核開発の問題(広島・長崎)-1



2022.08.09-毎日新聞-https://mainichi.jp/articles/20220808/k00/00m/040/279000c
長崎原爆投下から77年 平和式典に83カ国が参列予定
【高橋広之】

  米軍が長崎市に原爆を投下して77年の9日、同市の平和公園で平和祈念式典が開かれるロシアがウクライナ侵攻で核兵器使用を示唆するなど核兵器使用のリスクが高まる中、田上富久市長は平和宣言で核兵器廃絶だけが危機を逃れる唯一の道だと訴える広島原爆を巡っては4月に「黒い雨」体験者への被爆者健康手帳の交付が始まった一方、国が対象外としている長崎の「被爆体験者」救済に被爆地・広島選出の岸田文雄首相が言及するか注目される

  平和宣言では核保有国に対し、米ニューヨークで開催中の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で核軍縮への具体的プロセスを示すよう要請。6月にウィーンで開かれた核兵器禁止条約の第1回締約国会議に参加しなかった日本政府には、条約参加を求める

  式典には米英中仏印、イスラエルの核保有国6カ国など過去最多の83カ国(8日現在)が参列予定ロシアとベラルーシは「不測の事態の回避」を理由に招待しなかった。新型コロナウイルスの感染対策で、従来の半分以下の約1700人規模で開く。
  岸田首相は同市の長崎原爆資料館を歴代首相として初めて訪れる予定。資料館は1996年開館。これまで被爆者団体が毎年、訪問を要請していたが、実現していなかった。【高橋広之】


2022.08.08-J.B.Press-https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71276
原爆・焼夷弾で日本人大虐殺の米国と終戦後に国土略奪のソ連-8倍の国力差がある米国に挑んだ日本の愚かさと釈迦の教え
(1)
  現代の国際社会において、侵略されたら反撃する自衛権は国際社会で容認されている.
  だが、釈迦は「この世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息(や)む。これは永遠の真理である」と説く。『真理のことば・感興のことば(翻訳:中村元 岩波文庫)
  「怨み」が「怨み」を生み、「怒り」が「怒り」を生み、「憎しみ」が「憎しみ」を生む。 それらが連鎖しながら拡大することで、争いが絶え間なく続く

  「怨み」「怒り」「憎しみ」を鎮めなければ、平和は永遠に実現することはない、と釈迦は示している。
  8月15日の玉音放送で日本は戦闘を停止  終戦の日、8月15日は戦没者を追悼し平和を祈念する日とし、日本政府は毎年、全国戦没者追悼式を主催している。
  いまから77年前、1945年7月26日。英国、 米国、中華民国が日本に対して降伏要求の最終宣言(ソビエト連邦は後から加わり追認)を発する。
  その11日後の8月6日、広島市に原子爆弾が投下された。

  米国のフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領、ソ連のヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン書記長、英国のウィンストン・チャーチル首相との間で交わされた秘密協定「ヤルタ密約」により、8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告する。
  翌日9日にはソ連軍は約150万人の兵力を動員、大量の戦車や航空戦力で日本軍を圧倒、日本の勢力圏だった満州国と朝鮮半島北部を制圧した。
  そして、8月9日、広島に続き長崎にも原子爆弾を投下
(2)
  8月10日午前0時3分に始まった御前会議で、東郷茂徳外務大臣は「終戦やむなき」と意見し、米内光政海軍大臣と平沼騏一郎枢密院議長が賛同、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張する。
  しかし阿南惟幾陸軍大臣、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武副武軍令部総長は終戦に反対を表明し対立。
  深夜2時、鈴木貫太郎総理大臣は「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と、昭和天皇に意見を求めた。
昭和天皇は身を乗り出しながら
  「私は外務大臣の意見に同意である」-「また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う」-「私は涙をのんで外相案に賛成する」-「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う」-「内閣は至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」 と述べられると御前会議が終了した。

  8月15日正午、昭和天皇による玉音放送でポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明。戦闘行為は停止された。 だが、ソ連軍による日本侵攻は8月15日正午でやむことはなく、9月2日に結ばれた日本の降伏文調印を無視してソ連軍は攻撃を継続。 それは満洲にとどまらず、日本領である南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、朝鮮半島北部の全域を支配下に置くまで続き、9月5日になってようやくソ連は違法な戦闘による支配を完了させた。
(3)
なぜ日本は太平洋戦争へと突入したのか
  1941年12月8日、日本海軍の攻撃機350機が、ハワイの真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊に奇襲を開始することで太平洋戦争の火蓋が切られた。
  日本は真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊の戦闘能力を一時的に完全に喪失させることに成功する。 なぜ日本は終わりの見えない日中戦争の最中、国力が約8倍の米国に戦いを挑んだのか。

  日本は本格的に中国へ進出するため1937年盧溝橋事件を引き起こし、それがきっかけで日中戦争が勃発。同時に米英と外交的に対立する。
  1938年、日本は東洋文化の道徳仁義に基づく国際正義の確立、東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化を融合した「新文化の創造」を提唱する東亜新秩序を発表。 日本軍の中国における軍事行動の口実を東亜新秩序建設としたのである。
  これに反発した米国は1939年、日本に経済制裁を実施するために通商条約破棄を通告。翌1940年1月26日に失効すると石油や鉄などの戦略物資の対日輸出が禁止された。
  石油の90%を米国に頼っていた日本は窮地に陥り、日本は戦争しか国家の維持ができないと考えた。 結果、自存自衛のために対米英蘭戦争やむなしと、資源を求めて東南アジアへの侵略を強化することになる。
  日本は1940年9月、北部仏印 (フランス領インドシナ北部) に進駐を強行し、同月、日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟である日独伊三国同盟を締結。
  これにより日本、ドイツ、イタリアの枢軸国側と、米国、英国、フランスの連合国側といった敵対的構図が浮き彫りとなった。
(4)
  1941年、日ソ中立条約が締結された。それは相互不可侵および一方が第三国に軍事攻撃された場合における他方の中立などを約束するものである。
  日本、ドイツ、イタリアの3か国は、英国、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルに比べ植民地獲得に出遅れていた。 伝統的に植民地主義をとってきた西欧諸国に対し、後発の米国には反植民地主義、孤立主義という思想があった。
  日本は米国に対しアジア構想で、西欧列強からアジア諸国を解放するといった観点で日本、満洲、中国、フィリピン、タイ、ビルマ、インド、フランス領インドシナ(仏印)、英国領マラヤ、英国領北ボルネオ、オランダ領東インド、オーストラリアと経済的な共存共栄を提唱した大東亜共栄圏構想を大義として米国に主張していたら、反植民地主義と孤立主義を掲げる米国は、西欧列強の伝統的な植民地を守るために、わざわざ参戦しただろうか。

  西洋列強の植民地を日本が、解放するという名目で行動を起せば、日本が米国との直接対決を回避できた可能性もある。 さすれば米国は対日参戦せず第2次世界大戦は今日のような形で終わらなかったかもしれない。 しかし、真珠湾奇襲という米国への直接的な攻撃を日本はしてしまった。
   これにより、ルーズベルトは国民の奮起を呼びかけたことで米国民は日本打倒で団結してしまう。 そして、米国政府は日本軍の真珠湾攻撃を「だまし討ち」と喧伝することで、米国民の愛国心を高め、「リメンバー パールハーバー!(真珠湾攻撃を忘れるな)」は米全土を席巻するスローガンとなった。
(5)
なぜ米国は一般市民を無差別に殺害したのか
  日本本土空襲は、1944年末頃から始まり、1945年春頃から本格的な戦略爆撃となった。 当初、マリアナ基地司令官ヘイウッド・ハンセル少将が実践した空からの攻撃は軍需工場、港湾施設など軍事拠点を対象に限定した高高度からの狙った精密爆撃だった。
  だが、最初の東京空襲から約3カ月で22回出撃、延べ2000機以上の「B29」が2万2000発以上の爆弾を投下したにもかかわらず、日本の飛行機工場の生産能力は5%しか落ちていないと推定された。
  跡を継いだカーチス・ルメイ少将は、大量の焼夷弾で都市の殲滅と一般市民の虐殺を目的とした都市を焼き払う無差別爆撃に戦術に切り替えた。

  1945年3月10日、約300機のB29爆撃機が、編隊を組み低空から隙間なく焼夷弾を落として街全体を焼き払う、絨毯爆撃が始まった。 江東区や墨田区など木造建築が連なるエリアに3万発もの焼夷弾を投下する無差別爆撃を決行。東京は火の海となり一夜で10万人もの一般市民が亡くなり、焼き出された人は100万人に上る。
  非戦闘員である一般市民を殺すことは、国際法に違反する戦争犯罪である。 もし、戦場で無抵抗の武器を持たない丸腰の市民を小銃や機関銃で射殺したり、軍の施設ではない一般市民しかいないことが分かっている施設や地域を砲撃・爆撃したりしたら戦争犯罪となる。
  焼夷弾による市民の大量虐殺は、戦場における兵士が市民を射殺するといった規模やレベルではなく、都市を破壊し尽くし、無抵抗の市民の皆殺しにするものであり、重大な戦争犯罪である。
  第2次世界大戦の日本人の死者は軍人・軍属230万人、民間人80万人で計310万人。その約9割が大規模な無差別爆撃が繰り返された戦争末期に亡くなっている。
(6)
  カーチス・ルメイは戦後、焼夷弾による市民の大量虐殺についてこう後述している。
   「当時日本人を殺すことについて大して悩みはしなかった」
   「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう」
   「戦争はすべて道徳に反するものなのだ」
   「私の決心を何ら鈍らせなかったのはフィリピンなどで捕虜になった米国人の民間人と軍人の両方を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ」


