タイ王国の問題-1(thailand-1)


202310.03-NHKNEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231003/k10014214751000.html
バンコクの大型商業施設で銃撃 3人死亡 10代の少年身柄確保

  タイの首都バンコクの中心部にある大型商業施設で銃撃があり、現地の警察によりますと3人が死亡し、10代の少年の身柄が確保されたということです。タイの複数のメディアによりますと、首都バンコクの大型商業施設「サイアム・パラゴン」で、現地時間の3日午後4時半前、日本時間の午後6時半前、複数の銃声が聞こえたと警察に通報があったということです。

  タイの警察によりますとこれまでに3人が死亡したほか、バンコクの救急隊によりますと4人がけがをして病院に運ばれたということです。警察はSNSを通じて、現場で14歳の少年の身柄を確保したと明らかにしました。
  タイにある日本大使館によりますと、これまでのところ日本人が巻き込まれたという情報はないということです。「サイアム・パラゴン」は、2006年に開業したバンコク屈指の大型商業施設で、施設には高級ブティックやレストラン、それに水族館もあり、多くの外国人旅行者も多く訪れる観光スポットとして知られています。
現場のようすは
  バンコク中心部の商業施設の外では、建物から避難した多くの買い物客や従業員が立ちすくんでいました。
  イスラエルから観光で訪れた男性は「家族で買い物中に突然銃声が聞こえ、建物の外に避難しました。複数の銃声が聞こえ、私はとっさにその場から逃げ、周りで買い物していた人たちも一斉に逃げました。妻と10歳の娘は建物の中にまだ隠れていて無事だと連絡がついていますが心配です。突然のことで驚き、ショックを受けています」と話していました。


2023.08.22-Yahoo!Japanニュース(KYODO)-https://news.yahoo.co.jp/articles/91cf7899a5765b398b4c206d999a2016923ae8ed
タイ、タクシン派が大連立政権 セター氏が新首相、親軍連携

  【バンコク共同】タイ上下両院は22日、やり直し首相選を行い、タクシン元首相派「タイ貢献党」の元実業家セター・タビシン氏(61)を新首相に選出した。タクシン派は敵視していた親軍派2党との協力に転じ、計11党の大連立政権が発足する。5月の総選挙で選出された下院(定数500)と軍が任命した上院(同250)で、予想を大きく上回る計482議席を獲得した。

  首相在任中の汚職など3事件で実刑判決を受け2008年8月から国外逃亡中だったタクシン氏が、連立交渉を事実上取り仕切った。タクシン氏は投票直前の22日午前、約15年ぶりに帰国した。自派中心の新政権樹立を見越して帰国を決断したとみられ、内外で影響力を発揮しそうだ。
  新政権では日本など海外からの投資重視と協調外交路線は継続される。総選挙で大敗した親軍派との連立には「有権者への裏切り」との批判が強いが、国情の安定と経済再建の加速を求める声も強く、経済界などは大連立を支持している。
  セター氏は記者団に「国民の暮らしを改善するため最善を尽くす」と語った。


2023.05.22-東京新聞-https://www.tokyo-np.co.jp/article/251723
タイ、前進党など8党が連立樹立に向け覚書を締結 9年前のクーデターの日に合わせ署名

  【バンコク=藤川大樹】タイ下院総選挙で第1党となった革新系の前進党やタクシン元首相派で第2党のタイ貢献党など8政党は22日、新憲法制定や大麻の再規制など新政権発足後に実行する政策をまとめた覚書(MOU)を締結した。ただ、王室への中傷や侮辱を罰する不敬罪を定めた「刑法112条」の改正は政党間で意見がまとまらず、盛り込まれなかった

  覚書の署名式は22日午後4時半(日本時間午後6時半)過ぎに、バンコクのホテルで行われた。9年前の同日の同時間帯には、当時陸軍司令官だったプラユット首相クーデターを宣言しており、民政への完全復帰を印象づける狙いとみられる。
  各党の代表は一人ずつ順番に覚書に署名し、前進党のピタ党首タイ貢献党のチョンナン党首が掲げた。MOUの締結に先立ち、前進党の幹部らは21日、各党代表と個別に会い、政策を煮詰めたという。
  MOUには、新たな憲法の制定、戦時を除き徴兵制から志願兵制への移行、同性婚の法制化など23の政策が盛り込まれた。連立与党だったタイの誇り党が旗振り役で解禁された医療目的の大麻は、再び麻薬リストに加える
  同性婚の法制化を巡っては、イスラム教徒の支持者が多い南部の地域政党プラチャチャート党が難色を示したことから、「各個人が順守する宗教的な原則を侵害することなく」との文言が付けられた。
  一方、タイ貢献党などいくつかの党が消極的だった不敬罪の改正は含まれなかった。今後、国会で改正の是非を議論していく方針。
  前進党など8党は18日、連立政権の樹立に向けて大筋で合意したと発表。計8党による議席数は計313議席となっている。


2023.05.16-NHKNEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230516/k10014068491000.html
タイ総選挙 野党2党で下院過半数 政策面で隔たりも連立交渉へ

  タイで行われた総選挙で、軍の影響力排除を掲げ、第1党となった革新系の野党「前進党」第2党となったタクシン元首相派の最大野党「タイ貢献党」が連立交渉を行うことになりました。
  ただ、両党には、政策面で隔たりがあることから、9年前の軍事クーデター以降続く軍寄りの政権が交代するのか、交渉の行方が注目されています。

