沖縄の問題


2019.12.21-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/politics/news/191221/plt1912210014-n1.html
菅官房長官が沖縄・首里城を視察 県と連携アピールも知事サイドは警戒感

菅義偉官房長官は21日、沖縄県を訪れ、火災で正殿など主要施設が焼失した首里城(那覇市)を視察した。沖縄のシンボルである首里城復元に向けた県との連携をアピールし、政府の取り組みに対する理解を得ることで、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に反発する県民感情を和らげる狙いがある。
 「首里城は沖縄の誇りだ。被害の大きさを実感し、復元に向けて全力を尽くす決意を新たにした」。菅氏は同日午後、首里城視察後にこう述べ、再建に全力をあげる考えを改めて示した。視察には玉城デニー知事も駆けつけ、菅氏に被災状況などを説明した。
 菅氏の沖縄訪問は辺野古海域の今後の埋め立て工事を見据えたものだ。新たに軟弱地盤が見つかった北東側の埋め立て区域について、政府は今年度中にも県に設計変更を申請する方針だが、辺野古移設を認めない県は徹底抗戦する構えで、政府と県の対立激化は避けられない。
 一方、昨年9月に初当選を果たした玉城氏は2期目を見据え、「首里城再建を実績にしたいとの思惑がある」(知事周辺)とされる。辺野古移設阻止に向けた実績で決定打を欠く玉城氏にとって首里城再建はまたとない追い風だからだ。
 こうした玉城氏の期待を見透かしたように、政府は10月31日の首里城火災直後から対応に乗り出した。12月11日には菅氏をトップとする関係閣僚会議で防火対策強化などを柱とした基本方針を策定。今年度内に復興に向けた工程表を取りまとめる予定だ。政府関係者は「首里城は県と信頼関係をつくれるかどうかの試金石だ」と語る。


2019.11.8-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/affairs/news/191108/afr1911080031-n1.html
首里城の保険料、一ケタ間違う 年間2940万円

焼失した那覇市の首里城に関し、沖縄県は8日の県議会経済労働委員会で、県から首里城の運営を委託されている「沖縄美(ちゅ)ら島財団」が支払う火災保険の保険料は、年間2940万円だと訂正した。県はこれまで、年間294万円と説明していた。
 県土木建築部の担当者は同委で「財団から訂正があり、年間の保険料が一桁違った」と説明した。支払限度額に関しては、従来の説明通り最大70億円だという。保険金は、首里城公園を所有する国が受け取る仕組みとなっている。
 一方、県文化観光スポーツ部の新垣健一部長は同委で、首里城焼失が沖縄観光に与えた影響について「今のところ、首里城火災によって団体客キャンセルの情報はいただいていない」と答弁した。また、航空会社に聞き取り調査に基づき、「搭乗率の低下の動きは聞いていない」と説明した。


2019.11.2-https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1019118.html
首里城再建募金 一覧(11月2日現在)

10月31日の火災で正殿など主要建造物を失った首里城。その早期再建を願い、募金の呼び掛けが始まっている。2日現在、募金受け付けを決定した団体などは以下の通り。

沖縄県 ホームページとふるさと納税サイト 県は2日午前0時から「首里城火災復旧支援寄付金」の申し込みの受け付けを始める。県のホームページからと、ふるさと納税の2通りの方法で申し込みができる。
 募金箱の設置も検討しているが、保管方法や責任者などが決まっておらず調整を進める。県によると寄付の身元が判明しない募金を直接県の歳入に受け入れてはいけないという規則があり、受け入れるには実行委員会など態勢づくりが必要だという。ただ、他の都道府県で設置しているところもあるため、会計課が状況を確認している。 

県ホームページからの寄付は電子申請で申し込むか、申込書をダウンロードし、郵送かファクス、メールで県土木建築部総務課に提出する。
 申込書の提出先は〒900―8570 沖縄県那覇市泉崎1の2の2 沖縄県土木建築部土木総務課。ファクスは098(866)2399。メールはaa060003@pref.okinawa.lg.jp
ふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」からの寄付はクレジット払いと納入通知書払いの2通りの納付方法が選択できる。問い合わせは県土木総務課予算経理班(電話)098(866)2384(平日午前9時~正午、午後1時~5時)。

那覇市 クラウドファンディング「ふるさとチョイス」
 那覇市は1日、ふるさと納税を活用したクラウドファンディングのウェブサイト「ふるさとチョイス」を通して首里城火災に対する支援金受け付けを始めた。「沖縄のシンボル『首里城』再建支援プロジェクト」と題し、税控除が受けられる。来年3月末まで募集する。1日午後11時現在、約970万円の寄付金が寄せられている。
 支援金を受け付ける銀行口座も開設した。口座は琉球銀行本店営業部(普)1279506、沖縄銀行本店(普)2603484、沖縄海邦銀行本店営業部(普)913978。10月31日には市役所本庁舎、11月1日には3支所に募金箱を設置した。

沖縄県内マスコミ 県民募金 琉球新報社をはじめ県内マスコミ8社(琉球新報社、沖縄タイムス社、沖縄テレビ放送、琉球放送、琉球朝日放送、NHK沖縄放送局、ラジオ沖縄、エフエム沖縄)は焼失した首里城再建のための募金を始めた。県内外に広く寄付を呼び掛け、銀行口座への振り込みのほか、各社で寄付金を受け付ける。集まった浄財は関係機関・団体に託して再建に活用してもらう予定。
首里城再建」支援のための県民募金の受付窓口は次の通り。
受付開始 2019年11月5日(火)
受付時間 土・日曜日、祝日を除く午前10時~午後5時
現金受付窓口
・琉球新報本社読者サービス室 〒900―8525那覇市泉崎1の10の3
       (電話)098(865)5311
・中部支社(電話)098(934)6500
・北部支社(電話)0980(53)3131
・宮古支局(電話)0980(72)3172
・八重山支局(電話)0980(82)3428