世界で唯一、戦争で原爆を使った米国
  米国は、世界で唯一、戦争で原爆を使った国である。
  1945の春から日本の原爆投下目標都市の検討が始まると、その目標都市への空襲が禁止となった。8月6日、広島への原爆投下は当時の大統領ハリー・S・トルーマンが承認。テニアン島から飛び立った米軍のB29 爆撃機エノラ・ゲイがコード名「リトルボーイ」と呼ばれた原爆を投下。上空580メートルで炸裂した原爆により7万人以上が即死。さらに7万人が死亡。3日後に長崎に投下された原爆では最大で8万人以上が犠牲となった。
  トルーマン大統領や米国軍人らは原爆投下の理由として以下のように述べている。
(7)
  「日本を早く降伏させて、アメリカ軍の犠牲者を少なくしたかった」、「20億ドルの巨額な経費、12万人以上を動員して開発した原爆が、戦争終結につながったと国内向けに正当化する必要があった
  「原爆という兵器が使えるのに、なぜ使わずに戦争を長引かせるのか、国民を納得させることが難しかった」、「日本に原爆を投下し、ソ連にアメリカの核の力を見せつけ、戦後、世界で優位に立ちたいと考えた

  トルーマン大統領や諮問委員会は、日本に対して原爆を使うことで意見は、ほぼ一致していた。 その理由として原爆を使用せずに日本へ侵攻した場合、それに伴う大きな犠牲を恐れていたからだという。
  米軍は日本の空軍と海軍は壊滅させたにもかかわらず、硫黄島や沖縄の戦闘では大きな犠牲を被った。 また、当時の神風特攻隊などによる自爆攻撃は米国側に精神的に強い衝撃を植え付けていた。
  米国側は日本が国家総動員で祖国を守ろうとするため、最後の一人になるまで戦うだろうと予想し、米軍指導部は原爆なしでこの戦争を終わらせることは困難と判断していた。
  1945年、小磯国昭首相は年頭の『讀賣報知』に、「陸海軍の特攻隊に続き、一億国民も全員、特攻隊として闘魂を鉄火と滾(たぎ)らし、戦局を挽回しょう」と談話を発表。
  マリアナ沖海戦の大敗により決定的となった際、海軍大臣、海軍軍長老、内閣総理大臣を務めた重臣・岡田啓介は「一億玉砕して国体を護る決心と覚悟で国民の士気を高揚し、其の結束を固くする以外方法がない」と述べるなど、実際、大日本帝国陸軍の上級参謀、最高指導者、中堅将校たちの多くは「本土決戦」「一億総玉砕」を主張していた。
(8)
  阿南惟幾陸軍大臣は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて一億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という持論を展開。
  だが「ご聖断」が下された後、阿南惟幾陸軍大臣は、終戦に反対する陸軍将校を統制し暴発を防ぐべく尽力をした後、8月15日正午の玉音放送を聴くことなく、ポツダム宣言の受諾返電直前に割腹自決した。 軍歌「敵は幾萬」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)に以下の一節がある。「敗れて逃ぐるは國の恥 進みて死ぬるは身のほまれ」、「瓦となりて殘るより 玉となりつつ砕けよや」、「畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず」
本当は使用せずに済んだ原爆
  原爆投下前、ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー(後の第34代アメリカ合衆国大統領)はポツダムで「降伏する準備をしている日本に、あの恐ろしいもので攻撃する必要はない」と発言。
  また、1963年発刊の回顧録でも、「広島原爆は世界を変えたが、第2次大戦を終わらせはしなかった」と、戦争を終結させたのは原爆ではなくソ連の参戦だったと主張している。
  ソ連の参戦はヤルタ密談で確約され、日本の降伏が確実視されていた。 そのため日本に原爆を投下する必要はなく、アメリカ陸軍元帥アイゼンハワー、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー、大統領付参謀長ウィリアム・ダニエル・リーヒなど1945年当時の米軍最高幹部8人のうち7人が、原爆使用について「軍事的に不必要であったか道徳的に非難すべきことだった、あるいはその両方だった」と述べている。
  ポツダム宣言受諾前日の1945年8月13日、当時首相だった鈴木貫太郎は「ソ連は満州、韓国、樺太だけではなく北海道もとるだろう。アメリカと交渉できる時に戦争を終えなければならない」と述べており、連合国側の諜報機関も、ソ連の参戦で日本を降伏に導くことを予測していた。
(9)
  だが、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンはソ連の参戦で戦争が終結することを分かっていた上で、彼は日本への原爆投下を決意していた。
  米国による原爆投下以降、ソ連は米国に対抗するために核開発に力を入れ、そうした動きは中国や各国の間に、今も広がり続けている。
日本国民は洗脳されたのか
  東京大空襲から77年となる今日、広島・長崎の原爆投下、一般市民への無差別爆撃といった禍殃の記憶は、いまの日本人には薄れつつあるようにも見える。
  戦後、私たち日本人は、繰り返しこう刷り込まれてきた。

  「日本は軍国主義のもと、アジアを侵略して何千万人もの人たちを殺害した」、「無謀な戦争により本土が空襲を受け、多くの市民が犠牲となり悲惨な敗戦を迎えた」
  しかし、そうした自虐的なスローガンは、米国による原爆投下、無差別攻撃による一般市民の虐殺行為を正当化するため、日本人に植え付けられたものである。
  米国は戦後、連合国軍の占領政策の一環として、自ら制作した日本軍の残虐行為が記された宣伝記事「太平洋戰爭史」を全国の新聞社に1945年12月8日より10回にわたり連載させた。
(10)
  また、日本放送協会のラジオ第1放送・第2放送ではGHQ制作の日本軍の悪行をドラマ仕立てにした宣伝番組「眞相はかうだ」を1945年(昭和20年)12月9日より10回にわたり同時放送させた。
  こうした番組はGHQの制作であることが隠蔽されたために、日本放送協会へ抗議や非難などの手紙や電話などが殺到した。
  しかし、GHQは市民のそうした意見を取り入れながら、より巧妙にそれに続く番組「眞相箱」、「質問箱」など形を変えながら放送を続けていった。
  そうした市民への反復的継続的な洗脳工作の結果、「原爆も空襲も仕方がなく、アメリカが日本の軍国主義から国民を解放してくれた」という風潮が社会に漂い、やがてそれが定着していった。
平和に暮らすための頂門の金椎
  戦場においても武器を持たない丸腰の一般市民への銃殺や、一般市民の住む施設などを事前に知った上での攻撃、核爆弾や爆撃機による無差別攻撃も、戦争犯罪である。
  広島、長崎の原爆投下、絨毯爆撃により虐殺された一般市民。日本国家のため、愛する家族のために戦場に散った英霊のことを想う時、米国が日本の軍国主義から国民を解放してくれたという話を、私は到底受け入れることはできない。
  だが、「怨み」が「怨み」を生み、「怒り」が「怒り」を生み、「憎しみ」が「憎しみ」を生み、それが連鎖し、拡大すれば、争いは絶え間なく続き、やむことはないだろう。
  「怨み」「怒り」「憎しみ」は鎮めなければ、私たちの平和な暮らしを、永遠に実現させることはできないのである。

  釈迦が説く「この世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息(や)む。これは永遠の真理である」という言葉は、私たち人類の頂門の金椎ではないか。


2022.08.06-中国新聞-https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/198813
核の惨劇を保有国は直視を 原爆の日、広島平和宣言 ロシアの威嚇に警告

  米軍による広島への原爆投下から77年となった6日、広島市は平和記念公園(中区)で原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)を営んだ。ウクライナに侵攻したロシアが核兵器の使用を示唆する中、松井一実市長は平和宣言で、核抑止力に頼る考えが世界で勢いづいている現状に危機感を表明。「一刻も早く全ての核のボタンを無用のものにしなくてはならない」と核兵器廃絶を訴えた

   式典には地元選出の岸田文雄首相が就任後初めて出席国連トップでは12年ぶりにグテレス事務総長も原爆の日の祈りに加わった

   松井市長は平和宣言で、核抑止論を「戦争体験から、核兵器のない平和な世界の実現を目指すこととした人類の決意に背く」と指摘。ロシアの文豪トルストイが残したという「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない」との言葉を引いて、「核の脅し」に警鐘を鳴らした

