議席の8割を超す396議席を獲得し、ミャンマー国軍系の最大野党連邦団結発展党(USDP)は33議席にとどまった。ミャンマー国軍によるムスリム系少数派ロヒンギャの虐殺疑惑に直面する中でもスー・チー率いるNLDは高い人気を維持した形となった。しかし軍部はこの選挙結果を不服に思い、裏付ける証拠はほとんどないにも関わらず「不正選挙」と主張しだした。
  前年の総選挙後の初の議会が開かれるはずだった2021年2月1日、軍部は軍事クーデターを起こし、ウィンミン大統領やスー・チー国家顧問を拘束。ミン・アウン・フライン国軍総司令官が全権を掌握したと宣言した。軍事政権の閣僚には、国軍系政党の連邦団結発展党(USDP)の主導で2011年に旧軍政下で発足したテイン・セイン政権の元閣僚の登用が目立つ。
  アメリカ合衆国ヨーロッパ諸国、日本インド国際連合欧州連合(EU)からスー・チーらの解放と民政復帰を求める批判が起きている。特にアメリカ政府は制裁の復活をちらつかせているが、米軍とミャンマー軍に交流はほとんどないため、制裁の効果は限定的ではないかとされている。

政治(詳細は「ミャンマーの政治」を参照)
  現在のミャンマーは大統領を元首とする共和制国家である。
  ネ・ウィン将軍が、1962年に軍事クーデターを起こし、憲法議会を廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続いていた。
  軍政以前の議会は、一院制の国民議会。485議席。議員は、民選で任期4年。前回選挙は、1990年5月27日に投票が行われ、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) 392(81%)、シャン諸民族民主連盟 (SNLD) 23を獲得、国民統一党 (NUP) 10、その他諸政党が60の議席を獲得した。しかし、軍事政権はこの選挙結果を認めず、政権の移譲を拒絶し続けた。その為、NLDなどの反軍事政権勢力は、1990年ビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を組織し、軍事政権への対抗勢力として活動していた。1993年には新憲法制定のための国民会議が招集されたが、NLDはボイコットした。
  軍事政権は1994年から2007年にかけて、新憲法制定に向けての基本原則や内容を審議する国民会議を断続的に開催してきた。しかし1998年に民主化運動が高揚した際に、軍事クーデターを決行して1000人以上の国民を虐殺し弾圧を加え、翌1990年にはアメリカ合衆国ビルマ連邦国民連合政府が設立されている。そのトップはアウンサンスーチーの従兄弟セイン・ウィンSein Win)であった。

  2007年9月仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリスト長井健司を含める多数の死傷者を出した。2007年10月24日、民主化勢力に対し強硬な対応をとってきた国家平和発展評議会 (SPDC) 議長および国家元首であったタン・シュエと長らく行動を共にしてきたテイン・セインが新首相に就任。前首相ソー・ウィンまで続いていた軍主導の政治体制の改革が、テイン・セインの下で開始される。2008年5月10日及び同月24日に、新憲法案についての国民投票が実施・可決され、民主化が一歩一歩と計られるようになる。当時国家元首であったタン・シュエは表向き「私は一般市民になる、民主政権なのだから」と発言している。
  2010年2月13日、政府は最大野党・国民民主連盟 (NLD) の2003年5月から拘束されていたティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した[36]。同年2月15日国連人権理事会のトマス・オヘア・キンタナ(Tomas Ojea Quintana)特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウンサンスーチーとの2009年2月以来3度目となる面会を求めた[37]4月26日、テイン・セイン首相は軍籍を離脱し、29日連邦団結発展党を結成。10月21日、国旗を新しいデザインに変更すると発表[38]11月7日には2008年の新憲法に基づく総選挙が実施され、連邦団結発展党が8割の得票を得て勝利宣言を行った。11月に政府はアウンサンスーチーは軟禁期限を迎えると発表し、13日に軟禁状態が解除される。拘束・軟禁は1989年から3回・計15回に及んだ。(「2010年ミャンマー総選挙」も参照)