  タイの選挙管理委員会は15日、14日に行われた総選挙の暫定結果を発表しました。軍の影響力排除などを掲げる革新系の野党「前進党」が152議席を獲得して第1党となり、タクシン元首相派の最大野党「タイ貢献党」が141議席で第2党となりました。一方、9年前の軍事クーデターを率いたプラユット首相の「タイ団結国家建設党」は、36議席にとどまりました
  前進党のピタ党首は、会見で「政治を私物化しない、完全なる民主主義的な議会を目指す」と勝利を宣言し、首相就任に意欲を示したうえで、第2党のタイ貢献党などと連立交渉に向けた接触を始めたことを明らかにしました。
  一方、タクシン元首相の次女でタイ貢献党の首相候補のペートンタン氏も会見し、ピタ党首と電話で協議し連立交渉を行うことで一致したとしています。2党の議席を合わせると下院の過半数を超えますが、前進党は王室への中傷を禁じる不敬罪の改正などを公約に掲げ、タイ貢献党とは政策面で隔たりがあります。
  このため、双方が合意して野党による政権交代となるのか、それともタイ貢献党が別の政党との連立を模索するのかなど、その枠組みによって軍と政権の関係が変わってくるだけに、各政党による交渉の行方が注目されます。
「前進党」 バンコク中心部で勝利を祝うパレード
  総選挙で第一党となった革新系の野党「前進党」がバンコク中心部で勝利を祝うパレードを開き、多くの支持者が集まりました。パレードの起点はタイの民主化の象徴とされる「民主記念塔」で、ピタ党首らが乗った車両が到着すると、党のカラーであるオレンジのシャツなどを着た多くの支持者が道路を埋め尽くしました。
  また、ピタ党首や前進党の関係者らが立ち寄った広場でも多くの支持者が詰めかけ、ピタ党首は「この機会を決してむだにしません。私たちは誰もが夢と希望に満ちたタイを築いていきます」と演説しました。
  35歳の看護師の女性は「言葉にできないほどうれしいです。この先の道のりは簡単ではありませんが国民の強力な後押しがあるので乗り越えてくれると思っています」と話していました。26歳の会社員の男性は「民主主義が戻ってくることをうれしく思います。前進党が政権を樹立できると確信しています」と話していました。


2023.05.15-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230515/k10014067661000.html
タイ総選挙 2つの野党で下院過半数 政権交代は連立交渉が焦点

  タイで14日に行われた総選挙は、軍の影響力排除を掲げる革新系の野党が第1党にタクシン元首相派の最大野党が第2党となり、2つの野党で合わせて過半数を占めました。9年前の軍事クーデター以降続いてきた政権に厳しい審判が示された形で、今後の連立交渉で政権交代となるかが焦点です。

  タイの選挙管理委員会は15日、開票率99%の暫定結果を発表し、軍の影響力排除などを掲げる革新系の野党「前進党」が152議席で第1党に タクシン元首相派の最大野党「タイ貢献党」が141議席で第2党となり、2つの野党を合わせると、議会下院の過半数を占めることになりました。
  一方、9年前の軍事クーデターを率いたプラユット首相の「タイ団結国家建設党」は、36議席にとどまり、厳しい審判が示されました
  15日に記者会見した前進党ピタ党首は「クーデターを終わらせる時が来た。私は首相になる準備ができている」と述べ、勝利を宣言したうえで、タイ貢献党などと連立交渉を始めたことを明らかにしました
  ただ、前進党が主要な政策の1つとして、王室への中傷を禁じる不敬罪の改正などを主張しているのに対しタイ貢献党は立場が異なるため、両党が連立を組むことになるかは不透明です
  また、議席確定後に行われる首相指名の投票には、今回選ばれた500人の下院議員のほか、軍政下で任命された250人の上院議員も加わることから、今後の各政党の連立交渉で政権交代となるかが焦点となります。
市民からは “軍の影響力排除など”強く期待する声
  選挙から一夜明け、タイの市民の間からは、第1党になる見通しとなった革新系野党「前進党」に対して、政治への軍の影響力の排除格差の解消などを強く期待する声が聞かれました。前進党に投票したという26歳の女性は「選挙で若い世代が国を変えるということを示したので、本当にうれしい。前進党は暮らしを改善し、給料もよくなると思う。富裕層と貧困層の間の格差の問題を解消できると思う」と話していました。また、25歳の男性は「選挙結果はとてもうれしい。タイの新しい未来を見たいと思う。暮らしがよくなることや、今も拘束されている人がいるような政治体制を変えることを望んでいる」と話し、前進党が訴えてきた、軍の影響力排除などに期待を示しました。一方、39歳の女性は「前進党の首相候補に多くの上院議員が投票しないのではないかと懸念している。軍によるクーデターは起きないと思っているが、本当に起きないかはかなり心配だ」と話していました。

前進党とは
  野党「前進党」は、前回(2019年)の総選挙で軍政からの脱却などを掲げ、新党ながら第3党に躍進したものの、選挙後に解党された「新未来党」の流れをくんでいます。今回の選挙では、軍の影響力排除を掲げるほか、徴兵制の廃止や王室への中傷を禁じる不敬罪の改正などを訴えてきました。
  既存の政治からの脱却を掲げ、選挙戦終盤で若者層を中心に急速に支持を拡大し、世論調査では最大野党「タイ貢献党」に次ぐ高い支持率となっていました。また党首のピタ氏は次の首相にふさわしい人物を聞いた直近の世論調査で、タイ貢献党のペートンタン氏を抜いて1位になっていました。
タイ貢献党とは
  タイ貢献党はタクシン元首相派の最大野党です。
  2011年の総選挙では圧勝し、タクシン氏の妹のインラック氏が首相に就任しましたが、国外で事実上の亡命生活を送っているタクシン氏の帰国に道を開く恩赦法案の成立を目指したことで、反政府デモが拡大しました。
  タクシン派と反タクシン派の国を二分する政治対立が再燃し、2014年5月にインラック氏が憲法裁判所の判決で首相の職を失うなど混迷が深まると、事態打開のためだとして当時、陸軍司令官だったプラユット首相率いる軍事クーデターが起こりタイ貢献党は政権与党の座を失いました
  2019年に行われた前回の総選挙では、タイ貢献党が第1党となりましたが、軍主導の政治体制の継続を目指す「国民国家の力党」が第2党となったことなどから、最終的には「国民国家の力党」を中心とした連立政権が誕生し、タイ貢献党は野党となっていました

  今回の総選挙では、政権奪還を目指してタクシン氏の次女ペートンタン氏を含む3人を党の首相候補にして主に経済の回復を訴え、圧勝を目標にしていました。



2022.12.12-NIPPON COM-https://www.nippon.com/ja/in-depth/a08601/
選挙を阻む「民主主義」~タイにおける権威主義とその現在-青木まり
(AFP=時事)

「国王が、選挙とクーデターとを等しく政権交代の手段として認める」。これが、タイが長年保持してきた政治のロジックだ。現在も事実上の軍事政権下にある同国で、完全な民主化に向かう道すじは描けていない