   核兵器保有国のリーダーには、被爆地で核兵器の惨禍を直視し、核兵器廃絶へ確信を持つよう要望。来年5月に市である先進7カ国首脳会議(G7サミット)の参加者には強く期待した。日本政府へは、米ニューヨークで開催中の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で保有国と非保有国の橋渡し役を果たした上で、核兵器禁止条約も批准するよう求めた。
   式典は午前8時に始まり、松井市長と遺族代表の2人が、この1年に死亡が確認された広島の被爆者4978人の名前を記した原爆死没者名簿を原爆慰霊碑に奉納。名簿は123冊計33万3907人になった。原爆投下時刻の8時15分に遺族代表の米田慎志さん(45)=西区=と、こども代表の竹屋小6年舛本陽毬(ひまり)さん(12)=中区=が「平和の鐘」を突き、1分間、全員で黙とうした。
   こども代表の幟町小6年バルバラ・アレックスさん(12)=中区=と、中島小6年山崎鈴(りん)さん(11)=中区=は「平和への誓い」で「平和な景色が映し出される未来を創るため、私たちは行動していく」とアピールした。

   市は今回、新型コロナウイルスの感染予防のため大幅に規模を縮小した2020、21年の約4倍となる約3550席を用意したが、感染急拡大などで約700人が欠席。参列者は2854人だった。うち都道府県の遺族代表は27人、海外代表は99カ国と欧州連合(EU)。ウクライナ情勢を背景にロシアとベラルーシの政府代表は招かなかった。
   また、先月8日に起きた安倍晋三元首相の銃撃事件を受け、市や広島県警は式典の警備態勢を強化。参列者の入場時に初めて金属探知機で危険物の持ち込みをチェックした。(和多正憲)


2022.08.06-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220806/k10013756191000.html
被爆77年「広島原爆の日」 核兵器のない世界の実現を訴え

広島に原爆が投下されて6日で77年となります
  ロシアの軍事侵攻により、世界中で核の脅威に対する危機感が広がる中、広島市の松井市長は平和宣言で「核兵器による抑止力なくして平和は維持できないという考えが勢いを増している」と指摘し、生命と財産を守るためには核兵器を無くす以外に根本的な解決策は見いだせないと確信してほしいと訴えました。

  広島市の平和公園で午前8時から行われた平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、岸田総理大臣のほか、99の国の代表が参列しました。ことしは、3年ぶりに一般の参列者席が設けられ、新型コロナウイルスの影響で規模を大幅に縮小した去年とおととしの4倍に当たるおよそ3200人が参列しました。

  式典では、この1年に亡くなった人や死亡が確認された人、合わせて4978人の名前が書き加えられた33万3907人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められました。そして、原爆が投下された午前8時15分に参列者全員で黙とうをささげました。

  ロシアのウクライナへの軍事侵攻と核による威嚇を受けて、世界各地では軍備を増強する動きが広がっています
  広島市の松井市長は平和宣言で「世界中で、核兵器による抑止力なくして平和は維持できないという考えが勢いを増している」と指摘しました。
  そして「国民の生命と財産を守るためには、核兵器を無くすこと以外に根本的な解決策は見いだせないことを確信していただきたい」と述べ、核保有国の為政者に対し、被爆地を訪れ、核兵器を使用した際の結末を直視すべきだと訴えました。

  これに対し岸田総理大臣は「いかに細く、険しく、難しかろうとも『核兵器のない世界』への道のりを歩んでいく。非核三原則を堅持しつつ『厳しい安全保障環境』という『現実』を『核兵器のない世界』という『理想』に結びつける努力を行っていく」と述べました。
被爆者の平均年齢はことし、84歳を超えました。
  核兵器がこの世界から無くなるときを自分の目で見たいと、全力で声を上げてきた人たちが毎年、その願いをかなえることなく亡くなっていきます。被爆の記憶をどのように受け継ぎ、世界に、未来にどのように伝えていくかが問われています。
  被爆地・広島は6日の一日、犠牲者を追悼する祈りに包まれるとともに、核の脅威が高まる今だからこそ「核兵器によってもたらされる悲劇」や「核なき世界の実現を願う被爆者の声」を国内外に発信することにしています。
国連 グテーレス事務総長 広島から世界に核廃絶呼びかける
  国連のグテーレス事務総長は広島市の平和記念式典に出席し、世界各地に深刻な核の脅威が広がっていると危機感を示したうえで、「世界は広島で起きたことを決して忘れてはならない。被爆者が残した遺産は決して消滅しない」と述べ、国際社会に対して核廃絶に向けた取り組みを改めて呼びかけました。

  広島市の平和記念式典に現職の国連トップとして12年ぶりに出席したグテーレス事務総長は、あいさつのはじめに「被爆者の方々による揺るぎない証言は、核兵器の根本的な愚かさを私たちに気づかせてくれる」と述べ、長年にわたり被爆の実態を伝えてきた被爆者の努力をたたえました。
  一方世界の状況について、「深刻な核の脅威は、中東から朝鮮半島へ、そしてロシアによるウクライナ侵攻へと、世界各地に急速に広がっている」と危機感を示したうえで、「核保有国が核戦争の可能性を認めることは断じて受け入れられない」と述べ、ロシアによる核の威嚇を厳しく非難しました。

  そのうえで現在、NPT=核拡散防止条約の再検討会議がニューヨークで開かれていることを踏まえ、「きょう私はこの神聖な場所からこの条約の参加国に対し、私たちの未来を脅かす兵器を廃絶するために、直ちに努力するよう呼びかける」と訴えました。
  グテーレス事務総長は最後に、「世界はここ広島で起きたことを決して忘れてはならない犠牲者の記憶、生き残った方々が残した遺産は決して消滅しない」と述べ、国際社会に対して核廃絶に向けた取り組みを改めて呼びかけました。
平和記念式典 警備態勢を強化
  広島市と広島県警察本部は、先月、安倍元総理大臣が奈良市で銃撃されて死亡した事件を受けて、ことしの平和記念式典に配置する市の職員や警察官を増員して警備態勢を強化しています。
  このうち平和公園の入り口では、これまでは手荷物検査だけを行っていましたが、市は今回、初めて金属探知機を導入し、警備員が参列に訪れた人の手荷物やポケットの中に刃物など危険なものが入っていないかどうかを入念に確認していました。
  また、警察は平和公園で要人が通る場所などを中心に警察官を例年よりも多く配置しています。配置された警察官は、式典が行われる平和公園や周辺の道路を複数人で繰り返し巡回していました。金属探知機による検査を受けた、式典に参列する広島県廿日市市の中学3年生の男子生徒は「10秒くらいかけて荷物や服を調べていました。銃撃事件もあったので、警備が厳重になることは理解できるし安心だと思います」と話していました。



2021.08.09-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210809/k10013189711000.html
長崎に原爆投下 きょうで76年 “最後の被爆地に”式典で発信へ

  長崎に原爆が投下されて9日で76年です。新型コロナウイルスの影響で被爆者の記憶を伝える活動が難しくなる中、長崎は原爆の日に合わせて犠牲者に祈りをささげ、核兵器のない世界の実現に向けて「長崎を最後の被爆地に」という訴えを発信します。

  長崎原爆の日の平和祈念式典は台風の影響が一時懸念されましたが、9日は予定どおり午前10時45分から長崎市の平和公園で行われ、被爆者や遺族、菅総理大臣のほか、およそ60か国の代表らが参列します。

  感染防止対策から式典は2年連続で規模が縮小され、参列者は例年の1割のおよそ500人になる見通しです。
  式典では、この1年に亡くなった被爆者など3202人の名前が書き加えられた18万9163人の原爆死没者名簿が納められます。
  そして原爆がさく裂した午前11時2分に黙とうをささげます。

  ことし1月には核兵器の開発や製造、使用などを禁じる核兵器禁止条約が発効しましたが、核保有国や日本など核の傘のもとにある国は参加していません。
  長崎市の田上市長は式典で、日本政府に核兵器禁止条約に参加し、核兵器のない世界の実現に向けてリーダーシップを発揮するよう求めることにしています。
  また、広島のいわゆる「黒い雨」の裁判をめぐり政府が上告せずに原告を被爆者と認定したことを受けて、長崎では被爆者としての認定を求めて裁判を続けている「被爆体験者」と呼ばれる人々の救済を政府に働きかける動きが活発になっています。

  式典のあとは長崎の被爆者団体が菅総理大臣と面会し、「被爆体験者」の救済を要望する予定です。
  感染拡大で長崎を訪れる修学旅行生や外国人は減り、被爆者が悲惨な体験を伝える活動は難しくなっていて、10日からは原爆資料館の一時閉鎖が決まるなど、被爆者の記憶を伝える活動は難しくなっています。

  それだけに被爆地・長崎は9日の原爆の日に合わせて犠牲者に祈りをささげ、二度と誰にも被爆体験をさせてはならないという意味を込め、「長崎を最後の被爆地に」という訴えを国内外に発信します。
早朝から 祈る人たちの姿
  長崎市の爆心地を訪れた福岡県の69歳男性は「すさまじいことが起こり、多くの人が亡くなったことを決して忘れてはいけないと、年に1回、この日は必ずここに来るようにしています。核がある世界を次世代に残してしまった大人の責任を思いながら手をあわせました」と話していました。
  長崎市の平和公園を訪れた市内に住む82歳男性は「私自身は被爆していないので実際に被害を受けたわけではないが、毎年8月9日は当時の悲惨な原爆の被害を思い起こさせる。きょうは世界の恒久平和を思いながら手を合わせたい」と話していました。