振込金融機関
・募金振込口座については現在開設に向けて手続き中です。準備が整い次第、新聞紙面、各社HP等でお知らせいたします。

学生らがクラウドファンディング 火災に遭った首里城の再建に協力しようと、県内の学生団体や若手経営者らが集結し「首里城火災支援プロジェクト」と題してクラウドファンディングを立ち上げた。寄付を募っており、1日午後10時現在で目標金額30万円の達成率は460%を超える約138万円になっている。
 クラウドファンディングなどを運営する会社「グローバル・デイリー」から声を掛けられ、31日午後1時にページを開設した。県内外から多くの寄付が集まる状況に、発起人で沖縄大4年の照屋一輝さん(24)は「再建に向け、世界でゆいまーるの輪が広がってうれしい」と語った。
 照屋さんは「活動をきっかけに若い人たちが沖縄の歴史や文化に興味を持つようになってほしい。地域に目を向けることができる人を増やしたい」と話した。寄付金は那覇市が設置した「首里城火災に対する支援金」の募金活動に寄付される予定。

琉球・沖縄センター 会員に募金呼び掛け
 首里城焼失を受けた県内マスコミによる再建基金設立に合わせて、東アジア共同体研究所の琉球・沖縄センターが広く募金を呼び掛ける。同研究所や同センターに登録されている1万人近いメール会員などネットワークを通じて呼び掛ける。沖縄サミットを機に発行された2千円札にちなんで1口2千円募金とし、第1弾の目標額として200万円を目指して募金を進める。同センターが16、17の両日、那覇市のさいおんスクエア前広場で催すイベント「アジア麺ロード」でも募金を呼び掛ける。
 同センター長の緒方修さんは「平和の象徴になるような再建にしてほしい」と広く募金を呼び掛けている。問い合わせは同センター(電話)098(963)8885


2019.11.1-沖縄タイムス-https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/491937
消火阻んだ猛烈な首里城の炎 危険な状況下で懸命の放水 崩れ落ちる正殿に悲鳴

琉球の歴史を象徴する首里城が31日、音を立てて崩れ落ちた。未明から燃えさかった炎の勢いは衰えず11時間燃え続けた。鮮やかな朱色の正殿や北殿、南殿などが灰と化した。沖縄戦で焼失し、復元された首里城が目の前で崩壊する瞬間、住民は涙をぬぐい、立ち尽くした。

 那覇市消防局は他の自治体にも応援を要請して車両53台、消防団を含め171人で対応した。木造の正殿が激しく燃えたため、正殿前の御庭は遠赤外線の熱線によって直接伝わる「輻射熱(ふくしゃねつ)」が充満し、放水していた消防隊員らは一時退避。現場に近づくことすら困難だった。
 猛烈な勢いで噴き出す炎に、駆け付けた消防士はなすすべなく、正殿内部での放水を断念。正殿内の消火設備や屋外の放水銃には熱で近づけない。高低差のある城の構造も消火を阻んだ。消火水槽から消火用ホースを引っ張る際も城壁が文字通り「壁」となり、迂回(うかい)せざるを得なかった。
 現場で指揮を執った那覇中央消防署の照屋雅浩署長は鎮火前、記者団に「輻射熱がひどく、現場に近づくのは容易ではない」と憔悴(しょうすい)した表情で語った。応援の署員1人が脱水症状を起こした。

 午前3時10分ごろに火災現場に到着した那覇市消防局の島袋弘樹局長は午後の会見で、混乱した現場を思い起こすように何度も視線を上に向け、言葉を選んだ。「到着した時、熱を避けようと隊員が低い姿勢で正殿に放水していた。危険な状況だった」。二次被害を防ぐために御庭から隊員を退避させて消火活動をしたと説明し「もっと近づいて消火活動ができていれば、これほどの勢いで燃えなかったかもしれない」と声を落とした
 「バチバチバチ」。午前4時33分、炎に包まれ、骨組みだけになった正殿の屋根が大きな音を立てて焼け落ちた。当蔵交差点付近で心配そうに見ていた多くの住民から悲鳴が上がった。 火の粉は周辺の住宅街に降りかかった。
 「家全体に水をかけてください」。首里城の南方、煙が充満した首里金城町に住む岸本幸一さん(60)は駆け付けた消防署員に懇願した。屋上はウッドデッキで飛び火によって延焼する可能性があった。同町一帯は燃えた木片や灰が散らばり、住宅の屋根や車のボンネットには10センチ前後の木片も残っていた。かろうじて延焼を免れた岸本さんは「昨晩は雨が降ったから延焼を防げたのかもしれない」と胸をなで下ろした。
 同町の石川えりなさん(45)は火の粉が自宅にも降り、慌てて家族で車に乗り込み避難した。子どもが火の手を見て「戦争みたい」とつぶやいた。
 首里城付近に住む、首里まちづくり研究会事務局次長の新垣伝さん(35)の自宅にも火の粉が舞い、バチバチと燃える音が間近に聞こえた。「どうしようもないというのが先で、見届けるのも僕らの仕事なのかもしれない」。崩落をじっと見つめた。
 徒歩約15分の場所に住む町田洋美さん(49)は城南小学校のPTA会長。午前5時半ごろ、警察の呼び掛けで避難所となった同校体育館の鍵を開けた。「地域住民らが集まり、泣いている人がたくさんいた」と肩を落とした。


首里城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


首里城は、沖縄県那覇市首里金城町にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾である。現在は国営沖縄記念公園の首里城地区(通称・首里城公園)として都市公園となっている。

概略
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は沖縄神社社殿としての正殿などが旧国宝に指定されていたが[1]1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている状態だった。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていない。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある。
管理
建屋は国の所有であり、2019年2月1日以降、管理および運営が国から沖縄県に移管された。なお同県管理期間は2019年2月1日から2023年1月31日までと指定されている。同県は指定管理者である一般財団法人沖縄美ら島財団に管理を行わせている