軍事政権に乗っ取られた選挙
  2014年5月の軍事クーデタ―以来、タイは実質的に軍事政権の影響下にある。19年には民政復帰をうたって国会総選挙が行われたが、軍事政権は自らに有利に設計された選挙制度の下でパラン・プラチャーラット党(PPRP)を形成し、政党として国会に進出した。PPRPは他党と連立を組み、軍事政権の首班であったプラユット・チャンオーチャー元陸軍司令官を首相に指名して権力の座に留まった。
  事実上の軍事政権に反対する人々は、完全な民政復帰を求め抵抗を続けている。下院は、憲法の規定に基づき23年3月に任期満了を迎え、5月までには選挙が行われる予定だ。次期選挙では野党タイ貢献党の優勢が予想されるが、PPRPが権力に留まる可能性は否定できない。19年に公正な選挙を妨げた要因が依然として存在するためである。
  前回の下院選挙では、憲法裁判所が野党に不利な判断を下し、選挙から退場させることが続いた。次回タイ貢献党が無事に選挙に臨み下院の過半数に迫ったとしても、自党から首相を出すのは難しい。現行の制度では、首相指名選挙は民選の下院議員500名と、軍事政権が任命した上院議員250名を合わせた両院合同会議で行われる。PPRPは単独か連立で下院の126議席を確保すれば、両院合計の過半数議席を得て首相を指名できる。「政府が自由で公正な選挙で選ばれるか否か」で政治体制を権威主義と民主主義に分類するのであれば、タイは当面のあいだ権威主義体制として留まるだろう。
「国王を元首とする民主主義体制」下での選挙
  現在のタイは、選挙を統治の仕組みとして取り込んだハイブリッド型の権威主義体制である。しかし、かつてタイでも選挙による政権交代が安定的に行われ、民主主義が定着したと言われた時代があった。図1は「民主主義の多様性」(Varieties of Democracy)プロジェクトが作成したタイの「民主主義指標」の推移を示したものだが、1992年から2005年の間は、公正で自由な選挙の実施を示す「選挙民主主義」指標をはじめ、すべての指標で過去40年のうち最高のスコアを記録していたことが分かる。
  奇妙なことに、タイはこの「民主主義の時代」以前から現在に至るまで一貫して「国王を元首とする民主主義体制」という体制を称している。観察される政府の行動は異なるにもかかわらず、タイ政府が自称する政治体制に変化はない。筆者は、現在の権威主義化の契機が1970年代末から90年代にかけて確立したこの「国王を元首とする民主主義体制」にあると考える。
  「国王を元首とする民主主義」とは何か。タイ政治研究者の玉田芳史は選挙とクーデターとを等しく政権交代の手段として認めるロジックだと分析する。これは1959年に成立したサリット・タナラット軍事政権(59-63年)が提唱し、78年からは歴代の憲法にタイの政治体制として明記されてきた。国王は議会政治の混乱が深刻化するとクーデターによる政権交代を認め、民政復帰を委ねるかたちで軍事政権に正当性を与える。しかし国民の軍政に対する批判が高まると、国王は民主化勢力を支持して軍の退場を促してきた。
  この体制は、「民主主義の擁護者」としてふるまうラーマ9世プミポン・アドゥンヤデート国王の存在と、国王に対する国民の支持との上に成立してきた。プミポン国王は、73年の市民によるタノーム軍事政権退陣要求運動(10月14日事件)や、92年のスチンダー軍事政権と民主化要求勢力との衝突(暴虐の5月事件)といった政治的危機に際し、関係する各勢力に事態の収拾を呼びかけ、民政復帰を促すことで国民から絶大な支持を得た。同国の政治学者カシアンは、プミポン国王が国軍、政党政治家、財界といったエリート間のバランサーとなることでその地位を維持してきたと指摘し、この体制を「プミポン・コンセンサス」と呼んだ。
  90年代はタイで選挙による政治交代が最も安定的に行われた時代だった。しかし歴史学者のトンチャイは、当時の政治体制を「一見、議会制民主主義の体裁をとるが、実際には選挙によって選ばれた権力が、王室およびその支持者の政治的な影響と積極的な介入の下に置かれていた」と指摘し、「王党派民主主義」(royal democracy)と呼んだ。この時代は国王の介入を要する事態が発生しなかっただけであり、国王の権限に法的制限が加えられることはなかった。むしろ国民は政治介入する国王を「民主主義の擁護者」として支持したとトンチャイは強調する。
  トンチャイやカシアンの批判を踏まえれば、90年代のタイの選挙民主主義はそれ自体で存立したのではなく、国王、国軍、国民をはじめとする政治勢力の均衡の下に成り立つ限定的な政治体制だったということになろう。
二つの「民主主義」の対立
  「国王を元首とする民主主義体制」は、選挙による政権交代を認めるものの、クーデターや国王の政治介入を制限するものではなかった。選挙とクーデターの相克関係が露呈したのが、2000年代の政治対立であった。そのきっかけとなったのが、タクシン・チンナワット元首相である。タクシンは、多数派である低所得層や地方住民をターゲットに分配政策を訴え、2度の国政選挙で地滑り的勝利を果たした。
  タクシンの支持者は、自分の求める政策を選ぶ手段として選挙を重視するようになった。対照的に数で劣る中間層や都市住民は、タクシンが選挙制度を濫用して多数派を形成し、自分たち少数派を排除していると考えた。そして「衆愚政治化」した選挙を否定し、「悪しき」民選政権を排除して国王の政治介入を求めた。タクシンの「数の政治」は、官僚・国軍や王室、王室を支持する上層の目に「国王を元首とする民主主義」下の均衡を崩す脅威として映った。彼らは反タクシン派に加担し、2度の軍事クーデターと3度の憲法裁判所判決でタクシン派政権を排除した。
  14年の軍事クーデターは、それまでの勢力均衡を超えて拡大した選挙民主主義勢力を抑え込み、「国王を元首とする民主主義体制」を安定させることを責務としていた。クーデター政権下で公布された現行の2017年憲法は、憲法改正手続きを厳格化したうえ、大政党の成立を難しくする選挙制度や軍事政権に有利な首相指名制度を導入した。そしてプラユット軍事政権は政党に衣替えし、選挙によって選挙民主主義を抑制しようとした。
  しかし、プラユット政権によるこうした露骨な政策はかえって現体制への反感を喚起し、王室を含め政治体制を改革しようとする勢力を新たに生み出した。20年に激化した若年層による反政府運動は、「国王を元首とする民主主義体制」に真っ向からノーを突きつけ、法の支配の貫徹と自由で公正な選挙を求めたのである。
選挙民主主義安定への見通し
  プラユットやPPRPは与党として議会を支配すると同時に、反政府運動を司法と暴力で抑圧した。強大化した選挙民主主義勢力を国会の内外で抑え込み、「国王を元首とする民主主義体制」の安定を目指す方針は今も継続している。2023年の下院選挙が迫るなか、プラユットやPPRPは政権維持を目指し活動を活発化させている。しかし、仮にプラユットや選挙でPPRPが政権に留まったとしても、その権力には「タイムリミット」がある。
  現行の2017年憲法は、首相指名に上院が加わる仕組みを5年間の経過的措置と規定する。19年の総選挙後に国会が初招集された日から起算すれば、24年5月には下院議員のみで首相選出が可能になる。過去に選挙で圧倒的な強さを示してきたタクシン派の流れを汲む野党タイ貢献党にとって、居ながらにして政権奪回のチャンスが回ってくるのだ。制度が変更されれば、同党は下院だけで首相を選び直すべく、内閣総辞職や解散・総選挙を要求するであろう。
  もしタイ貢献党が政権を奪還した場合、タイは再び選挙による政権交代が安定的に続く時代に戻れるだろうか。残念ながらその見込みは薄い。クーデターによる政権交代や国王の政治介入の余地がまだ残されているためである。16年にプミポン国王が死去したのちも、タイは依然として「国王を元首とする民主主義体制」を掲げてきた。現行の憲法の下では、国民が望んでいると判断すれば国軍はクーデターで政治に介入し、国王がそれを承認して国軍に権力を委任する可能性は否定できない。
  それを防ぐためには、憲法によって国王の権限を制限し、クーデターを違法化して国軍の介入を阻止することが必要である。こうした措置がなければタイの選挙民主主義は自立できず、国王や国軍の許容する範囲で限定的に行われるものに留まり続けるだろう。20年の反政府運動が主張したように、王室を含む政治体制改革なくしてタイの選挙民主主義は安定しえない。
  しかし、現在国会内でこうした政治体制改革を求める勢力は少数派である。PPRPとその連立パートナー政党はもちろん、タイ貢献党も王室を含む政治体制改革については一貫して慎重な姿勢に留まってきた。21年に憲法裁判所が反政府活動家に対し「国王を元首とする民主主義体制」の破壊を禁じた憲法49条違反の判決を下したことで、改革を主張するリスクは一層高まった。選挙戦で政治体制改革を前面に打ち出せば、違憲判決で解党される可能性もある。タイの選挙民主主義を安定させるための処方箋はシンプルだが、その実現への道は遠く長いものになるだろう。
  バナー写真:タイでのAPEC首脳会議開催に合わせ、プラユット首相の退陣を求めて三輪タクシー(トゥクトゥク)の隊列を組んで抗議デモをする市民ら=2022年11月15日、バンコク市内(AFP=時事)



