女の力問題-1


2024.02.07-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20240207-TKWMOADSLFMG5KTTTPCAEMQPPY/
困りごとを言葉にできる環境、作りたい 9日から「フェムテックフェス!」
(篠原那美)

  国内外で開発された最先端のフェムテック製品を集めたイベント「Femtech Fes(フェムテック・フェス)!」が9日から東京・六本木で開催される。5年前、日本でいち早く「フェムテック」という言葉を掲げて起業したのが、イベントを手掛ける「フェルマータ」だ。「これまで抱えてきたモヤモヤを解決できるかもしれない技術があることを、女性たちに知ってほしい」。そう呼びかける担当者に、日本のフェムテックの現在地を聞いた。

女性たちの熱気
  フェムテックは、月経(生理)や妊娠・出産、不妊、更年期など女性特有の健康課題を、テクノロジーを用いて解決する製品やサービスを指す女性(female、フィメール)と技術(technology、テクノロジー)を合わせた造語で、デンマーク出身の起業家、イダ・ティン氏が投資を呼び込むために考案。欧米を中心に2016年ごろから新しい産業として注目され始めた。
  日本における火付け役となったのがフェルマータだ。創業のひと月前の令和元年9月、まだなじみの薄かったフェムテック製品を集め、1回目のイベントを開いた。
  「フェスと題したのは、堅苦しい展示会にしないため。飲食物も提供して気軽に参加できる『対話の場』を目指しましたが、開幕すると、会場の空気が想像と違いました」と創業メンバーで同社COO(最高執行責任者)、近藤佳奈さんは話す
  際立ったのは、参加者の熱意。「誰もが真剣に、女性の健康や困りごとについて議論していた。その熱気を肌で感じて、日本でもフェムテックが求められていると確信しました」
成熟期のその先へ
  以来、注力してきたのは、フェムテックの新規事業に取り組む企業へのコンサルティングだ。「大企業がフェムテックの可能性を理解し、動くことで、国も新たな産業を育成しようと後押しするようになった」と近藤さん。メディアを通じてフェムテックやフェムケアという言葉も徐々に浸透し、店頭に並ぶ女性の健康を支える商品も多様化している。
  「日本のフェムテック市場は成熟期になりつつある」と評価する近藤さんだが、満足はしていない。
悩みを掘り起こそう
  9日からのイベントでは「氷山の一角(すでに誕生している選択肢)」「海面の下(まだ見ぬあらたな選択肢)」の2つのエリアを会場に設け、さまざまな製品やサービスに触れる機会を提供する。「日本市場に登場した製品は氷山の一角。グローバルな市場には、もっと斬新なアイデアがあります」
  日本でまだ見ぬ「海面の下」のフェムテック製品にはどんなものがあるのか。例えば、視覚障害者の女性が、体から出たものが経血かおりものかを把握できるデバイス(機器)。「生理のある同じ女性なのに、今まで目の不自由な方の悩みに思いをいたすことがなかった。はっとしました」と近藤さんも驚く
  思いもよらない製品に出合うことで気づいた新たな視点は、それまで見過ごしてきた悩みを掘り起こす刺激にもなる。「人生100年といわれる時代。閉経した後の50年、長いシニア期の困りごとはまだ可視化されていない。私たちはもっと貪欲に、快適で豊かな人生を求めていいはず。仕方ないとあきらめず、女性が困りごとを言葉にできる環境を作りたいです」
(篠原那美)



2023.06.09-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20220209-DTKKYWJ43VJRJJV5AO2SJIMJQU/
フェムテック② 基礎体温記録 紙からアプリへ
(取材協力 エムティーアイ)

  女性が月経周期を知る上で手掛かりとなる「基礎体温」長年、グラフ用紙に記録するのが主流だったが、近年はアプリを使って簡単に記録したり、グラフを閲覧したりすることができる。進歩を牽引(けんいん)しているのは、約20年前に誕生したエムティーアイ社の女性の健康情報サービス「ルナルナ」だ。

  平成12年に携帯電話向けウェブサイト用のサービスとして始まったルナルナは、携帯電話に記録できる手軽さや、生理日や排卵日予測など自分自身のリズムを把握するのに役立つ機能が女性たちに支持された。アプリのダウンロード数は昨年6月時点で1700万超。日本のフェムテックの元祖とも呼ばれる。
  サービスは医療機関向けにも拡大。アプリに記録した月経周期や基礎体温などの情報は、ユーザーが希望すれば受診先の産婦人科でも閲覧確認できる。さらに東京医科歯科大、国立成育医療研究センターと同社が、ルナルナによって蓄積された日本人女性31万人の月経周期を分析したところ、年齢によって周期に違いがあることも判明した。
  同社執行役員の日根麻綾さんは「ルナルナは、女性が自分らしく生きることを応援するサービスでありブランド。今後は女性に加え、社会全体への情報発信にも力を入れたい」と話す。
(取材協力 エムティーアイ)