歴史
創建
首里城の創建年代は明らかではない。尚氏歴代居城の正殿は、かつて百浦添とされ、敬称で御百浦添と称された。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。
王家の居城として
尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても同様だった。史書に記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失している。焼失の度に再建されてきたが、良材が不足しがちな沖縄では木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。一度目に再建された城の外観と構造については、『李朝実録』に記述がみられ1456年2月の目撃記録として、首里城は、「外城」「中城」「内城」の三地区に分かれ、外城には倉庫や厩、中城には200余人の警備兵、内城には二層の屋根を持つ「閣」があり、内部は三階建てで、三階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、一階は酒食が供される集会所となっていたと記述されている。二度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。1709年(宝永6年)には三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供されている。現代の首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の「和漢三才図会」(寺島良安・編)には首里城が「琉球国」の項の挿絵(地図)のなかに描かれている。
周辺の支城-那覇港を拠点とする海外交易は、琉球王国の重要な経済的基盤であり、港の付近には次のような防備施設や交易品保管施設としてのグスクが設けられていた
三重城(みえぐすく)-港口の防御砲台。那覇港口の北岸側に設けられており、岸との間に石造りアーチ橋が架けられていた。現在はアーチ橋の石組みの一部が残る。
屋良座森城(やらざもりぐすく)-港口の防御砲台。那覇港口の南岸側に設けられていた。米軍那覇軍港建設により破壊され、現存しない。
御物城(おものぐすく)-交易品の保管倉庫。那覇港の一番奥に設けられていた。現在は基礎の石垣のみ残る。那覇軍港の一部であり、付近は海上保安庁の巡視船の定係港である。
硫黄城(いおうぐすく)-輸出用の硫黄の集荷・保管倉庫。那覇港の一番奥に設けられていた。現存しない。

琉球処分以後
1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。
王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定された。正殿は県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた(源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという説がある)。
太平洋戦争前
正殿は1925年(大正14年)に特別保護建造物(のち旧国宝)に指定された(指定名称は「沖縄神社拝殿」)。昭和初期(1927年(昭和2年)-1932年(昭和7年))に正殿の改修工事が行われた
沖縄戦と占領下
太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる)。さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。5月27日の日本軍南部撤退の際には、歩行不能の重傷兵約5000名が首里城の地下陣地で自決した。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。戦後しばらくして一部が返還され、また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている。
戦後は首里城跡に琉球大学が置かれ、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。
戦後の再建
  1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まる。1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。1989年(平成元年)11月より、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。屋根瓦については色についてさえ記録がなく、当時を知る老人を集めて話を聞いても赤~黒まで意見がバラバラで難航した。すでに琉球瓦を生産しているのは奥原製陶ただ1軒だけであり、4代目主奥原崇典の尽力によって首里城の瓦が復元された。なお、2014年に米国立公文書館から沖縄戦で焼失前の首里城のカラー映像が発見されており、それによると屋根瓦は赤色では無い事が判明している。
  1992年(平成4年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年(平成12年)には「首里城跡」として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された。約30年にわたる復元工事が2019年1月に完了した
令和元年の火災(「#2019年の火災」も参照)
2019年(令和元年)10月31日未明に火災が発生、正殿と北殿、南殿が全焼した。前述の1453年・1660年・1709年・1945年の焼失に次いで、歴史上5度目の焼失となった。

首里城の構造
  日本の城とは異なり、首里城は中国の城の影響を大きく受けている。門や各種の建築物は漆で朱塗りされており、屋根瓦には初期は高麗瓦、後に琉球瓦(赤瓦)が使われ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用された。また、戦乱のない琉球王朝時代に再建されていることもあり、軍事目的よりも政治の中心地としての役割を中心にして設計されている。城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられている。

  首里城は第二尚氏王朝時代の15世紀後半から16世紀前半にかけて建設された外郭と、第一尚氏王朝時代の15世紀前半ごろに建設された内郭という二重の城壁に囲まれ、御庭(うなー)と呼ばれる広場に面して立つ正殿・北殿・南殿・奉神門などの建物は内郭に集中している。内郭には瑞泉門、漏刻門など九つの門が、外郭には歓会門、久慶門など四つのアーチ門があった。城の正門である歓会門(別名・あまえ御門(うじょう))、または通用門である久慶門(別名・ほこり御門)を経て外郭内部に入ると、内郭の入り口である瑞泉門(別名・ひかわ御門)に至る。瑞泉門には「龍樋」という名の泉があり、龍の頭の形をした銅製の樋から水が流れ出している。ここには「中山第一甘露」の石碑があり、中国の冊封使が18世紀前半から19世紀後半にかけて残した碑刻(冊封七碑)がある。

  瑞泉門を通り、漏刻日時計で時間を計測していた漏刻門(別名・かご居せ御門)を抜けると、司法や寺社宗廟関係の機関が入居していた楼閣・広福門(別名・長御門)に至る。広福門の内側は、系図座・用物座(家系図や城内の物品を管理する機関)や、御庭につながる奉神門、祭祀空間である「京の内」(けおのうち)に囲まれた下之御庭(しちゃぬうなー)が広がる。ここは御庭に入る前の控えの場であり、首里城の10ある御嶽のひとつ・首里森御嶽(すいむいうたき)がある。「君誇御門」(きみほこりうじょう)とも呼ばれた奉神門をくぐると正殿などに囲まれた御庭が広がる。
  正殿の前には、家臣らが謁見したり中国からの冊封使を迎え入れたりするための御庭(うなー)と呼ばれる広場が設けられている。それを取り囲むように行政施設である北殿、儀礼などに用いられた南殿、御庭への入り口となり行政施設も入っていた奉神門が建てられている。さらにそれを各種の門・城壁が取り囲む形になっている。これらの構造には、中国の紫禁城との類似性も指摘されている。南殿は薩摩藩の接待のため使われたので、ここのみ和風の意匠が用いられていた。