2022.10.06-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20221006-74NOVG2HP5MMPGJ6ZWCAVL2V7Y/
タイ北東部で銃乱射 子供24人含む35人死亡

  【シンガポール=森浩】タイ東北部ノンブアランプー県の保育施設で6日、侵入した男が銃を乱射し、AP通信によると、少なくとも子供24人を含む35人が死亡した。他にも複数の負傷者がいるもようだ。

  事件は6日午後1時(日本時間同日午後3時)ごろに発生。男は保育施設で銃を乱射し、ナイフでも切りつけたもようだ。その後、車で現場を離れたが、車中からも銃を発射した。自宅に戻った後、妻と子供を殺害し、自殺したという。
  捜査当局が動機を調べている。男は元警察官で、薬物を使用したとして昨年に解雇されていた。タイでは2020年2月、東北部の商業施設に立てこもった陸軍兵士が銃を乱射し、29人が死亡する事件が起きている。


2022.04.20-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220420-CLAMS3XRS5NYPADFDDLBTR6NLY/
タイ、中国製潜水艦導入が頓挫 独がエンジン供給拒否

  【シンガポール=森浩】タイが導入を決めた中国製潜水艦の建造が頓挫している。受注した中国企業に対して、ドイツ企業がエンジンの供給を拒否し、建造が進まないためだ自国初の潜水艦として期待を寄せていたタイのプラユット政権は契約破棄を視野に入れており、軍備を通じて緊密化していた中タイ間の火種となりそうだ。

  タイ海軍は2017年、中国企業「中国船舶重工国際貿易」(CSOC)と、中国軍の「元型」潜水艦1隻を135億バーツ(約500億円)で購入する契約を締結した。この際、ドイツ製エンジンを搭載することが合意条件になっており、来年末までに引き渡される予定だった。
  ところが、ドイツ側がエンジン供給を拒んだことで建造が中断した。欧州連合(EU)が1989年の天安門事件以降、中国への軍事品販売を禁止する措置を取っているためだ。
  米政府系放送「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA)によると、エンジンなどは民生にも軍事にも利用できる「デュアルユース」品目のため、民生用とすれば抜け道として輸出が可能だという。しかし今回は潜水艦での利用が明確なため、ドイツ政府が輸出を認めなかったとみられる。
  プラユット首相は4日、「エンジンのない潜水艦をなぜ買わなければならないのか」と不満を示し、契約破棄を示唆した。中国は中古潜水艦や中国製エンジンの提供を打診しているが、「中国製はパワーと信頼性で及ばない」(VOA)ため、タイ側は受け入れるつもりはないという。

  タイ国内では巨額を投じた潜水艦購入に反対意見があっただけに、今回の問題はプラユット政権への反発につながる可能性もある。



2020.11.28-Yahoo!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/099cf8852ff89ef7db405f6031dee45eab0c64f8
「タイ式民主主義」曲がり角 王室批判のデモ 政権は不敬罪辞さず アジア見聞録