2021.08.06-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210806/k10013184901000.html
祈り 救済 継承 広島「原爆の日」それぞれの思い

  広島に原爆が投下されて6日で76年となりました。
  新型コロナウイルスの感染拡大で、去年に引き続き規模が縮小された平和祈念式典。いわゆる「黒い雨」をめぐる裁判で国が上告を見送り、ようやく被爆者と認められた原告2人も参列しました。

犠牲者を追悼する祈りに包まれた、被爆地・広島。ことしの「原爆の日」を振り返ります。
感染対策で平和公園は閉鎖
  午前8時から始まる平和記念式典には例年、多くの人が出席しますが、ことしも去年と同様、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、広島市は午前5時から午前9時まで会場となる公園南側一帯を閉鎖しました。閉鎖が始まった午前5時になると広島市の職員がロープをはって公園への入場を規制し、中に立ち入らないよう呼びかけていました。

  一方、午前5時から午前7時の間は公園内にある原爆慰霊碑への参拝に限って入場が認められ、訪れた人が祈りをささげていました。記念式典には例年、およそ1万の参列者席が設けられますが、ことしも一般の参列者席をなくし、被爆者や遺族などに優先的に確保した880席まで減らしました
  平和公園を訪れた男性は「入場が制限されているとは知らなかった。多くの人が犠牲となって今の暮らしがあることを思いながら慰霊碑で祈りたい」と話していました。
「黒い雨」裁判の原告団は
  広島に原爆が投下された直後のいわゆる「黒い雨」を浴びて健康被害を受けたと住民などが訴えた裁判では、政府が最高裁判所への上告を見送り、原告全員を被爆者と認めた広島高等裁判所の判決が確定しました。裁判で原告団長を務めた高野正明さんは式典に参列したあと、「黒い雨を浴びて亡くなった人がたくさんいる。命あるかぎり実相を伝えていきたい」と話していました。
 また、原告の高東征二さんは「手帳を取得できたという意味で去年とは違う式典だった」としたうえで、式典前に菅総理大臣とことばを交わし、まだ手帳の交付を受けていない人に対して速やかに手続きを進めてほしいと要望したことを明らかにしました。
「黒い雨」健康被害訴える女性は
  「黒い雨」を浴びたとして健康被害を訴えている女性は、ことしの8月6日を特別な思いで迎えました。広島市佐伯区に住む小川泰子さんは、原爆が投下された午前8時15分、自宅で静かに手を合わせ祈りをささげました。小川さんは4歳の時に爆心地から9キロほど離れた旧八幡村で黒い雨を浴びたあと、足などに腫瘍ができ全身のけん怠感が続いたといいます。
  肝硬変などを患っていますが、小川さんが住んでいる地域は被爆者健康手帳が交付される被爆地域ではなく、黒い雨が激しく降り被爆者に準じた支援が受けられる区域にも指定されていません。小川さんは20年ほど前から、黒い雨が降った区域の拡大を求めてきましたが、体調が悪化したため今回の裁判には参加しませんでした。
  小川さんは「きょうは黒い雨の被害を訴えて亡くなっていった人たちに祈りをささげた。救済が間に合わず無念で涙が出た」と話しました。そして、国が、裁判に参加していない人についても救済を早急に検討を進めるとしていることについて「これまでずっと認められてこなかったので手帳を手にするまでは信じられない。私ももう長く生きられないので早く救済してほしい」と話していました。
「歩けるかぎりは参列し続けたい」被爆者の男性
  広島県福山市では被爆2世を中心とした団体「福山市原爆被害者友の会」が、慰霊式を行いました。式には2人の被爆者のほか、遺族や原爆について学んでいる中学生と高校生合わせておよそ50人が参列し、この1年間で死亡が確認された30人を書き加えた1456人分の死没者名簿を慰霊碑に納めたあと、参列者全員で黙とうをささげました。
  このあと、参列した人たちは菊の花を慰霊碑に手向け、犠牲者の冥福を祈りました。福山市によりますと、ことし3月末時点で被爆者健康手帳を持つ市内の被爆者は809人で、5年間で400人余り減り、被爆者の高齢化が進んでいるということです。
  被爆者の96歳の男性は「つえがないと歩行が困難だが、体は丈夫なので、歩けるかぎりは慰霊式に参列し続けたい」と話していました。父親が被爆した「福山市原爆被害者友の会」の藤井悟会長(74)は「被爆者が少なくなっている中、今後は式典の中で被爆者に体験を語ってもらうなどして戦争を風化させないようにしていきたい」と話していました。
祖母の思いを継いで SNSでライブ配信
  核兵器の廃絶を訴え続けてきた祖母の思いを引き継ごうとする人もいます。被爆3世の富永幸葵さん(24)は、平和記念式典が開かれている平和公園の様子を多くの人に知ってもらおうと、SNSで発信しました。
  富永さんの祖母、岡田恵美子さんは8歳で被爆し、ことし4月に亡くなるまで核兵器の廃絶を訴え続けてきました。祖母を亡くしてから初めてとなる原爆の日、富永さんは、新型コロナウイルスの影響で閉鎖された平和記念式典の会場から少し離れた場所で、式典を見守りました。
  富永さんが平和公園の様子をSNSでライブ配信すると、見ていたおよそ50人から「私も午前8時15分に黙とうをしました」とか「原爆のことを発信したいが何ができるか」などのメッセージが寄せられ、富永さんは「何にでも平和は関係することだから、絵でも歌でも自分の得意なことを平和につなげて、隣の人や家族に伝えることから始めてほしい」と呼びかけていました。
  ダンサーとして活動する富永さんは「おばあちゃんがいない中で8月6日を迎えて、自分なりに動いてみたいと思いました。これからも自分にできる方法で、SNSやダンスを通して、原爆や平和のことが同世代に伝わるように活動していきたい」と話していました。
子どもたちへ語り継ぐ取り組みも
  広島市東区の矢賀小学校では6日、登校したおよそ350人の児童たちが各教室に分かれて、原爆が投下された午前8時15分に合わせて黙とうし犠牲者に祈りをささげました。続いて、被爆者に代わって被爆の体験を語り継ぐ活動をしているこの学校の教員だった中本実鈴さんが、飛行機の爆音が聞こえ空を見上げると太陽が爆発したかのような強烈な光が広がりすさまじい熱さが襲ってきたことや、ひどいやけどで何日も意識を失い苦しんだことなど、被爆者の体験を紙芝居で語ると、児童たちは真剣な表情で聞き入っていました。
  6年生の女子児童は「ひとりの力は小さいですが皆で力を合わせて平和な世界をつくりたいです。下級生にも詳しく原爆について教えるなど自分ができるかぎりのことをしていきたいです」と話していました。
  広島市によりますと、市内の公立小学校の9割以上が原爆の日を登校日にしていて、子どもたちに原爆の被害や平和について考える特別授業を行っているということです。


2021.07.29-Yahoo!Japanニュース(中國新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/fab02da87d7159ebb1185bf06ff804ab8f280186
「黒い雨」訴訟、高裁判決が確定 原告全員を被爆者認定

  広島への原爆投下後に降った「黒い雨」訴訟で、一審広島地裁判決に続き原告84人(うち14人は死亡)全員を被爆者と認定し、被爆者健康手帳の交付を認めた広島高裁判決が29日午前0時、確定した。国、広島県、広島市の被告側、原告側の双方が上告期限の28日までに上告しなかった。県と市は、8月6日の「原爆の日」までに原告全員に手帳を交付する方向で調整している。

  菅義偉首相は政府内の上告方針を一転して上告断念を表明。27日、原告以外の黒い雨被害者の被爆者認定についても「訴訟への参加・不参加にかかわらず認定し、救済できるよう早急に対応を検討する」との首相談話を閣議決定した。
  焦点は今後、原告以外に被害を訴える人や、国が指定した地域の外で原爆に遭った長崎の「被爆体験者」の認定の在り方に移る。
  今月14日の高裁判決は、黒い雨を巡る初の司法判断となった昨年7月の地裁判決を支持し、被告側の控訴を棄却。黒い雨は1976年に国が指定した援護対象区域よりも広範囲に降ったとし、国の「線引き」の妥当性をあらためて否定した。
   さらに被爆者認定は「放射能による健康被害が生じることを否定できないと立証すれば足りる」と判断。内部被曝ひばくによる健康被害の影響を重視し、一審判決が認定要件としたがんや白内障など11疾病の発症にとらわれず、黒い雨に遭った人は被爆者と認めるべきだとした。  県市は高裁判決後、上告を働き掛ける国に対し、断念するよう求めていた。
   首相談話の閣議決定を踏まえ、田村憲久厚生労働相は県市と連携し、認定基準の指針改定に乗り出すと表明。長崎県、長崎市とも協議する方針を示した。
(中国新聞社)


2010.07.26-毎日新聞-https://mainichi.jp/articles/20210726/k00/00m/040/174000c
黒い雨訴訟 国が上告断念 菅首相が表明

  菅義偉首相は26日、広島への原爆投下後に降った「黒い雨」の健康被害を巡り、国の定めた援護区域外にいた住民らを被爆者と認めた広島高裁の判決について「上告についてはしないこととした」と述べた。田村憲久厚生労働相、上川陽子法相と首相官邸で協議後、記者団に語った。

