イラク共和国-1


2024.01.26-産経新聞(KYODO)-https://www.sankei.com/article/20240126-DICWOWBL2BMJXMZ67PZGC2YCIY/
米イラク、駐留軍見直しへ 軍事委新設、撤退も協議か

  オースティン米国防長官は25日、米イラク両政府が安全保障協力を協議する「上級軍事委員会」を新設し、近日中に議論を始めると発表した。イラクには米軍主導の有志連合軍が駐留している。国防総省は、連合軍の撤退を話し合う場ではないとしつつ、駐留規模の見直しを示唆。一方、イラク外務省は撤退に向けて米側と協議を始めると発表した。

  連合軍はイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)掃討を目的としており、うち米兵は約2500人。イラク外務省は声明で、ISの活動状況を分析し、イラク治安部隊の強化策を検討した上で連合軍の任務を終えると説明。連合軍の駐留期間を明確に定め、段階的な削減を目指すとしている。
  イスラエル軍とイスラム原理主義組織ハマスの戦闘が昨年10月に始まって以降、イラクやシリアの駐留米軍は親イラン組織から攻撃を受けている(共同)


2024.01.17-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20240117-PBNB52TLAVI55EMZSX26JNFM6I/
イラク政府、イラン革命防衛隊の攻撃に反発 駐イラン大使を召還

  【カイロ=佐藤貴生】イラン革命防衛隊がイラク北部のクルド人自治区アルビルを弾道ミサイルで攻撃したことを受け、イラク政府は16日、イランに駐在する大使を呼び戻して抗議の意を示した。米仏もイラクの主権を侵害する「無謀」な攻撃だとイランを非難した。

  ロイター通信などが伝えた。昨年12月、イスラエルによるとみられるシリアへの攻撃で革命防衛隊の顧問が死亡し、イランは報復すると言明していた。イランはイスラエルと戦うイスラム原理主義組織ハマスを支持し、各地の民兵勢力とも連携している。中東情勢はさらに不安定化しそうだ。
  革命防衛隊は15日、アルビルにミサイルを発射、少なくとも4人が死亡した。イスラエルの対外特務機関モサドの拠点を標的にし、破壊したとしている。これに対し、自治区のバルザニ首相は「クルド人に対する犯罪だ」と非難した。現場は米国の総領事館の近くだが施設や職員は無事だった。
  イラン外務省報道官は16日、革命防衛隊が15日、シリア北西部イドリブのイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)の拠点にも弾道ミサイルを発射したと述べた。ISは3日、イラン南東部ケルマンで80人以上が死亡した爆発事件で犯行声明を出し、イランは報復を明言していた。
  報道官はイラクとシリアへの攻撃について、「主権と治安を守る政策に基づくものだ」とし、「報復する権利はためらわずに行使する」と述べ、警告した。


2022.08.30-熊本日日新聞(KYODO)-https://kumanichi.com/articles/774706
イラク衝突、30人死亡 抗議活動、各地に波及

  【カイロ共同】イラクでイスラム教シーア派指導者サドル師支持者が政府や他の政治勢力に対する抗議活動を激化させ、政情の不安定化に懸念が広がっている。首都バグダッドで29日に始まった抗議は30日までに各地に波及。AP通信によると、30日までに少なくとも30人が死亡、400人以上が負傷した。

  カディミ首相は軍部隊を使ったデモ隊排除に慎重な姿勢。シーア派民兵組織、人民動員隊(PMF)は行動の抑制を表明した。衝突の拡大を警戒しているもようだ。
  国連イラク支援団(UNAMI)は「国家の存続がかかっている」と危機感を表明した。


2022.01.06-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220106-CDEFD3DAMJIZJNIFYYXWID5WII/
イラク駐留米軍施設への攻撃頻発 親イラン民兵組織か、撤収を要求

  【カイロ=佐藤貴生】イラクで1月に入り、無人機などによる駐留米軍施設への攻撃が相次いでいるイランと連携するイスラム教シーア派の民兵組織は米軍に駐留をやめてイラクから撤収するよう求めており、これらの組織が攻撃している可能性がある。イラクを舞台に勢力争いを展開する米イランの間で緊張が高まる局面も予想される。

  ロイター通信によると、イラクの首都バグダッドの国際空港近くにある米軍駐留基地に3日、無人機2機が接近し、防空システムで撃墜された。同基地には5日もロケット弾が撃ち込まれたが、いずれも死傷者はなかった。4日には中西部のアサド空軍基地近くで無人機2機が撃ち落された。
  米国主体の有志連合軍が公表した3日の撃墜現場の映像では、無人機の部品に「ソレイマニの復讐(ふくしゅう)」という文字が書かれていた。ソレイマニ氏はイランの対外工作を担う革命防衛隊の精鋭「コッズ部隊」の司令官で、この日はバグダッドで米軍の空爆により殺害されてからちょうど2年の節目だった。
  イランは司令官が殺害された直後、アサド空軍基地などイラク駐留米軍の拠点を十数発の弾道ミサイルで報復攻撃し、一時は戦争への危機感が高まった。
  イランの反米保守強硬派、ライシ大統領は3日、司令官殺害当時の米国大統領トランプ氏と国務長官のポンペオ氏について、「暗殺の犯罪行為を裁く公平な裁判にかけられなければ、イスラム教徒は復讐する」と述べた。

  バイデン米政権は昨年末、スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)の掃討に一定のメドがついたとしてイラク駐留米軍の戦闘任務を終了したが、治安部隊への助言や訓練のため米兵約2500人がイラクで駐留を継続している。



2021.12.10-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20211210-T4D34DIAFVK3FP7IPH2VKD6JBQ/
米軍、イラク戦闘任務終了 治安部隊支援で駐留継続

  米国防総省は9日、過激派組織「イスラム国」(IS)掃討作戦イラクに駐留する米軍が戦闘任務を同日までに終了したと明らかにした。イラク治安部隊がISとの戦いを率いる能力を身につけたとしている。治安部隊を支援するための駐留は続ける。イラク政府も確認した。

  バイデン米大統領が7月に年内の任務終了方針を示していた。米軍は8月にアフガニスタンからの撤退を完了。安全保障の中心を占めてきたテロ対策への任務を縮小し、覇権を争う中国との競争に取り組むための体制構築を進めたい考え。 イラク軍高官は、米軍主導の有志連合軍の任務はイラク部隊の訓練や助言に移ると説明した。米メディアによると、有志連合軍約2500人がイラクに駐留している。
  米軍は2003年に始まったイラク戦争の終結後の11年にいったん完全撤退した後、IS掃討作戦のために14年からイラク政府の要請を受ける形で駐留を再開。IS残党対応や訓練、助言の任務に当たってきた。イラク政府は17年末に対IS勝利を宣言し、治安は改善傾向にある。(共同)


2021.11.08-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20211108-AQZDJSFWVFOONID4UNLSAD2ITM/
親イラン民兵組織の関与が焦点 イラク首相暗殺未遂

  【カイロ=佐藤貴生】イラクで起きたカディミ首相の暗殺未遂事件で、バイデン米大統領は7日、「イラクの民主化プロセスを傷つけるテロ攻撃を強く非難する」との声明を出し、イラク政府当局の捜査を支援する意向を示した。カディミ氏と対立する親イラン民兵組織が関与したかが捜査の焦点に浮上しつつある。
  事件は7日、首都バグダッドのカディミ氏の住居で発生。攻撃には少なくとも2機の無人機が使われ、レーダー探知を避けるため低空で接近したもよう。当局は無人機の出発地を特定したほか、回収した無人機の部品の分析を進めている。

