活動写真弁士の問題-1



2020.12.11-毎日新聞-https://mainichi.jp/articles/20201211/k00/00m/040/007000c
今、カツベンが熱い! 活動写真弁士は"絶滅"していなかった 周防監督も映画化

  今、カツベン(活弁)が熱い! 昨年公開された周防(すお)正行監督の映画「カツベン!」でその存在を知られるようになった「活動写真弁士」。無声映画の上映中、スクリーンの脇でセリフや情景を独自の語り口で説明する職業的説明者だ。トーキーの到来とともに弁士は仕事を失った。当たり前のようにその一言で片付けられがちだが、どっこい、弁士は現在に至るまで「絶滅」したことはないのだ。【上村里花/西部学芸グループ】
  映像のデジタル化により、必ずしも映画館でなくても上映ができるようになったことで、弁士の活動の場は広がった。今では、関東の澤登翠(さわとみどり)さん、関西の井上陽一さんという東西の第一人者以外にも、2000年代にデビューした30、40代の若手弁士たちがそれぞれの個性を打ち出し、活躍している。それが、片岡一郎さんであり、坂本頼光(らいこう)さん、山崎バニラさん、大森くみこさんら「ミレニアル世代」の弁士たちだ。「過去の芸の再現ではなく、今を生きる芸をやっている」。そう豪語する現代の弁士たちの世界を紹介したい。
吉本興業がライブ
  無声映画全盛期には全国に8000人近くいたとされる活動弁士だが、現在、プロとして活動しているのは全国で十数人。関西に井上さんと大森さん、残りはほぼ関東だ。とはいえ、十数人がプロの弁士として生活している。東京や関西では日常的に活弁付きの無声映画上映会が各所で開催されている。さらに、若手弁士たちはより多くの人に活弁を知ってもらおうと、活動の場を広げるとともに、活弁に親しんでもらう工夫も凝らしている。
  映画祭の名物企画から発展し、吉本興業が昨年から月1回開催しているライブ「活弁でGO!」(配信あり)。お笑い芸人たちが活弁に挑戦し、活弁の可能性をさまざまな形で見せる企画で、弁士の片岡さんは当初からレギュラー出演している。11月は、無声映画の古典「月世界旅行」(1902年、ジョルジュ・メリエス監督)の活弁をお笑いコンビ「すゑひろがりず」が担当。天文学者たちの月旅行を「かぐや姫」の後日譚(ごじつたん)に設定を変えて語り、笑いを誘った。一方、片岡さんは、すゑひろがりずのコントのアテレコ(吹き替え)に挑戦。全く違うネタにアレンジしてみせ、会場を沸かせた。最後には「サロメ」(1923年)で正統派の活弁を聞かせ、魅了した。