  2011年1月31日、ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕。3月30日、テイン・セインはミャンマー大統領に就任。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた。軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もあったが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意。10月12日には政治犯を含む受刑者6359人が恩赦によって釈放された[43]。11月4日、テイン・セイン大統領は、政党登録法の一部改正(服役囚に党員資格を与えないとした条項の削除)を承認[44]。また2008年憲法の「順守」を「尊重する」に緩和した。11月25日、国民民主連盟 (NLD) は全国代表者会議を開き、長年認められなかった政党(野党)としての再登録を完了した。年内にも行われる国会補選に参加することを決めた。
  その後、2016年3月30日国民民主連盟が選出したティンチョーが54年ぶりの文民大統領に就任した。2021年2月1日、軍事クーデターが発生しミャンマー国軍総司令官が全権を掌握した。
元首・行政
  国家元首は、2011年3月より大統領となっている。同月、テイン・セインが連邦議会で軍籍ではない初の大統領に選出された。さらに、2016年3月にはNLDのティンチョーが大統領に就任した。
  それ以前の国家元首は国家平和発展評議会 (SPDC) 議長だった。国家平和発展評議会は、1988年9月18日クーデターにより国家権力を掌握した軍事政権が創設した国家法秩序回復評議会 (SLORC) を、1997年11月15日に改名した組織である。立法権行政権を行使。首相は評議会メンバーの1人であったが行政府の長ではなかった。同評議会は2011年3月に解散した。
  ただし、NLDがティンチョーを大統領に擁立したのは、軍事政権下で制定された憲法の規定ではNLD党首のアウンサンスーチーが大統領就任資格を奪われている(アウンサンスーチーはイギリス国籍の息子を持つのであるが、憲法では外国籍の配偶者や子を持つ者は大統領になることはできない)ため、アウンサンスーチーの「代理」としての意味合いであった。アウンサンスーチー自身も、新大統領は何らの権限を持たない傀儡であって全てを決定するのは自分であると明言していた。新政権ではアウンサンスーチーは外務大臣兼大統領府大臣、さらには新設の「国家顧問」に就き、政権の実権を掌握する体制を整えた。国家顧問は大統領に政治上の「助言」を与えることができるとされているが、アウンサンスーチーの「助言」は、事実上は大統領への「指示」となると予想されている。
  2021年2月1日、ミャンマー軍は大統領と国家顧問を拘束し全権を掌握したと発表した。これにより国軍最高司令官が事実上の国家の指導者となった。
立法(詳細は「ミャンマーの政党」を参照)
  2008年に制定された新憲法により、二院制連邦議会(Pyidaungsu Hluttaw)が創設された。連邦議会は上院(民族代表院、Amyotha Hluttaw)と下院(国民代表院、Pyithu Hluttaw)の2つで構成されている。議員は両院とも任期5年。議席数は上院が224議席、下院が440議席。各議院の議席のうち、4分の1は国軍司令官による指名枠となっており、残りの4分の3は国民による直接選挙で選出される。
  2010年11月7日、新憲法に基づいて連邦議会の総選挙が実施された。軍事政権の翼賛政党連邦団結発展党 (USDP) は上下両院と地方議会合わせて1000人以上を擁立した。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) の分派である国民民主勢力 (NDF) は、140人にとどまった。NLDは選挙関連法が不公平だとして選挙のボイコットを決め、解党された。総選挙の結果、USDPが全議席の約8割を獲得し、NDFの議席は少数にとどまった。
  2011年1月31日、総選挙後初の連邦議会が開幕し、複数政党制による議会としては49年ぶりの開催となった。
  2012年4月1日にはミャンマー連邦議会補欠選挙が実施された。NLDはアウンサンスーチーを含む44人の候補者を擁立し、同氏含む40人が当選するという大勝を飾った。2015年11月8日に行われた総選挙でNLDが単独過半数の議席を獲得した。
経済史
  ビルマはかつて東南アジア有数の大国であり、イギリス統治下においても東南アジアで最も豊かな地域の一つであった。チークなど木材をはじめ天然資源が豊富で、石油の生産・輸出も盛んに行われていた。また人的資源も優れており、識字率は高く、独立後は東南アジアでも早く成長軌道に乗るだろうと考えられていた。1952年に経済開発計画が立案されたが、内乱や外貨事情の悪化から4年ほどで破棄される結果に終わった。
  1962年から1988年まで、ネ・ウィン軍事政権はビルマ式社会主義という国家基本要綱に基づき、国有企業主導の統制経済による開発を行なった。この間、主要産業の企業・貿易は国家の管理下に置かれ、土地も国有化された。また、工業化政策によって1960 - 1970年代において、工業は一応の発展を遂げた。しかし、1980年代に至ってもGDPで工業が占める割合は10%程度で、依然農業が主産業の座を占めていた。また、鎖国的な経済体制によって、最貧国と認定される程にビルマ経済は著しく停滞し、他のアジア諸国と大きな差をつけられる結果となった。
  1988年ソウ・マウンによる軍事クーデター後、ビルマ援助国の大部分が経済援助を凍結した為、国家法秩序回復評議会 (SLORC) は社会主義計画経済の放棄と自由市場経済体制への転換を決めた。SLORCは、豊富な天然資源と安価な労働力を基とした民間企業主導型の輸出指向型の政策を打ち出し、外国人による投資の大幅な許容、近隣諸国との国境貿易合法化や国営企業の民営化等、市場経済改革が実施された。
  21世紀初頭には工業部門が飛躍的に成長し、工業化が進展しているように見えた。しかし、これは、天然資源開発中心の国有企業主導型の工業開発によるものであり、民間製造業主導型の工業開発ではない。天然資源開発は急速な早さで環境を破壊している。また、天然資源採掘地域においては、強制労働・強制移住などの人権侵害が行われているという事実がある。
  以上の事実から、欧米諸国はミャンマー製品の輸入禁止や、新規海外直接投資禁止などの経済制裁を行った。特にアメリカのミャンマー製品輸入禁止と送金禁止はミャンマー経済に大きな影響を与えた。近年、民間製造業において急速に発展してきた縫製産業は、そのほとんどがアメリカ向けの輸出産業であったため、経済制裁発動後は多くの工場が操業停止状態に追い込まれ、そこで働いていた多くの労働者が職を失った。
  このように、ミャンマー経済は政治的要因により、離陸の機会を失ってきたと考えられた。ベトナムカンボジアラオスバングラデシュなど、周辺国は2000年代になって以降、衣類生産など軽工業の発達で経済成長の緒に就き、ミャンマー(当時はビルマ)と同じように80年代~90年代に経済低迷を経験したフィリピンも2000年代からコールセンターなどサービス業の台頭で経済的な飛躍が見られるが、ミャンマーは諸事情で取り残されているとされていたが、最大都市のヤンゴン周辺では工業化も見られ後述で述べるとおり「アジア最後のフロンティア」と呼ばれることもある。