  カディミ氏は声明で「私たちは彼ら(犯行集団)をよく知っている」とし、捜査を急ぐ方針を強調した。また、バグダッドの政治評論家はAP通信に、攻撃は「選挙で敗れた者がカディミ氏の首相続投を阻止するために行った」と述べ、親イラン民兵組織が関与したとの見方を示唆した。
  10月10日に行われたイラク国会選では親イラン勢の議席大幅減が見込まれ、連携する民兵組織が反発。今月5日には支持者らが大規模な抗議デモを行って治安部隊と衝突し、少なくとも1人が死亡、数十人が負傷したばかりだった。
  昨年5月に情報機関トップから首相に就任したカディミ氏はイラン寄りだった従来の政府の路線を転換、米国にも配慮する政策を進めた。このため、親イラン民兵組織との関係が悪化し、イラク駐留米軍の施設を攻撃する民兵組織を統制できない状態だった。
  選挙ではシーア派有力指導者サドル師の政治組織が第1党の座を維持する見通し。米、イランの内政干渉を嫌うサドル師はカディミ氏と良好な関係にあり、同氏が首相を続投するとの見方も出ていた。議席確定後の連立交渉で親イラン勢が連立与党から外れるようなら、さらに緊張が高まる事態も否定できない。

  イラクでは今年、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)が自爆テロを行うなど再台頭の兆しをみせている。バイデン政権は今年末までにイラク駐留米軍の攻撃任務を終了する方針で、情勢不安定化を懸念する向きもある。


2021.11.08-BBC NEWS JAPAN-https://www.bbc.com/japanese/59202376
イラク首相、自宅をドローン攻撃されるも無事 暗殺未遂か

  イラクのムスタファ・アル・カディミ首相は7日、自宅が無人飛行機(ドローン)による攻撃を受けたが、自分は無傷だったと公表した。首相の自宅は首都バグダッドの厳重警戒区域(グリーンゾーン)にある。
  当局者によると、爆発物を積んだドローンが住居に衝突し、ボディーガード6人が負傷した。暗殺未遂とみられる。カディミ氏は「すべての人に平静と自制」を求めると述べた。
  イラクでは先月、国民議会選挙があり、その結果を受けて暴力的な衝突が起きている。

  BBCのアナ・フォスター中東特派員によると、親イラン政党側が低迷し多くの議席を失ったことから、支持者らが再集計を求めてグリーンゾーン前で抗議デモを続けている。
  一方で、最多議席を獲得した、イスラム教シーア派のムクタダ・アル・サドル師が率いる政党は、イランや西側諸国の干渉を受けない政府の樹立を目指している。
  フォスター特派員は、こうした政治的な分断が政情不安を高めていると指摘。今回の暗殺未遂について、緊張が危険な形でエスカレートした可能性もあると解説した。
2機は撃墜
  治安当局者によると、攻撃にはドローン3機が使われた。チグリス川にかかるリパブリック橋付近から飛び立ち、2機は撃ち落とされた。攻撃実行者は声明を出していない。グリーンゾーンには多くの国の政府関連施設や大使館が集まっている。
  現地メディアが掲載した写真には、首相の住居の一部や、車庫内のスポーツ用多目的車(SUV)が損壊した様子が写っている。治安当局者はロイター通信に、ドローンの残骸を集めて調査すると述べた。
  「誰が攻撃を実行したのか断言するにはまだ早い」、「情報当局の報告を検証しており、実行者に関する初期捜査の結果を待っているところだ」と、治安当局は話している。爆発物を積んだ商用ドローンは、武装勢力のイスラム国(IS)が、イラク北部を制圧した際に使った。特に2017年のモスルでの戦いにおいて使用が目立った。
  カディミ氏は情報機関の元トップで、昨年5月に首相に就任した
イラク内外から非難
  首相の自宅が攻撃されたことに対し、各方面から非難が相次いだ。
  ムクタダ・アル・サドル師は、「イラクを非国家勢力が支配する混乱状態に引き戻す」ことを狙ったテロ行為だと批判。
  バルハム・サリフ大統領は、イラクに対する凶悪犯罪だとツイートした。「イラクが混乱と立憲制度の転覆へと引きずり込まれるのは受け入れられない」。
  イラン国家安全保障最高評議会のアリ・シャムハニ書記は、イラクで「外国のシンクタンク」が「テロリストと占領勢力を作り出し、支持している」と主張。イラクを不安定にしていると訴えた。
  イギリスのボリス・ジョンソン首相は、攻撃を強く非難するとカディミ氏に電話で伝えた。アメリカのジョー・バイデン大統領は、攻撃実行者の責任追及が必要だと述べ、「イラクを弱体化させようと暴力を使用した人たちを最大限に」非難するとした
  国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、イラク国民に向け、「いかなる暴力も、イラクの不安定化を狙った試みも拒絶する」よう呼びかけた。


2021.10.18-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20211018-GDBTKX2VEZPWVLASG45TGSFOLQ/
下ー宗派・民族の壁、和解を困難に フセイン「負の遺産」克服
(バグダッド 佐藤貴生
(1)
  高速道路ではタイヤが燃やされ、広場は声を上げる若者たちで埋まった。2019年10月、汚職拡大や経済低迷への怒りからイラクの首都バグダッドで始まった反政府デモは、数カ月続き、治安部隊との衝突で600人近くが死亡した。
  デモでは赤、白、黒のイラク国旗が多数掲げられた。政界の腐敗撲滅とともに国民の団結を求める若者たちのメッセージだ。イラクはイスラム教シーア派が人口の6割以上を占め、残りは大半がスンニ派と、独自の言語を持つ少数民族クルド人で構成される。

  当時、デモに一時加わったバグダッドの政治評論家ワエル・シュクル(43)は、団結を妨げてきた宗派・民族対立について「過去ではなく未来を向かなくてはならない。国民統合が実現すればこの国はよくなる」と主張した。
  イラクでは聞きなれた言葉だが、実際はそう簡単ではない。政党も有権者も宗派・民族別に分かれており、他の集団への不信感も根強い。それを植え付けたのがサダム・フセイン独裁政権(1979~2003年)だ。
  少数派のスンニ派に軸足を置くフセインは、シーア派やクルド人を虐殺して恐怖による統治を進めた。03年のイラク戦争開戦でフセインが排除されると多数派のシーア派の怒りが噴出、スンニ派との間で激しい宗派抗争も起きた。

  フセイン打倒で中央政府の主導権はシーア派に移ったが、民族和解の困難さを示す事例は最近も起きた。米英の保護を背景に06年に自治政府を発足させたクルド人が17年、独立の可否を問う住民投票を強行。賛成が9割を超え、危機感を抱いた中央政府は自治区に経済制裁を科し、軍も進駐させて独立の機運を封じた。
(2)
  しかし、今月10日に実施されたイラク国会(定数329)総選挙では、宗派・民族を分かつ壁に小さな穴が開いた。19年のデモを受け、政党ではなく候補者に投票するよう制度が改正され、政党と無縁の独立候補の当選に道が開かれた。
  デモの主役だった若者世代に限れば失業率は40%近くに達し、苦境は何ら改善されていない。デモ参加者の一部は選挙ボイコットを呼びかけた。ただ、「出馬した独立候補の多くは民族を超えた民主化の実現を訴えた」(バグダッドの50代男性)といわれる。
  宗派や民族にこだわらず選挙に出馬した人もいた。シーア派信徒ながらスンニ派主体の政党から立候補した退役軍人のサラム・アラウィ(66)は、「出馬政党を選ぶ際に重要なのは、国民全体の利益になる政策を打ち出せる党かどうかだ」と話した。
  独立候補の当選は10人前後にとどまる見通しで、国民和解と民主化への道はなお険しい。政治不信も広がって、選挙の暫定投票率はイラク戦争開戦以後では最低の41%にとどまった。
  だが、原理主義勢力タリバンが実権を掌握し、部族に基づく統治を進めるアフガニスタンなどとは明らかに事情が異なる。
  フセインの「負の遺産」の克服はイラクの行く末を占う重要な意味がある。(バグダッド 佐藤貴生)=敬称略


2021.10.12-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20211012-WGTSOB24S5K7NMY5SO2IETPZ2U/
イラク総選挙、サドル師派が最大勢力維持 政治停滞変わらず