小野小町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  小野 小町(生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。

人物像
  小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い
出自
  系図集『尊卑分脈』によれば小野一族である小野篁息子である出羽郡司小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦21年(802年) - 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘、あるいは小野滝雄の娘とする説もある。

  血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在が疑わしい。さらには、仁明天皇更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている。
  また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる。ほぼ同年代の人物に「三条町紀静子)」「三国町仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する。前述の小町姉が実在するという前提で、出羽国郡司の小野一族の娘で姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の“町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある。
生誕地に纏わる伝承
  生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷反乱で出羽国府城輪柵山形県酒田市)に移しており、その周辺とも考えられる。この他にも京都市山科区とする説、滋賀県彦根市小野町とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、熊本県熊本市北区植木町小野とする説、神奈川県厚木市小野とする説など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。東北地方に伝わるものはおそらく『古今和歌集』の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小町の祖父である小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという。
晩年に纏わる伝承
  前述の秋田県湯沢市小野で過ごしたという説の他、京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説がある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。後述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。
墓所
  小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される。
  ・秋田県湯沢市小野には二ツ森という深草少将と小野小町の墳墓がある。なお、近隣には、小野小町の母のお墓とされる姥子石など、小野小町ゆかりの史跡が多数存在している。
  ・宮城県大崎市にも小野小町の墓があり、生地の秋田県雄勝郡横堀村に帰る途中、この地で病に倒れ亡くなったと伝えられている。
  ・山形県米沢市の塩井町には小野小町の墓とされる美女塚がある。
  ・福島県喜多方市高郷町には、小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野小町の供養塔がある。
  ・栃木県栃木市岩舟町小野寺にも小野小町の墓があり、小町は大慈寺裏の断崖から薬師如来の世界を見て、身投げをしたという伝説がある。
  ・茨城県土浦市石岡市には、小野小町の墓があり、この地で亡くなったとの伝承がある。この2つの地は、筑波山の峠を挟んでかなり近いところにある。
  ・神奈川県厚木市小野には、嘉永元年に建てられた拝殿の横に、小町塚が存在する。
  ・愛知県あま市新居屋に小町塚があり、背面には「小町東に下るとき此処で死せし」とある。
  ・京都府京丹後市大宮町五十河も小野小町終焉の地と伝わり、小町の墓と伝えられる小町塚や、小町を開基とする妙性寺があり、小野小町公園が整備されている
  ・京都府綴喜郡井手町では、小野小町が当地にて69歳で没したと伝えられ、小町の墓と伝えられる小野小町塚が残されている。
  ・京都府京都市左京区静市市原町にある小町寺補陀洛寺)には、小野小町老衰像と小町供養塔などがある。
  ・滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。
  ・和歌山県和歌山市湯屋谷にも小町の墓があり、熊野参詣の途中この地で亡くなったとの伝承がある。
  ・鳥取県伯耆町にも同種の言い伝えがあり、小町地区に墓がある。また隣接して小野地区も存在する。
  ・岡山県総社市清音黒田にも、小野小町の墓がある。この地の伝承としては、小町が「四方の峰流れ落ちくる五月雨の黒田の蛭祈りますらん」とよむと、当地の蛭は吸い付かなくなったという蛭封じの歌が伝えられている。
  ・山口県下関市豊浦町川棚中小野にも、小野小町の墓がある。
世界三大美人
  一般にクレオパトラ楊貴妃と共に「世界三大美人」(または世界三大美女)の一人に数えられている。小野小町の代わりにヘレネー、楊貴妃の代わりに虞美人を加える場合もある。
  明治中期、日本国内でナショナリズムが高まる中のメディアに登場するようになったのが始まりとされている。
作品
  歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉、柔軟艶麗である。『古今和歌集』序文において紀貫之は彼女の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。仁明天皇の治世の人物である在原業平や文屋康秀、良岑宗貞と和歌の贈答をしているため、実在性が高い、とする説もある。実際、これらの歌人との贈答歌は多く伝わっている。

-古今集
  思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを 『古今集・序』
  色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける 『古今集・序』・今昔秀歌百選 選者:伴紀子(池袋松屋社長)
  わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらば往なむとぞ思ふ 『古今集・序』
  わが背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも 『古今集・序』
  いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞきる
  うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るがわびしさ
  かぎりなき思ひのままに夜もこむ夢ぢをさへに人はとがめじ
  夢ぢには足もやすめずかよへどもうつつにひとめ見しごとはあらず
  うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
  秋の夜も名のみなりけりあふといへば事ぞともなく明けぬるものを
  人にあはむ月のなきには思ひおきて胸はしり火に心やけをり
  今はとてわが身時雨にふりぬれば事のはさへにうつろひにけり
  秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば
-『小町集』
  ともすればあだなる風にさざ波のなびくてふごと我なびけとや
  空をゆく月のひかりを雲間より見でや闇にて世ははてぬべき
  宵々の夢のたましひ足たゆくありても待たむとぶらひにこよ
— 『古今集』
次の歌からも美女であった事が窺える。これは、百人一首にも選ばれている。
  花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に