  タイで反政府抗議活動が拡大を続け、緊迫の度を増している。参加者はタブーとされていた王室改革を求める声を強め、プラユット政権は国王への侮辱を取り締まる不敬罪の適用も視野にデモ隊排除を狙う。国内で権威を持ち、国民の精神的支柱とされてきたタイ王室に批判が噴き出した背景には、国王を頂点とする独特な「タイ式民主主義」への不満がある。(シンガポール 森浩)
デモ隊に発砲?
   「国民に向けて警察が発砲した。香港でも(中国政府は)こんなことをしただろうか」
  11月17日に首都バンコクの国会前で行われた大規模集会に参加した男性(21)は語気を強めた。
   この日は、デモ活動の参加者と警察・王室支持者が衝突し、計55人が負傷。7月ごろから本格化した一連の抗議活動で最悪の被害が出た。うち6人は銃撃を受けたが、発砲した人物は分かっておらず、デモ参加者側は「警察当局によるもの」と批判を強めている。
   デモ隊は、軍政の流れをくむプラユット政権の退陣や、軍政下で2017年に制定された憲法の改正、王室改革を求めている。
   一方、デモ隊への圧力を強化するプラユット首相は「(法に抵触した場合)あらゆる法律を適用する」と宣言し、ここ2年ほど適用例がない不敬罪(最大禁錮15年の罰則)で抗議活動参加者を摘発する構えを見せる。捜査当局は既に不敬罪の抵触の可能性があるとして、学生指導者のパリット氏ら12人に出頭を命じ、デモ参加者は反発を強めている。
   外交筋によると、不敬罪は「国王の意向」でここしばらく適用が見送られていたという。ワチラロンコン国王の“寛大な心”を示す狙いがあったとみられるが、方針を転換して強硬姿勢で臨むことを鮮明にした形だ。
「香港」も意識
  抗議活動は今年2月、軍に近いとされる憲法裁判所が、若者の支持を集めていた野党「新未来党」に解党命令を出したことが契機となった。 タイ政治は06年にタクシン首相(当時)が軍事クーデターで追放されたことを契機として混乱が深まり、「タクシン派」「反タクシン派」の摩擦が続いてきた。ただ、今回のデモではこうした対立構造は姿を見せない。
   今回の抗議活動は大学生や中高生ら若年層が中心となり、複数のグループが緩やかに連携する形で行われている。デモは主にソーシャルメディアで呼び掛けられ、国内各地でゲリラ的に実施されている。
   香港で「逃亡犯条例」改正案を発端として昨年6月以降に本格化した抗議活動を意識し、臨機応変にデモを実施するという意味で「水になれ」が合言葉となっている。
混乱の政治史
   今回の抗議活動がこれまでのデモと異なるのは、要求が王室改革に踏み込んでいる点だ。「若者たちは国王を頂点とするタイ式民主主義の変革を求めている」と話すのは、タイ政治に詳しいタマサート大学(バンコク)の水上祐二客員研究員だ。
   タイは1932年に立憲君主制移行後、政治的混乱のたびに事態を打開する目的で軍がクーデターを起こし、国王がその後に成立した軍事政権を承認してきた経緯がある。クーデターの回数はじつに19回。民主主義体制でありながら、国王の権威を背景に軍部が政治に介入する構造が、タイ式民主主義と呼ばれる。
   直近の2014年のクーデターでは、タクシン派と反タクシン派の対立収拾に乗り出した軍が全権を掌握した。指揮したのは陸軍司令官だったプラユット現首相だ。昨年には民政移管を目指した総選挙が行われ、タクシン派「タイ貢献党」が第1党となったものの、多数派工作で新首相にプラユット氏が就任し、軍が政治に影響力を行使する構図は変わらなかった。
   抗議活動参加者は「王室改革がなければ真の民主化はない」との考えで、クーデター承認の廃止など国王権限の縮小を求める。軍の影響力の強い政権が長期間続く中、軍と王室を近い関係と見なして改革を求めている。
王室財産を「国王直轄」
  王室を取り巻く環境が変化し、インターネット上で王室のあり方について議論されるようになったことも改革要求の背景にある。
  プミポン前国王(16年死去)も在位中、幾度もクーデター後の軍事政権を承認するなど、タイ式民主主義を支えた存在だったが、地方訪問を重ねるなどし、国王として国民から尊敬を集めていた。
   一方、同年に即位したワチラロンコン国王はタイではなく、ドイツに滞在していることが多いとされる。即位後には、数兆円規模とされる王室財産を自身の名義に書き換えたほか、王室警備を担う軍部隊を国王直属にするなどの制度改変を行っている。
   水上氏は「もしプラユット氏が辞任して、いったんデモが静かになったとしも、火が付いた王室改革を求める声はなかなか止まらないだろう。抗議活動がどう収束するのか見通せない状況だ」と話している。


2020.11.19-毎日新聞-https://mainichi.jp/articles/20201119/k00/00m/030/202000c
タイ国会、市民団体提出の改憲案否決 デモ隊、1万人規模の抗議集会

  合計七つの憲法改正案を審議していたタイの国会は18日、上院議員の選出を公選に戻したり、王室改革を可能にしたりする改憲案を否決する一方で、王室のあり方に関わる条文を変更しない改憲案を可決した。大幅な憲法改正を求めるデモ隊は同日に大規模集会を開くなど反発を強めている。
   国会は17、18の両日、軍事政権下の2017年に施行された憲法の改正案を審議した。市民団体が提出した改憲案は、上院議員を軍の事実上の任命制から公選に戻し、不可侵性を定めた国王に関する条文も含めて幅広い改憲を目指したが、否決された。「現行憲法を侵し、国の発展を妨げる」などとして、上院議員や下院の与党議員の多くが賛成しなかった。上院の権限縮小などを求めた野党提出の4案も否決された。

  一方、可決された二つの改憲案は憲法起草委員会の構成を巡り、与党案は委員200人のうち150人を公選、50人を任命制とするように提案している一方で、野党案は200人全員を公選とするように求めている。両案ともに王室関連の条文は変更しないとの立場を取る。
   デモ隊は18日夜、バンコクの商業地区で1万人規模の集会を開き、市民団体が提案した改憲案の否決に抗議した。集会に参加した女性(61)は「議員が国民の声に耳を傾けなければ、デモは収まらない」と憤りを表明。一部のデモ隊は近くの警察本部まで行進し、敷地内にペンキをまき散らした。
  タイ国会は法案などを3回採決する「三読会制」を採用しており、今回は第1段階に位置し、採択された2案だけが第2段階に進む。プラユット政権は年内に第3段階の審議を終え、21年初めには国民投票の実施が可能との見通しを示している。【バンコク高木香奈】


2020.10.22-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/201022/wor2010220005-n1.html
3日以内の首相辞任要求 タイ学生、非常事態解除の意向受け入れず

  タイで反体制集会を続ける学生らは21日夜、首都バンコクの首相府に向けデモ行進し、政府の代表に要求書を提出、プラユット首相の3日以内の辞任を求めた。プラユット氏はこれに先立ち、発令中の非常事態宣言を解除する意向を表明していた。学生らは政府の譲歩を受け入れず、デモ収束の見通しは依然不透明だ。
  学生らは一連のデモで、これまで逮捕された学生団体メンバーの釈放も求め、3日以内に応じなければ、デモをより激化させると警告した。要求書を手渡したリーダーの1人の女子学生はその後、別の日のデモに絡む容疑で逮捕された。
  学生らは21日午後から戦勝記念塔前で反体制集会を開催、首相府に向かってデモ行進を始めた。警察によると約1万人が参加。呼び掛けた団体は5万人以上としている。(共同)