   首相は判決について「熟慮した結果、84人の原告の皆さんについては、被爆者援護法の理念に立ち返るなかで救済すべきだと考えた」と説明し「ただちに原告の皆さんに被爆者手帳を交付させてもらう」と表明した。また、「同じような事情の方々について救済すべきか検討したい」とも述べた。【川口峻】


2021.07.15-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210715/k10013140441000.html
「黒い雨」訴訟 勝訴の住民ら “広島市は上告断念を”申し入れ

  広島に原爆が投下された直後に放射性物質を含むいわゆる「黒い雨」を浴びて健康被害を受けたと住民などが訴えた裁判で、2審の広島高等裁判所が14日、原告全員を法律で定める被爆者と認める判決を出したことを受けて、住民らは15日、広島市に対し最高裁判所に上告しないよう申し入れました。

  原爆が投下された直後に降ったいわゆる「黒い雨」を浴びて健康被害を受けたと広島市や周辺自治体に住む76歳から97歳の住民やその遺族84人が訴えた裁判で、2審の広島高等裁判所は14日、1審に続いて全員を被爆者と認め、広島市や広島県に対し被爆者健康手帳を交付するよう命じました。
  これを受けて、原告の住民や弁護士らが15日、広島市の原爆被害対策部の河野一二部長に、最高裁判所に上告しないよう求める市長宛ての申し入れ書を手渡しました。

 原告団の竹森雅泰弁護士は「被爆地広島の首長として上告せず『黒い雨』被爆者を救済すべきだ」と述べました。これに対し、河野部長は「原告住民の声をしっかりと国に伝え協議していきたい」と応じました。
  要望のあと、高野正明原告団長は「市が上告しないことこそが私たちの願いであり、判決を受け入れてほしい」と話していました。
広島県 湯崎知事「県としては『上告したくない』と思っている」
  広島高裁の判決について、広島県の湯崎知事は14日「今回の判決は黒い雨を体験して苦しんでいる方々の切実な思いが第2審でも認められたものと受け止めている。すべての黒い雨体験者を救済するという観点で、厚生労働省と広島市など関係機関と協議しながら判断したい。県としては『上告したくない』と思っているので、まずは厚生労働省に考えを伝えていきたいし、それを踏まえて市と国と協議しながら最終的な対応を決めていきたい」と述べました。
広島市 松井市長「黒い雨地域の拡大目指す思いで協議に」
  広島高裁の判決について広島市の松井市長は14日「心身に苦しみを抱えて来られた黒い雨体験者の方々の長年の切なる思いが、第1審に続き認知いただけたものと受け止めている。今後の対応については、県や厚生労働省と決めていくことになるが、本市としては、体験者の方々の長年の切なる思いと、黒い雨降雨地域の拡大を目指す本市の思いを訴える立場で、今後の協議に臨みたい」というコメントを出しています。
日本被団協「判決に従う政治的決断を求める」
  全国の被爆者団体で作る日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会は、談話を発表しました。
  この中で、判決について「私たち被爆者が求めてきた『ふたたび被爆者をつくるな』の願いに応えるものだ」と評価したうえで、菅総理大臣と田村厚生労働大臣に対し「事務方に任せず、判決に従う政治的決断をすることを求める」として、上告しないよう求めています。
  そのうえで「核兵器禁止条約が国際法として発効したいま、国・厚生労働省は被爆者援護施策の抜本的見直しを迫られている。『原爆被害を狭く、小さく、軽く』見ることをやめ、原爆被害の実相に応える施策へと変えるべきだ」と訴えています。


2021.05.27-nippon com-https://www.nippon.com/ja/behind/l00158/
オバマ大統領が被爆地・広島を歴史的訪問

  米国のオバマ大統領は5月27日、現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪れ安倍晋三首相とともに原爆死没者慰霊碑に献花。被爆者団体の代表や広島、長崎両市長らを前にスピーチし、第2次世界大戦の全ての犠牲者に哀悼の意を示すとともに、「核兵器のない世界」を追求していくと訴えた。

  1945年8月6日に原子爆弾が広島に投下され、人類が「核の恐怖」とともにある時代となってから71年目核兵器を使用したことのある唯一の核保有国である米国の首脳が被爆地に実際に立ち、犠牲者を慰霊したことは、核軍縮・核廃絶実現に向けた道のりの中での「歴史的な出発点」(松井一実・広島市長)といえる。
核保有国は勇気を
  主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)の日程を終えたオバマ大統領は27日午後、米軍岩国基地に立ち寄った後、午後5時25分に広島平和記念公園に到着。原爆資料館を見学後、安倍首相とともに、原爆死没者慰霊碑に献花した。

  オバマ大統領はスピーチで、71年前の原爆投下について「世界が変わった。人類が自分自身を破壊する手段を手に入れた瞬間だ」と表現。第2次世界大戦で6000万人もの人々が数年の間に亡くなったことを指摘すると同時に、「10万人を超える日本人、韓国・朝鮮人、12人の米国人捕虜がこの恐ろしい力の犠牲になった」、「(原爆の)キノコ雲のイメージは、人類の矛盾を強く突きつける」と、核兵器の“異常さ”について言及した。

  その上で、「核保有国は勇気を持って、核兵器のない世界を追い求めなければならない」との決意を改めて示した。スピーチは事前の予想を大きく超え、20分近くに及んだ。
  続けてスピーチに立った安倍首相は、「歴史的な訪問を心から歓迎したい。オバマ大統領の決断、勇気に敬意を表したい」と語った。

  オバマ大統領はその後、広島県被団協理事長の坪井直さん(91)、原爆投下で命を落とした12人の米兵捕虜の身元を突き止めたアマチュア歴史家、森重昭さん(79)の2人の被爆者と言葉を交わし、森さんには肩を抱いて“ねぎらい”の気持ちを表した。
  森さんは大統領と会う直前、nippon.comの取材に対し、「被爆米兵の存在はアメリカ国内でもほとんど知られていない。オバマ大統領がきょう慰霊碑へ献花されたことで、アメリカでも米兵が犠牲になった事実を知ってもらうきっかけになればと思います」と話した。

  大統領はその後、原爆ドームを近くに望める場所まで公園内を安倍首相と歩き、岸田文雄外相から原爆ドームの説明を受けた。平和記念公園での滞在時間は約50分だった。
  日本のメディアによると、オバマ大統領は原爆資料館で「われわれは戦争の苦しみを知っている。平和を広めて“核兵器なき世界”を追求する勇気をともに見つけよう」と記帳した。

  広島の被爆者たちは公園の周辺やテレビ中継などを通じて、この歴史的訪問を見守った。小学校2年の時に被爆し、現在は英語で外国人に向けた「語り部活動」を行う小倉桂子さん(79)は、「オバマ大統領は、原爆で倒れた犠牲者の遺品の前に立って、必ずや声なき声を聴きとってくださったことと思います。そして、そうした声が超大国の大統領を突き動かし、核なき世界へ踏み出すきっかけになってくれると信じています」と語った。
「謝罪」にこだわらず訪問実現
  唯一の被爆国である日本はこれまで、悲惨な原爆被害の実相を知ってもらうため、世界の指導者に対して被爆地訪問を呼び掛け。1991年には旧ソ連のゴルバチョフ大統領(当時)が長崎を訪れた。政府は今回、大統領の広島訪問に当たり「米国からの謝罪」を求めることはしなかった。

  オバマ大統領は就任からわずか3カ月の2009年4月、プラハで「米国が核兵器のない平和で安全な世界を追求する」と演説。核兵器削減に向けた米国の具体的取り組みを提示し、この年のノーベル平和賞を受けた。
  2010年にはルース駐日大使(当時)が、現職の駐日大使として初めて8月6日の「広島原爆の日」に参列12年以降は米大使が広島、長崎の両式典に参列することが恒例となったことに加え、4月のG7広島外相会合ではケリー米国務長官が平和記念公園を訪れ、原爆資料館も見学した。


2020.8.12-Yahoo!Japanニュース(共同通信)-https://news.yahoo.co.jp/articles/95a9de751db14f38cf3fd21ae68868a3203b0873
黒い雨訴訟、国と県・市が控訴 厚労相「科学的知見ない」

  広島市への原爆投下直後に降った放射性物質を含んだ「黒い雨」を巡り、国の援護対象区域外にいた原告84人全員(死亡者含む)を被爆者と認めた広島地裁判決について、加藤勝信厚生労働相は12日、広島県、広島市と共に控訴したと表明した。
  控訴理由を「十分な科学的知見に基づいたとは言えない判決だ」と述べた。  一方、援護対象区域については「地域拡大も視野に入れ、検証を進めたい」と表明。「対象者の高齢化が進んでいる。可能な限りの検証を行うよう事務方に指示した」と述べた。厚労省は検証に向け、専門家を含めた組織を立ち上げる方針で、区域拡大に向けた議論も行われる見通しとなった。


2020.8.6-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200806/k10012553581000.html
「黒い雨」判決 首相「広島県と市などの協議踏まえ対応検討」

