イラク共和国



2019.10.7-Yahoo!!Japanニュース-産経新聞-https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191007-00000575-san-m_est
イラクの死者100人超 反政府デモ

【カイロ=佐藤貴生】カタールの衛星テレビ局アルジャジーラは7日、イラク各地に拡大した反政府デモで、少なくとも109人が死亡、6000人が負傷したと伝えた。これほどの犠牲者が出たのは、2年前に勝利宣言がなされたイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)との戦闘以来。アブドルマハディ首相の辞任を求める声がデモ参加者のほか国会の主要勢力からも出ており、首相は就任から約1年で最大の危機にひんしている。
 1日に始まったデモは首都バグダッドのほかナシリヤなど南部に拡大。治安部隊が各地で催涙ガス弾、放水などで鎮圧に当たった。バグダッドからの報道では狙撃手に射殺された者もいるもようだが、内務省高官は6日、政府軍兵士の関与を否定した。
 イラクには世界屈指の産油地帯があるが、IS追放後も汚職体質が断ち切れずインフラの再建が進んでいない。水道や電気が行き届かず、若者の失業率は25%に達するとの報道もある。
 政府はデモを受け、貧困層への住居手当や資金の貸し付け、失業者の職業訓練など17項目の改革案を提示した。ただ、国庫の資金は少なく汚職も横行しており、実現するかは不透明だ。国会で最大勢力を有するシーア派の反米有力指導者、サドル師は内閣退陣と前倒し選挙を要求、政局の混迷が深まりそうだ。


日本とイラクの関係
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歴史
イラク王国の独立から王制崩壊まで(1932~1958年)
イラク共和国の成立から湾岸危機まで(1958~1990年)
イラクのクウェート侵攻からサッダーム政権の崩壊まで(1990~2003年)
イラクの戦後復興および新イラク共和国の成立後(2003年~)


2003年7月、小泉純一郎内閣総理大臣の強い指導力のもとイラク特措法が成立し、同年12月には自衛隊がイラクに派遣されてサマーワを拠点に復興支援活動に当たった。陸上自衛隊2006年7月まで、航空自衛隊2008年12月まで活動した。特に、第一次復興業務支援隊長を務めた佐藤正久1等陸佐は現地のイラク人たちと良好な関係を築き、自衛隊が最初に架けた橋に現地住民が「Sato Bridge」(佐藤の橋)と命名するほどの好意を寄せられた。任務を無事に遂行して帰国した佐藤1佐はイラク復興支援活動で大いに名を上げ、2007年1月には自衛隊を退職、同年7月に行われた第21回参議院議員通常選挙に自民党の比例区公認候補として立候補して、初当選を果たしている。

2004年6月28日イラク暫定政権が発足したことを受けて、日本は同政府を承認[1]。約12年半ぶりに日本とイラクの正式な国交が回復した。2006年5月20日、イラクで初となる民主選挙によるイラク正式政府が発足。2014年2月25日、日本とイラクの両国間で投資協定が発効[1]2015年1月17日エジプトの首都カイロで開催された日エジプト経済合同委員会の席上において、安倍晋三内閣総理大臣は「ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します[15]」と公式に述べて、反ISIL(いわゆる「イスラム国」)およびイラク支持の姿勢を明確に打ち出した

貿易関係

イラクは、確認石油埋蔵量1400億バレル(2014年1月推定、CIA)という豊富な石油資源を有する世界第5位の産油国である[1]。原油生産量は日産380万バレル(2015年4月、IEA)で、うち一日当たり298万バレルが輸出に充てられており(2015年3月、イラク石油省アラビア語版英語版)、その中から一日当たり6万4100バレルほどが日本へ輸出されている(2014年12月、経済産業省「石油統計」

日本とイラクの貿易取引高はそれほど多くなく、2014年の日本からイラクへの輸出が約613億円、イラクから日本への輸入が約1632億円であり[1]、日本から見れば約1019億円の貿易赤字となっている。2015年のイラクの輸出相手国・地域のランキングにおいても、日本は、中国(イラクの輸出全体に占める割合の23.9%)、インド(21.4%)、韓国(11.8%)、アメリカ(8.6%)、イタリア(7.1%)、ギリシャ(6.5%)、オランダ(3.5%)、台湾(2.6%)、スペイン(2.4%)、シンガポール(1.9%)に次いで11位(1.9%)を占めているに過ぎない