2020.10.15-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201015/k10012663831000.html
タイ 大規模な反政府デモ 警察が排除に乗り出す

  タイの首都バンコクでは、14日から若者たちを中心に大規模な反政府デモが続き、首相府に面する道路を占拠していましたが、政権側は15日朝早く5人以上の集まりなどを禁じる緊急の措置を発表し、警察がデモ隊の排除に乗り出しました。
  タイでは若者のグループがプラユット政権の退陣や王制改革などを求めてデモを繰り返していて、バンコクでは14日、再び大規模なデモが起き、デモ隊が首相府に面した道路を占拠しました。

  これに対してタイ政府は現地時間の15日午前5時前、日本時間の午前7時前に5人以上の集まりなどを禁じる緊急の措置を発表し、警官隊がデモ隊の排除に乗り出しました。
  現場で取材にあたっているNHKの取材班は、警官隊が盾を構えながら道路をゆっくりと進み、デモ隊を排除する様子を確認しました。
  警察は現場にいた複数のリーダー格の人物の身柄を拘束したという情報もあり、デモ隊の反発が予想されます。


2020.9.20-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200920/k10012627591000.html
タイ 反政府デモ 王制改革要望書を提出も事態収束は不透明

  プラユット政権が発足して以来、最大規模の反政府デモが行われたタイの首都バンコクでは、デモ隊が国王に対する批判を禁じた憲法の条項の撤廃など王制改革を求める要望書を政府側に提出しましたが、事態が収束するかは不透明です。
  タイでは軍事クーデターを主導したプラユット首相が去年の総選挙の後も引き続き政権を率いて軍の影響力を背景に強権的な姿勢をとり、国王も現政権を追認しているとして、若者たちによる反政府デモが続いています。
  19日から首都バンコクで行われていた抗議デモでは、主催者の発表で5万人以上が参加し、王宮前の広場を夜通し占拠して集会を開き、「国は王室のものではなく国民のものだ」と記された金属製のプレートを広場に埋め込むなどして、王制改革の必要性を訴えました。
  そして20日朝、デモ隊は、国王に対する批判を禁じた憲法の条項の撤廃など王制を改革する10の要求項目が記された要望書を携え、国王の諮問機関の枢密院に向かって行進を始めました。
  しかし、警官隊に阻止されたため、デモ隊の代表が地元警察のトップと交渉し、枢密院に届けるようその場で要望書を提出しました。
  デモ隊の代表は、要求が実現するまで、今後も大規模デモを呼びかけるとしていて、これまでプラユット首相は王制改革に応じる姿勢を全く見せていないだけに、事態が収束するかは不透明です。


2020.8.18-CNN-https://www.cnn.co.jp/world/35158288.html
タイで続く反政府デモ、前例のない王室改革要求も

  タイ・バンコク(CNN) タイの首都バンコクにある民主記念塔前で16日に開かれた反政府デモに推定1万人が集まり、一部からは王室改革を訴える声が上がった。わずか数カ月前までは考えられない事態だった。
  今回の抗議デモは、軍が6年前に実権を握って以来、最大の規模だった。タイでは1カ月ほど前から全土で学生がほぼ連日のデモを開始し、参加者は社会の幅広い層に拡大している。
  タイでは昨年3月の選挙後も、軍司令官だったプラユット首相が引き続き政権を率いる。これに対して若者が不満を募らせていたが、16日のデモでは幅広い年齢層の参加者が、民主改革や軍が制定した憲法の改正、議会の解散を訴えた。
  王室の改革を訴える急進派は、少数ながらも増えつつある。タイ王室は国民から神のような存在と見なされており、国王や王族を中傷すれば不敬罪に問われて15年の禁錮を言い渡される可能性がある。この法律が政治的道具として使われるケースも増え、一般市民が不敬罪に問われることもある。
  それでもかつては私的な場でささやくことしかできなかった不満の声が、スピーカーフォンを通じて数千人に向けて流されるようになった現状は、タイの統治機構に対するデモ参加者の幻滅の大きさを物語る


2020.8.5-Yahoo!!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/ec3bdecf35978a0ee9326a98ec3ea145c1af5919
タイで政府への抗議活動が拡大 コロナ非常事態宣言を「弾圧に利用」

  【シンガポール=森浩】民政に復帰して1年が経過したタイで、学生らによる政府への抗議デモが激化している。軍の影響が強いプラユット政権の退陣や軍政下で作られた憲法の改正などを求めるものだ。デモ活動を支持する声もあり、プラユット首相が対応を誤れば国内の混乱につながりかねない事態だ
  抗議デモは7月中旬ごろから、首都バンコク市内の大学などで相次いで起きている。タイでも人気の日本のアニメ「とっとこハム太郎」のテーマソングをもじるなどして批判を展開。政府や政治家を「ヒマワリの種ではなく、税金を食べつくすハムスター」と揶揄(やゆ)している。映画「ハリー・ポッター」に登場するキャラクターに模しての抗議も行われた。
  デモの背景にあるのが軍の影響力が残る政権への不満だ。タイは2014年5月のクーデターで軍事政権が成立したが、昨年3月の総選挙を経て民政に移管された。総選挙での第1党は反軍政のタクシン元首相派の政党だったが、多数派工作を経て7月に誕生したのは、親軍政党を軸としたプラユット連立政権。プラユット氏は元陸軍司令官で軍政でも首相を務めており、軍が政治に影響力を行使する構図は変わらなかった。
   今年2月に憲法裁判所が、政権批判の急先鋒(せんぽう)だった野党に解党命令を出すと、抗議活動が起きた。新型コロナウイルス流行で一時下火となったが、感染拡大が収まったことで再燃した形だ。
   タイでは新型コロナの市中感染は70日以上確認されていない。しかし、感染状況が安定する中でも、政府は大規模集会を禁じる非常事態宣言を4度延長しており、抗議の参加者は「反対派弾圧のために非常事態宣言を利用している」と反発している。
   地元調査機関のアンケート(18歳以上、1250人対象)では、54%がデモ活動実施に賛成するなど一定の支持もある。プラユット氏は今月4日、「抗議は法の下での権利だが、法とルールを尊重しなければならない」と発言してデモの沈静化を呼びかけたが、収束に結びつくかは未知数だ。
   また、ロイター通信によると、一部の抗議者はプラユット政権の反対派弾圧に対して、王室が行動を起こしていない」などと非難している。タイでは王室批判はタブーとされ、不敬罪も存在する。こうした動きに王室を支持するグループが反発する姿勢を示しており、事態は複雑さを増している。