  イラクで10日に行われた国会(定数329)総選挙の開票作業が進み、ロイター通信は11日、選管当局者らの話として、イスラム教シーア派の有力指導者サドル師の政治組織が70議席以上を獲得して最大勢力を維持すると見通しを伝えた。近く発表される開票結果を受け、次期政権発足に向けた連立協議が本格化する。

  暫定投票率は41%とイラク戦争(2003年)以降では最低となり、汚職の拡大などに対する国民の不信感が示された。既存政党が主体の構図は変わらず、改革の停滞で今後も不満が高まることは確実だ。
  サドル師はイラクへの浸透を深める隣国イランなど外国の影響力排除を主張し、駐留米軍の撤収を求めている。11日には国営テレビで勝利宣言し、「国内問題に干渉しないすべての国の大使館を歓迎する」と述べた。首都バグダッドでは同日夜、支持者らが街頭に繰り出して勝利を祝った。
  連立協議はサドル師派を軸に進むとみられるが、合意までに数カ月かかるとの見方もある。同派は18年の前回選で54議席を獲得、最大勢力となっていた。
  ロイター通信によると、スンニ派のハルブシ国会議長率いる政党連合が票を伸ばし、シーア派で親イランのマリキ元首相が率いる「法治国家連合」と37~38議席で第2勢力を争う。少数民族クルド人勢力も議席を維持する見込み。
  イラクでは高い失業率や劣悪な行政サービスへの不満から19年に大規模な反政府デモが起き、治安部隊との衝突で600人近くが死亡した。国民の暮らしは向上せず、デモ当時と変わらない状況が続いている。(カイロ 佐藤貴生


2021.07.20-朝日新聞-https://www.asahi.com/articles/ASP7N2H83P7MUHBI03F.html
バグダッドで自爆テロか、35人が死亡 ISが犯行声明

  イラクの首都バグダッド東部サドルシティーの市場で19日、爆発があり、子どもを含む少なくとも35人が死亡し、57人が負傷した。地元メディアが伝えた。治安当局の情報によると、爆発物を身につけた人物が実行した自爆テロの可能性があるという。過激派組織「イスラム国」(IS)が犯行声明を出した。

   報道によると、イラクでは20日からイスラム教の犠牲祭の休暇が始まることになっており、市場はにぎわっていたという。

   イラクでは2017年12月にISの掃討が宣言されて以降バグダッドでほぼ見られなくなっていた自爆テロが再び起き始めている今年1月に市中心部の広場で約3年ぶりとなる大規模な自爆テロが起き、30人超が死亡、ISが犯行声明を出した4月にはサドルシティーで自動車による自爆テロが起き、少なくとも4人が亡くなった。(ドバイ=伊藤喜之)


2021.05.27-朝日新聞 DIGITAL-https://www.asahi.com/articles/ASP5T340TP55UHBI00S.html
病院火災82人死亡、背景に酸素危機 家族がボンベ置く

  イラクの首都バグダッドで4月下旬に発生した病院火災では、新型コロナウイルスに感染した入院患者など80人余りが死亡した。安全なはずの病院でなぜ大惨事が起きたのか。病院関係者らを取材すると、治療に必要な医療用酸素の不足が火災の背景にあることが分かった。
   バグダッドにあるイブン・ハティブ病院で火災が起きたのは4月24日夜。少なくとも82人が死亡、110人が負傷した。

   政府発表などによると、コロナ患者向けの集中治療室で爆発が起き、炎上した。患者のベッド脇に酸素ボンベが置かれていたが、家族がそのそばで調理器具を使って料理をし、その火気がボンベから漏れていた酸素ガスで燃え広がった可能性が指摘されている。

   同病院に勤務していた男性スタッフは朝日新聞の取材に応じ、「病院には治療に必要な医療品や資材がほとんどなかった。提供できるのはベッドと医者だけだった」と証言。患者家族の多くが、酸素ボンベを自費で購入し、病院に持ち込んでいたという。
   世界各地で新型コロナの変異ウイルスが猛威を振るう中、医療インフラが整わない途上国を中心に医療用酸素の不足が課題となり、「酸素クライシス(危機)」とも形容されている。インドでは酸素ボンベが供給しきれず、亡くなる患者が続出している。

   バグダッドのイブン・ハティブ病院でも酸素不足が常態化しており、家族らが持ち込む酸素ボンベが急激に増えたことで、安全管理が行き届いていなかった可能性がある。


2021.01.21-Yahoo!Japanニュース(JIJI.com-AFP BB News)-https://news.yahoo.co.jp/articles/6bef23b7a21c7cf3d7de204c6ced87aa34a4dcc1
イラク首都で連続自爆攻撃 32人死亡、110人負傷

  【AFP=時事】(更新、写真追加)イラク首都バグダッドの商業地区で21日、連続自爆攻撃が発生した。保健省は、32人が死亡、110人が負傷したと発表した。過去数か月間、同国の情勢は比較的安定しており、また連続攻撃が起きるのはまれ。

  現場は、同市中心部の屋外で開かれていた大きな古着市場。内務省の発表によると、ある人物が市場に駆け込んで体調不良を訴え、周囲に人が集まったところで自爆。その最初の爆発の被害者らの周りにさらに人が集まった時、2人目が自爆したという。

   イラクでは今年、総選挙が予定されている。同国では、選挙を控えた時期に爆弾攻撃や暗殺などの暴力行為が増えることが少なくない。
   今回の連続攻撃の犯行声明はまだ出されていないが、自爆攻撃は超保守のイスラム過激派が用いる手法で、最近では「イスラム国(IS)」が使っていた。
   国土の3分の1をISに掌握されたイラクは、これを奪還するため3年にわたり戦闘を続け、2017年末に勝利を宣言。
   だがISの潜伏戦闘員らは砂漠や山岳地帯で活動を続け、治安部隊や国のインフラを標的に、人的被害を抑えた攻撃を続けてきている。
【翻訳編集】 AFPBB News


2021.01.17-NHK NEWS WEB -https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210117/k10012818641000.html
湾岸戦争から30年 中東のパワーバランスに大きな変化

  中東のクウェートに侵攻したイラクに対して、アメリカを中心とする多国籍軍が武力行使に踏み切った湾岸戦争から30年となります。イラクはいまもクウェートに賠償金の支払いを続けているほか、その後のイラク戦争など今に至る混乱につながり、中東のパワーバランスに大きな変化をもたらしました。
  イラクの旧フセイン政権が隣国クウェートに侵攻したのをきっかけに、アメリカを中心とした多国籍軍が武力行使に踏み切った湾岸戦争の開戦から17日で30年となります。
  多国籍軍は巡航ミサイルなどのハイテク兵器をはじめとした圧倒的な軍事力でクウェートを解放し、ミサイルなどが標的に命中する瞬間の映像は、当時、湾岸戦争を象徴するものとなりました。
  その後もイラクには、経済制裁が科されるとともに、クウェートへの524億ドルの賠償が義務づけられ、今も石油収入からの支払いが続いています。
  アメリカとの対立はその後も続き、フセイン政権は2003年のイラク戦争で崩壊しましたが、その後の宗派対立や過激派組織IS=イスラミックステートの台頭など混乱が続いてきました。
  また、フセイン政権時代には対立していた隣国のイランが影響力を強め、イラクを舞台にアメリカとの対立が強まっていて、この30年で中東のパワーバランスに大きな変化をもたらしました。
  イラクのシンクタンクで安全保障分野が専門のサルマド・バヤティ氏は「イラクはかつてイランに対する防波堤と言われたが、今はイランと深く結び付くことになり、その役割を終えた。アラブ諸国はイランへの防波堤を失い、いまではサウジアラビアがその役割を担おうとしている」と指摘しています。
自衛隊の国際貢献拡大の契機に
  湾岸戦争のきっかけとなったのは、前の年の1990年8月にイラクの旧フセイン政権が隣国クウェートに侵攻したことでした。
  イラクは1988年まで8年間にわたったイランとの戦争による債務の返済に苦しみ、クウェートに石油価格を上げるための減産を求めましたが、これを拒否されたことなどが侵攻の背景となりました。
  冷戦の終結によって唯一の超大国となっていたアメリカは、国連安全保障理事会の決議に基づいて多国籍軍を結成し、1991年1月、イラクへの武力行使に踏み切り、湾岸戦争の開戦となりました。
  巡航ミサイルなどのハイテク兵器をはじめとした多国籍軍の圧倒的な軍事力の前にイラク軍は敗走し、翌月の2月にはクウェートは解放され、その後イラクが停戦を受け入れました。
  湾岸戦争をめぐっては、日本は総額130億ドルに上る支援を行ったものの、国際的な評価は厳しく、その後、自衛隊は初めての海外派遣としてペルシャ湾で機雷の掃海に当たりました。
  翌年の1992年には、自衛隊を、国連のPKO=平和維持活動に参加させるための「PKO協力法」を成立させるなど、湾岸戦争をきっかけに自衛隊による国際貢献の拡大につながりました。
  一方、イラクには国連安保理決議に基づいて経済制裁が科されたほか、クウェートへの賠償金の支払いが義務づけられました。
  また、大量破壊兵器の開発疑惑などをめぐってその後もアメリカとの対立が続きました。
  アメリカは、2001年の同時多発テロ事件を受けて、テロとの戦いを掲げ、2003年にイラク戦争に踏み切り、フセイン政権は崩壊しました。
  しかし、イラク戦争は、国連安保理決議はなく、アメリカが開戦の理由にした大量破壊兵器も見つからず、アメリカの威信に大きく傷をつけるものとなりました。