イラクから日本への輸出品目はもっぱら石油であり、イラクが日本から輸入している品目は自動車鉄鋼製品機械類などである[1]1990年の湾岸危機から2003年のイラク戦争にかけての時期には日本とイラクの商取引に中断が見られたものの、両国が必要とする需要品目の傾向は基本的に大きく変わっていない。バアス党政権時代も含めて、日本からイラクへの輸出や現地進出は主に商社が担っている傾向にある。

例えば住友商事の場合、1965年からトヨタの自動車をイラクに輸出し始めており、イラン・イラク戦争のあった1980年代には年間7万台の自動車をイラクに輸出するようになっていた[11]。サッダーム政権に対する経済制裁が科されて日本とイラクの公式な関係がほぼ途絶していた時期にも、何度かヨルダンから陸路でイラク入りするなどして関係を繋ぎ止めており、これはイラク戦争終結後の日本からイラクへの自動車輸出の再開という形で結実した[11]。通常の舗装道路だけではなく砂漠の悪路での走行性能や耐久性能、耐暑性能をも問われるイラクにおいて、トヨタの自動車は非常に高く評価されており、イラクやシリアを侵略する国際テロ組織ISIL(いわゆる「イスラム国」)がランクルを愛好しているほどである

資源プロジェクト「サウス・ガス・ユーティライゼーション・プロジェクト」

三菱商事イラク石油省アラビア語版英語版ロイヤル・ダッチ・シェルの完全子会社サウス・ガス・カンパニーSouth Gas Company、以下SGC)と協力して立ち上げた、バスラ・ガス・カンパニーBasrah Gas Company、以下BGC)による南部ガス回収・有効利用プロジェクト「サウス・ガス・ユーティライゼーション・プロジェクト」(South Gas Utilization Project)は、商社のイラク進出の重要な例として挙げられる。このプロジェクトは、原油生産に随伴して産出される日量7億立方フィートもの膨大な天然ガス資源(日本の天然ガス総需要の約7%に相当)が有効活用されないままフレアー(燃焼処理)されてしまっているのを、回収、有効利用することを狙いとするものである[19]。まず2008年9月、ロイヤル・ダッチ・シェルがイラク石油省との間で同省傘下のサウス・ガス・カンパニーと共にプロジェクトを推進する合弁会社を設立する旨の覚書を交わすことから始まり、2009年8月には、同プロジェクトに三菱商事が参画し、三菱商事がBGC[20]の株式5%を取得する合意を締結した[19]2011年11月15日に同合意がイラク政府閣議承認を得たことでBGCが正式に発足、その出資比率は、SGCが51%、シェルが44%、三菱商事が5%となった[21]。加えて同月中、独立行政法人日本貿易保険(NEXI)が三菱商事の出資に対して「イラクの非常危険」を対象とした海外投資保険を引き受けている[22]2013年5月、約1年半に渡った事業化調査を終え、BGCはイラク南部の三つの油田(ルメイラズバイルアラビア語版英語版およびウェストクルナフェーズ1)から随伴で産出されるガスを全量回収・精製・分離して、発電用ガス・液化石油ガスコンデンセートを生産する事業が操業開始された[23]。原油価格の暴落[24]という一点を除けば同プロジェクトは順調で、2016年2月、BGCのサイモン・ダマン・ウィレムス社長 (Simon Daman Willems, Managing Director) は「当社は現在、毎日6億立方フィート以上のガスを処理しており、向こう数年で更に処理能力を成長させて行こうという野心的な目標を持っている。」と語り、2015年12月に日産2200トンだったLPGの生産量が、2016年1月には日産3300トンに上昇したことを付言した


イラク
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イラク共和国、通称イラクは、中東の連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェートシリア、トルコ、イランヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。

イランとは、イラク戦争バアス党政権が崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復興支援を受けた。また、同じシーア派ということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親イラン傾向が強まっている。

エジプトとは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。イラン・イラク戦争での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。

シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立。レバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない、1980年代後半には反シリアのキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、多国籍軍機甲部隊特殊部隊を派遣し、レバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アル=アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。

ヨルダンとは、イラン・イラク戦争および湾岸戦争でイラクを支持したため、両国の関係は強まった。1999年にアブドゥッラー2世が即位して以降も依然として良好である。
イスラエルとは、1948年、1967年、1973年の中東戦争に参戦し、強硬な態度を取った。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ (この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず、同年9月のアラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章 (Fez Initiative) にも支持を表明した。ただし、湾岸戦争では、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求し、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルで攻撃した。

王政
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。一方、アングロ・ペルシャ石油英語版メロン財閥傘下のガルフ石油とが共同出資して1934年クウェート石油英語版を設立。1938年、クウェート石油はブルガン油田を発見した。
1941年4月1日イラク・クーデター英語版によりラシード・アリー・アル=ガイラーニー英語版のクーデター政権が出来たが、5月のイラク戦役英語版で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐
1943年en:1943 Barzani revolt1945年12月、ムッラームスタファ・バルザーニー英語版ソ連占領下の北西部マハーバード英語版クルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊 (en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。
1948年en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)5月15日第一次中東戦争 (1948年 - 1949年) が勃発。
1955年中東条約機構 (METO) に加盟。 1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争 (1956年 - 1957年) が勃発。アブドルカリーム・カーシム自由将校団 (イラク)英語版が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。

アラブ連邦
1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。

軍事

2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。駐留多国籍軍は、米軍が15万人以上、ほかに27カ国が派遣しているが、治安部隊要員の拡充により、戦闘部隊は減少傾向にある。

クルド地方3県 (エルビル県、スレイマニヤ県及びドホーク県)、南部5県 (ムサンナー県、ズィーカール県、ナジャフ県、ミーサーン県、バスラ県) 及び中部カルバラ県の計9県で、治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県では、クルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 (スンニ派) が治安維持に貢献しているとされる。

経済

IMFの統計によると、2013年GDPは2,293億ドルである。一人当たりのGDPは6,594ドルで、これは世界平均の60 %を超え隣国のイランヨルダンを上回る水準であるが、産油国が多い中東ではやや低い数値である。

通貨はイラク戦争後のイラク暫定統治機構 (CPA) 統治下の2003年10月15日から導入されたイラク新ディナール(IQD)。紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0.1円

イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年にキルクークで発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。

1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリスBPのもとに留まった。利益はすべてイギリスの収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。

第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50 %がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。イラクはその後ソ連に接近、南部最大のルメイラ油田がソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。

1980年に始まったイラン・イラク戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、原油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。
1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとする暫定自由政府の要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。

イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。

1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為 (湾岸戦争) で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。

1996年12月に国連石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。2001~2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。[11]。 医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出は未だにイラン・イラク戦争前よりも低い。

民族

国連の統計によれば、住民はアラブ人が79 %、クルド人16 %、アッシリア人3 %、トルコマン人 (テュルク系) 2 %である。ユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国に伴うアラブ民族主義の高まりと反ユダヤ主義の気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しており、クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。

かつては、スーダンからの出稼ぎ労働者やパレスチナ難民も暮らしていたが、イラク戦争後のテロや宗派対立によりほとんどが、国外に出国するか国内難民となっている。また、イラン革命を逃れたイラン人がイラク中部のキャンプ・アシュラーフ英語版と呼ばれる町に定住している。

イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。

マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。

南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。

また、アフリカ大陸にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。そのほとんどが、アラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。


2019年3月
イラン  イラク
   イランロウハニ大統領は隣国イラクへの3日間の訪問を終えましたが、イラクアブドルマハディ首相との貿易拡大や両国間の鉄道敷設
     に関する覚書に署名・・・と良好な関係をアピールした。トランプ大統領は、イラク側にイランとの関係を絶つように求めていたが、イラクに
     とっては、天然ガスや電力の供給元であるイランはトルコに次ぐ貿易相手である。双方は商業関連ビザ(査証)を無料で発給する方針でも
     合意している。(2019.3.14)