  欧米が投資や貿易を控えてきたのに対し、中国とインドは軍事政権時代から関係強化に努めた。投資をしている国は中国、シンガポール、韓国、インド、タイなどである。特に中国はマラッカ海峡を通らずに石油を自国に運ぶため、ミャンマーから原油とガスを輸入するための中国・ビルマ・パイプラインチャウッピュー昆明市間771 kmを結ぶ石油パイプラインと、チャウッピュー貴州省間2,806 kmを結ぶガスパイプライン)とラムリー島チャウッピューに大型船が寄港可能な港湾施設、Myitsone hydro-power plantTaSang hydro-power plantを建設しようとしており、ロー・シンハン(羅星漢)率いるアジア・ワールド社が建設・エネルギー関連事業を独占的に受注している。
  2010年にミャンマーは民政移管を果たし、2011年に就任したテイン・セイン大統領が経済開放を進めたことにより、ミャンマー経済は再び国際社会に復帰。「アジア最後のフロンティア」と呼ばれるまでに経済成長が有望視される国家へと変貌を飛げた[54]国有企業や国軍系列企業以外に、民間企業も育ちつつあり、一部は多角化で財閥を形成しつつある(ダゴン・インターナショナルなど)。
  2015年の総選挙結果を受け民政移管後の経済発展を見越したヤンゴン証券取引所が、日本の金融庁大和総研日本取引所グループの支援で発足。2016年3月25日、取引を開始した。
日本との交易
  欧米諸国が軍事政権下のミャンマー製製品を輸入禁止にしてきたのに対し、日本は特に輸入規制などは行わず、日本はミャンマーにおける製品輸出先の5.65%(2009年)を占めた。ミャンマー製のカジュアル衣類なども日本国内で販売されている。
  しかし、日本貿易振興機構の資料によると、民政移管の2010年前後の時点でミャンマーに進出している企業は、中国が約27000社、タイが約1300社に比べ、日本はわずか50社に過ぎなかった。この背景には、ミャンマーに経済制裁を科していたアメリカの存在があり、アメリカとビジネスをしている企業は、アメリカでどのような扱いを受けるかを恐れ、ミャンマーに進出したくてもできない状態であるという。