  王の居住する中心部は正殿(せいでん)と呼ばれ、別名「唐破風」(からふぁーふー)と呼ばれた。中には一階と二階の両方に御差床(うさすか)という玉座が設けられ、二階の御差床の上には清国皇帝から贈られた扁額が飾られていた。沖縄戦で全て失われたが、康熙帝の贈った「中山世土」(ちゅうざんせいど)、雍正帝の贈った「輯瑞球陽」(しゅうずいきゅうよう)、乾隆帝の贈った「永祚瀛壖」(えいそえいぜん)の三つの扁額が本人の筆跡や落款を再現した上で復元され飾られている。正殿の一階は国王が政務をおこなう場所で「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれており、正殿の二階は王妃や女官らの使用する「大庫理(うふぐい)」と呼ばれる場所であった。二階の御差床は重要な儀式のために使うものであり、二階南東隅の「おせんみこちゃ」という部屋は国王や女官らが祭祀を行う場所であった。

  南殿の南側には王が日常的に執務する建物であった書院および鎖之間(さすのま)がある。書院・鎖之間庭園は琉球のグスク内にある唯一の庭園で、石灰岩の岩盤を生かしてソテツなどを配しており中国の使節からも名園と評価されていた。遺構の保存状態もよく、2008年8月に復元公開された。2009年7月には書院・鎖之間庭園ともに日本国の名勝に指定された。
  正殿の裏側は「御内原」(うーちばる)と呼ばれる私的な生活空間に当たり、正殿後方の後之御庭(くしぬうなー)という広場を中心にいくつかの建物があった。入り口に当たる淑順門(別名・みもの御門、うなか御門)が2010年に、王の住む「二階御殿」(にーけーうどぅん)が2000年に再建されているほか、王妃らの寝室があり国王以外の男性は入れなかった「黄金御殿」(くがにうどぅん)、調理を行う「寄満」(ゆいんち)、王位継承の儀式を行う「世誇殿」(よほこりでん)などかつて存在した建物の復元のための発掘や建設工事がすすんでおり、その東奥には、国王逝去の際に遺体を安置する寝廟殿(未復元)を取り囲む石垣とその入り口である白銀門が再建されている。首里城の東の門である継世門(別名・すえつぎ御門)は1998年に再建された。この門はもともと倭寇襲来に備えて16世紀半ばに造られたもので、日常生活用品の城内への搬入や、国王逝去時に王子がこの門から入り世誇殿で王位継承を行う儀式のために使われた。
  本来の木造建築として復元された建物は正殿および書院・鎖之間のみである。正殿は、沖縄本島北部の山から大木を運ぶ「木曳式」などの儀式が行われた後、台湾などからの木材を用いて再建された。他の建物ではコンクリートを用いるなど外観のみの復元といえる。旧来の城壁は一部に残っており、新しい城壁の建設の際に発掘され利用されたため、地表近くに旧来の城壁の姿を見ることができる。これが唯一残ったオリジナルの首里城の遺構である。

宗教的役割
首里城は政治・軍事の拠点であるとともに、琉球有数の聖域でもある。以前は城内には十か所の御嶽があり、また首里城内郭の南側の大きな範囲を「京の内(けおのうち)」と呼ばれる聖域が占めていた。「京の内」は十か所の御嶽のうちの数か所と、鬱蒼とした大木の森や岩があるだけの場所だったが、この森こそが首里城発祥の地であり、首里城を国家の聖地とさせている重要な場所であった。聞得大君をはじめとする神女たちが京の内で祭祀を行っていたが、その祭祀の内容やはっきりとした京の内内部の様子はいまだによくわかっていない。ここで行われた祭祀の研究に基づき公開に向けての整備工事が進められ2003年に公開されている。
  敷地内の御嶽等は単なる遺跡ではなく、現在に至るまで信仰の対象であった。琉球大学があった頃には、立ち入りが自由であったため、その構内のあちこちの拝所には常に線香やウチカビ(紙銭)が供えられ、主として女性の拝む姿がよく見られたものである。しかし、首里城の復元によって無断の立ち入りが禁止となってしまった。このため「首里城の建物は復活したが拝所としては破壊された」との声もある。

2019年の火災

概要
2019年(令和元年)10月31日未明に火災が発生し、正殿と北殿、南殿が全焼した。ほか、合わせて7棟の建屋、延べ4,800平米が焼失した。警察と消防は火災の原因などを調べている。人的被害は、消防活動にあたった消防士1名が脱水症状となったほかは鎮火時点まで報告されていない。
首里城が焼失したのは、1453年、1660年、1709年、1945年に次いで歴史上5度目となった。
消火活動-消防活動は、消防車両延べ52台、延べ人員161人で行われた。正殿からの出火と見られている。
被害状況-
総務省消防庁によると(11月1日第4報)、以下の建屋が焼損した。延べ4,800平米が焼失。焼失した建屋内には琉球王国時代からの絵画や工芸品なども収蔵されていた。沖縄美ら島財団は、建屋内に収蔵している1500点以上の絵画や漆器などのうち、少なくとも400点以上が焼失した可能性があると表明した。これには、「寄満」に所蔵していた尚家史料などが含まれる。また1000点以上の文化財が火災による高熱を帯びたと見られている。
影響
正殿など建屋の火災が激しく、火の粉が周辺の住宅街など広範囲に飛散したため、一時、県警や消防などが、首里、石嶺、城南地区などの周辺住民を避難誘導した。当日午前4時頃、避難所も一時開設され、周辺住民30人程が一時避難した。同日閉鎖された。この火災を受け、周辺の学校では児童や生徒が精神的に不安定となり遅刻や学校を休むなどの影響が出た。
  火災の影響で首里城公園、園内施設は臨時休園となっており、11月3日開催予定の首里文化祭「琉球王朝祭り首里」を含め各イベントが中止となった。
旅行会社やバス会社は、修学旅行ほか団体旅行ツアーのルート変更(識名園、国際通り、ひめゆりの塔など)に追われたまた、2020年東京五輪の聖火リレーのコースにも予定されていた(コースに関する決定はまだない)。
この火災を受けて、岩手・平泉中尊寺、奈良・法隆寺など、日本国内の他の世界遺産を含む文化財関係者、担当者にも防火対策などに関して緊張が走った。
要因ほか
木造であること、赤い塗装に沖縄独特の「桐油」を使っていたことが火の勢いを早めた可能性がある。消防によると、現場は輻射熱が強かったことにより、離れた所の木材も温度が上がり自然発火したことや、現場に近づくことすら困難となり放水していた消防隊員らが一時退避したことなども、消火を拒まれた原因とみられる
  焼け落ちた正殿と北殿、南殿などは復元建造物であり、火災当時には文化財防災の対象外となっていた。文化庁は同年4月のノートルダム大聖堂の火災を受けて文化財防災の防火対策ガイドラインを定めたが、首里城は対象に入っていなかった。首里城火災を受けて、復元建物についても防火対策の確認を各地方公共団体に発出した
正殿など建屋内部にスプリンクラーは設置されていなかった文部科学省は2019年9月に文化財にスプリンクラーの設置を推奨する文書を配布していたが、指定管理者側が文書について把握していなかった可能性がある。