2021.01.16-Yahoo!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/6179cb3a6a32041f937eb21efc8b36099b93d851
フセイン政権、湾岸戦争後も米国に対抗 難しい脅威封じ込め

  湾岸戦争の後もイラクで存続したフセイン政権に対し、国際社会は同国が侵攻したクウェートへの賠償などの経済制裁を科し、父ブッシュ米政権や英仏はイラクの少数民族クルド人の保護のため北部に飛行禁止区域を設けるなどの措置を取った。しかし、フセイン政権は国民への弾圧を続けて独裁体制を維持し、大量破壊兵器の開発に意欲を示して米国に対抗し続けた。

  湾岸戦争は、ソ連の衰退によって到来した「米国一強」の時代に、米国が世界の脅威をどう封じ込めるかという課題を残した。
  息子ブッシュ米政権は2003年、イラク戦争に踏み切りフセイン大統領を排除。しかし、独裁から解放されたイラクでは民主化とはほど遠い事態が続いた。   旧政権の残存勢力による駐留米軍への攻撃が多発し、国際テロ組織アルカーイダに忠誠を誓うイスラム過激派も台頭し、テロが多発した。米軍は兵力増強を迫られ、07年にはイラク戦争当時(約10万人)を超える約17万人が駐留した。
   戦後統治の明確な設計図がないままの戦争は米国、イラク双方に大きな犠牲を強いた。オバマ米政権は11年、イラクからの米軍撤退を完了したが、イラク戦争以降の米兵の死者は約4500人に上るとされる。
   湾岸戦争から30年が過ぎ、中東では米国が軍事的関与を縮小する動きを進め、ロシアがその空白を埋めるべく影響力の浸透を図っている。中東は新たな不安定要因に揺れている。(カイロ 佐藤貴生)



2020.3.12-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200312/k10012327201000.html
イラクの米軍基地にロケット弾攻撃 3人死亡

イラクでアメリカ軍が駐留する基地がロケット弾による攻撃を受け3人が死亡し、アメリカの複数のメディアは、このうち2人はアメリカ人だと伝えました。イラクでは、去年12月にアメリカ人がロケット弾攻撃で死亡したことをきっかけに、アメリカによるイランの司令官殺害などにつながっただけに、再び両国の緊張が高まることが懸念されます。
  アメリカが主導する有志連合の報道官は声明を発表し、首都バグダッドの北のタージにあるアメリカ軍が駐留する基地に11日夜、18発のロケット弾が打ち込まれたことを明らかにしました。
  声明によりますと、この攻撃で有志連合の関係者3人が死亡したほか、12人がけがをしたということで、アメリカの複数のメディアは、軍の当局者の話として、死亡したのは、アメリカ人2人とイギリス人1人だと伝えています。
  イラクでは去年12月、アメリカ軍が駐留する北部の基地にロケット弾が打ち込まれ、アメリカ国籍の民間人1人が死亡しています。
  これをきっかけに、アメリカ軍はイランが支援する武装組織への攻撃を開始し、アメリカによるソレイマニ司令官の殺害やこれに対するイランによる報復攻撃につながった経緯があるだけに、今回の攻撃で再びアメリカとイランの間で緊張が高まることが懸念されます。


湾岸戦争
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  湾岸戦争(英語: Gulf War‎)は、1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻をきっかけに、国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争である。

概要
  1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた。国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めるとともに、11月29日に武力行使容認決議である決議678を米ソは一致して可決し、マルタ会談とともに冷戦の終わりを象徴する出来事になった。
  翌1991年1月17日にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国の政府はこれに応じ、いわゆる「多国籍軍」が構成された。これは、第二次世界大戦以来の連合であった。歴史的に見ても、湾岸戦争は「一国の横暴を懲らしめるために、諸外国が団結した」という意味で画期的な出来事である。

  アメリカ軍が多くを占めるこの連合軍には、ノーマン・シュワルツコフ米陸軍中将が司令官となり、イギリスフランスなどといったヨーロッパのみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国(湾岸協力会議)やアラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、さらにイラクと同じバアス党政権のシリアのような親ソ連の国も参加した。この湾岸戦争に参加したアラブ諸国はシュワルツコフではなく、サウジアラビアのハリド・ビン・スルタン陸軍中将の指揮下に置かれた。
  国際連合により認可された、34ヵ国の諸国連合からなるアメリカ、イギリスをはじめとする多国籍軍は、バース党政権下のイラクへの攻撃態勢を整えていった。イラク政府による決議履行への意思無きを確認した諸国連合は、国連憲章第42条に基づき、1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。イラクのサッダーム・フセイン大統領は開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の母」と称した。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれるこの戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年のイラク戦争開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた。
  このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まった。これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。
  空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた

湾岸危機(開戦までの経緯)
イラクとクウェートの摩擦
  1988年8月20日に、イラクはシーア派イスラーム共和制国家のイランとの8年間に及ぶイラン・イラク戦争停戦を迎えた。
  戦争中に五大国のアメリカ、ソビエト連邦中華人民共和国、イギリス、フランスや経済的に豊かなペルシア湾岸のアラブ諸国に援助され、イスラエルをのぞいた中東では最大かつ世界的にも第四位の軍事大国となったが、600億ドルもの膨大な戦時債務を抱え、戦災によって経済回復も遅れていた。イラクの外貨獲得手段は石油輸出しかなかったが、当時の原油価格は1バーレルあたり15~16ドルの安値で、イラク経済は行き詰っていた。

  イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農産物の輸出を制限し始めた。食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮してしまった。また、アメリカが工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘やその輸送系統についても劣化が始まり、フセイン大統領は追い詰められた。
  フセイン大統領はOPECに対し、原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請していた。この要求は突然のものではなく、7月10日にサウジアラビアのジッダで開かれたサウジアラビア、クウェート、イラク、カタールアラブ首長国連邦の産油5カ国による石油相会議において、原油価格引き上げを希望していたが、OPECは聞き入れなかった。
  一方、サウジアラビアとクウェート、アラブ首長国連邦がOPECの割当量を超えた石油増産を行っていた。サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていたが、国有油田とは別にサウード家の私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。クウェートとアラブ首長国連邦はOPECを完全無視し大量採掘、原油価格は値崩れし石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済に打撃を与えていた。