  ただ、中国の賃金水準上昇と、チャイナ・リスクの存在が日本企業に広く認識されるようになり、米国向け輸出品が多く日本企業には不利なベトナムや、日本企業の誘致に消極的なカンボジアバングラデシュなどの代わりに、「アジア最後の経済未開拓市場」との呼び声も高いミャンマーに対する日本の注目が2010年前後から集まった。ベトナムの約3分の1(ベトナムの賃金は中国の約6割)の賃金で従業員を雇え、中国と比較すると労働力の安さが特段際立っていた。しかしながら、ハエが飛び回るような不衛生な食品工場が多数存在していたり、また、労働環境の苛酷さや児童労働、そして何より、ミャンマー独特の政治的事情などの課題も多かった。だが、2010年の総選挙で形式的ながら民政移管を果たし、2011年に就任したテイン・セイン大統領が経済開放を進めたことにより、ミャンマー経済を取り巻く環境は大幅に改善された。

  2012年に入って以降、アメリカが民主化を評価し、ミャンマーへの政策を改める見通しが出始めており、これまでアメリカの顔色を伺って現地進出したくてもできなかった日本企業にとっては明るい兆しと言える。また、ミャンマー側にとっても経済発展は悪い話ではないし、ベトナム、カンボジア、バングラデシュに大きく遅れをとったが、グローバリゼーションが進む21世紀の世界において、安いコストで衣類などの軽工業品を生産できることは、企業側にとっては良いビジネスになりうる。また、結果として多くのミャンマー国民の雇用を生み出すという点でも重要である。
  2014年10月1日、ミャンマー政府が2011年の民主化後初となる、外銀6ヵ国9行に支店開設の仮認可を交付したと発表。日本の銀行ではみずほ銀行三菱東京UFJ銀行三井住友銀行のメガバンク3行が仮認可を取得している。その後、2015年4月2日に三菱東京UFJ銀行、オーバーシー・チャイニーズ銀行、三井住友銀行の3行が正式認可を取得し、2015年4月22日に三菱東京UFJ銀行が、同23日にオーバーシー・チャイニーズ銀行と三井住友銀行がそれぞれ支店を開業した
国際関係
  ビルマは中立的な立場による等距離外交を基本方針としているが、1983年10月にはラングーン事件を起こした北朝鮮国交を断絶した(2006年10月に国交回復)他、1997年7月には東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟している。また、欧米諸国とは、ビルマ国内の人権問題や政治の民主化をめぐる問題で対立しており、欧州連合(EU)からは経済制裁を受けている。その一方で、インド洋方面への進出口を求めている中国からは多額の援助を受けている他、インドとは経済的な結びつきを強化しているなど、近隣の大国とは比較的良好な関係を築いている。また、軍事面から北朝鮮との関係が改善している。