沖縄県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

沖縄県は、日本で最も西に位置する行政区画及び地方公共団体。沖縄本島・宮古島・石垣島など多くの島々から構成される。県庁所在地及び最大の都市は那覇市。
概要
鹿児島県薩南諸島を除く南西諸島の島々(沖縄諸島先島諸島大東諸島)から構成されており、東シナ海太平洋に挟まれている。面積は2,281㎢と香川県大阪府東京都に次いで小さく、人の居住する日本最南端の地域を含む県でもある。また、八重山郡与那国町は日本の最西端にある地方自治体であり、与那国島の北北西260mに位置するトゥイシが日本最西端の地点である。
  県民の約9割が沖縄本島に集中しており、行政上は沖縄本島とそれ以外の離島とに分けられる場合がある。
  ほぼ全域が亜熱帯気候であり、一部は熱帯に属する。年間を通して温暖な気候であり、最高気温と最低気温の差も小さく標高の高い山も存在しないため氷点下になることもない。
  海上輸送路(シーレーン)および軍事的要地(第一列島線)として重要な場所に位置し、多数の在日米軍基地が存在する。主な米軍施設として、嘉手納飛行場普天間飛行場キャンプ・バトラー等が存在する。
  琉球王国時代に編纂された「中山世鑑」によると、保元の乱で敗れ伊豆に流された源為朝が追手から逃れるため沖縄本島(運天港)に渡り、その子が初代琉球国王舜天になったとされており、正史として扱われている。12世紀か13世紀頃には三山王国(北山中山南山)が勃興し、中国()に朝貢冊封を受け琉球貿易を行っていた(グスク時代)。1429年に中山王尚巴志が南山と北山を滅ぼし、琉球王国を建国した(第一尚氏)。1469年尚徳王の家臣であった金丸が王位を簒奪し、自らを尚円王と号し即位した(第二尚氏)。周辺の先島諸島や奄美群島にも版図を拡げるが、1609年慶長14年)に薩摩藩の侵攻を受け尚寧王は降伏、当時王国の支配下にあった奄美群島は薩摩藩に割譲、王国は薩摩藩の支配下におかれた(琉球侵攻)。薩摩による侵攻以降も王国は中国の冊封を受け続け、日本の薩摩藩と清国に『両属』する体制となっていたが鎖国体制下の両国の中継貿易地としての役割を担い、交易を通じて独自の文化と自治を保っていた。
  近代に入り日本本土で明治維新がおこり開国したことを受け、1871年(明治4年)9月に日清修好条規が締結されとの間に外交関係が樹立された。しかし、その約1ヶ月後となる同年10月に宮古島島民遭難事件が発生、明治政府は外交対処のために中央集権国家の確立を急ぎ、1872年(明治5年)、琉球藩が設置され、琉球国王の尚泰を「琉球藩王」に封じて東京に藩邸を置いた。福島外務卿による清との交渉後、1874年(明治7年)に台湾出兵となり、日本の航客に危害を加えないなどの統括権などがイギリス大使の調停による事後処理条約で確認され、清との外交事件が帰着した。1879年4月4日明治12年)、明治政府は琉球藩を廃して沖縄県を設置、尚泰は東京の藩邸に居を移し華族となる。グスク時代の城跡遺跡は『琉球王国のグスク及び関連遺産群』としてユネスコ世界遺産に登録されている。
  1945年昭和20年)、太平洋戦争では『唯一の地上戦』と呼ばれる沖縄戦の戦場となった。米軍は4月1日に沖縄本島の読谷村の海岸に上陸、瞬く間に島の北半分を制圧、日本軍は米軍の総攻撃を受け南部に追い込まれ、総司令部が置かれていた首里城も焼け落ち、6月23日に沖縄守備軍最高指揮官の牛島満中将らが摩文仁で自決したことで組織的戦闘は終結した。約3カ月に及ぶ激戦により県民の4人に1人が犠牲になり土地も荒廃した。現在、摩文仁は沖縄戦跡国定公園に指定されており、6月23日は慰霊の日として沖縄県の休日となっている。
  戦後、南西諸島は米軍の占領下におかれ、日本の施政権は停止、沖縄県は実体としては一旦消滅した(アメリカ合衆国による沖縄統治)。米軍主導のもと新たに『琉球政府』が誕生、基地建設のため集落や農地を大規模に接収し、右側通行の道路を整備し、通貨としてB円、後に米ドルを使用させ、日本本土への渡航にパスポートが必要になるなど、米国流のやり方で戦後復興が進められていった。1952年(昭和27年)にGHQの占領下にあった日本が主権回復した後も沖縄は引き続き米軍の統治下におかれた。1950年代以降になると朝鮮戦争ベトナム戦争が勃発し、沖縄は米軍の前線補給基地として重要度を増し、数多くの米軍人が駐留、B-52等の戦略爆撃機枯葉剤核兵器といった大量破壊兵器が多数配備され、ベトナムからは『悪魔の島』と恐れられた[4]。経済は基地に大きく依存していた一方で、当時ドル高円安の固定相場制の影響もあり物価は安く生活は安定しており、人口は終戦直後の約50万人から本土に復帰するまでのわずか27年間で約100万人に倍増した。しかし米軍による強権的・差別的な施政に島民は強い反感を抱き、本土への復帰を求める大規模な反基地運動が各地で展開されていった(島ぐるみ闘争)。1971年(昭和46年)に佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領との間で沖縄返還協定が締結され、翌1972年(昭和47年)に沖縄は日本に施政権が返還され沖縄県が復活した(沖縄返還[注 4][注 5]。米軍統治時代から続く基地問題や不発弾の問題、日米地位協定の問題は県の主要な政治課題となっている(「普天間基地移設問題」を参照)。
  上記の歴史的経緯から文化・風習・人名・方言・料理・産業・人口構成・制度的にも主要四島(「本土」)のそれとは大きく異なり、俗に県外のことを「内地(ナイチ)」、県民以外の人を「内地人(ナイチャー)」と呼び分ける場合がある。
  日本屈指のリゾート地であり、文化体験・沖縄料理レジャーマリンスポーツ戦争遺跡などを強みに観光分野に特に力を入れており、観光業を含む第三次産業が79.2%を占めている一方で第一次産業は5.4%、第二次産業は15.4%と低調である。
  また格闘技界においては空手の発祥の地(琉球唐手)として世界的に有名であり、多数の外国人門下生が県内の空手道場に入門し稽古している。ボクシングにおいては石垣市出身の具志堅用高を始めとして数多くの世界王者、名選手を輩出している。
名称(「沖縄県の歴史#琉球と沖縄の名称」も参照)
  「沖縄(おきなわ)」という地名の由来は、「沖あいの漁場」を意味する「おき(沖)な(魚)は(場)」を由来とする説(伊波普猷)と、「沖にある場所」「遠い場所」を意味する「おき(沖・遠い)なは(場所)」を由来とする説(東恩納寛惇)がある。
  淡海三船が著した鑑真の伝記『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』(779年成立)では、天平勝宝5年12月12日754年1月9日)遣唐使一行が阿児奈波島(おきなわじま/あじなわじま/あこなはじま)に漂着したと記されており、この島は沖縄本島のことを指していたという。のちに中国側からの呼称による「流求」「琉球」と呼ばれるようになった。
  琉球処分の際、明治政府内では「琉球県」の名称も検討された。これは1879年(明治12年)、琉球藩を廃して沖縄県が設置される際に俎上に上っていたものである。内務卿の伊藤博文から太政大臣の三条実美に提出した同年3月1日付の琉球処分に関する文章には「琉球藩ヲ廃シ、更ニ琉球県ヲ被置候、此旨布告候事但県庁ハ首里ニ被置候事」とあり、琉球県の名称が使われていたが採用には至らなかった。この間の経緯は不明であるが、中国語由来の琉球に対し、沖縄のほうがより日本帰属の意思が明確になるため選ばれたと推察できる。用語としての「沖縄」は元々は沖縄本島を指す言葉であったが、沖縄県設置により鹿児島県奄美群島を除く琉球諸島全域が沖縄と呼ばれるようになり、より広義に解釈されるようにもなった
名称(「沖縄県の歴史#琉球と沖縄の名称」も参照)
「沖縄(おきなわ)」という地名の由来は、「沖あいの漁場」を意味する「おき(沖)な(魚)は(場)」を由来とする説(伊波普猷)と、「沖にある場所」「遠い場所」を意味する「おき(沖・遠い)なは(場所)」を由来とする説(東恩納寛惇)がある。