清少納言
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  清少納言(康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代中期の女流作家歌人随筆枕草子』は平安文学の代表作の一つ。本名は清原 諾子(きよはら の なぎこ)とされている

出自
  梨壺の五人の一人にして著名歌人であった清原元輔908年 - 990年)の娘。曽祖父(系譜によっては祖父)は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父。兄弟姉妹に、雅楽頭為成・太宰少監致信花山院殿上法師戒秀、および藤原理能(道綱母の兄弟)室となった女性がいる。
  「清少納言」は女房名で、「清」は清原姓に由来するとされているが、近い親族で少納言職を務めたものはおらず、「少納言」の由来は不明であり、以下のような推察がなされている。

  ・女房名に「少納言」とあるからには必ずや父親か夫が少納言職にあったはずであり、同時代の人物を検証した結果、元輔とも親交があった藤原元輔の息子信義と一時期婚姻関係にあったと推定する角田文衞説。
  ・藤原定家の娘因子が先祖長家にちなみ「民部卿」の女房名を後鳥羽院より賜ったという後世の事例を根拠に、少納言であり能吏として知られた先祖有雄を顕彰するために少納言を名乗ったとする説。
  ・花山院の乳母として名の見える少納言乳母を則光の母右近尼の別名であるとし、義母の名にちなんで名乗ったとする説。
  ・岸上慎二は、例外的に親族の官職によらず定子によって名づけられた可能性を指摘している。後世の書ではあるが「女房官品」に「侍従、小弁、少納言などは下臈ながら中臈かけたる名なり」とあり、清原氏の当時としては高からぬ地位が反映されているとしている。

  語呂の関係から今日では「せいしょう・なごん」と発音されることが圧倒的に多いが、上述しているように「清」は父の姓、「少納言」は職名が由来であるため、本来は「せい・しょうなごん」と区切って発音するのが正しい。

  中古三十六歌仙女房三十六歌仙の一人に数えられ、42首の小柄な家集『清少納言集』が伝わる。『後拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に15首入集。また漢学にも通じた。
  鎌倉時代に書かれた『無名草子』などに、「檜垣の子、清少納言」として母を『後撰和歌集』に見える「檜垣嫗」とする古伝があるが、実証する一級史料は現存しない。檜垣嫗自体が半ば伝説的な人物であるうえ、元輔が檜垣嫗と和歌の贈答をしていたとされるのは最晩年の任国である肥後国においてであり、清少納言を彼女との子であるとするには年代が合わない。
  カツラを被るほど髪が薄く、縮れ毛であった。人物画に横顔が多いのは器量がよくなかったからという説がある。
経歴
  天延2年(974年)、父・元輔の周防赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。なお、『枕草子』第290段における船旅の描写の迫真性は、同段落に「わが乗りたるは(私が乗った船は)」とあるので、作者父親の赴任に伴い、水路を伝って行った実体験と考えられる。この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。
  天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光965年 - 1028年以後)と結婚し、翌年一子則長982年 - 1034年)を生むも、武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。ただし、則光との交流はここで断絶したわけではなく、枕草子の記述によれば長徳4年(998年)まで交流があり、妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったという。枕草子は日記ではなく清少納言の妄想を多く含む創作である。公卿との交流も枕草子だけに書かれていることがあり信憑性は薄い。のちに、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた。

  一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で気が強い彼女は、主君定子の恩寵を被った。藤原実方(? - 998年)との贈答が知られる。
  長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。
  没年は不明だが、没落した様子が『古事談』などに記されている。
  清少納言と、同時代の『源氏物語』の作者・紫式部とのライバル関係は、後世盛んに喧伝された。しかし、紫式部が中宮彰子に伺候したのは清少納言が宮仕えを退いてからはるか後のことで、2人は一面識さえないはずである。

  もっとも、『枕草子』には紫式部の夫・藤原宣孝が亡くなった後、今更言うことでもない稚拙な批判(派手な衣装で御嵩詣を行った逸話や従兄弟・藤原信経を清少納言がやり込めた話)が記されており、こうした記述は紫式部の才能を脅威に感じて記したものであるという説も存在する。
  清少納言の名が今日まであまねく知られているのは、残した随筆『枕草子』によるところが大きい。これは清少納言による創作も含み、史実とは異なる部分も多い。『枕草子』には、「ものはづくし」(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂や清少納言が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったもののほか、事実とは違うことも書かれているため注意が必要である。
清女伝説
  紫式部の酷評に加え、女の才はかえって不幸を招くという中世的な思想が影響し、鎌倉時代に書かれた無名草子』『古事談』『古今著聞集などには清少納言の『鬼の如くなる形の女法師』など落魄説話が満載された。『古事談』には、「鬼形之法師」と形容される出家の姿となり、兄・清原致信源頼親に討たれた際、巻き添えにされそうになって陰部を示し女性であることを証明したという話がある。
  また全国各地に清女伝説(清少納言伝説)がある。鎌倉時代中期頃に成立したと見られる『松島日記』と題する紀行文が清少納言の著書であると信じられた時代もあったが、江戸時代には本居宣長が『玉勝間』において偽書と断定している。
伝墓所
  ・天塚徳島県鳴門市里浦町里浦坂田) - 比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めを受けんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという。
  ・清塚(香川県琴平金刀比羅神社大門) - 清塚という清少納言が夢に死亡地を示した「清少納言夢告げの碑」がある。
  ・京都市中京区新京極桜ノ町 - 誓願寺において出家、往生を遂げたという。