  1990年7月17日、イラク革命記念日での演説においてフセイン大統領は「一部のアラブ諸国が、世界の原油価格を下落させることにより、イラクを毒の短剣で背後から突き刺そうとしている。彼らが言葉で警告しても分からないのならば、なんらかの効果的手段を取る」と間接的にクウェートとアラブ首長国連邦を非難した。
  これを受けて、アラブ首長国連邦は石油増産を一応縮小したが、クウェートはいかなる行動も起こさなかった。7月18日、イラクのターリク・アズィーズ外相は、クウェートとアラブ首長国連邦がOPECの生産協定を破り、生産枠を越えた石油生産により、アラブ全体で5000億ドルもの損失を被ったと主張。そしてクウェートに限れば、イラクが890億ドルの損害を被ったばかりか、イラクの領土にあるルマイラ油田から石油を盗掘しているとし、盗掘が1980年代から続いており、イラクは24億ドルも損をしていると述べた。さらにクウェートが、国境付近のイラク領内に軍事基地を建設していると非難した。

  クウェートはルマイラ油田から大量採掘を行ったが、この油田は、イラクも領有を主張、過去幾度か帰属を巡って対立してきた歴史がある(地下でイラク・クウェートの油田が繋がっていると考えられた)。イラクの批判に、クウェートのジャービル首長は、単なる金目当ての脅しと判断し、イラクの主張を否定すると共に、軍を動員した。
  また、クウェート国内では石油利益配分を巡って対立が起こっており、政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済させる運動が起こったため、クウェートはイラクに返済を働きかけたが、当然ながらイラクには返せる財産はなく、反対に更なる援助を要求され、両国は外交的衝突に至った。
  この事態に周辺アラブ諸国が仲介に乗り出し、7月20日、サウジアラビアのサウード・アル=ファイサル外相が同国のファハド国王の親書を携えてイラクを訪問。同日、アラブ連盟のチェディル・クライビー事務総長がクウェートを訪れてジャービルを説得した。そして、クウェート政府はイラクとの間で盗掘問題を交渉することに合意したと発表し、軍の動員も解除した。
  これらの外交交渉は実は、内心イラクの軍事的脅威を恐れるクウェート側がサウジアラビアやアラブ連盟に19日の段階で働きかけていたものだった。7月21日には、エジプトのホスニー・ムバラク大統領が、フセイン大統領と電話で会談し、慎重な対応をするように説いた。22日にはエジプトをアズィーズ外相が訪れたが、同日、イラク国営通信は、「クウェートは湾岸への外国勢力侵入に手を貸している」というイラク政府報道官の談話を発表し、国営紙「ジュムフーリーヤ」も「クウェートはまだイラクの油田盗掘を止めていない」と、イラクによる激しいクウェート非難は収まらなかった。
  事態を重く見たムバラク大統領は、問題解決のためにイラク・クウェート両国を訪問する意思があると表明し、アラブ外相会議の開催を求めた。一方で、当事者であるイラクとクウェートに対しては非難合戦を止めるよう求めた。しかし、そんなアラブ各国の動きを横目に、イラクは7月24日、クウェート国境に3万人の兵力を集結。同日、ムバラク大統領はイラクを訪問し、フセイン大統領に対してクウェートへ軍事行動を起こさぬよう釘をさし、イラク、クウェート、サウジアラビア、エジプトから成る4カ国会議を提案した。
  これに対してフセイン大統領は、クウェート側への要求として、石油盗掘分の24億ドルの支払い、国境画定に向けた直接交渉を求め、受け入れられなければイラクは軍事行動を取ると述べた。 ムバラク大統領の提案した4カ国会議は、クウェートに有利なものであったため、イラクが孤立することを恐れたフセイン大統領は、7月25日に4カ国会議を拒否し、あくまでもクウェートとの直接交渉を求めた。
  同日、フセイン大統領と会談を行ったアメリカのエイプリル・グラスピー駐イラク特命全権大使が、この問題に対しての不介入を表明したこともあり、ついにイラク軍が動いた。7月27日にはクウェート北部国境に共和国防衛隊集結をアメリカ軍の偵察衛星も確認した。集結した戦車隊は砲門を南側へ向け、威嚇していた。

  アメリカはこれを周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はあくまでクウェートに対する脅しと考え、まるで相手にしなかった。OPECはフセイン大統領を懐柔する為に、原油価格をそれまでの18ドルから21ドルに引き上げたが、フセイン大統領はすでに交渉による解決に関心を示さなかった。一方クウェートは、充分な防衛体制を敷かなかった。7月31日のジッダで開かれた両国会談では、イラク側代表のイッザト・イブラーヒーム革命指導評議会副議長がこれまでの要求に加えて、イラクが長年領有権を主張していたワルバ島ブービヤーン島をイラクに割譲せよ、と要求をエスカレートさせた。
  これに対してクウェート側代表のサアド首相はイラクの要求を拒否すると共に、話し合いの継続を希望するとだけ答えた。イラクは、次回協議をバグダードで開くことをほのめかし、会議は成果無く終了した。
  8月1日に、両国を仲介していたムバラク大統領とパレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファト議長は「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言し、自国のテレビで断言した。イラクとクウェートの武力衝突は避けられると思われた。

イラクのクウェート侵攻(詳細は「クウェート侵攻」を参照)
  1990年8月2日午前2時(現地時間)、戦車350両を中心とする共和国防衛隊機甲師団10万人はクウェート侵攻を開始。ムバラク大統領とアラファト議長を完全に出し抜いた格好だった。なお、イラク軍にすらこの侵攻計画は事前に知らされておらず、参謀総長や国防大臣は侵攻をテレビやラジオの報道で聞かされ寝耳に水の状況だった。
  クウェート軍の50倍の兵力での奇襲により、午前8時までにはクウェート全土を占領。同時に革命指導評議会はクウェート政権が打倒されたと宣言し、同日夕刻にイラク国営放送が、クウェートにおいて革命を起こした暫定自由政府(ほぼ全員の政府閣僚が、クウェート人に知られていないイラク軍人による傀儡政権だったと見られる)の要請により介入したと報じた。一方、クウェートのジャービル3世首長はサウジアラビアへ亡命した。異父弟のファハドは少人数の警護隊とともに宮殿内での銃撃戦により死亡した(一説には、乗っていた飛行機がクウェート国際空港で足止めされたところをイラク軍に拘束され殺害されたともいう)。クウェート暫定政府はアラー・フセイン・アリーを首班とするクウェート共和国と名前を変えたが、翌日にはイラクに併合された。
多国籍軍
  イラクの軍事侵攻に対し、同日中に国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求める安保理決議660を採択、さらに8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議661も採択した。この間に石油価格は一挙に高まったものの、決議661の経済制裁によって、イラクは恩恵にあずかることができなかった。
  8月7日、アメリカのブッシュ大統領は「サウジアラビアへのイラクによる攻撃もあり得る」と説得し、アメリカ軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定した。アメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しており、サウジアラビアも国内にメッカという聖地を抱え、外国人に対して入国を厳しくしている国であるため、友好国ではあるものの異教徒の国の軍隊の進駐を認めることは、多くのイスラム国家にとって予想外の出来事であった。
  しかし、サウジアラビアとしても石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていた。バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦、といった湾岸産油国も次々にアメリカに同調した。
  しかし国連軍の編制は政治的に出来ないため、アメリカは「有志を募る」という形での多国籍軍での攻撃を決め、アメリカの同盟国かつクウェートと歴史的につながりの深いイギリスやフランスなどもこれに続いた。エジプト、サウジアラビアをはじめとするアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加した。さらに、アメリカと敵対関係にあったシリアも参戦を決定したが、これはレバノン内戦に関する取引であった。アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した(砂漠の盾」作戦)。
イラクの反応
  イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として併合を宣言、8月28日にはクウェートをバスラ県の一部と、新たに設置したイラク第19番目の県「クウェート県」に再編すると発表した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。
  8月12日にイラクは「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(いわゆる「リンケージ論」)、イスラエルのパレスチナ退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった。10月8日にエルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった。またこの主張によりPLOはイラク支持の立場を表明、結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、後のオスロ合意調印へと繋がる事になった。
「人間の盾」
  さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。
  なおこの中には、クウェートに在住している外国人のみならず、日本航空ブリティッシュ・エアウェイズの乗客や乗務員など、イラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴び、のちにイラク政府は、アントニオ猪木が訪問した後に開放した日本人人質41人など、小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。
  だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択した。
戦争推移
砂漠の嵐
  1月17日に、多国籍軍はイラクへの爆撃(「砂漠の嵐作戦[22])を開始。宣戦布告は行われなかった。この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく「左フック戦略」と呼ばれるもので、クウェート方面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。巡航ミサイルが活躍し、アメリカ海軍は288基のUGM/RGM-109「トマホーク」巡航ミサイルを使用、アメリカ空軍B-52から35基のAGM-86C CALCMを発射した。CNNは空襲の様子を生中継して世界に実況報道した。
  1月27日にアメリカ中央軍司令官であったアメリカ陸軍のノーマン・シュワルツコフ大将は「絶対航空優勢」を宣言し、戦争が多国籍軍側に有利に進んでいることを強調した。
  アメリカ空軍はイラク軍防空組織に最初期から攻撃を加えており、イラク軍防空システムは早期の段階でほぼ完全に破壊された。これによって戦闘開始直後からイラク空軍の組織的な防空戦闘は困難となり、多くの航空機がイランなどの周辺国へと退避した。ただし開戦初日にはイラク空軍MiG-25によりF/A-18が撃墜されている。また、イラクの防空体制がまだ機能している状況下で、JP233による攻撃を行ったイギリス空軍のトーネードIDSは、多国籍軍の攻撃機としては、最も多くの犠牲を出した。
周辺諸国攻撃
  一方、フセイン大統領は「アラブ(イスラーム)対イスラエルとその支持者(ユダヤ教キリスト教などの異教徒)」の構図を築こうと考え、1月18日からイスラエルへ向けスカッドミサイル「アル・フセイン」と「アル・ファジャラ」計43基を発射、イスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出た。
  イスラエルは開戦直前にモサッドなどによりフセイン大統領が攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へ非常事態宣言を出していたが、42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け、うち10回の攻撃で226名が負傷し、2名がミサイルの直撃で、5名がミサイル警報のショックで、7名が対化学攻撃用ガスマスク(イラン・イラク戦争時に配布したもの)の取り扱いミスで死亡した。

  イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することで、「異教徒間戦争」となるというフセインの目論見通りになることを恐れたアメリカや国連の要請によってイスラエル政府は動かず、フセイン大統領のもくろみは失敗した。続いてイラクはサウジアラビアとバーレーンに対して同数程度のミサイルで攻撃を行った。これは、「異教徒に加担した裏切り者を制裁することで、アラブ世界の結束を図ろう」という試みであったが、「不法な侵略者イラク対国際社会」の構図は揺らがなかった。
  アメリカは急遽イスラエルや湾岸諸国にパトリオット地対空ミサイルシステムを配備して迎撃し、当時はほとんど打ち落としたと主張していた。しかし、本来これは対航空機用の兵器である。後の研究報告により、それほど役立っていなかったことが判明した(これを受けて、アメリカとイスラエルはミサイル迎撃システムの開発を進めることになり、ミサイル対応のパトリオットミサイル PAC-3を開発した)。(詳細は「ブラヴォー・ツー・ゼロ」を参照)

  またスカッドを捕捉、破壊するためイギリス特殊空挺部隊(SAS)偵察チームがイラク後方に潜入したが、偵察チームの多くはイラク軍に捕捉され、死傷者が出た。特にアンディ・マクナブ軍曹の指揮する偵察チーム、コールサイン「ブラヴォー・ツー・ゼロ」は8名中3名が死亡、マクナブを含めて4名が捕虜となり、ただ1人クリス・ライアン伍長だけがシリアへの脱出に成功した。
  1月29日、イラク軍はサウジアラビア領のペルシャ湾上にあるカフジ油田を奇襲攻撃。しかし戦略も何もなく、また多国籍軍の抵抗にあって失敗し、翌30日に撤退した。
砂漠の剣
  1か月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊されてしまった。2月24日に空爆が停止された。同日、多国籍軍は地上戦(「砂漠の剣」作戦)に突入。クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。
  大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く主要のイラク軍は度重なる空爆によって消耗、装備も貧弱でまるで士気が無く、また一部では油田に火を放って視界を妨害しようとしたが、多国籍軍は熱線映像式暗視装置を持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は反撃もできずに一方的に撃破され、また続々と投降した。
  イラクは翌2月25日にスカッドミサイルでサウジアラビアを攻撃、ダーラン近郊の第14補給分遣隊兵舎に命中させ、28人を殺害、100人以上を負傷させた[10]。しかし、抵抗はここまでであった。地上戦開始から100時間後にイラク軍は二本の幹線道路に長蛇の列を作って撤退開始、2月26日から翌日にかけてそれを米軍機は猛爆し、死のハイウェイと化し、夜が明けた頃には無数の焼け焦げた車両と焼死体が散乱していた。2月27日にはクウェート市を解放、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃した。2月28日の朝(イラク時間)に戦闘が終結した。
  アメリカのブッシュ大統領は記者会見で、「クウェートは解放された。」「イラク軍は敗北した。我々の戦闘目的は達成された。多国籍軍の勝利であり、国連の、全人類の、そして法の支配の勝利である。」と述べた。一方で、イラクのフセイン大統領は、「あなたがたは勝利したのだ、イラク国民よ。イラクこそ勝者である。イラクは悪とテロと侵略主義の帝国であるアメリカのオーラを破壊するのに成功したのだ」と強弁した。
  3月3日には暫定停戦協定が結ばれた。
停戦協定
  3月3日に、イラク代表が暫定休戦協定を受け入れたが、イラク軍の主力は多くが温存され、この温存兵器が後の懸案事項となった(終戦直後に南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしたが、米英の介入はないと見たフセイン大統領は温存した軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数が殺害されたといわれる)。
  国連では1ヵ月後の4月3日に「クウェートへの賠償」、「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とする安保理決議687号が採択された。4月6日にイラクが受諾して正式に停戦合意、4月11日に687号は発効した。1995年4月に安保理が石油交易を部分的に許可する決議をしたが、イラクは全面解除以外に受け入れられないと拒否した。また、核開発防止のための国際原子力機関(IAEA)査察を拒否し、長期間にわたる経済制裁を受けることとなった。(その後の詳細はイラク武装解除問題およびイラク戦争を参照。)
損失
一般市民
  巡航ミサイル及び航空戦力による、空爆の重要性の増加は、戦争初期段階における一般市民の犠牲者の数をめぐる論争を引き起こした。戦争開始24時間以内に、1,000個以上のソーティーが飛行しており、その多くがバグダッドを標的とした。イラク軍の統制及びフセイン大統領の権力が座すバグダッドは、爆撃の重要な標的となったにもかかわらず、イラク政府は政府主導の疎開や避難を行わなかった。これは、市民の多大な数の犠牲者を生む原因となった。
  地上戦の前に行われた多くの航空爆撃は、民間人の被害を多数引き起こした。特筆すべき事件として、ステルス機によるアミリヤへの爆撃が挙げられる。この空爆により同地へ避難していた200人から400人の市民が死亡した[25]。火傷を負い、切断された遺体が転がる場面が報道され、さらに爆撃された掩体壕は市民の避難所であったと述べられた。一方では、同地はイラクの軍事作戦の中心地であり、市民は人間の盾となるために故意に動かされたとみなされ、これを巡る論争は激化した。
  カーネギーメロン大学ベス・オズボーン・ダポンテの調査によると、3,500人が空爆で、100,000人が戦争による影響で死亡したと推定された。
イラク
  正確なイラク戦闘犠牲者数は不明だが、調査によると20,000人から35,000人であると見積もられている。アメリカ空軍の報道によると、空爆による戦闘死者数は約10,000から12,000人、地上戦による犠牲者数は10,000人であった。この分析は、戦争報道によるイラク人捕虜に基づいている。もっとも、捕虜となったイラク軍兵士の中で負傷者が数百名しかいなかったことや、戦後に反体制勢力を迅速に鎮圧した状況を見るに、実際の死者は10,000人以下との見解もある。
  フセイン政権は、諸外国からの同情と支援を得るため市民からの死傷者数を大きく発表した。イラク政府は、2,300人の市民が空爆の間に死亡したと主張した。 Project on Defense Alternativesの調査によると、イラク市民3,664人と20,000から26,000名の軍人が紛争により死亡し、一方で75,000名のイラク兵士が負傷した。
連合国