2019.7.14-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/190714/wor1907140012-n1.html
タイ、残る軍政の影響 新政権で主要閣僚留任へ

【シンガポール=森浩】タイで3月に実施された総選挙(下院選)を受け、軍出身のプラユット氏が首相を務める新内閣が近く発足する。新閣僚名簿が13日までにワチラロンコン国王に承認され、宣誓式が行われる予定だ。2014年5月のクーデターを受けて成立した軍政から形式上は民政に移行するが、主要閣僚が留任するなど軍政の影響を色濃く残す顔ぶれとなった。
 総選挙では、タクシン元首相派の「タイ貢献党」が第一党となったが、第二党のプラユット首相を推す親軍政党「国民国家の力党」が「民主党」「タイの誇り党」などとの連立交渉を成功させ、過半数の勢力を確保した。
 新内閣では、プラユット氏が国防相を兼務。プラユット氏同様に陸軍出身であるプラウィット治安担当副首相と、アヌポン内相の2人も留任した。経済担当副首相だったソムキット氏も続投が決まった。
 新政権は多数派工作の結果、19党による大規模な連立となり、各党の意見に配慮すれば、迅速な政策立案や意思決定に影響を及ぼす可能性がある。
 軍の影響力が維持される中、国内では軍政を批判してきた活動家が襲撃される事件が相次ぐ。6月28日には、軍政の汚職を追及した若手活動家のシラウィット氏が何者かに頭や顔を殴打され、重傷を負った。シラウィット氏は6月2日にも襲撃を受けたばかりだった。プラユット氏は政権の犯行への関与を否定しているが、人権団体などは言論弾圧の可能性を訴え、警戒を強めている。


タイ王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  タイ王国は、東南アジアに位置する君主制国家東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6,718万人、首都のバンコクは正式名称が長いことでも知られる。国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北部を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマーと国境を接する。マレー半島北部の西はアンダマン海、東はタイランド湾に面する。
  2014年にプラユット将軍率いる国軍軍事クーデターを起こし、従来の憲法(2007年憲法)と議会を廃止し実権掌握以降、軍事独裁政権が継続している
  2016年10月13日にプーミポン・アドゥンラヤデート(プミポン)国王崩御[1]。同年12月1日にワチラーロンコーン国王即位した
  2017年4月7日に新憲法が公布され、同日施行された
歴史
国家成立
  タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族クメール人が先住していた小タイ族による最初の国家とされるスコータイ王朝1238年 - 1350年)は、インタラーティット王がモン族やアンコール王朝の支配を退け成立したタイ語のアルファベットであるタイ文字が完成したのは、3代目ラームカムヘーン大王の時代であると言われている
王朝の変遷
  その後、アユタヤー王朝(1350年 - 1767年)、トンブリー王朝(1767年 - 1782年)を経て、現在の王朝であるチャクリー王朝(1782年 - )へと変遷した。現王朝の初代王ラーマ1世(チュラーローク将軍)は、1782年に首都をトンブリーからバンコクに移したため、「バンコク王朝」とも呼ばれ、また、バンコクの非常に長い正式名称にも含まれているタイの守護仏の名から、ラッタナーコーシン王朝とも呼ばれる
近代化
  チャクリー改革によりタイ王国の近代化に努めたラーマ5世(チュラーロンコーン大王)の像。ラーマ5世は1868年から1910年までタイを統治した。ラーマ4世(モンクット)は、自由貿易の推進仏教の改革などを行った。映画『王様と私』にも登場する。1855年、イギリスと通商条約を結んでからは、コメの輸出が急増し、全国土に稲作地帯ができあがった。それまでは多様な生産であったが、商品としてのコメ、錫、チーク、ゴムなどが輸出されるようになり、モノカルチャー経済に移っていった。当時周辺地域の大半は欧米の植民地・保護領であったが、タイは国土の一部を割譲したに留まっている。英仏両勢力圏の緩衝地帯として独立を維持、植民地化を免れた。
ラーマ5世(チュラーロンコーン)は、1873年国政改革に着手し、1892年4月1日12省からなる近代的統治組織を創設した。国王が立法、行政、司法の三権を掌握する絶対王政システムを確立し、教育制度や官僚機関の整備、奴隷解放(1874年)など、タイの近代化をすすめるチャクリー改革を行った
ラーマ6世(ワチラーウット)が王位を継承すると絶対王制への批判が生じはじめ、1912年3月初め、立憲制・共和政を望む青年将校らによるクーデター計画が発覚した ラーマ7世(弟のプラーチャーティポック)が即位したあと、1932年にはプリーディー・パノムヨンプレーク・ピブーンソンクラームら官吏によって結成された人民党によるクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行した(民主革命、立憲革命と呼ばれる)。この時期に第一次世界大戦が発生しており、連合国として参戦している。