  枕草子には藤原行成とかわされたとされる歌(歌や出来事は、行成の日記『権記』には一切記述がない。また権記には清少納言についての記述もほぼない)である「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」の歌が百人一首に採られている(62番。61番の伊勢大輔に続いて百人一首では当代歌人の最後に位置し、68番に来る三条院とともに疑問ののこる序列となった)。
  京都市東山区泉涌寺にこの歌の歌碑がある。昭和49年(1974年)、当時の平安博物館館長・角田文衞の発案によって歌碑が建立された。
  建立当時、(定子皇后の鳥辺野陵にほど近く)嘗てここに清原元輔の山荘があり、晩年の清少納言が隠棲したと思われる所とされたが、それは中古文学に現れる京都近郊の地「月輪」が洛東・洛西の何れに存在したかの解釈にもかかるため(京都新聞)、近年ではかく主張する学者が減ってきている。


紫式部
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  紫式部は、平安時代中期の作家歌人女房女官)。作家としては、日本文学史を代表する一人。正確な誕生年は特定できないが、近年の研究では、天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれ、寛仁3年(1019年)までは存命したとされる。
  『源氏物語』の作者とされ、藤原道長の要請で宮中に上がった際に宮中の様子を書いた『紫式部日記』も残している。『源氏物語』と『紫式部日記』の2作品は、後にそれぞれ源氏物語絵巻』『紫式部日記絵巻として絵画化された。また、歌人としても優れ、子供時代から晩年に至るまで自らが詠んだ和歌から選び収めた家集紫式部集』がある。『小倉百人一首』にも和歌が収められており、中古三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人でもある。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に、計51首が入集している
  父の藤原為時は、官位正五位下と下級貴族ながら、花山天皇漢学を教えた漢詩人、歌人である。紫式部は藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。長保3年(1001年)に結婚後3年程で夫が卒去する。その後『源氏物語』を書き始め[注釈 4]、その評判を聞いた藤原道長に召し出されて、道長の娘で、一条天皇中宮彰子に仕えている間に『源氏物語』を完成させた。
  なお、『紫式部集』には、夫である藤原宣孝の卒去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている
略伝
  藤原北家良門流越後守藤原為時の娘で、母は摂津守藤原為信女であるが、幼少期に母を亡くしたとされる。同母の兄弟に藤原惟規がいる(同人の生年も不明であり、式部とどちらが年長かについては両説が存在するほか、姉がいたこともわかっている。三条右大臣藤原定方、堤中納言・藤原兼輔はともに父方の曾祖父で、一族には文辞を以って聞こえた人が多い。
  幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著したというのが通説で、和歌集『紫式部集』が伝わっている。
  父・為時は30代に東宮の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人式部大丞と出世したが、花山天皇が出家すると失職した。10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国受領となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。
 徳4年(998年)頃、親子ほども年の差があり、又従兄妹でもある山城守藤原宣孝と結婚して長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けた。この結婚生活は長く続かず、間もなく長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別した。