  企画を担当するプロデューサーの立川直樹さんは「全てが予定調和的で金太郎あめのようなエンタメが大勢を占める現代で、瞬発力が求められ、一番個性が出るのが活弁。人間力を感じる分野」とほれ込む。「企画は、活弁の技術を現代に持ってきたらどんなことができるかの実験。今度は一流のジャズミュージシャンを呼んでやりたい」と構想は膨らむ。観客の反応も良く「次第に広がっているのを感じている」とも。片岡さんも「観客は出演芸人さん目当ての若い女性が多いが、勘所良く笑ってくれ、活弁が伝わっている手応えがある」と話す。
新作無声映画をクラファンで
  一方、関西の女性弁士、大森くみこさんは、女優の辻凪子さんらと共に、活弁を入れることを前提とした新作無声映画「I AM JAM ピザの惑星危機一髪!」をクラウドファンディングを活用して製作予定だ。通常、活弁の公演は、過去の無声映画に活弁を付けるスタイルだが、「さらに幅広い層に見てもらいたい」と製作に踏み切った。
  辻さん演じる主人公の少女ジャムが、ピザの惑星に行き、惑星を救うためにピザのピースを探して旅をするSFファンタジー作品だが「社会問題なども絡めながら、子供も大人も楽しめる作品にしたい」と意気込む。活弁の楽しさを感じてもらうためにさまざまな仕掛けを加える予定だ。「弁士と画面上の登場人物が会話するようなシーンや、スクリーンからジャムが現実世界に飛び出してくるような趣向も検討中」
  10月から製作費のクラウドファンディングを始めた(12月31日まで)。500万円が目標で、現在は約136万円(9日現在)。ただ、目標額に達しなくても、集まった額で製作は進めるつもりで「来年中の公開を目指したい」。
他流試合、そして全国へ
  12月3日、東京・浅草の浅草演芸ホールの高座に坂本頼光さんの姿があった。落語芸術協会の定席(公演)で、落語の合間に出演し、活弁を披露した。片岡さんと同世代で「ライバル」として対比されることの多い坂本さんは、早くから落語の寄席に出ていたほか、落語家らとの二人会などで、演芸ファンにも名前を知られてきた。
  意外にも東京の定席寄席は初登場だったというが、大阪の寄席・天満天神繁昌亭には8年ほど前から出演している。昨年公開された、周防監督の映画「カツベン!」では主役の成田凌さんや共演の永瀬正敏さんらの活弁指導を担った(片岡さんは主人公のライバル弁士役、高良健吾さんらの指導を担当)。
  坂本さんは、2000年に21歳で弁士デビュー。プロ5年目ぐらいからは意識的に「弁士以外の仲間を作ってきた」と振り返る。幸いにも技術の進歩で、DVDプロジェクターさえ持って行けば、どこでも上映ができる。積極的に落語家や講談師、お笑い芸人らとの会に出演してきた。坂本さんの代名詞ともなっている自作アニメ「サザザさん」が生まれたのも、この「他流試合」のためだった。「濃いお笑い芸人さんたちの間で勝負するにはインパクトの強いものが必要だった」
  活弁を映画ファン以外に広めた功績は大きく、「今後は、さらにいろいろな土地に伺いたい」と意欲を見せる。
  このほか、大正琴の「弾き語り弁士」という独自のスタイルを追究する山崎バニラさんなど多士済々だ。映画を生かす正統派の澤登翠さん、情感を大切にする関西弁士の美学を受け継ぐ井上さんを筆頭に、個性豊かな若手弁士たちがそろった現代の活弁界は黄金期を迎えているのかもしれない。
九州でも上映会
  関東や関西で活弁が盛り上がる中、九州でも新たな動きが出ている。パインウッドカンパニー(東京都、松戸誠代表)が昨年12月から長崎で活弁付きの無声映画の定期上映会を企画。第1回は澤登さんの活弁で「オペラ座の怪人」を上映し、好評だった。新型コロナウイルス禍で今年は見合わせたが、来年1月23日、長崎市立山の長崎歴史文化博物館で第2回を開催予定だ。コロナ対策で席数を減らす代わりに昼夜2回公演とし、今回も澤登さんの活弁とギターとフルートの生演奏でキートンの喜劇「セブン・チャンス」とチャプリンの短編を上映する。
  企画を担当する同社の高橋健一郎さんは「長崎は九州で最初に活動写真が上映された場所。澤登翠という一流の弁士と生演奏で、この地から活弁の魅力を発信していきたい」と語る。今後も年4回程度、開催する意向だ。
  また、北九州市小倉北区の創業81年の老舗映画館「小倉昭和館」でも昨年、映画「カツベン!」の上映に合わせ、麻生八咫(やた)、子八咫親子による活弁の実演上映を実施した。樋口智巳(ともみ)館主は「今後も機会があれば、ぜひ活弁の実演は企画したい」と意欲を見せる。
  さらに、福岡市でも今年、市民有志による活弁付き上映会を企画する「博多活弁パラダイス実行委員会」(大井実代表)が発足した。「活弁というエンタメを広く知ってもらいたい」と福岡で定期的な活弁付きの上映会開催を目指す。
  第1回として、13日午後2時半から、福岡市博多区の福岡アジア美術館8階・あじびホールで、坂本頼光独演会を開く。坂本さんの活弁で、マキノ省三監督の「忠魂義烈・実録忠臣蔵」やチャプリンの短編など計4本を上映。実行委事務局は「活弁は今に生きる芸。多くの方に体験してもらいたい。次回はぜひ生演奏も入れ、九州ツアーを企画したい」