  淡海三船が著した鑑真の伝記『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』(779年成立)では、天平勝宝5年12月12日754年1月9日)遣唐使一行が阿児奈波島(おきなわじま/あじなわじま/あこなはじま)に漂着したと記されており、この島は沖縄本島のことを指していたという。のちに中国側からの呼称による「流求」「琉球」と呼ばれるようになった。
  琉球処分の際、明治政府内では「琉球県」の名称も検討された。これは1879年(明治12年)、琉球藩を廃して沖縄県が設置される際に俎上に上っていたものである。内務卿の伊藤博文から太政大臣の三条実美に提出した同年3月1日付の琉球処分に関する文章には「琉球藩ヲ廃シ、更ニ琉球県ヲ被置候、此旨布告候事但県庁ハ首里ニ被置候事」とあり、琉球県の名称が使われていたが採用には至らなかった。この間の経緯は不明であるが、中国語由来の琉球に対し、沖縄のほうがより日本帰属の意思が明確になるため選ばれたと推察できる。用語としての「沖縄」は元々は沖縄本島を指す言葉であったが、沖縄県設置により鹿児島県奄美群島を除く琉球諸島全域が沖縄と呼ばれるようになり、より広義に解釈されるようにもなった
人口(詳細は「沖縄県の人口統計」を参照)
2015年度の国勢調査結果より前回の2010年度と比較して、沖縄県の人口は約4万人(2.9%)増加し、都道府県別で東京都(2.7%)を抜き全国で最も人口増加率が高くなった。人口増加率は全国1位。人口別では初めて65歳以上人口が15歳未満人口を上回った。地域別で見ると沖縄本島の中部と南部で増加し、移住先として人気のある石垣島を除けば、沖縄本島北部と離島の大部分で減少している。国立社会保障・人口問題研究所は、2025年に143万3千人まで増加すると予測している。2010年の自然増加率は人口千人あたり5.0人増と全国最高であるが、社会増加率は各年により増減が変動する。また2010年度の合計特殊出生率は1.87人 と1975年度以来連続で全国1位を維持している。2015年度国勢調査によれば、65歳以上の人口比率 (19.6%) が、調査開始以来、15歳未満 (17.4%) を上回った粗死亡率は男女ともに全国で最も低いが年齢調整死亡率は全国平均に近く、特に成人男性は全国3位以上の年齢調整死亡率となっている。沖縄県在住の外国人は、国籍別で2010年現在アメリカ米軍とその関係者は含まれない。)が最も多いが、中国韓国籍の外国人も増加傾向にある。2015年度の国勢調査で、県内の外国人は11,020人となり、2010年度より3,369人 (44%) 増加している。
  なお人口統計には含まれない在沖米軍人・軍属・家族数は2013年度現在47,300人にのぼる。
  2016年度の沖縄県への入域観光客統計は年間8,613,100人で過去最高を記録し一日平均で約23,500人になる。
また本土から赴任した自衛官や国の出先機関の出向公務員も多数存在するために、これらを含めると見かけ上の人口は統計よりも7〜10万人も多い。
産業
沖縄県は日本屈指の観光立県でありサービス業が発達していて県経済の中心になっている。また観光以外に目立った産業のない沖縄県は、在日米軍基地が生み出す経済(軍雇用者所得、軍用賃借料、米兵向け商店・飲食店など)に依存している側面があり、経済依存度は、1972年の15.5%から低下したものの、現在でも5.7%を占めている。米軍基地内には、オフィスや病院、ショッピングセンターなどの施設があり、約9000人前後の県民が基地施設に勤務していて、沖縄県庁に次ぐ大口の就職先になっている。
  沖縄県の産業構造は、全国に比べて第2次産業のウエイトが低く、第3次産業のウエイトが高いことが特徴であるが、この傾向は、復帰以降全く変わっていない。平成25年度の県内総生産に占める第2次産業及び第3次産業の割合は、それぞれ13.9%及び84.4%となっており、全国の24.4%及び73.9%と比べその差異は明らかである。特に、製造業の割合は、全国が18.4%に対し沖縄県は4.2%とその差異は極めて大きい。 また、政府サービス生産者(公的な電気・ガス・水道業や公務等の経済活動)の割合が沖縄県(平成25年度)では16.0%と高い。この高い割合は、復帰以降続いているものである。
  2014年平成26年)度の県内総生産は4兆1749億円で、前年度と比較した経済成長率は、1.5%増加した。名目は3.5%増の4兆511億円で、それぞれ6年連続のプラス成長だった。平成26年度の一人あたり県民所得は212万9000円(全国平均は286万8000円)である。失業率は日本一高いが2016年には沖縄の完全失業率は23年ぶり3%台に低下した。
  離島県であることから、生産できない生鮮食品家電製品自動車等、他都府県から移入する必要があるものは輸送費の分だけ本土に比べ割高となってしまう。そのため、本土の地方と比べて、特別物価が低くはなっていない。
農業・漁業
農業では日本随一の熱帯・亜熱帯性気候を生かし、マンゴーアセロラパインドラゴンフルーツ等のトロピカルフルーツや、サトウキビタバコゴーヤー(ニガウリ)といった農作物が生産されている。漁業ではマグロイカブリタカサゴアジアカハタなどの他クルマエビもずくの養殖も盛んである。畜産業では、養豚が古くから盛んに行われ沖縄固有品種アグーが有名。またヤギウシも生産されている。
工業・鉱業
製糖・飲料・食料品製造等の製造業やセメント製造を中心とした窯業・土石製品製造業があるがいずれも小規模である。沖縄本島の本部半島には良質な石灰岩が存在し、セメントの原料や砕石・砕砂の原料として採掘されている。沖大東島北大東島にはかつて燐鉱石が豊富に存在していたが、現在では採掘され尽くしており枯渇している。
沖縄本島沖の海底には国内最大規模の熱水鉱床が広がっており、亜鉛などのほか、ガリウムビスマスなどレアメタルを含むため、次世代の海洋資源として試掘調査が活発化している。東シナ海の海底には推定埋蔵量約1000億バレルに上る天然ガスや石油が眠っており、日中中間線周辺では中国との領有権争い(東シナ海ガス田問題を参照のこと)が生じている。植物資源を燃料に充てられるバイオエタノールが脚光を浴び、県産サトウキビが原料として注目されていたが採算性悪化で撤退している。
観光業
本県の主な産業として、伝統・歴史・自然・食・国際色を生かした観光業が挙げられる。ただし、これらの観光業は景気に左右されやすい。 沖縄本島のリゾートホテル付設や公営の海水浴場の多くは、ワイキキビーチと同様に人工海浜であり、観光資源ではあるが「沖縄の自然」ではない。観光客数は国内外合わせて5,690,000人(国内:5,443,800人、海外:246,200人)である。訪れる外国人観光客は、台湾 (75%)、米国 (11%)、韓国 (4%)、香港 (2%)、中国 (2%) という比率になっている。米国からの観光客は、米軍基地関係者が多く含まれる。
2000年(平成12年)に主要国首脳会議が行われたのをきっかけに、国際会議、コンベンションといったイベント開催地としての体勢作りを進めている。また県はスポーツアイランド構想を掲げエコツーリズムも活発化している。
情報
1998年(平成10年)から「沖縄県マルチメディアアイランド構想」に基づき、海底ケーブルの陸揚げ本数が多いことから IX (Internet Exchange) の語に掛けて IT Exchange 等の呼びかけを行いコールセンターやIT企業の優遇策による誘致を活発に行っている。その一方で内外から施設は立派であるが内容が伴わないとして箱物行政といった批判も多い。2010年代頃からスマートフォンアプリの開発業も盛んになっている。
全国紙
読売新聞毎日新聞朝日新聞日本経済新聞産経新聞の各社が県に総・支局を設置している。2008年(平成20年)11月1日より日経が琉球新報社への委託による現地印刷を開始し、全国紙では唯一、朝夕刊(2018年1月からは朝刊のみで、夕刊は廃止した。)とも地元紙と同時に配達を行っている。なお、読売、毎日、朝日は東京本社版および西部本社版を、産経は大阪本社版がそれぞれ販売されている。これらの一般紙はいずれも発行地より空輸されるため、配達は当日の午後にずれ込む(前日の夕刊と同時配達)。また先島諸島や大東諸島については、全国紙だけでなく地方県域新聞2紙も印刷後空輸や船便で配送されるため、本島などから比べて朝刊の配達が遅れてしまう。