イラン・イラク戦争
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  イラン・イラク戦争は、1980年から1988年にかけて、イランイラクとの間で行われた戦争1980年9月22日に始まり、1988年8月20日国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦を迎えた。
  「イライラ戦争」、「イ・イ戦争」とも呼ばれた。また「(ペルシャ)湾岸戦争」と呼ばれた時期もあったが、1990年代以降の日本では「湾岸戦争」と呼ぶ場合、1990年-1991年のイラクのクウェート侵攻に端を発した戦争(第二次湾岸戦争)を指すようになった。しかし、アラブ諸国では、第一次湾岸戦争と呼ばれることも少なくない。
背景
  この戦争はイスラム教内のシーア派スンナ派の歴史的対立や、アラブペルシアの歴史的な対立の構図を現代に復活させたといえる。また、イスラム革命に対する周辺国と欧米の干渉戦争と捉えることもできる。
  両国の石油輸出にとって要所であるシャトル・アラブ川(アルヴァンド川)の使用権をめぐる紛争は、戦争以前にも長年の間、衝突の原因だった。シャトル・アラブ川(アルヴァンド川)はペルシア湾に注ぎ込むチグリス川ユーフラテス川の下流域で、両国の国境にあたる。同河川沿いの都市バスラはイラク第二の都市で、石油積み出し場として重要な港でもあった。
  イランでは1979年シーア派によるイスラム革命があり、親米君主制を行っていたパーレビー王朝による白色革命や古代アケメネス朝ペルシア帝国を称えるイラン建国二千五百年祭典の世俗性を批判していたホメイニーの指導下、周辺のスンニ派アラブ諸国とは異なる政治体制「イスラム共和制」を敷き、宗派だけでなくて世俗主義や君主制でも相容れないアラブ諸国の警戒感を強めたが、イラン国内の混乱が増し、保守派の粛清のために軍事系統にも乱れがあると見られ、敵対する周辺国にとっては好機であった。
  一方、イラクでは1979年当時大統領に就任したサッダーム・フセインは、第四次中東戦争の英雄から一転イスラエルとの和平により、前年1978年バグダッドでの首脳会議によってアラブ連盟を追われた、エジプトアンワル・アッ=サーダート大統領に代わってアラブの盟主となって古代メソポタミア文明の栄光を蘇らせる野望を抱き、アラブ帝国の再興を掲げるイラク・バアス党を反対派の粛清で掌握して独裁を確立した。石油危機で高価になった原油の輸出で得た潤沢な資金を投じた積極的な軍備拡張でイラクは中東最大・世界第四位の軍事大国となり、自らがパーレビー王朝と結んでいたアルジェ合意テレビの前で破り捨て、イランの重要な油田地帯でかつてメソポタミアからの侵略を何度も受けていたフーゼスターン州を「アラビースターン」と呼んでアラブ領土の失地回復という大義名分でイラク領への編入を目論んだ。
経過
イラクの奇襲
  1980年9月22日未明、イラク軍が全面攻撃、イランの10の空軍基地を爆撃、イラン軍が迎撃するという形で戦争は始まった。ただし、9月に入った時点で国境地帯での散発的な戦闘や空中戦が起こっていた。この攻撃は、1975年にアルジェリアの仲介で、イランとイラクの国境を画定するために結ばれたアルジェ協定の一方的破棄であった。この急襲で基地施設の破壊は成功したが、肝心な戦闘機の破壊は失敗。翌日、イラクは両国の644kmに渡る国境線を越え三方向から地上軍を侵攻。南部戦線ではフーゼスターン州に橋頭堡を確保しシャトル・アラブ川(アルヴァンド川)流域のアーバーダーンホラムシャハルを包囲する目的だった。中部戦線ではイーラーム州ザグロス山脈の麓を制圧した。これはイランの反撃に備えるためで、北部戦線ではスレイマニヤの制圧を目指した。これはイランの反攻でキルクークの石油施設が破壊されるのを防ぐ狙いであった。