  国防総省は、MIA(戦闘中行方不明)と呼ばれるリストを作成し、友軍の砲火による35名の戦死者を含む148名のアメリカ軍人が戦死したと発表した。なお、このリストには2009年8月に1名のあるパイロットが追加された。更に145名のアメリカ兵は、戦闘外事故で死亡した。イギリス兵は47名(友軍砲火により9名)、フランス軍人は2名が死亡した。クウェートを含まないアラブ諸国は37名(サウジ18名、エジプト10名、アラブ首長国連邦6名、シリア3名)が死亡した。最低でも605人のクウェート兵は未だに行方不明である。
  多国籍軍間における最大の損失は、1991年2月25日に起こった。イラク軍アル・フセインはサウジアラビア・ダーランのアメリカ軍宿舎に命中、ペンシルベニア州からのアメリカ陸軍予備兵28名が死亡した。戦時中、合計で190名の多国籍軍兵がイラクからの砲火により死亡、うち113名がアメリカ兵であり、連合軍の死者数は合計368名だった。友軍砲火により、44名の兵士が死亡し、57名が負傷した。また、145名の兵士が軍需品の爆発事故もしくは戦闘外事故により死亡した。
  多国籍軍の戦闘による負傷者数は、アメリカ軍人458名を含む776名であった。
  しかし2000年現在、湾岸戦争に参加した軍人の約4分の1にあたる183,000人の復員軍人は、復員軍人省により恒久的に参戦不能であると診断された。湾岸戦争時にアメリカ軍に従事した男女の30%は、原因が完全には判明していない、多数の重大な症候に悩まされ続けている
  イラク兵により190名の多国籍軍部隊員が殺され、友軍砲火または事故により379名が死亡した。 この数字は、予想されたものに比べ非常に少ないものである。またアメリカ人女性兵3名が死亡した。
友軍相撃
  イラク戦闘員による多国籍軍の死亡者数は非常に低く、友軍相撃による死亡者数は相当な数に上った。148名のアメリカ兵が戦闘中に死亡し、そのうち24%にあたる35名の従軍要員は友軍相撃により死亡、さらに11名が軍備品の爆発により死亡した。 アメリカ空軍A-10攻撃機がウォーリア歩兵戦闘車部隊2個を攻撃したことにより、9名のイギリス軍従軍要員が死亡した。
被害と補償
クウェートにおける石油火災(詳細は「en:Kuwaiti oil fires」を参照)
  クウェートにおける石油火災はイラク軍により起こされた。多国籍軍に追跡されていたイラク軍は、焦土作戦の一環として700の油井に放火した。火災は1991年1月及び2月に始まり、1991年11月に最後の火が消された。
  生じた火災は制御できないほど燃え広がった。これは消火作業員の投入が困難であったためである。油井周辺には地雷が設置されており、消火活動の前段階として同地域の地雷除去作業が必要となった。約6百万バレル (950,000 m3)の石油が毎日失われていった。結果、15億USドルの経費がつぎ込まれ、消火作業は終了した。しかし、火災は発生より10ヶ月が経過し、広範囲にわたる環境汚染が生じた。
ペルシア湾への石油流出(詳細は「en:Gulf War oil spill」を参照)
  1月23日、イラクは400億ガロンの原油をペルシア湾に流出させた。これは当時としては最大の沖合石油流出だった。この天然資源への襲撃はアメリカ海兵隊部隊の沿岸上陸を阻むためのものであると報道された。このうち約30から40%は多国籍軍によるイラク沿岸目標への攻撃によるものであった。
戦後補償
  国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。国連安保理決議687に基づき、総額で524億ドルの賠償を求め、石油収入の5%の支払いを義務付けられた。
  フセイン政権は1994年から賠償金を支払い、現在までに301億5000万ドル(2兆6000億円)が支払われた。しかし、残高が223億ドル(1兆9300億円)も存在し、現行ペースでは完済に十数年かかると見られている。
  このため、復興途上にあるイラクにとっては負担が大きく、再三減免を求めてきたがクウェートはこれを拒否。逆にクウェート側は、イラク側の補償が不十分とし、2009年に国連に対してイラクに対する経済制裁をまだ解除しないよう求め、イラク側の反発を呼んだ。
国境画定問題
  現在のイラク・クウェート国境は、1993年5月27日、国際連合安全保障理事会決議833に基づいて画定された。1994年にサッダーム・フセイン政権はこれを承認した。しかし、イラク現政府は同決議の承認を公式には表明しておらず、2010年7月14日、同国のアラブ連盟大使カーイス・アッザーウィーは、「現在の国境線は認められない」と発言したと報道された。クウェート政府はこれに抗議し、イラク外相が釈明する事態となった。
戦費
  アメリカ合衆国議会の計算によると、アメリカ合衆国はこの戦争に611億ドルを費やした。その内約520億ドルは他の諸国より支払われ、クウェート、サウジアラビアを含むペルシア湾岸諸国が360億ドル、日本が130億ドル(紛争周辺3か国に対する20億ドルの経済援助を含む)、ドイツが70億ドルを支払った。サウジアラビアの出資のうち25%は、食糧や輸送といった軍へ用務という形で物納により支払われた。多国籍軍のうちアメリカ軍部隊はその74%を占め、包括的な出費はより大きくなされた。日本の戦費供出も、当時の自国防衛予算の約3割にあたる多額の支出が行われた。
投入兵器
  トマホーク巡航ミサイル、劣化ウラン弾F-117ステルス攻撃機、パトリオットミサイル、バンカーバスター地中貫通爆弾全地球測位システム (GPS)、F-15E戦闘爆撃機など、特にアメリカは数々の新兵器を投入した。
  中にはA-10攻撃機の様に、冷戦終結により一度は存在価値(欧州配備)を失ったものの、湾岸戦争での活躍により再評価された物も存在する。
  アメリカ空軍のAGM-130誘導ミサイルといった誘導爆弾は、他の無誘導爆弾に比べ、実戦経験は少なかったにもかかわらず、過去の戦争と比べ軍事攻撃における市民への被害を最小限にできると評価された。ジャーナリストたちが、巡航ミサイルが飛び交うのをホテルから眺める中、バグダッド中心部の特定の建造物への爆撃は行われた。
  多国籍軍が投下した爆弾のうち、7.4%は精密誘導によるものであった。クラスター爆弾を含む複数の子弾を四散させる爆弾及び15,000ポンド爆弾デイジーカッターは、数百ヤードにわたる範囲内の建造物を破壊可能である。
  全地球測位システムは、砂漠全域における円滑な部隊運用を可能にした。

  早期警戒管制機 (AWACS)及び衛星通信システムもまた重要な役割を果たした。アメリカ海軍E-2ホークアイ及びアメリカ空軍E-3セントリーがその一例である。これらの航空機は作戦範囲における司令及び管制に使われた。これらのシステムは、陸軍、空軍、そして海軍間の必要不可欠な通信リンクを提供した。そして、これは多国籍軍が空戦において圧倒的優位に立った多くの理由の内の一つである。
  対して、イラク軍は地上戦力では9K52やT-72といったソ連製兵器や中国製59式、69式戦車などを投入した。ところが、中にはモンキーモデルと呼ばれる性能を輸出向けにダウングレードさせた仕様も存在したため、これらは多国籍軍の戦車に相次いで撃破された。他にも、対地攻撃用にスカッドミサイルやカチューシャといった装備も投入しており、これらの存在に多国籍軍は苦戦することになった。