宗教(詳細は「琉球神道」を参照)
アニミズムを基本としており、本土の神道の原形(古神道)に近いと言われる。琉球神道とも言われ、本土の神社に当たるものとして御嶽がある。また、祖先崇拝の風も強く残る。
仏教は、王族や一部の上層階級が信仰するのみで、一般の農民にはほとんど浸透しておらず、葬式の儀礼の一部に用いられるにとどまった。現在でも仏教信徒の数は、本土に比べると極端に少ない。近年葬儀は一応仏式で行われるようになったが、本土のように宗派別の僧侶ではなく、無宗派の僧によって執り行われる場合が多い。また、僧とは別にユタを呼ぶ事例もある。
は、自然のほら穴等を使った岩陰墓や崖を掘り込んだ掘込墓から、中国の影響を受けた亀甲墓へと変わり、現在では破風墓が一般的である。また、遺骨の処理方法も風葬洗骨をする独特の風習があったが、近年では保健所等の指導や婦人運動の結果、多くの地域で火葬が実施されるようになった。戦後は、米軍の影響でキリスト教信仰も盛んである。その多くはプロテスタント派に属する。県内には約210か所のキリスト教会が存在し、全国で最もクリスチャン人口の比率が高い。
言語・方言(詳細は「琉球語」および「ウチナーヤマトグチ」を参照)
沖縄県で使われている言葉は大まかに以下の三つに分けることができるが、団塊の世代より後に生まれた世代の県民では共通語化が著しく、平成以降に生まれた世代の県民になると、琉球語だけでなく沖縄弁(ウチナーヤマトグチ)でさえも衰退が著しいが、特に強い保護政策等はとられていない。