  寛弘2年12月29日1006年1月31日)、もしくは寛弘3年の同日(1007年1月20日)より、一条天皇の中宮彰子藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房家庭教師役として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。
  なおこれに先立ち、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した可能性が指摘されている。『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書『今鏡』には紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。それらは伝承の類であり信憑性には乏しいが、他にも『紫式部日記』からうかがえる、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮があること、永延元年当時は為時が失職しており家庭基盤が不安定であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たることなどが挙げられる。また女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である
  『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
  藤原実資の日記『小右記長和2年5月25日1014年6月25日)条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」旨の記述が紫式部で残された最後のものとし、よって三条天皇の長和年間(1012年 - 1016年)に没したとするのが昭和40年代までの通説だったが、現在では、『小右記』寛仁3年正月5日(1019年2月18日)条で、実資に応対した「女房」を紫式部本人と認め、さらに、西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文に「おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…」とある詞書と和歌を、岡一男説の『頼宗集』の逸文ではなく、『定頼集』の逸文と推定し、この直後に死亡したとする萩谷朴説、今井源衛説が存在する。
  (現在、日本銀行券D号券2000円札の裏には小さな肖像画と『源氏物語絵巻』の一部を使用している。)
本名
  紫式部の本名は不明であるが、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日1007年2月19日)の条において掌侍になったとされる記事のある「藤原香子」(かおりこ / たかこ / こうし)とする角田文衛の説もある。この説は発表当時「日本史最大の謎」として新聞報道されるなど話題を呼んだ。
  但し、この説は仮定を重ねている部分も多く推論の過程に誤りが含まれているといった批判もある。その他にも、もし紫式部が「掌侍」という律令制に基づく公的な地位を有していたのなら勅撰集や系譜類に何らかの言及があると思えるのにそのような痕跡が全く見えないのはおかしいとする批判も根強くある。その後、萩谷朴の香子説追認論文も提出されたが、未だにこの説に関しての根本的否定は提出されておらず、しかしながら広く認められた説ともなっていないのが現状である。また、香子の読みを「よしこ」とする説もある。
その他の名前
  女房名は「藤式部」。「式部」は父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞だったこと)に由来するとする説と、同母兄弟の惟規の官位によるとする説とがある。
  現在一般的に使われている「紫式部」という呼称について、「紫」のような色名を冠した呼称はこの時代他に例が無く、このような名前で呼ばれるようになった理由については様々に推測されている。一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物「紫の上」に由来すると考えられている。
  また、上原作和は、『紫式部集』の宣孝と思しき人物の詠歌に「ももといふ名のあるものを時の間に散る桜にも思ひおとさじ」とあることから、幼名・通称を「もも」とする説を提示した。今後の検証が待たれる。
婚姻関係
  紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚はこの一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説との関係で、『権記』の長徳3年(997年)8月17日条に現れる「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないかとする説が唱えられている。
  『尊卑分脈』において紫式部が藤原道長であるとの記述があることは古くからよく知られていたが、この記述については後世になって初めて現れたものであり、事実に基づくとは考えがたいとするのが一般的な受け取り方であった。
  しかしこれは『紫式部日記』にある「紫式部が藤原道長からの誘いをうまくはぐらかした」旨の記述が存在することを根拠として「紫式部は二夫にまみえない貞婦である」とした『尊卑分脈』よりずっと後になって成立した観念的な主張に影響された判断であり、一度式部が道長からの誘いを断った記述が存在し、たとえそのこと自体が事実だとしても、最後まで誘いを断り続けたのかどうかは日記の記述からは不明であり、また当時の婚姻制度や家族制度から見て式部が道長の妾になったとしても法的にも道徳的にも問題があるわけではないのだから、『尊卑分脈』の記述を否定するにはもっときちんとしたそれなりの根拠が必要であり、この記述はもっと真剣に検討されるべきであるとする主張もある。
日本紀の御局
  『源氏の物語』を女房に読ませて聞いた一条天皇が作者を褒めてきっと日本紀(『日本書紀』のこと)をよく読み込んでいる人に違いないと言ったことから「日本紀の御局」とあだ名されたとの逸話があるが、これには女性が漢文を読むことへの揶揄があり本人には苦痛だったようであるとする説が通説である。

  「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべるものなりけり」(『紫式部日記』)

生没年
  当時の受領階級の女性一般がそうであるように、紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。そのため紫式部の生没年については様々な状況を元に推測した複数の説が存在しており、定説が無い状態である。
  生年については両親が婚姻関係になったのが父の為時が初めて国司となって播磨国へ赴く直前と考えられることからそれ以降であり、かつ同母の姉がいることから、そこからある程度経過した時期であろうと推測される。だが同母兄弟である藤原惟規とどちらが年長であるのかも不明であり、以下のような様々な説が混在する
紫式部日記
人物評
  同時期の有名だった女房たちの人物評が見られる。中でも最も有名なのが『枕草子』作者の清少納言に対する下りである。
  ・「得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない」(「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」『紫日記』黒川本)、
  ・「こんな人の行く末にいいことがあるだろうか」(「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」『紫日記』黒川本)

  殆ど陰口ともいえる辛辣な批評である。これらの表記は近年に至るまで様々な憶測や、ある種野次馬的な興味(紫式部が清少納言の才能に嫉妬していたのだ、など)を持って語られている。もっとも本人同士は年齢や宮仕えの年代も10年近く異なるため、実際に面識は無かったものと見られている。近年では、『紫式部日記』の政治的性格を重視する視点から、清少納言の『枕草子』が故皇后・定子を追懐し、紫式部の主人である中宮・彰子の存在感を阻んでいることに苛立ったためとする解釈が提出されている。同輩であった歌人の和泉式部(「素行は良くないが、歌は素晴らしい」など)や赤染衛門(「家柄は良くないが、歌は素晴らしい」など)には、否定的な批評もありながらも概ね好感を見せている。
道長妾
  『紫式部日記』には、夜半に道長が彼女の局をたずねて来る一節があり、鎌倉時代公家系譜の集大成である『尊卑分脈』(『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』)になると、「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」と紫式部の項にはっきり「道長」との註記が付くようになるが、彼女と道長の関係は不明である。