  航空戦力には、装備していたソ連製・フランス製・中国製戦闘機や爆撃機を投入。中にはMiG-25のように撃破ないし撃墜に至らせた機体もあった。しかし、全天候能力を持たない機体も多く大部分は撃墜されているか隣国のイランに退避する事態を迎えた。現在でも、イラン空軍には当時イラクから逃げてきた飛行機が何機か配備されているが、これはイランも革命後にアメリカから支援を断たれたためやむを得ず使用しているためである。
  イラク海軍はフリゲートやコルベット、ミサイル艇といった小型の艦艇で構成された艦隊が配備されていた。海上戦力において重大な脅威とみなされたのは(クウェート海軍から鹵獲された物を含む)ミサイル艇のみであったが、これらは多国籍軍の航空戦力によって一方的に殲滅されている。なお、イラン・イラク戦争後、イラク海軍はイタリアにミサイルフリゲートや補給艦を発注して海上戦力の充実を狙っていたが、フリゲートはキャンセルされている。また、補給艦はイラクへの回航中に湾岸戦争勃発により引き渡しが禁止され、エジプトのアレクサンドリア港に留め置かれた。
テロリストへの影響
  サウジアラビアはイラン・イラク戦争の折に、アメリカからF-15戦闘機などを導入し、アメリカはイラク監視を名目に第5艦隊在バーレーン軍司令部とともに戦後も駐留を継続した。同国出身のウサーマ・ビン=ラーディンは、自身のムジャヒディンでイラク軍から防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王に断られ、イスラム教の聖地メッカとマディーナを有する同国にアメリカ軍を駐留させたことに反発し、イスラム原理主義組織アルカーイダによるアメリカへの同時多発テロを実行したと発表されている。このことからフセイン政権とアルカイダの関連が疑われてイラク戦争の開戦事由となったが、しかし、ビン=ラーディンはサダム・フセインをアラブ世界の汚物と酷評しており、また、アメリカ上院情報特別委員会はフセイン政権はアルカイダを脅威と見做していたと結論づけており、フセイン政権とアルカイダを繋げる証拠はなかった。
  過激派は数度にわたって中東に在留するアメリカ軍を襲撃したが、1996年のアメリカ軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名のアメリカ兵が死亡した。1998年にはケニアなどでアメリカ大使館爆破事件を起こし約200名を殺害。2000年にはイエメン沖でアメリカ海軍艦コールを攻撃した(米艦コール襲撃事件)。これらの事件でアメリカはアルカーイダを非難し、当時アフガニスタンでアルカーイダを保護していたタリバンにアルカーイダの引き渡しを求めた。さらに2度にわたる国際連合安全保障理事会決議でも引き渡しが要求された。しかしタリバンは引き渡しに応じず、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した後にもアルカーイダを保護し続けた。このためNATOと北部同盟によるターリバーン政府攻撃が行われた。
レバノン内戦への影響(「レバノン内戦」も参照)
  湾岸戦争前に、フセイン政権はレバノンのマロン派キリスト教勢力およびレバノン国軍に対して、(対立関係にある)シリア・バース党に対する対抗策として余剰の軍備を供与するなど同内戦に関与を深めていた。しかし、湾岸戦争の勃発により、これらの支援は途絶。マロン派キリスト教勢力は外国からの支援が途絶え、さらに民兵組織の処遇を巡って、同派の有力民兵組織レバノン軍団ミシェル・アウン率いるレバノン国軍は軍事衝突するに至った。また、イラクから支援を得ていた事から、レバノン政府及び軍に対する欧米からの支援も凍結され、レバノンのマロン派キリスト教勢力は深刻な内紛を抱え込み国際的に孤立する事となった。
  一方、シリアは多国籍軍への参戦を表明。アメリカはその見返りとして、(手詰まりに陥っていた)レバノン問題の解決をシリアに事実上一任する形となった。また、この事態はイラクを支持し、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプを事実上支配地域としていたPLOに対する牽制ともなった。
  アメリカの黙認を得たシリア軍は、レバノン国軍に対して、各宗派の民兵組織と連携して大攻勢を仕掛け、これを降伏させた。レバノン内戦はシリア主導によって終結に向かう事となった。
日本への影響
  湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本に対して、アメリカ政府は同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の海運業者に依頼したが、組合はこれを拒否した。さらに当時の外務大臣中山太郎が、外国人の看護士介護士医師日本政府の負担で近隣諸国に運ぼうとした際にも、日本航空の労働組合が近隣諸国への飛行を拒否したため、やむなくアメリカのエバーグリーン航空機をチャーターしてこれに対応した。
  さらに、急遽作成した「国連平和協力法案」は自民党内のハト派や、社会党などの反対によって廃案となった。なお、時の内閣は第二次海部内閣の改造内閣であった。

  また、鶴見俊輔自動車雑誌NAVI編集者鈴木正文などの文化人は、多国籍軍によるイラクへの攻撃に対して、攻撃開始前の時点から「反戦デモ」を組織して、柄谷行人中上健次津島佑子田中康夫らは湾岸戦争に反対する文学者声明を発表した。これらの文化人や作家の多くはイラクによるクウェート侵攻については批判していたが、これを「イラクによる正当な領土回復行為」とみなす者もいた。
  日本政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル、さらに為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドルを追加する資金援助を行った。

  クウェートは戦後に参戦国などに対して感謝決議をし、『ワシントンポスト』に感謝広告を掲載したが、新規増税により130億ドルに上る協力を行なった日本はその対象に入らなかった。また、凱旋パレードでのシュワルツコフ大将による演説においても、多国籍軍に参加した28カ国の駐米大使を壇上に上げたうえで「28の同盟国とその他の国(28 alliance and the other countries)」に対する感謝の意が述べられた。壇上に呼ばれなかったことに抗議した駐米日本大使の村田良平に急遽折りたたみ椅子が与えられたが、扱いの差は歴然であった。日本の資金協力のうち、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)中、クウェートに直接入ったのは6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカに渡り、またクルド人難民支援等説明のあった5億ドル(当時の日本円で約700億円)の追加援助(目減り補填分)のうち695億円がアメリカに渡っていた。日本政府の対応が10億ドルずつの逐次的支出で、全体として印象に残らなかったとする意見もある
  しかし人的貢献が無かったとして、アメリカを中心とした多国籍軍の参加国から「金だけ出す姿勢」を非難された。なお、ドイツも同様に非戦協力のみであったが格別非難はされず、クウェートの感謝広告でも中央上段に国名が掲載されている。

  同盟国のアメリカから非難された結果、「国際貢献」が政界や論壇で流行語になり、自民党・外務省・保守的文化人などの間で「『人的貢献』がなければ評価されない」との意識が形成され、その後の自衛隊の派遣対象や任務の拡大の根拠に度々使われた。そして日本政府は国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させた。中山太郎外務大臣は、感謝広告に日本が掲載されなかったことを引き合いに出し「人命をかけてまで平和のために貢献する」ときのみ「国際社会は敬意を払い尊敬する」旨答弁している。その後、ペルシャ湾機雷除去を目的として海上自衛隊掃海艇を派遣し、自衛隊海外派遣を実現させた(自衛隊ペルシャ湾派遣)。このPKO協力法が施行されたことにより自衛隊はPKO活動への参加が可能となった。

  2015年9月10日付で東京新聞は、クウェート側が広告掲載のためにアメリカ国防総省に求めた多国籍軍参加国のリストから日本が漏れていたとする記事を掲載した。アルシャリク元駐日クウェート大使はインタビューに対し、感謝広告はサバハ駐米大使(娘のナイラが「ナイラ証言」をしたことで知られる)による発案であり、サバハ大使の求めでアメリカ国防総省が示した参加国リストに日本が掲載されていなかったと話した。また同記事はクウェートの湾岸戦争記念館に日本の掃海作業や資金援助についての説明があること、2011年3月の東日本大震災の際にはクウェートからも富裕層から労働者まで多くの人々から義捐金が寄せられ、500万バレルの石油の無償提供が決議されたことを紹介し、クウェート人の間では湾岸戦争において日本が多額の資金援助をしたことは感謝の念とともに記憶されているとしている。








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