琉球語 - 日本政府の立場としては、日本語の方言である琉球方言として扱われることが多いものの、ユネスコなどの国際機関の間では日本語とは異なる日本語族に属した独立した言語であるとされる。伝統的な沖縄の言語であるが、日常的な使用はほぼ高齢者層に限られる。明治から昭和中期まで方言札を使った強力な標準語普及運動が推進されたことに加え、本土復帰運動や戦後のマスメディアや学校教育の発展に伴いそれらを通じて、琉球語を軽視する反面、標準語に接する機会が圧倒的に増えたため、琉球語が使われることは非常に少なくなっており、特に平成以降に生まれた世代では大半が理解することすら難しいほど衰退している。おおまかに、国頭語(国頭方言)、沖縄語(沖縄方言)、宮古語(宮古方言)、八重山語(八重山方言)、与那国語(与那国方言)に分けられるが、それら諸言語(諸方言)の間でもそれぞれ別言語とされることがあるほどの違いがあり、いずれもユネスコにより絶滅危機言語とされている。
ウチナーヤマトグチ - 沖縄県民の大半が日常的に使用する言葉であり、日本語の共通語を基盤に琉球語の要素を混合させた新方言とされる。沖縄弁とも言われる。しかし、ウチナーヤマトグチと言えども、平成以降に生まれた世代の沖縄県民において年齢が下がるほど衰退傾向が著しく、アクセント面で影響が残る程度となっており、語彙面では共通語と差異がほとんどみられない場合も少なくない。
日本語共通語 - マスメディア・学校教育や公的機関などで使われている。昭和初期までに生まれた高齢者層では琉球語、沖縄弁、共通語とのトライリンガル、戦後から昭和末期までに生まれた世代では沖縄弁と共通語のバイリンガルが大半であり使い分けができる。一方、平成以降の生まれの世代においては共通語とほぼ変わらない言葉を話す傾向が強く、ほぼ共通語のみのモノリンガルに近い。また年々その傾向も年齢が下がるにつれて強くなりつつある[76]。このように、日本国内でも特に共通語化が進みつつある地域とされており、危惧されている。
英語 - アメリカの統治下にあった沖縄では英語が事実上[注 17]の第二公用語であった。現在でも英語教育を受けた高齢者や米軍基地内で従事して働く軍雇用員・米軍や兵士相手の商売をしている者・米国人と結婚した家族の間では英語を解す人は多い。
人種・民族(「琉球民族」、「日本人」、および「大和民族」も参照)
沖縄の地に先祖を持つ人々は、地理的・歴史的・文化的な経緯から一般的に琉球民族と称される。人種的には先史時代から10世紀にかけて南九州から移入したとされ、分子生物学の研究でも本土と遺伝的に近いことが確かめられている。北琉球と呼ばれることもある沖縄諸島の住民は、分子生物学的(Y染色体による系統分析)にほぼ九州本州四国の住民と同じである。 日本政府は琉球民族を沖縄の「先住民族」とは認定していないが、ユネスコは沖縄に特有の民族性、歴史、文化、伝統を有することを認めている。 沖縄復帰後に本土に先祖を持つ大和民族が多数移り住んだ。
女性の国際結婚率は全国で最も高く、米国人男性と沖縄人女性との間に生まれたハーフあるいはクオーターの混血も(非嫡出子かを問わず)多い。
名字(詳細は「沖縄県の名字」を参照)
沖縄の名字の多くは、地名に由来する。琉球王国時代では、王族、士族らは現在の名字に相当する家名を名乗り、領地が変わるたびにそれも変化した。薩摩藩による侵攻以降、薩摩藩の政策琉球王府施策により、日本風の二字姓家名からいわゆる沖縄風の三文字姓に改名した家系が多い。琉球処分後、一般庶民にも姓を名乗ることが許され、また明治以降は琉球語読みの名字の多くは日本語読みに改まった。









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