北条政子
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  北条 政子(保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻。
概略
  伊豆国豪族北条時政の長女。母は未詳だが、北条時子の同母姉妹とみられている。子は頼家実朝大姫三幡。兄弟姉妹には宗時義時時房阿波局時子など。
  周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。
  なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明。
生涯
流人の妻
  政子は伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれた。
  伊豆の在庁官人であった時政は、平治の乱で敗れ同地に流されていた源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中の間に政子は頼朝と恋仲になってしまう。
  頼朝との婚姻は治承元年(1177年)の頃と推定される。『吾妻鏡』によると時政はこの婚姻には大反対であったという。同書にはこの時のことについて、後年、源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉で「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と述べたと記されている。 しかし最終的に時政はこの二人の婚姻を認めた。政子は、まもなく長女・大姫を出産する。時政も2人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。なお、軍記物にはこの婚姻についての逸話がいくつか書かれている。

  『曽我物語』によると二人の馴れ初めとして、政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙なを見た。妹がその夢について政子に話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。当時、不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は政子に夢を売り、政子は代に小袖を与えた。政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのである。吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれたとする「夢買い」をした。
  また『源平盛衰記』には次の内容の記載がある。
  頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていた。政子は山木の邸へ輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子が21歳のときである。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。しかしながら山木兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)の事であり、政子との婚姻話は物語上の創作とみるのが妥当と思われる。

  治承4年(1180年)、以仁王源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなった。頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗する。この戦いで政子の長兄・北条宗時が討死している。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになった。
  頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。
御台所
  養和2年(1182年)初めに政子は二人目の子を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親の恩赦を命じた。頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の娘の八重姫と恋仲になり男子までなしたが平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と八重姫の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまったことがあった。祐親はこの赦免を恥じとして自害してしまう。同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の2代将軍・源頼家である。
  政子の妊娠中に頼朝は亀の前を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒する。11月、牧の方の父の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させ、亀の前はほうほうの体で逃げ出した。頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えた。頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっている。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国流罪にさせた。

  政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては異例であった。頼朝は生涯に多くの女性と通じたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っている。当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが一般的だが、有力武家も本妻の他に多くのを持ち子を産ませて一族を増やすのが当然だった。政子の父・時政も複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませている。頼朝の父・源義朝も多くの妾がおり、祖父・源為義は子福者で20人以上もの子を産ませている。京都で生まれ育ち、源氏の棟梁であった頼朝にとって、多くの女の家に通うのは常識・義務の範疇であり、社会的にも当然の行為であったが、政子はそんな夫の行動を容認できなかった。」  その背景としては、政子の嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は貴種である頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったためと考えられる。頼朝は寿永元年(1182年)7月に兄・源義平の未亡人で源氏一族である新田義重の娘・祥寿姫を妻に迎えようとしたが、政子の怒りを恐れた義重が娘を他に嫁がせたため実現しなかった。政子が亀の前の邸を襲撃させて実力行使に出るのは、この4ヶ月後である。このため政子は嫉妬深く気性の激しい奸婦のイメージを持たれる様になった。

  寿永2年(1183年)、頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子・義高と頼朝と政子の長女・大姫の婚約が成立した。義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下る。義高は11歳、大姫は6歳前後である。幼いながらも大姫は義高を慕うようになる。
  義仲は平家を破り、頼朝より早く入京した。だが、義仲は京の統治に失敗し、平家と戦って敗北し、後白河法皇とも対立した。元暦元年(1184年)、頼朝は弟の源範頼義経を派遣して義仲を滅ぼした。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させる。激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄の手によって斬られた。大姫は悲嘆の余り病の床につく。政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、親家の郎党の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしている。その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となった。政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣するが、大姫が立ち直ることはなかった。
  範頼と義経は一ノ谷の戦いで平家に大勝し、捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきた。頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため侍女の千手の前を差し出している。重衡は後に彼が焼き討ちした東大寺へ送られて斬られるが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去している。
  範頼と義経が平家と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席している。元暦2年(1185年)、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。

  平家滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちる。文治2年(1186年)、義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られた。政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得している。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな 」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えた。
  政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じる。静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えた。
  同年、政子は次女三幡を産んだ。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられた。

  奥州へ逃れた義経は文治5年(1189年)4月、藤原泰衡に攻められ自害した。頼朝は奥州征伐のため出陣する。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。建久元年(1190年)に頼朝は大軍を率いて入京。後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。
  建久3年(1192年)、政子は男子(千幡)を産んだ。後の三代将軍・源実朝である。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられている。同年、大進局が産んだ貞暁は7歳になった時、政子を憚って出家させるため京の仁和寺へ送られた。出発の日に頼朝は密かに会いに来ている。

  建久4年(1193年)、頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話であるが、これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされている。この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた(曾我兄弟の仇討ち)。鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めた。鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼の言葉を聞いて猜疑にかられ、範頼は伊豆に幽閉されて殺されている。
  大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していた。建久5年(1194年)、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家一条高能との縁談を勧めるが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだ。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。