  歴代のタイ政府は、タイ・ビルマ国境に展開する反軍政民族武装勢力の存在を基本的に黙認し、ビルマ国軍とのバッファーゾーンとして利用してきた。また1990年代のタイ民主党政権チュワンアナン両政権)はビルマ軍政の政策に批判的な立場を取り、軍政との関係も決して良好ではなかった。しかし1990年代後半には保守政治家チャワリット・ヨンチャイユットらが提唱する「建設的関与」論が力を持った。タイ政府はビルマとの距離を縮める方向に傾き、1997年のビルマのASEAN加盟にも賛成した。これは軍事政権の長期化を踏まえた上で、政治改革に向けた努力を後景に退かせ、国境地域の天然資源確保や国境貿易の拡大による経済効果を優先した結果である。ASEAN加盟後のタイのチュワン・リークパイ政権やマレーシア政府の取り組みの積極性は、少なくとも主観的には、ビルマを地域政治の枠組みに入れた上で、民主化を促す点にあった。ビルマへの「建設的関与」策が成功すればASEANの国際的地位を飛躍的に高めるはずだったが、ビルマ軍政は自らの支配を危うくするあらゆる改革に反対する姿勢を貫き、この舞台に乗ることは決してなかった。アウンサンスーチー襲撃事件と同氏の自宅軟禁の継続、キンニュン元首相の更迭劇、首都移転、ASEAN側が派遣した特使への丁重とはいえない処遇といった一連の政治的動きは、ASEANの「建設的関与」策が短期的には奏功しないことを示した。チャワリットに代表される経済優先路線を拡大したのがタクシン政権である。同政権は国境の反政府武装勢力への圧力を強め、タイ国内の反政府活動家や難民への取締を強化している。