  広島でいわゆる黒い雨を浴びた住民が健康被害を訴えた裁判で、広島地方裁判所が全員を被爆者と認めた判決について、安倍総理大臣は、広島市で記者会見し、関係省庁や、広島県と広島市での協議を踏まえ、政府としての対応を検討していく考えを示しました。
  この中で安倍総理大臣は、広島でいわゆる「黒い雨」を浴びた住民が健康被害を訴えた裁判で、広島地方裁判所が全員を被爆者と認めた判決について「訴訟に関する今後については判決の内容を踏まえて、現在、関係省庁や広島県、広島市で協議を行っており、それを踏まえて対応を検討していく」と述べました。
  また、戦前、軍服などの製造に使われていた広島市の被爆建物「旧陸軍被服支廠」の保存の在り方について、安倍総理大臣は「さまざまなご意見があると承知している。
  被ばく者の減少や高齢化により被爆体験の風化が危惧されるなか、わが国は唯一の戦争被爆国として世代や国境を越えて、被爆の実相を継承していく努めがある」と述べ、広島県での議論を踏まえ国として対応していく考えを示しました。
加藤厚労相「地元の皆さんの思いを共有」
  加藤厚生労働大臣は訪問先の広島市で記者団に対し「広島県の湯崎知事と広島市の松井市長から、地元の皆さんの思いを伺った。しっかりと受け止めて、共有させていただきたい」と述べました。
  そのうえで「ただ、判決の中身については議論しているので、今月12日の控訴期限に向けて、県と市とよく調整し、与党の考えも伺いながら結論を出していきたい」と述べました。
社民党 吉田幹事長「黒い雨裁判の控訴断念を」
  社民党の吉田幹事長は、記者会見で「被爆者の思いをかみしめて、再び犠牲者を出さないよう核兵器の廃絶と恒久平和に全力を尽くす。また、政府は、核兵器禁止条約に署名・批准し、発効に向けてリーダーシップを発揮すべきだ」と述べました。
  また、広島でいわゆる「黒い雨」を浴びた住民が健康被害を訴えた裁判の判決について「不明確な根拠で、被爆者健康手帳の交付から除外されていた人たちが訴えた裁判であり、75年目の夏を契機に控訴の断念と早期救済に向けた政治判断をするよう強く求めたい」と述べました。


2020.8.6-Yahoo!!Japanニュース(FNNプライムニュース)-https://news.yahoo.co.jp/articles/00adb5911561341b7ebe6e736bb5cdd8a0fe62ce
広島 被爆75年...平和の祈り コロナで規模縮小も

  広島は6日、原爆投下から75年となる「原爆の日」を迎えた。
   6日朝、犠牲者を追悼する平和記念式典が開かれたが、新型コロナウイルスの影響で、規模を大幅に縮小して開催された。
  広島市の平和公園では、夜明け前から多くの人が原爆慰霊碑を訪れ、犠牲者に祈りをささげている。 両親が被爆した女性(81)「人間を重ね上げて、ガソリンか何か知らないけど、火をつけて焼いていた。
  それが今でも目に焼きついてる」、「核兵器はね、これからも絶対にです。二度と、ああいう苦しい思いはしてはいけない」
  2020年は、新型コロナウイルスの感染対策から、式典には一般席を設けず、被爆者や遺族代表、各国代表の招待者に限定し、例年の1割ほどにあたる、およそ800人の参列となった。
  そして、原爆投下時刻の午前8時15分に、黙とうが行われた。 広島市・松井一実市長「わたしたち市民社会は、自国第一主義によることなく、『連帯』して脅威に立ち向かわなければなりません」 2020年は、新型コロナウイルスの影響で、吹奏楽の演奏が中止になるなど、異例づくしの式典となった。


2020.4.16-Yahoo!!Japanニュース(産経新聞)-https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200416-00000505-san-cn
中国が低出力核実験の疑い 米国務省が報告書で公表

  【ワシントン=黒瀬悦成】米国務省は15日、核不拡散や軍備管理の履行状況に関する報告書を発表し、中国政府が新疆(しんきょう)ウイグル自治区のロプノール核実験場の「稼働」に向けた活動を活発化させていると指摘した米紙ウォールストリート・ジャーナルは報告書を根拠に中国が爆発力を抑えた低出力の核実験を極秘に実施している可能性があると報道。事実とすれば中国による新型コロナウイルスへの対応や南シナ海での覇権的行動などに加え、米中対立の新たな火種となる公算が大きい。
  報告書は、ロプノール核実験場で大規模な掘削が行われているほか、爆発を封じ込めるための特殊な坑道が使われていると指摘した。
  また、中国国内の測定局による放射線や振動の検知データの通信が過去1年にわたり妨害されていることも、米国が疑念を深めている要因であるとした。
  核爆発を伴う核実験を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)は米国や中国など8カ国が批准していないため未発効だが、北朝鮮を除く核保有国は1998年以降、条約の精神に基づき、爆発を伴う実験の一時停止(モラトリアム)を続けてきた。
  報告書は、中国がCTBTに違反しているとの証拠を明示しているわけではないものの、中国がCTBTを含む核実験に関する国際的取り決めを順守していると主張する裏で不透明な活動を行っているとして「懸念」を表明した。
  米国防総省傘下の情報機関「国防情報局」(DIA)のアシュレー長官は昨年5月、ロシアが低出力核実験を行っている疑いがあると明らかにしている。トランプ大統領は、米中露が保有する全ての核兵器を対象にした3カ国の核軍縮条約の締結を目指すと表明しており、今後は低出力核の扱いも焦点になってくる可能性がある。



2019.5.30-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190530/wor1905300024-n1.html
ロシアが低出力核実験の疑い 米軍情報機関トップが指摘

  【ワシントン=黒瀬悦成】米国防総省傘下の情報機関「国防情報局」(DIA)のアシュレー長官は29日、ワシントン市内の政策研究機関で講演し、ロシアが包括的核実験禁止条約(CTBT)違反となる低出力の核実験を行っている疑いがあるとの見方を明らかにした。
   核爆発を伴う核実験を禁止したCTBTの義務をロシアが順守していないと米情報機関が指摘するのは初めてとされる。
   CTBTは米国や中国など8カ国が批准していないため未発効だが、北朝鮮を除く核保有国は1998年以降、条約の精神に基づき、爆発を伴う実験の一時停止(モラトリアム)を続けてきた。
   アシュレー氏は講演で「ロシアは核実験のモラトリアムを守っていない蓋然性が高い」と指摘。実験の具体的な規模には言及しなかったが、「ロシアは核戦力の近代化を進めており、今後10年で核兵器の保有量を増やす可能性がある」との分析を明らかにした。
   米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)によると、核実験は北極圏のノバヤゼムリャ島で行われた。同紙は核実験の目的について、核兵器の性能向上に加え、現有の核兵器の安全性を評価する狙いがあるとする専門家の見方を紹介した。
   CTBTは96年に国連で採択され、これまでに180カ国以上が署名しているが、発効には原子炉を持つ「発効要件国」44カ国の批准が必要。このうち批准していないのは米中のほかエジプト、イラン、イスラエル、北朝鮮、インド、パキスタン。



2019.8.9-日本経済新聞-https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48406280Z00C19A8ACYZ00/
「これだけは繰り返さない」原爆詩つづった山口さん

長崎市で9日開かれた被爆74周年の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、田上富久市長が読み上げた長崎平和宣言に、被爆者がつづった詩が初めて引用された。二度と戦争を繰り返してはならないと訴える作者の山口カズ子さん(91)は「戦争の愚かしさを考える機会になれば」と願っている。
「目を閉じて聴いてください」。平和宣言の冒頭、田上市長は呼びかけた。

    息ある者は肉親をさがしもとめて 死がいを見つけ そして焼いた
   人間を焼く煙が立ちのぼり 罪なき人の血が流れて浦上川を赤くそめた

参加者はまぶたを閉じ、読み上げられる詩にじっと耳を傾けていた。
詩の引用が提案されたのは、5月の市の平和宣言起草委員会。「被爆の惨状や被爆者の思いを伝えられる」として採用が決まった。長崎市によると、平和宣言に被爆者が書いた詩が引用されたのは初めてだ。
山口さんは爆心地近くの長崎市松山町に生まれ、当時17歳で女子挺身(ていしん)隊として三菱の兵器製作所に勤務していた。母のエイさん(当時44)と妹の園子さん(同14)、テルエさん(同11)と4人暮らし。父を亡くし、母子家庭だった。
山口さんは爆心地から約1.1キロ離れた勤務先で被爆した。気を失い、顔や手にやけどを負ったものの一命は取り留めた。だが、母と2人の妹は犠牲になった。「語るまい、思い出したくない」。山口さんは戦争が終わっても、つらい体験を他人に話したり、書いたりすることはなかった。
結婚して3人の子供にも恵まれ、ようやく過去を振り返る余裕も出てきた時期だったという。被爆から34年後のある日、ふと空を見上げると、晴れ渡ったきれいな空が広がっていた。「きょうは平和でいいなあ」。しみじみ幸せだと思った。