第二次世界大戦1940年11月23日に南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こし、1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約ヴィシー政権と締結して領土を拡大した。太平洋戦争が勃発すると、日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った。タイは東南アジア戦線では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。一方で駐米大使セーニー・プラーモート、摂政プリーディー・パノムヨンらが「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた。こうした二重外交により、1945年、タイは1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することが出来、降伏や占領を免れた。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。大戦終結後、1946年6月9日に 国王ラーマ8世は王宮内で他殺体となって発見されたが、真相は究明されず、弟のラーマ9世が即位した。
経済成長
  第二次世界大戦後の東西冷戦期は、ベトナムカンボジア、ラオスのような近隣諸国の共産主義化に脅かされたものの、「共産主義の防波堤」としてアメリカの大々的な支援を受けたことも影響し、共産主義化は免れた
また、国民の高い教育水準や豊かな国土を背景に徐々に工業国への道を模索し、1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に結成時から加盟。1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)に結成時から参加した。
なお、この頃より日本や欧米諸国の大企業の進出を背景にした本格的な工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコクなどの大都市を中心にインフラストラクチャーの整備も急速に進むこととなる。1992年には5月流血革命が発生したものの、プミポン国王の仲裁により収まった
現在
  1997年に始まったアジア通貨危機により、タイ経済は一時的に停滞したものの、その後急激な回復を見せ、日本企業や中国企業の進出も増え、現在では再び高い経済成長率を維持しており、東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けている。しかし、2006年頃からタクシン派と反タクシン派との政治的対立が激化するようになり、クーデターが発生するなど政情不安が続いている。
  2006年に軍事クーデターが発生し、1997年タイ王国憲法による民政が停止され、タクシン・チナワット政権が崩壊した。クーデターは国王の介入により収拾され、直ちに陸軍大将のソンティ・ブーンヤラッガリンを首班とする軍事政権が発足した。同年、暫定憲法が公布され、スラユット・チュラーノンが首相に着任した。
  2007年8月には、2007年タイ王国憲法が公布され、民政復帰が開始された。2007年12月23日に下院選挙が実施され、2008年1月に選挙の結果を受け、クーデターで政権を追われたタクシン元首相派の文民であるサマック・スントラウェート元バンコク都知事が首相に就任した。しかし、同年9月に反タクシン元首相派寄りとされる憲法裁判所は、サマック首相の民放テレビ出演を違憲として、サマック首相を失職させるという司法クーデターを起こした。10月にはタクシン元首相の義弟であるソムチャーイ・ウォンサワットが首相に就任したが、再び憲法裁判所は、前年からの選挙違反を表向きの理由にして、与党の国民の力党に解党命令を出し、ソムチャイ首相も失職させた。これにより、同年12月、野党の民主党が総選挙を経ずに政権を獲得し、アピシット・ウェーチャチーワが首相となる。
  これ以降、2009年から2010年ごろには、タクシン元首相派(通称赤シャツ隊)を中心とする市民による総選挙を求める大規模なデモが起きたが、アピシット政権はデモを徹底的に弾圧し、数百人の犠牲者が出た(暗黒の土曜日)。
  2011年の総選挙では、タクシン元首相派のタイ貢献党が大勝し、インラック・シナワトラが首相に就任した。だが、2013年下旬からは約5年ぶりに反タクシン派の武装デモ隊による反政府デモが発生した。そして、2014年5月、憲法裁判所はインラック政権の政府高官人事を違憲として、インラック首相を失職させる司法クーデターを起こした。
  2014年5月22日、国軍は軍事クーデターを決行し、インラック前首相やニワットタムロン・ブンソンパイサン首相代行など、政府高官を相次いで拘束した。憲法と議会を廃止して実権を掌握すると、陸軍大将のプラユット・チャンオチャを首班とする軍事政権の樹立を宣言した。
  2015年、タイ王国は政治改革のため腐敗防止法及び関連法を改正し、腐敗行為に関与した場合は外国人でも死刑の対象となりうること、また国外逃亡した腐敗行為者に関する公訴時効を10年延長し20年とすることを定めた(2015年7月9日施行)。なおこの時点ではタクシン元首相はタイ国外におり、またインラック元首相については処分保留とされている
政情不安
  タイでは発展途上国でしばしば見られる政変や軍事クーデターによる政情不安、軍による民主化運動の弾圧などが多発していた。冷戦後の1992年以降は一時安定し、東南アジアの「民主主義の優等生」と称されていた。しかし、2006年に軍が政治関与を再開して2006年タイ軍事クーデターが発生した。また議会派の間でも第31代首相タクシン・チナワットの処遇を巡って反独裁民主戦線(UDD、赤服軍団)と民主市民連合(PAD、黄服軍団)という二つの政治集団が形成され、鋭く対立するようになり、2010年以降の情勢は極めて不安定な状態にある。
  2011年、総選挙で旧タクシン政権を支持する議員が所属するタイ貢献党(新党プアタイ)が勝利し、タクシン元首相の妹インラック・シナワトラが第36代首相に就任、議会派の対立に一応の決着が付いた事でUDDとPADの活動も沈静化した。インラック政権は過去の清算を図るべく敵味方双方への大規模な恩赦(国民和解法)の実施を検討したが、タクシン元首相にも恩赦を与えるかどうかで対立が再燃するという皮肉な結末を生んだ。更に反タクシン派議員の大物であったステープ・トゥアクスパン元副首相が、反タクシン派の野党からも離れて議会外での暴動直接行動を扇動するに至って混乱は頂点に達し、2013年末に行われた総選挙が正式に実施できずに終わる異常事態となった(2013年タイ反政府デモ)。
  軍はタクシン派と反タクシン派の対立には介入しない姿勢を見せていたが、インラック政権が親族の閣僚登用で退陣に追い込まれる一方、普通選挙の廃止や人民議会の設立など反タクシン派の要求も過激化するなど情勢の混迷が深まる中で遂に16度目のクーデターを実行した(2014年タイ軍事クーデター)。クーデター後、タイ王国軍が全土に戒厳令を発令、同時に憲法を停止して基本的人権を一時的に制限するとし、政府については陸軍総司令官プラユット・チャンオチャが議長を務める国家平和秩序維持評議会による軍政に移行した。治安回復を目的とする軍政は国王の支持を得て、プラユット陸軍総司令官・評議会議長が暫定首相を経て第37代首相に任命された。

  現在、反政府運動を封じる手段として報道の自由を全面制限し、タイ国内放送局の掌握、BBCワールドニュースNHKワールドTVNHKワールド・プレミアムCNN等、海外衛星放送ニュースチャンネルやケーブルテレビサービスを切断、配信させない報道管制を敷き、ソーシャル・ネットワーキング・サービス検閲なども強化している。さらに、無期限の夜間外出禁止令を首都バンコクなどタイ全土で発動し(パタヤプーケットなど一部の観光地は現在解除)、許可なく外出すれば拘束や射殺もありうるとした。 これ以外にも不敬罪の廃止を巡る議論、バンコク首都圏のデモ活動に対する非常事態宣言の頻発発令、タイ南部のゴムプランテーションのゴム買い取り価格への不満、深南部のイスラム教反政府武装集団に対する抗争及びマレーシアに続く南本線鉄道線路の破壊、カンボジアの世界遺産であるプレアヴィヒア寺院(タイ語名:プラヴィハーン)周辺の国境線問題において、カンボジアとの両軍同士の睨み合いによるタイとカンボジアの国境紛争など、治安の悪化が続いている。
日本外務省は、バンコクには注意喚起情報を、前述当該地域(ナラティワート県ヤラー県パッタニー県ソンクラー県(以上 タイ南部)・シーサケート県(北東部))において、「渡航の是非を検討して下さい」という旨の、危険情報を出し続けている。在タイ日本国大使館は、反独裁民主戦線・民主市民連合の一員と誤解され、トラブルに巻き込まれるのを防ぐため、双方のイメージカラーである「赤色黄色衣服を身に着けない様」注意喚起を行っている。
  2016年10月のラーマ9世の死を経て軍政による新憲法制定作業が行われたものの難航し、新国王ラーマ10世の権限が強化された新憲法が2017年4月に施行された







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