活動弁士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  活動弁士(かつどうべんし)は、活動写真すなわち無声映画(サイレント映画)を上映中に、傍らでその内容を解説する専任の解説者。活動写真を弁ずるところから活動写真弁士と呼ばれ、略して活弁(かつべん)あるいは単に弁士とも呼ばれるが、無声映画期の活動弁士達は「活弁」と呼ばれることを酷く嫌った。関東圏では映画説明者、関西圏では映画解説者とも名乗っていた。活動弁士は今日で言うところの「ナレーター」の前身に挙げられる。

活動弁士の誕生
  日本で映画が初めて公開されたのは、1896年明治29年)11月25日の神戸神港倶楽部においてであった。輸入品のキネトスコープは日本人にとっては全く未知の装置であり、またフィルムの尺も短いものであったため、映画を興行として成り立たせるためには、機械の説明をして、場を保たせる説明者が必要だった。この要求に応じる形で口上を述べ、弁舌を振るったのが活動弁士の元祖、上田布袋軒なる人物である。
  その後約3ヶ月の間に複数の経路から映画が輸入されるのであるが、どの興行にも説明者が付いていた事から、日本が活動弁士という特異な興行・芸能形態を確立した必然性を見て取ることができる。

活動弁士の活躍と衰退
  初期の映画はフィルムに音をつける技術がなかったため、欧米では映画の中に挿入されるセリフや背景解説のショットと生伴奏の音楽によって上映されていた。日本では言語や文化背景の相違も影響し、上映する際には口頭で説明することが求められた。
  日本は話芸の文化が多彩であり、特に人形浄瑠璃における太夫と三味線、歌舞伎における出語りのぞきからくり写し絵錦影絵の解説者といったナレーション文化がすでに定着していたために、説明を担う話芸者が舞台に登場することは自然な流れであったと考えられる。そのため、日本においては、映画作品の内容にあわせて台本を書き、上映中に進行にあわせてそれを口演する特殊な職業と文化が出現した。

  戦前には娯楽が少ない中で映画がその中心を占め、活動弁士もその状況に応じて活躍するようになり、西村楽天徳川夢声大蔵貢生駒雷遊國井紫香静田錦波谷天郎山野一郎牧野周一伍東宏郎泉詩郎里見義郎松田春翠大辻司郎のような人気弁士も現れるようになった。弁士に対して歌舞伎のような礼賛の掛け声がかかることがあった。
  弁士は舞台上でななめに構え、奥のスクリーンと観客席を交互に見ながら語った。このため当時の映画館には必ず舞台があった。

  しかし、映画の技術が発達して、音声が入るトーキーが普及するようになって以後は、活動弁士は不要となってしまう。このため、大半の活動弁士が廃業に追いこまれ、その多くが漫談講談師紙芝居司会者、ラジオ朗読者などに転身した。活動弁士には映画の解説を行う際に話術が高く要求されるため、その優れた話術や構成力がそのままタレントなどとなっても活かせたのである。なかには大蔵貢のように、映画会社の経営者に転身した者もいる。
  一方で、須田貞明(黒澤明の実兄)のように転身を図ることもできず、ストライキによる待遇改善の要求に失敗、精神的な挫折により自ら命を絶った者もいた。
  1932年4月、東京浅草松竹系映画館でトーキー化による生活不安と活弁・楽士の解雇反対ストライキがあった。
活動弁士の現況
  現在でもサイレント映画を上映する映画館は少なからず存在し、その上映のために活動弁士も少なからず存在している。現在の活動弁士として、澤登翠とその弟子の桜井麻美斎藤裕子片岡一郎(以上2002年に澤登翠に入門)、麻生八咫とその娘の麻生子八咫、その他に佐々木亜希子映画監督と活動弁士を兼業している山田広野、古典作品及び自作アニメに活弁を付ける坂本頼光などが東京を中心に活動している。また、大阪では井上陽一大森くみこなどが活動している。
  しかし、活動弁士を生業として、それのみで生活できるのは現在では澤登翠などごくわずかであり、大半の活動弁士は、山崎バニラ大森くみこのように声優ラジオパーソナリティとしてのメディア出演や、山田広野のように映画監督など、副業を持っている場合が多い。
その他
  日本領だった台湾や朝鮮には弁士が存在した。台湾では旧字体のまま「辯士」と表記され、使用言語は台湾語客家語などである。また朝鮮では朝鮮語を使用し、「弁士(변사)」と表記された。
  活動弁士から、一般的に使われる用語がある。「これにて一巻の終わり」などがそうである