 あの日から三十四年 青い空を見上げてただひたすら感謝する 戦争というものがない今日この日だから

詩を書くのは初めてだったが、率直な気持ちを1行記すと、その後は自分でも不思議なくらい、すらすらと言葉が出てきた。

 幾千の人の手足がふきとび 腸わたが流れ出て 人の体にうじ虫がわいた

詩には山口さんが目の当たりにした被爆直後の惨状が生々しい。「亡くなった母や妹、そして原爆の火で焼かれていった多くの人たちが私の言葉を通して語りかけ、書かせてくださった」。山口さんは今でもそう思えてならないという。詩を聴いた人にとって「原爆の悲惨さ、戦争の愚かさを改めて考えていただける機会になったら望外の幸せです」と話す。

 人は忘れやすく弱いものだから あやまちをくり返す
 だけど…… このことだけは忘れてはならない このことだけはくり返してはならない どんなことがあっても……


2019.8.9-しんぶん赤旗-http://jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-08-10/2019081001_01_1.html
核兵器廃絶へ歴史的行動を長崎被爆74年
世界大会ナガサキデー集会


長崎市は9日、原爆が投下されてから74回目の「原爆の日」を迎えました。長崎市主催の平和式典には被爆者や遺族などが参列し、田上富久市長が「長崎平和宣言」で、「唯一の戦争被爆国として一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准を」と求めました。日本共産党の小池晃書記局長が献花しました。原水爆禁止2019年世界大会・長崎の閉会総会(ナガサキデー集会)では、日本政府に核兵器禁止条約への署名、批准を求め、被爆75年、核不拡散条約(NPT)再検討会議が開かれる2020年に向けて、草の根から歴史的な運動を広げようと呼びかけました。
 ナガサキデー集会には会場があふれかえるほどの5000人(主催者発表)が参加しました。
 大会決議「長崎からのよびかけ」と特別決議「長崎からすべての国の政府への手紙」では、被爆75年、NPT再検討会議が開かれる2020年を核兵器廃絶に向けた歴史的転機とするため、「全力をあげて歴史的な行動に立ち上がる決意です」と表明。各国政府に対して、核軍縮に取り組み、核兵器禁止条約への参加を求めました
 集会では、4歳で被爆した横山照子さん(長崎原爆被災者協議会副会長)が被爆体験を証言。一日も早く核兵器禁止条約を発効させたいとのべ、「生きているうちに核兵器廃絶を願いながら、多くの被爆者が亡くなりました。被爆者は最後の力を振り絞って頑張ります。永遠に、長崎を最後の被爆地にしましょう」と訴えると、拍手が起こりました。
 純心女子高校3年生(17)が、核兵器廃絶を求める「高校生1万人署名」が20万人を超え、高校生平和大使が国連へ届けると述べると、拍手がわき起こりました。
 全国の参加者が次つぎとステージにあがり、活動を報告。北海道伊達市から参加した伊達高校3年は、「被爆者の生の声を聞いて平和への願いを強く感じました。これからも平和への扉をたたき続けていきます」と発言しました。
 海外代表も加わり「ヒバクシャ国際署名」を集めてNPT再検討会議に届けようとアピールすると場内は一つになりました。
 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)の安井正和事務局長が行動提起し、「ヒバクシャ国際署名」を飛躍的に広げ、核兵器の非人道性を訴え、禁止条約参加を求める共同行動を呼びかけました。
 福岡県飯塚市から3歳の娘を連れて初めて参加した女性(24)は、核兵器による被害だけでなく日本による加害の歴史も学んだと述べ、「いまの日韓問題につながると実感しました。武力では平和をつくれない。学んだことを周りの人に伝え、行動したい」と話しました。


8月6日は『広島原爆忌』『広島原爆の日』と言い、1945年8月6日にアメリカ軍による広島市への原子爆弾投下に由来する。8月9日は『長崎原爆忌』『長崎原爆の日』と言い、1945年8月9日にアメリカ軍による長崎市への原子爆弾投下に由来する。 それぞれの日には、広島平和記念式典や長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催される

長崎市への原子爆弾投下では、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎長崎市に対して投下した、人類史上実戦で使用された最後の核兵器である。 ... 正式名称はマーク3(Mk.3)核爆弾。




2019.8.6-産経新聞-THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/politics/news/190806/plt1908060009-n1.html
安倍首相、広島・平和記念式典のあいさつ全文 「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努める」
(1)
安倍晋三首相が6日、広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)で述べたあいさつの全文は以下の通り。

 今から74年前の今日、原子爆弾により、十数万ともいわれる貴い命が失われました。街は焦土と化し、人々の夢や明るい未来が容赦なく奪われました。一命をとりとめた方々にも、筆舌に尽くし難い苦難の日々をもたらしました。 原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀悼の誠をささげます。 そして、いまなお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞いを申し上げます。
 核兵器によってもたらされた広島と長崎の悲劇を決して繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた努力をたゆまず続けること。これは、令和の時代においても、変わることのないわが国の使命です。新しい時代を平和で希望に満ちあふれた時代としなければなりません。
 近年、世界的に安全保障環境は巌しさを増し、核軍縮をめぐっては各国の立場の隔たりが拡大しています。 わが国は、「核兵器のない世界」の実現に向け、非核三原則を堅持しつつ、被爆の悲惨な実相への理解を促進してまいります。核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を粘り強く促し、国際社会の取り組みを主導していく決意です。
 明年は、核拡散防止条約(NPT)発効50周年という節目の年を迎え、5年に一度のNPT運用検討会議が開催されます。この会議において、意義ある成果を生み出すために、一昨年、ここ広島から始まった核軍縮に関する「賢人会議」の提言などを十分踏まえながら、各国に積極的に働きかけていく決意です。
 私たちには、唯一の戦争被爆国として、核兵器の非人道性を、世代や国境を越えて伝え続ける務めがあります。
(2)
被爆者の方々から伝えられた被爆体験を、しっかりと、若い世代へと語り継いでいく。 そして、広島や長崎を訪れる世界中の人々が、被爆の悲惨な実相に触れることで、平和への決意を新たにすることができる。 そうした取り組みをわが国として、着実に推し進めてまいります。
 被爆者の方々に対して、保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受け止め、今後も、被爆者の方々に寄り添った援護施策を総合的に推進してまいります。特に、原爆症の認定について、引き続き、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査を行ってまいります。
 結びに、「国際平和文化都市」として発展を遂げた、ここ広島市において、「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げます。 

 原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆さま、ならびに、参列者、広島市民の皆さまのご平安を祈念いたしまして、私のあいさつといたします。
              令和元年8月6日 内閣総理大臣・安倍晋三


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長崎県HPより
長崎ー県民祈りの日・平和祈念式典県民祈りの日・平和祈念式典



広島平和記念式典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式は、毎年、広島県広島市に原爆が投下された8月6日の原爆忌に平和記念公園で行われる、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式は、毎年、広島県広島市に原爆が投下された8月6日の原爆忌に平和記念公園で行われる、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典である。 一般的には略して広島平和記念式典と呼ばれている。久平和を祈念するための式典である。 一般的には略して広島平和記念式典と呼ばれている。

式典は会場である平和記念公園の原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)前において、原爆死没者の遺族をはじめとして、市民多数の参加のもとで挙行されるものである。毎年広島市長によって行われる平和宣言は核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴え続けているものであり、世界各国に送られている[2]。また秋葉忠利市長(アメリカへ留学経験がある)になってから英語による平和宣言も発表されるようになった。
毎年、NHK・民放のテレビやラジオなどで生中継されるなか午前8時から始まる。原爆が投下された午前8時15分に平和の鐘やサイレンを鳴らし、式典会場のみならず、家庭、職場で原爆死没者の冥福と恒久平和の実現を祈り(市内を走行中のバスや広島電鉄の車両もこの時間には停車し、乗客も黙祷を行う)、1分間の黙祷を行ったあと、広島市長が平和宣言、子供による平和への誓いを行うのが通例である。また当日の広島市の各所では、原爆死没者に対する慰霊と核兵器廃絶を訴える式典や、原爆の被害を直接受けた被爆電車の運行が行われている。
この式典の性格は原爆を投下したアメリカに対する反米感情よりも、むしろ恩讐を超えた世界の恒久平和への希求であるとしている。冷戦時代には人類を滅亡へと導く手段として、現在では核拡散によって過激な集団によって大量殺戮しかねない方法として、破壊のための核兵器使用の危険性がある以上、核兵器の存在を認めず廃絶を求めることは世界最初の被爆地として責務であると、歴代の広島市長は平和宣言の中で訴えている

1947年に「広島平和祭」として第一回が催され、当時の広島市長である浜井信三が平和宣言を行った。このときはGHQによる占領統治時代であったため、検閲で平和への思いが消されないためにどうするか苦労したという[要出典]。この平和祭では式典のほか市内各所で盆踊りや仮装行列なども催され、アメリカの雑誌『ライフ』が「アメリカ南部の未開地におけるカーニバル」と形容したほど市民に希望を与えるものであった。
1950年6月から始まった朝鮮戦争において、米国は核兵器の使用を検討していた。原爆使用禁止のストックホルムアピールへの世界的署名運動が高揚するなか、GHQによってこの年の平和式典は禁止・中止された。原爆詩人・峠三吉らはこれを弾劾して原爆詩集などを発表した。これらの運動は朝鮮戦争でのアメリカ軍の核使用を押し留める一因となったといわれている。
平和記念公園が開設された1954年以降は現在の形式で行われている。なお被爆から70年以上が経過し、被爆体験を持つ人たちの平均年齢が80歳を超えたことで、被爆経験が戦争経験と同様に風化してきていると指摘されている。