  2007年、アメリカとイギリスは軍事政権にアウンサンスーチーを始めとする全ての政治犯の即時釈放を求める非難決議を提出し、1月12日国際連合安全保障理事会で採決した。しかし、中国とロシア拒否権を発動し、否決された(賛成は米、英、フランスなど9カ国。反対は中、露、南アフリカの3カ国。棄権はインドネシアカタールコンゴの3カ国)。ASEAN諸国では、軍事政権への非難には慎重論が強い。
  2007年10月11日、国連安全保障理事会は、僧侶や市民らによるデモに対する軍事政権の実力行使を強く非難する議長声明案を、全会一致で採択した。
  軍政時代には中国や北朝鮮といった独裁国家と親密であったミャンマーであったが、2011年以降急速に進んだ民主化により、それまで冷え切っていた欧米との関係が改善した。アメリカのヒラリー・クリントン国務長官はネピドーを訪れた際、北朝鮮と縁を切るよう公式にテイン・セインミャンマー大統領との会談で要請した。
  しかし、スー・チーが事実上のトップとなった後もロヒンギャ問題が起きたことで欧米との関係が冷え込んだ。
  2021年2月1日に発生したミャンマー軍のクーデターでスー・チーが拘束され、軍事政権が復活するとアメリカやヨーロッパ諸国、日本、インド、国連、欧州連合からスー・チー解放と民政復帰を求める強い批判が起きた。特にアメリカ政府は制裁の復活をちらつかせているが、米軍とミャンマー軍に交流はほとんどないため、制裁の効果は限定的ではないかと見られている。
対中関係
  経済的に強く結びついており一帯一路構想に参加している。また欧米とは違い中国は国内の人権問題に口を出さないため接近している。
  特にミャンマー国軍は軍政時代から中国と親密な関係にあり、2021年2月1日のミャンマー軍によるクーデターの際にも国際社会がミャンマー軍を強く批判する中で中国はミャンマー軍を批判する声明を出さなかった。
対日関係(詳細は「日緬関係」を参照)
  ビルマは1954年11月の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)締結以来、日本と友好的な関係を築いてきた。特にネ・ウィンは親日的な政策をし、このことがBSPP時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼしたともいわれる。日本は欧米諸国とは対照的に、1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けた。ただし、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、2003年から停止されている。ビルマの人権問題や民主化問題に対し、日本政府は軍事政権と民主化勢力の双方に、“対話による解決を粘り強く働きかける”方針を採用し(長井健司射殺事件に関する福田康夫の発言「直ちに制裁するかどうかはもう少し見極めてから」など)、幾度か軍事政権に働きかけを行ったものの、長い間芳しい成果が上がらなかった。ビルマの軍歌には『軍艦行進曲』の旋律を流用したものがあり(ただし、歌謡にも日本の旋律を流用した物が見られる)、ビルマ軍部の親日的傾向を示す根拠として提示されることがある。
  1981年4月、ミャンマー政府は独立に貢献した南機関鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、最高勲章である「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」を叙勲した。
  日本では東京高田馬場に日本国内最大の在日ビルマ人コミュニティが存在し、ビルマ料理店やビルマ語教室などが集中している。在日ミャンマー人は約2万4千人(2019年)。
  2012年2月、日本政府はヤンゴン郊外のティラワ港経済特別区上水道下水道道路光ファイバーケーブル、次世代電力網といった最先端のインフラ整備を請け負った。実際の開発はミャンマー側が日本企業を誘致して行う。ミャンマー側も、日本に開発を委ねる意思をテイン・セイン大統領が示していた。
  イスラム系少数民族のロヒンギャの弾圧をめぐる国連事実調査団の設置に反対するなど日本は米欧に比べミャンマー政府寄りの立場を取る傾向にある。
軍事(詳細は「ミャンマー軍」を参照)
  ミャンマー国軍は1942年に創設されたビルマ独立義勇軍をその起源とし、国軍最高司令部、陸軍司令部、三軍情報司令部、空軍司令部と海軍司令部などからなる。現有兵力は約41万人で、陸軍37万5千人、海軍1万6千人、空軍1万5千人からなる。この他に警察部隊7万2千人と民兵3万5千人が存在する。陸軍は13の軍管区を中心に編制されている。海軍基地、空軍基地が各6個ある。長年、志願兵制であったが、2011年に徴兵制が敷かれた(詳細は不明)。
  1950年代に国共内戦に巻き込まれた経験から対外的な軍事同盟締結を拒否し、原則的に外国に対して軍事基地を提供していない。ただし、中国は例外で、1994年6月から大ココ島を賃借しており、中国はレーダー基地と軍港を建設している。この中国の海洋戦略は真珠の首飾り作戦と呼ばれ、アメリカ・英国・インドのインド洋における制海権に対して挑戦するものとの見方もあるが、中国にとってもポートスーダンとのシーレンを守るエネルギー戦略上の拠点となっている(中国・ビルマ・パイプラインを参照)。

  近年ではこの中国の支援に対抗する形で、小規模ながらインドからも航空機や中古戦車の装備の導入が始まっている。
  1990年代までは「反共」を標榜する独自の社会主義であるビルマ式社会主義を取っていたため、旧東側諸国からの支援はほとんど行われず、西側諸国にしても南ベトナムのようなケースと異なり限定的に装備の提供を行ってきた。このため、1980年代までは「黄金の三角地帯」対策として供与されたアメリカの装備(M101榴弾砲、UH-1汎用ヘリコプター、AT-33COIN機ターボスラッシュ農業機ケシ畑への除草剤散布に使用―など)を中心にしていた(この装備供与は麻薬取締局を擁するアメリカ国務省が主体となって行われており、当時のネ・ウィン政権に不信感を抱くCIAは反発していたとされる)。1990年代以降はアメリカからの支援は断絶状態となった。