  準備の面で勝るイラク軍は、革命で混乱したイラン軍の指揮系統などの弱点をついた。イランは正規軍であるイラン・イスラム共和国軍と、正規軍の反乱に備えて創設されたイスラム革命防衛隊が共同して作戦を実施することができなかった。それでも、破壊を免れたイラン空軍機は制空権を確保してイラクの石油施設や首都バグダッドなどを爆撃したほか、イラン海軍はバスラを攻撃した。しかし、イラク軍はホラムシャハルを占領、アフヴァーズを目指す勢いであり、11月にはイラン西部国境地帯の一部を占領した(詳細はイラン侵攻 (イラン・イラク戦争)を参照)。
  イランの軍備は長らく親米政権であったため、ほとんどが米国製であった。これらを扱う技術者もアメリカ人であったが、革命の際に全員が国外退去となり、兵器の整備や部品調達が難しくなっていた。
  イランのイスラム革命に介入しようと、当時懸案のイランアメリカ大使館人質事件で対立関係にあったアメリカ合衆国欧州ソ連中華人民共和国などはイラクを積極支援した。当時サウジアラビアに次ぐ世界第2の石油輸出国だったイラクは戦争を先進国の利害に直接結びつけ、石油危機に怯える石油消費国を戦争に巻き込む戦術をとっていた。また、革命後のイラン国内では反米運動が盛りあがり、イランのイスラム革命精神の拡大を恐れたことも関係する。
  特にソ連、フランス、中華人民共和国は1980年から1988年までイラクの武器輸入の90%も占め[10]、後の石油食料交換プログラムでもソ連の後継国ロシア、フランス、中華人民共和国の3カ国はイラクから最もリベートを受けている。アラブ諸国スンニ派や世俗的な王政・独裁制が多い為、イランの十二イマーム派イスラム革命の輸出を恐れイラクを支援し、クウェートはペルシア湾対岸にイランを臨むことから、積極的にイラクを支援、資金援助のほか、軍港を提供するなどした。国内にイスラム教徒を抱えていたソ連はイスラム革命後にイランの隣国アフガニスタン侵攻しているが、これはアフガニスタンの親ソ政権の転覆を恐れた為とされている。イラクを全面支援してイランの鼻先を通るクウェートのタンカーにはソ連の護衛が付いており、イランは手出しができなかった。
  東西諸国共に対イラン制裁処置を発動、物資、兵器の補給などが滞り、また革命の混乱も重なって人海戦術などで応じるしかなかったため、イラン側は大量の犠牲者を出す。兵力は1000人規模で戦死者が共同墓地に埋葬されている。しかし、全般的には劣勢で、時にはイラン兵の死体が石垣のように積み重なることもあった。完全に孤立したイランはイラクへの降伏を検討しなければならなくなっていた。
形勢の逆転
  しかし、イラクの予想よりもイラン国民の士気は強く、20万を越える義勇兵が前線に加わった。イラク軍部と与党であるバアス党の意見の違いなどから、戦線は1981年5月には膠着。政治的に完全に孤立したように見えたイランであったが、中国は1980年から1988年までイラン最大の武器供給国であり、これは革命前のイランに訪れた最後の外国首脳である華国鋒が、パフラヴィー朝を支持したと見做されたことで冷却化した関係を修復するためとされ、その裏では中国はイラクの反発を避けるために、その2倍以上の武器を同国にも供与していた。当時の中央情報局(CIA)は「中国はイラン最大の武器供給国だが、皮肉なことに中国最大の武器取引相手はイラクである」と報告している。