広島市への原子爆弾投下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦太平洋戦争)末期の1945年昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。
この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる。原爆投下後の入所被爆者も含め56万人が被爆したとされる
広島県、広島市などを指す「広島」が「ヒロシマ」と片仮名表記される場合は、広島市への原子爆弾投下に関する言及である。アメリカ軍が、広島市に対して投下した原子爆弾リトルボーイ」(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。

広島への原爆投下に至る国際的軍事背景
1939年8月2日 - ドイツからアメリカに移住したユダヤ人アルベルト・アインシュタインフランクリン・ルーズベルト大統領に「大量のウラン核分裂連鎖反応を起こす現象は新型爆弾の製造につながるかもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい」と進言する内容の手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)を執筆した。
  ・1939年9月1日 - 第二次世界大戦が勃発。
  ・1939年10月11日 - 前述のアインシュタインの手紙がルーズベルトの元に届けられる。
  ・1939年10月21日 - アメリカがウラン諮問委員会を設置。
  ・1940年4月10日 - イギリスが第1回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催。
  ・1941年7月15日 - MAUD委員会がウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。
  ・1941年10月3日 - MAUD委員会最終報告書が公式にルーズベルト大統領に届けられる。
  ・1941年12月8日 - 太平洋戦争が勃発。
  ・:1942年9月26日 - アメリカの軍需生産委員会マンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づける。
  ・1942年10月11日 - アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。
  ・1944年9月 - ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相の間でハイドパーク覚書ケベック協定)が交わされ、日本に対して原爆を使用することが決定された。その後1945年4月には第1回目標選定委員会が開催され、原爆投下目標の選定が始まった

原爆投下命令
1945年7月25日、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスが投下指令書を作成し(しかし、それを大統領だったハリー・トルーマンが承認した証拠はない)、ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官(戦略航空隊総指揮官)により原爆投下がなされた。

四国上空
6時30分、兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ英語版海軍大佐、兵器担当補佐モリス・ジェプソン陸軍中尉、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐らが爆弾倉に入り、リトルボーイの起爆装置から緑色の安全プラグを抜き、赤色の点火プラグを装填した。
作業を終えたパーソンズはティベッツ機長に「兵器のアクティブ化完了」と報告し、機長は「了解」と答えた。機長は機内放送で「諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と、積荷の正体を初めて搭乗員全員に明かした。
この直後、エノラ・ゲイのレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープに正体不明の輝点(ブリップ)を発見した。通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップが敵味方識別装置に応答しないと報告した。エノラ・ゲイは回避行動をとり、高度2,000メートル前後の低空飛行から急上昇し、7時30分に8,700メートルまで高度を上げた。
さらに四国上空を通過中に日本軍のレーダー照射を受け、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが、被弾はなかった。この日本軍戦闘機(所属不明)はハーフターンして第二航過で射撃を試みたが、射撃位置の占有に失敗した。エノラ・ゲイ号は危機を回避し、目的地への飛行を再開した。

広島上空
 7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。7時15分ごろ、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。「Y3、Q3、B2、C1」(低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第1目標を爆撃せよ]
この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。

 8時過ぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった
 8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600フィート (9,632メートル)。投下に先立ち、原爆による風圧などの観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ降下させた。青空を背景にすると目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。この時の計測用ラジオゾンデを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」という流説があるが誤りである。一部のラジオゾンデは「不発の原子爆弾がある」という住民の通報により調査に向かった日本軍が鹵獲した。広島県安佐郡亀山村に落下したラジオゾンデは、原爆調査団の一員だった淵田美津雄海軍総隊航空参謀が回収している。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。
 8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点 (IP) に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度などの入力をし、投下目標 (AP) を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点に架けられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。
 8時15分17秒、原爆リトルボーイが自動投下された。副操縦士のロバート・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3.2キロメートル)離れた地点の上空であると推察される。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の影響を避けるために進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を急降下させた。

リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした

帰投
 14時58分、エノラ・ゲイ号は快晴のテニアン島の北飛行場に帰還し、戦略空軍総司令官カール・スパーツ少将から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が与えられた。その日は夕方から、第509混成部隊の将兵や科学者らによって、深夜まで盛大な祝賀パーティが催された
 原爆投下時、撮影機はカラーフィルムで撮影していたが、テニアン島に帰還後、現像に失敗したためにその記録は失われた。そのため、爆発から約3分後にグレート・アーティストに搭乗した科学調査リーダー、ハロルド・アグニューにより8mmカメラによって撮影されたキノコ雲の映像が、世界初の都市への原爆投下をとらえた唯一の映像となっている

広島市の略史と被爆直前の状況
広島市戦国時代の大名毛利輝元により太田川河口三角州城下町として開かれて以来、中国地方の中心であり続けた。江戸時代には浅野藩の城下町として栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地として発展していた。さらに広島高等師範学校広島女子高等師範学校広島文理科大学広島工業専門学校広島高等学校を有する学都でもあった。
広島には軍都としての側面もあった。日清戦争時には前線に近い広島に大本営広島大本営)が置かれ、また臨時帝国議会第7回帝国議会)も広島で開かれるなど、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。すなわち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200メートルに爆心地がある。また宇品港に置かれた陸軍船舶司令部兵站上の重要な拠点であった。
被爆当時の市中人口は約35万人と推定されている。内訳は、居住一般市民約29万人、軍関係約4万人、および 市外から所用のため市内に入った者約2万人である。


長崎市への原子爆弾投下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


長崎市への原子爆弾投下)では、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍日本長崎県長崎市に対して投下した、人類史上実戦で使用された最後の核兵器である。
アメリカ合衆国連邦政府は、長崎市に投下した原子爆弾のコードネームを「ファットマンFat Man)」と名付けていた。正式名称はマーク3(Mk.3)核爆弾。(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。ファットマンの投下より、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。
長崎県、長崎市を指す「長崎」が「ナガサキ」と片仮名表記される場合は、長崎市への原子爆弾投下に関する言及である。

原爆投下時
テニアンから小倉上空8月6日広島原爆投下作戦において観測機を務めたB-29グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を執ること、目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市であることを告げられた。
その時に指示された戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものであった。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いた。出撃機は合計6機であった。

スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカーとなったのである。
ボックスカーには、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原爆を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した
先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告があった。
硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できたが、誤って高度12,000mまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった。40分間経過後、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行することにした。

午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために、目視による投下目標確認に失敗する。この時視界を妨げていたのは前日にアメリカ軍が行った、八幡市空襲(八幡・小倉間の距離はおよそ7km)の残煙と靄だといわれる(アメリカ軍の報告書にも、小倉市上空の状況について『雲』ではなく『煙』との記述が見られる)。この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が少数機編隊で敵機が北上している報を聞き、新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」と証言している[2]。その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分間が経過した。この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきたことも確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。

長崎上空
長崎に向かう途中、トラブルが発生した。グレート・アーティストの居場所について声をかけられた航法士が、インターホンのボタンを押したつもりが誤って無線の送信ボタンを押してしまったのである。直後、「チャック! どこにいる?」という、未だ屋久島上空で旋回しているホプキンズからの返事が返ってきた。結果的に無線封止を破ってしまったボックスカーは、なぜか急旋回してグレート・アーティストとニアミス。危うく空中衝突をするところであった。
長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。
ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていた。
補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。

スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、午前10時58分、高度9,000mから「ファットマン」を手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約4分後の午前11時2分、市街中心部から北へ約3kmもそれた松山町171番地の別荘テニスコート上空503m±10mで炸裂した
「ボックスカー」は爆弾を投下直後、衝撃波を避けるため北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。爆弾投下後から爆発までの間には後方の「グレート・アーティスト」から爆発の圧力、気温などを計測する3個のラジオゾンデ落下傘をつけて投下された。これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村上川内(爆心地から11.6km)、田結村補伽(同12.5km)、江の浦村嵩(同13.3km)に落下した。
「ボックスカー」と「グレート・アーティスト」はしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。

この時の原爆爆発の様子は16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っている。長崎のキノコ雲については、爆心地から約10km離れた香焼町で炸裂から約15分後に住民が撮影した写真が残されている他、遠くの県からも見えたとの証言もある。約100km離れた熊本県熊本市でも「ピカッと閃光が走り、空気がぶるぶるっと震え、遠くにキノコ雲が上がるのが見えた」との証言がある。また遠く200km離れた大分県中津市でも「あの日長崎方面から立ち上がるキノコ煙が見え、何事かと不安になり恐ろしかった」と当時を語る証言もある。

長崎原爆の威力
長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾である。このプルトニウム原爆はインプロージョン方式で起爆する。長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000t(22kt)相当の規模にのぼる。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000t相当)の1.5倍の威力であった。
長崎市は周りがで囲まれた特徴ある地形であったため、熱線爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた「リトルボーイ」の威力を超えたとも言われている。
仮に最初の標的であった小倉市に投下されていた場合、平坦な土地が広がり、本州九州の接点に位置するために、関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および隣接する戸畑市若松市八幡市門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測される










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