  建久6年(1195年)、政子は頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床につく。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、建久8年(1197年)に大姫は20歳で死去した。『承久記』によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諌めている。
  頼朝は次女の三幡を入内させようと図るが、朝廷の実力者である土御門通親に阻まれる。親鎌倉派の関白九条兼実が失脚し、朝廷政治での頼朝の形勢が悪化し三幡の入内も困難な情勢になったために、頼朝は再度の上洛を計画するが、建久10年(1199年)1月に落馬が元で急死した。『承久記』によれば政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐している。
尼御台
  長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家してになり尼御台と呼ばれる。頼朝の死から2ヶ月ほどして次女の三幡が重病に陥った。政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せる。三幡は医師の処方した薬で一時保ち直したように見えたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去した。
  若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、正治2年(1200年)に頼家の専制を抑制すべく大江広元梶原景時比企能員北条時政北条義時ら老臣による十三人の合議制が定められた。
  頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送った。政子は景盛を宥めて謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。

  頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた(梶原景時の変)。『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったという。『愚管抄』では景時滅亡と後の頼家殺害の因果関係を強く指摘している。
  頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだ。政子はこの蹴鞠狂いを諌めるが頼家は聞かない。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていた。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。

  建仁3年(1203年)、頼家が病の床につき危篤に陥った。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼしてしまった。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉されてしまう。頼家は翌元久元年(1204年)に死去している。
  だが比企氏滅亡や頼家の死に関して鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』には明らかな曲筆が見られ、頼家の悪評や比企氏の陰謀については北条氏による政治的作為と考えられるため、そのまま鵜呑みには出来ない。『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。
  これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。逃げ延びた一幡も捕らえられ、北条義時の手勢に殺された。また同じく『愚管抄』によれば、頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃され、激しく抵抗した所を首に紐を巻き付け陰嚢をとって刺し殺されたという。
  頼家に代って将軍宣下を受けたのは実朝で、政子の父の時政が初代執権に就任する。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻している。元久2年(1205年)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策。政子と義時はこの陰謀を阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代って義時が執権となった(牧氏事件)。
  実朝は専横が目立った頼家と違って教養に富んだ文人肌で朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。後鳥羽上皇もこれに期待して実朝を優遇して昇進を重ねさせた。しかし、公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、不満が募っていた。

  政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。
  建保6年(1218年)、政子は病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で権勢並びなき藤原兼子と会談を重ねた。この上洛で兼子の斡旋によって政子は従二位に叙されている。『愚管抄』によれば、このとき政子は兼子と病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談している。
  実朝の官位の昇進は更に進んで右大臣に登った。義時や大江広元は実朝が朝廷に取り込まれて御家人たちから遊離することを恐れ諫言したが、実朝は従わない。
  建保7年(1219年)、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。『承久記』によると、政子はこの悲報に深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐している。
尼将軍
  実朝の葬儀が終わると、政子は鎌倉殿としての任務を代行する形で使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園地頭の罷免を提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。
  義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ2歳の幼児であり、三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。『吾妻鏡』では建保7年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱っている。
  承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った(承久の乱)。上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。
  政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表。これで御家人の動揺は収まった。『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとし、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。
  軍議が開かれ箱根足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、政子の裁断で出撃と決まり、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。
  後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。政子は義時とともに戦後処理にあたった。

  貞応3年(1224年)、義時が急死する。長男の北条泰時は見識も実績もあり期待されていたが、義時の後室の伊賀の方は実子の北条政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。義村謀叛の噂が広まり騒然とするが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき理を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問した。義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。鎌倉は依然として騒然とするが政子がこれを鎮めさせた。伊賀の方は伊豆へ追放された(伊賀氏の変)。
  だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後室・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある。
  泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させた。
  嘉禄元年(1225年)、政子は病の床に付き、死去した。享年69。戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は神奈川県鎌倉市寿福寺に実朝の胴墓の隣にある。
後世の評価
  『吾妻鏡』は「前漢呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と政子を称賛している。慈円は『愚管抄』で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した。『承久記』では「女房(女性)の目出度い例である」と評しているが、この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐させている。
  室町時代一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ奈良時代女帝元正天皇孝謙天皇)の故事をひいている。北畠親房の『神皇正統記』や今川了俊の『難太平記』でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。
  江戸時代になると儒学の影響で人倫道徳観に重きを置かれるようになり、『大日本史』や新井白石頼山陽などが政子を評しているが、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が滅びて、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判を加えている。またこの頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となる。政子を日野富子淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。