また、米国もイラクに対する武器輸出や経済援助などを行う裏で、革命の際のテヘランのアメリカ大使館占拠事件において、人質の解放をめぐる取引の一環かつニカラグア内戦を戦う反共部隊「コントラ」への資金援助のため、ある時期にイランに対しても武器輸出を行った(イラン・コントラ事件)。さらにパフラヴィー朝と友好関係にあったイスラエルは、イラクとも敵対していたために「敵の敵は味方」の方針でイランに武器を援助しており、米国製部品をイスラエルが調達する代わりに、イスラエルはマーク・リッチを通じてイランから石油を得ていた。加えて、スンナ派主導の他のアラブ諸国と異なり、国家元首のアサド一族をはじめ、少数派のアラウィー派が政権を握るシリアと、独自のイスラム教社会主義を掲げるリビア共産主義反米的な北朝鮮がイランに味方した。奇しくもイスラエルとアラブ諸国の中でも反イスラエルの急先鋒だったシリアとリビア、イスラエルの後ろ盾のアメリカと対立していた北朝鮮が、それぞれの思惑でイランを支援し間接的な共闘関係が発生した。北朝鮮はイランを支援したことを理由に、1980年10月にイラクから断交されており、このときから親密なイランと北朝鮮の関係が構築された。シリアについてもイラン・イラク戦争以来事実上の同盟関係を継続しており、後の2011年から続くシリア内戦でイランは終始アサド政権を支持・支援し、アサド政権が守勢に回っていた時期には地上軍を派兵している。
  1981年6月7日イスラエル空軍機がヨルダン、サウジアラビア領空を侵犯し、イラク領に侵入、フランスの技術で建造中の原子力発電所を空爆、破壊した(イラク原子炉爆撃事件)。このため、イラクはイスラエル方面の防空を強化しなければならなくなった。
  1982年4月、シリア経由のパイプラインが止められ、イラクが石油の輸出をできなくなった頃から戦況は動き始める。5月24日にイランはホラムシャハル港を奪回、3万人のイラク兵を捕虜とした。6月には旧領土ほぼ全域を奪還、逆にイラク国内への攻勢に出る。イランの勝利もありうると考えたイラク側が休戦を持ちかけるきっかけとなったが、戦況を巻き返したイラン(とりわけ最高指導者ホメイニ)はフセイン体制打倒に固執した為、戦争は終結しなかった。11月にはイラク軍が反撃、イランのカーグ島の石油基地を破壊した。
沈静化
  この年、シリアの占領下のレバノンイスラエル軍が侵攻、レバノン内戦が再燃。このため欧米の目は急速にレバノンへ向き、火消しに躍起になった。アメリカはフランスと共に軍をレバノンへ派遣した。なお、このレバノン内戦の裏ではイスラエルとイラン間で密接に連絡していた。また、1982年、イギリスフォークランド戦争、アメリカは1983年10月グレナダ侵攻、ソ連もアフガニスタンで手間取った為、世界の目はこの戦争から離れた。しかし、1983年にレバノンのアメリカ・フランス軍のキャンプが自爆テロ攻撃を受けた為、報復にシリア軍を艦砲射撃して1984年2月に撤退した(アメリカ大使館爆破事件)。
再燃
  アメリカ軍撤退の直後、イラン・イラク間の戦闘が再燃した。3月に国際連合の調査によりイラクの化学兵器タブンなどの毒ガス兵器使用が判明すると、戦争に対する世界的な非難が高まった。11月にイラクはアメリカと正式に国交を回復し、援助は公式なものとなった。
  翌1985年3月、イランとイラクは相互に都市をミサイルで攻撃。イラクはソ連のスカッドを改良した「アル・フセイン」をイランの都市へ撃ち込んだが、これによってイランはミサイル開発にこだわるようになる。5月にはイラク空軍機、テヘラン空襲。1986年6月にはイラク軍のミサイルがイランの旅客列車に命中した。
アメリカの介入
  