  代わって台頭しつつあるのが中国やロシア、インド、ベトナム、イスラエルシンガポール(制裁によって直接製造国からサポートできなくなった旧西側製装備の修繕など)であり、J-7Q-5MiG-29等の導入はその表れである。さらにラングーン事件以降冷え切っていた北朝鮮との関係が1996年頃から軍事・政治面で改善した結果、野砲ロケット砲などの武器購入や基地建設の技術支援交流や軍人交流訪問等が行われている。その一方で、中国はワ州連合軍などのミャンマー・中国国境に展開する反政府勢力への支援も継続しているといわれている。
  また、外交関係が不安定であることから、古くから軍備の国産化が進んでいる。既に自動小銃ガリルH&K G3等)や弾薬、暴徒鎮圧用の軽装甲車などは国産での調達が可能と言われる。海軍が保有しているコルベットもミャンマーにて建造されたものである。
  ミャンマー軍のヘルメットは迷彩柄で、形はアメリカ軍がかつて採用していたPASGTヘルメットで(通称フリッツヘルメット。同型のヘルメットを軍で使用している中国からの輸入であると考えられる)あり、ヘルメットの中央部に白い五角星があしらわれている。
少数民族の民兵組織
  2009年現在も、カチン独立機構(KIO)の軍事部門であるカチン独立軍(KIA)、旧ビルマ共産党の流れを汲むワ州連合軍(UWSA)、カレン民族同盟の軍事部門であるカレン民族解放軍シャン州軍(SSA)、コーカン族民兵組織である全国ミャンマー民主同盟軍(MNDAA)などがあり、なかにはカレン民族解放軍の分派民主カレン仏教徒軍(DKBA)のように親政府の民兵組織まで存在する(その後、反政府に転向。同項参照)。

 1990年代初頭にビルマ共産党が内紛で崩壊した事により、キン・ニュンが同党の後身組織であるワ州連合軍との停戦を成立させたのを皮切りに、カレン民族解放軍や(都市部での学生運動を端緒としており他の民兵組織と異なるが、弾圧により地下組織化した)全ビルマ学生連盟(ABFSU)などを除いてほとんどの組織は政府軍との停戦に応じている。ただし、この停戦は投降には程遠く、いずれの組織も武装解除にはほとんど応じず独自の解放区を維持し続けている。政府側は解放区における民兵組織の既得権益を追認し、その一方で解放区内に政府軍や警察部隊を進駐させるなど「飴とムチ」の構えをとっている。特にUWSAやSSA、MNDAAは麻薬製造を続けている一方で国内でホテルや銀行などの合法ビジネスも行なっており、現在でも中国などから入手した高度な装備を保有している。UWSAなどシャン州の民兵組織は中国・ミャンマー国境の軍事的に重要な地域に支配地域が存在しており、経済封鎖で中国偏重になっているミャンマー経済の生命線を握っているともいわれる。
  これらの民兵組織は現在も停戦を続行しているものの、軍事政権内で和平推進派であったキン・ニュン派の失脚や停戦条件である自治拡大が実行されていない事などから反発を強めているともされている。とくに最近では和平推進派が軍事政権内で減退した事から強硬派が強まっているとされ、2009年には麻薬捜査を発端としてMNDAAとミャンマー政府軍が交戦状態に発展した。このほかの各民族の私兵にも自主的に解散もしくは国軍指揮下の国境警備隊へ編入するかを要求したが、全民兵組織から拒否されて頓挫した。2013年1月現在、国軍とカチン独立軍は交戦状態にあり、カチン州では難民が発生している。
  かつて麻薬王として知られたクン・サ率いるモン・タイ軍は自主的に解体されたものの、同軍の将兵はUWSAなどに流れていった。旧ビルマ共産党は同項目に書かれている経緯から分裂して消滅しており、中国国民党の残党も高齢化や国際支援の消滅、クン・サなどの分派の登場などから既に過去の存在となっている。

核兵器開発疑惑(「ミャンマー連邦の大量破壊兵器」も参照)
  2010年6月4日中東の衛星テレビ局アル・ジャジーラがミャンマー軍政が核兵器開発に着手した証拠があると報道した。また、オーストラリアの新聞『シドニー・モーニング・ヘラルド』によると、ミャンマーは北朝鮮の協力を得て、2014年までに原子爆弾を保有することを目指しているという。
  2010年12月9日には英紙「ガーディアン」が、軍政がミャンマー丘陵地帯で秘密地下核施設の建設をしているとの目撃情報がアメリカに伝えられ、また、北朝鮮技術者を見たという目撃情報も寄せられていたことが内部告発サイト「ウィキリークス」に掲載された米外交公電により明らかになったと報道した。








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