お市の方
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  お市の方は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。小谷の方(おだにのかた)、小谷殿とも称される。名は通説では「於市」で、「市姫」とも云い、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。
  戦国大名織田信長の妹で、信長とは13歳離れている。通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ、母は土田御前とされている。信行秀孝お犬の方は同腹の兄姉という。初めは近江の大名・浅井長政の継室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の正室となった。
  子に茶々豊臣秀吉側室)、京極高次正室)、徳川秀忠継室)がいる。孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)、豊臣完子千姫徳川家光徳川和子(江の娘、息子)など。徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となった。また、今上天皇の先祖に当たる人物でもある
生涯
  前半生についてはほとんど記録がなく不明である。
  婚姻時期については諸説あるが、通説では、永禄10年(1567年)9月または永禄11年(1568年)早々の1月から3月ごろ、美濃福束城主・市橋長利を介して、浅井長政に輿入れしたとされる。 この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結んだ。なお、長政は主家である六角家臣・平井定武の娘との婚約がなされていたが、市との婚姻により破談となっている。
  その後、長政との間に3人の娘を儲ける。この時期長政には少なくとも2人の息子が居たことが知られているが、いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられている。
  元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、政略結婚ではあったが、長政と市の夫婦仲は良かったらしい。永禄13年頃から実家の織田家と浅井家が対立するようになり、緊張関係が生じた時でも、娘を出産したことから夫婦間は円満であったように思える。一方で、末娘の江に関しては小谷出生説に異論を唱える史料もあり、延宝7年(1679年)に成立した『安土創業録』(蓬左文庫所蔵)では、小谷城を脱出したのは市と娘2人であり、市は岐阜で江を出産したとある。
  長政が姉川の戦いで敗北した後、天正元年(1573年)に小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害した。市は3人の娘「茶々」「初」「江(江与)」と共に藤掛永勝によって救出され織田家に引き取られる。その後は信長の許しを得て、清洲城にて兄の信包の庇護を受け、三姉妹と共に9年余りを過ごしたという。この時の信長の市親子に対する待遇は大変厚く、市や三姉妹のことを気にかけ、贅沢をさせていたという。信包も市や三姉妹を手元で保護し、姪たちを養育したという。
  また、近年の研究成果によると、市と三姉妹は信包の庇護ではなく、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられた可能性が高いとされており、織田信次が天正2年9月29日に戦死をした後は信長の岐阜城へ転居することになる

  信長死後の天正10年(1582年)、柴田勝家と羽柴秀吉が申し合わせて、清洲会議で承諾を得て、柴田勝家と再婚した。従来の通説では、神戸信孝の仲介によるものとされてきたが、勝家の書状に「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」と書かれたものがあり、勝家のお市への意向を汲んで清州会議の沙汰への勝家の不満を抑える意味もあって、会議後に秀吉が動いたとの説もある。婚儀は本能寺の変の4か月後の8月20日に、信孝の居城岐阜城において行われた。同年、勝家の勧めにより、京都の妙心寺で信長の百箇日法要を営んだ。
  天正11年(1583年)、勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れたため、夫と共に越前北ノ庄城内で自害した(北ノ庄城の戦い)。享年37。
  辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公かな」
  墓所は西光寺(福井県福井市)。菩提寺は自性院(福井県福井市)、幡岳寺(滋賀県高島市)。戒名は自性院微妙浄法大姉、東禅院殿直伝貞正大姉(自性院照月宗貞とも伝わる)。また、小谷城跡(滋賀県長浜市)のある小谷山山頂に旧跡がある。
人物
  ・小谷寺には、市の念持仏と伝えられている愛染明王が納められている。また、戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられる。
  ・長女の淀殿は父・長政の十七回忌、母・市の七回忌に菩提を弔うために、両親の肖像画を描かせた。この肖像画は(高野山 持明院)に伝えられており、戦国末から安土桃山時代にかけての貴婦人の正装の典型的なものである。下着を3枚かさね着にし、肩と裾だけに片身替わりの模様のある小袖を着て、その上に白綾の小袖をかさね、一番上の美しい模様の着物を肌ぬぎにしている。平安時代の宮廷の女官が着た十二衣のかさね着などと比べると、同じ正装でも著しく簡略化され、開放的になってきたことがわかる。
  ・『朝倉家記』によると金ヶ崎の戦いの折り、信長に袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いに送り挟み撃ちの危機を伝えたという広く知られた逸話があるが、この逸話は後世の創作と言われている。もっともその頃の風習から、大名間の政略結婚において、女性は実家から婚家へと送り込まれた外交官・間諜としての側面があったため、市は、両家をとりまく状況の変化を情報として得て、それを実家に伝達をする役割を果たしていたことが窺える。
  ・『溪心院文』によれば、37歳の時点で、実年齢よりもはるかに若い22、23歳に見えるほど若作りの美形であった。
  ・3人の娘たちの行く末を心配していた市は、北ノ庄城の落城の際には庇護を受ける羽柴秀吉に直筆の書状を送り、3人の身柄の保障を求めた(『溪心院文』)。また、血統の存続を考えての行動でもあった。なお、徳川家に嫁ぎ多くの子を成した江(崇源院)により、その血筋は現在に至るまで続いている(崇源院#系譜参照)。







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