両国が殺戮の応酬を繰り返す中の1986年3月、イランを支援し続けるリビア(リビアは当時チャド・リビア紛争もしていた)とアメリカ軍機がシドラ湾で交戦、アメリカは4月にリビアを攻撃した。しかし12月、アメリカでイラン・コントラ事件が暴露されてしまった。大統領ロナルド・レーガンは窮地に立たされると、取引を持ちかけたのはイランだとして激しく非難した。クウェートへの攻撃を防ぐ為、クウェートのタンカーには星条旗を掲げさせ、アメリカ軍艦の護衛をつけた(アーネスト・ウィル作戦)。

対してイランは1987年1月に「カルバラ5号作戦」を実行。イラク領へ向け南部戦線に大攻勢をかけ、ようやくイラク軍に損害を与えることができた。また、イラク国内の反政府的なクルド人を支援して反乱を起こすよう仕向け、イラク軍の弱体化を狙ったが、これに対してイラク軍は反乱クルド人に化学兵器を使用したため、事態を知ったイラン軍の士気は下がった。

7月20日国際連合安全保障理事会598号決議を採択した。即時停戦ほか、公正な機関による戦争責任の調査、交戦を継続する場合には武器の輸出停止、経済制裁を行うという内容であった。先にイラクが受諾の姿勢を見せたが、8月からペルシャ湾に大量の機雷が浮遊するようになる。イラクは報復としてイランのタンカーを攻撃、9月からアメリカ軍のヘリコプターが出動したが、これに対してイランはアメリカのタンカーを攻撃した(タンカー戦争)。

またアメリカ海軍は10月、アーネスト・ウィル作戦としてクウェートが保有するアメリカ船籍の石油タンカーの護衛についていたが、タンカーが攻撃を受けたことから、報復として10月19日イランの持つ2つの油田を攻撃した (Operation Nimble Archer 作戦) 。また、この作戦は歴史上最大の株価暴落 (ブラックマンデー) を引き起こした。

1988年2月、イランとイラクは相互都市攻撃を再開、ここにおいてアメリカ軍がペルシャ湾に出動、4月14日にイランとの間で交戦となった(プレイング・マンティス作戦)。さらに、それまでイランに寛容だったサウジアラビアが断交を通告。イランは7月に安保理決議598号の受諾を表明し、8月20日に停戦が発効した。

この戦争の間、ペルシャ湾岸諸国(サウジアラビアクウェートアラブ首長国連邦カタールバーレーンオマーン)は湾岸協力会議GCC)を結成し、地域の安定を求めた。GCCはアメリカが後ろ盾となり、各国にアメリカ軍兵器を輸出した(サウジアラビアは見返りとしてアメリカからF-15戦闘機などを購入することができた)。また、サウジアラビアは米国には秘密で中国の弾道ミサイルDF-3を導入してイランからの攻撃に備えた。

1989年6月、イランの革命の父ことホメイニーが死去した。翌1990年9月10日にはイラン・イラク両国間で国交が回復した。

なお、1990年の8月2日にイラクはクウェートに侵攻しており、翌年に湾岸戦争となった。

影響

 

両国の犠牲者は100万人程度と推定され、経済的な被害も大きい。

一説では、この戦争を通じてイラクがクウェートに対して抱え込んだ負債を帳消しにすることが、湾岸戦争へ発展する、イラクによるクウェート侵攻の目的のひとつであったとされる。

日本との関連[編集]

在留邦人脱出[編集]

なかなか終わらない戦争に対し、日本では両国の名前をもじって「イライラ戦争」と呼ばれた。両国の都市爆撃の応酬が続く最中の1985年3月17日、48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃するとサッダーム・フセイン大統領が突如宣言した。

この宣言後、イランに住む日本人以外の外国人は、おのおの自国の航空会社や軍の救援機によって順次イランから脱出していった。

しかし、日本においては当時自衛隊が海外へ救援機を飛ばすことはできず[注 1]日本航空にチャーター便の派遣を依頼したが、同社のパイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、安全が保障されないことを理由に拒絶した。その間、在イラン日本大使館では手を尽くして救援機を派遣した各国と交渉したものの、いずれの国も自国民救出に手一杯であり、希望者全てを乗せてもらうことは到底かなわず、未だ200名を超えるイラン在外日本人が全く脱出方法が見つからずに、生命の危機に瀕する状況にあった。

トルコ政府の協力[編集]

しかし、土壇場で個人的な親交に一縷の望みを託した野村豊在イラン特命全権大使がイスメット・ビルセル在イラン・トルコ特命全権大使に救援を要請したところ、トルコ政府が応じ[注 2][26]ターキッシュ・エアラインズの自国民救援のための最終便を2機に増やしたため、215名の在留邦人がそれに分乗してイランを脱出した。タイムリミットの1時間15分前だった。

なお、トルコ機は自国が近隣に位置することから陸路での脱出もできる自国民よりも日本人の救出を最優先し、実際この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は陸路自動車でイランを脱出した。このようなトルコ政府とトルコ航空の厚情の背景には、1890年(明治23年)日本に親善訪問した帰途、和歌山沖で遭難したフリゲートエルトゥールル号救助に際し日本から受けた恩義に報いるという意識もあったと言われている[27]

2015年、日本・トルコ修好125周年を記念し、エルトゥールル号遭難事件とテヘラン邦人救出劇を描いた映画『海難1890』が日本・トルコ合作映画として製作された。


主要な戦闘[編集]


























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