日本の古本屋-https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=6371
『活動写真弁史』のこと

  活動写真弁士という職業がかつてあった、と書かれたり言われたりする機会は多い。オワコン、などという美しくもない、今やその言葉自体の方が古び、干からびてしまった蔑称を向けられたことも多々ある。だが、これらの評価は適切ではない。今も活動写真弁士は存在している。本書の著者である私が現役の活動写真弁士なのだから間違いない。我語る故に弁士あり、なのである。

  日本の古本屋を利用される皆さんの中には、徳川夢声の名を何となくは知っている方も多くおられると思う。活動写真弁士を芸能人生の起点とした夢声は、話術の名手らしい語る様な文体が特徴で、旺盛な筆力によって百冊以上の本を出した。彼の著作は映画史に止まらず、庶民からみた大正~昭和史の記述として評価が高く、当然、弁士時代の思い出を綴った文章も多い。
  見世物を語る上で朝倉無声は避けて通れず、弁士を語る上で徳川夢声は避けて通れない。まことムセイは大衆芸能を研究する者にとって、この上もなくアリガタイ名前である。
  だが、偉大過ぎる夢声の存在は、彼こそが弁士の到達点であり、彼の歩んだ道こそが弁士の王道であったとする「偏り」を生み出した。それほどまでに徳川夢声とは圧倒的に魅力的な存在なのだ。
  加えて、多くの映画史家たちが「弁士が日本映画の発達を阻害した」と繰り返し説いたことで、弁士の功罪のうち、罪の部分のみが映画史上で強調されてきた。
  活動写真弁士のイメージは半世紀以上、停滞していると言っていい。
  突然だが、私は恐竜が子供のころから好きだ。一度は地球の覇者となったにも関わらず、忽然とその時代を終えたところが好きだ。絶滅したと一般的に思われているにも関わらず、実は正当な末裔が存在しているところも良い。なんのことはない、活動写真弁士は芸能史上の恐竜なのだ。
  恐竜の研究は日進月歩だ。私が子供の頃に本で読んだ恐竜と、最新の研究結果から想像される彼らは、もはや別の生物だ。
  ならば、長きにわたった「活動写真弁士とはこういうもの」という固定観念を、恐竜の様に、更新する時期が来ているのではないか、その役割を担うのは自分だろう、と勝手に考えた。では、活動写真弁士の再評価を、どのようにすれば良いのか? 何しろ弁士は恐竜より世間に知られていないのだ。だが我が先達たちは雑誌に、新聞に、公文書に、あるいは私的記録に少しずつ存在の痕跡を残している。
  本書は、それら散り散りの記憶をひとつひとつ探し求め、並べ直し、点と点を結び、新たな活動写真弁士像を紡ぎ出すことに挑んだ。
  もし自画自賛が許されるならば幾つかの点において、その試みは成功している。少なくとも黒澤明に多大な影響を与えた、彼の実兄にして活動写真弁士の須田貞明こと黒澤丙午について、ここまで詳述した本は他にはない。
  今、改めて参考文献リストを見直すと、敬愛すべき先輩弁士たちの広大な行動範囲にあきれるばかりだ。まさか弁士の歴史を調べていて『南米調査資料』や『特高月報』を読もうとは思わなかった。もう少し穏便に生きられなかったものかと思うが、お前こそ弁士のクセに小さくまとまってどうするのだ、と反対に叱られそうでもある。
  活動写真弁士の歴史を綴った『活動写真弁史』と題した。どんなに願っても実際に対話することの叶わぬ人々と向かい合う時間でもあった。








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